67. 意識する揺れ
十一月二日、木曜日。今日が終われば祝日と合わせて三連休となる、そんな日の放課後。現在地は教室の中ではなく、学校近くのホームセンター。文化祭の準備で割り当てられた、買い出しのお仕事中なのだった。
「衣装用の布と、絵の具色々だっけ?」
「ですね」
自分達も含めて、数人での買い出しである。手分けして目当ての物を探す中、自分と碧依に任されたのはその二つ。
「布も何色かいるね」
「結構色々な種類の衣装を作ってるみたいですからね」
「受付のもね?」
「そこは力を入れなくてもいいと思うんですけど……」
着る側からすれば脅かし役の人の分だけでいいと思うのだが、衣装班からすればそうでもないらしい。そちらにも友人が多い碧依の情報では、少しでも他人に接する機会がある役割なら、その分の衣装を作り上げるつもりでいるそうだった。
「時間、足りますかね?」
「間に合わせるって。多分、近いうちに葵君もサイズの確認があるんじゃない?」
「どこまで本気で作るつもりなんでしょうね」
「莉花が意味分からないくらいに気合いを入れてたから、楽しみにしておくといいよ」
「それはそれで怖いです」
あの莉花が気合いを入れているとなると、どんなものが出来上がってくるのか、全く想像ができなかった。最低限、性別が合っていることを願いたい。
「まぁ、そうは言っても基本は既製品に手を加えるだけらしいから、そこまで変なのにはならないんじゃない?」
とりあえずは目的の布を探して歩きながら、更なる情報を碧依から得る。そう聞くとおかしなことにはなりにくそうではあるのだが、それでも完全に安心することができないのが、莉花の恐ろしいところである。
「本当にそう言いきれますか?」
「……多分」
教えてくれた碧依の自信すら消えかけていた。
「あ、でも、性別は合ってるって聞いたよ?」
「普通そんなところは気にしないんですよ」
思い出したように言う碧依だったが、気にするのは大抵デザインであって、着る服の性別が気になる人間などいないはずだ。もうその時点で何かがおかしい。
「あと、話を聞いただけだからよく分からないって言ってたけど、多分アイリスさんが泣いて喜ぶって」
「どうして?」
何故この場面でアイリスの名前が出てきたのかは分からないが、恐らくいい方向には向かわないのだと思う。アイリスが泣いて喜ぶようなことなど、今の自分にとっては恥ずかしいことである可能性が高い。
「それは私も分からないけど、とにかく楽しみにしてるといいってさ」
「楽しみにするのはアイリスさんでは?」
「そうとも言うね。……あ、あった」
そう呟く碧依の視線の先。そこには、探していた色とりどりの生地が整然と陳列されていた。
「黒と白……。黒と白……」
頼まれている色を探しながら、碧依が棚の間を歩いていく。他とははっきりと色味の違うその二色を見つけるのに、そう大して時間はかからなかった。
「こっちですね」
碧依が探していた方とは反対側の棚。自分が探していた方に、目的の色を見つける。
「はーい。ありがと」
「どれくらい必要かって聞いてます?」
「あ、そういえば聞いてないかも。確認してみようか?」
「そうですね。お願いします」
「任せて」
その言葉と同時にスマートフォンを取り出した碧依が、恐らく莉花辺りに連絡を取り始めた。時々碧依が相槌を打つのを聞きながら、その会話が終わるのをぼんやりと待つ。
そして、少しの間が空いてから返ってきた答えは。
「量はそんなにいらないけど、足りないくらいなら多少余った方がいいって」
「はぁ……?」
「つまり、よく分からないってことだね!」
「聞いた意味がない……」
そう呟きはするものの、必要な布の量の目安というのは伝えにくいだろうと想像できるので、何も文句は言えなかった。加えて言えば、衣装係には一方的にお世話になる立場なので、強く言えないということもある。
「まぁ、それなら二枚ずつくらいで様子を見ましょうか。一枚が結構大きいみたいですし、最悪、足りなかったらまた買いに来ればいいですから」
「何々? そんなに私と買い出しに行きたいって?」
「次は少なそうですし、その時は一人でお願いしますね」
「うわぁ……。視線が生温い……」
いきなり訳が分からないことを言い出した碧依を尻目に、とりあえず四枚の生地をカゴの中に入れる。薄い布が四枚入ったところで、カゴの重さは大して変わらなかった。
「さ、次は絵の具ですね」
そのまま碧依を放置して歩き出す。待っていたところで、ろくな会話にならなそうだったからだ。
それは歩いていても同じなのだろうが。
「待って待って」
そんな自分を慌てたように追いかけてくる碧依。そこまで距離が離れていた訳でもなかったので、隣に並ぶのはすぐだった。
「何? 私じゃなくて、アイリスさんがよかったってこと?」
追いついてくるなり、からかうような口調で碧依がそう口にする。自分を覗き込むように若干前かがみになり、隠そうともしていない興味をその瞳に宿していた。
「どうしてそうなるんですか」
「あんな四字熟語をプレゼントする後輩となら、一緒に買い出しに行ってもいいかなって顔をしてた」
「どんな顔……?」
表情から情報を読み取り過ぎではないだろうか。そこまでになると、自分が今どんな顔をしていたのか、鏡で確認したくなってくる。
「この世のものとは思えない程可愛い後輩と、もっと一緒にいたそうな顔」
「調べたんですね」
「よくもまぁ、あんな言葉を女の子に贈れるもので……」
まるで莉花を相手にしているような、そんなからかいの視線。経験上、ここで恥ずかしがって引いてしまう方が、より痛い目に遭う。
「事実ですから」
「分かる。可愛いよね」
そんな訳で押してみれば、あっさりと碧依が陥落した。頭の中にアイリスを思い浮かべているのか、頬がゆるゆるに緩んでいる。
「目の色も髪の色も、どっちも綺麗でずるいよね」
「色はまぁ、僕達にはどうしようもないですから」
羨ましがるように言う碧依だったが、自分達のような純正の日本人には、絶対に真似できない色合いである。そこを比べるのは端から間違っている。
「そうは言っても、本物の金髪碧眼だよ? カラコンとか染めた髪とかじゃなくて、素であれだからね?」
「何が言いたいんですか」
「逃す手はない」
「怖……」
碧依がいきなり真顔になった。発言が物騒過ぎる。
「葵君が捕まえておいてくれる限り、アイリスさんは私の近くにも来てくれるから」
「僕のことを何だと思って……」
「アイリスさんが大好きな先輩さん」
聞きようによっては二つの意味に聞こえる言葉だった。自分がアイリスのことを大好きなのか、それとも。
「それはどういう?」
「あ、言葉が足りなかったね。アイリスさんのことが大好きでたまらない先輩さん、だった」
「余計な言葉が増えましたけど」
それはもう片想いの域に片足を突っ込んでしまっている。
「先輩」
「ほとんどの言葉が消えましたけど」
それはほぼ他人である。
「余計な言葉って言ってるけど、実際、アイリスさんのことはひたすら可愛がってるよね?」
「あんな風に懐かれたら、誰だってあんな風に思いますよ」
「懐かれてる自覚はあるんだ?」
「まぁ……」
あれだけの態度を見せられているのだから、ないと言えばそれは当然嘘になる。もちろん、積極的に他人に言うことは絶対にないが。
「一つ違いですし、歳が近い兄妹みたいな感覚なんでしょうね」
一学期はよく言われていた、その言葉。周囲にどういった変化があったのかは知らないが、最近はほとんど言われなくなっていた言葉でもある。
そして何より、自分自身もあまりそうは思わなくなっていた関係性でもあった。
「……葵君のそういうところだけは、絶対に私の方が勝ってると思う」
「はい?」
「ずっとそのつもりでいたら、大変な目に遭うのは葵君だからね」
そんなことを考えていると、いつの間にか碧依の目付きが険しいものに変わってしまっていた。何かそんなになってしまうような失言があっただろうか。
「何を言って……」
「答えは絶対に教えてあげないけど、もっとしっかり見てあげないとだめだからね」
その険しい表情のまま、碧依がいつか聞いたことのあるような言葉を投げかけてくる。もっとしっかり見るとは、一体何のことを言っているのだろうか。
「とにかく、葵君が頑張ってくれないと、アイリスさんが逃げちゃうってお話」
「僕は生き餌か何かですか?」
何やら真面目な話らしかったのに、唐突に話が巻き戻った。結局、碧依本人がアイリスのことを愛でたいだけなのかもしれない。
「一昨日は腕を抱き締められたり、手を繋がれたりしてたし、似たようなものでしょ」
「そう考えると、もう大変な目に遭ってるような気が……」
あれを大変な目と言わずして、一体何を大変な目と言うのか。教えてもらえるのなら、誰かに教えてもらいたかった。
「どうだった? どうだった?」
「……何がですか?」
「手とか。小さくて可愛かった? 柔らかくて可愛かった? あったかくて可愛かった?」
欲望と「わくわく」という擬音が溢れ出している碧依の質問は、実質一択のような聞き方だった。伊達にアイリスから「変態先輩」と呼ばれていない、発揮してほしくない本領を存分に発揮している。
「結局可愛いしか答えがないじゃないですか」
「そういうのはいいから。どうだったの?」
「えぇ……?」
自分の意見を無視して話を進めるその様は、強引な誘導尋問とほとんど変わりない。そのはしばみ色の瞳の輝きからして、自分が求められている答えを口にするまで、碧依の追撃の手は緩みそうにない。
「……手が可愛いって感覚はよく分かりませんけど」
「けど?」
「確かに、思ったより小さくて温かかったですし、自分のとは違って柔らかかったです」
「それ! そういうのが欲しかったの!」
「何なんですか」
一度で正解を導き出せたのか、びしりと人差し指を突き付けられる。そのことに一旦安堵はするものの、今の自分の発言はかなり危ない発言のように思えて仕方なかった。
「今の葵君はとってもよかったです」
「だから何が」
「その調子で次もお願いします」
「あ、まだあるんですね」
これで終わりかと思いきや、残念ながらまだ続くらしかった。莉花という存在を知っているせいで見落としがちだが、碧依も碧依で暴走すると手が付けられない存在には変わりない。
「手の方の感想は聞いたから、そうなると次はあっちしかないよね?」
「……」
「腕、組んじゃってたもんね?」
「う……」
「あれ?」
何となく予想していた通りの質問ではあったが、だからと言って、聞かれても何も思わない訳ではない。むしろ、聞かれるとまずい部類のものだった。
そんな思いが小さな反応から碧依に伝わってしまったのか、意外そうにその目が少しだけ丸くなる。
「緊張してるなって思って見てはいたけど、思ったより反応してくれたね?」
「それは……」
「葵君のことだから、てっきりすまし顔で乗りきろうとするのかと思ってた」
どう反応すればいいのか分からない評価ではあったが、碧依が言っていることも間違いではない。今碧依が口にした話題は、できるのであれば、何事もなかったかのように流してしまいたい話題だった。その願いは儚く消えてしまったが。
「まぁ、乗りきろうとしたところで、絶対に逃がしはしないんだけどね」
「何をするつもりですか」
「猫耳姿の葵君の写真……」
「本当に何をするつもりですか?」
それは最早脅しである。
「ちゃんと感想を教えてくれるなら、写真を大公開、なんてことはしないから」
「……感想」
「感想」
これほど話したくない感想が、これまでに存在しただろうか。だが、話さないなら話さないで、待ち受けるのは猫耳写真の大公開である。どこに公開するかが明言されていなかったのが、より一層恐怖を煽っていた。
「そんなになっちゃうってことは、結構意識してたんだ?」
「……意識しない方が無理です」
「だよね。多分、私でも意識するよ」
そう言う碧依の顔がだらしなく緩む。自らの腕をアイリスが抱き締めるという、今の好感度から考えるとあり得ない光景が、頭の中を駆け巡っているのだろう。
「身長は私達の中で一番小さいのに……」
「それ以上は絶対に聞きませんからね」
「やっぱり外国の血、かなぁ……?」
「吸うのは……」
「……しません」
何やら怪しげな話を始めた碧依を、ここ最近のとっておきで抑え込む。その手の話をするなとは言わないが、せめて異性がいないところで話してほしかった。
「ま、その辺は本人に聞くとして」
「……」
一体何を聞くつもりなのか、尋ねることはできなかった。今の自分にできることは、マイナスの方向に突き進んでいる碧依の好感度が、これ以上その方向に進まないよう祈ることだけ。
「結局どうだったの?」
「……どうしても言わないといけませんか?」
「どうしても写真を公開してほしいって言うなら、私は別にいいけど」
「ちなみに、どこに公開しようとしてます?」
「ん? とりあえずクラスの友達に、かな。同じクラスに、こんなに可愛い子がいるよって」
「……」
あっさりと言いきった碧依だったが、自分は登校できなくなる未来が見えた。
「今ならなんと、私に感想を伝えてくれるだけで、そんな事態を回避できます」
「だけ?」
「だけ」
随分とハードルが高い「だけ」だった。くぐる方が楽そうである。
「アイリスさんにあんなことをされて何の感想も抱かない男の子なんて、この世には存在しないよ」
「言い方が卑怯ですよ」
「知ってる。わざとだからね」
悪戯っぽく笑う碧依。だが、その中に微かに真剣な色も見え隠れしている。全部が全部悪ふざけという訳でもないらしかった。
それはそれでどんな感情なのかと問い質したくなるものの、そうしたところで、この話題から逃れることは恐らくできない。
唯一、買い出しに関することだけは話を逸らせそうではあるが、残念ながら絵の具のコーナーにはまだ辿り着かない。
つまり、「答える」以外に選択肢は存在していないのだった。
「……どんな感想が聞きたいんですか」
「嬉しかった?」
これ以上答えにくいこともないのではないかと思う程の一撃である。少なくとも、最初に聞き出そうとすることではない。
だが、答えないことには、この状況は終わらない。
「それだけ気を許してもらえてると思えば、まぁ……」
「はっきり言うと?」
「……嬉しかった、です」
「よし」
何が「よし」なのだろうか。個人的には何もよくはないが。何故か嬉しそうに拳を握り締める碧依を見ながら、そう思う。
「あと、これは私が気になってるってこともあるんだけど……」
「嫌な予感しかしませんけど、一応聞くのは聞きます」
「柔らかかった?」
「……っ。……」
流石にその答えをはっきり口にすることはできなかった。代わりに、少しの間だけ視線を彷徨わせてから、小さな頷きを返事とする。
鏡など見る必要もないくらいに、顔が熱くて仕方がなかった。
「一回答えるって決めたら、割と何でも答えてくれるよね、葵君」
「……そう仕向けたのは碧依さんですけどね」
「確かに。でも、そっか……」
何故かしみじみと呟く碧依。小さく頷きながら何を考えているのかは、知らない方が幸せそうだった。
「碧依さんは何がしたかったんですか……」
そんな碧依に、ここまでの不自然さを突き付ける。こういうことを想像するのもどうかと思うが、莉花が相手ならば、こんな会話もあり得たのかもしれない。
だが、碧依がこんな会話を振ってくるのはやや珍しいイメージがある。そうなると、何らかの意思が隠れているように思えてならない。
「え?」
問われていることの意味が分からなかったのか、それともそもそも聞こえていなかったのか。どちらにしろ、碧依の首が傾いていることには変わりない。
「何か隠してますよねって言ってるんです」
もう一度、今度ははっきりと言葉にする。その言葉を受けて、ようやく碧依の顔に納得の色が広がっていった。
「どうしてそう思ったの?」
けれども、碧依から返ってきたのはそんな言葉。端からすんなりと答えを教えてもらえるとは思っていなかったが、案の定そうらしい。
「碧依さんがそういうことを言い出す印象があんまりなかったので」
「あー……。確かにそうかもね。今の私はちょっと特別」
「どうしていきなり?」
「ん……。まぁ、応援したくなる子だから、かな? 本人からしたら余計なお世話なのかもしれないけど」
「はい?」
答えてくれたところで、その内容が理解できなければ意味がないのだが。ただ、これまでの話の流れから察するに、誰のことを言っているのかだけは理解できる。
「アイリスさんを、ってことですか?」
「そうだね。ちなみに、今のところ六対一だから」
「何が?」
「気にしない気にしない」
「いや……」
「お、絵の具はここだね」
何やら気になることを口にした碧依を問い詰めようとしたタイミングで、目的のコーナーへと辿り着いてしまった。先程は早く辿り着くよう願ったコーナーだったが、今はタイミングが悪いとしか言いようがない。つまり、碧依からすればこれ以上ないタイミングだったのだろう。
「あ、さっき電話した時、絵の具がどれくらいいるかも聞いておけばよかった……」
碧依の呟きは、もう完全に文化祭向けのものに切り替わってしまっている。こうなってしまえば、もうその真意を聞き出すことはできない。残念ではあるが、諦めて本来の目的に戻るしかなかった。
「……」
とりあえず、碧依は何かを知っていて、そして何かを企んでいるということだけを心に留め、頼まれていた色を探し始める。碧依が再びの電話を終えるのは、もう少しだけ後になりそうだった。
連休が明けた十一月六日、月曜日。今日も今日とて、放課後は文化祭の準備である。衣装班が休みの間も気合を入れて作っていたという衣装が、ちらほらと完成し始めていた。その中には、先週買い出しが終わった後に確認の採寸があった、自分の衣装も含まれている。
「いい仕事をしたと思います!」
「お疲れ様。何て言うか、莉花がこういうのを得意って言い出した時は、絶対に冗談だって思ってたけど……」
「おい」
「ほんとに得意だったんだね」
「僕もちょっと意外だったかも……」
「君らねぇ……?」
悠にも碧依にも信用されていなかった莉花の、呆れかえった声が響く。そんな二人を黙って見ていた自分も、どちらかと言えば信用していなかった方だ。
「弟の……」
「あ、もう分かったから」
「せめて最後まで言わせろ?」
莉花がたった一言を発しただけで、碧依が全てを悟る。要は、弟の世話をしているうちに覚えたということなのだろう。どんな状況なのかは想像できないが。
「それで? 葵君はどうしてずっと黙ってるの?」
「え? 私の話は終わり? 弟の可愛さを語る時間は?」
「羽崎君が聞いてくれるって」
「よし来た」
「来ないで?」
莉花の押し付け合いが発生している傍らで、自分用の衣装をじっと見つめる。ただの文化祭用の衣装なのに、周囲の会話に参加することもなく黙って見つめ続けていた理由は。
「葵君?」
「……何回見ても、男性用の衣装ですね」
「……」
「……」
「……」
ぽつりと呟いた言葉に返ってきたのは、三人分の沈黙だった。弟の可愛さとやらを悠に熱弁しようとしていた莉花ですら、その動きを止めている。
「……大分毒されてるね、葵君」
「誰のせいだと?」
この手の話題になる度におかしな提案をしてきたのが、目の前にいる碧依と莉花だ。その片割れが用意する衣装など、絶対にまともなものではないと諦めていたのに、蓋を開けてみればこれである。これで驚くなという方が無理だった。
「これは……、……何?」
結局答えが出てこなかった悠が、製作者である莉花に尋ねる。確かに、一目見ただけでは、何をモチーフにした衣装なのかが分からなかった。
全体は黒で統一されていて、スーツのように見えなくもない。ないが、その形はよく見るスーツとは明らかに違う形だった。どこかで見たことがあるような気もするが、自分の方も答えが記憶の底に沈んでしまっていて浮かんでこない。
「これはね、執事服」
そうして頭を悩ませていると、あっさりと莉花から答えが返ってきた。その言葉に、沈んでいた記憶が浮かび上がる。
「あ、燕尾服ですか」
「それそれ。知ってた?」
「名前を聞いたことがあるくらいです」
ようやく思い出した件の衣装は、実物を目にするのも、それを着ることになるのも初めてとなる代物だった。
「ほら、受付って案内役と言うか、お客さんをお世話する人みたいなイメージでしょ?」
「ですね」
「じゃあもうこれしかないって思って、色々と調べました」
「で、こうなったと」
そう言いながら、何度見ても男性用にしか見えない衣装の飾りつけを指差す。
「そ。買ったのはそんなに高くないやつだったけど、意外と出来がよかったから。時間が無限にあるわけじゃないし、今回は簡単な飾りを増やすだけにしました」
「そうですか……」
莉花が思ったよりまともに仕事をしていたことに、そんな声しか出すことができなかった。予想外のことに出くわすと、人間は曖昧なことしか話せなくなるという証明になってしまった。
「ちなみに、本物の執事は意外と燕尾服を着ないって情報も見つけたけど、私の方で握り潰しておきました」
「どうして」
「ま、サービスのためかな。あと、他にそんなにいい案がなかったから」
「確かに、結局は文化祭の出し物ですからね。男性用の衣装なら、細かいことは気にしません」
恥ずかしい思いをしなくて済むのなら、他に言うことは一切なかった。余計なことを言って何か別の衣装を用意される方が、ずっと恐ろしい。
「あ、そっか。だからアイリスさんが喜ぶって言ってたんだ?」
「アイリスさんが?」
「そうそう。碧依から聞いたんだけど、湊君に執事服を着せようとしてたんでしょ?」
「そういえばそんなこともありましたね」
「ちょうど案内役っぽくなりそうだったし、色々本気で頑張りました」
一つの大きな仕事を終えたように、そう口にする莉花。まだ衣装班の仕事は残っているものの、とりあえず一つは形になって安心しているようである。
「そんなわけで、何かおかしなところがないか確認したいから、一回着てもらってもいい?」
「そういうことなら。どこか着替える場所ってあったりします?」
「あれ」
そう言って莉花が指差したのは、教室の隅にそびえ立った段ボールの壁。これまで存在していなかった壁だが、どうやら衣装合わせのために用意されたものだったらしい。
「あの向こうを、超簡易的な更衣室にしました。更衣室まで行ってもらうことになるけど、あれが嫌だって人には無理強いしないよ」
「いえ、あれで十分です」
衣装合わせが大事なのは分かってはいるが、わざわざ更衣室まで移動するのは手間でしかなかった。誰かが覗き込んでくるわけでもないので、手早く着替えてしまえば、壁があるだけの更衣室でも問題ないだろう。
「あ、上は制服のシャツをそのまま使ってもらう予定だから」
「分かりました。じゃあ、そのまま上から羽織ります」
そんな小さな注意点を聞きつつ、壁の向こう側へ。教室内の喧噪は相変わらず聞こえてくるが、その視線は完全に遮られている。中の広さも、一応は両手を広げられる程度はあり、特に何も言うことはなかった。
「それにしても、執事服かぁ……」
「あれ? 水瀬さんはあんまり納得してない感じ?」
「違う違う。すっごくいいと思うけど」
手早く着替えを進める中、段ボールの壁一枚を隔てた向こう側で話す悠と碧依の声が聞こえてきた。当然表情は見えないものの、口調から察するに、碧依には何か思うところがあるらしい。
「やっぱり、葵君は女の子の格好をして恥ずかしがってるのが一番可愛いから」
「聞こえてますからね」
「あれ?」
自分がいないところでも、迷惑極まりないことを考えていた。
「意外と聞こえる?」
「全部」
「あー……」
たった一枚の壁でも、あれば声が聞こえないと思っていた様子の碧依。だが、自分の声がはっきりと聞こえたことで、その認識にずれがあったと悟ったようである。
「それが碧依さんの本音ってことですか」
「まぁ、うん」
「少しは否定してくださいよ」
肯定で返してほしい場面ではなかった。そして、許される場面でもない。
「今の私は、アイリスさんと葵君と羽崎君を可愛くすることに夢中だから」
「願望が五里霧中じゃないですか」
「どうして僕まで……」
見えはしないが、悠が肩を落としていることだけははっきりと分かる。対する碧依は、両の手を腰に当てていそうだった。
「どう? 着替えは終わった?」
「もう終わります。終わったら出ますから」
「了解」
どこにも嬉しい要素がない会話を悠と碧依が繰り広げる中、珍しく一言も口を挟まなかった莉花から、そんな声がかかる。装飾だけとはいえ、自身が担当した衣装のことに関しては真面目に対応してくれるらしい。
そうこうしているうちに、宣言通り着替えが終わる。そこまで面倒な構造の服でもなかったので、思っていたよりも楽に着替えることができた。
「こんな感じですね」
主に莉花に確認してもらうために、段ボールの壁の向こうへと歩み出る。いつもの教室の中で、いつもとは違う服を着ているのが何となく新鮮だった。
「おー……」
「へぇ……」
「ほう」
悠、碧依、莉花の口から、順にそんな声が漏れる。純粋に見慣れない格好をしていることへの反応らしい悠と碧依とは違い、莉花は製作者としての意識が強そうだ。
「どこかサイズが合わないとかってない?」
「とりあえずは大丈夫そうです。動きにくいってこともないですし」
「よし」
満足そうに莉花が頷く。懸念事項が一つなくなって、多少なりとも安堵はしていることだろう。こう言っては何だが、普段はあまり見ない真面目な表情で、自分の全身をしっかりと確認していた。
「燕尾服って、ほんとに後ろが長いんだね」
「そういう服ですからね」
一方、悠は見たままの感想を口にする。その目は、この服の特徴とも言うべき後ろ裾に向いている。
「確かに燕っぽい」
「着てる分には見えないですし、そんなに動きの邪魔にもならないですね」
「うん。やっぱり、湊君のその話し方だと、何となくイメージに合ってる気がするよ」
「そうですか?」
思わぬ角度から、褒められたのかどうかも分からない感想を頂いた。似合っていないとは言われていないので、心の中で素直に喜んでおくことにする。
「これはアイリスさんが喜ぶ……」
そして、碧依から届いた感想も、やはり思わぬ角度のものだった。その独特過ぎる角度は、悠のもの以上に褒められているのか、そうでないのかが分かりにくい。
「基準がそれしかないんですか?」
「葵君は、可愛い後輩が喜ぶところを見たくないって言うの?」
「……もっと違う形で喜んでくれるなら嬉しいですね」
コスプレをしている時に喜ばれたところで、何とも言えない気分になるだけだ。今回が特殊なだけで、普段は性別すら超えたものを着ているのだから尚更である。
「しばらく着てくれてもいいし、せっかくだから見せてきたら?」
製作者としての顔が鳴りを潜め、いつもの悪戯っぽい表情が顔を覗かせ始めた莉花が、からかうような口調でそう提案してくる。個人的にはもう少し真面目な雰囲気を保っていてほしかったのだが、現実はそう上手くはいかない。
「わざわざそこまでしなくても、どうせ本番で見られますし」
「それもそうなんだけどね。でも、善は急げって言うし、そもそも、あの子ならこういうタイミングでこっちに来そうじゃない?」
「……全くないとは言えないです」
「でしょ?」
よくも悪くも、タイミングというものに恵まれていそうなイメージがあるアイリスなのだった。本当にやって来たとしても、何もおかしくはない。
「まぁ、そうは言っても、向こうも文化祭の準備をしてるはずですし、こっちに来ることなんて……」
「失礼しまーす……」
「……」
「来ることなんて、何?」
「……」
自分の言葉を遮るようにして聞こえてきた声は、それはもう聞き覚えがある声だった。ちょうど碧依の体が目隠しになって、自分からはその姿が見えない。だが、わざわざその姿を確認する必要はどこにもなかった。
「アイリスさーん。こっちこっち」
「あ……」
きょろきょろと教室の中を彷徨っていたアイリスの視線が、莉花の言葉を受けてこちらに向けられる。碧依の肩越しに目が合ったかと思えば、微かにその表情が柔らかくなった。
そして、アイリスがそのままこちらに向かって歩き出す。
「お、アイリスさんだー」
「お邪魔しますね」
「私達のクラス、お化け屋敷やるから。本番も来てくれるの、楽しみにしてるからね?」
「こ、怖いのは苦手なので……」
「大丈夫、大丈夫。しっかり怖いのを作っておくから」
「何が大丈夫なんですか!?」
こちらまで来る途中、作業をしていたクラスメイトに話しかけられていた。およそ半年この教室に通い詰めた結果、このクラスでもマスコットのように扱われることになったアイリスの本領発揮である。
「冗談だって。程々に怖いくらいにしておくから」
「それでも嫌なんですけど……」
「ま、考えておいて?」
「はぁ……?」
そうして何故か精神を削られたアイリスが、やっとすぐそばまでやって来た。
「……?」
恐らくは自分の姿が目に入った途端、状況が理解できないといった様子でその首が傾いた。鮮やかなラピスラズリが、ぱちくりと繰り返される瞬きに合わせて見え隠れしている。
「……」
やや間が空いてから、何かを理解したように、その瞳に輝きが宿り始めた。
「あ、あっ……、葵、さん……」
「何です?」
「そ、それは……、執事服というものでは……?」
「らしいですね。燕尾服って言った方がそれっぽいですけど」
わなわなと震えながら、アイリスが燕尾服を指差す。
「とうとう葵さんが私のリクエストを自分から……!」
「考えたのも、準備したのも、どっちも渡井さんですよ」
「案内役だからね。それっぽくしないと」
「渡井先輩っ!」
「うわっ!? 何!?」
瞳を輝かせたアイリスに急に迫られ、莉花が滅多に上げない驚きの声を上げていた。アイリスの勢いに押されたのか、体も少し仰け反っている。
「最高の仕事だと思いますっ」
「そ、そう……?」
アイリスにそんなことを言われる機会がほとんどない莉花である。まさかこのタイミングでそんなことを言われるとは思っていなかったのか、自分からも見ても分かる程度には照れているようだった。
「今日だけは天敵認定を外してあげてもいいくらいです!」
「え!? ほんと!?」
そして、思わぬご褒美を貰っていた。仰け反っていた体が、一気にアイリス側へと戻っていく。
「文化祭の準備が終わったら、あとは葵さんと帰るだけですし」
「……」
思いの外冷静だったアイリスに、一瞬で莉花の体が元に戻る。その顔からは、喜びの表情が消えていた。
「そんなことより、葵さんですよ!」
「そんなこと……?」
「随分興奮してるね、アイリスさん」
「この葵さんを見て、誰が落ち着いてなんていられますか!」
「割と冷静に渡井さんを受け流しましたよね?」
「それは無意識でもできます」
「うわぁ……」
その非情な宣言は、聞いているだけの碧依が若干引いてしまう程だった。もしかすると、その矛先が自らに向いた時のことを考えてしまったのかもしれない。
「いよいよ葵さんが私の執事さんに……!」
「なりませんよ」
「なんでですか!」
「どろどろに甘やかされそうだよね」
「えへ……」
「褒めてないよ」
今日のアイリスは暴走気味である。ただし、照れたように笑うその姿は、恐ろしいまでに可愛かった。
「何かフリーゼさんの様子がおかしいけど、何かあったの?」
「前にメイド服を着せられたんですけど」
「話の入り方が特殊過ぎるね」
「その時、悪ふざけで『お嬢様』って呼んで遊んでたんですよね」
「絵面が凄いことになってるよ?」
悠の頭の中には、一体どんな光景が広がっているのだろうか。何となくの予想でしかないが、大体正解の光景が思い描かれているような気がしてならない。
「で、その時に、次は執事服を着て言ってほしいですって!」
「そういうことです」
あの時はアイリスが執事服を用意すると息巻いていたが、それが前倒しになってしまった形である。アイリスからすれば、望んでいたものが急に目の前に現れたことになる。理解はしにくいものの、興奮するのも仕方がないとも言えた。
「話の入口から触りまで、全部特殊過ぎるね」
簡潔な経緯を聞いた悠が、いつもの苦笑いを浮かべる。仮に反対の立場であれば、自分も似たような表情を浮かべていたことだろう。
「なるほどね。それでアイリスさんは大興奮、と……」
「はいっ」
納得したような碧依の言葉を受けたアイリスが、とても綺麗な笑顔で頷く。願わくは、こんなやり取り以外の場面で見たい笑顔だった。
「まぁ、そんなことは置いておいて」
とはいえ、それを気にしていても、話は進まない。一年生のアイリスがわざわざ二年生の教室までやって来たのだから、尋ねなければならないことは他にある。
「大事なことですよ?」
「アイリスさんがここに来た用事よりもですか?」
「……あ」
「忘れてましたね?」
思わずといった様子で漏れ出したその一言から察するに、完全に目的を忘れていたはずだ。何も言わなければ、そのまま帰っていた可能性すらあった。
「わ、忘れてない、ですよ……?」
「声が震えてますけど」
「気のせいじゃないですかね……?」
「半年間、僕がどれだけアイリスさんの声を聞いてきたと?」
「……ごめんなさい、忘れてました」
「でしょうね」
「実は、そんなに大したことじゃなかったので……」
これ以上は誤魔化しきれないと判断したのか、気まずそうに視線を逸らしたまま、アイリスがぽつりとそう口にする。
「そうなんですか?」
「はい。今日の帰りなんですけど、柚子さんのところに寄りたくて」
「寄り道?」
「ウェイトレス服を使ってもいいってことだったので、早いうちに取りに行こうかなって」
「あぁ。そういうことなら、僕は別に大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。それじゃあ、今日はちょっと遠回りってことで」
「分かりました」
アイリスが言った通り、本当に小さな用件だった。了承したところで、家に帰り着くのが少し遅くなるだけの話だ。
「何も言ってないのに、一緒に帰るのが当たり前になってる、と」
「もう今更だよね、それ」
悠と碧依がそんなことを話しているのが聞こえたが、本当に今更である。わざわざその部分をお互いに確認するような段階は、とうの昔に通り過ぎている。
「さぁ! これで心置きなく執事の葵さんのお話ができます!」
「衣装合わせも終わりましたし、次に着るのは本番ですけどね」
「そんなぁ!?」
せっかく手に入れた遊び道具を、すぐさま取り上げられたかのような声だった。悲しげな表情が、アイリスの顔をそっと彩っている。
「また見たかったら、ぜひお化け屋敷までどうぞ」
「うっ……!」
そんな顔が、「お化け屋敷」という単語のせいで小さく歪む。執事服が見たいという気持ちと、お化け屋敷への恐怖がせめぎ合っているようだった。
「い、いいですもん。一緒に回る時に、葵さんがその格好のままでいてくれたらいいだけですから」
「……確かに」
「納得するんだ。やっぱりアイリスさんには甘いね、葵君」
碧依が言っていることは流石に自覚しているが、懇願するような瑠璃色の瞳には、一生かかっても勝てる気がしないのだった。




