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66. 五分咲き (3)

「……」

「何これ」

「疲れきったアイリスさん」


 紗季と純奈が話しているのが聞こえるが、返事をする気力は、今の自分にはない。机に突っ伏したまま、とりあえず二人の会話を聞き流す。


「アイリスからあれだけ仕掛けておいて、何でアイリス本人がダメージを受けてるの」

「湊先輩よりも、アイリスさんの方がどきどきしてたんだろうね」


 全く以てその通りである。向こうの教室にいる間、体が揺れてしまっているのではないかと錯覚する程に鼓動が大きかった。ともすれば、隣に座っていた葵に伝わってしまった可能性すらある。もしそうなら悪戯の意味がなくなってしまうので、とにかく伝わっていないことを願うばかりだった。


「それにしても、よくもまあ、あんなにいろんな人に見られてる中でやったよね」

「うん。アイリスさんが思ったよりも積極的で驚いちゃった」

「普段は湊先輩が困ってそうなくらい押すのに、そういうことになると途端にしおらしくなるのがアイリスなのにね」

「可愛いよね」


 聞き流していたらいたで、随分な言われようだった。


「しおらしくなんてないし……」

「あ、聞いてた」

「……聞きたくなくても聞こえるの」


 二人して隣で話していれば、自分が寝ていない限りは勝手に耳に入ってくる。先程の自分の行動を振り返る話など恥ずかしいにも程があるので、できれば耳には入れたくなかった。


「よし、じゃあアイリスも聞いてるみたいだし、そう思って振り返ろうか」

「やだって言ったら?」

「やめない」

「……知ってた」


 そんな言葉一つで止まる紗季ではないことくらい、この半年の付き合いで理解していた。あくまで止まってくれたらという気持ちしか、そこには込めていない。


「何から聞こうかなぁ……?」

「あ、色々あるんだ……?」

「もちろん」


 その言葉に思うところがあるのは純奈も同じようで。


 無事に昼休みの残り時間を乗りきれるのか。その雲行きが怪しくなる紗季の一言なのだった。


「湊先輩の味の好みは把握できたのかなーとか」

「……それ聞いてどうするの」


 顔だけを紗季と純奈の方向に向けて、そう答える。二人が聞いても何も得るものはないと思うが、本当に最初に聞くことなのだろうか。


「ん? ただの興味だけど」

「……」


 やはり、紗季は紗季だった。


「で? どうなの?」

「……ちょっと、くらいなら……」

「へぇ……」

「基本的に好き嫌いはなくて、何でも美味しく食べる派。好みで言ったら、どっちかって言うと薄めの味付けが好きみたいだけど、だからって濃い味のものが嫌いって感じでもなくて」

「お……」

「あれ……?」


 尋ねられたから答えているのに、話の途中で紗季と純奈の顔に困惑の色が浮かび始める。だが、一度動き始めた口は、そう簡単には止まらない。


「食べ物の好き嫌いはないって言ったけど、でもお出汁の味は好きみたいで。だから、自分で作って食べるのは和食系が多いって言ってた。あ、辛いものは度が過ぎなければ大丈夫ってことも聞いた」

「……」

「……」


 二人の顔から表情が消えた。


「あと、ゆで卵にはちょっとだけ塩を振って食べる派で、目玉焼きには醤油。玉子焼きはちょっと甘め派で、そこは一緒で嬉しかった」

「卵料理の情報が多くない?」

「そもそも、思ったよりいろんな情報が出てきて、ちょっと……」

「ちょっと、何?」

「あ、いや……。何でもない、よ……?」


 何かを言いたそうな雰囲気を純奈から感じたが、本人が言葉を引っ込めてしまった。何を考えたのか気になりはするが、何となくその先が再び出てくるような雰囲気はない。


「どれだけ細かく把握してるの」

「だって……」

「だって?」

「……葵さんのことなら、どんなに小さいことでも知りたいし……」


 二人から視線を逸らしながら、ぽつりと呟く。頬に触れた机の天板が、妙に冷たくて気持ちよかった。


「……今のは私でも感じるものがあった」

「可愛かったね……!」

「あとは湊先輩に向かって言うだけだね」

「無理ぃ……!」


 そんなことを言った日には、しばらく葵の顔をまともに見ることができなくなってしまうだろう。まだ、自分の心はそこまで強くはない。


「いやぁ……、乙女だぁ……!」

「うぅ……」


 紗季と純奈に対してとはいえ、果たして今の言葉は言ってしまって大丈夫なものだったのだろうか。今更になって、特大の羞恥心が押し寄せてきた。


「でも、よくそんなに細かく分かったね? アイリスさんだって、毎日向こうの教室に行ってるわけじゃないのに」


 何かに悶えている紗季を尻目に、純奈がそんな疑問を口にする。確かに、事情を知らなければそう思っても仕方がない。


「最近、葵さんにお料理を教えてもらったりしてるから……」

「へぇ、そうなんだ……。……どこで?」


 一旦は納得しかけた純奈。だが、その途中で素通りできない疑問に突き当たったらしい。消えていた困惑が、再びその瞳に宿り始めている。


「どこって、私の家だけど」

「アイリスさんの」

「家」


 悶えていたはずの紗季にも聞こえはしていたのか、急に正気に戻っていた。


「え? 魔窟に連れ込んだだけじゃ飽き足らず、そこで料理を教えてもらってるの?」

「え? ってことは、アイリスさんのお父さんとお母さんもいるところでってこと?」

「二人揃って言い方に棘しかないのはどうして?」


 特殊な状況であることは流石に理解しているが、果たしてそこまで言われるようなことだろうか。今の自分は慣れきってしまっていて、紗季や純奈のような驚きは抱けなかった。


「それもう家族……」

「ま、まだ夫婦じゃ……!」

「そこまでは言ってない」

「アイリスさん、妄想の中でどこまで進んだんだろうね?」


 それは言えるはずがなかった。


「まぁ、アイリスの妄想はともかく、確かにそれなら好みは把握できるか」

「かもね。どう? 胃袋は掴めそう?」

「……先は長いと思います」

「だろうね。知ってた」

「むしろ、アイリスさんの方が掴まれてる側だよね」

「ごもっともで……」


 昔から言われている言葉とは立場が反対のような気がしないでもないが、今はもう時代が違うのだと、そう自分に言い聞かせる。だから、自分が胃袋を掴まれかけているのは何も悪くないのだ。


「葵さんがお料理上手なのが悪い……!」

「うわ、責任転嫁」


 紗季の言葉に含まれた色。それは、一点の曇りもない呆れだった。




「で、他に聞きたいことって何?」

「あれ? 聞いていいの?」

「どうせ何も言わなくても聞いてくるんでしょ?」

「それはそう」


 力強く頷く紗季。自分から言い出したことではあるが、あまり肯定してほしくはなかった。


「内容によっては答えてあげる」

「へぇ。じゃあ……」


 そう呟きながら、紗季が顔を近付けてきた。何を言い出すつもりなのか、その顔はにやけているようにも見える。


「湊先輩のこと、好き?」

「……っ!」


 流石に周囲に聞こえないような声量ではあったが、それでもその言葉の破壊力は変わらない。何が来ても動じないようにと準備していた心が、たった一言であっさりと崩れ去る。


 隣で同じように顔を近付けて聞いていた純奈も、何故か顔が赤くなっていた。


「どうなの?」


 分かりきった答えを、それでも紗季が促してくる。何が何でもその答えを言わせたいのだろう。


 ぐらぐらと揺れる頭で、どうにか一矢報いることができないか考える。けれども、紗季の言葉で一色に染まってしまった頭では、まともに何かを考えることができるはずもなく。


「……大好き」

「はい。頂きました」


 何とか口にできたのは、そんな何の捻りもない言葉。挙句、聞いてきたはずの紗季の反応はやたらと軽いもの。それらしい反応を返してくれているのは、最早言葉も出さずに顔を真っ赤に染めている純奈だけだった。


「ま、そんな分かりきったことは置いておいて」

「……」


 あんまりと言えばあんまりな対応だったが、何となくそうなる気がしていたので、口は挟まない。きっと、その言葉が聞きたかったという程度の理由だったのだろう。


「そんな大好きな湊先輩は、アイリスのこと、ちょっとくらいは意識してくれてそうなの?」

「意識……」


 その言葉で、最近の記憶が掘り起こされる。


 目の前の友人やとある先輩達によって色々と吹っ切れてしまったあの日から、早いものでもうすぐ二か月が経とうとしていた。そんな中で、今日の密度の濃さは特別と言えるものではあるが、普段からも行動を起こしてはいる。


 そんな行動を受けた葵の反応を見る限り、何も意識されていないということはないと思いたかった。日頃からあまり反応が大きくない葵ではあるが、それでも恥ずかしそうに頬を染めたり、目を逸らしたりといった行動が多くなったような気はする。


 それが果たしてどんな感情に起因するものなのかは読み取れないが、少なくとも悪い感情ではなさそうだった。


「意識は……、してくれてる、と思う……」

「ほう」

「恥ずかしそうにしてることが増えてるんじゃないかなって……」

「ほうほう」


 頷くだけの機械と化した紗季が、自分の一言一言に反応して首を縦に振る。やや軽さすら感じられる行動とは裏腹に、その表情は今日一番真剣なものだった。


「これはただの興味なんだけど」

「何?」

「アイリスはどういうをことしてるの?」

「どういうこと……」


 またも紗季の言葉で、この二か月のことを思い出す。


 まずは、料理の練習を始めた。想い人である葵に教えを乞うことで、普段は見せない一面を見せられているとは思う。


 他には、腕を組むことも多くなった。これは自分も恥ずかしくて仕方がないが、そんなことよりも葵と触れ合える嬉しさの方が勝っている。そういった意味では、今朝のように手を繋いで歩くのも、今後は積極的に取り入れていきたい行動だった。


 そして何より、腕を組むのと手を繋ぐのは、葵が恥ずかしそうにしているのがとても分かりやすかった。手を繋ぐ方は比較的慣れていそうだったが、腕を組む方はあからさまに緊張していることが伝わってくる。


 正直、何に緊張しているのかは何となく分かっている。分かってはいるが、それも自分の武器であり、とにかく意識してもらわないことには何も始まらないので、今後もやめてあげるつもりなど毛頭ない。


 それ以外にも、今日のように呼び捨てにしてもらったりと、あの手この手で自分のことを意識してもらえるように仕向けた二か月だった。


 そんなこんなを、大ざっぱにまとめて二人に話す。もちろん、周囲に聞こえないよう、できるだけ小さな声で。それでなくても、こんな話を大声で話すことなどできはしないが。


「ほうほうほう」

「思った以上に頑張ってるんだ?」

「思った以上に?」


 やはり頷くだけの機械だった紗季と、何やら失礼なことを考えていそうな純奈。いつもと反応が反対になったような印象だった。


「だってアイリスさん、肝心なところで失敗しそうなイメージがあって……」

「失敗しても、葵さんが何とかフォローしてくれるもん」

「まずは失敗しないようにしようね?」

「はい……」


 紗季の意見が正論ど真ん中である。あまりにも正論過ぎて、頷く以外の選択肢がなかった程だ。


「でも、話を聞く限りは結構いい感じではあるのかもね」

「あ、純奈もそう思う?」

「うん。だって、湊先輩が恥ずかしそうにしてるところって、ほとんど見たことないし」

「ね。絶対に意識はしてくれてるって」

「女の子の格好をしてる時は、いっつも恥ずかしそうだけどね」

「それとこれとは話が別」

「はい……」


 余計な茶々を入れた結果、再び紗季から窘めの言葉を頂くこととなった。照れ隠し失敗である。


「ま、何にせよ、いい報告を楽しみにしてるから」

「いい報告?」

「付き合い始めましたって」

「……えへ」

「あ、また妄想が始まった」


 その言葉で、頭の中が葵でいっぱいになる。浮かんだ姿は、自然にお互いの腕を組んで歩く姿。頑張れば届きそうな未来を前にして、紗季の呆れたような声は耳に届きすらしなかった。




「葵さんはどんな役割なんですか?」


 全ての授業を終えた、その日の放課後。普段からして毎日二年生の教室に来ているのに、今日だけは一人で帰るなどということを、アイリスがするはずがなかった。


 正直な話、今日のアイリスはとても心臓に悪いので、距離を置けるのなら置きたいというのが本音だった。だが、そのアイリスからいつも以上の勢いで距離を詰められてしまえば、もう逃げる先はない。


 そして、ここから先は下校時間。今までのような、休み時間の間だけ耐えれば何とかなるといったような次元ではなかった。自宅に帰り着いた時、果たして自分は無事なのだろうか。


 そんな訳で、どうすればダメージを最小限に抑えられるか考えていたところに、アイリスからそんな質問が飛んできた。


「役割?」

「はい。準備の時でも、本番でも」

「あぁ、文化祭の話ですか」

「ですです」


 思ったより普通の話題で安心したのはここだけの話だ。これなら、難しいことを考えずに話すことができる。


「準備の時は基本的に買い出しですね。足りないものがあったら、その都度買いに行くって感じで」

「買い出し、ですか」

「えぇ。どうせ力仕事は向いてないですから」

「あ、私も買い出し係」

「碧依先輩も?」


 黙って帰り支度を進めていた碧依が、そこで参戦してきた。言ってしまえばただの雑用とも取れる役割だが、碧依の表情は明るい。どんな役割でも、この学校での初めての文化祭ということで楽しみにしているのだろう。


「……」

「え? 何?」

「……葵さん」

「何です?」

「ちゃんと警戒しておいてくださいね」

「何を」


 アイリスの視線は碧依を貫いている。うっすら細められたその目を見る限り、いい意味で見つめている訳ではないことは確かだった。


「お風呂上がりに葵さんを押し倒した実績がある碧依先輩ですから。また二人きりにしたら、何をしでかすか分かりませんよ」

「それはもう忘れてください……!」


 案の定、よくない意味だった。まさかの方向から攻められた碧依が、恥ずかしそうに両手で顔を覆って視線を遮っていた。そんなにアイリスの視線に耐えられなかったのだろうか。


「アイリスさ……」

「……」

「……アイリスだって、その実績はあるじゃないですか」

「……」

「許してください」

「次はだめですからね」

「……ありがとうございます」


 またしても油断していて危なかったが、何とか助かった。昼食が終わった今、何をさせられるか分からない罰を受ける訳にはいかない。


「それで、私のことですよね? 私のはいいんです。碧依先輩みたいな、変態感丸出しの理由じゃありませんもん」

「あぁぁ……!」


 そんなアイリスの言葉を聞いて、碧依から謎の呻き声が上がる。どう考えても、最初から一刺しするつもりの一言だった。


「……それに、私が次に押し倒すとしたら、ちゃんとした理由で押し倒しますもん……」

「押し倒すちゃんとした理由って何ですか?」


 しっかりと碧依を撃退してから、僅かに俯き、やけに不穏なことを呟くアイリス。誰かを押し倒す「ちゃんとした理由」など、この世にほとんど存在しないはずだ。


「それは……」

「……」


 これ以上ない程に頬を赤く染め、ラピスラズリはうっすらと涙を湛えていた。今まで自分の目を捉えていたはずの視線が、少しだけ下がって胸元を見つめている。


 そんな様子を見ていると、自分までおかしな気分になってしまう。全く違った理由で恥ずかしがっているであろうアイリスと碧依。そして、アイリスの視線を受けて落ち着かない自分。何がしたいのかが分からない空間が完成した瞬間だった。


 やがて、意を決したようにアイリスが口を開く。


「……無理矢理執事服に着替えさせて……!」

「それ以上は言わなくていいです」


 まともな理由ではなかった。


「私達のクラスで接客を……!」

「言わなくていいですって」


 聞いてもいなかった。


「売り上げが大幅アップ……!」

「そんなポテンシャルはありません」


 そして現金だった。


「でも、太一さんと柚子さんのお店は売り上げが上がったじゃないですか」


 恥ずかしがっていた訳ではなく、妄想で頬の赤みと瞳の潤みを生み出していたアイリスが、ここでもまた実績を持ち出す。個人的には、実績とはあまり思いたくなかったが。


「あの店を常識として考えるのはだめです」


 何度でも言うが、働いている男子高校生が月一でウェイトレスになる店は、どう考えても常識の枠に入れていい店ではない。もちろん、それで売り上げが上がってしまうような客層も同様である。


「えー……。どうしてもだめですか?」

「どうしてそこまでこだわるんですか」


 まだ諦めきれないといった様子で食い下がるアイリス。いつも通り、この手の話題になるとなかなか引き下がってくれなかった。


「え……。私が一緒にいたいから、ですけど……」

「う……」


 諦めてもらうにはどうしたらいいのかを模索していたところに、思わず漏れたような、そんな一言がぶつけられる。ほとんど無意識に呟かれたであろうその言葉は、だからこそ本音に近いところにあるはずで。


 純粋な瞳で見つめられて、まともな返事など出てくるはずがなかった。


「む、無理ですって。本番は受付をやる予定なので……」

「受付ですか?」


 その瞳のまま、少しだけ頭が傾く。そんな仕草が、何故かまともに直視できない。


「ですね。休憩時間はありますけど、そもそも他のクラスの手伝いをする人なんていませんし」

「じゃあ、葵さんが第一人者ですね」

「諦めてくださいって言ってるんですよ」


 何が何でも自らのクラスに引き込むつもりらしかった。本当に諦めることを知らない後輩である。


「えぇー……?」

「……一緒に回るくらいはしますから」


 以前話していた、軽い口約束。受付という役割を考えると、回る時間を合わせるための担当時間の調整はしやすいはずだった。


「んー……。じゃあ、それで……」


 少しの逡巡はあったものの、どうにかアイリスの納得を引き出すことに成功した。一緒に文化祭を見て回るか、何故か執事服を着て後輩のクラスの手伝いをするかという、この世でここにしか存在しない二択は、辛くも望んだ方に軍配が上がった形である。


 できれば圧勝してほしかったというのは、今になって頭の中に浮かんできた願い。ただし、アイリスに任せると、望んでいない方が圧勝しそうな気配があるが。


「あと、ちょっと気になってたんですけど……」

「まだ何か?」


 奇妙な二択に関する話は一旦終わりを迎え、アイリスが別の話題を切り出そうとする。その口調が何故かやや怯えたようなものになっているのは、自分の気のせいなのだろうか。


「……碧依先輩、何で獲物を狙う目でこっちを見てるんですか?」

「……」


 気のせいではないようだった。


 二人してなるべく意識の外に置いていた存在。碧依が、先程からじりじりとアイリスに迫っていた。不気味な動きにも程がある。


「気にしないようにしてたんですけど、流石にもう無視できないです」


 恥ずかしさで顔を覆っていた碧依は、もうどこにもいない。そこにいるのは、何があってもアイリスを手中に収めるという、とても迷惑な決意を秘めた碧依だった。


「……碧依さん」

「純粋な目で『一緒にいたい』って言うアイリスさんが可愛過ぎて抱き締めたい……!」

「らしいですよ」

「早口過ぎるところも怖いです」


 そう言いながら、アイリスが立ち位置を変える。自分の背中に回り込み、肩口から碧依を覗き込む。完全に自分を盾にする構えだった。


「何をしてるんですか」

「守ってください」

「あれは人の手に負えるものじゃないと思うんですよね」

「葵さんなら大丈夫です。何とかできます」

「えぇ……?」


 随分と無理難題を押し付けられているような気がするが、そうこうしている間にも碧依は迫ってくる。放っておけば自分にも何かが飛び火してきそうなので、嫌でも向き合うしかなかった。


「碧依さん。ストップです」

「ここで止まることができるなら、私はアイリスさんに天敵認定されてないよ」

「自己分析が完璧じゃないですか」


 この上なく悲しい自己分析だったが。


「これ以上そう思われないようにって考えないんですか?」

「今はアイリスさんを抱き締めることで頭がいっぱい」


 大真面目な顔で言いきる碧依。これまで何度も見てきた流れだが、改めて天敵認定の原因を垣間見た気がした。ある意味、碧依も猪突猛進である。


「さぁ、葵君。そこをどいてもらおうか」

「絶対にだめですよ、葵さん」

「どうしろって言うんですか」


 こんな物理的な板挟みには、何故か覚えがあった。あの時は、確かあっさり莉花にアイリスを明け渡したはずだ。


 だが、今の碧依ならば、撃退する方法が一つだけある。


「どかないと……」

「また押し倒しますか?」

「もう許してぇ……!」


 止まった。


「しばらくはそれで碧依先輩を止められそうですね」

「……程々にしてあげてくださいね」


 そんな碧依を覗き込んで、アイリスがぽつりと呟く。自分で言っておいてこう思うのもおかしな気がするが、天敵に対する容赦など、一切感じられない一言だった。




「葵さん、葵さん」

「はい?」


 靴を履き替えるために一旦玄関で別れ、すぐにまた合流する。四月から幾度となく繰り返してきた流れだが、今日はその後にいつもと違う出来事が待っていた。


「流石にちょっと寒くなってきたと思いませんか?」


 合流するなり、やたらとにこにこした表情でアイリスがそう切り出す。


「寒い、ですかね……?」


 この一か月で随分と昼間の気温も下がったものの、日が出ている今の時間帯なら、まだそこまで寒さを感じる程ではない。アイリスに言われてやっと明日から十一月という事実を思い出した程なので、その言葉にはあまり素直に頷けなかった。


 現に、周囲にちらほらと見える人影も、コートやマフラー、手袋といった防寒具を身に着けている様子はない。


「寒いんですよ。寒いって言ってください」

「何なんですか」


 それなのに、アイリスは妙に寒さを訴えてくる。


「葵さんが寒いって認めてくれないと、私の企みが上手くいかないじゃないですか」

「それを聞いて認めるとでも?」


 あっさりとその違和感の正体を暴露するアイリス。いくら隠し事が苦手といっても、潔いにも程があるのではないだろうか。


「寒いですよね」

「いや、だから……」

「寒いですよね」

「……」

「寒いですね?」

「……寒い、です」


 寒かった。


「ですよねっ。寒いですよねっ」


 無理矢理寒いと認めさせただけで、何故そこまで嬉しそうなのか。そして、何を企んでいるのか。


 今はまだ、全てが謎に包まれている。唯一理解できたのは、また何か厄介なことに巻き込まれたということだけだ。


「そんなわけで。はいっ!」

「は?」


 満面の笑みで差し出された右手。初めて見る仕草のはずなのに、何を求めているのかがすぐに分かってしまうのは、今朝の出来事があったから。


「また?」

「また、です」

「……どうして」

「え? 私が気に入っちゃったからですけど……。それがどうかしました?」

「……」


 きょとんとした様子でそう言うアイリスは、拒まれることを一切考えていないような、そんな目をしていた。ぱちくりと数回瞬きを繰り返す仕草が、尋常ではなく可愛い。


「それに、今日はまだ終わってませんしね」

「まだ続くんですか……」

「当たり前です。絶対無事に帰しませんもん」


 最早一種の恐怖発言でしかなかった。


「ほら。もう校門も出ちゃいましたし、見られることもあんまりないですよ?」


 自分を説得しようとしているその言葉通り、元々まばらだった生徒の影は、校門を離れるにつれてさらに少なくなっている。いつも利用している駅への道に至っては、見慣れた制服を着ている者は、今のところ一人もいない。


「そんなわけで。はいっ!」


 先程と同じ言葉と共に、もう一度右手が差し出される。まだ色々と抗うことはできたはずなのに、期待に満ちた笑みを向けられてしまって、それ以上拒否することはできなかった。


「……」


 無言でその手を取って、すぐさま視線を逸らす。どうにも心が落ち着かなかった。


「あっ……。えへ……!」


 だというのに、そんな嬉しそうな声が聞こえてきて、思わず一瞬だけ視線を戻してしまう。


 繋がれた手に視線を落とすように俯いた、アイリスの横顔。その頬は、誰が見ても分かる程に赤く染まっていた。


「……っ」


 一瞬とはいえ、そんな表情を見てしまってさらに落ち着かなくなる。もしアイリスが手ではなく、自分の顔を見ていたら。そう考えると、その視線の先が手で本当によかったと思う。今の自分の顔を見られたが最後、何を言われるか分かったものではない。


「……そんなに繋ぎたかったのなら、自分から繋げばよかったじゃないですか」


 そのパターンであっても手を繋ぐという結果には変わりないが、それでも浮かんだ言葉を口にする。照れ隠しでしかないけれども、何かを口にしていないと、沈黙に耐えられそうになかった。


「朝は自分から繋ぎましたけど、思った以上に恥ずかしくて……」

「……」

「あ、葵さんから繋いでくれたら嬉しいなーって……。あはは……」

「う……」


 照れ隠しにしても、もっと話題を選ぶべきだった。


 ほんの少し見上げるように。恥ずかしそうに。困ったように。そんな風に笑うアイリスの顔を見て、一際大きく心臓が跳ねる。


「葵さん?」


 思わず漏らしてしまったそんな声に、アイリスが不思議そうに首を傾げる。もうそんないつも通りの仕草でさえ、真っ直ぐ見つめることができない。


「な、何でもない、です」

「はい?」


 どうにか絞り出した声も、アイリスを納得させることはできず。


「何か隠してませんか?」

「何も?」

「私の目を見て言ってください」

「な、何も……?」


 目が合った瞬間、自分でも驚く程まともに話すことができなくなってしまった。下手をすれば、その瑠璃色の瞳に全てを見透かされてしまいそうで。緊張のあまり、隠し事があるとほとんど白状しているような言葉しか口にすることができなかった。


 これでは、アイリスに隠し事が下手だの何だのとは言えないだろう。


「珍しいですね。葵さんがそこまで動揺するなんて」

「別に動揺なんて……」

「それも私の目を見て言えますか?」

「動揺してます」


 言えるわけがない。


「しっかりどきどきしてくれてるってことですね」


 そんな勝利宣言と共に、繋がれた手に少しだけ力が込められる。自分のものとは全く違う、とても柔らかくて温かい手だった。


「でも、何で朝の時よりも動揺してるんですか?」


 そして、何かに役立つ訳でもないのに、勝利宣言の勢いそのままに、アイリスが困ったことを口にする。今後のアイリスの行動に影響しそうで迂闊なことは言えない、そんな質問である。


 そう思っていたはずなのに、口は勝手に言葉を紡ぐ。


「自分でもよく分からないですけど、とにかくアイリスが可愛くて……」

「ひぁあ……!?」


 隠しておけなかった言葉で、アイリスの顔に浮かんでいた赤が濃さを増す。


「……」

「……」


 そして、お互いに黙り込む。二人揃って地面を見つめて歩く姿は、それはそれで仲良く見えるのかもしれない。ただし、実態は両者痛み分けといったところでしかないのだった。




「えへ……」

「……」


 歩いている時は手を繋ぐだけだったが、電車の中では腕ごと抱き締められる。今朝と何も変わらない光景だった。心臓も変わらず早鐘を打つ。


「……もう少し意識したらどうなんですか」


 何を、とは言わないけれども。それを口にする勇気は、自分にはない。


「む」


 対するアイリスは、まさかの不満顔を浮かべていた。


「その言葉、葵さんにそのまま返しますよ」

「は?」


 さらに言葉まで返ってきた。表情も言葉も、揃ってどちらも意味が分からない。


「こんな状態で、僕は何を意識したらいいんですか」


 真っ先に思い浮かんだのは、左腕を人質に取られた恐怖である。思い浮かんだのに言わなかったのは、絶対にアイリスが望んでいる答えではないと分かっていたからだ。


「……! ……!」

「痛いんですけど」

「……! ……!」


 そんなことを考えていると、何故か足に拳が振り下ろされた。アイリスも腕の自由が利かない中での動きなので、そこまでの威力はない。


「葵さんはっ! いっつもそうやってっ!」

「何なんですか」


 止まらない打撃の中、とうとう文句まで出始める。ここまでの反応を見せられているのに、相変わらずアイリスが何をしたいのかはよく分からなかった。


「そういうところがっ! 葵さんらしいんですけどっ!」

「はぁ……?」

「そうなっちゃった私が悪いんですけどっ!」

「アイリスさ……、アイリスが?」


 何度も拳を振り下ろすうちに、何故か怒りがアイリス自身にも向き始めていた。ただでさえその心の内が読めなかったのに、こうなってしまえばどんなに頑張っても理解することはできないのだろう。


「はぁー……」


 そうして一通りの感情を吐き出したのか、ようやくアイリスの拳が止まった。では、それで左腕が解放されるかといえば、そうでもなく。


 振り下ろしていた右腕は、そのまま抱えた腕の拘束に戻っていった。


「戻すんですね」

「……離したくないですもん」

「……」


 拗ねたように視線を逸らして言う姿が、やたらと可愛かった。


「……僕もそろそろまずいかもしれませんね」

「何がですか?」

「アイリスが何をしても可愛く思えて、無限に甘やかしそうです」

「すぐそういうことを言う……! だめ人間になっちゃうので、程よく甘やかしてください……!」

「断りはしないんですね」

「葵さんに甘やかされるのは大好きですっ」


 あまりにも唐突な好みの暴露だった。目を閉じて俯いてしまっているので、その表情がどんなものなのかは分からない。ただ、隠しきれない耳は真っ赤だったのは、表情を予想するための一つのヒントになりそうだった。




「ひどい目に遭いました」

「立ち直って第一声がそれですか」


 やっと顔から赤みが引いたアイリスが、その顔を上げて放った言葉がそれだった。


「全部葵さんのせいです」

「理不尽ですよ」

「文化祭のことで相談があったのに、それどころじゃなくなっちゃいました」

「相談、ですか?」


 思いきり不真面目な話から、思いきり真面目な話への転換。振り幅が大き過ぎて、ただ言われた言葉を返すことしかできなかった。


「はい。葵さんがお花好きだったなって思って」

「花?」

「教室の飾りつけでお花をモチーフにしようかって案が出て、とりあえず色々調べてからってことになったんです」

「はぁ……? それでどうして僕に?」


 やろうとしていることは別段珍しいことでもないのだから、調べればいくらでも例は出てくるだろう。わざわざ他人に聞くようなことなのだろうか。


「私も調べはしますけど、何となくそういうのに詳しい人のお話も聞いておきたいなって。十一月に咲く花だったら何がおすすめ、とか」


 そう疑問に思っていたが、どうやらそういうことらしかった。要は、参考意見が欲しいということだ。


「十一月に咲く花、ですか」

「はい。文化祭が十一月ですし、せっかくなら季節のものにしたいねって」

「それだったら、有名どころで言えば秋桜、山茶花、マリーゴールド辺りですかね」

「そっか。秋桜は確かにそうですね」

「飾りとして作りやすいかは別ですけど」

「まぁ、そこは私達が頑張るところですから」


 気合いを入れるように頷くアイリス。どんな花でも作り上げてみせるという意気込みが、何気ない仕草から伝わってきた。


「あとは、四季咲きのものならバラも咲いてます」

「へぇ……! バラ……!」


 超が付く程の有名どころに、アイリスの顔が一気に輝いた。やはり、その名前には圧倒的に人を惹きつける何かがある。


「いいことを聞きましたっ」

「確かに、バラなら飾りの作り方も調べやすそうですしね」

「はいっ。やっぱり葵さんに聞いて正解でした!」

「そういうのは採用されてから言ってくださいね」


 曇りのないその感情に、思わず恥ずかしくなってしまってそんな言葉を返す。これもまた、照れ隠しでしかなかった。


「でも、ほんとに詳しいですよね、葵さん」

「はい?」

「好きだからって言えばそうなんでしょうけど、それにしても色々知ってるなって」

「まぁ……」


 そして、話は思わぬ方向へ。


「何かきっかけとかってあったんですか?」

「……きっかけ」

「はい」


 どんなものにも、大抵きっかけはあるものだ。もちろん、自分がここまで花に詳しくなったきっかけも当然ある。だが、それは積極的に話したいものではなくて。


「まぁ、色々あったんですよ」

「あ、久々に聞きましたね、それ」


 隠し事がある時に使うと、そうばれてしまっている得意の言葉ではぐらかす。


「そう言うってことは、何か隠してるってことですよね?」

「そうですね」


 案の定、アイリスも自分が何かを誤魔化したことに気付く。いかにその様子が普段とは違っていようとも、流石にこの程度のことには気付くらしい。


「ふーん……。今は言う気がない、と……」

「そういうことです」

「そうですか。じゃあ、いつか教えてもらえるようになります」

「……」


 これもまた、随分と力強い宣言だった。本当にそんな日が来るのかどうかは分からないが、もし来るとしたら。


 それはきっと。


「何ですか?」

「いえ? 何でも?」

「あ、お話ししたくなりました? 私は放したくないですけど」

「誰が上手いことを言えと」


 あることを想像しながら見つめていたことが、あっさりとばれる。真っ直ぐ自分を見つめ返すアイリスは、少しだけからかいを含んだ、とても柔らかい笑みを浮かべていた。

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