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65. 五分咲き (2)

「……」

「何これ」

「疲れきった葵君」

「何で?」

「色々あったんだよ。色々」

「はぁ?」


 机に突っ伏していると、状況が理解できていない莉花の声が届いた。碧依の答えになっていない答えのせいで、相変わらず疑問は残ったままらしい。


 間違いなくこれまでで一番疲れた登校を終え、教室に辿り着いた途端に何かの糸が切れた。緊張していた時には感じていなかった疲労が、一気に押し寄せてきた結果なのかもしれない。何にせよ、そのままでは今日一日を乗り越えることなど、到底できそうになかった。


「アイリスさんが色々凄かったの」

「それにしたって、湊君がここまでになる?」

「でも、なっちゃってるからね」

「まぁ、そうなんだけど」


 自分が口を挟まなくても、二人の会話は進んでいく。アイリスとのやり取りの中で、碧依が見ていたのは途中からでしかない。それでも、莉花に説明するには十分過ぎる程の光景を目にしてしまっている。


「何? あの子がそんなになるようなことって、何かあったっけ?」

「今日は何月何日でしょうか」

「いや、十月三十一日でしょ。それが……、あ」


 意外にも、莉花は今日が何の日なのか気にしていなかったようだった。碧依の問いかけで、ようやくそこに思い至ったようである。


「ハロウィンか」

「正解」

「ってことは、湊君はお菓子を忘れて、色々と悪戯をされてこうなったと」

「それも正解」


 こんな時だけやたらと頭の回転が速い莉花が、そのたった一つの単語から答えに辿り着く。聡明と言いたくない場面ではあったが、残念ながらある意味聡明ではあった。


「完全に忘れてたんだって」

「油断しちゃったかぁ……」

「で、いっつも葵君ばっかり見てるアイリスさんは、そんな隙を見逃しませんでしたってお話だね」

「ってことは、どうせお昼とかも来るでしょ?」

「だろうね」

「楽しみだぁ……!」


 何が楽しみなのかは聞きたくなかった。見えてもいないのに、今の莉花の表情が手に取るように分かる。どう考えてもにやにやしているはずだ。


「うん?」

「莉花?」


 そんなタイミングで、莉花がまたしても何かに気付いたような声を上げる。


「じゃあ、今湊君に仕掛けたら、好き勝手悪戯できるってこと?」


 とても面倒なことに気が付いていた。


「そう思うんだったら、仕掛けてみたらいいんじゃない?」

「トリックオアトリート!」

「早っ……。ちょっとは考えるとかしないんだね……」

「タイミングって大事だからね!」


 自信満々に言いきる莉花。やはりその姿は見えないが、きっと胸を張って宣言しているのだろう。促した碧依が少し引く程の行動の速さだった。


「……」

「……何か出てきたんだけど」

「まぁ、残念でしたってことで」


 何もしなければ強制的に悪戯が始まりそうな雰囲気を感じたので、無言でポケットから飴玉を取り出して机の上に置く。結局、アイリスから受け取った飴玉は、両方役に立ったことになる。


「何も持ってないんじゃなかったの?」


 自分の一連の動きを見た莉花から、困惑したような声が聞こえてくる。思っていたことと別の出来事が起こって、理解が追いついていないらしい。


「アイリスさんがね?」

「はい?」

「どうせ莉花と私が仕掛けてくるだろうから、その時のためにって言って三個くれたんだって」

「どれだけ準備がいいわけ?」

「『私以外には葵さんに悪戯させません』だってさ」

「執念かよ」


 理由が分かったところで、莉花の困惑が解消される訳ではなかった。


「ま、出てきちゃったものは仕方ないか。悪戯はまた今度ってことで」

「何をするつもりか知らないけど、アイリスさんにはばれないようにね?」

「分かってるって」


 そして、困惑したままでも話を進められるのが、莉花の恐ろしいところだった。普段であれば絶対に口を挟むような会話が展開されていたが、今日に限っては気にする余裕もない。どうせ何を言っても結果は変わらないのだから、口を挟むだけ無駄ではあるのだが。


「で、私の悪戯は一回置いておくとして。湊君は何をされてこんなことになってるの? そっちの方が気になる」

「今日一日、とにかく葵君をどきどきさせるんだって」

「ほーう……? ハロウィンにかこつけて、ってことか……」

「だね。可愛かったよ」


 登校している間中、やたらと碧依の視線が生温いように感じていたが、どうやらそんなことを考えていたらしかった。今になって新たな種類の恥ずかしさがこみ上げてくる。


「どんな感じだった?」

「まずはね、葵君は今日、アイリスさんのことを呼び捨てにしないといけなくなってるみたいだね」

「ほう……」

「何回も『アイリスさん』って言って、何回も言い直しさせられてた」

「ギャップってやつか……」


 莉花が納得したような言葉を漏らす。アイリスと同じようなことを言っていたが、相変わらずよく分からない概念だった。


「あと、電車の中ではずっと葵君の腕を抱き締めてた」

「おうおう」

「それで、電車を降りてから学校に着くまでの間は、ずっと手を繋いで歩いてた」

「おうおうおうおう!」


 莉花の興奮が天井知らずである。


「随分と積極的じゃん?」

「ねー。葵君、ずっと顔が赤かったよ」

「色々大成功って感じか」

「色々、ね」


 何か含みのある会話だったが、結局その答えは分からなかった。最近、自分の周囲で何かが隠されているように感じることと、何か関係はあるのだろうか。考えても詮無いことではあるが、無意識にそう思ってしまう。


 放っておいても今朝のアイリスの様子で盛り上がり続ける碧依と莉花。正確な時間を確認するのを忘れていたが、恐らく朝のホームルームまではまだ少し時間がある。もうしばらくは、何やら楽しそうにしている二人の会話を聞き続けることになりそうだった。




「お邪魔しますね?」

「……こんなに近くに座る必要ってあります?」

「ありますよ」


 回復した体力でどうにか午前の授業を乗りきり、迎えた昼休み。いつもなら残りの授業に向けての休憩となるはずだが、今日はそんなことも言っていられなかった。


 弁当箱を置いた机の上。自分のものの隣に、当たり前のようにアイリスのものが置かれていた。そして、そんな隣り合う弁当箱よりも近いのが、持ち主同士の距離である。


 電車の中とは反対で、今度は右隣に椅子を持ってきたアイリス。普段からしてその距離は近く感じていたが、今日はとりわけ近い、ほぼ密着と言ってもいい距離だった。


「まだまだどきどきさせますからね」

「それは分かりましたけど、こうなると食べにくいんですよね」


 利き手側にこれだけ密着されると、単純に腕を動かしにくい。何をするにしてもアイリスの左腕に触れてしまい、気を付けないと、弁当箱の中身を落としてしまいそうだった。


「え? 食べさせてほしいってことですか?」

「頑張って自分で食べます」


 同級生に見守られながら後輩に食べさせてもらうのは、流石にハードルが高過ぎる。特に、そんな状況をからかってきそうな相手に囲まれているとなれば、尚更だ。


「あ、私達のことはお気になさらず」

「アイリスさん、積極的……!」


 同級生だけではなく、後輩にも見られていた。


 体育祭が終わって少しした頃から、アイリスは週に何度か二年生の教室で昼休みを過ごすようになっている。そんなアイリスが誘ったのか何なのか、しばらくして紗季と純奈もたまに顔を覗かせるようになった。


 そんな訳で、今日は七人の大所帯。教室の一角に陣取って、各々弁当箱を広げている。


「しませんって」


 何故か期待に満ちた目を向ける紗季と純奈に一応断っておく。そのままにしておけば、いつの間にか食べさせられる流れになってしまいそうだった。


「相変わらず大変そうだね、湊君」

「どうして昼休みに疲れないといけないんですか」

「そこはお菓子を忘れた湊君が悪いってことで」


 左隣に陣取った悠が、何も反論できない言葉を口にする。正論は、時として他人に多大なダメージを与えるということを知っておいてほしかった。


「疲れないように、私が食べさせてあげましょうか?」

「アイリスさ……、……アイリスは少し静かにしてましょうね」

「わぁ。ほんとに呼び捨てにしてる」

「やっぱり印象が違いますね」


 あらかじめ何かをアイリスから聞いていたのか、後輩二人組がそんな反応を見せる。さらに同級生三人組にも見られているこの状況は、碧依だけに見られていた今朝よりもさらに名前を呼びにくい雰囲気が漂っている。


「いつかそう呼ぶことになるかもしれないんだから、今のうちに慣れておいた方がいいんじゃないの?」

「どんな状況ですか」

「さあね? どんな状況だろうねー?」


 目を逸らしながら何かをはぐらかす莉花。答えを言う気がないのなら、最初から何も言わないでほしい。そんな態度を取られると、どうしてもその答えが気になってしまう。


「ま、何でもいいけど色々頑張ってね。私達はにやにや見学させてもらうから」


 言葉通りの表情の莉花が、からかうようにそんなことを口にする。どうやらアイリスと自分のやり取りは、傍から見る分には楽しめるものらしかった。当事者からすれば、何も楽しめる要素がないにも関わらず、だ。


「応援されちゃいましたね、葵さん。これは期待に応えるべきじゃないですか?」

「頑な……」


 真面目な顔付きで、けれども目付きはどこか楽しげで。その心の内には、一体どんな感情が宿っているのだろうか。そして、その期待とはどちらのことを言っているのだろうか。ろくに回らない頭では、もう何も考えられなかった。


「後輩に食べさせてもらうのなんて、ちょっと恥ずかしいくらいじゃないですか。何がそんなに気になるんですか?」


 本気でそう思っていそうな口振りでアイリスが言う。何がも何も、今言ったことが全てだ。


「自分で答えを言ってるじゃないですか。ちょっとどころじゃないですけど」

「でも、夏祭りの時にはたこ焼きを食べてくれましたよね? あの時だって、周りにたくさん人がいましたよ?」

「今周りにいるのって、どう考えても見られちゃいけない人達だとは思いませんか?」

「おう、それどういう意味?」

「それに、あの時はアイリスさんが強制的に食べさせてきたって言うんです」


 無理矢理両手を塞ぐという暴挙に出たことは、未だに覚えている。一応アイリスに食べさせてもらったことは認めるが、素直に受け入れた訳ではないことは思い出してもらいたいものだ。


「また『さん』付けになってるじゃないですか。罰として、絶対に一回は食べてもらいますからね」

「どうして今更罰ゲームを……」


 何度呼んでも忘れる自分も自分だが、いきなり罰を設定してくるアイリスもアイリスである。一体、何がアイリスをそこまで突き動かしているのだろうか。


「私が葵さんに食べさせたいからですっ」

「そんなところで素直にならなくていいんですよ」

「べっ、別に葵さんに食べさせたいってわけじゃ……!」

「そういうことでもないんですよね」


 それっぽく視線を逸らして言えばいいというものでもない。


「……そんなに私に食べさせてもらうのが嫌、ですか……?」

「う……」


 わざと逸らされていたであろう視線が戻ってくる。そこにあったのは、素直な色でもなければ、天邪鬼な色でもなく。ただただ不安の色に染まった瞳だった。


「……」

「……い、一回だけ、なら……」

「ほんとですか!?」


 そして、そんなアイリスの瞳にとことん弱いのが自分だった。じっと見つめられると、どうしてもそれ以上拒むことができなくなる。結局、一回だけならと認めることになってしまった。


「葵君は意識的にアイリスさんの扱いが上手くて」

「アイリスは無意識に湊先輩の扱いが上手い、と」


 そんな様子を黙って見ていた碧依と紗季の評価。対になるようなその評価は、どこか言い得て妙で、何も反論することができないのだった。




「はい、お口を開けてくださいねー?」

「歯医者では?」


 そんなこんなで、やっと昼食の時間である。集まってから弁当箱の蓋を外すまでが妙に長かったのは、きっと気のせいに違いない。


「痛かったら手を上げてくださいねー」

「歯医者ですよね?」

「そう言いながら、何で手を上げてるんですか?」

「止まらないかなと……」

「残念。私は止まりません」

「だったら何のために手を上げさせたんですか」


 そして、一口目から早速食べさせようとしてくるアイリスなのだった。行動に移すまでの時間が短過ぎる。


 アイリスが持つ箸の先には、一口大の唐揚げが挟まれている。いつかアイリスにあげたものと同じようなサイズのそれが、今度は反対に自分に向けて差し出されていた。


 念願叶って嬉しいのか、それとも単にアイリスも恥ずかしいだけなのか、笑みの端が少しだけ色付いているようにも見える。


「久しぶりに作ってみたので、感想もお願いしますね」

「そっちはまぁ、いいですけど……」


 一度認めたのに、いざ行動するとなると、やはり恥ずかしさが先に立つ。早くも先程の発言を撤回したくなってきた。


「ねぇねぇ。同級生と後輩の前で、仲が良い後輩から食べさせてもらうのってどんな感じ?ねぇねぇ?」

「碧依さんには絶対に教えません」


 これ以上ないくらい楽しそうに瞳を輝かせ、これ以上ないくらいに答えたくないことを尋ねてくる碧依。厄介な形で面倒さが極まっていた。


 そして、期待の目を向けてくるのは碧依だけではなく。莉花や紗季は当然のこととして、悠や純奈までもが、興味を隠しきれないといった様子でアイリスと自分のことを見つめていた。まさに衆人環視である。


「羽崎君もですか」

「ごめんね。湊君がフリーゼさんに食べさせてるのは見たことがあるけど、その反対はないから」


 申し訳なさそうに悠がそう口にする。その申し訳なさに、興味が勝ってしまったということだろうか。


「葵さん」

「……はい」

「そろそろ諦めて食べてください」

「はい……」


 そうして周囲に話しかけて問題を先送りにしていることなど、アイリスには筒抜けだったらしい。


 そもそも、観念を促されるまでもなく。右手で箸を持ち、左手を添えた格好のアイリスをそのまま放置し続けることなどできる訳もない。諦めて、再びアイリスに向き直る。


「どうぞっ」

「……。……はい」


 笑みを深めるアイリスから、そのまま唐揚げを受け取る。もちろん、弁当箱のどこかに受け取るなど許されるはずもなく、口の中へと直通だった。


「わ……。食べた……!」

「ほっぺたが赤いのが可愛いね」


 純奈と莉花の反応が、動物園で餌やり体験をしている時の反応そのものだった。状況的にはさして変わらないのかもしれないと思い至ったのは、その直後である。


「どう、ですか……?」


 流石に味の感想を求めるのは不安なのか、少しだけ声のトーンが落ちるアイリス。浮かんでいた笑みは鳴りを潜め、今は真剣な表情に様変わりしていた。


「……美味しいと思いますよ」

「そうですか……! よかったです! えへへ……!」


 破顔一笑。その喜びようは、周囲の誰が見てもそれと分かる程のもの。


「まだありますから、食べたかったら言ってくださいね!」

「それは……」

「もちろん、また食べさせてあげます」

「……」


 一回だけという約束は何だったのだろうか。にこにこ笑うアイリスからは、冗談の雰囲気が一切感じられなかった。


「冗談ですよ」

「本気の目でした」

「気のせいです」


 そう言うアイリスの目は、やはり本気にしか見えなかった。


「次は家で作って食べさせてあげますから」

「アーロンさんとレティシアさんの前の方が、よっぽどハードルは高いと思うんですけど」


 同級生と後輩の前より、両親の前の方が状況としては特殊過ぎる。ましてや、アイリスの両親はあの二人である。どんなことが起こるかなど、考えたくもなかった。


「一回見られてますけどね」

「そんなことありましたっけ?」

「お祭りの時に」

「あー……」


 言われてみれば、そんなこともあったような気がした。だからと言って、ハードルが低くなる訳でもないが。


「ちょっと待って」

「はい?」

「何ですか?」


 そうして夏休みの出来事を思い出していると、唐突に莉花から制止の声が上がった。アイリスと二人して、莉花へと視線を送る。


「家?」

「あ」


 自分としては何も気にしていなかったが、周囲からすれば、確かにその言葉は引っかかって当然のものだった。


「あ、それ私も気になってた」

「だよね? 家で作って食べさせるって、どういうこと? 絶対面白いことになってるよね?」


 油断していたからこそ、こうして一番気付かれてはいけない二人組にあっさりと気付かれてしまう。この二人がいる場では気を抜いてはいけないと、これまでの経験がそう語っていたのに、だ。


「どういうことも何も、そのままの意味ですよ?」

「そのままの意味?」

「はい」


 碧依と莉花の疑問に、何も隠す気がないアイリスが答える。その瞳は純粋そのもの。


「葵さんが私の家でお夕飯を食べる時に作ってあげますって意味です」

「……」

「……」


 碧依と莉花は当然として、悠、紗季、純奈の視線も突き刺さる。口にした本人であるアイリスではなく、何故自分に刺さっているのかが分からないところだったが。


「……アイリスさんの家で夜ご飯を食べてるの?」


 五人を代表した莉花の言葉。そこには、困惑がたっぷりと含まれていた。もうすぐ溢れ出そうな程である。


「たまに……」

「どこまで一家に食い込んでるの」

「気付いたらこうなってました」

「そんなわけあるか」


 そう言われても、事実はどうしようもないので仕方がない。こんな状況に困惑しているのは、自分だって同じなのだ。


「いつ頃から?」


 言いながら首を傾げる碧依。気になるところはたくさんあるが、まずはそこからということらしかった。


「あれは、なるべく思い出したくない出来事でした……」

「初めて聞く導入」

「思い出したくないって言う割には、しっかり思い出してるよね」

「体育祭で、女子のグループに混ざることになった時のことです」

「あ、ほんとに思い出したくないことだった……」


 思いがけず悠もダメージを受けていた。


「あの時、アイリスさんの家の庭で練習をしてるって話したじゃないですか」

「はい、また一回増えましたね」

「……」


 油断した。もういっそ何も話さない方がいいのかもしれない。


「あ、そっか。そんな話してたね」

「あぁ……。湊先輩、一緒に宿題までやって帰ってるって言ってましたね」


 既に話したことがある碧依と紗季が、過去の会話を思い出していた。聞いてはいたものの、それが未だに続いているとは考えていなかったのだろう。


「……そういうことです。その時に取り込まれてから、たまに誘われるようになって」

「取り込まれるって。私の家を何だと思ってるんですか」

「魔窟」

「じゃあ、取り込んで一生解放しませんけど、それでもいいですね?」

「すみませんでした」


 今日はとことんアイリスに弱い。何を言っても勝てる気がしなかった。そして、何かを言ったところで待ち受けるのは敬称略の罠。綺麗な二段構えである。


「アイリスさんのご両親と仲が良いんですか?」

「何故か気に入られてます」

「結婚秒読み……!」

「けっこ……!?」

「また随分な飛躍を……。さては、長峰さんも結構厄介な人ですね?」


 その話題に関係ないはずの純奈が、何故か顔を赤くしてアイリスを見つめる。どうやらアイリスと同じく、想像力が逞しい部類らしい。今にして思えば、過去に何度かその片鱗を見せつけられていたような気がする。


 そして、見つめられたアイリスはといえば、純奈に負けず劣らずといった具合に、顔が赤に染まっていた。突然そんな言葉を投げかけられたのだから、無理もない話ではあるが。


「でも、ちょっと分かる気もするな」

「莉花?」

「ほら、私、歳が離れた弟がいるって言ってたでしょ?」

「うん。とにかく甘やかして、反抗期なしに育て上げようと溺愛してる弟さんだよね?」

「何でわざわざそんな言い方をしたのか分からないけど、確かにそうだから何も言えない」


 そんな熟れた林檎のような顔の二人を眺めていると、莉花が何かに気付いた様子で語り始める。そして、その矢先に碧依から鋭い一撃を受けていた。


「で? その弟さんがどうかしたの?」

「いやね、これだけ溺愛してると気になっちゃうわけよ。将来、悪い相手に捕まったりしないかなって」

「莉花みたいな?」

「おん?」

「同級生のことを何度も女装させようとする莉花みたいな?」

「自己紹介か?」

「うん?」

「……」

「……」

「はいはい、早く話進めてね」


 いつものやり取りが始まって、いつも通り悠に先を促されていた。ただし、悠の言葉が徐々に雑さを増しているように聞こえるのは、自分の気のせいなのだろうか。


「いっつもこんな感じなんですか?」

「大体そうですね。気にしたら負けです」

「はぁ……?」


 あまりこのやり取りを目にする機会のない紗季が不思議そうに問いかけてくるが、「いつも通り」以外の回答が見当たらない。なので、とりあえず気にしないようにとだけ伝えておくことにした。


「悪い相手な碧依は置いておくとして」

「こんなにいい相手なのに……」

「自分で言うな。それでね、アイリスさんのお父さんとお母さんも、似たような感じなんじゃないかって」

「似たような感じ?」

「うん。アイリスさんってちょろ……、単じゅ……、……素直でしょ?」

「うん」

「今、何て言おうとしました?」


 顔は林檎のように赤くても、他人の話は聞けるらしい。アイリスがじっとりとした眼差しを莉花に向ける。


「気にしなくていいよ」

「私がちょろいのは葵さんにだけですもん!」

「認めるの?」

「らしいですよ、湊先輩」

「どうしろと」


 てっきり何かしらの反論をするのかと思いきや、ただただ素直に認めただけだった。もちろん、高らかに宣言することでもない。


「で、そんな素直なアイリスさんが、いつか悪い相手に引っかからないかって不安になるのは当然でしょ」

「あ、それで葵君の出番」

「そ。まぁ、湊君ならきっと大丈夫だろう、仲良くしてもらいたい、的な?」

「信頼されてるんだね?」

「……どうでしょうね」


 本人の目の前で話されるには、随分むず痒い話題である。肯定も否定もできないどころか、どうにも落ち着かなくて、碧依からすっと視線を逸らす。


「それっぽいお話をしてるところ悪いですけど」

「うん?」


 あの単語が未だに尾を引いているのか、それとも、やはりアイリスも目の前でこんな話をされて恥ずかしいのか。なかなか元に戻らない頬の色を抱えながら、一度だけ自分の方を見たアイリスがそう切り出す。


「お父さんが葵さんを気に入ってるのは、葵さんがある程度自立してるからで」

「……」

「お母さんが葵さんを気に入ってるのは、葵さんを着せ替え人形にしたいからですよ」

「……」

「莉花が弟さんを溺愛してることが分かっただけの話だったね」


 アーロンの方はまだしも、レティシアの方に関しては、莉花の予想は掠りもしていなかった。


「いいし……。溺愛してるのはほんとだし……」

「それでいいんだ……」


 何故か拗ねたように言う莉花に、悠の苦笑いが炸裂する。相変わらず、悠には苦笑いがよく似合う。


「皆さん普通に受け入れてますけど、湊先輩がアイリスのお母さんに着せ替え人形にさせられそうになってるところは気にしないんですね」

「何を今更。私と莉花はずっとそうしようと思ってるからね」

「誇るところじゃないですよ」


 意外にも、と言ったら失礼なのだろうが、常識的な感覚で感想を抱いていた紗季。だが、そんな感想は碧依の前では無力である。何故か誇らしげな碧依には、何一つとして響いていなかった。


「そろそろ絆されてくれてもいいと思うんですけど……」

「その先に待ち受けるものを考えると、ちょっと……」

「なんでですか。絶対楽しいですって」

「アイリスさ……、アイリスとレティシアさんが、ですよね?」

「……ぎりぎりセーフってことにしておきましょうか」

「ありがとうございます」


 そう感謝した直後に、本当に今の感想で正しかったのか疑問が湧く。いよいよ感覚がおかしくなり始めているのかもしれない。


「まぁ、いいですもん。絶対に落としてみせますから」

「何が何でも抗ってみせます」

「そういうのは、今日を無事に乗りきってから言ってくださいね?」

「……」

「絶対に、無事には乗りきらせませんから」

「……」


 これまでで一番不穏なことを口走るアイリスの瞳は、何故か楽しそうな輝きを放っていた。




「これ、今朝も見た気がする」

「奇遇だね。私も見た気がする」

「……」

「大丈夫? もうすぐ五時間目が始まるけど……」

「……」

「あ、だめそう」


 悠の問いかけに返事をする気力もない。


 アイリス達が一年生の教室に戻ってから少しして。朝以来となる、体力回復の時間が訪れていた。


「押せ押せだったもんね、アイリスさん」

「半分くらいは湊君の自業自得みたいなところがあったけどね」

「いくら普段からそう呼んでるとはいえ、あんなにほいほい『さん』付けで呼ぶ?」

「そこに気が回らないくらい、ずっとどきどきしてたんでしょ」

「完全にアイリスさんの作戦勝ちってことかぁ……」


 あれがアイリスの作戦だったのかは分からないが、確かにアイリスの勝ちであることは間違いない。ひたすら攻められ続け、反撃の糸口を掴むことすらできないままに昼食の時間は終わりを告げた。


「表情は割といつも通りに見えたけどね」

「あ、羽崎君もそう思う? 私もそう思ってた。」

「でも、心の中はあの子の可愛さで大荒れってか?」

「……」

「おう……。ほんとに返事がない」


 今この時だけは、何を言われても受け入れるより他なかった。単純にからかいに反応して余計に疲れたくないということもあるのと、何より、莉花の言ったことが当たらずとも遠からずだったからだ。


「どうせそうなるんだろうなって思ってたけど、結局葵君も食べさせることになっちゃったもんね」

「あの時のフリーゼさんの幸せそうな顔、凄かったよね」

「あれは私でも照れる」

「大丈夫。絶対に莉花には向けられないから」

「碧依にもね」

「それ以上はもういいからね?」


 とうとう悠が先回りして会話を潰すようになっていた。


「注目の的だったよ、葵君」


 潰された結果、矛先は自分の方を向く。


「他の人達からも、ね」

「……」


 それが一番の問題だった。基本的にはあまり目立つようなことをしたくはないのに、あの時はとにかく他人の目を集めてしまった。それだけのことをしてしまった自覚はあるが、叶うのならば、もっと穏便に事を収めたかった。


「無事に今日を終えられるといいね?」

「……」


 もう既に無事ではないという思いは、碧依には伝わっていそうになかった。

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