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64. 五分咲き (1)

「大丈夫……。やれる……。私ならやれる……!」


 早起きにも大分慣れてきた、十月三十一日、火曜日。夜明けはすっかり遅くなり、辺りはまだ薄暗い。部屋に差し込む光も、早起きを始めた頃と比べると随分と弱くなっていた。


 そんな部屋の中で、一人ベッドに腰かけて気合いを入れる。


「よし……!」


 最後にそう呟いて、勢いよく立ち上がる。色々と頭の中に浮かぶものはあるが、まずは日課になりつつあるお弁当作りから。そういう性格なのか、今のところ、葵からは褒めてもらってばかりいる。その度、頬が緩むのを抑えるのが大変だった。もしかすると、抑えられていない可能性もあるのかもしれないが。


 そんなことを考えながら一通りの準備を済ませて、レティシアがいるであろうキッチンへと向かう。


「おはよ、お母さん」

「おはよう。今日も起きられたのね」

「それ、いつまで言うつもり?」

「少なくとも今年中は言い続けるわよ」

「長……」


 早起きを始めた九月から、毎朝レティシアからこの言葉を聞いている。いい加減日常の風景として認めてもらいたいが、どうやらまだその域には達していないらしい。


「うん……?」

「え、何?」


 薄暗いリビングから明るいキッチンへと近付いていく中で、突然レティシアが不思議そうに首を傾げる。その視線は、はっきりと自分へと向いていた。


「あ……。寝癖、とか……?」


 もしそうであれば一大事である。今日も今日とて、いつもと変わらず想い人に会うのだから、みっともない姿は見せられない。洗面所に戻ってもう一度確認しようかと考えた瞬間、レティシアから否定の言葉が届いた。


「寝癖はついてないわね」

「あれ? ほんと?」

「えぇ。そうじゃなくて、雰囲気がいつもとちょっと違うなって」

「うん?」


 どこか曖昧なレティシアの言葉に、今度は自分が首を傾げる番だった。言った本人がそうなのだから、聞いている側がその意味をはっきりと理解できるはずもない。


「何かあった?」

「何か……。あ」

「あるのね」

「あると言えばある、かな。気合いは入ってる」

「気合い?」


 そして再びレティシアが首を傾げる番。自分達のことながら、早朝からよく首を傾げる親子である。


「お母さんは気にしなくていいよ」

「ふーん……。葵君関係のこと?」

「はぇ!?」


 何の脈絡もなくその話題を振られて、思わず意味が分からない声が出た。まさに葵関係のことを考えていたので、その心を見透かされてしまったのかと、一気に鼓動が速くなる。


「冗談のつもりだったんだけど……。その様子を見る限り、当たりみたいね」

「娘に鎌をかけないでよ!?」

「あなたが勝手に引っかかっただけよ」

「うぅ……!」


 あっけらかんとした様子で言うレティシアだったが、実際、過剰に反応してしまったのは自分なので、何も言い返すことができなかった。叶うのならば、もっと強い心が欲しい。


「何を企んでるのか知らないけど、葵君相手に上手くいくのかしらね?」

「大丈夫なはず……、だもん」

「そう。じゃあ、どうなったかくらいは教えてね」

「……気が向いたら」

「私が向かせてみせるわよ」

「やめてよ。何をするつもり?」


 意気込んだ親ほど、予想のできない存在もない。やたらと行動力があるレティシアのことなので、きっと幾重にも策を巡らせてくるのだろう。是非ともご遠慮願いたかった。


「ま、それはその時に話すとして、早くいらっしゃいな。あんまり時間に余裕があるわけでもないでしょ?」

「それはそうだけど……」


 そう言われて、何か釈然としないものを抱えながら、改めてレティシアの許へと向かう。


 どんな感情であろうとも、料理自体には集中する。ましてや、今日の昼は葵の教室に行くつもりでいるのだ。下手なものを作る訳にはいかない。


 絶対に忘れないようにと、昨日の内に制服のポケットに忍ばせておいたあるものの存在を意識しつつ、自分のエプロンを取り出すのだった。




 今日は自分の方が先だった。いつもと何も変わらない薄暗い駅舎の中、何よりも目立つ菜の花色は、まだそこにはない。


 いつの間にかアイリスを待つ時の定位置となったベンチに腰掛けて、何となく時計を眺める。時間的には、もういつやって来てもおかしくないような頃合いである。そのまま何をするでもなく、ぼんやりとアイリスを待つ。


 月の初めとは明らかに温度の違う風が吹き抜けていくのを感じながら、三分程経った頃。アイリスのものと思しき足音が近付いてきた。


「おはようございます、葵さん!」

「おはようございます」


 聞き慣れた声に、ゆっくりと背後を振り返る。


「うん……?」


 何かの違和感があった。もちろんそこにいるのはアイリスで、いつも通りの笑顔を浮かべている。それなのに、どこか纏う雰囲気がおかしいと言うべきか、何かそんな気がした。


 上手く言葉にはできないが、それでもあえて言葉にするのなら、何かを隠しているような、何かを企んでいるような、そんな雰囲気である。


「どうかしました? 葵さん?」

「いや……。何と言うか、こう……、いつもと何かが違う気がして……」

「察しがいいですね。流石は葵さんです」


 問い詰めた訳ではないが、あっさりとそう白状するアイリス。やはり何かあるらしいが、そこまで必死に隠すようなことでもないらしい。


「でも、そう言うってことは、私の勝ちです」

「何がですか?」

「詳しいことは電車の中でお話ししましょうか。もうすぐ電車が来ちゃいますし」

「はぁ……?」


 珍しく企みを教えてくれるとのことだが、それはそれで怖いものがある。しかも、既に勝利宣言までされている始末だ。正直、聞かない方が身のためではないかという気すらし始めている。


「葵さん? 行きますよ?」


 先に改札へと歩き始めたアイリスが、一度立ち止まって振り返る。揺らめいた菜の花色の髪が、差し込む光を受けて一段と鮮やかに煌めいた。


「……」


 それは、いつか話した、アイリスの髪が景色によく映える時期が近付いていることを心から実感する輝きだった。




 今日は既に見慣れた後ろ姿がある。琥珀色の髪が、駅舎を吹き抜ける風に揺られていた。


 これから仕掛けようとしていることに到着の順番など関係ないが、何となく後の方が切り出しやすい気がした。そういう意味では、ベストなタイミングでの到着と言える。


「おはようございます、葵さん!」


 後ろからそう声をかける。琥珀色が、その揺らめきを増す。


「おはようございます」


 目の前のベンチに座った葵が、振り返りながら挨拶を返してくれた。いつも通り何かをぼんやりと見つめていたのか、その瞳は心なしか遠くを見つめるような眼差しだった。


「うん……?」


 その薄茶色の瞳を見つめ返していると、ぼんやりしていたところに、いつもと違う色が宿った。視線は変わらず自分に向いたままだが、まさか、何かを感じ取ったのだろうか。


「どうかしました? 葵さん?」


 悩んでいても仕方がないので、思いきって尋ねてしまう。杞憂ならそれでいいが、もし気付かれたのなら、その時は強引に押しきってしまうつもりだった。大抵は抵抗されるが、葵には強く押されると受け入れてしまうという弱点があるので、勝算は十分ある。


「いや……。何と言うか、こう……、いつもと何かが違う気がして……」


 そう考えていたのに、実際に返ってきた言葉はどこか曖昧なもの。気付いているのかいないのかはっきりしないが、どちらかと言えば、ばれてはいないようだった。


 そんなことよりも、だ。そのたった一言で緩みそうになる頬を抑えるのが大変だった。


 確かに、今日はあることを仕掛けようかと昨日から考えていた。そのために物理的な準備もして、精神的な準備もした。当然、纏う空気はいつもの自分とは違っているだろう。


 けれども、それはあくまで目に見えない空気、雰囲気の話であって、何か目に見えるものが変わった訳ではない。


 それなのに、葵は何かが違うと言って違和感を抱いてくれた。そんな些細な変化にも気付くくらい、普段から自分のことを気にかけてくれていることを改めて知って、嬉しくてたまらなかった。


「察しがいいですね。流石は葵さんです」


 黙ったままでは間違いなく頬が緩んでいってしまう。そう考えて、咄嗟にそんな言葉を口にする。どこか上から目線のような言葉になってしまったと気付いたのは、全てを言い終えてしまってから。


 葵に嫌な思いをさせていないかと内心焦りはしたものの、その表情を見る限りは気にしていないようだった。そんな訳で、勢いはそのままで。


「でも、そう言うってことは、私の勝ちです」

「何がですか?」


 とりあえずの勝利宣言。もし葵があることを意識していたとしたら、このやり取りは成立していない。これだけあからさまに隠し事があると白状しているのに、未だにその言葉が返ってくる辺り、頭の中にその単語すら浮かんでいないのだろう。


「詳しいことは電車の中でお話ししましょうか。もうすぐ電車が来ちゃいますし」

「はぁ……?」


 この場で伝えてしまおうかとも思ったが、電車がやって来る時間まで意外と余裕がないことに気付く。大人しく電車の中で伝える方が、色々と落ち着いて話ができそうだった。


 そう思って改札へと歩き始めたのに、後ろから葵がついてくる気配がない。立ち止まって振り返ってみれば、不思議そうな表情を浮かべたまま、こちらを見つめていた。


「葵さん? 行きますよ?」


 放っておけばいつまでもそうしていそうな気がして、思わずそう声をかける。


 遅れてしまっていることに気付いた葵がベンチから立ち上がるのを見て、再び改札へと向き直る。定期を取り出すついでに、もう一度ポケットの中を確認する。


 指先に触れるのは、三つの球体。一つ一つは小さなものだが、今日一日の流れを決定付けるという大きな役割を持った、とても大事な代物だった。




「で、何なんですか?」


 いつもの席に腰を下ろしてすぐ。答えを保留にしていたアイリスに、そう問いかける。


「それはですね……」


 同じように腰を下ろしたアイリスが、勿体ぶるようにそこで言葉を区切る。その顔には、相変わらずにこにこと楽しそうな笑みが浮かんでいた。


「とりあえず、これをどうぞ」

「はい?」


 そう言って差し出されたものを、反射的に受け取ってしまう。それぞれ袋に入った、三つの小さな球体。これは紛れもなく。


「飴?」

「飴です」

「……どうして?」


 飴だった。飴だったが、いまいちその意図が掴めない。何故いきなり渡されたのか。これがどうアイリスの勝ちに繋がるのか。頭の中に疑問符がいくつも浮かぶ。


 どれから順に尋ねようかと考えていると、目の前のアイリスの笑みが、徐々に質を変えていくのが見て取れた。


 具体的に言えば、徐々に悪戯っぽい雰囲気を増していた。


「受け取りましたね?」

「受け取りましたけど、それが……」

「じゃあ、私からも。トリックオアトリート、です」

「あ……」


 そのたった一言で、全ての疑問が一気に氷解していく。言われてから、カレンダーを見た時に気付くべきだったと後悔する。意識さえしておけば、こうなることは簡単に予想できたはずだった。


 十月三十一日の今日は、所謂ハロウィンだった。ここ数年で一気に定着した、秋における大きなイベント。施設でも何度か経験はしたが、去年は全く気にすることがなかったので、すっかり頭の中から抜け落ちてしまっていたらしい。そこを上手く突かれてしまった形である。


「じゃあ、雰囲気がおかしかったのも……」

「そのこともありますし、葵さんが気付いてないかそわそわしてたってこともあります」


 とのことだった。


 何にせよ、自分がハロウィンという単語に思い至らなかったことには変わりない。今しがた貰った飴も、もちろんそういう意味なのだろう。受け取ってしまった手前、もうアイリスと同じ言葉を返すことはできない。


 そして、思い至らなかったということは、何も準備をしていないということで。


「さぁ、葵さん」

「う……」

「お菓子ですか? 悪戯ですか?」


 わざわざ日本語にしてまで、もう一度尋ねられる。アイリスに貰った飴以外のお菓子など持っているはずもないのだから、選べるのは悪戯しかない。だが、それを選んでしまうと大変なことになるような気しかしなかった。


「向こうの駅で何か買うのは……」


 そんな未来を避けるため、どうにか逃げ道を探る。今は何も持っていないが、駅に着けば売店で何かしらは売っているはずだ。そこで調達して渡すのでもよければ、是非ともそうさせてもらいたいところだった。


「それはずるですよね?」

「……」


 切実な願いも空しく、とても綺麗な笑顔で却下される。こんな場面でもなければ、少しの間は見惚れていたかもしれないくらいに綺麗な笑顔だった。


「お菓子、用意してないんですよね?」

「……」

「ね? 葵さん」


 まるで最後の確認と言わんばかりに丁寧な質問が飛んでくるが、全く以てその通りなので、何も言うことができない。そのうえ、明後日の方向を向いた視界の中に入り込んでくるように、アイリスがその身を乗り出してくる。無理矢理視界の中に入ってきたラピスラズリは、既に悪戯っぽい色に染まり始めていた。


「……持ってない、です」


 そんな仕草に、もうどうしようもないと観念して、アイリスもとっくに分かっていたであろうことを白状する。


「じゃあ、選べるのは一つですね?」


 あくまで自分に選ばせたいのだろう。決定的な言葉は使わず、ひたすらに一方の選択肢へと誘導してくる。選びたくないのに、いつの間にか目の前にはアイリスが用意した扉しか存在しなくなっていた。


「……」

「逃がしませんからね?」


 その言葉通り、左腕を丸ごと抱え込まれる。


 思えば、夏にこんな仕草をしていた時は、流石にアイリスもその頬を染めていた。それなのに、今は満面の笑みを浮かべていて、すっかり慣れてきていることが窺えてしまった。その分、毎回自分の心臓にダメージが入っていることに、果たしてアイリスは気付いているのだろうか。


「葵さん」

「……い、悪戯で……」

「悪戯ですねっ。分かりました!」


 抱え込まれた腕に、さらに力が込められる。本当に心臓に悪い。


「ちゃんと考えてありますから、心配しなくても大丈夫ですよ!」

「不安しかないです……」

「えへへ……!」

「不安……」


 至近距離で呟いた言葉は、それでも嬉しそうに笑うアイリスの耳には届いていないようだった。




「色々あるんですよね……!」

「普通一つじゃ……?」


 楽しみで仕方がないといった様子で、アイリスがそう口にする。そんな気分に水を差すようで悪いが、こういった時の悪戯は、普通は一つだけではないだろうか。


 だというのに、瞳を輝かせたアイリスは、色々考えてきたものの中から一つではなく、全てを実行するつもりにしか見えなかった。


「私はそんな常識には囚われませんよ?」

「常識には囚われていてください」


 そこはそんなに簡単に踏み越えていい枠ではない。踏み越えるのは、「天香国色」という言葉が頭に浮かんでしまう程の容姿だけでいい。


「まあでも、あれこれ言うのは、確かにちょっとずるですよね」

「え?」


 思いがけない、そんな言葉。そのまま押しきられるとばかり考えていたので、思わず声が漏れてしまった。


 関係ないが、腕を抱えたまま頷かないでほしい。心臓に悪い。


「そんなわけで、葵さん」

「……何です?」


 アイリスがこの手の話題であっさり引き下がる訳がない。今の態度にも裏があるのだろうと、一応は警戒しておく。


「今日は、いっつも落ち着いてる葵さんを、たくさん動揺させることにします」

「色々するのと変わらないじゃないですか」


 やはり、アイリスはアイリスだった。その力強い宣言は、初めにアイリスが言っていたことをぼかして言っているに過ぎない。結局、あれこれすると宣言したことと何も変わりはなかった。


「別の言い方をすると、葵さんをとにかくどきどきさせます」

「何が楽しいんですか、それ」

「楽しいですよ? それに、私にとっては大事なことですから」


 そう言ってふわりと笑うアイリス。タイミング次第では見惚れていたかもしれない程の笑みだったが、生憎今はそんな状況ではない。どちらかと言うと、何をされるのか、そして何をさせられるのか、戦々恐々とするべき場面だった。


「まずはですね……」


 その切り出し方は、やはりどう考えても悪戯が複数ある時の切り出し方だった。


「ちょっと私のことを呼んでもらえますか?」

「はい?」

「何にも気にしなくていいですから。とりあえずで」

「アイリス、さん?」


 恐らく最初の悪戯は、いきなり意図が読めないやり取りから始まった。これまで散々呼んできたのに、今更改まって呼んでほしいとは、一体どういうつもりなのだろうか。


 一瞬だけ考えてみるが、当然その答えには辿り着けない。


「ですよね。葵さんはやっぱりそうです」

「何なんですか」


 そんな自分を尻目に、アイリスは何かに納得していた。


「それも葵さんらしくていいんですけど、たまには違うのが聞きたくもなるんですよね」

「は……?」

「ということで。葵さんは今日一日、私のことを『アイリス』って呼んでください」

「もう呼んでるじゃないですか」


 突然不思議なことを言い出した。「違うのが聞きたい」というのは、恐らく違う呼び方が聞きたいということなのだろう。なのに、本人から要望されたのは、これまでと何も変わらない呼び方。やはり、その意図は読めなかった。


 そう思っていたのに。


「違いますよ」


 すぐ近くから聞こえてくるその声は、やはり悪戯っぽい声音で。


「ちゃんと『アイリス』って、呼び捨てにしてくださいね?」

「え……」


 ずっと前に話したことがある、その呼び方。たまにしか使わないなどと言っておきながら、ほとんどそう呼ぶ機会はないままだったことを思い出す。


 その少ない機会で毎回驚いていたアイリスからの、まさかの願いだった。心の準備ができていれば問題ないということなのか。


「ずっと丁寧な話し方をしてる葵さんが、私を呼ぶ時だけそんな風になるって、何かいいじゃないですか!」

「知りませんけど」


 随分と熱の入った言葉だったが、残念ながら自分との温度差は激しかった。反応に困るだけなので、そういったことは本人以外と話してほしい。


「アイリスさんだって、一日中違和感が凄いと思いますよ?」

「……」

「アイリスさん?」

「……」


 返事がなかった。


 いかに電車の中とはいえ、この距離で声が届いていない訳がない。現に、その瑠璃色の瞳はこちらを向いている。


 まるで、何かを待つかのように。


「……」

「……」

「……アイリス」

「はいっ。葵さんのアイリスですよっ」


 満面の笑みだった。


「本当にやるんですか?」

「もちろんです。そのために心の準備をしてきたんですから」

「やっぱりそれは必要なんですね」

「……いきなりは、ちょっと……。私の心臓が耐えられません……!」


 笑みが維持できていなかった。


「でも、準備をしてきた今日の私なら! 一日くらいは楽しめます!」

「力の入れどころが間違ってる気がするんですよね……」

「気のせいですよ」


 受け取る側であるアイリスにそう断言されてしまっては、自分から言えることは何もない。できることといえば、今日という日を忘れていた自分を恨むことだけだった。




「あ、一つ言い忘れてました」

「はい?」


 もうすぐ碧依が乗ってくる駅というところで、アイリスが何かを思い出したようにそう切り出した。ちなみに、未だに腕は解放されていない。


「どうして私が用意したお菓子が三つだったかってことなんですけど」

「何か意味でもあるんですか?」


 単に三つ持ってきたというだけで、そこに深い意味はないと思っていたが、どうもアイリスには何かの思惑があったらしい。


「一つは葵さん用です」

「一つ?」


 三つ貰ったのに、自分用は一つだけ。では、残りの二つは一体何なのか。


 その答えは、直後にアイリスによって明かされた。


「あと二つは、この後同じことを仕掛けてくるはずの碧依先輩と渡井先輩に渡す用です」

「用意周到過ぎる……」


 行動原理が予想の斜め上だった。いかに世界広しといえども、そんな理由でハロウィンにお菓子を用意する人間など、目の前のアイリス以外にはいないだろう。


「今日の葵さんは、私が独り占めするつもりですから」

「独占欲強めですか」

「最近の私はそうですね」


 まさかの肯定である。以前からかわれて顔を赤くしていたアイリスは、一体どこへ行ってしまったのだろうか。


「羽崎先輩ならまだしも、碧依先輩と渡井先輩は絶対に厄介な悪戯をしてくるでしょうし……」

「今のアイリスさんもそうですけどね」

「え? 今、何て言いました?」

「……。……今のアイリスもそうですけどね」

「えへ……」


 思わず漏れた普段の呼び方を、そんな形で訂正させられた。何が嬉しいのか、先程からその呼び方を口にする度に、抱き締められた腕にさらに力が込められる。何度でも言うが、本当に心臓に悪い。


「一週間に一回くらい、こんな風に呼んでもらう日があってもいいかもしれないですねっ」

「新鮮さがなくなりますよ」


 我ながら意味が分からない説得だとは思うが、今のアイリスを止めるには形振り構っていられない。今日一日はもう諦めたので、これ以上は流石に勘弁してもらいたかった。




「二人共おは……、どうしたの?」

「……おはようございます」

「おはようございます!」

「わぁ、アイリスさんが元気」


 とうとう、碧依に見られるまで腕が解放されることはなかった。そして、見つかったからといって解放される訳でもなかった。


 明らかに普段と違うその光景は、碧依の挨拶を途中で途切れさせる程度には威力があったらしい。アイリスとは反対側となる右隣に腰かけながら、その視線は抱えられた腕へと向いている。


「大変なんじゃない?」

「今の僕の心電図、多分凄いことになってると思います」


 もしこの状態で検査を受けたなら、再検査は必至である。


「何かあった? とうとう年貢でも納めたの?」

「何が言いたいんですか?」

「あ、違うんだね」


 何やらよく分からない表現をする碧依に問い返してみるも、それだけで勝手に納得されてしまった。アイリスと自分の表情を交互に見遣って、何度か小さく頷いている。どうやら何か思うところがあったらしいが、その予想は外れていた様子である。


「っとと……、そうだった。思わずそっちに気を取られちゃったけど、やらないといけないことがあるんだった」


 そして、何か不穏なことを口にする碧依。まさかとは思うが、アイリスの予想が的中することになってしまうのだろうか。


「葵君。トリックオアトリート、だよ」

「……」

「言った通りでしたね、葵さん」

「え?」


 結局、アイリスが予想した通りの展開となった。そんな予想の対象となっていた碧依はといえば、返ってきた反応が思っていたものとは違ったのか、不思議そうな表情で首を傾げている。


「碧依先輩と渡井先輩は絶対に仕掛けてくるって、そんなお話をしてました」

「あ、それで……」

「ということで、しっかり対策済みです。ですよね、葵さん?」

「これで」

「持ってたか……」


 そう言いながら、アイリスに渡された飴の中から一つを選んで碧依に手渡す。


「本当は持ってなかったんですけどね」

「ん? そうなの? じゃあ、これ何?」


 手の平の飴玉を見つめながら、碧依が当然の疑問を抱く。


「アイリスさんが碧依さんと渡井さんの行動を読んで、あらかじめ渡してくれました」

「そんなことをしてたの? アイリスさんは葵君の保護者か何かなの?」

「三個」

「……うん? 三個?」

「三個です」


 流石は聡明な碧依である。一瞬で個数のおかしさに気付いたらしい。


「私と莉花用なんでしょ? 一個多くない?」


 次から次へと押し寄せる情報に、碧依の疑問が止まらない。


「残りの一個は、私が葵さんに悪戯されないように、です」

「あ、そっか。アイリスさんから葵君にってことか」

「です。……ところで葵さん」

「何です?」

「さっき、何て言いました?」

「……」


 ほとんど同じやり取りを、たった数分前にも繰り返した覚えがあった。てっきり聞き逃したのかと思っていたが、今日のアイリスはそんなに甘くはなかった。


「もう一回どうぞ」

「……アイリスが、碧依さんと渡井さんの行動を読んで、あらかじめ渡してくれました」

「正解ですっ」

「何事?」


 わざわざ呼び捨てにしたうえで、全く同じ言葉を繰り返す。嬉しそうに笑うアイリスと、状況を理解できていない碧依の困惑した顔に挟まれてしまう。


「何か弱みでも握られたの?」

「碧依先輩は私のことを何だと思ってるんですか?」

「葵君のことになると、一切常識を気にしなくなる人」

「間違ってはないですねっ」

「否定してくださいよ」


 今はどう考えても肯定する流れではなかった。明るい表情で頷くアイリスの考えが読めない。


「で、そんな常識を知らないアイリスさんに、葵君は何をされたのかな?」

「僕はお菓子を持っていませんでした」

「あぁ、うん……。英語の教科書に載ってそうな文章だったけど、何となく分かったよ。要は、アイリスさんの悪戯ってことでしょ?」

「そうです!」


 心臓に悪い。


「でも、呼び捨てにするのって、何か悪戯っぽくないよね」

「正確に言うと、『葵さんをとにかくどきどきさせる』って悪戯で、呼び捨てはその一つですね」

「そう言うってことは、まだ色々あるんだ?」

「今こうしてるのもその一つです」


 本当に心臓に悪い。


「珍しいことをしてるなって思ってたけど、それもだったか……」

「これでもし葵さんがどきどきしてくれなかったら、むしろ私がダメージを受けます」

「諸刃の剣だぁ……」

「あと、割と恥ずかしいです……」

「捨て身だぁ……」


 こうなってからは初めて漏れ出したアイリスの心情。比較的いつも通りの様子に見えていたが、内心はそうでもなかったらしい。そう思うのなら、いっそ離してくれたらどれだけ気が楽になることか。電車が揺れる度に心臓に悪い思いをする、自分の身にもなってほしいものだ。


「葵君的にはどうなの? どきどきする?」

「……しないわけがないです」


 アイリスにこんなことをされて、平常心を保てる訳がなかった。鏡など見なくても分かる程度には、頬が赤くなっている自覚がある。


「だってさ、アイリスさん。とりあえず悪戯は成功してるっぽいね」

「えへへ……!」

「あぁ、もう……」


 捨て身の悪戯が上手くいったことが嬉しいのか何なのか、これ以上近付く余地などないはずなのに、それでもアイリスがさらに体を密着させてくる。


 時期的に冬服に切り替わっていて本当によかったと、心からそう思う。夏服でこんなことをされた日には、きっと今以上に身動ぎ一つできなかっただろう。だからと言って、冬服の今なら動けるという訳でもないが。


「……っ」


 腕の感覚をなるべく意識しないようにして、車窓へと視線を移す。終点まではあと数駅。まだしばらくは、体を硬直させる時間が続きそうだった。




「……」

「もう疲れてるみたいだけど、今日はこれからだからね?」

「分かってますけど……」


 これまでで一番疲れた車内の時間が、ようやく終わりを迎えた。長袖で覆われているはずなのに、解放された腕は何故か涼しさを感じてしまう程に熱を蓄えている。


「これも一週間に一回くらいは……!」

「絶対にだめです」


 何を血迷ったか、アイリスがそんな恐ろしいことを口にする。自らも恥ずかしいと言っていたのに、その道を突き進もうとする意味が分からない。


「気に入っちゃったみたいだけど」

「ただの先輩と後輩ですることじゃないですって」

「へぇ? じゃあ、どんな関係ならいいの?」


 余計なことを言ったと。そう悟ったのは、碧依のその表情を目にしたから。はしばみ色の瞳が、明らかにからかいの色に染まっている。


「……」

「何か想像したんだよね?」


 答えにくいことこの上ない。碧依と二人だったとしてもそうなのに、今はアイリスまでいるのだ。そんな場で気軽に言えるようなことではなかった。


 ましてや、そのアイリスが真剣な表情で真っ直ぐ自分を見つめているとなれば、尚更である。


「……」

「恋人だよね」

「……!」

「言わなかったのに……」


 どう考えても気まずい空気になることが分かっていたのに、結局碧依がその言葉を口にしてしまう。アイリスの視線に耐えていた意味が、綺麗になくなってしまった瞬間だった。


「葵君でもそういうことを考えるんだ。意外」

「……自分のことだとは思ってないですけどね」


 普段からどういう目で見られているのか気になる発言ではあったが、そんな素振りを見せたことはないはずなので、それも仕方のないことなのかもしれない。


「そもそも、碧依さんには飴をあげましたよね。どうして僕がからかわれてるんですか」

「ん? アイリスさんのお手伝い。普段はからかってばっかりだからね。今日くらいは」

「迷惑……」


 ただでさえ今日のアイリスに向き合うのに苦労しているのに、そこに碧依の手まで加わるとなれば、本格的に色々消耗する未来しか見えない。これ以上の連携を見せられるのは、絶対に避けなければならない事態だった。


「こういうところで好感度を稼ぐんだよ……!」


 本音は随分と欲に塗れた行動のようだった。


「……よしっ」


 そんな碧依にじっとりとした視線を向けていると、天敵の呟きを華麗に無視したアイリスの小さな声が聞こえてきた。まるで気合いを入れるような、そんな言葉だ。


 思わず視線を戻せば、何かを決心したかのような表情を浮かべるアイリスに、再びじっと見つめられていた。


「今度は何を……」

「えい」

「え?」

「お?」


 問いかける言葉を遮るようにして、アイリスが行動を起こす。その直後、左手に小さくて柔らかな感触が生まれる。


「腕を組んで学校まで歩くのは流石に恥ずかしいですけど、手を繋ぐくらいなら……」


 その言葉通り、少し恥ずかしそうに頬を染めてはいるものの、それでも視線が逸れることはない。


 恥ずかしさの中に、ほんの少しだけ混ざった不安の色。それを見てしまっては、安易に振り解くことなどできるはずもなかった。


「……」


 夏祭りでも握った、その小さな手。ただし、あの時とは違って、今回はアイリスから。前もって心の準備ができていれば多少は違ったのかもしれないが、そんなことを言っても時間が戻る訳でもない。とにかく、今は微かな緊張を隠すことが最優先だった。


「思った以上に積極的……」


 碧依も碧依で、まさかアイリスがいきなりここまでするとは考えていなかったのか、隣で驚いたように呟いている。


「葵さん」

「……何です?」

「どきどき、してくれてますか……?」


 何かを期待するような、そんな瞳。少しだけ、繋がれた手に込められた力が強くなる。


「……」


 はっきりと答えるのがどこか恥ずかしくて、思わず目を逸らす。そんな仕草が、何よりの答えだった。


「そうですか……!」


 アイリスの嬉しそうな声が届く。見えはしないが、きっと安堵の笑みを浮かべているのだろう。見てみたいような、けれども気恥ずかしくて直視はできなそうな、そんな複雑な気分だった。


「えへ……!」


 照れたような、小さな呟き。何故かはよく分からないが、今日一日で何度も聞くことになるような、そんな予感がした。

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