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63. 迫る楽しみ

 十月二十七日。いよいよ秋も深まり、時間帯によっては少しだけ肌寒さを覚えるようになってきた、月末の金曜日。車窓を流れる景色の色は変わってきたが、通学の風景自体は何も変わることはなく。いつも通りの三人での通学途中のことだった。


「もうすぐ文化祭ですね!」

「ですね。そろそろ準備も始まりますし」

「意外と一気に準備する感じだよね。一週間とちょっとくらい?」

「正式なのはそうですけど、去年は少し前から隠れてやってましたよ」


 体育祭の時と同じく、アイリスと碧依はこれが初めての文化祭。自分も去年の一回しか経験していないが、経験者は経験者である。一年前の記憶を辿って碧依に内情を伝えていく。


「いいんだ?」

「黙認です。先生達も気付いてますけど、放課後に小道具を作るくらいなら何も言われなかったです」

「まぁ、それくらいならね」

「準備期間が短いのは、学校側も分かってるみたいですから」

「それなら、最初から長めにしておけばいいのに」

「その辺は先生に言ってください」


 一介の生徒でしかない自分に言われたところで、準備期間について何かができる訳でもない。交渉すべき相手は学校か、もしくは生徒会である。


「そういうのは得意そうな人に任せるよ。学校に何か文句を言うのって、私は向いてないし」

「そうですか?」

「品行方正で通ってるからね!」

「……?」

「どうして首を傾げたの?」

「いや……。品行方正な人が見当たらなくて……」


 自信がありそうに言う碧依だったが、残念ながら、碧依に対してそのイメージはない。周囲から見ているだけであればそう思うのかもしれないが、その実態を知っている身としては、その言葉に頷くことなど到底できなかった。


「碧依先輩が品行方正なんて、誰が言ってるんですか?」


 茶化す様子でもなく、至って真面目な表情でアイリスもそう口にする。どうやらアイリスも自分と同じ意見らしい。碧依の様々な言動の被害者になることが多いアイリスからすれば、その意見も当然のものなのだろうが。


「二人揃って……。私のことを何だと思ってるの?」

「厄介なことばかり言う人」

「面倒なことばっかり言う人です」

「……」


 碧依が沈黙した。


「品行方正な人って、私みたいな人のことを言うんですよ!」

「それも違います」

「……」


 アイリスも沈黙した。


「二人揃って何を考えてるのか知りませんけど、もう手遅れですよ」

「手遅れじゃないですもん!」

「もしそうだったとしても、もっと言い方ってものがあると思うの!」


 両隣からそんな言葉が飛んでくるが、意見を変えるつもりはない。喜々として男子高校生を女装させようとする相手に対して、品行方正などという言葉は使いたくなかった。


「そんなことを言うんだったら、私だって葵君に四字熟語をプレゼントするよ?」

「聞いたことがないプレゼントですね」

「『二大巨頭』」

「四字熟語として聞いたことがないですけど」


 確かに漢字四文字だが、他人に贈る言葉として、その選択は正しいのだろうか。その判断には、どうしても首を傾げざるを得ない。


「うちの学校で特に可愛い男の子ってことで。思わず可愛い格好をさせちゃいたくなるくらい。ちなみに、もう一人は羽崎君」

「品行方正は遠そうですね」

「すぐそういうことを言う!」


 碧依の見つめる先。品行方正というゴールへは、果てしなく長い道程が待っていそうだった。


「碧依先輩は何にも分かってないです。葵さんに似合うのは、『氷肌玉骨』に決まってるじゃないですか」

「ひょう……? ……葵君、分かる?」


 碧依に何かしらの対抗心を燃やしたらしいアイリスからは、なかなか聞くことがない言葉が飛び出してきた。意味を理解できずに戸惑っている碧依の、まるで助けを求めるような声が届く。


 そんな碧依のことに加え、一体どこからそんな言葉を拾ってくるのかという疑問も浮かぶ。だが、碧依に返事をするよりも、アイリスに尋ねるよりも、先に言っておかなければならないことがあった。


「それ、女の人に言う言葉ですよね」

「あ、ばれました?」

「分かってて言ってたんですね」

「葵さんが知らなかったら、そのまま押しきっちゃおうかと」


 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、とても質が悪いことを考えていたらしいアイリスだった。本をよく読む生活を送っていてよかったと、人生で初めて実感した瞬間である。


「ねぇ、何なの、その言葉?」


 アイリスに対してはやや呆れていると、後回しにした碧依から解説の催促をされてしまった。言葉だけでの催促では留まらず、袖も軽く引かれている。碧依にしては少し珍しい仕草だ。


「綺麗な女性を指す言葉ですよ」

「へぇ……。納得」

「何に納得したんですか?」


 今の場面で納得できるところなど、普通に考えれば言葉の意味に対してしかないはずだ。だが、相手は碧依である。普通の考え方を当てはめてはいけない相手だった。


「聞きたい?」

「その言葉で何となく分かったので、それ以上は言わなくていいです」

「二大巨頭のどっちにも当てはまるなって」

「性別が当てはまってないんですよ」


 言わなくていいと言ったのに、碧依は止まらなかった。そして、思った通りのことを考えていた。


「アイリスさんも、よくそんな言葉を知ってたね?」

「最近授業で出てきました」

「で、すぐに葵君のことを思い浮かべた、と」

「ですね!」

「どうしてですか」


 二人が何の違和感も抱かずに会話を進めていることが恐ろしかった。この二人の中では、自分はどういう立ち位置にいるのだろうか。


「思い浮かべるのなんて、それこそ碧依さんとかでいいじゃないですか」

「わぁ、褒められた」


 意外そうに碧依が言うが、そこに異論を挟む人間はいないだろう。いかに中身が友人を女装させようとする厄介な人物であっても、見た目だけを考慮するなら関係ない。


 普段からアイリスと一緒にいるせいで感覚が麻痺してきているが、なかなか他では見られないくらいに、碧依の容姿は整っている。「氷肌玉骨」と聞いて思い浮かぶ人物の筆頭であっても、何もおかしくない。


「むぅ……」

「アイリスさん?」


 そんなことを考えていると、不満そうな声と共に、今度はアイリスから袖を引かれる。視線を碧依からアイリスに戻せば、声音の通り、不満そうな表情を浮かべたアイリスが、そこにいた。


「褒めてくれたのは嬉しかったけど、状況的にはよくなかったね?」

「はい?」

「何でもない」


 死角から届く碧依の声。何かを知っていそうな雰囲気があったが、それを素直に教えてくれるとは思えなかった。


「葵さんは、その言葉で碧依先輩を思い浮かべるんですね?」

「まぁ、何となく……」


 どことなく責められているような気がしないでもないが、きっと気のせいのはずだ。少なくとも、誰かの印象が悪くなるようなことを言った覚えはない。


 けれども、アイリスの不満顔は戻らない。


「じゃあ、どんな言葉なら、私を思い浮かべてくれますか?」

「『猪突猛進』」

「即答するんだ……」

「冗談ですよ」


 アイリスからの問いかけに一瞬で答えてみるも、これはあくまでも冗談でしかない。むしろ、この言葉で真っ先に浮かぶのは莉花であって、アイリスではなかった。


「……」


 少しだけ袖を引く力が強くなったように思える中、アイリスはただ無言でこちらを見つめている。まるで、本気で考えた言葉を待っているかのように。まるでも何も、実際にそうなのだろうが。


「そうですね……」


 そんな視線に押された訳ではないが、真面目に考えてみる。流れていく窓の外の景色を眺める間、様々な言葉が頭に浮かんでは消えていく。


 やがて、最後に残った言葉は。


「『天香国色』」


 恐らくは二人共聞いたことがないであろう、その言葉だった。


「天香国色……?」

「また聞いたことがない言葉を……」


 不満から戸惑いへと色を変えたアイリスの表情を見て、心の中でそっと安堵する。最悪、碧依に意味が伝わってしまうのは構わないが、自分がいる場でアイリス本人に伝わってしまうのは、流石に恥ずかしいものがあった。


「分からなかったら、後で調べてみてください」


 今の時代、分からないことがあればすぐに調べることができてしまう。そうされてしまっては、一体何のためにこの言葉を選んだのか分からなくなってしまうので、先手を打ってそう伝える。目の前で伝わってしまうのが恥ずかしいだけで、自分がいないところであれば何の問題もない。


 そこまで考えたところで、一つの違和感を抱く。


(恥ずかしい?)


 これまで散々「可愛い」や「似合っている」と言ってきたのに、今更そんな感情が残っていたとは、露程も考えなかった。自分の心のことなのに、まだまだ自分でも理解できないことだらけである。


「てん、こう、こく、しょく……」

「後でって言ってるじゃないですか」


 意識を自分の内に向けている間に、アイリスがその言葉の意味を調べようとしていた。もう少しで意味が判明してしまうというところで、何とかぎりぎりその手を制止する。


「どうして今はだめなんですか?」

「何ででも、です。僕がいないところでならいいですから」


 言葉の意味も、そして自分の行動の意味も分からないままのアイリスが、不思議そうに首を傾げる。その姿を見て、やはり選んだ言葉に間違いはなかったと確信する。


 天香国色。その意味は、この世のものとは思えない程に美しいこと、だった。




「葵さんのところの出し物、絶対に行きますからね」


 駅から学校までの道すがら、アイリスがそう宣言する。先程はうやむやになってしまった文化祭の話の続きだった。


「随分気が早いですね」

「そうでもないですよ? どうせ本番まであっという間ですから」

「アイリスさん、何かおばあちゃんみたいなことを言ってるね?」

「誰が縁側と湯呑が似合いそうですか」

「アイリスさんなら庭でティーカップだよね」

「そういうことを言ってるんじゃないと思いますよ」


 今日も碧依は絶好調である。間違いなく、アイリスが庭でティーカップを持ち、紅茶を飲んでゆっくりしている光景を思い浮かべたはずだ。


「まぁ、確かに去年もあっという間だったような気はしますね」

「ですよね! 葵さんと一緒なら、縁側で湯呑もいいかもしれないです!」

「いいんだ……」


 瞬時の手の平返しに碧依が呆れる中、アイリスの興味は出し物へと向かう。話があちこちに逸れようとも、中心にあるのはやはり文化祭のことなのだった。


「で、葵さん達は何をする予定なんですか?」

「お化け屋敷です」

「また来年、楽しみにしてますねっ」

「今年も来るんですよ」


 清々しさすら感じさせる笑みで言いきったアイリスだったが、絶対に逃がしはしない。


「なんでよりにもよって葵さん達がそれをやっちゃうんですかぁ!」

「そんなことを言われても……」


 見ていて惚れ惚れするような笑みから一転、怯えと不満が混ざったような表情で、アイリスがそう口にする。とはいえ、クラス全体の話し合いで決まり、同じ学年内での被りを避けるための抽選すらも通ってしまったのだから、一個人ではどうしようもない。


「アイリスさんはどんな反応をするんだろうなって思ってました!」

「渡井さんとそんな話をしてましたね」

「本人がいないところで勝手に……!」


 恨めしそうな目で碧依を見つめるアイリスだが、当の碧依は何も気にしていない。むしろ、見つめられて喜んでいる可能性すらあった。


「『絶対に行く』って、はっきり聞いちゃったもんね」

「気のせいだと思います」

「葵君も聞いたよね?」

「葵さん。分かってますよね?」


 威圧しているのか縋っているのか、どちらかよく分からない瞳を向けられる。一つだけ分かるのは、今日も今日とて瑠璃色の瞳は綺麗だということだけだった。


「多分……」

「じゃあ大丈夫で……」

「言ってましたね」

「なんにも分かってない……!」


 味方がいないことを悟ったアイリスが、実に悔しそうに呟く。


「私が怖がりなの、葵さんは知ってますよね!?」

「次のホラー会はいつにしましょうか」

「次はないです」


 真面目な顔で呟かれた一言は、聞きようによっては恐ろしい発言だった。現実は、ただ単にホラーから逃げているだけなのだが。


「あ、その時は私も混ぜてもらっていい?」

「碧依さんは大丈夫な人ですか?」

「人並みくらいだと思うよ」

「混ぜませんし、そもそも開催されないですもん!」

「葵君と二人きりがいいってこと? 何するつもり?」

「私が何かする前提でお話を進めないでくださ……、い……」

「もう何かしたね?」

「してませんもん……!」


 途中から突然歯切れが悪くなったアイリス。見れば、何故かうっすらと頬が赤い。もうすぐ十一月とはいえ、風はまだそこまで寒くない。それを考えると、何かを思い出してしまって恥ずかしがっているのだろうが、思い当たる節が一切なかった。


 もちろん、単に自分が忘れているだけという可能性もある。もしくは、アイリスが一方的に恥ずかしがっているだけか。


「何したの? ねぇ、何したの?」

「そういうことをするから、天敵って言われるんですよね」

「何か言った? 葵君?」

「何でもないです」


 ぼそりと小さく呟いたせいなのか、碧依には自分の声が届かなかったらしい。呟きの内容を考えると、はっきりと聞こえていないならそれでいい。知らないままの方が幸せなこともあるだろう。


「な、なんにも?」


 そして、アイリスは相変わらず致命的なまでに隠し事ができない人間だった。露骨に目が泳いでいて、何かを隠していると全力で白状していた。


「気になるなぁ……」

「私は何も知りません」

「そんなわけがないでしょ。自分のことなのに」


 弱点を見つけた碧依の手は緩まない。こうなってしまえば、結末は二つのみである。アイリスが耐えきれずに白状してしまうか、耐えきって学校まで辿り着くか。個人的な思いで言えば、耐えきるのは難しそうだった。


「葵君は何か覚えてないの?」

「葵さんに聞くのは反則ですっ」


 碧依から心を閉ざすようにそっぽを向いていたアイリスが、大急ぎで帰ってきた。


「今度こそ分かってますよね!?」


 ついでに言えば、必死だった。呼び起こされた記憶がよほど恥ずかしかったのだろうが、自分としては、相変わらずアイリスと同じ記憶に辿り着ける気配がない。分かる、分からない以前の問題だった。


「これは冗談じゃないんですけど、アイリスさんがそんなになるようなことって、何かありましたっけ?」

「覚えてないの?」

「思い当たる節がないんですよね」

「だったら、葵さんはそのまま何も考えないようにしましょう!」


 微かな光明を見出したアイリスが、そんな提案を持ちかけてきた。それを面白くないと捉えたのか、碧依がアイリスの感情に訴える行動に出る。


「アイリスさんはそれでいいの?」

「何がですか?」

「せっかく葵君と何かしたのに、本人がそれを覚えてないんだよ? 寂しくないの?」

「うっ……!」

「私に話す、話さないは別として、思い出してもらった方が嬉しくない?」

「うぅ……」


 砂の上にでも立っているのかと思ってしまう程、アイリスの感情が揺れている。やはり、耐えきるのは難しそうだった。


 そして、そんな何気ないことを考えている時にこそ、記憶は突然蘇るものである。


「あ」

「ん?」

「え?」


 思わず漏らした声に、アイリスと碧依が同時に反応する。


「そういえば、あの時押し倒されましたね。アイリスさんが怖がり過ぎて」

「それだ!」

「何でこのタイミングで!」


 どうやらこれが正解だったらしい。あの時のアイリスは恐怖の感情で満たされていたが、後になって恥ずかしさが襲来したということだろう。


「そっかぁ……。もう押し倒してたのかぁ……」

「違いますもん! 葵さんの鳩尾に頭突きしただけです!」

「どんな状況?」


 何故か感慨深そうに呟いた碧依が、アイリスの一言で混乱に陥っていた。実際に体験した自分ですら今の流れには疑問を抱いたので、何も知らない碧依にとっては当然の反応である。


「家鳴りに驚いたアイリスさんが抱き付いてきたんですよ。で、頭は僕の鳩尾に」

「あ、そういう……」

「全部葵さんが悪いんです。わざと怖がらせるようなことを言うから」

「その気持ち、私も分かる」

「ですよね」

「何通じ合ってるんですか」


 度が過ぎるのもよくはないが、怖がっている反応というのは、周囲から見る分には面白かったりする。アイリスのようにはっきりと反応してくれるなら尚更だ。


 力強く頷いた碧依に、じっとりとしたアイリスの視線が突き刺さる。だが、碧依本人はそんなことは意にも介さない。


「でも、そっか。男の子を押し倒しちゃったってなると、それは流石に恥ずかしいよね」

「あぅ……」

「そんなことを言ってる碧依さんも、僕のことを押し倒しましたよね」

「あ……」

「は!?」


 完全に忘れていたであろう碧依に、過去の出来事を突き付ける。反応としては、何故かアイリスの方が大きかったが。


「どういうことですか!?」


 大き過ぎやしないだろうか。信じられないものを見るような目で、自分と碧依を交互に見つめている。自分にとってはそんなこともあったという程度の記憶だが、アイリスにとっては何か気になることでもあったのだろうか。


「いや……、どういうことって……」


 そこまでの反応を見せられると、流石の碧依も狼狽えてしまうようで。これまでとは違って、その言葉は途切れ途切れになってしまっていた。


「詳しく説明してもらえるまで離しませんからね!」


 そういう台詞は、碧依の手を捕えて言ってほしい。視線と言葉は碧依に向いているのに、どうして捕えられるのは自分なのか。扱いが人質のそれである。


「まさか、碧依先輩も……!?」

「ちっ、違う違う! あの時はそういうつもりはなかったの!」

「あの時はってことは、今は……!」

「それも違うって!」


 思わず左手に意識が集中してしまった間に、二人にしか通じない言葉でのやり取りが始まっていた。問い詰めるアイリスと、必死に弁解する碧依。普段とは立場が入れ替わったような会話だった。


「じゃあ何ですか! 葵さんをそういう風に見ることができないってことですか!」

「すっごく面倒なことを言い始めた!」

「誤魔化さないでくださいっ」

「可愛いとは思うけど!」

「いきなり何ですか」


 よく分からない会話を繰り広げていると思っていたら、唐突にこちらまで火の粉が飛んできた。一体今の話に何の関係があって、一発殴られたのだろうか。


「やっぱり碧依先輩も……」

「だからそれは違うって! そこはそんなに心配しなくていいから!」

「じゃあ、何があったんですか」

「そ、れはぁ……」


 理由が理由だけに、そう易々と他人に話せはしないのだろう。別に伝わってきてほしい訳でもない碧依の葛藤が、これでもかという程に伝わってくる。


「言えないようなことがあったんですか?」

「うぅ……」

「言わないと解放してもらえませんよ。僕が」


 自分で言っておいて何だが、どの立場から発言したのだろうか。ここまで落ち着き払った人質が、人類史の中でどれくらいいただろうか。もしかすると、自分は今、人類史にその名を刻んでいる真っ最中なのかもしれない。


「……ちょっとした、出来心だったんです……」


 そんなくだらないことを考えているうちに、とうとう観念した碧依が事の顛末を話し始める。


 果たして、聞き終わった後のアイリスはどんな反応を示すのか。他人事のようにそう考えながら、碧依の言葉に耳を傾けるのだった。




「葵さん。もっと碧依先輩から離れた方がいいです」

「改めて聞くと、本当に意味が分からない理由ですよね」


 碧依が一通り語り終えた後。アイリスによって、そんな言葉と共に碧依から引き離された。左手は解放されるどころか、腕ごと抱き締められるところまで進化している。


 警戒心をむき出しにしたアイリスが、威嚇するように碧依のことを睨みつける。本人がそう思っているだろうというだけで、実際威圧感は皆無と言ってもいいのだが。


「もうそんなことを言い出すつもりはないから……」

「いや、碧依先輩はいつか必ず似たようなことを言い出します」


 負の方向へはしっかりと信頼されていた。


「血を吸うために押し倒したとか、それもう……」

「それ以上はだめ。泣きそう」

「変態ですよね」

「泣くって言ったのに!」


 攻撃性能も高かった。


「いいですか、葵さん。これからはもっと注意してくださいね?」

「何をですか」

「碧依先輩がおかしなことを言い出したら、ちゃんと周りに助けを求めるんですよ?」

「小学生とその親ですか?」


 付近に不審者が出たと、そう連絡があった時の保護者の行動そのものである。だが、その対応にも一つだけ問題点があった。


「碧依さんの周りにいるのって、大抵羽崎君と渡井さんなんですよね」

「……」


 アイリスが黙り込む。何を考えているのかなど、手に取るように分かってしまう。


 悠はどう考えても一緒に巻き込まれる相手で、莉花はどう考えても碧依に加勢する相手。状況を打開できる人物が、周囲に誰一人としていないのである。


「……私のクラスまで逃げてきてもいいですよ?」

「アイリスさんも似たようなことを言い出しそうなので、それは遠慮しておきます」

「なんでですか!」


 まさか自身まで碧依と同列に扱われているとは思ってもいなかったらしく、心外だとでも言わんばかりに、左腕に加わる力が強くなった。何度か同じ状況になったことはあるが、何度目であろうと心臓に悪い。特に、アイリスのような相手では尚更。


「だよね! アイリスさんも絶対にこっち側だよね!」


 味方を得たと感じたのか、碧依の声が若干明るくなる。その裏側には必死さが透けて見えるが。


「私はそんなこと言い出しませんもん」

「ほんとに? 葵君の肌、羨ましくない? すべすべだよ?」

「……」


 抱き締められた左腕に、アイリスの視線が落ちる。見なくていい。


「触って……、みたことくらいはありそうだね」

「……」


 袖を捲らなくていい。


「……」

「でも触るんだね」


 撫で回さなくていい。


「一生触っていられます……!」


 わざわざ目を合わせてまで言わなくていい。感想は求めていない。


「かなり変態っぽいですよ」

「あ……」

「ほら! アイリスさんもこっち側だよ!」

「ちっ、違います! これは思わずそうしちゃっただけで……!」

「犯人は皆そう言うんだよ!」


 引き込みに成功した碧依が勢い付く。対して、その碧依に勢いを吸い取られたかのように、アイリスの勢いは衰えていく。


「いつかアイリスさんも、葵君の血を吸いたいって思うようになるから!」

「怖……。アイリスさん、離してもらってもいいですか?」

「思いませんもん! 離しません!」


 勢いは衰えたのに、抱き締める力はより一層強くなる。また少し、鼓動が速くなった気がした。


「私は碧依先輩みたいな変態じゃないですもんっ」

「僕を女装させてる時点で、それは大分怪しいですけどね」

「それは趣味です」

「やめてください」


 趣味感覚で気軽に他人を女装させる方が厄介だと、アイリスは気付いているのだろうか。やけに自信たっぷりに言いきった姿を見ていると、自覚はかなり薄いように思えてしまうが。


「とにかくっ! 碧依先輩のは欲望しかなくて!」

「欲望!?」

「あっ、あいっ、じょうが! 込められてる私のは違うんですっ」

「アイリスさんも結構欲に染まってた気がします」

「気のせいです!」


 むしろ、今この場においては、直接触れてきたという点でアイリスの方がより欲望に素直ということになる。そこに愛情とやらは関係ない。


「そんなわけで、もっと離れましょう」

「おぉ……?」

「おかしいな……? 文化祭の話だったはずなのに、何で二人に避けられてるの……?」


 腕を抱えられたまま、さらに碧依から引き離される。友人と呼ぶには迷いが生まれる程度には、碧依との距離が開いた。


 その距離を見て首を傾げる碧依だが、こうなった原因は、紛れもなく碧依自身にあるのだった。




「アイリスさん達は何をする予定なんですか?」


 学校が近付くにつれて恥ずかしさがこみ上げてきたのか、左腕はあれからしばらくして解放された。それでもアイリスの体温がまだ残っているような気がして、どこか気恥ずかしいものはある。


 そんな感覚を振り払うように、中断されていた話題を振る。自分達が何をするかは話したが、アイリス達が何をするかは聞いていなかったはずだ。


「ワッフルを焼きます」

「へぇー……」


 アイリスの答えを聞いて意外そうな声を上げたのは碧依。まだ少し距離はあるが、それでも先程よりは近付いている。警戒は解かれていないのか、これ以上近くなるとアイリスに引き離されるが。


「定番……、なのかな……?」

「どうなんでしょうね。少なくとも、僕はあんまり聞いたことがないです」


 碧依と二人してそんな反応を示す。言われなければ頭に浮かんでこなかった、そんな候補であることは間違いなかった。


 それよりも、その出し物を聞いて真っ先に浮かぶことといえば。


「飲食系って、色々と大変なんじゃないですか?」

「ですね。保健所関係とか、初めて色々調べました」

「あー……、そっか。そういうのもあるんだ」


 華やかな出し物の裏側である。普段は目にすることのない一面を垣間見た碧依が、思わずといった様子で言葉を漏らす。


「本当に大変なんですよ? そもそも売っちゃいけないものがあったり、基本的には加熱したものじゃないとだめだったり」

「そう聞くと、結構できることは絞られそうですね」

「そうなんです。まぁ、その中でどんなトッピングができるかって考えるのも、それはそれで楽しいんですけど」


 その言葉通り、今から本番が楽しみで仕方がないといった様子で、アイリスが笑みを浮かべる。こういったお祭りごとは、準備期間すらも楽しいという定説を体現するかのようだった。


「テイクアウト形式をメインにするので、葵さんも空いた時間で来られますよ?」

「楽しみにしておきます」

「ちゃんと時間を合わせて来てくれたら、その時は私が焼き上げますから!」

「それは少し不安ですね……」

「なんでですか!」


 最近は少しずつ料理の練習をしているようだが、たまにところどころ焦げた料理が出てくることがあるアイリスだからだ。まだまだ初心者の域を脱していないと言わざるを得ない。そこに文化祭という特殊な状況が加わってしまえば、何が起こってもおかしくはないだろう。


「ちゃんと練習しますから!」

「あっ! じゃあ、その練習で作ったのは私が……」

「変態先輩は引っ込んでてください」

「うっ……!」


 久しぶりに聞いた気がする、その呼び方。一度目がある時点でおかしいのだが、気にしたところでどうにかなるものでもない。一瞬で引き下がった碧依を尻目に、アイリスが言葉を続ける。


「そんなわけで、これからしばらく練習に付き合ってもらえませんか?」

「僕が?」

「はい。時間がある時でいいので」

「流石にワッフルは作ったことないですよ?」


 身の回りにいる人物で「料理」という単語から連想されるのが自分だったのだろうが、生憎ワッフルを焼くための道具すら持っていない。そんな状態で練習に付き合ったところで、何か手助けができるとは思えなかった。


「それでもいいんです。自分以外にも味見してもらいたいですし。それに、葵さんなら作ったことがなくても、何となくアドバイスが貰えそうですから」

「期待がやたら大きいのは気になりますけど、そういうことなら……」

「よかったです! それじゃあ、よろしくお願いしますね!」


 そう言って顔を綻ばせるアイリス。まだ何か協力できると決まった訳でもないのに、随分と嬉しそうだった。


 そして、これもまた気が早いように思えるが、好きな分野で頼ってくれるのは、自分としても嬉しいことには変わりない。暇な時間にレシピでも探してみようかと、心の中に留めておく。


「何かいつもと違う服は着たりするの?」


 やたらと警戒されてはいても、この程度の質問は流石に大丈夫と考えたのか、会話の切れ目を狙って碧依がアイリスに問いかける。そう言われてみれば、自分としても気になるところではあった。


「んー……。そこなんですよね……」

「決まってないんですか?」

「せっかくだから、それっぽい服は着てみたいよねってお話は出てるんです。でも、流石に人数分用意するのは……」

「まぁ、買えば結構な金額ですし、作るにしても時間が足りませんしね」

「そうなんですよ。最悪、私はバイトで着てるのを借りられないかなって考えてます」


 まさしく悩んでいるような表情を浮かべながらのアイリスの言葉に、何となくウェイトレス服を思い浮かべる。


 アイリスが言う通り、あれを借りることができるのであれば、それが一番手っ取り早いだろう。あの店でアイリス以外に着る者のいない制服なのだから、太一や柚子に相談すれば借りられるような気はした。


「ちょっとだけ大きめのもありますし……」

「どうしてあるんでしょうね?」


 不思議なものである。着る人はアイリスしかいないのに、サイズ違いなど置いておく必要がない。なのに、あの店にはサイズが異なるウェイトレス服が存在している。個人的には、身の回りの七不思議として語り継いでもいいのではないかと思っている。


「現実から目を逸らしちゃだめですよ?」

「どうしてちょっといいことを言った風なんですか」

「今月も葵君のウェイトレス姿は見られなかったな……」


 容赦のないアイリスの一言と、残念そうな碧依の一言。できればどちらも聞きたくない一言だった。


「でも、葵さんのウェイトレス服を他の誰かが着るのはちょっと嫌だったり……」

「僕が着るのも嫌なんですけど?」

「今月の葵さんも可愛かったですよ!」

「感想は求めてないです」


 相変わらず、この手の話題になると会話が噛み合わないアイリスだった。


「ま、その辺は私のクラスでどうにかすることですから」


 そう言って、アイリスがウェイトレス服に関する会話を締めくくる。気付けば、学校はもう目の前だった。


「それよりも」

「はい?」

「本番、一緒に回りましょうね!」


 その未来が訪れることを信じて疑わない、そんな純粋な笑顔。向けられた自分の方が少し恥ずかしくなって、思わず視線を逸らしてしまう。


「葵さん?」

「何でもないです。きちんとお化け屋敷にも連れていってあげますからね」

「それはお断りですっ」


 視界の端に映る、アイリスの姿。はっきりとした表情の変化は見えなかったが、少しだけ声が震えたような、そんな気がした。

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