62. 不透明な選択
夏の日差しはとうに消え去り、随分と過ごしやすい気温となった十月二十一日、土曜日。その昼下がりに何をしているのか。
「可愛い……!」
端的に言えば、アイリスの家で羞恥に悶えていた。
「可愛いですよぉ……! 葵さん……!」
スマートフォンを構えて悶えているという点ではアイリスも同じだったが、当然その理由は違う。
「いよいよ性別が分からなくなりそうね」
「世の中には色々な人がいるんだって、こんなところで実感するとはね」
そんな娘の様子を眺めるアーロンとレティシアの視線も、時折自分の方を向く。
「……っ」
「スカートを握り締めるのは癖ですか?」
「……そんなわけがないです」
そんな癖が男にあっていい訳がない。これはただ羞恥に耐えるための仕草であって、それ以外の意味など存在しない。だが、今のアイリスにとっては、そんな仕草も燃料にしかならないらしい。
「世界を狙えますね……」
「何の?」
燃料を注ぎ過ぎて、溢れて壊れていた。
どうしてアイリスの家でこんなことになっているのか。一言で表せば、「勝ってしまったから」という言葉に尽きる。
こうなることが決定したのは、昨日のことだった。
十月二十日、金曜日。今日一日を無事に終えれば休日ということで、教室内にはどこか浮ついた空気が漂っていた。
だが、そんな空気とは全く異なる雰囲気を纏った人物が、目の前にいた。
「さ、結果を教えてもらおうか」
ある紙の束を抱えた碧依だった。随分と自信に満ちた表情でそう問いかけてくる。このタイミングで「結果」といえば、指すものは一つしかないだろう。
「九百二十四点でしたけど、碧依さんは?」
「……」
求めているであろう結果を口にした途端、碧依の纏う雰囲気が霧散していったような気がした。
中間試験の合計点。つい先程全ての教科の答案用紙が返却されたことで、勝手に巻き込まれることになった勝負の結果が、ようやく判明したのだった。
「碧依は?」
事情を聞いていた莉花が、黙り込んでしまった碧依をそう促す。その顔には実に楽しそうな笑みが浮かんでいて、既に勝負の結果を察していることが窺える。
「……点」
「何?」
「……九百二点」
「あー……」
碧依の表情の変化からして勝てたのだろうとは思っていたが、思いの外点差は小さかった。あれだけの啖呵を切って負けていたらと思うと、そう想像するだけでも恥ずかしい。
「相変わらず容赦がないね、湊君」
「容赦した先にあるのはナース服ですよ?」
「勝った先にあるのはメイド服だけどね?」
「……」
悠によって、逃げたかった現実へと引き戻された。このままアイリスに黙っていれば、もしかしたら忘れていてくれないだろうか。そんなことを頭の片隅で考える。だが、即座に諦めた。あのアイリスが、こんな約束を忘れる訳がない。何が何でも着せようとしてくるはずだ。
「惜しかったね。次は勝てるからね。よしよし」
「今回勝たないと意味がないのに……」
「大丈夫、大丈夫。湊君のことだから、次の期末も同じものを賭けて勝負してくれるって」
「どうして勝手に決めてるんですか」
目の前に迫ってきたメイド服から必死に目を逸らそうとしていると、碧依を慰めていた莉花がとんでもないことを言い出した。
「勝てばナース服は着なくていいんだよ?」
「アイリスさんが勝つ方にメイド服以外の服を賭けるに決まってるじゃないですか」
「だろうね」
「地獄……?」
どう足掻いても、試験の度に何故か罰ゲームが待っていることになる。恐らく、そこに慈悲はない。
「次勝ったら、ナース服とミニスカサンタのコスプレをしてもらう……」
「何で増やしてるんですか」
「しかも、ちょっと時期を合わせてきたね」
莉花に慰められて若干回復した碧依が、勝手に次回の賭けを成立させたうえに、さらにとんでもないことを言い出した。そこにキャリーオーバーは発生しないはずだ。させていいはずがない。そうなれば、際限なく負債が積み上がっていく。
「私も見たいけどさ、そんなにたくさん買える?」
「まぁ、別に安物でいいなら……」
「僕に意見を求めないでくださいよ」
まるで、「安物だけど、着る側としてはそれでもいいか」とでも言いたそうな視線である。この上なく返事をしたくない問いかけだった。
「それか、葵君とアイリスさんが働いてるお店でバイトする」
「それはだめです」
挙句の果てに、そんな恐ろしいことを言い出した。あの店に店員として碧依が投入されると、さらに色々押しきられる未来しか浮かばなかった。それだけは絶対に阻止しなければならない。
「えー……?」
「そんなにあの子と二人の職場がいいか?」
「もうこの際それでもいいです」
「それでいいんだ……」
悠の小さな呟きが聞こえたが、それに構っている暇はない。今は脳裏に浮かんだ悍ましい光景を消し去るのに全力を注ぐべき時だ。
「碧依さんまで入ってきたら、いよいよ毎日ウェイトレス服を着せられそうで……」
「私ならやりかねない」
「認めなくていいです」
むしろ認めてほしくない。
「ただでさえ、月に二日か三日にしようかって話してる人がいるのに」
「僕は行ったことないけど、そのお店って普通のお店なんだよね?」
「……多分」
「自信ないんだね……」
男子高校生に月一でウェイトレス服を着せる店が「普通」の範疇に収まるのかは、はっきりと断言することができなかった。個人的な考えを言えば、恐らく普通ではない。
「まぁ、とにかく碧依は次頑張りなって。どうせあの子が次も何かって言い出すはずだし」
「うん、そうする」
「しないでくださいよ」
いつの間にか、期末でも同じ勝負が展開されることがほぼ確定しているかのように話が進んでいた。油断も隙もあったものではない。
「でも、そうなる気はしてない?」
「してますけど」
「次に何を着てもらおうかとか、そんなのは聞いてないの?」
「……巫女服がどうこうって話はしました」
「聞いておいて何だけどさ、普段どんな会話をしてるわけ?」
「……」
普通の会話と、そう思いたかった。
「結果、そろそろ分かりました?」
「僕は何も知りません」
「分かったんですね」
午後の授業を無事に終えて放課後となり、最近ようやく少し涼しくなってきたからと、今週の半ばからブレザーを羽織り始めたアイリスが二年生の教室へとやって来た。
そのアイリスが尋ねてきたのは、恐らく中間の結果のことだろう。それ以外で「結果」と表現されるものに、最近関わった覚えがない。
既に碧依と話をしていた通り、全教科の結果が判明して、合計点の勝負も決着がついている。だが、それをアイリスに伝えるのはどうしても躊躇われた。ここで話してしまうということは、自分の手でメイド服を確定させてしまうことと同義である。心の中に残った最後の意思が、必死の抵抗を繰り広げていた。
「で、何点差で勝ったんですか?」
「……」
「やっぱり勝ったこと前提で聞くんだね」
疑うことを知らない聞き方をするアイリスに、悠がそんな感想を漏らす。対するアイリスは、何故か自信に満ち溢れていて。
「当たり前です。葵さんはメイド服のために頑張ってくれたはずですから」
「僕がメイド服を着たがってるみたいに言わないでもらえます?」
そんな考えは一切なかった。
「え? じゃあ、メイド服を着た葵さんを見たいって言ってる私のために……?」
「それも考えませんでした」
「なんでですか!」
そんな考えもない。
「ちょっとくらい考えてくれてもいいじゃないですかっ」
「何を?」
「可愛い後輩のために一肌脱ごうとか!」
「その後にメイド服を着せられるんですけど」
「着せますね!」
「何自信満々に言ってるんですか」
一瞬の間すらなかった。そんなところに自信を持たなくてもいい。
「あ、合計点なら湊君の方が上だったから。好きにメイド服を着せるといいよ」
「やっぱり勝ってくれたんですね!」
「余計なことを……」
アイリスに気を取られているうちに、いつの間にか接近していた莉花に結果を公開されてしまった。もっと周囲に意識を向けるべきだったと後悔するが、そんな感情を抱いたところでもう遅い。自身の勝ちを知ったアイリスの目が、これでもかという程に輝きを増す。
「よかったです! 私は信じてましたけど、それでも葵さんが負けちゃってたら、次の期末に持ち越しになっちゃうところでした」
「気軽に持ち越さないでくださいって」
それでも、持ち越したうえに要望を追加してきた碧依よりは良心的に思えてしまうのだから、つくづく感覚が麻痺してきている。どう考えてもよくない傾向だった。
「明日は撮影会ですね!」
「早過ぎません?」
「準備はばっちりです」
結果が分かった翌日に着せようとするのは、流石に早過ぎるのではないだろうか。どう考えても、あらかじめ用意してあったとしか思えない。
「いつ買ったんですか」
「先週ですね」
「試験期間中……」
「万が一今回使わなくても、どうせいつか着てもらうつもりだったので」
その言葉も、できれば聞きたくはなかった。
「どうしても着ないといけませんか?」
「約束ですから」
「約束を破るのは男らしくないぞ、湊君」
「守った方が男らしくなくなるんですけど」
メイド服のどこにも、男らしさは見当たらない。一体どうすれば男らしさは守られるのか、誰かに問いかけたい気分だった。
「またそんなことを言って。どうせもう諦めてるんでしょ?」
「諦めてますよ。諦めてますけど、せめてもの抵抗くらいは許してくださいよ」
「湊君、最近諦めが早いよね」
「……この流れで逃れられたことがありませんから」
「悲しい発言だ……」
他人事のように言っているが、今回は巻き込まれていないというだけであって、普段は悠も逃げきれないはずだ。
ただ、その巻き込まれていないという一点がとても大きい。気持ちに余裕があるのかないのかは、言葉や表情にも違いを生み出す。
「葵さんが素直じゃないのは知ってましたけど、私相手なら、もうそろそろ少しは素直になってくれてもいいんじゃないですか?」
「そのきっかけがメイド服ってところが、最高に嫌です」
アイリスが何かそれらしいことを言おうとしているが、その根本にあるものがメイド服である時点で受け入れられない。たとえ穏やかな口調で提案されたところで、無理なものは無理なのだ。
「すっごく可愛いのにしたんですよ?」
「それを聞いて、僕が素直になると思いました?」
より捻くれそうな情報だとは思わないのだろうか。
「そもそも、アイリスさんに対しては最初から結構素直ですからね?」
「……え?」
「可愛いとか言ってるのも、多少は素直だからですよ」
「え!?」
そんな不意打ちに、思わずといった様子でアイリスが一歩だけ後退る。その顔が徐々に赤く染まっていく。瑠璃色の瞳は途端に落ち着きをなくし、ふらふらとあちこちを彷徨い始める。
アイリスが一歩離れた分、自分から一歩だけ詰める。歩幅の違いの分だけ、先程よりも距離は近い。
「こんな風にお願いするのもアイリスさんにだけなんですけど、それでも着ないとだめですか?」
「う、うぁ……」
「アイリスさん?」
「だ、だめ……、ですっ……!」
そんな言葉と共に、胸元を両手で軽く押し出される。俯き加減でその表情は分からなかったが、首を横に振っている辺り、結局着なくてはならないことには変わりないようだった。
「どんなお願いの仕方してるの」
「効くかなと」
「これ以上ないくらい効いてるけど」
莉花の視線の先で、アイリスは未だに俯いたまま、両手を軽く握り締めていた。
「見てるこっちが恥ずかしかったけど、湊君は恥ずかしくないわけ?」
「恥ずかしいに決まってるじゃないですか。それでも、メイド服を着るよりは恥ずかしくないです」
「比較対象よ」
恥ずかしい写真をずっと残されるよりも、今この時の恥を選んでみただけだ。結果としては、どちらの恥も受け入れることになってしまったが。
「まぁ、もういいです……。疲れたので、大人しく着ることにします……」
そう思うと、一気に疲れてしまった。「後悔先に立たず」と言うが、今の状況がまさにそうだった。こうなるのなら、最初から受け入れてしまった方が幾分か楽だったのかもしれない。
「何でお願いしてる方も、お願いされてる方も、どっちもあんな風になってるんだろうね?」
「全部湊君のせいってことで」
素朴な疑問を漏らした悠への、莉花の回答。確かにその通りなので、何も言い返すことはできなかった。
そして、今に至る。
「世界は狙えますけど、誰にも見せたくない……!」
「奇遇ですね。僕も誰にも見られたくないです」
きっと、見られたくない理由は別だろうが。
「ちょっと大人っぽいメイド服と、今葵さんが着てる可愛いのとで迷ったんですけど、こっちにして正解でしたね」
「その情報って必要でした?」
「ほんとに迷ったんですから! 落ち着いてる葵さんなら、やっぱり大人っぽい方が似合うのかなーとか」
「やっぱり?」
「でも、ウェイトレス服は可愛いのでしたし、フリルたっぷりでも似合いそうだなーとか!」
「それなら、前もって相談してくれたらよかったんですけど……」
「一緒に選んでくれたってことですか?」
「何が何でも止めました」
アイリスが選んでいる横で、自分が大人しくそれを見ているだけということがあるはずがない。止められるのかどうかは別として、最後の最後まで抗う道を選んでいたはずである。
「そもそも、どうしてこんなにぴったりのサイズを用意できるんですか」
そこも恐ろしいところの一つだった。渡されたメイド服は、何故かサイズがぴったりだった。大き過ぎて余る部分もなく、小さ過ぎて苦しい部分もなかった。
これまで、アイリスと服のサイズの話をしたことなどない。どんな風に会話が繋がればそんな話題になるのか分からないうえに、知ったところで活かす機会などないからだ。
そう思っていたはずなのに、話していない服のサイズを知られているだけでなく、それを活かす機会までもが生まれてしまった。これを恐れずして、他に何を恐れろというのか。
「だって、葵さんのウェイトレス服って、いつも私が着替えてる更衣室に置いてあるんですよ? サイズなんて、すぐに分かっちゃいます」
「どこにあるのかと思ってましたけど、そんなところに……」
常日頃不思議には思っていた。ある日突然ハンガーラックに現れるウェイトレス服は、一体どこから出現しているのだろうかと。二階のどこかに隠してあるのかと思っていたが、まさかそんな近くにあったとは、これまで考えもしなかった。
「柚子さんが言ってました。たとえ葵さんにばれたとしても、ここなら手出しはできないって」
「何を想定されてるんですか?」
確かに絶対に手出しできない場所だが、そんなところに隠さないといけなくなるようなことをするとでも思われているのだろうか。自分なら、勢い余って捨てるくらいのことはしかねないが。
「と言いますか、アイリスさんは何か悪さをしたりはしてないですよね?」
「……え?」
「え?」
「……何にも?」
「アイリスさん……?」
まさかそんなことはないと思いながらの問いかけだったのに、アイリスの反応はどう見ても何かあった反応だった。一瞬間が空いてから綺麗な笑みを浮かべていたが、その一瞬が問題である。
「何か隠してますよね?」
「いいえ?」
「少しだけ間がありましたよね?」
「悪いことって何だろうなって思っただけですよ?」
首を傾げるアイリス。その目は、とても純粋な色をしていた。それだけを見るならば、嘘を吐いているようには見えない。だが、これまでの経験が警鐘を鳴らす。この反応は絶対に何かを隠している、と。
そんな訳で。
「正直に言ってくれたら、アイリスさんの好きな料理を一つ、今度のお昼に用意しますよ」
「一回だけ着て、ぶかぶかーってやりました!」
効果覿面だった。
「何をしてるんですか……」
「誘惑には勝てませんでした」
胸を張って言うことではない。腰に手を当てなくていい。そんなことをされたところで、気まずい思いをしていることには変わりないのだ。
「いいですか? ちょっと想像してみてください」
「はい?」
「一つ年上の男子高校生のウェイトレス服を着る、女子高校生の姿を」
「……変態っぽいですね!」
「それがアイリスさんです」
「私のは好奇心ですから」
「それはそんなに便利な言葉じゃないです」
何でも「好奇心」の一言で済ませられると思ったら大間違いだ。一度だけあったというその奇妙な状況を背負わせるのは、流石に酷である。
「あ、一品は生姜焼きでお願いします!」
「よくこのタイミングでリクエストできますね」
「前に貰ったのがとっても美味しかったので!」
「……作りますけど」
我ながら単純だった。満面の笑みでそんなことを言われてしまえば、料理好きとしては断ることなどできない。もしくは、単にアイリスに甘いか、だ。
「次に教えてもらうの、それでもいいかもしれないですね……」
「何ウェイトレス服から話を逸らそうとしてるんですか」
「もう着ちゃったのはどうしようもありませんよ?」
「どうしてアイリスさんが強気なんですか?」
普通に考えれば、立場が逆ではないだろうか。何故自分が何かを諦めるように迫られているのか、全く理解できなかった。
「じゃ、じゃあ、代わりに葵さんが私のウェイトレス服を着てもいい、ですよ……?」
「そういうことじゃないんですよ」
弱気を装ってほしい訳でもなければ、代案を挙げてほしい訳でもない。そもそも、アイリスに合うサイズの服を着られるはずがない。
「で、私が葵さんのウェイター服を着ます」
「お客さんが混乱するので、それはやめておきましょう」
「それはそれで面白そうじゃないですか?」
「アイリスさんはあの店をどうしたいんですか?」
商品とは別の方向で話題になってしまいそうな提案だった。少なくとも、若干頬を赤らめながら言うようなことではなかった。
「ま、その辺はまた柚子さんに相談ってことで」
「受け入れられそうで怖いんですけど」
「その時は一緒に写真を撮りましょうねっ」
そんな未来が訪れると信じて疑わない顔だった。先程の料理の話ではないが、こんなに楽しみそうにしている顔を見せられると、途端に断りにくくなる。やはり、単にアイリスに甘いだけなのかもしれなかった。
「でも、とりあえず今はメイドの葵さんです。次は一緒に撮ってもらいましょうか!」
「……今日、無事に帰ることができるんですかね……?」
「お母さん! 撮って!」
「やっと? 待ちくたびれたわよ。何回勝手に撮ろうと思ったことか……」
「その分、これからたくさん撮ってもらうから」
「……無理そう、ですね……」
随分と楽しげな会話を交わす親子二人。その盛り上がりに比例してこれからの苦労も増えていきそうな、そんな気がした。
「……」
「いい写真がたくさん撮れました!」
予想通りだった。盛り上がったアイリスとレティシアが止まる訳がなかった。アーロンですら、一歩引いて眺めているだけだった。こちらを見つめていた目が諦めを促しているように見えたのは、きっと気のせいではなかったのだろう。
「……」
とにかく疲れた。椅子に腰かけたまま、ぼんやりとアイリスを眺めることしかできなくなる程度には。
「疲れきってるね」
「……アーロンさんもよく知ってる人達のせいです」
「ああなった二人は、僕じゃ止められないよ」
そう言って、アーロンが未だに興奮冷めやらぬ様子の二人へと目を向ける。穏やかそうなその眼差しは、家族に向けるものとしては正解なのかもしれない。だが、家族であるというならば、是非とも二人を止めてほしかった。
「それにしても、アイリスが男の子の先輩を家に連れてきて楽しそうにしてるなんて、これまで想像もできなかったよ」
「その先輩にメイド服を着せてるってところは、どう考えてます?」
「逞しく成長したよね」
「それでいいんですか?」
親として成長を喜ぶこと自体は否定しないが、そもそも成長する方向が間違ってはいないだろうか。
「そんな風に言ってるけど、結局葵君もアイリスのお願いを受け入れてくれてるだろう?」
「最近、単に甘いだけなんじゃないかって思い始めました」
「だけってわけじゃなさそうだし、今はそれでいいんじゃないかな」
「はぁ……?」
後輩の父親からの信頼が重過ぎるような気もするが、気にしたところでどうにかなるようなものでもない。どうにもならないが、そこまで信頼されるような姿を見せていない自覚があるので、どうにも曖昧な言葉しか口からは出なかった。
「葵さん!」
「呼ばれてるよ?」
「これ以上疲れたくないです」
「父親としては、娘の悲しんでる姿は見たくないな」
「卑怯ですよ」
「何とでも言うといい。家族に勝るものはないからね」
「……」
「まぁ、葵君もほとんど家族みたいなものだけど」
「いや、それはどうなんですか……?」
にこやかにそう言ってのけるアーロンだったが、そこまでの扱いを受けるのは、流石に気が引ける。家族の記憶がほとんど残っていない自分にとっては尚更。
「はぁ……」
つい先程とは違った意味の息を吐き出す。未だにこちらを見つめるアイリスからは逃れられそうにない。放っておけば、向こうからやってきそうな雰囲気だった。
仕方なく、重い腰を持ち上げる。
「行ってらっしゃい」
そんなアーロンの言葉に、小さく頭を下げる。この状況でありきたりな返事をするのも何か違うように思えたが、だからと言って代わりの言葉は浮かばなかった。
少し離れた場所でレティシアと写真を眺めながら、あれやこれやと盛り上がっていたアイリスの許へと歩み寄る。そのまま声をかけようとして、不意にあることを思い出してふと立ち止まる。
「……」
今日は色々と散々な目に遭った。やたらとフリルの多いメイド服を着せられ、やたらと注文の多い撮影会に参加させられた。そんな仕打ちの仕返しくらいはしてもいいのではないかと、何かが頭の片隅で囁く声がした。
「葵さん?」
急に立ち止まったことを不審に思ったのか、目の前のソファに座ったアイリスの首が傾く。その動きに合わせて、菜の花色の髪がゆっくりと揺れた。
そんなアイリスの様子を見て、あることをより強く意識する。この服を着た自分に言われてみたい言葉があると、そうアイリスが言っていた記憶。あれは確か、体育祭の練習をしていた時の昼休憩のことだったか。
どうせこのままでは、また一方的にからかわれるだけである。それならば、一矢報いるためにもやってしまってもいいのではないか。
そう誘惑する囁きに従って、無駄に両手を体の前で揃え、無駄に外行きの笑みを浮かべる。
「お呼びでしょうか、お嬢様?」
「はぇ……?」
「あら」
リクエストされていたのは、確かこの言葉。一月以上も前の発言だ。アイリス本人も忘れているに違いないと思っていたが、案の定だったらしい。よく分からない声を上げて、そのまま黙り込んでしまった。
一緒にいたレティシアも、これには流石に驚いたようで。いつもよりも少しだけ目を丸くしてこちらを見つめていた。ただし、アイリスと同じその瑠璃色の瞳には、早くも微かな好奇心が宿り始めている気がした。
「どうかされましたか? お嬢様?」
「あ……」
畳みかけるようにもう一度。今度はアイリスの前に膝をついて、やや下から覗き込むように。なかなかな光景になっている自覚はあったが、やると決めた今の自分に羞恥心はない。ここまでしてしまったのなら、徹底的にアイリスを照れさせるのみである。今日の夜に思い出して悶絶するであろうことは、今は考えないことにした。
まだ事態をあまり理解していないアイリスの手を取る。恭しく、そして丁寧に。壊れものを扱うように、そっと。
「えぁ……!」
ようやく理解が追いついてきたらしいアイリスの顔が、これでもかと言う程色濃く染まっていく。
隣ではレティシアがスマートフォンを構える気配がしていたが、今はとにかく目の前のアイリスに集中する。
「何なりとお申し付けください、お嬢様」
「っ!」
小さく肩が跳ねる。握った手に力が込められる。予想もしていなかったであろう反撃に、心が掻き乱されているのが文字通り手に取るように分かる。
右手で取ったアイリスの左手。追い打ちとばかりに、空いていた左手もその小さな手に重ねる。
「ひぁっ……!」
「お嬢様?」
しつこいくらいに、その言葉を繰り返す。一つ一つの言動にはっきりと返ってくる反応。それを見ているうちに、少しだけ楽しくなってしまっているのは否めなかった。どうにもやめ時が見つからない。
「あ、葵、さん……?」
「はい」
「な、何を……?」
「今の『私』は、お嬢様のメイドですから」
一人称もわざとそれらしく変えてみる。微笑みながら、小さく首を傾げるのも忘れない。
「私の……、メイドさん……?」
「そうですよ? 何でも、好きなことをお申し付けください」
「何でも……」
「えぇ。何でも」
「……」
混乱から立ち直りかけているアイリスが、ほんの少しだけ沈黙する。きっと、何を頼むか考えを巡らせているのだろう。本物のメイドよろしく、次なる言葉をじっと待つ。
「じゃ、じゃあ……」
「はい」
やがて何かを思い付いたのか、アイリスがようやくその口を開いた。
「次は……、巫女服を……」
「ごっこ遊びはここまでです」
「なんでですか!」
口調を元に戻す。手も離す。立ち上がる。今がやめ時だった。
「何でもって言ったじゃないですか!」
「常識の範囲で何でも、です」
「葵さんに巫女服が似合うのは常識ですっ」
「着るところが常識じゃないんですよ」
メイド服姿で言っている時点で、恐ろしい程に説得力が皆無の言葉だが。それでも、言わなければならないこともある。
「お母さんだって見たいでしょ? 巫女服姿の葵さん」
「見たいわね」
「お父さんは?」
「見たいね」
「ほら!」
「聞く相手が卑怯です」
この家族に聞けば、満場一致でこうなることなど簡単に予想できる。アイリスもそれを分かったうえで尋ねているはずだ。質が悪いことこの上なかった。
「葵さんが何と言おうと、買ってしまえばこっちのものです」
「無駄になりますよ?」
「もう持ってるってことですか?」
「どんな考え方をしたんですか」
今の発言のどこをどう聞いたら、自分が既に巫女服を持っているという発想に至るのか。一生かかっても理解できる気がしなかった。
「そもそも、この手の服って安くはないですよね?」
「案外そうでもないですよ? それに、ちゃんとバイトもしてますから」
「自分の好きなことに使えばいいじゃないですか。どうして僕のコスプレ衣装に……」
「葵さんを可愛くするのが、私の好きなことです」
「……そうですか」
自信たっぷりの笑顔だった。こんなにはっきりと笑われてしまっては、もう何も言い返せない。
「とにかく、次は巫女服ですね。どうやって葵さんに着せるか考えておかないと……」
「本人の目の前で何を……」
そういった企みは、普通は本人に隠れて進めるものではないだろうか。ここまで大胆に計画を打ち明けられると、それはそれで反抗しにくく感じる。それすらも、アイリスの戦略なのかもしれないが。
「巫女服……。えへ……」
「……」
ただ単に漏れ出しただけの可能性が高そうだった。
「綺麗に撮れてると思わない?」
「顔が真っ赤だし、流石にこれは恥ずかしいかも……」
「最後のだらしない顔がこれ」
「何撮ってるの。葵さんの撮影会なのに」
悪ふざけの間に追加で撮影された写真達。改めて客観的に見直すと、今すぐにでも悶絶できそうだった。
「……何を考えてたんでしょうね、僕は」
思わずそう零す。アイリスに多少のダメージを与えられたらそれでいいと思っていたが、自分へのダメージの方が遥かに大きかった。こうして写真を見返していると、特に。
「とっても似合ってましたよ?」
「あんなに照れてたものね?」
「余計なことは言わなくてもいいです」
全く嬉しくないお褒めの言葉だった。明らかに本気の目をしているところが、正気に戻った心に突き刺さる。
「もう二度としません……」
「えー? そんなことを言わずに」
一度目があったこと自体がおかしいような気がするが、とにかくそう誓う。アイリスが残念そうな言葉を口にしたところで、この決意を変えるつもりはない。
「月に一回くらいなら、私は今みたいな感じでも……」
両手を膝の上に乗せ、少しだけ恥ずかしそうにしながらアイリスが言う。恥ずかしがるポイントがよく分からなかった。
「やりません」
「えー……」
「あんまりメイド服を無理強いしちゃ、葵君も大変でしょ? そこは我慢しなさい」
「お母さんまで? どっちの味方なの?」
決意に従って拒否の態度を示していると、唐突にレティシアが自分寄りの意見を口にした。何でもないような状況であれば味方が増えたと感じたのだろうが、生憎今は何でもない状況ではない。何でもない状況に、メイド服を着た男子高校生がいていいはずがない。
そんな風にレティシアのことを怪しんでいると、再びその口が開いた。
「まあまあ。ちょっと考えてごらんなさいな」
「何を?」
「葵君はね、メイド服は二度と着ないって言ってるの」
「着せるもん」
可愛く言ったところで、着ないものは着ない。
「いいから聞きなさいって」
「だから何?」
「だったら、メイド服じゃなければいいって、そう思わない?」
「メイド服じゃない……?」
「……?」
雲行きが怪しくなってきたことで、徐々に首が傾いてしまう。ちなみに言っておくと、レティシアの顔は最初から怪しげではあった。
「男の人が同じようなことをしたら、その人はどんな風に呼ばれる?」
「執事……!」
顔を輝かせなくてもいい。期待に満ちた目をこちらに向けなくてもいい。
アイリスにそんな表情をさせたレティシアの提案は、案の定まともなものではなかった。
「メイド服を着るよりは着てくれそうじゃない?」
「メイド服と執事服、どっちが着たいですか!?」
「普通の服で」
この上なく正直な回答だった。これが童話なら、メイド服と執事服の両方を貰えていそうな程である。追加で正直に言うならば、どちらもいらないが。
「さっきの台詞も、どっちかって言うと執事姿で言われたかったんじゃない?」
「ひぁぁ……!」
「随分可愛い執事さんになると思わない?」
「葵さんが……、私の執事さん……!」
「身の危険を感じるんですけど」
もし実現してしまえば、何をされるか分かったものではない。何を「させられるか」という表現の方が上手く当てはまる可能性も、ないとは言いきれない。
「大丈夫ですよぉ……。何にもしませんから……。えへへ……!」
「絶対に嘘じゃないですか」
その緩みきった顔を見せられたうえで今の言葉を信用できる人間は、間違いなくこの世にはいない。それほどまでに分かりやすい、絶対に何かを企んでいる顔だった。
「執事服って、男の人の服じゃないですか? じゃあ大丈夫ですよね……」
「気にしてるところはそこじゃないんですよね」
着る服が問題なのではなく、アイリス本人が問題なのだ。そこに本人が気付く日は、果たして訪れるのだろうか。
「……うん! 次の期末は執事服で、巫女服は季節に合わせてお正月にしましょう!」
「どうして話が進んでるんですか」
誰も返事をしていないのに、アイリスの中で勝手に結論が出ていた。色々な過程が抜け落ちていて、暴走状態ここに極まれりといった様子である。
「葵さんにぴったりなの、選んでおきますからね!」
「……」
最早何を言っても止まらない。大人しく諦める以外の選択肢が、どこにも見当たらなかった。




