61. 隣にいる時間
九月十六日、土曜日。ここしばらくは体育祭の練習があって、Dolceria pescaを訪れることがなかった。今日は久しぶりの出勤となる。
「おはようございます!」
それは、一足先に裏口の扉を開いたアイリスも同じ。元気よく挨拶をするその背中を追って、バックヤードへと足を踏み入れる。
「あれ?」
「いませんね」
いつもなら大抵太一か柚子の返事があるはずだが、今日はそのどちらもなかった。たまにある、二人揃って忙しいタイミングなのだろうか。アルバイトとして出勤するのは午後からだが、店自体は午前から開いている。午前はそこまで忙しくないとは聞いていたものの、今日は例外だったのかもしれない。
「しばらくしたら戻ってくるはずですし、先に準備しておきましょうか」
「はーい」
果たして、二人はどこにいるのか。キッチンにいるのならアイリスの声が聞こえていても、手が離せない状況ということになる。もしくは、片方が店内で接客をしているという可能性も考えられる。
「あ、今日は普通の服が……」
「何でちょっと残念そうなんですか」
アイリスの視線の先。二人分の制服が掛けられているハンガーラックには、男女の制服が一対となって存在していた。
「今日はどうなのかなって思ってたので」
「そう考えること自体、異常なことなんですけどね」
一緒に出勤した男子高校生が、今日はウェイター服とウェイトレス服のどちらを着るのか。それは、この世に存在していい疑問ではない。
そう考えていると、二階へ続く階段から足音が聞こえてきた。
「おはようおはよう。ごめんね、すぐに来られなくて」
申し訳なさそうに言いながら下りてきたのは柚子だった。
「おはようございます」
「おはようございますっ」
二人して一度頭を下げる。
「ここに誰もいないのって珍しいですよね? 今日は忙しいんですか?」
アイリスがそう尋ねる。今日の自身の仕事にも関わってくるので、あらかじめ確認しておきたかったのだろう。
「あぁ、違うの。私が上に忘れ物をしたから、それを取りに行ってただけ。お客さんの方は今日もいつも通りね」
「だったら安心です。ちょっと身構えちゃいました」
「すっかり成長しちゃったアイリスさんなら、多少忙しくても大丈夫でしょ?」
「はいっ。もう何でも来い、ですよっ!」
胸を張って答えるアイリス。その顔には、数か月前には見られなかった自信がありありと浮かんでいる。
そんな訳で。
「あ、じゃあ、今日はアイリスさん一人で大丈夫ですね。それじゃあ、僕はこれで」
「わぁ!? 冗談です! 葵さんも一緒にお願いします!」
そう言って踵を返そうとした瞬間、自信がありそうな表情から焦燥の表情へと早変わりを見せたアイリスに腕を掴まれた。
アイリスが働き始めてから早五か月と少し。どんな業務もそつなくこなせるようになったアイリスなら、一人でも何の問題もないだろう。何も慌てる必要などないはずだ。
もちろん、踵を返そうとしたのは冗談でしかない。最初から決まっているシフトをいきなり取り消すようなことはしないつもりだが、それにしてもアイリスが腕を掴む強さがいつもより強いような気がした。
「いや、帰りはしないですけど」
「ですよねっ。葵さんはその辺、しっかりしてますもんねっ」
「誰目線ですか?」
安堵したように言うアイリスの目線は、少なくとも後輩目線ではなさそうだった。
「今葵君が帰っちゃったら、今度こそ間違えてウェイター服を全部捨てちゃうかもね?」
「絶対に帰りません」
柚子の一言は、何よりも強力な脅し文句だった。それだけは何としても阻止しなければならない。実現してしまえば、今後の自分の精神に多大な影響を及ぼす可能性が高かった。
「あ、そういえば、今日の葵さんの制服はこっちなんですね」
「そうなの。間違えずにクリーニングしちゃったから」
「どうしてちょっと悪いことみたいに言うんですか?」
それが絶対的に正しいはずなのに、柚子からは「間違えてしまいたい」という欲が漏れ出していた。厄介過ぎる欲である。
「ウェイトレスの回数を毎月ちょっとずつ増やしていけば、案外ばれないんじゃないんですか?」
「それを本人の前で言いますか」
「それもちょっと考えたんだけどね? やっぱり回数が少ない方が、レア度が増すでしょ?その方が、お客さんとしても嬉しいんじゃないかって」
「考えたんですね。思い留まってくれてよかったです。理由は複雑ですけど」
「だったら、毎回とまでは言わないですけど、月に二回か三回くらいなら……」
「毎回着せようとしてたんですか?」
「そうねぇ……。確かにそのくらいなら、珍しさは保てるかも……?」
「考えなくていいんですよ」
まだアルバイトの時間は始まってすらいないのに。客の入りはいつも通りだと言っていたはずなのに。何故か既に忙し過ぎる。この世で一番必要のない議論を止めるのに全力だった。
「とにかく、月一回が限界です。それ以上は着ませんから」
「……一回は着てくれるんですね」
「普通は『一回も着ない』って言うところだと思うわよ?」
「あ……」
指摘されて、初めて気付く。何も疑問に思うことなく、一回なら着るという宣言をしてしまっていた。
「しっかり染まってきてますね、葵さん!」
「ちょっと押したら、二回か三回も認めてくれそうね」
「うっ……」
何故か嬉しそうなアイリスと、本気で考え始めてしまった柚子。自分で発した言葉が原因なだけに、二人に対して何も反論することができないのだった。
「あ、今日はウェイトレスじゃない」
「お帰りはあちらです」
「待って待って、待ってください」
「あ、その前に、一瞬で何かを買ってから帰ってください」
まだまだ日は高いものの、それでも少しだけ傾き始めた夕方頃。近くの中学に通う、いつもの女子生徒がやってきた。一年半前にここで働き始めてから、一番多く接した相手と言っても過言ではない。
そんな彼女が、着ているウェイター服を見て開口一番にそんなことを呟いていた。それならば、こちらの対応も自ずと決まる。買うものを買ってもらって、即刻帰ってもらうのが理想的だ。
「きっちり商品は売るんだ」
「売り上げには貢献しないといけないので」
「真面目だ……」
「そんなわけで、早いところ選んでしまいませんか?」
「わぁ……、ほんとに帰らせようとしてる……」
これだけ砕けた接客ができるのも、相手が常連だからだろう。初めて来店した客に対しては、流石にこうすることはできない。
向こうもそのことを分かっているのか、別段咎めるような雰囲気もない。客との距離が近いことの証明でもあった。
「実際のところ、どうなんですか?」
「どう、とは?」
「ウェイトレスの格好するようになってから、お店は儲かってるのかなーって」
「……少しだけ、売り上げが上がったそうです」
「はぇー……。ちょっとだけ売り上げを改善した女ってことですか……」
「男です」
以前、柚子から聞いた話だ。最近、売り上げが少しずつ増えているとのことだった。それが自分の女装姿の影響とは思いたくないが、どうやら太一や柚子の考えは違うらしい。
「葵さんのウェイトレス姿を見たくて、店に通う回数が増えたから、ですかね?」
「……一日ごとの売り上げを見せられて、ウェイトレスの日はよく売れるから効果はあるって説得されました」
「おぅ……」
わざわざそんなデータまで持ち出して柚子に力説された時の虚無感は、間違いなくこれまでに感じたことのないものだった。その時のことを思い出して目が虚ろになってしまっていたのか、カウンター越しの彼女も、流石に引きつったような笑みを浮かべていた。
「でも、葵さんがいつ着るかなんて、誰にも分からないですよね?」
「そうですね。僕も知らないので」
知っていた方がいいのか、知らないままの方がいいのか。どちらにもメリットとデメリットがあり、一概には決めることができなかった。そもそも、こんなことで悩みたくないということもあるが。
「じゃあ、別にたまたまその日の売り上げがよかっただけって可能性も?」
「お客さんの一部で情報が共有されてたとしても、ですか?」
「え?」
「僕が何を着てるのか、そこで情報が流されてたとしても、ですか?」
「……」
地域密着型の店である弊害のようなものだった。つまりは、客同士の仲が良いのだ。それこそ、そんな情報が共有されてしまう程度には。
ちなみに、その情報網の存在は、まさにその常連客の一人から教えてもらった。どうせばれたところで、情報を共有することには変わらないとも言っていた。言われるまでもなく、自分からそこに手出しすることはできない。
「苦労してるんだね、葵さん……」
「分かってくれましたか?」
「うん。大変そうだから、ちゃんと私の学校の友達にも宣伝しておきますね」
「何を理解したんですか?」
納得したように何度か頷いていたのに、話の前後が何も繋がっていなかった。何も理解していない。
「だって、売り上げが伸びなかったら、ただただ葵さんがウェイトレス服を着るだけですよね?」
「一番考えたくない事態ですね」
「だから、少しでもそこに貢献してあげようかと……」
「余計な心配はしなくてもいいです」
「自分だけで売り上げは伸ばせるからって……?」
「そういうことを言ってるんじゃないんですよ」
引き続き、何も理解してくれない。厄介な時のアイリスを相手にしているような感覚だった。
「あ、そっか。自分だけじゃないってことですか?」
「はい?」
「アイリスさん目当てもいますよね。絶対に」
「あぁ……」
そう口にする彼女の目が、カフェスペースで接客をしているアイリスに向けられる。釣られて自分も目を向けてみれば、今日も今日とてウェイトレス服に身を包み、元気にあちこちを動き回るアイリスの姿がそこにあった。
「確かに、春から売り上げは伸びてましたね」
それもまた、柚子から聞いた話。いつか自分達がアルバイトを辞める日が来るのが怖いとも話していた。
「やっぱり」
「ちなみに、男性のお客さんも少し増えました」
「……やっぱり」
「それも、中学生くらいの」
「……うちの?」
「でしょうね」
それまではなかなか珍しい部類だった客なので、増えたことが分かりやすかった。増え始めたタイミングからして、どう考えてもアイリス目当てだろう。
「まぁ、仕方ないですよね。同じくらいの歳で、あれだけ可愛かったら人気も出ますって」
「僕が接客をすると、露骨に落ち込みますしね」
「いい度胸してるなぁ……」
「でも、ウェイトレス姿の僕が接客をすると、それはそれでちょっと嬉しそうでした」
「多感な男子中学生を惑わせて、何が楽しいんですか?」
「何も楽しくないですけど?」
自分も困惑するだけだ。登場人物のほとんどが得をしていない。
「呼びました?」
「呼んではないですけど、話はしてました」
そんな話が本人に聞こえたのか、はたまた自身の名前が聞こえたから反応しただけなのか、接客を終えたアイリスが軽やかな足取りでカウンターへと戻ってきた。
「はい?」
「アイリスさんって可愛いよねって話」
「はい?」
「うちの学校の男子が増えたんだって、お客さんに」
「え……?」
真偽を問うように、戸惑ったような瞳を向けられる。だが、データまで見せられた疑いようのない事実なので、肯定の意味を込めて軽く頷いておいた。
「本当ですよ」
「喜んでいい、んですかね……?」
「喜んでいいんじゃない? 自分目当てのお客さんがいるなんて、そうそうないことでしょ」
「それはそうだけど……」
今まで意識していなかったことを突然言われても、といった心情だろうか。どう反応していいのか分からなくなっているらしい。迷子になった感情を表すかのように、瑠璃色の瞳が微かにふらふらと揺れていた。
「あれ? あんまり嬉しくない感じ?」
「んー……? まぁ、誰にでもそう思われたいわけじゃないから……」
そこで言葉を切り、ちらりと目を向けてくるアイリス。
そこでどうして自分を見たのか。タイミングもあって、その答えが分からない程鈍感である自覚はない。
「今日も可愛いと思いますよ」
「あ……。えへへ……!」
やはりそれを求めていたのか、困惑していたアイリスが一気に破顔する。碧依や莉花辺りが見れば、次の瞬間にはその腕の中に収めていそうな笑顔だった。
「はっきり言いますね?」
「こういうことは、はっきり伝えた方が喜ばれますから」
「その結果がこの蕩けきった顔でも?」
そう言ってアイリスを指差す。指差された先にある頬は、緩みに緩んでいた。
「……いいんじゃないですか? 本人が望んでましたし」
「葵さん、そういうところありますよね」
「何が言いたいんですか?」
「何でもー?」
どう見ても何でもない表情ではなかったが、本人に言う気がないのであれば仕方がない。わざわざ聞き出す程のことでもないだろうということもある。
「あっ、そうだ、葵さんも可愛いですよ!」
「そういうことは伝えてくれなくていいです」
「大事なことですっ」
先程よりも少しだけ頬の形を戻したアイリスが、何も嬉しくないことを伝えてくれた。この世には、心の内に秘めておいてもらいたい感想というものもある。その感想を抱くなという段階は諦めたので、せめて内に留める努力だけは見せてほしい。
「まぁ、ウェイター服を着てても、ちょっと戸惑いはするよね」
「そう! 最近はどの葵さんも可愛く見えて仕方なくって……!」
「末期じゃないですか」
そう言いながら、目を輝かせるアイリス。その姿を見ていると、アイリスはいよいよ辿り着くところまで辿り着いてしまったのかもしれないという考えが浮かんでくる。叶うのならば、辿り着いてほしくはなかった。
「だって。頑張ってね、葵さん」
「何を?」
「何かを」
最後にそんな中身のない言葉を残して、彼女が去っていく。
帰り際に焼き菓子を買っていってくれた辺り、本当にいい常連客だった。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様でした!」
「うん、お疲れ様。気を付けて帰ってね」
太一のそんな言葉を受けてから、裏口の扉を閉める。
今夜は薄曇りなのか、いつもよりも月明りがやや控えめだった。夏休みよりはほんの少しだけ涼しくなった帰り道を、アイリスと二人で並んで歩く。そのアイリスの手には、小さな紙袋が提げられていた。
中に入っているのは、身も蓋もない言い方をしてしまうと「売れ残った焼き菓子」である。
「たまにこうやって残ったのを貰えますけど、これはこれで大変なんですよね……」
「どうかしました?」
そう呟くアイリスの表情は、どこか複雑そうなものだった。決して嬉しくない訳ではないが、思うところもあるといったようなものに見える。
「美味しいじゃないですか、これ」
「ですね。だからお店が続いてるわけですし」
「でも、焼き菓子って、カロリーお化けなんですよね……」
「あぁ……」
「それ以上何か考えたら、メイド服もナース服も着てもらいます」
「アイリスさんから言ってきたのに」
アイリスが何を言いたいのかを理解して、思わず納得の声を漏らしただけである。たったそれだけのことなのに、アイリスから放たれる圧は、過去に体験したことがない程のものだった。
「普通に細いのに、何を気にして……」
「油断するとすぐですからね? 葵さんも気を付けるといいですよ」
「実体験みたいに説得力がありますね」
「巫女さんの服も着たいって言いました?」
「僕は何も言ってません」
「ですよね」
脅し文句が特殊過ぎる。よくもそこまで即座に服のバリエーションが浮かぶものだ。ここまで流れるように出てきたとなると、きっと普段からそんなことばかりを考えているのだろう。自分としては何も嬉しくない。
「女の子は色々大変なんですよ?」
「僕は男なので、その辺はあんまり……。男なので」
「どうして二回言ったんですか?」
強調しておかないと、すぐに忘れられそうだからだ。とても悲しいことに。
「……それに、ちゃんと可愛く見られたいですし……」
「ちゃんと可愛いと思いますよ」
「なんで聞こえてるんですかっ!」
「えぇ……?」
田舎の静かな住宅街の中だ。この先にある河川敷ならまだしも、ここで、しかも隣を歩くような距離なら、大抵の声は聞こえる。
それこそ、目を逸らしながら小さく呟いたような声であっても。
「こういうのは聞かなかったことにするものじゃないですかっ」
「僕は何も聞いてません」
「今更遅いんですよ! でも、可愛いって言ってくれたのは嬉しかったです!」
アイリスの感情が迷子だった。ころころと変わる表情が実に忙しそうである。
「だからって、無理はしちゃだめですからね?」
「う……」
「不健康なアイリスさんは見たくないです」
「気を付けます……」
何か思い当たる節があるのか、途端にアイリスの歯切れが悪くなる。勝手な想像だが、不健康になりそうなダイエットでもしたことがあるのかもしれない。
「葵さん、あんまり運動してないのに細いですよね……」
そして、羨ましそうに自分の腰辺りに視線を投げかける。男女で腰回りを比較しても仕方がないと思うのは、自分だけなのだろうか。
「確かに運動は少ないですけど、食べる方はちゃんと考えてますからね」
「考える?」
「自分で作ってるので。どれくらい食べるとか、栄養がどうとか」
「そこまで考えて自炊してる高校生って、多分ほとんどいないですよね」
「まぁ、そういうのに向いてる、向いてないってこともあるでしょうから」
そういう意味では、随分と得な性格をしているとは思う。見る人から見れば、面倒なことを考えているとも捉えられるのだろうが。
「ってことは、私が葵さんに教われば……?」
「やたらと遠回りを選びますね?」
思案顔のアイリスだが、料理を教わるのであれば、もっと身近に適任がいるだろう。まずはそちらを頼るべきではないだろうか。
「そうすれば、葵さんを家に引き込むことができて、お父さんとお母さんも喜ぶ……?」
「危ないですね。遠慮しておきます」
「え……。じゃ、じゃあ、私が葵さんの家で……?」
突然アイリスの発想が飛躍した。何を考えているのかは知らないが、うっすらと頬が赤くなっている。そんな様子でこちらを見上げてくるのだから、心臓に悪いことこの上ない。
「そ、それはまだ、ちょっと緊張するというか……」
「レティシアさんに教えてもらったらどうかって言ってるんですよ」
ここに至ってもどうにも意図が伝わらないので、結局直接口にすることになった。やはり、考えていることをはっきりと言葉にすることは大事だ。
「で、ですよねっ。当たり前、でした……。あはは……」
間違いなく言われて初めて気付いたアイリスが、恥ずかしそうに赤くなった頬を掻く。そんなタイミングで雲の切れ間から顔を覗かせた月が、困ったように笑うアイリスを照らし出していた。
「お母さん……。お母さんに教えてもらうのも、大変といえば大変なんですよね……」
「そうなんですか?」
「お母さんは色々感覚派でした」
「あー……」
それは確かに、教わる側からすれば大変なのかもしれない。特に、教わり始めたばかりの頃であれば、手順が決まりきっている方がやりやすいという意見もあるだろう。どうやら、困ったように笑うアイリスもそちら側のようだった。
「体育祭の時、葵さんにも食べてもらったじゃないですか」
「唐揚げと玉子焼き」
「そうですそうです。あれを作る時も大変だったんですから」
その時のことを思い出すように、自身を照らす月を見上げながら、アイリスが不満を漏らす。
「調味料は全部『これくらい』って言われましたし、玉子焼きを巻く時も『がっと巻く』って言われました」
「……」
ついていく難易度が高そうな教師役だった。もしかすると、ある程度は料理ができると思っている自分ですら難しいかもしれない。
「やっぱり、葵さんに教えてもらうしか……」
「今の時代、色々な本とかもあると思うんです」
「私は、葵さんに教えてもらいたいんです」
そう言って再びこちらを見上げてくるアイリスの瞳は、月の光を受けて、いつもよりも静かな輝きを放っていた。
ほんの少しの間その瞳に見惚れてしまったことを隠すように、二人の名前を口に出す。
「……結局、アーロンさんとレティシアさんがネックなんですよね」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、ですよ」
「僕は何を得るんですか?」
何も得られなければ、それはただ虎の住んでいる穴に入っただけの危険行為でしかない。そうなってしまうことだけは避けたかった。
「お父さんとお母さんからの好感度、とか……?」
「自分で言うのもあれですけど、それは多分もう手に入れてます」
「ですよね」
納得したように、アイリスが呟く。実の娘の目から見ても、既に好感度は手に入れているという認識らしい。それが喜んでいいことなのか、今の自分には判断ができない。
「ま、その辺は私がお父さんとお母さんを説得するってことで」
「どうやって?」
「変なことを言ってきたら、もう葵さんの可愛い写真は見せてあげないってことで」
「今まで見せてたってことですし、どうしてそれで説得できるんですか」
これで解決と言わんばかりに自信満々なアイリスだったが、色々と問題しかない解決策だった。
「写真は、他の人には見せるつもりなんてなかったんですけど、家族にならいいかなって」
「それ、まだ続いてたんですか」
「最近はお母さんから催促されてます」
「もしかして、メイド服って言い出したのは……」
「それもあります」
恐る恐る切り出した想像が、残念ながら肯定されてしまった。これも叶うのであれば否定してもらいたかった想像だったのだが、やはり現実はそう上手くは進まないということだ。
「とにかく、どうにかなったらまたお話をするので、考えておいてくださいね!」
「……どうにかなるのも、それはそれで怖い気もしますけどね……」
本当に今言ったことを交渉材料にするのか。それとも別の方法で立ち向かうのか。いずれにせよ、何も聞かない方が精神的にはいいのかもしれなかった。
「あ、それで思い出しました」
「今度は何ですか」
「前に言ってた、お昼を一緒に食べてみたいってお話ですけど」
「そういえば、そんな話もしてましたね」
「来週から、たまにお邪魔しますね?」
「本当に?」
「ほんとです」
切り出し方がやや不穏なもので若干身構えていたが、これまでの話の流れからすれば、幾分か穏やかな話題ではあった。色々と賑やかになりそうな宣言ではあったが、アイリスがそう決めた以上、自分から止めるようなことはしない。
そんな自分の態度から肯定の意思を感じ取ったのか、アイリスの顔には柔らかな笑みが浮かぶ。またもや雲に隠れてしまった月の光がなくとも、その顔は十分に明るく輝いていた。
アイリスがそんな宣言をした休みが明けた、九月十八日、月曜日。その昼休み。
言葉通り、本当にアイリスが二年生の教室までやって来た。
「ほんとに来た……」
「たまにって言ってたのに、いきなり来るんですね」
「善は急げって言いますから」
「善だといいですね?」
週末にそんな話をしたと、悠、碧依、莉花の三人には一応伝えておいた。昼の時間を共にすることが多い三人にも、少なからず関係のあることだと思ったからだ。
それでもどこか半信半疑だったらしい莉花が、宣言してすぐの来訪に驚きを示していた。どうして半信半疑だったのかは、容易に想像できる。
この教室には、アイリスが天敵と公言している相手がいるからだ。つまり、莉花本人と碧依が、その驚きの根底にあるものだった。
「大丈夫です。葵さんが私に善を運んできてくれますから」
「何を言ってるんですか?」
アイリスの言葉の意味がよく分からなかった。だが、アイリスはそんな返事を気にする様子もなく、近くの椅子の背もたれに手をかける。
「ここの椅子って、使っても大丈夫ですか?」
「大丈夫なんじゃない? お昼休みはいっつもいない人のだし」
アイリスの問いに答えたのは碧依。周囲の生徒のことをよく見ているからこその答えだった。その席の生徒が昼休みの間不在にしていることなど、自分はこれまで気付きもしなかった。
「じゃあ、失礼しますね」
そう言って、持っていた弁当箱を当たり前のように自分の机の上に置いたアイリスが、当たり前のように隣に椅子を移動させて腰を下ろす。
「えー……。こっちに来てくれると思ってたのに……」
「どうして湊君と取り合って、水瀬さんの方に来てくれるって思ったの……?」
「そこはほら、女の子同士だし」
「そもそも取り合ってないんですよね」
アイリスが勝手に近付いてきただけの話だ。そこに自分の意思は一切挟まっていない。
「取り合われる前に、私から葵さんの方に行きます」
「だってさ。残念だったね、碧依」
「相手が渡井先輩でも同じです」
「だってさ。残念だったね、莉花」
「……」
「……」
「ほんとに好きだよね、そのやり取り」
どこか呆れたように、悠が言う。そう言われてみれば、確かに何度か耳にしたことがあるようなやり取りだった。これだけ近しい相手のことなのだから、もっと意識して話を聞いた方がいいのかもしれない。
「ま、正直勝てるとは思ってなかったけどね」
「え?」
「え?」
「……」
「……」
「……」
沈黙が一人分増えた。先程は呆れながらも突っ込み役を果たしていた悠の分だ。
「え、碧依、本気だったの?」
「うん」
「嘘でしょ……?」
「何でそんなに驚いてるの?」
「好感度で勝てると?」
「最近はまたちょっとずつ稼いでたし、そろそろいけるかなって」
信じられないものを見るような目で莉花に見つめられながらも、碧依がやや自信に満ちた表情でそんな言葉を返す。その後の視線の向かう先は、当然アイリスである。
「らしいですけど、アイリスさん的にはどうです?」
「マイナス方向に稼いでたんですか?」
「わぁ……」
「どんな感情よ、それ」
一瞬にして、碧依の自信が崩れ去った。それほどまでに、アイリスの一言に威力があり過ぎた。
「絶対値だけ取れば、湊君の次くらいかもね」
「好感度の絶対値って何ですか?」
碧依を慰めようとする悠によって、謎の言葉が生み出されていた。好感度の絶対値を取る意味とは一体。
「碧依先輩も渡井先輩も、普通にしてればいい先輩なのに、いっつも言動がおかしいんですもん」
「言動が……」
「おかしい……」
「あ、巻き込まれた」
碧依のことをフォローしようとしたアイリスの言葉は、莉花を巻き込んだ範囲攻撃でしかなかった。見事に二枚抜きである。
「って、そんなことはいいんです」
「アイリスさんがとどめを刺したんですけどね」
「何か?」
「何でもないです」
虎の子はやはり虎なのかもしれない。この手の話題でアイリスを刺激するのは、あまり得策ではないらしかった。
「今日も、ちょっとだけお手伝いしてきたんですよ」
そう言いながら、アイリスが持ってきた弁当箱の蓋を開ける。いくつか並んだ料理の中で、明らかにアイリスの手が加わっていると分かるものがあった。
「玉子焼き」
「ですっ。慣れてきちんと巻けるようになるまで、毎日頑張ってみることにしました!」
ほとんどの料理が綺麗に整列した弁当箱の中、件の玉子焼きだけが、どこか歪な形で並んでいた。土曜日に見た時よりも整っているようにも見えたが、周囲と比べてしまうと、どうしてもそれだけが浮いたようになってしまっている。
「それまで、たまにこうやって葵さんに味見をしてもらおうかと」
「それは大丈夫ですけど、玉子焼きなんて、特に好みが分かれるものじゃないですか。それでもいいんですか?」
「大丈夫です。……むしろ、葵さんの好みを教えてもらえれば……」
「ちょっと甘め、です」
「だからっ! 何で聞こえちゃうんですかっ!」
「隣に来たのはアイリスさんじゃないですか」
「そうですけどっ!」
いくら教室の中が昼休み特有の喧噪に包まれていても、この距離でアイリスの声を聞き逃すはずがない。そこはアイリスの選択ミスである。
「ちょっと甘めっ……!」
「そこは覚えて帰るんだね」
「何がしたいんでしょうね」
何故かむっとしたような表情を浮かべた後に、またしても何故か気合いが入ったような表情で復唱するアイリス。見ている限りでは、落ち着きというものが皆無だった。
「……葵さんのは綺麗に巻いてありますし」
「慣れてますから」
そうして落ち着かなかったアイリスの視線が、ある一点に注がれる。アイリスに続いて自分が開けた弁当箱。その中の黄色。
「何かコツってあるんですか?」
「コツ……?」
そう言われても、何度も練習するうちにできるようになったとしか言い様がない。ないが、上達を目指しているアイリスに一つだけ言えるとすれば。
「焦らないこと、ですかね」
「焦らない……?」
恐らく、アイリスは技術的なことを言われると思っていたのだろう。だが、そこに精神的な話をされて、思わずといった様子で首を傾げている。
「えぇ。少なくとも、僕は焦って巻いて上手くいったことなんてないです」
「でも、早くしないと焦げちゃいません?」
「最初は多少焦がしたっていいじゃないですか。焦げて上手く巻けなくなるところまで綺麗に巻いて、次はもう少し先まで巻けるようになればいいんです」
「でも、それだと葵さんに食べてもらう分が……」
料理を他人に教えたことがないので上手く説明はできないが、拙い説明でもアイリスには伝わってくれたようだった。それでも、まだアイリスは不安の色を覗かせる。
「そんなことは気にしなくていいんですよ。アイリスさんが頑張って作った料理なら、多少焦げていようが、僕は食べますから」
「……っ」
誰かに食べてもらうために作るのだから、できるだけ上手にできたものを披露したい気持ちはよく分かる。だからこそ、こうして意思表示をしておくのが大事だった。
「じゃ、じゃあ! もっと……、頑張ってみます……」
「えぇ、楽しみにしてますね」
少し俯き加減で、アイリスがか細く零す。何故か耳まで真っ赤だった。
「で、でも、葵さんの玉子焼き、ほんとに綺麗ですよね」
そんな自身の様子を誤魔化すためなのか、変わっているようで変わっていない話題を口にするアイリス。その視線は、再び弁当箱の中の黄色に向けられている。
「聞きたいんですか?」
「え……?」
「あんまりおすすめしませんけど、理由、聞きます?」
「き、聞きます……」
恐らくは恥ずかしさを誤魔化そうとしただけなのに、何か不穏なものをぶつけられたアイリスの顔に、今度は怯えの表情が浮かぶ。
「僕がどこで料理を覚えたかって話は、前にしましたよね?」
「あ、はい。お祭りの時に、ですよね」
「それです。じゃあ、もう何が言いたいのかは分かるはずです」
「子供達……!」
そこまで言っただけで、アイリスも自分が何を言いたいのかは理解したようだった。要は、玉子焼きもまた、上手く作れるようになるまで突き返され続けたという話である。
「半泣きで玉子焼きを作ってました」
「葵さん……!」
慰めようとしてくれているのか、手を軽く握って頷いてくれた。自分のものよりも一回り小さなその手が、今は何よりも温かい。
「そんなわけで、必要に迫られると、人は大抵のことができるようになるって話でした」
「わ、私はもうちょっとゆっくり上達したい、です」
「あ」
「なっ、なんですか? 厳しいのは遠慮……」
「もうその話じゃないですから。怯えなくていいですって」
自分が漏らしたたった一文字で何を想像したのか、アイリスの体が僅かに引いたような気がした。
「これからも作ってくるなら、先に教えてもらっていいですか?」
「え?」
「貰ってばっかりなのも気になりますし、僕も何か作ってきますよ」
「いいんですか!?」
一気にアイリスの興奮度合いが跳ね上がった。引いていた気がする体も、何なら先程よりも近付いている。
「え、えぇ……」
甘い香りが少しだけ強くなる。今度は自分が体を引いてしまった。
「約束ですよっ!?」
「分かりましたから。落ち着いてください」
「葵さんの手料理……!」
感情を喜び一色に染めたアイリス。その頬は、はっきりと分かる程に緩んでいた。思った以上の反応で困惑してしまったが、ここまで楽しみにしてくれるのは悪い気はしない。気が早いのは分かってはいるけれども、それでも何を作ろうかと考えてしまうのは止められなかった。
「完全に空気になってるね、羽崎君」
「気にしてないよ。何か邪魔しちゃだめそうな雰囲気だし」
「頑張ってるもんね、アイリスさん」
久しぶりに聞いた気がするアイリス以外の声。そう言ってアイリスを見つめる碧依の眼差しは、「いい先輩」と評されるのも頷ける、どこか優しげなものだった。




