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60. イベリス (5)

「最初と二つ目のお題はどんな感じだった?」


 競技を終えて帰ってきたアイリスに、紗季がそう問いかける。廃棄したお題は本人にしか分からない以上、気になるのは当然のことだった。


「最初は『十代、現役、看護師』」

「いいお題を引いてるじゃないですか」

「どこがですか」

「絶対にクリアできないお題を一つは体験しておかないと。この競技をすんなり終わっても、何も面白くないですからね」

「どうせそんなことだろうと思いました」


 去年のことを思い出しながら適当に口にしたところ、アイリスに呆れたような目を向けられてしまった。どうやら、これだけではこの競技の醍醐味は伝わらなかったらしい。


「惜しかったね。中間の後なら、ここに十代の看護師が爆誕してたのに」

「生まれるのはメイドさんに決まってるじゃないですか」

「だって、湊君」

「……」


 碧依の言葉に、惜しい点など一つもなかった。だというのに、その目付きは真剣そのもの。自身の発言を信じて疑わない者の目だった。


 そして、それはアイリスも同じ。両者一歩も引かない、正面からのぶつかり合い。何故か巻き込まれている身からすれば、迷惑なことこの上なかった。


「あ、葵さんのメイド服姿……」

「何を想像してるんですか」


 アイリス自身が発した言葉に、アイリス本人が一番影響を受けていた。それはもうだらしのない顔で、頬を赤らめている。自分が妄想の中で何をさせられているのかは分からないが、できれば妄想の中で完結させておいてほしい。具現化するべきでないものも、この世にはあるということだ。


「えへ……」

「このだめそうな後輩は放っておいて、僕達は向こうにでも行きましょうか」

「あぁ!? 冗談です! あ、いや、メイド服は冗談じゃないんですけどっ」

「全部冗談でいいんですよ」


 何なら、そこが一番冗談であってほしかった。もう叶わない願いだと、痛い程理解はしているのだが。


「すっかり本調子だね」

「ですね。月曜からさっきまでのが何だったんだってくらい、いつも通りです」

「ちょっと背中を押し過ぎちゃった気も……?」

「いいんじゃないですか? 楽しそうですし」

「ま、それもそっか」

「あれが本調子で楽しそうって、二人はそれでいいの?」

「僕は楽しくないんですけど」


 アイリスの陰に隠れて好き勝手言う碧依と紗季。本調子に戻ってくれたことは確かに自分にとっても歓迎するべきことだが、だからと言って、こんなやり取りを歓迎した覚えはない。


「私は楽しいです。しばらく葵さんとまともにお話しできなかった分、全部爆発させますよ!」

「面倒なのでやめてください」

「面倒って何ですか」

「そのままの意味です」


 じっとりとした目でアイリスが見つめてくるが、別段変わった意味など込めていない。純粋に後始末が面倒なので、爆発は遠慮しておきたいというだけだ。


「ってことは、葵さんが面倒って思わなくなるまでにしちゃえば……」

「人はそれを『洗脳』って言うんですよ」


 物騒な言葉ではあるが、これ程綺麗に当てはまる例もそうそうないだろう。どうしていちいち発想がその方向へ向かってしまうのかという部分が、アイリスの理解できないところの一つだった。


 もちろん、一番分からないのは、事あるごとに可愛い服を着せようとしてくるところである。


「噛み合ってないね」

「噛み合ってませんね」


 隣では碧依と紗季がそう漏らしていたが、その言葉の真意は掴めなかった。どうも、二人の間にはそれで通じる何かがあるらしい。


「噛み合っていようがいまいが、どっちでもいいです。そんなことより、二つ目のお題は何だったんですか」

「あ、逃げた」

「噛み合ってない方が、後から絶対に大変な目に遭うんですけどね」

「は……?」


 面倒なので流そうとしていたところで、何か聞き捨てならないことを紗季が呟いた。何やら不穏な雰囲気を伴う発言だったが、紗季は一体何を知っているのだろうか。


「何か知ってるんですね?」

「二つ目はですね……」

「アイリスさんは少し静かにしててください」

「葵さんから聞いてきたのに!」


 二つ目のお題よりも、今はもっと聞かなければならないことがある。自らに降りかかる火の粉は、全力で払わなければならない。


 アイリスが全身から放つ不満そうな空気を一身に浴びながら、それでも意識を碧依と紗季に向ける。


「知ってるけど、教えてはあげないよ。さっきも言ったでしょ?」

「二つ目は、『この高校の生徒、ハーフ、女の子』でしたっ!」

「羽崎君ですね。で、そういう言い方をするってことは、僕も考えたら分かるってことですか?」

「男の子だけど!?」

「葵君には無理だよ。少なくとも、今の葵君にはね」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味だよ」

「あ、そっか。羽崎先輩に女の子の格好をしてもらえばよかったんですね」

「納得するところじゃないよ!」


 先程アイリスに返した言葉を、今度はそっくりそのまま碧依に返される。そう言われると、何が何でも答えを突き止めたくなるのが人の性である。


「絶対に正解まで辿り着いてみせますよ」

「そうしたら、またアイリスさんが大変なことになるね」

「またわけが分からないことを……」


 碧依の言葉の輪郭が上手く掴めない。先程からずっと、どこか煙に巻くような言葉の繰り返しだった。


「そうです! 中間の後、葵さんがメイド服を着て、羽崎先輩がナース服を着たらいいんですよ!」

「何で!?」


 そんな碧依の真意を探ろうと苦心していると、流石に野放しにしておくことはできない言葉が聞こえてきた。もちろん、その発信源はアイリス以外にいない。


「何がいいんですか」

「世界中を騙せる写真になると思いませんか!?」

「写真を撮って公開する前提で話を進めないでもらえます?」

「着るのは反対になると思うけど、その話乗った!」

「乗らなくていいよ!」

「降りてください」


 こんな話題では結託してほしくなかった二人が、最悪の形で結託してしまった。こうなってしまうと、この勢いはもう誰にも止められない。


「忙しい会話だぁ……」


 誰に向けて呟かれたのか分からない、紗季の一言。その言葉通り、コスプレをさせようとする二人と、それに抵抗する自分と悠は、揃って忙しく頭を働かせている。そんな中で紗季に返事をする者など、いる訳がないのだった。




「大して練習してないけど、大丈夫かな……?」

「どうとでもなりますって、多分」

「湊君さ、普段は慎重なのに、こういう時は適当だよね」


 自分の左足と悠の右足をまとめて紐で結びながら、頭上から降ってくる言葉にそう返す。目の前の組がスタートすれば、次はいよいよ自分達の番だ。


 二人揃って最後の種目となる、二人三脚の本番が迫っていた。


「そうですか?」

「そうだよ。何だろうね、あんまり緊張してるように見えないし」

「まぁ、緊張はしてませんね」

「いいなぁ……。僕なんて、まだ始まってもないのにもうだめそう……」


 そんな悠の不安そうな声を聞きながら、紐が解けないことを確認して立ち上がる。僅かに自分の方が大きいとはいえ、ほとんど変わらない身長である。悠の顔が、すぐ隣にあった。


 言葉通り不安が隠しきれていないのか、その眦はいつもより少しだけ下がっているようにも見える。


「緊張しようがしまいが、やることは変わりないですから」

「そうやって考えられるのが羨ましいよ」

「周りからどう見られようと、別に気にしないからってこともありますけどね」

「その異常に強い心、ちょっとだけ分けて?」

「あ、出番ですよ」

「あぁ……」


 悠が怖気づいている間に、前の組の号砲が鳴る。自分達のスタートまでに残された時間は、刻一刻と少なくなっていた。


「最初は結んだ足からですよ?」

「そこは覚えてるから大丈夫……」


 今にも手の平に「人」の字を書いて飲みこみ始めそうな悠の様子を見ていると、本当に分かっているのか怪しく思えてしまう。いくら気にしていなくとも、やはり最初の一歩から躓くのだけは避けたかった。


「一つだけ」

「うん?」

「もし転んで笑われたとしても、僕も一緒ですから。恥ずかしいのも半分です」

「……」


 緊張が解れてくれたらという思いを込めて、そう口にする。一瞬動きを止めた悠の頬が、少しだけ間を空けてから微かに緩んだ。


「ありがと。少し楽になったかも」

「だったらよかったです」

「でも、そういう言葉は僕にじゃなくて、別の人に言ってあげるといいんじゃないかな?」

「はい?」


 全く予想していなかった、その返し。悠にしては珍しい、少し悪戯っぽい表情。どういう意味なのか聞き返したかったが、残念ながら整列の時間になってしまった。


「後でどういう意味なのか聞くことにします」

「残念。内緒」


 そう言って共にスタート地点に向かう悠の足取りは、先程よりも軽くなっているようにも思える。


「羽崎君もちょっと変わりましたよね」

「何が?」

「今みたいな表情って、あんまりしなかったイメージなので」

「周りが周りだからね」


 その顔に浮かぶのは、どこか困ったような笑み。決して嫌ではないが、その荒波に揉まれるのは大変だとでも言わんばかりの表情だった。自分も同じ気持ちなので、とてもよく分かる。


「碧依さんと渡井さんですか」

「湊君も含まれてるに決まってるでしょ」

「あの濃さには追いつけないです」


 そもそも追いつく気がないという話だが、それにしたって強力な二人が揃ってしまったものだ。


「ま、その湊君もちょっと変わったけどね」

「どういう……」

「位置に着いて! 用意……」


 またしても気になる一言を、悠がぼそりと小さく呟く。先程と同じように聞き返そうとした言葉が、今度は出走の合図に掻き消された。全く意識していなかったスタートに向けて、少し慌てて体勢を整える。


 短い静寂の時間を経て、今日一日で何度も聞いた乾いた音が、校庭に響き渡った。


 練習通り、二人揃って結んだ足から走り始める。


「速いね、皆」

「僕達だって、真ん中くらいじゃ、ないですか」


 お互いに呼吸を合わせながら、一定のペースで足を進める。体が跳ねる度、お互いに体を押し付け合う度、言葉が不自然に途切れ途切れになってしまっていた。


「歩幅っ!」

「はいっ?」

「同じくらいでっ、助かったよっ」


 真っ直ぐ前を向いたままの、悠の言葉。肩を組んでいることもあって、歓声の中でもはっきりと耳に届く。


「どっちも、小さい、ですからっ」


 そう返事をした辺りから、お互いに無言になる。ただでさえ体力のない二人である。慣れない二人三脚で、会話をすることに体力を割く訳にはいかなかった。


 白線に沿って大きく曲がって、中間地点を通り過ぎる。前には同じく足を結んだ二人組が三つ。同時に七組走っているので、今の自分達はちょうど真ん中の順位ということになる。前との距離はそこまで開いていないが、今のペースではどうにも追いつける気がしない。


 そして、右後ろからは一つ後ろの組の足音が聞こえていた。見えはしないが、距離としてはかなり近い場所にいる気配がある。順位を上げることよりも、まずはこの順位を落とさないことを考えた方がよさそうだった。


「確かにっ、何とかなるっ、かもっ!」


 走っているうちに緊張が解れてきたのか、悠が気持ちごと前を向く。ゴールまでは残りは四分の一程度。このままいけば、何事もなくゴールできそうだった。


「っ!」


 後ろの足音が少しだけ大きくなったような気がしながらも、順位は変わらないまま、最後の直線に差しかかる。曲線を抜ける少し前からその姿が見えていたアイリスと、はっきりと目が合った。


「葵さん! 頑張ってください!」

「羽崎君もねー!」

「あとちょっとですよー!」


 満面の笑みで大きく手を振りながら声を張り上げるアイリス。その声は、どんな喧噪の中にあっても掻き消されることがない。


「頑張って、順位、上げるっ?」

「無理です」

「現実的ぃ!」


 そんな応援を受けたからなのか、悠がこれまた珍しく積極的な言葉を口にする。だが、現実はそう上手くいく訳でもなく。随分と離されてしまった前との距離を詰めるには、残された時間は短過ぎた。


 そして、そのまま四位でゴール。まさに可もなく不可もなくという順位だったが、二人三脚にお決まりの転倒がないまま競技を終えられたのは、間違いなくよかった点と言ってもいいだろう。


 そんな風に油断していたからだろうか。緩やかにスピードを落としていく中で、お互いの足を止めるタイミングがずれてしまったのは。


「あ」


 先に足を止めた悠。その右足に引っ張られて、結んだ左足が動きを止める。


「え?」


 意外そうな悠の声が届く頃には、右足の膝から崩れるように砂の上へと倒れ込んでいく。

 咄嗟に手をついて体ごと倒れるのは防いだものの、膝には砂を滑る嫌な感触と痛みが走った。


「ごめん、大丈夫?」

「気にしなくて大丈夫です。僕も油断してました」

「怪我してない?」

「少し膝を擦りむいたくらいですかね。絆創膏でも貼っておきます」


 心配そうに問いかけてくる悠だが、幸いにして大した怪我はしていない。立ち上がってみても、膝以外に痛む場所はどこにもなかった。


「せっかく転ばないでゴールできたと思ったのにね」

「ですね。そういえば、練習でもいつも適当に止まってましたっけ」


 思えば、練習ではスタートの確認がほとんどで、ゴールした後のことはあまり考えていなかった。その影響が本番で出てしまっただけの話である。走っている時はどうとでもなったが、残念ながら終わった後はどうにもならなかった。


「結局、恥ずかしいのは僕一人だけでしたね」


 二人の足を結んだ紐を解きながら、スタート前の自分の言葉を皮肉る。まさかこんなことになるとは、思いもしていなかった。


「ほんとに恥ずかしいと思ってる?」

「全く?」

「だよね。湊君ならそう言うと思った」


 そんなことはお見通しとでも言うように、悠がそう口にする。どうやら最初から返事を見抜かれていたらしい。どちらかと言えば、そのことの方が恥ずかしいかもしれなかった。


「はい、もう大丈夫ですよ」

「ありがと」


 紐を解き終わり、ようやく自由になった足で移動する。着順に従って待機場所に並ぶと、人の壁がいきなり目の前に現れた。


 四位でゴールしたのだから、並ぶ位置はちょうど列の真ん中。この後も後続の組が列を成すことを考えると、競技が終わる頃には人に埋もれてしまいそうだった。


「見にくいね」

「それは羽崎君だけですよ」

「湊君だって、僕とほとんど変わらないでしょ」


 自分で言っておいて何だが、身長に関しては五十歩百歩だった。何なら、走っている時に二人揃って小さいと認めてもいる。


「これくらいの身長でも、多分どこかには需要があるんじゃないですか?」

「ほんとに?」

「……」

「こっちを見てよ」


 最早聞き慣れた感覚すらある乾いた音が、再び鳴り響く。それとは反対に、悠の声は随分とじっとりしたものだった。




「葵さんはこっちに座ってください」

「何を企んでるんですか?」


 二人三脚を終えて団のテントまで戻ってすぐに、出迎えてくれたアイリスがそんなことを言い出した。その表情は真剣なものだったが、先程溜め込んでいた分を爆発させると言っていたアイリスのことだ。素直に従えば、何をされるか分かったものではない。真顔でもおかしなことを言い出せるのがアイリスだった。


「膝です」

「膝?」

「擦りむいてますよね? 絆創膏とか、葵さんなら持ってるんじゃないですか?」

「そこはアイリスが持ってる場面じゃないの?」

「……」

「持ってないな?」

「……ないです」


 ちょっとした言い回し一つ。たったそれだけで、あっさりと不都合な真実を看破されていた。


 それはともかくとして、アイリスが言いたいであろうことは、予想に反して表情の通りに真面目なものだった。


「持ってますけど、それがどうかしました?」

「私が貼ります」

「いや、自分で貼りますって」

「だめです」

「どうして?」


 言われなくても貼るつもりだったが、どうも話の流れが怪しい。真剣な眼差しで、真剣な話の入り方だったが、出口もそうとは限らない。果たして、アイリスの真意はどこにあるのだろうか。


「私が貼りたいからです」


 この上なく、自らの欲望に素直だった。


「何を企んでるんですか?」

「何にも?」


 二度目の質問。対するアイリスの答えは、言葉だけを切り取れば安心できるものだったのかもしれない。だが、瞳が明後日の方向に向けられているのを見てしまえば、その言葉を信用することはまず不可能だった。


「ほら、余計なことは考えなくてもいいですから! とにかく座ってください!」


 そんな疑いの目を向けられていることを構いもしないアイリスに腕を引かれ、強制的に椅子に座らされる。持ってきた鞄が、すぐ近くにあった。


「絆創膏を貼ってもらうだけなんだから、そろそろ観念したら?」

「絆創膏を貼るだけなんですから、自分でやればいいですよね?」

「そんな正論、今はいらない」


 当然のように抱いた思いは、楽しそうな様子でついてきた碧依にあっさりと投げ捨てられた。この様子を見るに、アイリスの謎の行動には碧依も何かしらの形で関わっていそうである。


「この中ですか?」


 アイリスが鞄を指差しながら言う。早くもやる気に満ち溢れていた。


「そうですけど」

「流石に私が探すわけにもいかないので、取ってもらってもいいですか?」

「そのまま自分で……」

「だめです。何でそんなに嫌がるんですか」

「何でも何も……」

「私が貼るのが嫌、なんですか……?」


 不意に垣間見えた、これまでの押しの強さが嘘に思えてしまう、怯えたような表情。それは、少し前までのアイリスが何度も浮かべていた表情で。


 それを見せられて、それでも抵抗し続ける気持ちなど湧くはずがなかった。


「嫌なわけじゃないんですよ。ただ、楽しそうに見られてるのが気になるだけで……」

「あ、お構いなく」

「そこまでまじまじと見ておいて、よくそんなことが言えますね」

「なかなか見られない葵君だからね。ちゃんと見ておかないと」

「珍獣扱いですか」


 どうやら、碧依は好奇心を隠す気が一切ないらしい。それだけでも十分厄介なのに、悠や紗季までもが似たような様子だった。


「じゃあ、私が嫌ってわけじゃないんですね……?」

「それは……、まぁ……」

「よかったぁ……」


 アイリスの怯えが安堵に変わる。強張っていた表情が、ふわりと緩んでいくのが見て取れた。


「もう逃げ場はないね、葵君?」

「……」


 何を見てそう思ったのか、碧依がそっと呟く。その一言が、最後の一押しだった。


「……貼る前に、汚れだけ拭かせてください」

「あ、それも私がやります!」

「……」

「だってさ、葵君」

「……これで」


 絆創膏と一緒に、ウェットティッシュも取り出して渡す。念の為に持ってきただけの代物が、こんな形で日の目を見ることになるとは夢にも思わなかった。


「準備がいいですね、湊先輩」

「もしかしたら誰か使うかもと思って持ってきたんですけどね」

「誰か?」

「アイリスさんか羽崎君か」

「まぁ、その辺りですよね」

「え?」


 何の疑問も抱くことなく納得した紗季の言葉を聞いて、悠が僅かなダメージを受ける。


 そんな悠の姿を眺めていると、膝にひんやりとしたものが触れた。言うまでもなく、アイリスに渡したウェットティッシュだ。痛みはないが、そっと触れられるその感覚がどこかくすぐったい。


「血は……、そんなに出てない、ですね」

「派手に転んではいないですから」


 怪我の手当ての最中に悪戯などする訳もなく、ただただ真面目な雰囲気を漂わせるアイリスが、丁寧に傷口を確認する。しゃがみ込んだアイリスの髪が、風に揺られて足に触れた。


「せっかく綺麗な足なんですから、もっと大事にしないとだめですよ?」

「複雑な褒め言葉、ありがとうございます」


 そんなことを言われるのはこれで二度目のような気がするが、相変わらず喜んでいいのか分からない。悪く言われていないだけよかったのかもしれないが。


「はい! これでおしまいです!」


 やがて、二枚の絆創膏を貼り終えたアイリスから、そんな声がかかる。あっという間の治療終了のお知らせだった。


「もう転んじゃだめですよ?」

「気を付けます」


 こればかりは言い返せない。どんな魂胆があったのかは分からないが、わざわざアイリスの手を煩わせてしまったのは事実である。二度目を起こすことがないよう、戒めの意味を込めて素直に返事をしておいた。


「で、何でこっち見てくれないんですか?」

「……」


 気付かれていた。紗季が話しかけてきて以降、悠、碧依、紗季の三人とは話をしていない時も、視線だけはそちらを向いていた。もちろん、意識してのことだ。


「何かありました?」

「アイリスさん、それ聞くんだ……」


 苦笑いでそう呟く様子を見るに、碧依はその理由に気付いているらしい。


「……」

「葵さん?」


 見えてはいないが、首を傾げるような気配が伝わってくる。言わなければならないことではあるのだが、なかなか言いにくいことでもあるので、どうしても葛藤が生まれてしまう。


「……アイリスさんも気を付けましょうね」


 それでも、今後のことを考えて言うことにした。


「何をですか?」

「……胸元」

「っ!?」

「湊先輩も言っちゃうんですね」


 紗季も気付いていた。碧依と同じ感情を宿したその表情は、アイリスへ向けられたものなのだろうか。それとも、答えてしまった自分に対するものなのだろうか。その答えを知る術はない。


 そしてアイリス。自分の一言を聞いた途端、これまでにあまり見たことがない程の俊敏さで、体操服の襟を押さえる気配がした。


「みっ、見ました……?」

「見えないように、最初から向こうを向いてたんですよ」


 アイリスが立ち上がるのを確認して、ようやくその顔を正面から捉える。一目見てはっきりと分かる程に、頬が色付いていた。


 そんなアイリスにとっては気休めにしかならないうえに、そもそも信じてもらえるかもわからないが、とりあえず正直に答えておく。おかしなことを言って誤魔化したところで、言われた側からすれば不信感が募るだけだ。


「ほんと、ですか?」

「こういうところでは嘘は吐きません」

「ま、確かに葵君、ずっとこっちを見てたもんね」


 そう言って援護してくれたのは碧依である。普段は場を掻き乱すような発言をすることもあるが、こういった時には真面目に対応してくれるのがありがたかった。


「そんなに私のことが好き?」


 ありがたくなかった。


「え!?」

「別に何とも……」


 重なるアイリスの驚愕の声。信じられないものを見るような目で見つめられても、自分だって反応に困っている。


「それはそれでいらっとするね」

「あっ、葵さん……、そう、なんですか……?」

「何とも思ってないって言ってるじゃないですか」

「二回も言う?」


 不満そうな碧依だったが、二回もそう言われるようなことを言ったと自覚してほしい。事故に巻き込まれた衝撃で動揺しているアイリスが不憫でならなかった。


「一回落ち着きましょうか」

「は、はいっ……」

「いいですか。碧依さんのあの言葉は、ただの恥ずかしい勘違いです」

「勘違い……」

「ねぇ? 冗談だよ? そんなにだった? ねぇ?」


 疑問符を連発する碧依を視界に入れることもなく、滔々とアイリスに語りかける。


「一度だって僕がそんな素振りを見せたことがないって知ってるはずなのに、それでもあんなことを言うわけです。どう思います?」

「恥ずかしい……!」

「ちょっと!?」


 両手で顔を覆って呟くアイリスの姿に、珍しく碧依が慌てたような声を響かせる。視界に入れていないのでその様子は分からないが、きっと羞恥で顔を赤くしていることだろう。


「アイリスさんはあんな風になっちゃだめですからね?」

「気を付けます」

「誰か助けてぇ……!」


 力強く頷くアイリス。一方、弱々しい声を絞り出した碧依の様子を久しぶりに窺えば、今度は碧依が両手で顔を覆う番だった。隠しきれない耳は、これまた碧依にしては珍しく真っ赤に染まっている。


「綺麗に返されちゃったね」

「水瀬先輩も、恥ずかしいものは恥ずかしいんですね」

「あぁああ……!」


 追い打ちは悠と紗季。ぴったり四人に包囲され、まさに四面楚歌を体現する碧依なのだった。




「二位かぁ……」

「惜しかったですね」

「応援も二位かぁ……」

「惜しかったですね」


 全ての競技を滞りなく終え、迎えた閉会式。競技部門と応援部門のそれぞれの成績が発表されていた。結果は悠が呟いた通り、どちらも二位。惜しくも、頂点にはあと一歩及ばなかった。


「去年は競技が一位だったのにね」

「今年はそんなに勝ってる印象はなかったので、何となく察してはいました」


 優勝した団の歓声が響く中、いつもよりも少しだけ大きな声で、悠と言葉を交わす。二位ではそこまで喜べないのか、周囲の生徒達の中には、騒ぎの発生源をじっと見つめる者もいた。


「また来年、だね」

「そんなに勝ちたいですか?」

「せっかくやるならね」


 あまり好戦的なイメージのない悠が、そんな意外なことを口にする。そのイメージはあくまで表面的なもので、もしかすると根はそうでもないのかもしれない。


 そうは言っても、悠の見た目で挑んで来られたところで、相手からすれば毒気を抜かれるだけだろうが。


「まずはきちんと体を鍛えるところから始めましょうね?」

「湊君も、来年の大縄跳びのために鍛えておくといいよ」

「もうやりません」


 にこにこ笑いながらからかってくる悠から目を逸らし、確固たる意思を告げる。あんな思いはもう二度としたくないので、来年は全力で拒否するつもりだった。


「応援してくれる人もいるのに?」

「いくらアイリスさんに応援されようと、できることとできないことがあります」

「誰もフリーゼさんだなんて言ってないよ」

「……」

「思い浮かべちゃったんだ?」

「……いつからそんなことを言うようになったんですか」


 出会った頃は比較的純粋だったような気もするのに、今や悪戯っぽい笑みを浮かべながら、こんなことを言うまでになってしまった。一体誰に影響されてしまったのだろうか。


「湊君と水瀬さんと渡井さんがそんなことばっかり言うからだよ」


 自分も含まれていた。これでは、周囲に悪影響を及ぼす人間だと言われているようなものである。「人の振り見て我が振り直せ」という言葉があるように、碧依と莉花の振る舞いを通して、自分の振る舞いを振り返る必要があるのかもしれなかった。


 そうして地味にダメージを受けている間に、歓声は徐々に小さくなっていく。そのタイミングを待っていたかのように、閉会式が再開される。


 そんな中で悠に何かを言い返すことなど、流石にできるはずもなく。閉会式の残りの時間は、自らの振る舞いを反省している間に過ぎ去っていった。




「残念でしたね」

「まぁ、まだ次がありますから」

「そうは言ったって、次は一年先じゃないですか」

「どうせあっという間ですよ」


 閉会式も含めて、体育祭の全工程を終えた後。今週に入ってからは初めて放課後にアイリスがやってきたということもあって、そのまましばらく教室で話し込んでしまった。正確に言えば、アイリスが碧依と莉花に捕まったという表現になる。


 それは何も比喩表現という訳ではなく。言葉通り、物理的に二人に拘束されていた。そんなことをしていれば、自ずと帰りは遅くなるもので。体育祭が終わった頃にはまだ辛うじて青かった空は、すっかり朱色に染まってしまっていた。


「その頃には、アイリスさんも誰かの先輩ですね」

「先輩……!」


 帰り道が同じ人は何人かいるはずなのに、何故か今日もアイリスと二人。お互いに地面に落とした影を揺らしながら、気分は早くも来年の体育祭へと向かっていた。


 その最中、何の気なしに漏らした一言に、アイリスの目がきらりと輝く。夕日を受けて、いつもの瑠璃色とはまた違った色合いを見せていた。


「いいですよね……。先輩……!」

「中学の時だって、そう呼ばれてたんじゃないですか?」

「高校の先輩はそれとは別ですもん」

「そんなものですか」

「そうなんです!」


 力強い一言だった。そこまで断言されると、途端にそう思えてくるのだから不思議なものである。


「そんなわけで、葵さんも私のことを先輩って呼んでみませんか?」

「本当に爆発してますね。呼びません」

「なんでですか!」

「何で呼んでもらえると思ったんですか」


 昼の宣言通り、すっかりいつも通りのアイリスだった。爆発しているのが欲望な辺り、本当にいつも通りである。


「何も減らないんですから、ちょっとくらいならいいじゃないですか」

「僕の精神力がすり減ります」


 もちろんただの冗談でしかないが、それでも今更アイリスをそう呼ぶのに抵抗があるのも事実だった。不満そうに唇を尖らせるアイリスには悪いが、今後もそう呼ぶことはないだろう。


 そんな会話を繰り広げているうちに、いつもの駅へと辿り着く。多少の待ち時間があることを確認していると、視界の隅に見覚えのある後ろ姿が映った。


「あ、雪先輩」

「え?」


 アイリスが呼びかけた相手が振り返る。少しだけ驚いたような表情を浮かべるのは、ここ最近、何度か会話を交わす機会があった先輩だった。


「あれ、アイリスさんに湊君? 今帰り?」

「です」

「へぇー……。仲が良さそうだとは思ってたけど、帰りまで一緒なんだ」

「住んでるところもご近所さんですよ?」

「ほー……」


 何が楽しいのか、雪がため息のような何かを漏らしながら、うっすら微笑む。どこか含みのある表情に見えたのは、自分の気のせいなのだろうか。


「じゃあ、朝も一緒だったり?」

「はいっ! ずっと一緒です!」


 そんな雪の表情に一瞬気を取られている間に、二人の会話が進んでいく。


「雪先輩もこっちだったんですか?」

「そうだね。もしかしたら、これまでも同じ電車に乗ってたのかも?」

「ですね。もっと早くに気付いてたらよかったんですけど……」

「あ、ごめんね。そんなつもりで言ったんじゃなかったの」


 申し訳なさそうに呟くアイリスに、雪がそう声をかける。後輩を優しくフォローする姿は、まさしく先輩といった様子だった。


「あ、そうだ。湊君」

「はい?」


 アイリスと話していたはずの雪が、突然何かを思い出したかのように視線を向けてきた。少しだけ低い位置から見上げてくるその目は、微かにではあるが、からかいの感情を含んでいるようにも見える。


「羽崎君にも伝えておいてほしいんだけどね? 無茶なお願いを受け入れてくれて、助かりました。ありがとう」


 そう言って頭を下げる雪。どこをどう切り取っても真面目な話で、目に浮かんだからかいの色は勘違いだったのかと思う程だった。不真面目な方向に考えてしまった自分が恥ずかしい。


「いえ、少しでも力になれたのならよかったです」

「少しなんてそんな。応援の順位が去年から一つ上がったのは、二人が可愛かった分だね」


 どうやら勘違いではなかったらしい。


「寝惚けてませんか?」

「残念。眠気は全くないね」

「本当に残念です」

「そうですっ。葵さんは可愛いんですっ」

「アイリスさんはしばらく静かにしてましょうね」


 厄介な組み合わせリストに、アイリスと雪の組み合わせを追加する。遭遇する頻度が高くない分、この組み合わせへの対処法がよく分からない。


「来年も何かお願いされるかもね?」

「今年が特別なだけですよ」

「次もアイリスさんにお願いされたら?」

「……。……断ります」

「断れたらいいね?」

「……」


 嫌な想像をしてしまって、思わず黙り込む。アイリスならやりかねないと、心のどこかで感じている証拠だった。


「……来年も同じ状況になるとは限りませんから」

「ま、それもそうだね」


 雪もそれは分かっているようで、それ以上突っ込んだ話をしてくることはなかった。その代わりに、これまで以上に真面目な口調で次なる話題が提供される。


「それにしても、ちょっと意外だったかな」

「何がですか?」


 雪の目が相変わらず自分を向いている辺り、意外の対象はアイリスではなく自分だろうか。


「湊君、色々な噂を聞くからさ。紹介されるまで、どんな人なんだろうって、ちょっと不安だったんだ」

「……」


 最近あまり意識することがなかった、その言葉。そもそもの交友関係が広くないので、どんな噂が囁かれているのかすら、ほとんど知る機会はないのだが。


 それでも、言い方一つで分かることもある。今の雪の言い方は、どう考えてもいい噂に対してのものではなかった。


「噂、ですか?」

「アイリスさんは気にしなくていいですよ」

「あっ!」

「気にしなくていいって言いましたよ?」

「可愛い子がいるとかって噂ですね!」

「違います」


 あまりそういったことには明るくないのか、アイリスが不思議そうに首を傾げている。


 そうかと思えば、まるで見当違いの答えに辿り着く。アイリスの頭の中はそれしかないのだろうか。


「じゃあ、私がそんな噂を流せばいいんですね!」

「やめてください」

「噂と言うか、事実だよね」

「先輩までそういうことを言いますか」


 味方はどこにもいなかった。どうにか抗おうと孤軍奮闘してみるものの、物事には限界というものがある。悠辺りにでも押し付けて、今すぐにでも逃げ出したかった。


 逃げ出した先は電車の中で、結局アイリスとは一緒にいることになるのだが。


「三人に紹介された時もちょっと疑ってたけど、本当に可愛かったから驚いたよね」

「……その割には即採用でしたね」


 驚いている暇すらない程の速さだったはずだ。むしろ、採用の早さに自分が驚いた程だった。


「悪い人じゃないみたいだったからね。それなら文句なし」

「そうですか……」


 過ぎたことにどうこう言っても仕方がない。雪がそう判断したのなら、それこそ自分に文句はない。


「実際、一つ下の後輩とは思えないくらい、ずっと丁寧だったし」

「先輩に対してなんですから、丁寧で当たり前ですよ」

「誰にでも、だったよね」

「私にもずっと丁寧語ですもんね。もうちょっと砕けた葵さんも見たいんですけど……」

「……まぁ、もうそういう口調ですから」


 固定されてしまったものは、今更なかなか変えられない。特に口調など、十七歳にもなって変えるものではない。


「やっぱり、直接会ってみないと分からないね。そういう意味では、噂と全く違ってよかったなって」

「はぁ……?」


 やたらと評価が高いような気がしてならないが、雪の中で一体どんな判断が下されているのだろうか。突くと蛇が出てきそうな雰囲気があるので、その辺りには絶対に触れられないのが残念である。


「とにかく、湊君と羽崎君がいい後輩で助かりましたってお話。ちゃんと伝えておいてね?」

「分かりました」


 念を押すような一言。悠に伝えるのは、きっとやり取りの一部を切り取ったものになるのだろうが、伝えること自体は心に留めておく。


「それじゃあ、私はそろそろ行くけど、二人は?」

「僕達はその電車の終点の少し先なので」

「そっか。じゃあ、ここまでだね。また何かあったらよろしくね」

「今回みたいなことじゃなければ」

「今回みたいなことでも、私が引っ張っていくので大丈夫ですっ」

「うん、だったらアイリスさんにお願いしようかな?」

「……」


 やはり厄介な組み合わせだった。雪が先輩で、あまり強く出られないところが特に。


「冗談だよ。気にしないで。それじゃ、またね」

「……えぇ、また」

「私はいつでも大丈夫ですから。またよろしくお願いします」

「僕が大丈夫じゃないんですよ」


 余計なことを言うアイリスを窘めながら、軽く頭を下げる。そんな様子を見て笑みを浮かべた雪が、背を向けて改札を抜けていった。


「結局、噂って何だったんですかね?」

「……気にしなくてもいいんじゃないですか。どうせ大したことじゃないでしょうし」

「葵さんらしいですね」


 どうしても気になるらしいアイリスに、少しだけ嘘を織り交ぜた言葉を返す。


 これまでも散々噂されてきたことなので、自分は簡単に内容を推測することができる。だが、その辺りのことは、まだアイリスに話す気にはなれなかった。


(いつか……?)


 一人そっと、心の中で考える。自分が抱えている「とあること」をアイリスに話す日は、いつか来るのだろうか。話したところで、もうどうにもならないというのに。自分の感情のはずなのに、自分ですら、その輪郭を掴むことができなくなっていた。


「葵さん? どうかしました?」


 そうして黙り込んでしまったのを不審に思われたのか、覗き込むようにして見上げてきたアイリスと目が合う。


「何でもないです」

「そうですか?」


 その瑠璃色を見ただけで、少し気分が楽になったような気がするのが不思議だった。


 そんなことを今考えたところで、未来がどうなるかなど誰にも分かりはしない。どうせなるようにしかならないのだから、その時が来たら考えればいい。先送りでしかないのかもしれないが、今はそう考えることにした。


「えぇ。どうしたらアイリスさんが僕に可愛いって言わなくなるのか、ちょっと考えてただけですから」

「無理ですね。諦めてください。一生言い続けます」

「何でですか」


 清々しい笑顔と共に、慈悲のない言葉がアイリスからもたらされる。抵抗していたはずの自分が、それでも本当に諦めるしかないのではないかと思う程に、綺麗な笑み。


 それは、主にアイリスに色々あった非日常の終わりを彩るのに、これ以上ない程にぴったりの笑顔だった。

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