6. ラピスラズリの煌めき (3)
「送っていくって言っておいて方向が違ったらあれですけど、どっち方向ですか?」
店を出てすぐ、アイリスに尋ねる。あれだけのやり取りを交わしておいて、この時点で方向が違ったら目も当てられない。
「こっちです」
やや不安に思う中でアイリスが指差したのは、幸いにして自分の家と同じ方向だった。
「僕も同じ方向なのでよかったです。それじゃあ、遅くなり過ぎる前に帰りましょうか」
不安材料が一つ消えたところで、二人揃って歩き出す。この辺りに限った話ではないが、この町はやや街灯が少なく、夜になると元々少ない人通りがさらに減る。午後九時を過ぎた時間帯に女子高校生が一人で歩くには、かなり心許ないというのが正直な印象だった。
「今更ですけど」
「はい?」
住んではいないが、この一年で見慣れてしまった住宅街を歩きながら、ふとアイリスに問いかける。実は、初めて会った時から気になっていたことがあった。
「日本語で大丈夫なんですね」
「あ、そのことですか?」
自分の疑問を受けて、アイリスが口を開く。
「私が生まれてすぐ、お父さんとお母さんの仕事の都合で、イギリスから日本に引っ越してきたんです。なので、ほとんど日本語が母国語みたいなものです」
「確かに、『母国語』なんて言葉が普通に出てくる辺り、あんまり気にしなくても大丈夫そうですね」
「です。あ、でも、お父さんとお母さんの影響で、英語も大丈夫ですよ!」
自慢するように、両手を腰に当てて胸を張るアイリス。街灯が少なくて薄暗くても、その表情が誇らしげに輝いているように見える。ともすれば優越感に浸っているとも取られかねない仕草だが、アイリスと接して感じた印象からすれば、微笑ましさしか感じない仕草だった。
「英語が話せるのはいいですよね。羨ましいです」
「葵さんは苦手ですか?」
「苦手というか、学校で教わる範囲しか知らないので」
「そっか。私達くらいの歳だと、普通はそうですよね。……あ、同じくらいの歳、ですよね……?」
話しているうちに気になったのだろうか。言われてみれば、お互いの年齢については、これまで特に話をしていなかった。勝手なイメージで言うならば、アイリスは何となく年下のイメージだが、果たして。
「高二です。今年の八月で十七歳ですね」
「あ、じゃあやっぱり先輩さんですね。私は今月高校生になったばっかりなので」
「ってことは、一つ下ですか」
「はい。六月で十六歳です」
どうやらイメージ通りで正解だったらしい。これで実際は年上だったということになっていた場合、イメージと違い過ぎて戸惑っていたかもしれない。
「でも、葵さんって、何となくもっと年上な感じもするんですよね」
「そうですか?」
「ほら、話し方がすっごく丁寧じゃないですか。私の方が年下なのに敬語ですし。私の周りに、そういう人ってあんまりいなかったですから」
「話し方はよく言われますね。もう癖みたいなものなので、あんまり気にしないでください」
「他にも、お店でもずっと落ち着いてましたし……。そういう人も見たことがなかったです」
「そっちは……、まぁ、色々ありましたから」
自分では落ち着いているとは思っていないものの、周囲からはそう見えるのかと実感した瞬間だった。これに関しては、こうならざるを得ない事情があったからこうなっただけであって、自ら望んだ訳でもない。
「色々?」
「色々、です」
面白い話でもないので、適当にはぐらかして、この場で話すようなことはしなかった。
あれから少し歩いたが、まだ帰り道は同じ方向のようだった。
「それにしても……」
「はい?」
「同じ町に住んでたのに、これまで全く見かけたことがなかったですね」
「そうですか? もしかしたら、どこかですれ違ってたかもしれないですよ?」
「いや。すれ違ってたら、流石に覚えてると思いますよ。」
アイリスから見た自分は印象に残りにくいかもしれないが、自分から見たアイリスは真逆である。薄暗い闇夜の中でも輝きを失わない瑠璃色と菜の花色は、一度すれ違っただけでも強烈に印象に残るはずだ。
「すれ違っただけでも?」
「だけでも、です。さっき初めて見た時に、綺麗な髪と瞳だって思いましたから」
そう言ってから、最近同じ台詞を口にしたことを思い出した。あの時はスノーホワイトとコバルトブルーで、言った相手の性別すらも違っていたが。
「そっ、そうですかっ?」
嬉しそうに、けれども少しだけ照れたようにアイリスが微笑む。そんな感情を誤魔化すかのように髪に触れる仕草が可愛かった。
「そんなわけで、すれ違ったこともないはずです」
「じゃあ、中学も違ったんですかね?」
「かもしれないですね。町は変わってないですけど、高校に入学してから一人暮らしを始めて、それで今の場所に住んでますし」
ここまで帰る方向が同じなら中学校の学区も同じである可能性があるが、当時の記憶を探ってみても、やはり瑠璃色と菜の花色は存在していない。中学校には今と別の場所から通っていたので、単純にアイリスとは違う中学校だったのだろう。
「あ、一人暮らしなんですか?」
「そうですね。去年の四月から」
「一人暮らしって言い方ってことは、寮とかってことでもないんですか?」
「ですね。部屋を借りて暮らしてます」
「高校生でそういう一人暮らしって、なかなか珍しいですよね」
「色々ありましたから」
「むぅ、またそれですか」
明らかに何かを誤魔化したことを感じ取ったのか、アイリスが軽く頬を膨らませて抗議をしてくる。どこか子供っぽい仕草だが、アイリスがするとやたらと似合ってしまうのだから、公平感に欠ける仕草である。間違っても自分がすることはないのだろうと、そう思いながらその抗議を軽く受け流すのだった。
どこまで行っても、アイリスと自分の足跡は並んでいた。店を出て、かれこれ十五分近くになるか。
「私の家、もうすぐそこなんですけど、葵さんって意外とご近所さんだったり?」
「かもしれないですね」
そう答えながら、同じマンションの住人ですらほとんど把握していないことに気付く。せいぜい、隣の部屋が空室になっていることを知っている程度である。ましてや、更に外の住人となると、いくら近所でも知らない人だらけだったとしても無理はない。
「あ、ここです」
本当に近所に住んでいるのかと思い始めた辺りで、アイリスが一軒の家の前で足を止めた。周囲の家と比べてもなかなか大きな家で、庭も広々としている。
「ここ、ですか」
「そうですよ? どうかしました?」
「いや、アルバイトを始めてから、シフトが入ってる日の帰りは必ずここを通ってたので、ちょっと驚いてます」
「え? そうなんですか?」
「えぇ。すぐそこにある、ちょっと小さめのマンションに住んでます」
「わぁ! じゃあ、ほんとにご近所さんだったんですね!」
何やら嬉しそうにしているアイリスに釣られるようにして、自分も微かに口元を緩める。まさか、ここまで近所に住んでいるとは思っていなかった。この一年で見かけたことがないのが不思議な程の距離だ。
「ですね。ご近所さんとしても、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
アルバイト先の先輩と後輩ではなく、近所に住んでいる者としての挨拶を交わしながら、さっと時刻を確認する。あまり遅い時間に長々と立ち話をするのも、あまりよくはないだろう。住宅街であるということ以前に、アイリスも自分も高校生で、明日もいつも通り登校しなければならない。
「遅いですし、もう行きますね。今日はお疲れ様でした」
「あ、はい。今日はありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
最後にそれだけを交わして、アイリスに背を向けて歩き出す。ここからであれば、マンションまではゆっくり歩いても五分とかからない。帰った後の予定を考えながら歩いていると、小さな門が閉まる微かな音が、背後から聞こえてきた。
「ただいまー」
リビングの扉を開けるのと同時に、そう声をかける。玄関の鍵を開けた時点で、自分が帰ってきたことには気付いているはずだ。
リビングにいたのは、母のレティシアだけだった。
「あら、お帰り」
ソファに座っていたレティシアが、いつも通りの様子で自分を出迎えてくれた。その瞳は自分と同じ瑠璃色で、このパーツが母親譲りであることを何となく再確認する。顔立ちもどことなく似ているので、パーツが全体的に母親譲りなのかもしれない。
これまで特に意識しなかったことを意識してしまったのは、葵に髪や瞳の色が綺麗だと言ってもらえたからだろうか。
「疲れたー! すっごく緊張した!」
「そんなに大変なところだったの?」
「そうじゃなくて。接客とか初めてだったし、分からないことばっかりだったしで疲れたってこと」
「あぁ、そういう。それは仕方ないわね」
そんなことを考えながら、早速初めてアルバイトのことを話し始める。レティシアとしても、一人娘である自分のアルバイトの話は気になるようだった。
「一緒に働く人はどんな感じだった? 上手くやれそう?」
「私の他に三人なんだけど、全員優しい人だったよ」
「そ。上手く馴染めないんじゃないかって不安だったけど、私の取り越し苦労で終わってよかったわ」
「お店をやってる二人もいい人なんだけど、もう一人のアルバイトの人が特にいい人だったんだ」
話しながら、頭の中に初めて会った時の葵の様子を思い浮かべる。一言で言い表すならば、「可愛い」としか言えなくなってしまうような、規格外の先輩の姿である。
「そうなの?」
「うん。一つ年上の男の人なんだけど、ちょっとおかしいくらい可愛い人!」
「可愛い……?」
「ウェイトレス服が似合いそうな感じ」
「ウェイトレス服が似合いそうな感じ……?」
実際に会った自分はその姿を想像できるが、言葉でしか聞いていないレティシアにとっては、何を言っているのか分からないらしい。自分の言葉をそっくりそのまま返していて、混乱している様子が窺える。
「葵さんって人なんだけど、実はご近所さんで、ここからすぐのマンションに住んでるんだって」
「あら、じゃあ一緒に帰ってきたの?」
「うん。そうだけど、どうかした?」
「いいえ? 帰りが遅くなるようならお店まで迎えに行ってもいいかなって考えてたけど、送ってくれる人がいるなら大丈夫かなって思って」
「もう高校生なんだし、そこまでしてくれなくてもいいのに」
「いくつになっても、親は子供が心配なの」
混乱はしていても、そう話すレティシアの眼差しは優しげなものだった。そんな感情をありがたく思う反面、やや気恥ずかしくも思ってしまう。
「ま、とにかくあなたが上手くやっていけそうって思ったのなら、私から言う事はないわ。頑張りなさい」
「ん、ありがと」
「何か軽く食べられるものを出してあげるから、とりあえず早く着替えてきなさい」
「はーい」
思わず軽く目を逸らしてしまったことに気付かれているのか、それともいないのか。レティシアのことなので、気付いていても何も言わなかったというのが正解に思える。
それはともかくとして、もうすっかり遅い時間である。明日の準備も含めて、これからしなければならないことは多いので、素直にレティシアの言葉に頷く。緩く返事をしてから、空き部屋が二部屋ある二階の自室へと向かうのだった。
週の真ん中、水曜日の朝。今日も今日とて電車に揺られている。目に映る桜はやや花が落ち、ところどころに緑色の葉を覗かせていた。綺麗に咲く時間が短い花なので、もうしばらくすれば、徐々に緑の方が優勢になっていくのだろう。
「……」
流れていく車窓の景色から視線を移したのは隣の席。一年生の時と同じく、今は空席となっている。ただし、自分の予想が正しければ、今停車しようとしている駅を発車する時には、この隣の席は空席ではなくなっているはずだ。
昨日と一昨日の記憶を辿っているうちに、電車が完全に停止する。やや間が空いてから、記憶の中の人物が現実に姿を現した。
「おはよう、湊君」
「おはようございます」
挨拶を交わしてから、碧依が隣に腰を下ろす。初めて電車の中で会話を交わした一昨日と、加えて昨日からこうだった。一昨日の朝見せたあの表情の答えは、どうやらこれだったらしい。
「今日って、また宿泊学習の話があるよね? 何のお話か分かる?」
「多分ですけど、やることが決まったんじゃないですか?」
「そっか。確かに、何をするかってまだ何にも知らないもんね」
ここまで終点に近くなっても、それでもあまり人が乗っていない電車の中で、今日の小さなイベント事の話を始める。班決めだけを行った宿泊学習は、五月にあるということだけを知らされて、まだその内容に関しては何も教えられていなかった。新しく話があるとすれば、恐らくそのことだろう。
「面白そうなことがあればいいなぁ」
「毎年恒例ですけど、行き先の地域を班ごとで自由に見て回る時間があるらしいですよ」
「ほんと?」
「えぇ。前もってどこに行くかを、班で話し合って決めるそうです。時間も結構長いらしいので、色々なところに行けるって話は聞いたことがありますね」
「へぇー! 何それ、楽しそう。今年もあるといいな!」
碧依が早くも宿泊学習に思いを馳せていた。転校してきてすぐの宿泊学習という点だけ見れば、あれこれと不安要素ばかりが目立ちそうだが、碧依に関してはそうでもないらしい。
見かけによらず、意外と逞しいのかもしれないと、そんなことを考えながら視線を向けていると、流石に碧依も気が付いたようだった。不思議そうな眼差しをこちらに向け、微かに首を傾げる。
「何?」
「いいえ? 何でも?」
「何々? そんな風に言われると気になる」
「水瀬さんだって、たまに同じようなことをするじゃないですか」
「え? 私、そんなこと言ってる?」
誤魔化すように碧依の言葉を使ってみるも、肝心の碧依本人が使っている自覚がなかったらしい。となれば、恐らくは口癖のようなものなのだろう。
「もう何度か聞きましたよ」
「うわ、そんなに?」
「そんなに、です」
「えー……? 絶妙に恥ずかしい……。何それ……」
そう言ってやや俯く碧依の頬は、僅かに赤く色付いている。そこまで恥ずかしがるような口癖でもないと思うのだが、碧依の感覚では恥ずかしい口癖だったのかもしれない。
「口癖なんて、誰にでもあるものだと思いますよ」
「それはそうだろうけど、自分で気付いてなかったってところがね?」
気にしていたところは、自分の想像とは違った場所だったらしい。
「別に悪意のある口癖とかでもないですし、気にしなくてもいいんじゃないですか?」
「うん、そうする……。これからは意識して使っていくよ……」
「そういうことなんですかね?」
結局、よく分からない結論に落ち着いた。「使わない」という選択肢は選ばれないどころか、最初から碧依の中に存在していなかったようだった。
「色々と決まりました」
午後の二時間分の時間を貫いて作られたホームルームの時間。その始まりを告げる平原先生の第一声がそれだった。
「準備がぎりぎり過ぎて、皆に伝えるのも割と直前になってしまったけど、やっと全部の予定が決まったので、そのお話です。さっき配った資料を見ながら聞いてね」
その言葉を受けて、教室内のクラスメイトが一斉に手元の資料に目を落とす。そこには、宿泊学習の日程と全ての予定が記載されていた。
そこに記された日程は、五月十日から十二日までの二泊三日。ゴールデンウィークが明けてからの日程だった。まだこの時期のシフトは決まっていないはずなので、今度太一と柚子に相談することを心に留め、意識を引き戻す。
「見てもらうと分かりますけど、二日目の午前と午後、それと、三日目に班ごとの行動があります」
二泊三日の予定は大まかに、初日の午後、二日目の午前、午後、三日目の全日と、四つに分けられていた。そのうち三つで班ごとに行動するということで、かなり比率が高くなっている。これだけ班行動の割合が多いとなると、ある意味気楽な班が組めたことは運がよかったと言える。
「二日目は三つの活動の中から二つを選んで、それを午前と午後に分けて行います。三つの活動はそこに書いてある通り、オリエンテーリング、カヌー、アーチェリーそれぞれの体験です」
その選択肢に、教室の中が若干騒がしくなる。日常でなかなか触れることがない競技に対する期待と、触れることがないからこその困惑が渦巻いているように感じられた。
そもそも、この宿泊学習自体が、普段できないことを体験するという機会である。変わった活動が多いのは考えてみれば当然なのだが、自分も含めて、事前にそんなことを考える人などいない。
「ほらほら、静かに。まだ三日目の説明がありますから」
そう言って、平原先生が小さな騒ぎを一旦収めてから続きを切り出す。
「三日目は、朝に宿泊施設を出て山を下ります。その後に駅前で一度解散して、班ごとに事前に決めた場所を自由に回って、決められた時間に集合場所に再集合です。そこからはバスで学校まで帰ってくる予定です」
この三日目こそが、今朝電車の中で碧依と話していた自由行動だった。やはり、今年もお決まりのものとして予定に組み込まれたらしい。自由度が高い代わりに、事前に色々と決めるのが大変そうである。それでも、自分達の班なら、そこまで苦労することはないだろう。
「とりあえず、まずは二日目の活動決めからやってもらおうと思います。班ごとに話し合って、希望を提出してください。基本的には十分な定員を確保していますが、もしオーバーしてしまった時は、抽選になる予定です」
「定員って、クラスごとにですかー?」
そこまで説明を聞いたところで、クラスメイトの一人から質問が上がった。確かに、学年全体での定員なのか、クラスごとでの定員なのかで、競争率はかなり変わってきそうだ。
「学年ごとの定員です。なので、よっぽどどれかに偏ることがない限り、基本は希望通りになると思っていいですよ」
返ってきた回答は、自分達生徒側にとっての吉報だった。希望とは違う活動を強制される可能性がほぼないと分かり、教室のそこかしこから安堵の声が聞こえてくる。
「ただし、午前と午後の定員はあるので、それは教師側で割り振ることになっています。なので、一旦午前午後関係なく希望を提出してもらって、後日それぞれの班がどう割り振られたか伝えることになっています。そこは理解してくださいね」
「はーい!」
特に明るい面々が集まった班から軽快な声が上がる。その返事を受けてから平原先生が他の質問を募るも、特に質問は出てこなかった。
「質問はないみたいですね。もし話している間に気になることがあれば、その都度質問してください。じゃあ、班ごとに話し合って」
軽く手を叩くような合図と共に、教室のあちこちで声が上がり始める。自分達も、とりあえずその喧騒の中に混ざっていく。
「オリエンテーリング、カヌー、アーチェリーね。どれもやったことないから迷うわ」
「そもそもオリエンテーリングって何? 全然想像できないかも」
碧依と莉花が早速悩み始める。碧依の言う通り、三つの中でも、オリエンテーリングは特に馴染みのないものだ。こんな状態で、参加する活動を決められる訳がない。
「地図とコンパスを使って、山の中を歩き回ってチェックポイントを巡るスポーツみたいですよ」
「結構ハードな感じがするね」
以前何かで見たオリエンテーリングの内容について、曖昧な記憶から何とか引き出しながら説明をしてみれば、悠からはそんな感想が聞こえてきた。説明した自分も、抱いた感想は似たようなものである。
「確かに、本格的にやろうと思ったら大変だと思いますけど、流石に高校生にいきなりそんなことはさせないと思いますよ」
「そう?」
碧依からも質問が飛んでくる。想像ができる他二つよりも、内容がよく分からないオリエンテーリングに関心が集中するのは、自然と言えば自然な流れだった。
「その辺は先生に聞けばいいと思います。多分、実際に回るのは山の中とかじゃなくて、整備された道なんじゃないかなって」
「へー。それならやってみてもいいかもね。全然知らないことをするのも、案外楽しいかもしれないし」
詳しい内容が分からなくても、莉花は思いの外オリエンテーリングに前向きなようだった。そうなると気になるのは、悠と碧依の二人である。
「二人はどうです?」
「んー……。そうだね、意外と楽しそうかも」
「僕も、山の中を歩き回るんじゃないなら大丈夫そうかな」
尋ねてみれば、その二人からも肯定的な意見が返ってきた。このまま特に問題がなければ、一つ目はすんなりとオリエンテーリングに決まりそうだ。
「じゃあ、ちょっと詳しい話を聞いてきます」
「任せた!」
詳しい話は改めて確認すればいいと、そう言い出した責任もあるので、率先して席を立つ。莉花の言葉を受けながら教卓に向かう中、やはりこの四人なら、そこまで意見が衝突することもなく二つの活動が決まりそうだと、ぼんやり考えるのだった。
「やっぱり、歩き回るのは整備された道だけだそうですよ」
確認してきたオリエンテーリングの詳細を、待っていた三人に伝えていく。
「それに、先生が見回りもするそうなので、基本迷う心配もないそうです」
「ふーん。それなら安心かもね」
「それじゃあ、一つ目はオリエンテーリングに決まりでいいのかな?」
一通りの説明が終わったところで、碧依の確認に自分も含めて三人が賛成を返す。とりあえず、一つ目の活動が決定した。
「じゃあ、あと一つをどうするかだね」
そう言って話を次の段階に進めたのは悠。静かに流れに身を任せているイメージがあったので、意外と言えば意外な発言ではあった。
「カヌーとアーチェリーか……」
「二つになっても、迷うのは迷うよね」
選択肢が三つだった時の莉花の発言を、今度は碧依が繰り返す。そんな二人の様子を見る限り、自分が懸念しているとあることには、どちらも思い至っていないらしい。
そんな訳で、流れが決まってしまう前に、自分で流れを作ってしまうことにする。
「アーチェリーの方がいいと思いますよ」
「そうだね」
「え、何で? アーチェリー、好きなの?」
自分と悠の提案に、碧依が不思議そうにしながら聞き返してくる。見当外れなことを言っている辺り、やはり気付いていないようだ。
「いや、そうじゃなくて。カヌーってことは、全身ずぶ濡れになるかもしれないので」
「あ……」
「そっか、確かに」
ここまで言えば、碧依と莉花も流石に気付いたようだった。少しだけ目を丸くして、お互いに顔を見合わせている。
カヌーということは、当然活動の場は水の上である。活動の最中に濡れてしまえば着替える必要があるうえに、そもそも濡れた時点であまり考えたくないトラブルが起こる可能性もある。その芽はあらかじめ摘んでおいた方がいいに決まっていた。
「その辺のこと、全然考えてなかった」
「ね、言ってくれて助かった。ありがとね」
碧依と莉花が顔に浮かべている苦笑いは、どうしてこんなことに気が付かなかったのかという感情に溢れていた。恐らく、宿泊学習の活動決めという明らかな非日常に意識が集中して、普段なら気付くことにも気付けなくなっていたのだろう。
「じゃあ、もう一つはアーチェリーでいいですか?」
「異議なし!」
「うん、そうしようか」
そこを指摘しても何にもならないので、ひとまず二つ目の活動を決めてしまう。三つの選択肢を見た時から、実質この二つしか選べないと考えていたので、上手く誘導できて安堵する。話し合いが始まる前に、悠に事情を説明して味方になってもらえたのも大きかった。
「それじゃあ、先生に希望を出してくるね」
そう言って、悠が記入した用紙を提出して、二日目の活動はほぼ決まりとなった。
活動を二つとも決めたのは自分達が一番乗りだったようで、そのしばらく後になってから、他の班がちらほらと提出を始めた。
選択肢の数が多い訳でもなく、一班四人で意見がまとまりやすいこともあって、二日目の活動はスムーズに決めやすい。内容も内容なので、「絶対にこれがやりたい」という意見が出にくいこともプラスに働いているのか、提出を終えた班の数が増えるのはあっという間だった。
その様子を眺めながら少し待つだけで、全ての班が希望を提出し終える。この時点で、ホームルームが始まってからまだ三十分も経っていない。受け取った用紙をまとめつつ、平原先生が次の話題を切り出した。
「さ、とりあえず、これで二日目の方はおしまいってことで。でも、今日はここからが本番なので、心して聞くように」
そんな前置きに、教室全体が水を打ったように静まり返る。話の流れから考えると、三日目の自由行動についての説明があるはずだと、誰もが分かっているからだ。この宿泊学習のメインとも言える活動に、教室内の期待が高まっていくのを肌で感じ取る。
「宿泊学習の行き先自体が隣の県なのは分かってると思いますけど、三日目はその県で一番大きな駅が各班の出発地点です。さっき話した通り、そこからいくつかの場所を自由に回ってもらって、最後に、決められた時間に集合場所まで来てもらいます」
自由行動という言葉がどの程度の範囲を指しているのかはまだ分からないが、こちらは二日目と違って、色々決めるのが大変そうだった。選択の幅が大きく広がっている。
「自由に回ってもらって、とは言いましたけど、ルールはあります。まず一つ目ですが、学校側が用意したチェックポイントのような場所が、全部で四か所あります。どの班も、必ずその中の一つを行き先に入れておいてください。」
ただし、流石に完全な自由行動とはいかないらしい。たったこれだけのルールでも、どこをどう回るのかは、かなり制限されるような気がした。
「そして二つ目ですが、それを説明するにはこれから配る地図があった方が分かりやすいと思うので、先に地図を配ります」
そうして配布された紙には、見覚えのある、全国的にもある程度の知名度を誇る市の地図が描かれていた。地図には、四つの印と特定の範囲を囲うように赤い線が書き込まれている。
「じゃあ、地図を見てください」
全員に地図が行き渡ったのを確認して、平原先生が説明を再開する。
「地図に四つの印が書かれていますが、これがさっき話した四つのチェックポイントです。基本的に、どの方面に行っても無理なく回れるように配置されています。それぞれの場所に一人ずつ先生がいるので、そこで点呼を受けてくれたら大丈夫です」
四つのチェックポイントは、どれもあまり時間をかけて見て回るようなところには配置されていない。あくまで、各班が問題なく行動しているのかを確認するくらいの目的しかないのだろう。
「で、肝心の二つ目のルールですが、自由行動と言っても、どこへでも行っていいわけではありません。地図に大きく赤枠が書かれていると思いますが、その中で行動してもらいます」
範囲が決められていない自由行動を望んでいた一部の生徒から、そのタイミングで不満の声が上がった。あらかじめ調べていた場所が、赤枠の範囲外になっていたのかもしれない。
「範囲を決めておかないと、何かあった時にすぐ対応できないので、これは学校側として絶対に変更しないラインです。範囲外の場所に行きたかった人もいるかもしれませんが、これは理解してもらうしかありません」
学校側にそう言われてしまえば、生徒としては折れる以外の選択肢がない。自由度が高くなってきたといえども、結局はまだ高校生。誰かの庇護下に置かれて然るべき立場であることは明白だった。それが普段は親であり、この宿泊学習では教師、ひいては学校に変わるだけだ。
「大きなルールはこの二つです。あとは、周囲に迷惑をかけないよう、常識的な行動を取ってくださいといった当たり前のこともありますが、それについてはわざわざ言わなくても、皆さんなら大丈夫ですよね?」
最後に小さな注意点はあったものの、生徒側の意識は既に予定組みに向いている。教師側としても、あまり口うるさくは言わず、信用はしつつも一応釘は刺しておくといった口調だった。
「それじゃあ、この後は三日目の自由行動について、各班で決めてもらいます。内容が内容なので、無理に今日だけで全てを決める必要はありません。もし決まらなければ、後日また時間を取ります。それと、この時間はスマートフォンなりを使って、自由に調べものをしてもらって構いません。流石に、何もなしで予定を組むことはできませんからね」
その言葉を聞いてすぐに、クラスメイトが一斉に制服のポケットからスマートフォンを取り出す。
「はい、じゃあ、各班でお願いします」
その動きが落ち着いたのを確認してから、平原先生が手を打ち鳴らす。それを合図に、再び教室の中がざわざわと騒がしくなった。
いきなり何かを話し始める声、椅子を移動させる音、改めて地図を見ようと紙を捲る音。それぞれが複雑に混ざり合って、独特の高揚感を周囲に生み出している。
こうして、宿泊学習のメインイベントである自由行動の準備が始まった。




