59. イベリス (4)
「頑張るんじゃなかったっけ?」
「い、いきなりは無理……!」
「何をしてるんですか?」
応援合戦のために着替えをしていると、何故か紗季の背中に隠れたアイリスが、ちらちらと自分の様子を窺っていた。
きっと、先程二人で教室を出ていった時に、何かを話したのだろうとは思う。戻ってきた時から、ほんの少しだがアイリスの眼差しが変わったように見えた。何がどう変わったのかを具体的に言葉にすることはできないが、ここ最近の一歩引いたような雰囲気はなくなりかけていたはずだった。
それが、今になって再び戻りかけている。
「……まぁ、いきなりできるとは思ってなかったけど」
「ら、来週から本気を出します……」
「微妙に長めに設定するな」
何の本気を出すつもりなのかは知らないが、今日はまだ水曜日である。随分と長い助走期間を設けたものだ。
「何をしてるの?」
「僕が聞きたいです」
上に一枚羽織るだけの着替えを終えた碧依が、不思議そうな顔で横に並ぶ。残念ながら、その口から出てきた疑問の答えを、自分は持ち合わせていない。
「あ、葵さんはこっち、です」
「え?」
碧依と二人して首を傾げる事態に戸惑っていると、また僅かに纏う雰囲気が変わったアイリスが、これまで隠れていた紗季の背中を離れて、そんな言葉と共に手を伸ばしてきた。
左手が小さな両手に包まれる。やはり自分のものとは違う、柔らかなそれ。だが、そんなことをまともに意識する前に、何故か紗季の背中側に引きずり込まれてしまった。後からやってきた碧依と向き合う形となり、隣にいるのはアイリスに変わる。
「え? 何々? 私、何で今葵君と引き離されたの?」
「僕にとっても天敵だからじゃないですかね?」
ナース服を着せようとしてくる相手など、天敵以外の何者でもない。それを言ってしまえば、今隣にいる相手もメイド服を着せようとしてくる天敵ではあるが。
「アイリスさんも天敵……?」
「ちっ、違いますよ!? 私はいつでも葵さんのことを思い遣ってますからね!?」
「だったら、メイド服はなしってことでいいですか?」
「それはぁ……」
「何で渋るんですか」
慌てたように視線を彷徨わせるアイリスが、心の中の葛藤を表すように曖昧な言葉を口にする。だが、本当に思い遣ってくれているのなら、その罰ゲームはなかったことにしてくれてもいいはずだ。そこで葛藤が生まれる意味が分からない。
「可愛い葵さんが見たい、ので……」
「そんなに可愛いメイドが見たいなら、自分で着て鏡でも見ておけばいいじゃないですか。何でわざわざ僕が」
「ひぅっ!?」
奇妙な声を上げたきり、アイリスが黙り込む。空気が抜けたような音だったが、大丈夫なのだろうか。
「……他人の背中で甘ったるい会話をしないでもらえますか?」
「どんな会話ですか」
「ですよねー。湊先輩はそういう人ですもんねー」
「はい?」
振り返った紗季の目は、随分とじっとりした目だった。ついでに言うと、碧依の目は楽しそうに輝いている。とても対照的な反応だった。
「あれ? 湊君はまだ着てないの?」
そんな碧依の隣に並んだのは、これから行われる応援合戦で使う衣装を身に纏った悠。旗の方が後にあるので、今着ているのはほんのりと可愛らしい雰囲気を醸し出す衣装の方だった。
「別に羽崎君ほど張り切ってはいないですから」
「僕が張り切ってるみたいに言うのはやめてよ」
「何? あんなに教えてあげたのに、そんなことを言うの?」
「あ、違っ……。嘘です。張り切ってます」
「弱……」
碧依の表情はどう見てもからかいの表情だったのに、それに気付けなかった悠が慌てて自身の言葉を訂正していた。今更ながら、本当に碧依に弱い悠である。
「あとね、葵君はまだ着てないんじゃないの。片手が塞がってるから、着たくても着られないの」
「片手? ……あぁ」
悠の視線が、未だアイリスに握られたままの左手に向かう。そうして漏れた声に込められた感情は、一体どんなものだったのだろうか。
「さも僕が着たがってるみたいに言わないでもらえます?」
「お揃いってことで、アイリスさんがあんなに喜んでくれてたのに?」
「……」
「弱……」
悠が碧依や莉花に弱いように、自分は明らかにアイリスに弱かった。ぼそりと呟かれた悠の一言は、先程の意趣返しなのだろうか。
「ほんと、アイリスさんには甘いよね」
「……どうせ着ることには変わりないですから」
「はいはい、そういうことにしておいてあげるよ」
苦し紛れの言葉も、碧依の表情を変えることはできない。ただただ、微笑ましいものを見る目で見つめられただけだった。
「……アイリスさん」
「は、はいっ!」
「手、いいですか? 着られないので」
「あ……」
その顔は、今の今まで忘れていたというような顔で。慌てた様子で解放された左手は、残暑で熱された空気すらひんやりと感じさせる程の熱を帯びていた。
そんな熱をうっすら意識しながら、持っていた衣装を羽織る。
「お揃い……」
アイリスが小さく呟いたそんな一言は、きっと碧依達には聞こえていない。嬉しそうに頬を緩ませた、その表情が見えているだけだろう。
「嬉しそうにしちゃってまぁ……」
「湊君が気付くのはいつになるんだろうね」
恐らくはその様子を見て、小声で何事かを話す悠と碧依。その声は、午後の部の始まりを告げるアナウンスに掻き消されて、意味を持った音として自分まで届くことはなかった。
練習でもそうだったが、最早何も意識しなくても体は動く。動いてしまう。初めて見た時はあれほど男子には厳しい振付だと思っていたのに、今や何も思わなくなってしまった。やはり、慣れとは恐ろしいものである。
そんなことを考えている間も、聞き慣れた音楽は流れ続ける。同じ衣装を身に纏った女子生徒の集団に紛れ、練習と変わらず教わった振付を繰り返す。「練習は本番のように、本番は練習のように」という言葉が、ふと頭の中に浮かんだ。
向かい合うタイミングでアイリスの様子を窺えば、こちらも踊り自体は一切の淀みがない。あえて何かを言うならば、目が合いそうで合わない絶妙な高さを見つめられていて、やや違和感を抱いたということくらいか。
(頭……?)
アイリスが見つめているのは、自分の目よりもやや上の辺り。相手の目を見るのが恥ずかしければ、眉間を見るように意識すればいいと言われることはあるが、アイリスはその一歩先である。これでは目が合うはずがなかった。
(一歩後ろでは?)
自分の思考に、自分で突っ込みを入れる。眉間よりも目から離れている分、頭を見つめている方がレベルとしては低い気がした。
くだらない思考をつらつらと繰り返しながら、再び正面へと向き直る。右斜め前、少しだけ離れたところに、今の自分と同じように紛れ込んだもう一人がいた。言うまでもなく悠の後ろ姿である。
羽織った衣装の裾をひらめかせながら、体全体を使って踊っている。その動きに合わせて柔らかく揺れるスノーホワイトの髪は、九月の日の光を浴びて一際輝きを放っていた。
(……どうして羽崎君相手にこんなことを考えないといけないんですか)
再び突っ込みを入れる。どう考えても、悠相手に抱く感想ではない。仮に髪が特徴的だからという理由なのであれば、その感想を抱くべき相手はもっと近くにいるはずだ。
(……『べき』?)
感想の代わりに、何かの違和感を抱く。
一体、自分は今何を考えたのだろうか。アイリスの事を考えるのが、当たり前のようになっていなかっただろうか。
それは去年まではあり得なかった思考で。アイリスがすっかり自分の生活の中に溶け込んでしまっていることの証でもあった。
「……」
横目でちらりとアイリスの様子を窺う。アイリスの様子がおかしいのは、自分と相対している時だけ。全員が正面を向いている今、アイリスが緊張することなど何もないはずである。
案の定、その横顔には楽しそうな笑みだけが浮かんでいた。
「忙しいね、葵君と羽崎君」
「こっちに引きずり込んだ私達のせいですけどね」
「……」
自分の出番が終わり、待機場所に戻ってきてから少しして。先程まで自分達がいた場所では、四つの団を表す四色の旗がはためいている。それはつまり、葵が再びあの場所にいるということで。
もちろん、その姿を見失う訳もなく。碧依と紗季が何かを話しているのも気にかけず、ただひたすら後ろ姿を目で追っていた。
先程は女子生徒に混ざっていて、その集団の中では、葵は身長が高い方だった。けれども、今はその逆。男子生徒の集団に混ざってしまえば、むしろ葵の身長は低い方。そんな中でも体を目いっぱい動かして演技を続ける葵が、可愛く思えて仕方がなかった。
「早着替えだったね」
「上着を脱いで、別の衣装を羽織っただけなのを『早着替え』って言いますか?」
「で、その脱いだ衣装はちゃっかりアイリスさんが預かってるわけだ?」
「え?」
いきなり名前を呼ばれて、ようやく意識が二人に向く。数分ぶりに見た碧依と紗季の顔には、明らかな呆れの色が浮かんでいた。
「な、何かありました?」
「……聞いてなかったね」
「聞いてないですね、これ」
「ごめんなさい……」
碧依と紗季の言う通り、二人の会話は全く聞いていなかった。今も、ただ名前を呼ばれた気がしたから反応しただけであって、気になることがあったから反応した訳ではなかった。
「向こうに夢中になるのも分かるけど」
「夢中……!」
確かに、周囲からすればそう見えたのだろう。だが、改めて言葉にされると、どうしても恥ずかしいものがあった。
「湊先輩の衣装、しっかり抱き締めてるねって話」
「あっ……」
紗季の言葉で、ようやく自分が何を言われていたのか理解する。胸元で抱き締めるようにして持っていた衣装は、葵が次の演技に向かう時に脱いで、そのまま自分が受け取ったものだった。
「それ、どうするつもりだったのかなぁ?」
「ちゃ、ちゃんと葵さんに返しますよ……?」
「あぁ、そういえばアイリス、一緒に記念撮影したいって言ってたもんね」
思い出したように紗季が言う。思えば、一日練習でそう宣言した時、紗季も近くにいたような気がした。きっとその時のことを思い出しているのだろう。
「へぇ? その後やっぱり下さいとかってならない?」
「貰ったってどうしようも……」
「ほんとに? 二つ並べて部屋に飾ったりしない? 抱き締めて寝たりしない?」
「すっ、するわけがないじゃないですか! 私のことを何だと思って……!」
碧依の中での自分の立ち位置が気になる発言だった。一体どういう目で自分のことを見ていれば、すぐにそんな発想が浮かぶのか。
「……」
色々と碧依に言いたいことはあるものの、その光景を少しだけ想像してしまって、それ以上は何も言えなくなってしまったのも事実だが。
「あ、アイリス」
「なに!?」
「この際だから言っておくけど、水瀬先輩も気付いてるからね」
「は?」
重要な言葉が抜けているせいで、紗季が何を言いたいのかが分からず、思わず首を傾げそうになってしまった。その動きはしなかったものの、顔には表れてしまっているであろう自分に言えることがあるとすれば、どうせまともなことではないということだけだった。
「え、何に……?」
「アイリスが湊先輩のことをどう思ってるか」
「うそぉ!?」
衝撃の一言だった。周囲に聞こえないように配慮した小さな声ではあったが、受ける衝撃の大きさは何も変わらない。
「えっ!?」
思わず碧依の顔に視線を向ける。
「うん」
返事はたったの二文字。だが、何に対する肯定なのかは、この上なくはっきり分かってしまった。
「なんでですか!?」
自分史上最大級に混乱する中、口が勝手にそう問いかける。つい先程、紗季に問い詰められるまでは誰にもばれていないと思っていたのに、実際はそうではなかった。その驚きは、もしかすると想いに気付いた時の驚きよりも上かもしれなかった。
「何でも何も……。あ、最初に気付いたのは莉花でね?」
「渡井先輩までっ!?」
気付かれると一番まずそうな相手に、最初に気付かれていた悲劇。これからどんな未来が待ち受けているのか、想像したくもなかった。
「で、言われてみれば、最近のアイリスさんって完全にそうだなって」
「隠せてると思ってたのにぃ……!」
「冗談でしょ? あんなに露骨だったのに?」
「紗季は黙ってて……!」
自分では上手く誤魔化せているつもりだったのに、周囲から見れば全くそんなことはなかった。そんな評価を聞かされて、まともな精神状態を保てる訳がない。今すぐにでも帰って、そのままベッドの上で悶絶したい気分だった。
「気付いてないのは、多分葵君と羽崎君だけかな。まぁ、どっちもそういうことを考えてないからってだけだね」
「あ、葵さんは知らないんですか……?」
碧依がふと漏らした言葉に、一筋の希望を見る。
もうどうしようもなくなってしまった状況の中で、それでも守らなければならない、最後の一線。これでもし葵にまで知られているようなら、明日から不登校になる可能性すらある。
(……そうなったら、葵さんが迎えに来てくれる……?)
一瞬だけ、そんな都合がいいことを考えて、そして即座に掻き消した。いくら何でも葵に迷惑をかけ過ぎである。葵が甘やかし上手だといえども、流石にそこまで甘える訳にはいかない。
そうして空っぽになったスペースに、新たな想像が浮かんできた。
(気付いてたら……?)
浮かんできてほしくない想像だった。自分の想いに気付いたうえでの、これまでの態度だったとしたら。それはつまり、自分は何とも思われていないということで。
(やだ……! やだぁ……!)
葵の鼓動が速くなっていたのも、頬が微かに赤くなっていたのも知っているはずなのに、今はそのことを思い出すことができなかった。一度悪い想像が浮かんでしまえば、底なし沼に足を踏み入れてしまったかのように、なかなかそこから抜け出すことができない。
「何を想像して百面相してるのかは分からないけど、葵君は間違いなく気付いてないままだね」
「ほんと、ですか……?」
普段であれば、九割を冗談として考えている碧依の言葉。けれども、今はその言葉に縋ることしかできなかった。
「ほんとほんと。気付いてたら、流石にもう少し反応はあるはずだしね」
そう言って、碧依が校庭の真ん中へと視線を向ける。その先を追えば、見失うはずのない後ろ姿が、そこにあった。
「そんなわけで、『気付かれてるのにこの態度』ってのは考えなくていいからね?」
「……分かってるんじゃないですか」
「そんなに涙を浮かべてたらね」
「あ……」
言われて初めて気付く。昼休憩の時にも目尻に溜まった涙が、またしても今にも決壊しそうになっていた。
「そんな顔をしてたら、戻ってきた葵君に心配されちゃうよ? それとも、そっちの方が嬉しかったりする?」
「そんなわけ、ないです……」
からかわれていると理解しつつも、今はそう返すことしかできなかった。零れそうな涙をそっと拭いながら、やはり少しだけ想像してしまったから。
「そっか。じゃあ、ちゃんといつも通りに戻っておかないとね?」
「……」
そう言って優しそうに微笑む碧依は、同性の目から見てもやはり魅力的だった。一番気を付けないといけない相手はやはり碧依なのかもしれないと、こんな状況にあっても警戒心が生まれてしまう。
「あ、そうだ。一個だけ」
これまでとは違った意味で碧依への警戒心を抱いていると、まさにその碧依から怪しげな雰囲気の言葉が飛び出してきた。これまでも十分自分を驚かせる発言をしてきた訳だが、今度は何を言い出すつもりなのだろうか。
「葵君さ、自分が誰かとそういう風になるって考えたことがなさそうって言ったよね?」
「……言ってましたね」
今話したばかりのことを忘れる訳がない。だが、それが一体何だと言うのか。楽しげに笑う碧依の姿とは、その言葉がどうにも結びつかなかった。
「ってことは、そういうことに疎いってことでしょ? 頑張って押したら、意外と簡単に意識してくれるかもよ?」
「……っ!」
今度の驚きはプラスの方向。先程から散々浮き沈みを繰り返してきた心が、一気に明るい方向へと浮上していくのが自分でも感じ取れた。
「あ、さっきその話はしました」
「あれ? そうなの?」
「やっぱり考えることは同じですね」
「ね。これまでのアイリスさんみたいに押してたら、葵君はいつか落ちるね」
確かに、紗季と話していた時と同じような話ではある。だが、紗季とのやり取りでは出てこなかった情報もあった。
「意外と、簡単に……!?」
「そ。顔が真っ赤な葵君、可愛いと思わない?」
「あ、その話もしました」
「これも?」
「はい。それを聞いて、『頑張る』って言ってましたよ」
「……そっか」
今の微妙な間は何だったのだろうか。確認しておきたかったが、残念ながら頭の中はそれどころではない。
「でも……。あ、いや、これをアイリスの前で言うのもちょっとあれですけど……」
「大丈夫じゃない? 何か忙しそうで聞いてないみたいだし」
「何で忙しいんですかね?」
「聞く?」
「面倒なことになりそうなので、やめておきます」
随分なことを言われている気がするが、確かに今はとても忙しい。二人に構っている余裕など、どこにもありはしなかった。
「で、どうかした?」
「いや……、押したら簡単に落ちそうって、それはそれで不安では……?」
「浮気?」
「まぁ……」
「あそこまで真面目に振りきっちゃった人が?」
「それ、褒めてます?」
「微妙かも」
「ですよね」
「それに、あんなに頬が緩んじゃって可愛いアイリスさんを前にして、他に目移りできると思う? ちなみに、私はできません」
「……できなそうですね」
「そんなわけで、私は心配してないよ」
「まぁ、水瀬先輩がそう言うなら……」
妄想で忙しくしている中、碧依と紗季の会話に一区切りがついたような気配がした。念の為、何を話していたのかを後で確認しておいた方がいいのかもしれない。自分が聞いていないのをいいことに、好き勝手話していた可能性もある。
「あ」
「まだ何か言い忘れたことがあるんですか?」
「うん。さっき、羽崎君は気付いてないって言ったけど、私と莉花が話してるところにいたから、羽崎君も知ってるよ」
「なんでそういうことをするんですかぁ!?」
碧依の口から語られたあまりの内容に、思わず妄想の世界から戻ってきてしまった。
「なんっ……! なんでっ……!」
「いや、ごめんって。莉花が話し始めちゃったから……」
「もぉー!」
秘めていたはずの感情が、葵周辺の友人に知られ過ぎである。もう何かが吹っ切れたような、そんな気がした。
「お疲れ様でしたっ!」
「えっ……、あ、はい……?」
旗を振り回し終わって戻ってくれば、これまでとは明らかに様子が違うアイリスに出迎えられた。最近の妙におどおどしていたアイリスでもなければ、その前までのアイリスとも違う、謎の勢いがついた姿である。
「え? 何かありました?」
「全部葵さんと碧依先輩達のせいです」
「えぇ……?」
その変化が気になって尋ねてみれば、何も分からないままに責任だけを押し付けられてしまった。
「碧依先輩達には全部ばれましたし、葵さんは焦らなくてもいいって言ってくれましたし、私の感情はぐちゃぐちゃですよっ!」
「何をしたんですか?」
アイリスは答えを教えてくれないようなので、今度は名前が挙がった碧依に尋ねてみる。自分が校庭の真ん中で旗を振り回していた間に、一体どんな会話が交わされると、アイリスがこんな風に変貌するのだろうか。
「まぁ、その辺は内緒かな。流石に」
「言えないですよね」
碧依だけでなく、紗季からもそんな答えが返ってくる。「内緒」、「言えない」と表現する辺り、何も知らない訳ではないらしかった。ただ、二人して顔を見合わせて笑みを浮かべている様子から察するに、この二人もその答えを教えてくれそうにない。
「言えないけど、もう吹っ切れたみたいだよ?」
「吹っ切れたと言うか、吹っ切らせちゃったと言うか……」
「本当に何をしたんですか?」
あれだけおどおどしていたアイリスが、この短時間でいきなりここまでの変貌を遂げたのだ。当然見てはいないが、相当な荒療治だったのではないだろうか。
「大丈夫でした? 何か面倒なことでもされませんでした?」
「そういうところが私の感情をぐちゃぐちゃにするんですよっ」
「何なんですか」
純粋に心配しただけなのに、未だにアイリスの語気は強いまま。いよいよアイリスのことが分からなくなってくる。
「とにかくっ!」
「はい?」
「来週までにはなんて、もうそんなゆっくりしたことは言いませんから! 覚悟しておいてください!」
「僕、討ち取られでもするんですか?」
だとすれば、家の場所まで知られている以上、夜も安心して寝られない日々が続くことになる。それだけは是非とも勘弁してほしかった。
「すぐにそういう発想をする葵君、私は嫌いじゃないよ」
「葵さんは私のですっ」
「おぉ……?」
久しぶりに聞いた気がするその言葉と共に、左腕が抱き締められる。妙に力が入った行動で、まるで自分を碧依から守ろうとするかのような、そんな動きだった。いきなりのそんな行動を不思議に思いつつも、所有権を譲渡した覚えがないことだけはしっかりと自覚しておく。
「盗らないって」
「碧依先輩は完全には信用できないですもん」
「何でこんなに信用がないのかな……?」
「日頃の行いのせいです」
「うっ……!?」
すっかり調子を取り戻したアイリスの言葉が、碧依に深く突き刺さる。呻き声を上げて胸元を押さえている碧依を横目に見ながら、とりあえずはアイリスがまた明るく接してくれるようになってよかったと、無理矢理そう思うことにしておいた。
「一回目は無理、と」
「誰も一回でクリアできるなんて思ってないですよ」
歓声が響く中、自分が見つめる先でアイリスが校庭を駆け回っていた。
「後でどんなお題だったか聞いてみる?」
「そこまでやって、達成されなかったお題を供養するのが習わしです」
「何それ」
「湊君は去年供養できたの?」
「……」
「あーあ……」
「えっ?」
本人としては無意識だったのだろう。悠の一言に、悪意は一切感じなかった。だが、だからと言ってその言葉の切っ先が丸くなる訳でもない。
「あ……」
やや間を空けて、悠が失言に気付く。
「今、何を考えたんですか?」
「な、何でもないよ……?」
「僕の目を見て言えます?」
「……」
「見るんですよ」
「ごめんなさい……」
必死に目を逸らし続ける悠が、そう小さく呟く。よく見ると、頬が少しだけ引きつっていた。
「まぁ、別に気にしてないんですけど」
そんな様子を見てとりあえずは満足したので、ここで冗談だと明かしてしまう。この手の冗談にここまで綺麗に引っかかってくれるのは、アイリスと悠くらいのものだ。
「じゃあ今のは何だったの!?」
「遊びに決まってるじゃないですか」
「大真面目な顔をして冗談言わないでよ……」
「生まれつきこんな顔なもので」
「生まれつき可愛いってことだね!」
「碧依さんは黙っててください」
どう考えても余計なことを口走った碧依を制止する。こんなことを言い出した碧依を放っておくと、絶対にろくなことにならない。
「そもそも、僕がそんなことを気にするように見えます?」
「心の中では寂しがってたり……?」
「どこのヒロインですか?」
「ヒロインみたいに可愛いよね!」
「碧依さんは黙っててください」
どうやら、一度の制止では足りなかったらしい。逞しいと言えばいいのか、ただただ迷惑と言えばいいのか、実に悩ましいところだった。
どちらにせよ、友人に対して抱く感想ではないことだけは確かである。
「あ、でも羽崎君も可愛いし……。どっちがヒロイン……?」
「水瀬さんは静かにしてようね?」
迷惑な方だった。悠にまでこう言われるのは相当なことだ。
「構うと疲れるだけなので、放っておきましょうか」
「そうだね。しばらくすれば元に戻るよね」
放っておいてもおかなくても、結局ろくなことにはならなかった。それならば、放っておいた方が幾分か気は楽だ。一瞬で考えを一致させた悠と共に、碧依を視界から追いやってしまう。
「アイリスさんはどんな感じですか?」
「あ、ほんとに放っておくんですね」
「星野さんが相手してもいいんですよ?」
「遠慮しておきます」
アイリスの姿を追い続けていた紗季も、やり取りだけは聞いていたらしい。先輩であるはずの碧依に容赦のない一言を突き付けつつも、それでも自分達よりも言葉が優しいのは、流石に多少は配慮したからなのだろう。
「あれ? 私ってこんな立ち位置だったっけ?」
「それで? アイリスさんは?」
「さっき二つ目のお題も諦めて、今は三つ目を作ってます」
「順調ですね」
「順調、なんですかね?」
「順調に苦しんでますね」
「どんな略し方ですか」
軽口を交わしながら、紗季と同じようにアイリスへと視線を向ける。紗季の言葉通りなら、今は三つ目のお題のうち、二枚までを確定させたところだ。残りの一枚を手に入れるため、最後の障害物へ向かいながら、菜の花色の髪をなびかせていた。
「まだ誰もクリアできてないですね」
「それは薄々気付いてました。クリアしたらそのお題が発表されますからね。それがまだ聞こえてないってことは、ですよ」
「全員順調ってことですね」
「そういうことです」
言い回しを真似されながら、三枚目を手に入れたアイリスの様子を窺う。確定した三つ目のお題を吟味しているのか、その場で立ち止まったまま、少しの時が流れる。
「何か、さっきまでの様子とちょっと違いますね」
「もしかしたら、一番乗りもあり得るかもしれないですよ」
二つ目のお題の時は見ていなかったが、少なくとも一つ目の時は完成した瞬間にそのお題を廃棄していた。それなのに、三つ目はそうではなかった。ならば、少しでも可能性のあるお題が完成したのかもしれない。
そう思って様子を眺めていると、瑠璃色の瞳が自分を捉えているような気がした。距離が離れているので確信は持てないが、顔は明らかにこちらを向いている。
「こっちを見てません?」
隣で見ていた紗季も、当然そのことに気付く。やや不思議そうな声音で呟いて、自分の方を向いた気配があった。
「見て、ますね」
「湊君、狙われてる?」
「まさか……」
確かに、アイリスとは冗談でそんな話をした。だが、それはあくまで冗談であって、自分も、何ならアイリスですら、本気でそんなお題を完成させられるとは考えていなかったはずだ。
けれども、走り出したアイリスはどう見てもこちらへ向かってきている。
「こっちに来ますね」
「来ますね」
「覚悟しておいた方がいいんじゃない?」
「……」
まさか、本当に引きずり出されるのだろうか。もしそうだとすれば、一体どんな確率で引き当てたのだろうか。
そんなことを考えているうちに、とうとうアイリスが目の前で立ち止まってしまった。何かが吹っ切れたというアイリスの瞳が、自分をしっかりと捉える。
「有言実行っ、ですっ!」
息を切らせながらそう宣言するアイリスの表情は、やたらと晴れやかなものだった。
「……本当に?」
「ほんとっ、ですっ」
まだ信じきれなくて、そう聞き返す。だが、返ってきた答えは相変わらず自信に満ち溢れたもので。本当に狙っていたお題を完成させたのだと、そう納得せざるを得なかった。
「きちんと葵さんを引っ張り出せるお題を作りました!」
「まぁ、それなら一緒に行きますけど」
嬉しそうに笑うアイリスを前にして、わざわざ断る理由もない。そもそも、せっかく達成できるお題ができたのなら、協力は惜しまない。そう思って一歩踏み出したところで、アイリスの目が別の方向を向く。
その先にいたのは碧依。
「あ、碧依先輩も一緒に来てもらえますか?」
「え? 私も?」
完全に蚊帳の外だと思い込んでいたであろう碧依が、アイリスのそんな言葉を受けて意外そうな声を上げる。感情に釣られるように、目も少しだけ丸くなっていた。
「葵さんと碧依先輩がお題の答えです」
「僕と」
「私?」
碧依と二人して顔を見合わせて首を傾げる。簡単に想像できるお題ではないことくらい分かっているが、こうなってくるとどんなお題を完成させたのかが俄然気になってくる。
「後で分かりますから! 今は早く行きましょう!」
「あ」
「おぉ?」
そう言って、二人分の手を握ったアイリスが走り出す。
「行ってらっしゃい!」
「頑張ってくださいねー!」
引っ張られるようにして走り出したその背後から、悠と紗季の声が聞こえた。
大勢の観客から注目されている気配を感じつつ、ゴールへ向けて三人で校庭を駆ける。今のところ、この組ではまだ誰もゴールしていない。このままお題を達成することができれば、文句なしの一位となる。
「連れてきました!」
やがて、アイリスのそんな宣言と共に、ゴールテープ前で待つ実行委員の前に立つ。そこで待っていたのは、とても見覚えのある人物だった。
「何だかよく知ってる人達が集まってるね」
応援合戦の練習でアイリス達の世話をしていた雪が、目の前にいた。
「二人がお題の答えってことでいい?」
「はいっ」
「じゃあ、お題を確認させてもらうね」
そう言いながら、雪が若干息を切らせているアイリスからお題を受け取る。持っているマイクは、会場全体にお題の内容を紹介するため。そのマイクが雪の口元まで移動する。
そして、会場に響いたお題の内容は。
「『この高校の生徒、名前が同じ、男女一人ずつ』です」
ここまで来て、やっと理解する。このお題であれば、確かに自分と碧依が正解だ。他に正解となる組み合わせがあるのかは知らないが、アイリスにとっては随分と近場で揃うお題だった。
「これなら確かに私達だね」
「ですね」
自分と同じく、碧依も納得したように小さく頷く。
「このお題なら、本人に確認するまでもないね。私も二人の名前は知ってるし」
口元からマイクを離した雪が言う。この短期間で間違いなく大勢と関わってきた雪なのに、それでも名前を覚えられている。そうなってしまう程にインパクトのあることをした自覚はあった。
「二人の名前は『あおい』なので、お題はクリアです!」
再び会場に響いた宣言。それは、アイリスの一位を確定させる一言でもあった。
この組初めてのお題達成に、会場が湧く。その歓声を背にしたアイリスが、再び手を握ってきた。
「あとはゴールするだけですよ、葵さん、碧依先輩!」
そう言いきったアイリスが、そのままゴールへと向かう。順位が確定したこともあって、その足取りは先程までとは違って緩やかなもの。
「……」
「……」
同じく手を引かれる隣の碧依と、一度だけ目が合う。お互いに小さく頷いて、アイリスの隣に並ぶ。
雪がいた場所からゴールまで、遮るものは一切ない。ゆっくりと走り抜け、三人で揃ってゴールテープを切る。
「……」
横目でちらりと見たアイリスの顔には、随分と久しぶりに思えてしまう、弾けるような笑顔が浮かんでいた。




