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58. イベリス (3)

「食べて、もらえますか?」


 とうとう口にしてしまった、その一言。


 偶然とはいえ、悠がきっかけを作ってくれなければ、このまま何も言わずに流してしまっていたかもしれなかった、そんな提案。


「……え?」


 流石の葵もこれは想定していなかったようで、普段なかなか目にすることができない表情を浮かべていた。果たして、その心に宿した感情は一体何なのか。


「どっ、土曜日のっ!」

「土曜日……?」

「葵さんに貰った分の、お礼、ですっ」


 葵のことなので、悪い感情は抱いていないとは思っている。それでも、反応が薄いところを見てしまうと、どうしても不安は生まれてきてしまう。


 お礼でいきなり料理を作ってくるのは、重たくはなかっただろうか。聞いたことがある程度の料理を思い付きで作ってくるような葵が、ほとんど料理をしない自分の作ったものを美味しいと言って食べてくれるのか。そもそも受け取ってもらえるのか。


 そんな想像が頭の中をぐるぐると駆け巡り、紡ぐ言葉は途切れ途切れになる。周囲から見れば、今の自分の姿は随分と滑稽に映っていることだろう。だが、今は目の前にいる葵のことで頭の中がいっぱいだった。


「あー……、あれですか。そんなに気にしてもらわなくてもよかったんですけどね」

「でも……」

「アイリスさんの話をメイド服から逸らしたかっただけですから。……失敗しましたけど」

「私のおかげだね!」

「碧依さんの『せい』って言うんですよ」


 たどたどしい言葉でも、何が言いたかったのかは葵に伝わった。その中身を理解した途端に、葵の表情は困惑からいつもの穏やかなものへと移り変わっていく。これまで幾度となく目にしてきた表情だったが、どうにも恥ずかしくて目を逸らしてしまう。


 そしてすぐ、こんなことをして嫌われやしないかと不安に駆られ、ちらちらと葵の顔を覗き見る。この数日、何度も繰り返してきた動きだった。


「あの、それで……」

「あぁ、すみません。碧依さんのせいで」

「うん、確かに今のは私のせいだね」


 放っておけばうやむやになってしまいそうだった空気を、どうにか引き戻す。勇気を振り絞って提案したのだから、返事もないまま流れてしまうのは流石に避けたかった。


「それで? どうするの、葵君?」

「どうもこうも……」

「こんなに可愛い後輩が、愛情を込めて作ってきてくれたんだよ? まさか断ったりなんて……、ねぇ?」

「あいっ!?」

「反応しなくていいですよ」


 先程も同じやり取りを交わした気がした。何度聞いても、その言葉に慣れる未来が見えない。きっとこれからも、似たような言葉に似たような反応を返すのだろう。


 その一方で、葵の様子は変わったようには見えない。自分はこんなに狼狽えているというのに、いつも通りの葵が少しだけ恨めしかった。そして何より、そんな対象として見ていないと言われているようで、とても悲しかった。


(でも……、ちょっとだけどきどきしてくれたし……)


 最近知った、葵の内面。今や自分の想いを支える柱の一本になった、その出来事。それを考えれば、全く意識されていないとは言いきれないと思いたかった。


「で、お礼、でしたよね?」

「はいっ……!」

「せっかくですから、貰ってもいいですか?」

「も、もちろん、ですっ」


 一つの関門を越える、その言葉。それを聞いてすぐ、葵の手元に弁当箱を差し出す。実はここまで来てもまだ躊躇いはあるが、自分から言い出した以上、もう引き下がる訳にはいかない。


「どうぞ……!」


 差し出した弁当箱に入っている料理の中で、作ってきたのは葵に貰った二品と同じもの。慣れない作業でタイミングを逃し、少しだけ色が濃くなってしまった唐揚げと玉子焼き。玉子焼きに至っては、どれも形が歪んでしまっている。綺麗に巻いてあった葵のものと比べると、数段は見劣りしてしまう出来だった。


 それでも、体裁を取り繕うようなことはしなかった。今の自分にできるのは、これが限界。けれども、いつかもっと上手にできた時。その時にも隣で食べてほしいと、そんな願いも込めたからだった。


「えっと……?」


 だが、そんな想いまでは葵に伝わらない。伝わってしまうとそれはそれで大変なので、今は伝わらなくてよかったのだが。


 恐らく、葵の戸惑いの原因は、自分がどれを作ってきたのか分からないというところにあるのだろう。よくよく考えれば当然の疑問で、自分の配慮が足らなかったと言える。


「唐揚げと玉子焼き……」

「わざわざ同じものを?」

「頑張りましたっ……」


 一言、そう付け加える。もちろん、頑張ったからそれを評価してほしいなどと言うつもりはない。それでも、初めて作るには多少の手間がかかるその二品を選んだのは、葵が言うように、貰ったものがその二品だったから。


 だが、それが理由の全てではなかった。


(一緒のものを作れるようになりたかったからって言ったら、葵さんは……)


 言葉にして伝えることは絶対にできない、その理由。考えようによっては、誰かと同じ行動を取りたがっているだけに思えるのかもしれない。けれども、もちろんそんな意味であるはずもなく。


(一緒に作りたいって言ったら……)


 隣に並びたい。簡単に言えば、そういう意味だった。ちなみに、その様子を想像していた結果、唐揚げの色が若干濃くなった。


「じゃあ、いただきます」

「……」


 そんな自分の気持ちは露知らず、一言そう口にした葵の箸が伸びてくる。覚悟は決めたはずなのに、その動きを見ただけでもう揺らぎ始めていた。


 葵に貰ったものよりも少しだけ大きな唐揚げが、その口の中に消えていく。


 次に葵が口を開くまでの僅かな時間が、いつもよりも何倍も長く感じられた。おかしな味になっていないか、それが葵の表情に表れやしないか、固唾を飲んで見守る。


 ここには葵と自分以外に五人もいるはずなのに、高まった緊張のせいか、その話し声が一切耳に入ってこない。


「どうですか……?」


 次第に速くなっていく鼓動に耐えきれず、とうとう自分からそう切り出す。その感想がいいものであろうと悪いものであろうと、この静かな空間で耐え続けるよりはずっといい。もちろん、いい感想を貰えるに越したことはないけれども。


「美味しいです」

「……っ!」


 たったの一言。周囲から見れば、何の変哲もないその言葉。だが、今は何よりも待ち望んだ言葉だった。


 頬が熱く感じるのは、嬉しいからなのか。それとも、恥ずかしいからなのか。そんなことすらも分からなくなる程、その一言で頭の中が染まっていく。


 そして、自分でも理解できない感情で染まった頭は、さらに次の行動を命令する。


「それじゃあ、こっちも……!」

「えぇ。ありがとうございます」


 少し形が崩れた玉子焼き。勢い付いて差し出したそれが、再び葵の口の中へと消えていった。


「甘めなんですね」

「葵さんがそうだったので……」

「覚えてたんですか」


 忘れる訳がなかった。本人にとっては些細なことなのかもしれないが、なかなか自らのことを教えてくれない葵のそんな好みは、何よりも大切な情報だった。


「美味しいの?」


 完全に意識の外側にいた碧依から、何故か感想を求める声が上がる。


「えぇ。美味しいです」


 対する葵が、二度目となるその一言を口にする。いつも以上に穏やかに笑っているその姿を見ていると、どうにも頬が緩むのを止められない。


「ふーん……」

「何です?」

「何でも?」

「いやいや……」


 明らかに何かを考えているのに隠そうとする碧依に、葵が呆れたような反応を返している。だが、今はそんなことはどうでもいい。そもそも、碧依のことを気にしている余裕などない。


「まだありますからっ。残りもどうぞっ……!」

「それなら、アイリスさんも僕のからいくつか持っていっていいですよ」

「……え」


 考えてもいなかった、そんな提案。自分のものとは入れ替わりで差し出された弁当箱の中には、いくつかの料理が整然と並んでいる。今の自分では、絶対に作り上げることができない代物だった。


「アイリスさんからも貰いますし、全部食べるとちょっと多いので」

「あ……、その、考えてなかったです……。ごめんなさい……」


 今の今まで気付かなかった、その事実。確かに、葵にたくさん食べるイメージは一切ない。自身で食べるのにちょうどの量を作ってきたはずなのに、そこにさらに追加されるとどうなるかなど、少し考えれば気付けたはずのことだった。


 結局自分のことしか考えていなかったように思えてしまって、高揚した気分が急激に萎んでいく。


「わざわざ謝ってくれなくても……」

「でも……」

「それに、アイリスさんは『美味しい』って言って食べてくれましたからね。せっかく分けるなら、そういう人に食べてもらいたいです」


 これは気を遣われているのか。それとも素で言っているのか。普通に考えれば、気を遣われているのだろう。だが、相手は葵である。たまにこんなことを口にするのを、これまで幾度となく聞いてきた。そのことを考えると、本気で言っていてもおかしくはない。


 いずれにせよ、聞いているこちらの頬が赤くなりそうな一言だった。これ以上赤くなれるのなら、だが。


「ということで、どうぞ。どれでもいいですよ?」


 さらに差し出される弁当箱。机の上でお互いの弁当箱が入れ替わってしまったような見た目だった。


「そ、それじゃあ……」


 ここまで言ってくれているのに、それでもずっと遠慮し続けるのも失礼だろうと、控えに一言呟いてからゆっくりと箸を伸ばす。その向かう先は、先程からずっと気になっていた、名前だけしか知らない一品。


 こんな場所で目にするとは思いもしなかったそれを、恐る恐る口へと運ぶ。


「あ……、美味しい、です」

「よかったです。初めて作ったので、実はそんなに自信がなかったんですよね」


 葵の顔が嬉しそうに綻ぶ。他の機会ではあまり見ることがない表情だった。料理が好きと公言するだけあって、その辺りを認めてもらえるのは、やはり特別なことなのかもしれない。


「ちょっとふわふわ……?」

「それは焼きましたけど、蒸すともっとふわふわらしいですよ?」

「もっとふわふわ……!」


 その一言で、俄然興味が湧いてくる。レティシアに頼めば作ってもらえるだろうか。蒸すというのが難しそうだが、レティシアなら、頼まれると喜々として作り始める可能性はある。


 もしくは。


(葵さんがうちで……。……っ!?)


 家のキッチンに葵が立っている姿を想像してしまって、慌ててそのイメージを振り払う。流石に、その光景はまだ刺激が強かった。


 ただ、一つだけ言うとしたら。エプロン姿はとても似合っていた。


 もう一つ言うとしたら。その葵の隣に立っているのは、悲しいかな、レティシアだった。自分が立っている未来は、まだ描けない。


「どうかしました?」

「何にもありませんけどっ!?」

「はぁ……?」


 ある意味ぴったりのタイミングで話しかけられてしまって、思わず語気が強くなる。その意味も分からず、不思議そうに首を傾げる葵の表情が印象的だった。




「湊先輩」

「何です?」

「アイリス、ちょっと借りていいですか?」

「私?」

「どうして僕に?」

「保護者の許可はいるかなー……と」

「誰が保護者ですか」


 心臓がとても忙しかった昼食を終えて、少しした頃。紗季が葵に対していきなりそんなことを切り出した。


「何で私に聞かないの?」

「断られても無理矢理連れ出すから」

「何をする気?」


 ここ数日、紗季や純奈に対しても面倒な態度を取ってしまっていることは自覚している。だが、今の紗季の言葉は怪し過ぎて、思わず素の反応が漏れ出してしまった。


「気にしなくていいから。それで、湊先輩はどうですか?」

「いや、アイリスさんがいいなら、別にいいんじゃないですか?」


 再度紗季に尋ねられた葵が、至極当然の返事をしていた。言い方を変えれば、それ以外に答えようがないとも言う。


「ありがとうございます。じゃあ行くよ、アイリス」

「え、やだ……」

「わがまま言わないの」

「わがまま……?」


 何か理不尽なことを言われている気がした。何をされるか分かったものではないのに、進んでついていきたがる者はいないだろう。もちろん、自分も例外ではない。


「まぁまぁ。大事なことだから」

「えー……?」


 こんなことを考えるのもどうかとは思うが、紗季のいつもの様子からして、こんな風に言っていたとしてもそこまで大事なことには思えない。他の人に聞かれて困るような話でもないのなら、この場でもいいのではないか。そんな考えが頭に浮かぶ。


 何より、ここなら人も多い。紗季が奇行に走った時、それを食い止めてくれる人がいる方が安心ではあった。ちなみに、奇行を援護するかもしれない人もいることに関しては、一切考えないことにしている。


 そんな風に思っていると、紗季が耳元に顔を寄せてきた。自分が一切動こうとしないのを見かねて、何事かを囁こうという魂胆だろうか。生憎だが、何を言われても大人しくついていく気はない。


 そうして囁かれた、他の人には絶対に聞こえない小さな声。


「湊先輩のことだけど」

「分かった。どこに行く?」


 ついていくことが確定した。再び素に戻るのも当然だった。


 この場で話すのは絶対に避けるべき話題である。紗季が何を言い出すのか分からない以上、葵がいる場というのはどう考えてもよくなかった。


「え? 何?」


 自分のあまりの変わり身の早さに、純奈が驚きの表情を浮かべる。傍から見れば、随分と急な心変わりに見えたことだろう。だが、そんなことはいちいち気にしていられない。


「じゃあ、ちょっと行ってきますね。少ししたら戻ってくると思うので」


 紗季がそう言って席を立つ。どこへ行こうとしているのかは知らないが、今はついていく以外の選択肢はない。黙って紗季の後に続く。


「何なんだろうね?」

「さぁ?」


 背後で碧依が首を傾げる気配がした。対する葵の返事も、どこか曖昧なもの。学年屈指の頭脳を持つ二人でも、紗季の意図は読めないらしい。


「碧依に聞かれたくないことを話そうとしてるとか」

「だったら莉花の方があり得そうでしょ」

「は?」

「は?」

「それ好きだね、二人共」


 どこか呆れたような悠の声も聞こえる。きっと、何度も繰り返されてきたやり取りなのだろう。その度に今の言葉を呟く悠の姿が、簡単に想像できた。


 そして、莉花の想像は意外と惜しいところまで迫っていた。「碧依」ではなく、「葵」の話だが。


「……」


 もちろん、そんなことを考えていても、何かを口に出すことはないのだが。


 教室を出た紗季の背中を黙って追いかける。教室の涼しい空気に慣れた体には、昼下がりの熱気は堪えるものがあった。日が直接当たらない屋内でこの暑さなのだから、外は一体どうなってしまっているのか。自分で考えておきながら、その先はあまり想像したくなかった。


(日焼け止め、塗り直しておかないと……)


 想像したくない外の様子を想像しかけて、そんなことを思い出す。言葉自体は冗談だったが、それでも葵が綺麗と評してくれた肌はしっかりと守りたい。想い人の前に立つのなら、内面はもちろんのこと、外見のいいところだって見てほしかった。


 そう考えていたからなのか、無意識に日陰を通りながら紗季の横に並ぶ。


「どこに行くつもり?」

「人気がないところ」

「言い方」


 発言の怪しさが極まっていた。




 そうして辿り着いたのは、実験室の前。一学期の化学の授業で一回だけ訪れたことがある部屋だ。近くにあるのも、似たような頻度でしか訪れないような特殊な教室ばかりである。紗季の言う通り、全くと言っていい程人気がない場所だった。


 イベント事特有の賑やかな雰囲気が漂う校内にあって、その空気が全く届かないこの場所は、そこだけ周囲から切り離されたような感覚すら抱かせる。心なしか、肌を撫でる空気もひんやりとしているような気がした。


 そんな特別教室が並んだ長い廊下の、その中程。確かにここなら、どこから人が来ても話を聞かれる心配はないだろう。


「ここなら大丈夫かな……?」


 呟いた紗季が、ようやく足を止める。葵達二年生の教室とは、その階すら違っている。普段の紗季からは考えられない程の念の入れようだった。


「こんなところまで来る必要ってあった?」


 純粋に疑問に思う。葵の何について話すつもりなのかはまだ分からないままだが、ここまでの様子を見せられると、流石に不安にもなってくる。


 そもそも、怖がりの自分がこんな場所を訪れるというだけでも、不安に思っておかしくはない。いくら紗季が一緒にいたとしても、人気がなくて少しだけ不気味な雰囲気ということには変わりない。空気の流れがほとんどないせいか、独特の香りが漂ったままなのも、そんな雰囲気を助長していた。


「こんなところまで来ておいてよかったって思うはずだから」

「うん?」


 紗季の言葉がどうにも上手く理解できない。だが、連れ出した本人がそう言うのならきっとそうなのだろうと、無理矢理自分を納得させる。


「まぁ、いいけど……。それで? 葵さんがどうかしたの?」


 本人がいない場では、どうにかいつも通りと言えるまでに気持ちを落ち着かせることができていた。裏を返せば、いつまで経っても、本人を前にすると落ち着きを失うということを示しているが。


「あんまり回りくどいのって好きじゃないから、はっきり言うけどさ……」


 この場の空気のせいもあるが、休憩時間のこともある。早く話を進めた方がいいだろうと思って切り出せば、紗季がそんな前置きをして、言葉を一旦区切る。


 果たして、何を言い出そうというのか。こんな場所まで来ていつも通りの冗談を言い始めるようなら、その場で踵を返す可能性すらあった。


「アイリスさ。湊先輩のこと、好きだよね?」

「……え?」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。それは、単に上手く聞き取れなかったせいなのか。それとも、頭が理解することを拒んだせいなのか。


 いずれにせよ、僅かな沈黙が生まれたのは事実だった。


「『男の人として』って意味だからね。いつもの『先輩として』って言葉はいらないから」

「はぃ!?」


 そんな沈黙を埋めるかのように、紗季がさらに踏み込んでくる。ようやく何を言われたのかを理解して。そして、いつもの軽口を封じられて。口から飛び出したのは、驚愕の一色に染まった声だった。


「え!? えっ……!?」

「気付いたのはついさっきなんだけどね。あ、いや、好きなのはずっと前から気付いてて、それをやっと自覚したのかって気付いたのがついさっきってことで……」


 紗季が何かを言っているが、一言も上手く処理できない。まさかこんな話だとは思ってもいなかったので、完全に不意を突かれた形になってしまった。


「ちっ、違っ……!?」

「誤魔化すのはなしね。真面目な話だから」

「う……!」


 正解ど真ん中の紗季の言葉に、思わず否定の言葉が漏れかける。だが、軽口に続いて、誤魔化しの言葉までも封じられる。本当に真面目そうな顔で言っている辺り、そこにいつもの冗談は含まれていないようだった。


「そうなんだよね?」

「……」


 心の奥底まで見透かしていそうな瞳に正面から見つめられ、逃げ場などないことを悟る。


「好きなんだよね?」

「……はい……」


 観念するより他なかった。どうにか絞り出した声は本当に小さなもので、こんな場所でなければ、周囲の喧噪に掻き消されていたことだろう。


 そして、紗季にこんなところまで連れてこられた理由が、やっとはっきりした。これは確かにこんな場所でなければ話せない。誰かに聞かれる訳にはいかないうえ、熱くて仕方がない顔を誰かに見られる訳にもいかない。そういった意味では、ここを選んだ紗季には感謝の言葉すら浮かんでくる始末だった。


「そっかぁ……、やっとかぁ……」

「……っ」


 感慨深そうに呟く紗季。随分と前から自分の感情を見抜いていたと言わんばかりの、そんな言葉だった。そう思われていたことを知ると、改めて羞恥の感情がこみ上げてくる。一体、これまでの紗季は自分の行動をどう見ていたのだろう。知りたいような、けれども知ると後悔しそうな、奇妙な感覚を抱いてしまう。


「あ、ここからも真面目な話なんだけど」

「なにぃ……?」


 もう既に心が折れそうだった。話の入口の部分でこの有様なのだから、これ以上触れられると、早々に限界を迎えるのは自明の理だ。なるべくお手柔らかに頼みたい。


「アイリスはさ、水瀬先輩ってどう思う?」

「え?」


 再びの思ってもいなかった一言に、またしても驚きの声が漏れてしまう。ただし、今度はやや控えめな驚きの声だった。


「……」


 てっきり葵のことを聞かれるものだと思っていたのに、実際に聞かれたのは碧依のこと。何も準備していなかったせいで、すぐには言葉が出てこなかった。


 もちろん、葵のことだったとしても、すぐに言葉が出てきたとは思えないけれども。


「碧依先輩の、こと……?」

「そ」


 一瞬、「湊」と「水瀬」を聞き間違えたのかとも思ったが、やはりそうでもないらしい。今の冷静さを欠いた自分の頭と耳なら、そんな可能性も十分にあり得たのだが。


 とにかく、尋ねられているのは碧依のことで確定した。だが、いきなりどう思うと言われたところで、何を答えるべきなのか分からないのも、また事実である。


「どうって……?」


 葵のことではなかったおかげと言っていいのかは分からないが、多少は冷静さを取り戻しつつある中での、そんな疑問。その戸惑いが紗季にも伝わったのか、次に口を開いたのは紗季だった。


「聞き方を変えようか。水瀬先輩さ、可愛いよね?」

「可愛い。ずるい」


 紗季の質問に対する答えは、自分でも驚く程あっという間に口から飛び出していった。


 常日頃から思ってはいた。あの見た目はもちろんのこと、その身に纏う優しげな雰囲気。反面、接してみると分かる、意外と悪戯好きなところ。その結果生み出される親しみやすさ。どこを切り取っても、可愛い要素しかなかった。


「アイリスもそう思うよね。で、そんな水瀬先輩が湊先輩のすぐ近くにいるのって、どう思う?」

「うん……?」


 碧依の話をしていたはずなのに、いきなり葵に繋がって訳が分からなくなる。今の自分は、葵のことが何も分からない状態なのである。


「今は何もないみたいだけど、例えば湊先輩が水瀬先輩のことを好きになっちゃったら?その反対でもいいけど」

「あ……」


 これまで考えたこともなかった。それどころか、考えたくなくて、無意識に目を逸らしていたのかもしれない。


 けれども、紗季の言葉を受けて、頭の中に二人の姿が浮かび上がる。その距離は、今までよりもずっと近いもの。自分よりも「少しだけ」背が高い葵と、自分よりも「ほんの少しだけ」背が高い碧依。その二人が腕を組んでいる姿は、一枚の絵のように綺麗な光景だった。


「……」

「どう?」


 綺麗な光景ではあったが、それを認めたいかと問われると、当然そんな訳もなく。葵の隣にいるのが自分ではなく碧依であることが。そして、そうなってしまえば、自分の傍から葵が離れていってしまうであろうことが、この上なく辛かった。


「やだぁ……!」

「うわぁ!? 泣くな泣くな!」


 思わず瞳に涙が浮かぶ。認めたくなくて、だが認めざるを得ない光景で。それでもやはり隣には自分がいたくて。色々な感情が入り混じった結果の涙だった。


 そんな姿は流石に想定していなかったのか、滲む視界の中で紗季が大いに慌てている。


「仮の話だから! まだそうって決まったわけじゃないから!」

「うん……」


 分かってはいる。ずっと見つめ続けてきた葵に、碧依に対するそんな感情がないであろうことは。碧依の方にも、今のところはそういった兆候は見られない。けれども、頭で理解するのと感情は別で。一度浮かんでしまった光景は、そう簡単には消えてくれそうになかった。


「そんなになるくらい好きなのに、何で今まで気付かなかったかなぁ……?」


 紗季の言葉も当然の感想である。何なら、自分でもそう思いはした。


「……それで、紗季は何が言いたいの?」


 頭の中の光景もまとめて拭い去るように、浮かんだ涙を指先で拭いながら紗季に問う。このままでは、ただ恥ずかしい思いをして、ただ辛い思いをしただけ。それだけのためにこんな場所に連れてこられたとは思いたくなかった。


「今みたいな態度じゃ、何にも変わらないからねって話」

「今みたいな態度……?」


 ようやく落ち着きを取り戻しつつある自分の姿を見て、紗季が真面目そうな顔でそう口にする。今の自分であれば、少しは厳しいことを言っても受け止められると判断してのことだったのだろう。


「うん。緊張するのは仕方ないのかもだけど。ずっとおどおどしてたとして、湊先輩の方から近付いてきてくれると思う?」

「……それ、は……」

「ちなみに、私は思わない。それはね、湊先輩のことはアイリスの方がよく知ってるんだろうけど、そんなに付き合いが多くない私でも、それくらいは想像できる」


 正直な話をすれば、そこは紗季と同じ意見である。春から一緒に過ごしてきた時間で、その程度は理解しているつもりだった。


 少なくとも、今の葵がそういった意味で自ら誰かに踏み込むことはないはずだ。それどころか、異性をそういった目で見ているのかすら、断言できないところがある。


「で、アイリスはどう思う?」

「絶対、近付いてきてくれない……」

「だよね」


 賛同を得た紗季の言葉が続く。


「ってことは、結局アイリスの方が頑張らないとだめなわけ。なのに、ずーっとそんな風に引いてるんだったら、その先はないよねって」

「あぅ……」


 そんなことは、言われるまでもなく分かってはいる。ここ数か月、誰よりも葵のことを見つめ続けてきた自信がある自分だからこそ、その可能性には真っ先に辿り着いた。


 けれども、初めての感情に振り回される中で、知らず知らずのうちに見ないふり、気付かないふりをしてしまっていた。


 そして何より、自分からそこまで踏み込む勇気が出なかった。


「ど、どうすれば……?」

「いや、さっき自分で言ってたんだから、分かってるでしょ」

「え?」

「頑張っていつも通りに戻るって。それでいいんじゃないの?」

「……?」


 求めた助けに対する答えは、いまいち理解できないものだった。午前中、確かに葵に対してそんな宣言はした。自分自身、いつまでもこの態度を取り続ける訳にはいかないと思っていたことに加え、そもそも、葵とまともに会話ができないのが嫌だった。


 そんな思いが正解とは、果たしてどういう意味なのだろうか。


「これまでお互いにそういう相手として見てなかっただけで、最初から距離感は割とおかしかったでしょ?」

「おかしいって……」


 その言い方に引っかかるものはあるが、否定はできない。想いを自覚して以降、これまでの距離感を思い出しては悶絶するというサイクルを繰り返したからだ。


「だったら、これからもそうやって距離を詰めるしかないよね。さっきは危機感を煽るのに水瀬先輩のことを持ち出したけど、はっきり言って、アイリスだっておかしいくらいに可愛いんだから。意識させちゃえばこっちのものだって」

「意識……」

「要は、落とせってことだね」

「落とっ……!?」


 話がやや過激な方向に転がり始める。再び顔が熱を帯び始めた。


「今更何で恥ずかしがってるの?」

「だってぇ……!」

「直接食べさせてもらってたのに?」

「ひぅっ!」

「肩に寄り掛かって寝たのに?」

「あぁあ……!」


 紗季の一言一言に、先程とは違った意味で目尻に涙が溜まる。萎んでいた羞恥心が、自らの使命を思い出したかのように膨らんでいく。


「ま、とにかく、アイリスはできるだけ早くいつも通りに戻ること。話はそれからだね」

「戻れないぃ……!」


 今の話を聞いて、一体誰が元に戻れるというのか。無理難題にも程がある。


「じゃあ、とっておきの想像をさせてあげよう」


 煽るだけ煽って終わりにするのは流石に気が引けたのか、紗季がそんなことを言い出した。だが、にやにやと笑って人差し指を立てる紗季の姿からは、不安の色しか漂ってこない。


「アイリスのことを見てはっきり照れてる湊先輩、可愛いと思うんだよね」

「……っ!」


 何を言うつもりなのかと思っていたところに、とんでもない言葉をぶつけられてしまった。まるで頭を殴られたような衝撃である。


 自分の行動が原因で顔を真っ赤にして照れている葵の姿が、はっきりと頭の中に浮かぶ。これまでの葵からは想像しにくい姿だが、これから先意識してもらえれば、そんな姿も見られるのだろうか。


 例えば、腕を組んだ時。流石にまだハードルは高いが、正面から抱き付いた時。普段は落ち着いている葵が、落ち着きなく視線を彷徨わせる。そんな未来は、自分の頑張り次第では、もしかしたら訪れるものなのかもしれない。


 そう考えれば、答えは一つしかなかった。


「頑張るっ……!」

「……うん、まあ、アイリスがそれでいいなら、何も言うことはないんだけど」


 それでいいのかとでも言いたげな紗季だったが、自分にとっては立派な行動原理の一つだった。


「何かあったら、紗季も協力してくれる……?」


 それでも、不安なことには変わりない。自分ではどうにもならなくなった時、「物怖じ」というイメージからは程遠い、目の前の友人の助けがあれば心強い。


「いや、しないけど」

「なんでぇ!?」


 そう思っての提案だったのに、にべもなくあっさりと断られた。今の流れは、どう考えても協力してくれる流れだったはずだ。当たり前のように首を横に振った紗季に、最後の最後で梯子を外された気分だった。


「だって、私が出しゃばったところで、最後に頑張らないといけないのはアイリスでしょ?だったら、せっかくなんだし最初から全部頑張ってみなよ」

「でもぉ……」

「ほんとにどうしようもなくなったら、その時は相談に乗るくらいはしてあげるから」

「うん……」


 いつもの軽口なのかと思えば、案外こちらのことを考えたうえでの言葉だった。そこまで言われて、それでもなお縋りつくことは流石にできない。


「よし、じゃあアイリスの決心もついたことだし、そろそろ戻ろうか。愛しの『葵さん』も待ってるしね?」

「もぉー……!」


 そうかと思えば、実に楽しそうな笑みから、いつもの軽口が飛び出してくる。どんな時でも絶妙に締まらない友人なのだった。

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