57. イベリス (2)
「勝った勝った!」
「やりましたね。大活躍だったじゃないですか」
「でしょー? 頑張ったんだから!」
「ちゃんと見てましたよー! 水瀬先輩、結構入ってましたね!」
「自分でもびっくりするくらいに入っちゃったよね!」
玉入れが終わって、参加していたアイリスと碧依が帰ってきた。結果は、碧依が喜んでいる通り一位。それも、二位以下を大きく引き離しての圧勝劇だった。
「アイリスさんも。お疲れ様です」
「……全く活躍できませんでしたけどね」
勝利に大いに貢献した碧依とは対称的なのが、ほとんど関わることができなかったアイリス。結局、片手で数えられるだけしか、玉が入っていなかった。
「団としては勝ったんですから、そこまで気にしなくても」
「でも、ちょっとくらいはいいところを見せたいじゃないですか……」
俯き加減でそう言う辺り、本気で悔しがっているのだろう。玉入れにそこまでの思い入れがあるのか、それとも何か別の理由があるのか。その答えは、アイリスのみが知る。
「アイリスぅ……」
「な、なに……?」
碧依のことは一通り褒めちぎり終えたのか、紗季がこれ以上ない程に楽しそうな笑みを浮かべながら、今度はアイリスに絡み始めた。その表情に何かの危険を察知したのか、アイリスは若干及び腰である。外野から見ても、恐らくその判断は正しい。
「湊先輩が応援してくれた時だけ入ってたね?」
「うっ……」
「喜んでるアイリス、可愛かったよ?」
「なぁっ……!?」
案の定、面倒な絡み方を始めた紗季。そして、話の内容からして、絶妙に外野とも言いきれない立場だった。
「嬉しかったのは、玉がカゴに入ったからかな? それとも、応援してもらえたからかな?」
「ちゃ、ちゃんとカゴに入ったからに決まってるでしょ?」
「ほんとぉ?」
「ほんとですからねっ!?」
「何で僕に言うんですか」
慌てたように言うアイリスだったが、それを言うべき相手は紗季だろう。自分の方を向いてそんなことを言われても、反応に困るだけだ。
「へぇ。じゃあ、湊先輩の応援はそんなに嬉しくなかったって……」
「嬉しかったに決まってるでしょ!?」
「お、おう……。そっか……」
勢い余って被せるように言いきったアイリスに、からかっているはずの紗季の方が気圧されていた。それを見ているだけだった自分も、実は少しだけ驚いている。
「あ、その……。応援、ありがとうございました……!」
これまで紗季と話していた時とは違って、大事に言葉を選んでいるかのような、そんな一言。そこまで気を遣わなくてもと思いはしつつも、そうしてくれたこと自体は嬉しかった。
「どういたしまして……で、いいんですかね?」
いまいち返しの言葉に自信がない。細かいことだと自覚してはいるが、気になるものは気になるのだから仕方がない。
「葵君のあんな大声、聞いたことがなくてちょっと驚いちゃった」
「だよね。僕も横で聞いててびっくりした」
そんなくだらないことを考えていると、先程の悠や紗季と同じ感想が、碧依からも出てきた。確かにあまり大きな声は出さないが、だからと言ってそんなに印象に残るような出来事だっただろうか。
「あんな声も出せたんだね?」
「こんな時くらいにしか出ないですけどね」
普段から大声が必要になるような生活は送っていない。必然、他者が耳にする機会が減って珍しく感じるだけだ。
「向こう、結構騒がしかったんだけど、葵君の声はちゃんと聞こえたもんね」
「届いてたのなら、それでいいです」
アイリスが反応した時点で聞こえているのは分かっていたが。こうして改めて届いていたことを確認できると、より安心できるというだけである。
「私向けの応援はなかった気がするなぁ……?」
「……」
安心したのも束の間、碧依の声の質が一気に変わる。具体的に言えば、熱気が漂う校庭にいるのに、うっすらと肌寒さを感じるような声だった。心なしか、視線も冷たいような気がする。
「……気のせいじゃないですか?」
「私向けの可愛い声の応援はなかった気がするなぁ……?」
「それはしてないです」
それは気のせいではない。
「何でなかったの?」
「……」
「何で?」
「……どうせ結構入ってましたし、大丈夫かなと」
アイリスが紗季に押されていたように、自分は碧依に押される。放っておくと物理的に距離まで詰めてきそうな碧依の雰囲気に、どうしようもないことを悟って素直に白状してしまうのだった。
「友達に対する愛情が足りてないよ!」
「はい……。すみませんでした……」
これに関しては自分が全面的に悪いので、何も言うことはできない。アイリスの方に気を取られて、あまり碧依に意識を割いていなかったのは事実だ。
「なにー? 愛情を込めるのはアイリスさんにだけってこと?」
「あいっ……!?」
「反応しなくていいです」
碧依の露骨な言葉に反応するアイリス。頬を染めて、分かりやすく狼狽えていた。
「だっ、大丈夫ですっ。ちゃんと葵さんの愛情は感じましたから……!」
「流石にそこまでの感情は込めてないです」
アイリスは一体何を感じ取ったのだろうか。あわあわと慌てながら言っている様子を見ていると、そんなことを尋ねるのが正解とは思えなかったが。
「この恨み、どう晴らそうか……」
「そこまでですか?」
体育祭で応援されることに全力を傾け過ぎである。どうして発言がここまで物騒で怖いのだろうか。
「じゃあさ、考えてみてよ。この後の二人三脚で、羽崎君ばっかり応援されて、葵君は全然応援されないって状況」
「何も気になりませんけど」
「……そうだね。葵君はそういう人だもんね。聞いた私が間違ってたよ」
「はぁ……?」
片方ばかり応援されて複雑な気持ちになるのも、先程はその配慮が欠けていたのも認める。だが、その感情を自分が抱くかと言われると、それは話が別である。そもそも、自分を応援されるような人間だと思っていない時点で、そんな感情は最初から存在していない。
「ま、今度ナース服を着てくれるだろうし、それでいいや」
「着ませんよ?」
「何が何でも着せてあげるよ」
「何をするつもりですか」
身の危険すら感じる発言だった。何をしでかすか分からないという意味では莉花が一番だが、実はその陰に隠れて、碧依も十分な危険人物だったりする。その碧依がここまで言うのだから、恐怖は天井知らずである。ホラー映画よりもよっぽど恐ろしい。
「しっかり勉強して、一気に点数を上げてあげるから」
「……そこはちゃんとした方法なんですね」
碧依自身は成績が上がり、学校側も文句なし。誰も損をすることがない、至ってまともな手段だった。その結果に、男子高校生の女装、もといコスプレが賭けられていることを除けば、だが。
「とりあえずは九百点くらいかな……?」
「その程度じゃ負けませんね」
碧依には悪いが、そんな点数では仮に負けたかったとしても負けることができない。目指すなら、もっと遥か高みを目指す必要がある。
「湊君、今九百点を『その程度』って言った……?」
「気にしちゃだめです、羽崎先輩。迂闊に触れると私達が怪我をします」
紗季から随分な扱いをされている気がするが、今は関係ない。気にした先に待っているのはナース服である。
「ちなみに言っておくと、着てもらおうと思っているナース服はスカートタイプです。最近よく見る男女兼用のデザインじゃないから、覚悟しておいてね」
「その情報は必要でした?」
「ちょっと短めのを選んであるから」
「いらない情報ですよね?」
聞けば聞く程、恐ろしい事態が進行していることを実感する。どうしてただの試験にここまでのものが賭けられているのか、本当に謎だった。
「いや、勝てば着なくていいんですよね……。勝てば……」
「そっちはそっちで、フリーゼさんが用意したメイド服が待ってるけどね」
「……」
どちらがいいかと尋ねられると、どちらも嫌と答えるだろう。だが、絶対にどちらかを選べと言われたら、種類によっては肌がほとんど隠れる可能性があるメイド服を選ぶ。つまり、一縷の望みに賭けて点数を稼いだ方がいい。
引き分け狙いに関しては完全に諦めている。
「アイリスはどんなのを用意するつもり?」
「ミニスカメイド」
「らしいですよ、湊先輩」
「……」
希望など、最初からありはしなかった。
「勝ち……、負け……?」
「湊君がおかしくなっちゃったけど」
「可哀想にね……」
「水瀬さんが原因の半分だからね?」
「目が虚ろな湊先輩なんて、初めて見ました」
「……ちょっとだけ、可愛いかも……?」
「戻っておいで、アイリス。そっちは開いちゃいけない扉だから」
四人が何かを話しているが、まともに耳に入ってこない。聞こえるのは、今行われている騎馬戦で盛り上がる校庭の喧噪だけだった。
「葵君、何かすっごく疲れてそうじゃない?」
「ですね。息も荒そうですし……」
碧依と紗季が隣でそう話している。そんなことは、聞かずとも見ていれば明らかだった。
葵が出場すると言っていた大縄跳び。まさに今、それが行われている最中だった。
葵がどの辺りで跳んでいるのかは、探す必要すらない。集団で一番目立つ場所、すなわち、先頭にいた。
その様子は、普段とはかけ離れた姿。表情は険しく、足元もふらついている。
「葵さん……?」
思わず不安になる。表情が険しいのは、具合が悪いからではないか。足元がふらついているのは、怪我をしたからではないのか。そんな悪い想像ばかりが浮かんで、無意識に拳に力が入る。
「あれね、場所が悪いんだよ」
不安が頭の中をぐるぐると回り続ける中、答えを示してくれたのは悠だった。
「場所?」
「うん。湊君さ、一番前で跳んでるでしょ? あそこね、多分大縄跳びで一番疲れる場所だよ」
「そうなの?」
碧依が首を傾げる。悠のそんな言葉が、あまり理解できていないようだった。聞いているだけの自分も、大縄跳びに疲れる場所があるということ自体がよく分からない。
「湊君、背が低い方だからあそこに配置されてるんだと思うんだけど、一番前って、真ん中よりもかなり高く跳ばないと、縄に引っかかっちゃうんだよね」
「あ、そっか。縄が浮いてるから……」
「で、跳んでない時は少ししゃがんでないと、今度は頭に引っかかることもあるんだ」
「あー……」
「そんなわけで今の湊君は、制限時間十分の間、ずっとジャンプ付きのスクワットをやってる感じかな」
「うわぁ……。やりたくない……」
悠の話を聞いた碧依の表情が曇る。今の話を聞いて、それでもなお一番前に陣取ろうとする者はほぼいないだろう。いるとすれば、それは相当な変わり者と考えても差し支えない。
「詳しいですね、羽崎先輩」
「去年、あそこにいたのが僕でした」
「あぁ……。お疲れ様です」
「ほんとにね。こんなことを言うのもどうかと思うけど、真ん中の方の人が引っかかってるのを見ると、正直ちょっと嫌になったりはしたよね」
紗季に返す言葉の中で、少しだけ悠の黒い部分が見えたような気がした。それでも、その話を聞く限り、葵の調子に何か問題がある訳ではないようなので、そこだけは安心できるところか。
「……」
「アイリス?」
「葵さんっ!」
「おぅ!?」
一度大きく息を吸ってから張り上げた大声に、紗季が奇妙な声を上げて驚いている。だが、そんなことは気にしている場合ではなく、ここまで正面から葵に向かって声をかけるのが、今の自分にとっては恥ずかしいなどと考えている場合でもない。
玉入れの時に応援してもらえて、この上なく嬉しかった。ならば、今この瞬間、自分がするべきことなど一つしかない。
「頑張ってくださいっ!」
「おぉ……」
葵がいるのは、玉入れの時よりも少し離れた場所。その場所に、自分の声が届いているのかは分からない。葵と目が合った訳でもない。
それでも、あらん限りの力を声に込める。仮に声が届いていなかったとしても、その想いだけでも届くよう、そう願いながら。
「来年は絶対に選びません……」
「お疲れ様。だから僕は選ばなかったんだよ」
「覚悟しておいてください……」
「何を!?」
随分とひどい目に遭った。もう競技は終わったはずなのに、未だに足のふらつきが止まらない。
事前に練習でもしていれば、この事態も予測できたのだろう。だが、大縄跳びくらいであれば練習なしで臨んでもどうとでもなるという方針の元、一度も練習が行われることはなかった。
その結果がこれである。もう二度と、大縄跳びには挑戦しないことを心に誓った十分間だった。
「ねぇ? 何をするつもりなの? ねぇ?」
こうなることが分かっていたらしい悠が、軽い脅しの言葉で怯えていた。借り人競走のことをアイリスに言わなかった自分がこう思うのは間違っているような気もするが、それでもこう思わないとやっていられない。
「碧依さんと渡井さんに差し出します」
「ごめん。先に言っておくべきでした。反省してます。だからそれだけは許して……」
「私、何でそんなに嫌がられてるの?」
日頃の行いのせいとは、口が裂けても言えなかった。言ってしまえば、自分も悠と同じ目に遭う。
「今回だけですからね」
「ありがと……! 助かったぁ……!」
「ねぇ。ねぇ?」
本気で安堵する悠の隣。触れたら終わりの祟り神が一柱、そこにいた。垣間見える荒魂。果たして、碧依の和魂はどこへ消えたのだろうか。触れられないので、探すこともできないが。
迫ってくる碧依をどう躱そうか考えていると、救いの手は全く別の場所から差し伸べられた。
「葵さん。これ……」
テントの中に並べられた椅子の上に置いておいた、自前の水筒。取りに行くよりも先に持ってきてくれたのは、言うまでもなくアイリス。
「ありがとうございます」
碧依の和魂よりも欲しかった、大事な水分。それを持ってきてくれたアイリスは、この場の誰よりも人に寄り添った神だった。和魂しか存在していない。
すっかり干上がってしまった喉を、少しだけ甘みが強いスポーツドリンクが一気に流れ落ちていく。気付けば、水筒の重さは随分と軽くなっていた。
「あの、大丈夫、ですか……?」
「えぇ、何とか」
心配そうに見上げてくる、その瞳。普段ほとんど見せない姿を見せてしまったことは、恥ずかしいには恥ずかしい。けれども、ここまで心配させてしまったことへの申し訳なさの方が、どちらかと言えば強かった。
「もう少し体力があった方がいいかもしれないですね」
「はい?」
「あ、いや、こっちの話です」
「はぁ……?」
小さく呟いた言葉は、アイリスにすら聞こえていなかったらしい。大々的に宣言するつもりもないので、別にそれならそれで構わない。
そんなことよりも、言っておかなければならないことは他にある。
「それより。ちゃんと聞こえてましたよ」
「え……?」
「アイリスさんの声。流石に目を向ける余裕まではなかったですけど」
「あっ……!」
何を言われているのか、そこで思い至ったらしい。目の前のアイリスの顔が、見る見るうちに赤くなっていく。九月に入ってしばらく経ったはずなのに、相変わらず日差しは厳しい。だが、その色の原因がそれではないのは間違いなかった。
「き、聞こえてました……?」
「しっかりと」
綺麗に通る声をしているアイリスの声だからこそ、あの場所でも聞こえたのだろう。そして、聞こえてきたからこそ、慕ってくれている後輩に無様な姿は見せられないと奮闘することができた。なればこそ、伝えるべきは感謝の言葉。
「嬉しかったです。ありがとうございました」
「そう、ですか……! えへへ……!」
思わずといった様子で、アイリスの顔に笑みが広がる。そんな姿を微笑ましく思いながら、もう一つ残っていた言わなければならないことを口にする。
「アイリスさんも、ちゃんと何か飲みました?」
「はい?」
「あれだけ大声を出してたんですから」
「あっ、そ、そうですよね!」
浮かんでいた笑みが引っ込んで、代わりに現れたのは慌てたような表情。どうやら完全に失念していたようだった。
「せっかく綺麗な声をしてるんですから、その辺は気を付けてくださいよ」
「あぅ……」
謎の一言を漏らしたまま、アイリスが動かなくなる。不思議に思ってしばらく待ってみるも、俯くばかりで動き出す気配はない。
このまま放っておいても仕方がないので、アイリスがそうしてくれたように、今度は自分がアイリスの水筒を手渡すことにした。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
か細い声と共に伸ばされた小さな両手が、自分のものよりも一回りは小さい水筒を受け取る。
アイリスがその蓋を開けるのを見てから、自分もまた水筒を傾ける。先程よりも味を感じる余裕が出てきたのか、少しだけ甘みが強くなったように思えた。
「素であれなのが、一番の問題だと思うんだよね」
「人の顔って、あそこまで赤くなるんですね」
「前途多難だね、フリーゼさん」
「というか、水瀬先輩」
「ん? 何?」
「もしかしなくても、アイリス……」
「多分、考えてる通りで合ってると思うよ」
「あ、やっとですか」
碧依達が喧騒に紛れて何かを話しているようだったが、アイリスと自分の水分補給に気を取られ、その内容までは聞き取ることができなかった。
午前中最後の競技であるスウェーデンリレーが終わり、一時間の昼休憩に入る。
天候は崩れる気配すら見せないまま、一日で最も暑い時間を迎えつつある。容赦なく日差しが降り注ぐ校庭から逃れるように、大勢の生徒が校舎の中で思い思いの時間を過ごしていた。
もちろんそれは自分達も例外ではなく。団が違っていて今日はほとんど関わる機会がなかった莉花も交えて、いつもの教室に戻ってきていた。
「生き返ったぁ……!」
「暑かったもんね……」
冷房のおかげで冷えた空気が満ちた教室に入った途端、莉花が絞り出すように、碧依が辟易としたようにそう零す。
「この後はもっと大変そうだね……」
「とりあえず、無理だけは絶対にだめですからね」
「あーい、お母さん」
「お父さんです」
そんなことを言えるだけ、莉花はまだ余裕がありそうな気がした。運動部の面目躍如といったところか。だからと言って、油断だけはしてほしくないが。
「お父さんでもお母さんでもどっちでもいいから、早くお昼にしない?」
「そっちが言い出したのに……」
抗議の声を無視して、莉花が席へと向かっていく。その後に続く悠と碧依。誰一人として気にしてくれる者はいなかった。
こうなった以上、とやかく言っても何にもならないので、諦めてその背中を追う。この辺りのやり取りに関しては、もうどうにもならないのかもしれなかった。
「食べてすぐに再開って、結構大変だと思うんだけどねー」
「だから午後は応援合戦からなんじゃないの?」
「言ったって、それも結構動くけどね」
「まぁ、うん」
碧依と莉花が弁当箱を取り出しながら、そんなことを話していた。その様子を見つつ、朝に交わしたある約束を三人に告げる。
「あ、ちょっと待っててもらえます?」
「うん?」
「何かあった?」
動きを制された碧依と莉花が、当然の疑問を抱く。二人に遅れて準備をしていた悠も、中途半端に動きを止めたまま、こちらを見つめている。
「アイリスさん、だけかは分からないですけど、今日はこっちに来るそうです」
「お。ほんと?」
「少なくとも、アイリスさんはそう言ってました。星野さんと長峰さんは一緒に来るかもしれない、程度です」
「あの二人なら来るんじゃない?」
「そんな気はしてます」
「そっか。で、ちょっと待っててほしいってことね」
「えぇ。そんなに時間はかからないと思うので」
「おっけ。準備万端で待ち構えて、気まずい思いをさせてやろうじゃないの」
「そういうところですよ」
申し訳なさそうに慌てる三人の姿が目に浮かぶ。こんなことばかりしているから、莉花は未だに天敵扱いで、教室も出禁と言われているのだろう。
「土曜に言ってたあれ?」
「それかどうかは分からないですね。今朝急に言われただけですし」
「ふーん。そっか……」
何かを考えるように、碧依が黙り込む。今のやり取りの中に、一体どんな気になることがあったのだろうか。碧依以外、その答えを知る者はこの場にはいない。
「……けな……?」
「あ……け……」
待つこと数分。何やら聞き覚えのある声が、扉の向こうから聞こえてきた。途切れ途切れで何を言っているのかまでは判別できないが、その様子からして複数人である。莉花が予想した通り、揃ってやって来たらしい。
「来たね」
黙って碧依と莉花の話を聞いていた悠も気付いたようで、閉まったままの扉に目を向けている。
「お。ご到着?」
「みたいです」
そんな悠の言葉と視線に、一拍遅れて莉花が反応する。黙ってはいるが、碧依も意識は扉の向こう側に向けているようだった。四人揃って、扉が開くのを待つ。
「……」
だが、いつまで経っても扉は微動だにしない。相変わらず微かな声は聞こえてくるので、その場にいるのは間違いないはずだ。一体何をしているのだろうか。
「何? 鍵でもかかってる?」
「あったとしたら、最初に締め出されるのは渡井さんでしょうね」
「いい度胸してるね?」
「お仕置きなら羽崎君が受け付けてます」
「やめてよ!?」
何の脈絡もなく、厄介事だけを押し付けられた悠の叫びが響く。冗談に決まっているのに、それでも随分と派手に驚いてくれるところが、とても好印象だった。そんなことを言っても、本人は嫌がるのだろうが。
「何だかよく分からないですけど、とりあえず開けてきます」
「はーい」
このまま待っていても、無為に時間が過ぎていくだけ。そして、悠の精神が削られていくだけ。ならば、早いうちにこちらから開けてしまえばいい。
そう思って席を立つ。碧依の間延びした声が、背中に届けられた。
「何でそんなに躊躇ってるの?」
「だって……」
「だって、何?」
扉に近付くにつれて、向こう側の会話がはっきりと聞き取れるようになる。どうやら、本調子ではないアイリスが、何故か扉を開けるのを躊躇っているらしかった。そんなアイリスを、紗季と純奈が不思議がっている様子まで伝わってくる。
扉の向こうでアイリスが何を考えているのかは分からないが、何が起こっているのかは把握できた。
だが、把握したところでこちらが躊躇う理由はない。
「何をしてるんですか」
「ふわぁ!?」
扉をスライドさせてしまえば、当然、そこには何も遮るものはない。目の前に立っていたのは、予想通りの三人だった。
「どうも、湊先輩。さっきぶりですね」
「私達も来てよかったんですか?」
「気にしなくてもいいですよ。他の人も、結構入り混じってるみたいですし」
「だったらよかったです。お邪魔させてもらいますね?」
「えぇ。どうぞ」
奇妙な叫び声を上げたまま固まってしまったアイリスはそのままに、紗季と純奈が教室へと入ってくる。悠、碧依、莉花が固まって座っている場所など、この狭い教室ではすぐに見つかる。淀みのない足取りで三人の許へと向かう紗季と純奈を見送ってから、残った最後の一人へと意識を戻す。
「で、アイリスさんは何をしてるんですか?」
「あ、えっとぉ……」
未だに踏み込んでくる気配のないアイリスに、そう声をかける。開け放たれた出入口から、廊下に漂っていた蒸し暑い空気が流れ込んでくる。いつまでもそんなところに立っていないで早く入ってくればいいのに、肝心のアイリスはといえば、自分の顔色を窺うばかりで一向にその一歩を踏み出さない。
「何かありました?」
本来ならば聞くまでもない。明らかに何かあった様子なのは見れば分かるが、あえてそう口にする。言い出しにくくても、誰かに尋ねられると言葉にできることもあるのだ。
どうも、アイリスの躊躇いもそんなところから来ていたようで。
「ちょっと、緊張してて……」
「緊張?」
「ごめんなさい、嘘を吐きました。すっごく緊張してて……」
「そこの嘘は別にどうでもいいんですよ」
何にせよ、とにかく緊張していることだけは伝わってきた。けれども、これまで散々足を踏み入れてきた教室に、今更どんな緊張する要素があるのだろうか。そんな部分は伝わってこない。
「緊張することなんて……」
「……葵さんのせいに決まってます……」
「は?」
理由も分からないまま、何故か自分のせいにされた。理不尽にも程がある。
「アイリスー? 何してるの?」
人数分の椅子を集め、全ての準備を終わらせた紗季から声がかかったのは、そんなタイミングだった。紗季だけでなく、他の全員もまだ教室の外にいるアイリスを不思議そうに見つめている。
「呼ばれてますよ?」
「ぅ……」
どこか気まずそうな、観念一歩手前の小さな声だった。
紗季に目を向けてから、一度だけ、こちらにも瑠璃色の瞳が向く。僅かに揺れたその瞳が、とうとう観念したように閉じられた。
やがてゆっくりと目を開いたアイリスが、一言だけ呟く。
「お邪魔します……!」
「どうぞ」
ここまで来てやっと、蒸し暑い空気は再び扉の向こうの存在となったのだった。
「土曜は皆で食べてたんでしょ? いいなぁ……」
「莉花は団が違うから仕方ないって」
「こっちは寂しく二人で食べてたってのにねぇ?」
「あはは……」
いつもの倍近くの人数となる七人で集まって、昼食の時間は進んでいく。
そんな中で莉花が羨ましがっているのは、土曜日に行われていた一日練習の昼休憩のこと。
曰く、五人も集まって楽しそうなのが羨ましい。曰く、純奈と二人も楽しかったが、寂しいものは寂しかった。
そんな素直な感想を述べる莉花を見て、その相手だった純奈が苦笑いを浮かべていた。
「渡井さんと二人で大丈夫でした? 何かおかしなことでもされませんでした?」
一年生組が所属する団を知ってから何となく心配していたことを、当の本人に尋ねてみる。純奈の性格上、あまりはっきりとしたことは言えないかもしれないが、どんな状況だったのかを自分達が知っておくだけでも、今後のためにはなるだろう。
「湊君の中で、私ってどんなイメージなわけ?」
「面倒な人です」
「分かった。羽崎君がどうなってもいいと」
「だから何で!?」
「好きにしてください」
「助けてよ!?」
本人に関係がないところで、悠の今後が決まっていく。未来は随分と暗そうだった。
「優しかったですよ? ……一応」
「何か一言付け加えられたけど」
「これでも、部活で後輩の面倒とかを見てるんだから。それぐらいできるって」
「莉花」
「何?」
「自分で『これでも』って言ったの、気付いてる?」
「……」
気付いていない顔だった。だからこそ、自分への評価を正しく理解しているとも考えることができる。普段の言動からは想像しにくいが、しっかりと自分を客観視できるタイプのようだった。
「湊君。それ何?」
「あ、逃げたね」
客観視できることと、それと向き合うことは別の話である。あからさまに話を逸らそうとする莉花に指差されたのは、今まさに箸で掴もうとしていた、ある料理。
「焼き真薯です。海老の」
「は?」
「焼き真薯」
「やき、しんじょ……?」
尋ねてきた本人である莉花が、何も理解できないといった様子で繰り返していた。周囲も大体は似たような反応だった。
「私、名前は知ってるってくらいなんだけど……」
「僕も……」
「私は見たことありますけど、お弁当に入れてくるものでしたっけ?」
「私は聞いたこともないですね!」
「……」
誰からも共感は得られなかった。アイリスに至っては沈黙である。
「真薯を作ってお弁当に入れてくる男子高校生って何?」
「はんぺんを使った簡単なものですよ?」
「聞いてないよ、そんなこと」
そこまで難しいものではないことをアピールするも、やはり共感は得られない。多数派である碧依の言葉が厳しかった。
「朝から真薯を作ってる男子高校生か……」
「昨日思い付いて」
「つくづく変わり者ですね、湊先輩」
「……」
「否定できないよね、葵君?」
これだけの反応を見せられて、それでもなお反論しようとは思えなかった。一応ではあるが、自分のことをある程度客観視できるタイプだと思っている。
「お弁当っていえば、アイリスも今日はちょっと違うよね?」
「う……」
変わり者判定を下し終えた紗季が、今度はアイリスに照準を定めていた。アイリスの昼食もいつもと何かが違うらしいが、普段を知らない自分達からすれば、判別のしようがない。
ただ、指摘されたアイリスの反応を見る限り、どうやら紗季の見立ては正しかったらしい。その視線はふらふらと空中を彷徨い、何かを隠していることを雄弁に物語っていた。
「べ、別に何もおかしくない、よ?」
「まぁ、今のアイリスの様子と比べたら、おかしくはないだろうね?」
紗季の言葉は止まらない。
「何か、今日は多くない?」
「そんなこと……」
「そう言われたら、私もちょっと多く見えてきたかも」
「純奈まで……!」
普段一緒に昼を過ごしているらしい紗季と純奈がそう言うのなら、恐らくそうなのだろう。そう思って、アイリスの手元にある弁当箱に目を向ける。
「多い……、んですかね?」
自分とてそこまで食べる方ではないと自覚しているが、それでもアイリスの手元にある量は少なく思える。
そもそも、ここ数日は何故か夕食を共にする日々だった。その中でアイリスがどれだけの量を食べるのかは、何となく把握しかけている。どうして後輩の食べる量を把握しかける事態になっているのかについては、一旦何も考えないことにした。
とにかく、そんな量から考えても、そこまで差があるようには見えなかった。
「いつもはもうちょっと少ないんですよ」
「そもそも、お弁当箱も違うよね?」
「お弁当箱は、まぁ、うん」
そこの違いはあっさりと認めるアイリス。認めたがらない部分との違いがよく分からない。
「あ、たくさん食べるって思われたくないとか?」
「渡井先輩じゃないんですから、最初からそんなに食べません」
「何だと」
「はいはい、莉花は意外と少食って知ってるからねー。そんなに突っかからないの」
どんな時であっても、どんな状態であっても、莉花に対しては若干棘のある態度を崩さないアイリスだった。目付きが若干鋭くなっていたのを、自分は見逃さなかった。
「その程度でたくさん食べるとは言えないですけどね」
「……葵さんは」
だが、そんな態度も一瞬だけ。莉花に向かって放った声とは似ても似つかない、不安そうな声。聞きたいような、聞きたくないような、そんな葛藤が窺える声だった。
ここ最近、自分にだけ向けられる、そんな声だ。午前の話ではアイリス自身が頑張るとのことだったが、それでも心配なことには変わらない。
「どうしました?」
努めて、穏やかな口調で返す。少しでもアイリスの気が楽になればと思ってのことだったが、どれだけの効果があったのかは謎である。
「たくさん食べる人と、食べる量が少ない人だったら、どっちがいいですか……?」
「ん?」
何となく脈絡がありそうで、何となく脈絡がなさそうな、その質問。今はアイリスの話だったはずなのに、何故か矛先が自分に向かいかけていた。
と言っても、普段飛んでくるような、答えたくない類の質問でもない。メイド服とナース服のどちらが着たいか、などと言う質問から比べれば、この世の大半の質問は優しいものである。
「特に好みはないです。強いて言えば、美味しそうに食べてくれるのが一番ですかね。僕が料理好きなので」
「そう、ですか」
「それがどうかしました?」
「いっ、いえ!? 何でもないですよっ?」
どう見ても何かある反応だったが、これは答えを教えてもらえない反応である。これまでの経験がそう伝えてくる。
「で、何で多いの?」
「せっかく話が逸れかけたのにぃ……!」
「逃がすか」
アイリスが何を考えているのか想像しかけたところで、紗季の一言で現実へと引き戻された。悔しがるアイリスが、恨みの籠った目で紗季を睨みつけている。
「絶対に面白い理由があるはずなんだから」
「面白くなんてないし……」
「それは私が決めるから、とりあえず話してごらん?」
「やだぁ……」
まだ抵抗は続く。その様子から察するに、よほど知られたくない理由なのかもしれない。もしくは、単に恥ずかしいだけという可能性もあるが。
「あ」
何かに気付いたと言わんばかりに悠が口を開いたのは、その時だった。
「自分で作ってみたから、どれくらいか分からなかったとか」
「……」
「あ、でも、朝は苦手って言ってたっけ? じゃあ違う、か……?」
「……」
「……え?」
アイリスが完全に沈黙した。一切反応を示さないその様子に、言い出した悠が困惑の渦へと突き落とされる。
「やっちゃったね、羽崎君」
「え? え?」
「お仕置き決定ね」
「あれ?」
碧依と莉花の言葉も、悠にはあまり届いていないようだった。莉花の言葉は届かない方が幸せなのかもしれないけれども。
何にせよ、アイリスの反応からしてそれが正解のようだった。
「へぇ。アイリスさんが作ったの?」
「……うん。ちょっとだけ、だけど」
偶然とはいえ、そこまで言い当てられてとうとう観念したらしい。意外そうに言う純奈に、アイリスが肯定の言葉を返す。その表情はやや恥ずかしげで、自分の予想の後者が当たっていたことを示していた。
「何でまたいきなり?」
となれば、次に抱くのはその疑問。紗季の言葉は、ここにいる全員の思いでもあった。
「もう少し考えてから話そうね?」
「今のは流石に擁護できない」
「ごめんなさい……」
どうやら全員ではなかったようだった。悠を問い詰めている碧依と莉花は、今はそれどころではないらしい。
「……」
「アイリス?」
「……お礼」
「お礼?」
悠達の会話に気を取られて、危うく聞き逃すところだったその言葉。それには、まだ続きがあった。
「葵さんに」
「え?」
思いもしなかった一言。だが、はっきりと聞こえたその名前は、確かに自分のもの。紗季や純奈の視線がこちらに向いているのを見ても、聞き間違いの類ではなさそうである。
「食べて、もらえますか?」
「……え?」
自分が悠と同じ渦に巻き込まれてしまうのに、そう長い時間はかからなかった。




