56. イベリス (1)
迎えた九月十三日、水曜日。短期集中型で練習を重ねてきた、その成果を体育祭本番で発揮する日だった。
今の時刻は、自分の想い人が目を覚ます時間だと言っていた午前五時半。外は既に明るくなっているが、普段目にするよりも、少しだけ景色が青みがかって見えた。
「んー……!」
まだ弱々しい光を浴びながら、軽く伸びをして眠気を追い払う。
一昨日は、意識していなかったが同じような時間に目が覚めてしまった。対して、昨日はいつもとさして変わらない時間に目が覚めた。けれども、今日は最初からこの時間に起きるつもりだった。
その目的はただ一つ。昨日の内にレティシアに頼んでおいた、あることを実行に移すため。
「よし……!」
自らを鼓舞するようにそう呟いて、支度を始める。階下では、既にレティシアが何かの準備を進めているのだろう。僅かではあるが、人が動き回る気配が伝わってきていた。
再び忍び寄ろうとする眠気を撃退しつつ、ある程度の身だしなみを整える。どうせ家を出る前にもう一度整えるのだから、今は軽く整える程度でいい。それに、この後多少は乱れてしまうのだから、ここで時間をかけても仕方がない。
そう結論付けて、キッチンにいるであろうレティシアの許へと向かう。リビングの扉を開けてから挨拶が飛んでくるまではすぐだった。
「おはよう。ちゃんと起きられたのね」
「おはよ。約束したからね」
心のどこかでは疑っていたらしいレティシアの第一声だった。
「随分いきなりな約束だったけどね?」
「……昨日の夜に思い付いちゃったんだから、仕方ないでしょ」
「まぁ、別に大して難しいお願いでもなかったし、気にしてないわ」
気負った様子もなく、心の底からそう思っていそうな言葉。その言葉を裏付けるかのように、こうして話している間もレティシアの手は止まっていない。長年の習慣が成せる業だ。
「それにしても、いきなりお弁当を作るのを手伝いたいって言い出すなんて、どういう風の吹き回し?」
これこそ、昨晩レティシアに頼んでおいたこと。端的に言えば、料理を教えてもらいたいというお願いだった。
「昨日も言ってたけど、そんなに気になる?」
尋ね返しながら、キッチンへと向かう。手際よく作業を進めるレティシアの、言わばホームグラウンドだ。普段過ごしている家の中には違いないのに、レティシアがそうしているだけで、どこか足を踏み入れにくいような雰囲気が漂っている。
「それは気になるわよ。今までなら絶対になかったのに」
「……気まぐれだもん」
「通用すると思ってる?」
「……」
もちろん思ってはいない。それで納得してもらえたら御の字、という程度にしか考えていなかった。そんな訳で、次の矢である。
「……高校を卒業した後は一人暮らしかもしれないから、今から練習しておこうと思って」
これなら、違和感のない理由に聞こえるだろう。一度嘘の理由を伝えて、それを見破られてから白状するという今の状況も、その信憑性を後押ししているはずだ。微かに気になる点といえば、自分が怪しげな雰囲気を漂わせるような仕草をしていないかということだけ。
「それも本当の理由じゃないんでしょ?」
だと思っていたのに、そんな嘘もあっさりと看破されてしまった。やはり、自分の母親を騙しきるのは難しいと言わざるを得ない。
「何でそう思ったの?」
「勘」
「勘……」
真面目な顔をして、若干ふわっとしたことを言うレティシア。そんな曖昧な理由でここまで正確に疑ってくるのだから、もう流石としか言いようがない。
「誰か食べてもらいたい人でもいる?」
そして、ほとんど正解といっても過言ではないところまで辿り着くのも流石である。一体いつになれば、自分は母親に勝てるのだろうか。
「別にそういうわけじゃ……」
「葵君?」
「ち、違うもん」
「その顔で違うって言うのは無理があるわね」
レティシアの言う通り、顔が少しだけ熱くなっているのは自覚していた。これでは隠し通せる、通せない以前の話だ。
「そもそも、考えるまでもなく分かるでしょ。他にもそんなに親しい相手がいるなら、名前くらいは聞くでしょうし」
「それはそうだけど……」
「否定しないってことは、正解ってことね?」
「違うって言っても、どうせ信じてくれないんでしょ?」
「そうね」
レティシアの潔い返事を聞きながら、手を洗い終える。いよいよここからがお手伝いの本番となる。
「この前、葵さんのお弁当を少し分けてもらったから、そのお礼にって思って」
今度こそ、本当の理由の一部を暴露する。だが、それでもあくまで一部。根本にあるものについては、相手が母親であろうとまだ言葉にする勇気がなかった。
「お礼でそうするってことは、葵君が自分でお弁当を作ってるってこと?」
「うん。そう言ってた」
「へぇー……。美味しかった?」
「美味しかった」
「へぇー……」
「何?」
先程からレティシアのにやつきが止まらない。何かよからぬことを企んでいそうな見た目だが、果たして何を考えているのだろうか。
「お料理が得意な男の子っていいなって」
「何それ」
「いつか一緒にキッチンに立ってみるのも面白そうじゃない?」
「どんな状況……?」
「そのためにも、やっぱり葵君には私達の息子になってもらわないと」
「……っ。すぐそういうことを言う……!」
レティシアとしては今までと変わらない冗談を言ったつもりなのかもしれないが、想いを自覚した自分からすれば、あまりにも刺激が強い言葉だった。恐らくはレティシアにも伝わってしまっているであろう程に反応してしまった自分を、一体誰が責められるだろうか。
「ま、それは今話すことじゃないわね。教えながらだと時間もかかるし、さっさと始めましょうか」
「はーい……」
自らが言い出したのに、そう言って流れを断ち切るレティシア。何か釈然としないものがあるのは確かだが、これから教わることに時間がかかるというのも間違ってはいない。素直に頷くことはできなかったが、何かを問い詰められるという状況にならなかっただけでもありがたいと思うことにして、レティシアの後に続くのだった。
「あの……」
「はい?」
ついに迎えた体育祭本番の朝。碧依が乗ってくる駅に到着するまでの、アイリスと二人の時間。電車に揺られながらぼんやりとしていると、隣から小さな声がした。
その相手は当然アイリスで。今週に入ってからそうなってしまった、どこか緊張が伝わってくるような、そんな声だった。
「どうかしました?」
変化があったのは声の調子だけではなく、その距離もまた、これまでとは違っている。今日も今日とて、密着と言っても差し支えなかった。尋ね返そうとアイリスの方を向けば、当然その分だけ顔は近くなる。
と言っても、アイリスはじっと自らの手元を見つめるだけで、目が合うことはないのだが。
「今日のお昼、なんですけど……」
アイリスが見つめる両の手は、自身を勇気づけるように軽く握られている。それでもなお、その切り出し方は弱々しいものだった。
一番様子がおかしかった一昨日と比べれば、随分と話し方は戻ってきている。これまで通りと言いきることはまだできないが、少なくともアイリス本人が話すことに苦労している様子はない。
それとは別の問題を挙げるならば、なかなか目が合わなくなったところか。一昨日から、その瑠璃色を見る回数はめっきり減ってしまっている。
「葵さんはどこで食べます……?」
やはり自信がなさそうな声音。付け加えるとするならば、何かを恐れているようでもあり、何かを期待しているようにも思える。
「どこって……。多分、教室に戻って食べると思いますよ」
そんなアイリスの真意も分からないまま、ひとまず聞かれたことに答える。
今年も去年と同じ形式なら、昼休憩の間に好きな場所で昼食を食べてもいいということになるはずだった。それなら、慣れ親しんだ教室で食べるのが一番気楽だろう。実際、去年もそうした覚えがある。
「だっ、だったら!」
少しの間、窓の外に目を向けて薄い記憶を辿っていると、まさに意を決したようにといった様子でアイリスが口を開いた。今までとは明らかに違う様子に視線を戻してみれば、今日初めて鮮やかな瑠璃色と目が合う。
思ったよりも近かった。アイリスが少し身を乗り出すようにしているからだろうか。そんな距離に少しだけ落ち着かなさを感じながらも、その言葉の先を待つ。
「今日は葵さんの教室で一緒に食べてもいい、ですか……?」
勢いがあったのは最初だけ。言葉の終わりが近付くにつれて不安が湧き上がってきたかのように、声が徐々に小さくなっていった。それでも、その澄んだ声は電車の騒音にかき消されてしまうこともなく、はっきりと自分の耳まで届く。
そして、勢いが消えたのは声だけで。不安に揺れつつも、その目が逸らされることはなかった。
「いいんじゃないですか? 食べる場所が決まってるわけでもないですし」
見つめられながら、そんな当たり障りのない言葉を返す。誰がどこで昼食の時間を過ごそうが、それをとやかく言う人間はいないだろう。ましてや、今日は体育祭である。そんな雰囲気が一層濃くなっているはずだ。
そう思っていたのに。どうやらアイリスの思いは違っていたようで。
「あの……、そうじゃなくて……」
「うん?」
「葵さんが、私と一緒に食べるのが嫌じゃないかなって……」
「は?」
またよく分からないことを言い出した。かろうじて逸らされていなかった目も、今の言葉を口にする間に顔ごと逸らされてしまっていた。
どこにそんな怯えらしき感情を抱く理由があるのかは想像できないが、そんな質問に対する答えなど最初から決まりきっている。
「土曜日みたいなことを言い出さないなら、嫌なわけがないです」
「……っ!」
「前に、アイリスさんが態度を変えることはないって言ってくれましたけど」
「……」
あれは夏祭りでのことだったか。何となく、浴衣と一緒にある言葉のイメージだった。思えば、今まさに態度が変わっていると言えなくもないが、そういう意味で言ったのではないのだろう。少なくとも、今のアイリスから負の感情が伝わってくることはない。
「それと同じですよ。僕がアイリスさんを嫌うこともないです」
「……ほんと、ですか?」
「こんな嘘は吐きません」
なかなかに恥ずかしいことを言っている自覚はあったが、以前のアイリスの言葉に対する返事だと思えば、これも仕方がない。何より、自分が恥ずかしかろうと、どう見ても嬉しそうに頬が緩んでいるアイリスの横顔を見ることができたのなら、それだけでよかったと思える。
「そうですか……!」
そんな返事を噛みしめるように、そっとアイリスが呟く。久しぶりに見た気がする、柔らかな表情だった。
「じゃ、じゃあ、今日は葵さんの教室に行きますね?」
僅かに取り戻した勢いに乗って、再びアイリスの顔が上がる。ほんの少しの不安を滲ませつつも、その顔の大部分は喜びに染まっていた。
「えぇ。待ってます」
最後の確認に、そう返す。アイリスがこちらに来るとなると、紗季や純奈も一緒ということになるのだろうか。そして、悠や碧依、莉花は揃うのだろうか。
今はまだどうなるか分からないが、少なくとも、いつも以上に賑やかな昼食の時間にはなりそうだった。
「負けました!」
内容が大して頭に入ってこなかった開会式の少し後。校庭を取り囲むようにして設営されたテントの前に、最初の競技を終えた紗季が戻ってきた。元気よく言っているが、言葉の中身が全く伴っていない。
「いやいや、それでも二位だったでしょ? 速かったって」
迎え入れた碧依が、そんな紗季を労う。
碧依だけではなく、他の生徒もほとんどテントの中にはいない。皆揃ってテント前の開けた空間に集まって、競技を行っている生徒に向けて、あらん限りの声援を送っていた。
そんな様子はここだけではなく。残り三つのテントの前にも、同じようにして生徒の人だかりができている。そこかしこから声援が上がり、日差しにも負けない程の熱量を生み出すその光景は、まさに「祭」という字にぴったりの雰囲気だった。
そうして校庭が熱気に包まれる中でたった今終えた最初の競技は、各団選抜による百メートル走。活発なイメージそのままに、実際運動部に所属している紗季が、自分達五人の中では唯一出場することとなっていた。
紗季が本気で走っているところを目にしたことはなかったが、つい先程見せた走りは、もしかすると自分よりも速いのではないかと思ってしまう程だった。恐らく、悠よりは速い。
「お疲れ様です。多分、羽崎君よりも速いですね」
「お疲れ様。多分、湊君よりも速いね」
「は?」
「え?」
「二人して何がしたいんですか」
碧依に続いて一言声をかければ、横からも同時に馴染みのある声がした。それも、似たような内容で。
「いや、流石に僕の方が速いですって」
「違うって。それは僕の方だから」
お互いに相手を否定する。学年が上がってすぐの体力測定の様子を見る限り、自分の主張に間違いはないはずだ。あれから悠の足が速くなる道理はない以上、悠の主張は通らない。
だと言うのに、何故か悠が一歩も引き下がらない。負けて悔しいのは分かるが、認めなければ人は前に進めないと、そう伝えてあげたい。
「いや、二人よりも速いでしょ」
「……」
「……」
などと考えていたら、二人して碧依に黙らされた。全く以て容赦のない一言である。
「お疲れ様、紗季。またちょっと速くなった?」
「部活で色々トレーニングしてるからね。まだまだ速くなるよ」
そうして黙り込んだ自分と悠など意に介さず、アイリスが最後に声をかける。その様子は普段と変わらない。そうなると、一昨日からの姿がより一層気になるのだが、いつまで経ってもその答えには辿り着けそうになかった。
「一緒に走ってた相手が悪かったね」
「ほんとですよ……。渡井先輩、意味が分からないくらい速かったです……」
そう言いながら、紗季が肩を落とす。
選抜された紗季に、そこまで言わしめる人物。運悪く同じ組で走ることになった相手の一人は、いつもの四人組の一人、莉花なのだった。
「莉花ねー……。あの速さはおかしいよね……」
「速かったですよね……。私が百メートル走る間に、二百メートルくらい走ってそうですもん」
「それはアイリスさんが遅過ぎるだけだよ」
「……」
三人目が黙り込んだ。今日の碧依は絶好調なのかもしれない。何が絶好調なのかという話だが。
「莉花ってテニス部なんだけどね?」
「そうなんですか?」
「うん。それで、ボールを追いかけて走り回ってたら、いつの間にか足が速くなったって言ってた」
「そんなことあります?」
目立ったトレーニングをしていないらしい莉花に、紗季はどこか納得がいっていないようだった。戻ってきた時はあっけらかんとした様子に見えたが、実は案外悔しがっていたのかもしれない。
「本人が言ってるんだから、もうどうしようもないよね」
「まぁ、そうなんですけど……」
なおも不服そうに呟く紗季。これは悔しがっていると思っていいだろう。隠していた感情が、徐々に外へ漏れ出し始めていた。
「来年、もっと速くなってもう一回挑みます!」
「じゃあ、莉花にもそう言っておくね」
「あ、いや、そこは内緒で……。今以上に速くなられても困りますし……」
意外と冷静な紗季だった。
「あの……」
そんな碧依と紗季のやり取りを眺めていると、隣から小さく、そんな声がした。ほんの少し前とは打って変わって、か細くなった声。けれども、その声を聞き逃す訳もなく。
「何です?」
「葵さんは、何の競技に出るんですか?」
アイリスからの疑問。それは、本番が始まってから出るような疑問ではないようにも思えたが、よくよく思い返してみれば、確かにこれまでそんな話をした覚えがなかった。
一度だけ、碧依も交えて借り人競走の話はしたが、その他の競技については何も話さなかった。今になって疑問に思うのも無理はない。
「二人三脚と大縄跳びです」
「二人三脚と大縄跳び……」
特に隠すようなものでもないので、予定をそのまま伝える。そんな数少ない、何の苦もなく覚えられるような予定を、わざわざアイリスが復唱する。
「ちなみに、二人三脚は羽崎君とペアです」
「息が合うといいんだけど」
「さっきは息ぴったりだったよ?」
「そのまま一緒に水瀬先輩に黙らされましたしね」
「余計なことは覚えてなくてもいいです」
悠が不安を零したのを聞きつけて、碧依と紗季も会話に加わってきた。とてもよろしくないことを覚えられているうえに、それは息が合っていると言えるのか微妙なラインである。
「ま、求められてるのは足の速さじゃないんだし、二人でも何とかなるんじゃない?」
「やたら攻めてきますけど、何か悪いことでもしました?」
「してないけど、葵君は攻められる時に攻めておかないと。いっつものらりくらりと逃げられちゃうし」
「逃げられるようなことばっかり言ってるからですよ」
女装の提案をしてくるか、女装のお誘いをしてくるか、だ。逃げて当たり前の話である。
こんなことを言い始めた碧依とこのまま話を続けても、どうせろくなことにはならない。それならば、アイリスの話に乗って話題を戻してしまう方がいいと判断して向き直る。
「アイリスさんは何に出るんですか?」
「えっと……、借り人競走と、玉入れです」
「玉入れ?」
意外な競技の名前が出てきて、思わずそのまま聞き返してしまった。
借り人競走がどんな競技か分からなかった時に、うっかりそれを選んでしまったのは仕方がない。だが、玉入れなら何をするのか簡単に想像できるはずだ。なのに、玉入れ。
「な、何かおかしいですか……?」
まさか疑問を持たれるとは思わなかったのか、アイリスがどこか困惑したような表情で尋ねてくる。
ここ数日そうだったが、自分が何かを言った時にアイリスの感情が不安定になることがとにかく多かった。ここまでとなると、本当に自分が何かをしでかしたのではないかとも考えてしまうのだが、全くと言っていい程心当たりがない。
月曜日に比べれば何倍もまともに話せるようになったとはいえ、まだまだこれまでとは程遠い状況。何とかしたいとは思っているが、どうにもなっていないのが今の状況なのだった。
そんなことを考えている間に、徐々にアイリスの顔が不安の色に染まっていく。少しの間ではあったが、いきなり黙り込んでしまったのが悪かったのかもしれない。
「いや、カゴに玉が届くのかなって……」
「届きますもん! ……あっ」
思わず飛び出してしまったといった言葉。それは、やや久しぶりとなる自分に向けられた元気そうな声で。先週までと何も変わらないはずなのに、聞くことができて嬉しく思ってしまう自分が、確かにそこにいた。
「ちゃんと投げられます? 肩はしっかり動かしておかないと危ないですよ? あ、それとも、下手投げ……」
「そうですけど!? 下手投げで何か問題がありますか!?」
嬉しさと心配が混ざり合った結果、ほとんど煽りになってしまったのは否定できない。対するアイリスも、今この瞬間はこれまで通りの様子に戻っていた。食い気味の突っ込みが心地よい。
「別に下手投げでもいいんじゃないですか? それより……」
「まだ何か!?」
「やっと普通に話してくれましたね」
「え……?」
再びの思ってもいなかったであろう言葉で、こちらを見上げたまま、アイリスの動きがぴたりと止まる。
「大人しいアイリスさんもアイリスさんには変わりないんですけど、やっぱり僕の中では元気なイメージなので」
「……」
「実は、ちょっと寂しく思ってたんですよね」
本当は言わないでおくつもりだった、その言葉。何か深い意味があって隠していた訳ではなく、ただ単に言い出すのが恥ずかしかっただけだ。
なのに、口を衝いて出てしまったのは、黙って見上げてくる瞳に当てられたからなのか。とにかく、出てしまった言葉は引っ込めることができない。
「ほんとですか……?」
ようやく再起動を果たしたアイリスが、小さく、小さくそう零す。注意して聞いていなければ、周囲の喧噪に紛れて聞こえなくなる程の、そんな一言。だが、そこに込められた思いは、そんな喧噪にも負けない大きさで伝わってくる。
「恥ずかしいですけど、本音ですよ」
「……そっか。そうですか……」
何かを確かめるように、アイリスが何度か小さく頷く。ほんの少しだが、纏う雰囲気が変わったように感じられた。
「最近の様子を見てると、流石に僕が何かをやらかしたんだろうなとは思いますけど、心当たりがないんですよね。何か嫌なことがあったのなら、言ってもらえたら気を付けます」
「あ、いや、違うんです! 葵さんは何にも悪くなくて……。むしろ私が原因と言うか……」
「はぁ……?」
どうやら、アイリスの変化は自分が想像していたような原因ではなかったらしい。それならそれで、アイリスに問題があって、どうして自分と話しにくくなるのかという新たな疑問が湧いてくるが、それは一旦脇に置いておくことにする。
今大事なのは、アイリスが元の様子に戻りかけているということだ。余計なことを言って、その邪魔をしたくはない。
「だから……、その……」
「ゆっくりでいいですよ」
「あの……、私が、頑張るので……。もうちょっとだけ、待っててもらってもいいですか……?」
途切れ途切れの、そんな言葉。きっと、色々と考えた末に、どうにか伝えようとしてくれたのだろう。それを聞いて、否定の言葉など浮かぶはずもない。
「焦らなくてもいいですからね?」
「はいっ……!」
その顔に安堵の色を浮かべ、アイリスが頷く。どれだけの時間がかかるか分からないが、いずれは以前と変わらない会話が交わせそうな雰囲気が漂っていた。
「私達は何を見せられてるんですか?」
「しーっ! 今いいところだから!」
「それも多分二人に聞こえてると思うよ……?」
悠の言葉通り、三人が話しているのは聞こえていた。だが、そちらに話を振れば、この状況をからかわれるのは間違いない。そんな訳で、全力で無視を決め込むことにする。
「でも、とりあえず僕がしないといけないことは……」
「え……? 何か……?」
「アイリスさんの投げた玉が、ちゃんとカゴに届くように応援することですかね」
「もう……、そういうところですよ……」
いつもと同じ、その言葉。けれども、言い方はいつもよりもずっと柔らかい。
そして何より、いつもよりもずっと、穏やかで優しげな笑みだった。
「玉入れってさ、カゴを持ってる人が一番大変なんじゃないかって思うんだ」
「いきなりどうしました?」
アイリスが出場すると言っていた玉入れ。それがまさに今行われている最中だった。応援しやすいように配慮されているのか、各団の前にそれぞれの団のカゴという配置である。当然、アイリスが玉を投げているところもよく見える。
悠がそんなことを口にしたのは、目の前で繰り広げられる玉入れを観戦しているタイミングだった。
「だってさ、カゴが動かないようにきちんと固定してないといけないし、上からたくさん玉が落ちてきてぶつかるしで、何にもいいところがないよね」
「玉入れをそんな風に見てるのは羽崎君くらいですよ」
「そうかな?」
首を傾げる悠だが、その考え方は相当特殊なものとしか思えない。その証拠に、同じく隣で聞いていた紗季も首を傾げていた。心情としては、この先輩は何を言っているんだろう、辺りだろうか。
「変わってるのは湊先輩だけじゃなかったんですね」
「どういう意味かな?」
「あ、『類は友を呼ぶ』ってやつですね」
「どういう意味ですか?」
何やら、紗季の中で不名誉なカテゴライズをされている気がした。悠のような奇妙なことは考えていないので、自分は是非ともその枠外に配置してほしいところである。
「お二人共、可愛いだけじゃ飽き足らず、もっとキャラを立たせようって魂胆ですか」
「どっちも褒めてないですよね?」
「どっちもいらないしね」
自分など、周囲のキャラクターの濃さに埋もれる程度で十分である。穏やかに生活を送ることができるのなら、それに越したことはない。
「そんなにたくさん求めちゃうなんて、色々渋滞しちゃいますよ?」
「渋滞してるのは星野さんの悪ふざけですよ」
碧依然り、莉花然り、紗季然り、自分の周囲にはこんなタイプの友人ばかりである。この中で何らかのキャラクターを確立しようと思うのは、やや無謀ではないだろうか。
「お二人はもう十分に濃い存在なので、これ以上は大丈夫です」
「そんなことを言ってほしいわけじゃないんです」
「僕達って濃いの……?」
全く以てありがたくない評価が、紗季から下される。何を言われても引き下がらない、心の強い後輩だった。
「ま、そんな話はいいんですよ」
「星野さんが言い出したんですよ?」
本当に心が強い。先輩二人の困惑も意に介さず、今やその視線は前方に向けられていた。釣られて視線を向けた先には、アイリスと碧依の姿。二人して懸命に玉を投げている。
「アイリスのこと、ちゃんと応援してあげてくださいね?」
真剣なのか、からかいを含んでいるのか分かりにくい、その口調。一つだけ言えるとすれば、とても楽しそうに話しているということだけ。
なので、自分としても当たり障りのない答えを返すしかない。
「心配しなくても、応援は真面目にしますから」
「大事な後輩が頑張ってるんだもんね?」
「言いますね」
先程変わり者扱いをした仕返しなのか、悠にしては珍しい、からかいの色を含んだ言葉だった。言ってしまえば、悠にはあまり似合っていない。
「で、その湊先輩の大事な後輩なんですけど……」
「何ですか?」
「……さっきから、一個も玉が入ってないように見えるのは、私の気のせいなんですかね?」
「……」
「……」
「……」
三人分の沈黙が重なる。
視線の先で、地面に落ちた玉を拾って、下手投げでカゴを狙うアイリス。その手から飛んでいった玉は、カゴの高さに到達することすらなく、反対側の地面へと落下していった。その玉の軌跡は、途中で途切れることのない、とても綺麗な放物線を描いていた。
「気のせい、だったらよかったですね」
「水瀬さんのは割と入ってるみたいなんだけどね」
悠が言う通り、アイリスの隣に陣取っている碧依の投げた玉は、比較的カゴに入る確率が高いように見える。隣との対比で相対的にそう見えるだけなのかもしれないが、それでも入っているという事実は確かなものだ。
そして、その事実はアイリスも分かっているようで、ここから見える表情には、どことなく焦りが浮かんでいるようにも見えた。
「応援してあげたら、もしかしたら入るかもしれませんね?」
「そんなことあります?」
「分からないですけど、アイリスならあり得そうです」
「……」
それが本当なのかは当然分からない。分からないのに、何故かその言葉には奇妙な説得力が備わっていた。それは、紗季の観察眼によるものなのか。それとも、普段のアイリスの態度によるものなのか。果たして。
「……入るとか入らないとか以前に、本人にも応援するって言いましたしね」
「でも、普段の湊君の声じゃ、流石に向こうには……」
「アイリスさん!」
「うわっ……!?」
右手を口の横に添え、そう呼びかける。隣で悠が何か驚いていたが、今はそれを気にしている場面ではない。視線を向けるべきは、未だに奮闘している少し先の後輩だ。
声が届いたおかげなのかは分からないが、はっきりと目が合った。玉が入る、入らないは別として、スムーズに動き回っていたアイリスの動きが、少しの間だけ止まる。
はっきりとこちらを認識しているのを確認してから、もう一度だけ、慣れない大声を張り上げる。
「頑張ってください!」
「おぉ……」
悠の次は、紗季からもそんな声が漏れる。それでも、視線はアイリスから逸らさない。
今度の言葉は、しっかりアイリスに届いてくれたらしい。ここからでは細かな表情の変化までは読み取れないが、嬉しそうに顔を綻ばせたことだけは分かった。
そして、瑠璃色の視線は再びカゴへと向けられる。先程までとは違って、もうその表情に焦りは見られない。
悠、紗季、そして何故か碧依も合わせて四人分の視線を受けながら、これまでよりも狙いに時間をかけて放った玉。その行方を追うアイリスの表情が、僅かな間を空けてから輝いた。
「ほんとに入るって……」
冗談で言ったことが現実になるとは露程も考えていなかったらしい紗季が、そんな驚きとも呆れともつかない言葉を口にする。
「……」
再びアイリスと目が合う。全身で喜びを表すかのように大きく手を振ってくるその姿を微笑ましく思いながら、控えめに手を振り返す。それを見たアイリスが、より一層顔を綻ばせてから、玉を集める作業へと戻っていった。
「入っちゃったね」
「どんな理屈ですか」
自分で応援しておいて何だが、本当に意味が分からなかった。一瞬、自分があの中に紛れ込んで、常に横から応援した方がいいのではないかとすら思ってしまう。
流石にそれは鬱陶しいうえに、女子生徒の中に紛れ込むということは、自分がどんな格好をしているのかを考えた辺りで、その案はそっと頭の中から追い出しておいた。
「ま、アイリスだからか……」
「そんな一言で片付くことですか? これ」
「アイリスなので」
「……」
アイリスの名前だけで押しきられてしまった。考えても仕方がないということも前提にあるが、その一言で納得してしまう自分がいるのも確かだ。
「僕は、どっちかって言うと、湊君が大声を出してる方に驚いたけどね」
「あ、それは私も思いました」
「そんなに驚くことでした?」
その驚きは、応援された途端に玉をカゴに入れてみせたアイリスよりも、なのだろうか。
「だって、湊君があんな声を出してるのって初めて聞いたし」
「そもそもイメージにないですよね」
「……確かに、滅多に出さないですけど」
あそこまではっきりとした大声を出したのは、いつ以来になるのか。自分でも分からないのだから、そんな感想を抱かれるのも無理はないのかもしれない。
「相当喜んでましたよね、アイリス」
「自分のために、滅多に出さない大声を出してくれたんだもんね。それは喜ぶよ」
「……」
慣れないことをした影響もあるが、ここまで言われると、流石に恥ずかしくなってきた。やたらとにこにこしている悠と紗季から、そっと目を逸らす。
「僕のことはいいんですよ。ほら、まだアイリスさんと碧依さんが頑張ってますから」
強引過ぎるとは分かっているが、それでも意識を競技に向けるように促す。そうでもしないと、自分の視線はしばらく明後日の方向を向いたままになりそうだった。
「照れ隠しですか?」
「照れ隠しだね」
「……」
だが、そんな魂胆はお見通しと言わんばかりに、悠と紗季という珍しい組み合わせから攻撃を受ける。自分の行動に端を発しているので、どうにも防衛が難しいのだった。
「そういう可愛い表情をするから、周りが女の子の格好をさせようとするんですよ」
自分は今、どんな表情をしているのだろうか。紗季の一言が妙に突き刺さる。
「でも、確かに応援はしないとですね」
「そうだね。あとちょっと、かな?」
釈然としないものはあるが、何とか悠と紗季が引き下がってくれた。どうして応援しただけでこんな思いをしないといけないのか、甚だ疑問である。
「……アイリス、また入らなくなってますし」
「……」
「……」
「……」
そうしてアイリスと碧依に視線を戻したところで、またもや三人分の沈黙が重なる。先程と違うのは、そのうち二人分の視線が自分に向いていること。
「……何ですか」
「分かってるよね?」
「分かってて聞いてますよね?」
「……」
当然分かっていた。二人が何を考えているかなど。
「ほら」
「どうぞ」
促される。退路などない。
「……アイリスさん!」
その少し後。再び玉をカゴに入れて喜ぶアイリスの姿が、視線の先にあった。




