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55. 変化の意味 (2)

「アイリスさんの様子がおかしかった?」


 昼休み。葵が席を外している中、碧依がそんなことを言い出した。


「うん」

「具合が悪そうだったとか、そういうことじゃなくて?」


 横で一緒に話を聞いていた悠が疑問を抱く。自分でこんなことを考えるのもどうかと思うが、この三人の中なら、悠が一番の常識人枠である。そんな悠が抱いた疑問なら、恐らく誰もが最初に気にすることなのだろう。


「元気そうではあったかな。しおらしかったけど」

「しおらしかった? あの子が?」


 実際にその光景を目の当たりにしたはずの碧依の言葉であっても、アイリスのその姿は想像ができなかった。毎日のようにこの教室にやって来るアイリスは、いつだって明るくて、活動的な印象を周囲に振り撒いていた。今の碧依の言葉は、それとは真逆に位置するものだ。碧依の嘘だと言われた方が、まだ信じられる。


「そうなんだよね……。何かあったのかな?」

「いや、それは本人に聞いてみないと分からないでしょ」

「湊君なら何か知ってるかもね?」


 当たり前のことのように悠が言う。その考えがすぐに出てきて、挙句誰も異論を唱えないところが、あの二人は完全に二人組として捉えられている証拠だった。


「それがね、葵君が今朝会った時からそんなだったんだって」

「へぇ? てっきり、湊君が何かしたんだろうと思ってたんだけど」


 どうせアイリスのことなので、何かあるとしたら葵関係のことだろうと考えていたのに、碧依の言葉から考えるとそれも違うらしい。あの葵が、そんなくだらないところで嘘を吐いたりはしないはずだ。ならば、本当に朝の時点で様子がおかしかったのだろう。


「その考え方も、湊君に対してどうなんだって話だけどね……」


 悠が苦笑いを浮かべる。確かにそうかもしれないが、あの二人に限れば、この考え方で正解だと信じている。様々な実績に裏付けられた、確かな予測法だった。


「でもね、やっぱり葵君は関係してそうなんだよね……」

「ほう?」

「どうせ葵君が何にも考えずに『可愛い』とか言って、アイリスさんが変な妄想でもしたんじゃないのって」

「その考え方は、フリーゼさんに対してどうなんだって話だけどね……」


 悠の苦笑いが消えない。


「違うって?」

「ちゃんと答えてくれなかった」

「何それ」

「俯いて変な声を出すだけだったから」

「それさ、碧依に変なことを言われて恥ずかしがってるだけなんじゃないの?」

「そうかな?」


 首を傾げる碧依。その時のことを思い出すかのように、視線は斜め上に向けられている。その様子を見るに、どうもあまり納得していないようである。


「そもそも、湊君に分からないんだったら、私達に分かるわけがないでしょ」

「それもそうなんだけどね……」


 碧依が困ったように尻すぼみの言葉を漏らす。アイリスと一番距離が近いであろう葵が分からないのなら、ここにいる三人がどれだけ考えても答えは出ないだろう。「三人寄れば文殊の知恵」という言葉もあるが、それは時と場合によるのだ。


「その葵君と上手く話せてなかったからなぁ……」

「うん?」


 そんな風に思っていたが、碧依の言葉で考えは一変した。


「え? どういうこと?」

「アイリスさんね、私とは割と普通に話してくれたんだけど」

「天敵って言われてるのにね」

「それは莉花もだよ」

「……」

「……」

「二人して黙り込むのはやめてよ」


 碧依とお互いに一発ずつ殴り合ってから、とりあえず先を促す。


「それで?」

「葵君とはまともに話せてなかったの。言葉が途切れ途切れで、顔もあんまり見てなかったし」

「ん?」

「初対面でも、もう少しはっきり会話できるよねってくらいだった」

「いくら妄想してたとしても、流石に多少の会話くらいはできるでしょ?」

「それができてなかったの」


 これまではただ単に不思議に思っていただけなのに、碧依の状況説明を聞いているうちに雲行きが怪しくなってきた。こう聞くと、原因はやはり葵周辺にあるように思えてならない。


「その割には、電車の中で座ってる時はぴったりくっついてたし」

「ぴったり?」

「こんな感じ」


 そう言って、碧依が椅子ごと移動して隣にやって来る。その距離は少し触れる程度では済まず、体の側面がほぼ全て密着している程だった。


「……ほんとに?」

「ほんとに」


 どう考えてもただの先輩後輩の距離ではないと感じるのは、自分だけなのだろうか。そう思って悠に目を向ける。


「近いね」

「だよね」


 やはり悠も同じ感想を抱いたらしい。見ているだけだった悠の目が若干丸くなってしまうような、そんな距離だった。


「一昨日、一日練習してたでしょ?」

「それが?」

「その時はね、普通だったの。だから、その後に何かあったんだと思うんだけど……」

「ふーん……」


 曖昧な返事をしながら、ぼんやりと考える。


 はっきり言ってしまえば、何となく答えに辿り着いたような気はした。最初に聞いた話だけでは分からなかっただろうが、雲行きが怪しくなった辺りから後の事実も含めれば、話は別である。


 むしろ、碧依が気付いていないことが不思議でならなかった。


「ま、原因は何となく分かったかな」

「え?」


 まさかそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったらしい碧依から、意外そうな視線が向けられる。やや心外ではあったが、ぱちくりと瞬きを繰り返す姿が可愛かったので、ひとまず気にしないことにした。


「嘘? 莉花が?」

「それ、どんな意味で言ってる?」


 前言撤回である。込められた意味によっては、再び碧依と開戦することになる。


「だって、あの莉花だよ?」

「どの私よ?」

「相手の都合はあんまり考えないで突っ込んでいく莉花だよ?」

「そこまで詳しく説明しろとは言ってない」


 自分でも何となく気にしているところを突かれて、思わず怯んでしまった。碧依の言葉が鋭過ぎる。


「それに、一応これでも考えたうえで突っ込んでるの」

「考えたんだったら立ち止まってよ……」


 特に被害が大きいであろう悠から、そんな悲しげな声が上がった。だが、いくら考えても無理なものは無理なので、その辺りは早めに諦めてもらえると自分としても助かる。


「で、何? そんな態度ってことは、別に聞かなくてもいいってこと?」

「ごめんなさい。聞かせてください」


 わざわざ椅子をずらし、密着していた体を離してまで碧依が頭を下げていた。自分の好奇心に素直過ぎるその姿に、思わず毒気を抜かれて笑みを浮かべてしまう。


「まずさ、碧依も気付いてると思うけど」

「うん?」


 このまま碧依と敵対し続けても仕方がないうえに、席を外している葵がいつ戻ってくるかも分からない。ということで、手早く自分の考えを口にすることにした。


「あの子、湊君のことが好きでしょ」

「男の子としてってことだよね?」

「そ」

「気付かないわけがないでしょ。あんなに分かりやすいのに」

「え……」

「……」

「……」


 気付いていない者が、一人だけいた。今の呟きは、どう考えても気付いていないからこその言葉だった。


 そんな呟きを漏らした悠が、自分と碧依、二人分の視線を向けられて、そっと目を逸らす。この上なく分かりやすい答え合わせだ。


「……それ、本気で言ってる?」

「気にしたこともありませんでした……」

「後でお仕置きね」

「何で!?」


 もちろん冗談だが、本気で慌てている悠の姿を見るのが妙に楽しいので、しばらくそのままにしておくことにした。


 とりあえず碧依に向き直る。


「で、話を戻すけど。あの子、どう考えても湊君のことが好きなのに、多分自覚してないでしょ?」

「してないね。そこがまた可愛いよね」

「そんなことを言ってるから天敵って言われるの、気付いてる?」

「莉花に言われたくはないよ」

「……」

「……」


 隙あらば一度ずつ殴り合う。先程仲裁役を務めてくれた悠は、今はそれどころではないようだった。様子を窺えば、怯えたような目でこちらを見つめている。両手はしっかり揃って膝の上。何かを堪えるように、その手は制服を握り締めていた。


(腹立つくらいに可愛いな……)


 その仕草はどう考えても男子高校生に似合う仕草ではないのに、悠がやるとここまで様になる。きっと葵がやっても同じような感想を抱くのだろう。何と言うべきか、身近な友人が本当に特殊過ぎる。


 本当はもう少しだけ放っておくつもりだったが、その可愛さに免じて早めに緊張から解放してあげることにした。


「お仕置きって言ったの、あれ冗談だから」

「……ほんとに?」

「ほんとほんと。それより、今はあの二人のことだから」


 まだ少し疑うような目を悠が向けてくるが、あくまで今の話題は葵とアイリスのこと。こちらもこちらで大変な事態が起こっているようなので、あまり悠に意識を割いている余裕はないのだった。


「何にも理解してなかった羽崎君のためにもう一回言ってあげると」

「ありがとうございます……」

「誰がどう見ても、アイリスさんは湊君のことが好きなの。先輩後輩としてじゃなくて、恋愛的な意味でね?」

「気付きませんでした……」

「あれほど分かりやすいのもないけどね。で、それを本人が自覚してないみたいだったわけ」

「はぁ……?」

「あ」

「碧依は気付いたね」


 先程の悠と同じく、たった一言で碧依の考えを察することができた。それほどはっきりとした、気付きの「あ」だった。


「気付いちゃったんだ?」

「だろうね。何があったのかは知らないけど」


 これまでの話を聞いて、これまでの二人の様子を見ていて。導き出される結論など、そう多くはなかった。その中で一番可能性が高そうなのが、この結論である。そうだと仮定すれば、碧依の口から語られたアイリスの様子にも色々と納得することができる。


「気付いちゃった……? あ、フリーゼさんがってこと?」

「恋愛系の話に疎いねぇ? やっと理解した?」

「丁寧な解説、ありがとうございました……」


 碧依の言葉を聞いてようやく話の全貌を理解した悠が、肩を縮こまらせながら言う。ただでさえ小柄な悠が、今はより一層小さく見えた。


「なるほどねー……。それであんな風になってたんだ……」

「ついでだから話しちゃうとさ。あの二人、付き合ってもないのに、やたら距離が近かったでしょ?」

「だね。葵君はあんなのだから自分からって感じじゃなかったけど、その分アイリスさんがどんどん距離を詰めてたもんね」

「自覚した後にそんなのを思い出したら、どうなると思う?」

「恥ずかしくて泣きたくなる」

「ま、そんなところだよね」


 要は、付き合い始めた後にこなすイベントを、既にいくつか通り過ぎてしまっている状況だった。想いを自覚してしまえば、その記憶はある意味毒となる。


「これから大変なんじゃない?」

「大変?」

「だって、そもそも今の距離が近いでしょ? もし上手くいきませんでしたってなったら、その距離すら保てないって」

「あー……。葵君の方から離れていきそう……」

「元々一人で生きていけちゃう種類の人間だからね。誰の助けも借りようとしないし」


 同じクラスになってから約五か月が経ったが、葵が誰かを頼っている姿など、記憶のどこにもなかった。もっと言うと、他者との関わりが希薄過ぎる。生来の性格なのか、それとも過去の出来事の影響なのかは分からないが、下手をすると、このクラスで葵と話したことがあるのは全体の二、三割しかいないという可能性すらあった。


 恐らく、わざと他者の中に強く踏み込むことを避けている。最早「いつもの四人組」と表現しても差し支えない程度には関わりのある自分や碧依、悠が相手の時ですら、一枚の壁に隔てられているような感覚がある。


 それはつまり、難攻不落ということを表していた。


「難しい相手だったんだね、湊君……」

「そうは言っても、アイリスさんの相手をしてる時は何か雰囲気違うし、絶対に無理ってわけじゃないとは思うけど」


 これだけ色々話してきたが、結局結論はそこに落ち着く。自分達との間にあるような壁は、葵とアイリスの間にはないように思える。ならば、可能性は全くない訳ではない。


「ま、あの二人次第ってことで」


 そう言って会話を締めくくる。担任に呼ばれて教室を出ていった葵がいつ戻って来るか分からないのだ。本人に聞かれてはいけない会話というのはいくつか種類があるだろうが、この手の会話は、特に聞かれてはいけない会話だった。他の誰でもない、アイリスのためにも。


「余計なことはしちゃだめだからね、碧依」

「そういうことをしそうなのは莉花でしょ」

「……」

「……」

「実は気に入ってるでしょ、そのやり取り」


 今度は悠の仲裁の声が響いた。




「来ないね、アイリスさん」

「ですね。いつもならもう来てるはずなんですけど……」


 一日分の授業が全て終了し、いよいよ本番が迫ってきた体育祭の練習が行われる放課後。普段であれば、アイリスと紗季が二年生の教室にやって来て、一緒に練習場所に向かうという流れだった。


 だが、今日はその二人が姿を現さない。まだ時間に余裕はあるが、今朝のアイリスの様子もあって、どこか気分が落ち着かなかった。


「ま、それもそうだろうけどね」

「何がですか?」

「何でもない」


 同じく教室に留まっていた莉花が、小さく呟いた。明らかに何かを知っていそうな口振りである。莉花にアイリスの様子を話してはいないので、碧依が雑談の一つとして話したのだろう。自分がそのことを知らないということは、昼休みにしばらく教室を空けていた時に違いない。


 碧依がどんな風に莉花に伝えたのかは分からないが、実際にアイリスと接していない莉花が何かを掴んだとなれば、そしてそれが正解なのだとすれば、それは立派な安楽椅子探偵ということになる。惜しいのは、その考えを話す気がないであろうところか。


「何か知ってるんですね?」

「知ってるかもしれないし、知らないかもしれないし?」

「誤魔化しても無駄ですよ」

「仮に知ってたとしても絶対に教えてあげないから、聞くだけ無駄だよ」

「はぁ……?」


 よく分からないが、そういうことらしい。傍で悠や碧依まで訳知り顔をしている辺り、知らないのは自分だけのようだった。


 考えても答えが出そうにない以上、知っていそうな相手に聞くのが一番手っ取り早いが、それすらもできない状況。もうどうしようもなかった。


「まぁ、しばらくしたら元に戻ると思うので、別にいいですけど……」


 そんな訳で諦める。考えても仕方のないことは考えない。執着心が薄いからこその芸当だった。


「それはどうかな……?」


 諦めたはずなのに、悠が漏らした不穏な一言でそれも怪しくなる。執着心が薄い自分はどこに行ってしまったのだろうか。


「どういうことですか」

「あ、いや……」

「羽崎君。それ以上何か言ったら、ほんとにお仕置きするからね」

「もう何も言いません」

「飼い慣らされ過ぎでは?」


 問い詰めるのが一番楽そうなのが悠だったが、莉花の言葉で鉄壁に変わる。何を知っているのかも気になるが、悠と莉花の間で何があったのかも気になるところだった。


 何にせよ、これで晴れて誰からも答えは期待できなくなった。今度こそ本当に諦めるしかないのだろう。


「で、どうするの? このまま待ってても仕方ないと思うけど?」


 教えるつもりは一切ないので、早く会話を先に進めろと言わんばかりの莉花の言葉。これまでの流れなど全く気にしていない一言だった。


「だったら迎えに行くだけです」

「……ま、そうなるよね」

「大変なことになりそう……」

「……」

「大変なこと?」


 悠に続いて、碧依までもが不穏なことを口にする。ただ迎えに行くだけなのに、この三人は一体何が起こると考えているのだろうか。自分まで不安になるようなことは言わないでほしかった。


 そんな状況の中、悠は宣言通りに沈黙を貫いていた。律儀にも程がある。


「まあでも、それ以外にどうしようもないし、仕方ないか。頑張ってね、湊君」

「僕が頑張ることなんてないです」


 そう返しながら、鞄を手に取る。迎えに行くことが決まったのなら、行動は早い方がいい。同じように鞄を手に取った三人と揃って、教室を後にするのだった。




「アイリス? そろそろ行くよー?」

「うん……」

「さっきからそればっかりだね」


 紗季に促され、純奈に呆れられる。今日一日だけで、既に何度も繰り返したやり取りだった。


 これまで何も考えずに足を運んでいた、葵がいる教室。それが、今日はやたらと遠く感じられる。とっくに放課後になったのに、自分の席から立ち上がったまま最初の一歩が踏み出せず、いくらか時間が経ってしまった。先週までなら、既に葵と合流しているような時間である。それを自覚してなお、足は動かない。一秒、また一秒と過ぎていく度、その躊躇いは増していくようだった。


「もう何回も言ってるけどさ、今日どうしたの? 絶対に何かあったでしょ」

「な、何でもない……」

「それも何回目よ?」


 分からなかった。朝から葵や碧依、紗季、純奈に何度も尋ねられ、その度に返してきたその言葉は、既に説得力を失って久しい。今日一日、誰一人としてこの一言を信じてはくれなかった。


「ほんとに具合は悪くないんだよね?」


 呆れの色はあるものの、純奈の瞳の奥には確かな心配の色も窺えた。だからこそ、こんな状況にあっても、その言葉には真面目に返す。


「それは大丈夫……。うん」


 けれども、真面目に返そうとすることと、本当に大丈夫そうに見えるかは別の話であって。結果としては、純奈の視線がさらに訝しげなものに変わっただけだった。


「湊先輩に会いたくて無理してたりしない?」

「あっ、葵さんは関係ないよ!?」

「あ、やっぱり関係あるんだ。ずっとそうだとは思ってたけど」

「ないよ!?」


 必死に否定するが、紗季は一切聞く耳を持たない。そもそも、「そうだと思っていた」と言ってのけた相手に対して、この程度の誤魔化しが通用するとは思えなかった。それでも、言葉は無意識に口を衝いて出る。


「あ、葵さんは、関係ない……」

「『あります』って言ってるようなものだからね、それ」

「うぅ……」


 やはり隠し通せるはずがなかった。一日中精彩を欠き続け、その度に紗季や純奈に助けてもらった。それによって積み重ねられた疑念が、今この場で溢れ出している。


「何かあった?」

「な、内緒……」


 純奈が気を遣ってくれているのは伝わってきたが、流石にこの感情を素直に口にすることはできない。たとえ、それが紗季や純奈が相手であろうとも。


「どうしても?」

「……どうしても」

「へぇー……」


 紗季がこちらの心を見透かそうとするかのように、じっと見つめてくる。いつもと変わらない目のはずなのに、何故か心の隅々まで見透かされてしまいそうな、そんな気がした。


「なに……?」

「あ、湊先輩」

「ひぁあ!?」

「嘘だよ」

「もー!」


 心臓がおかしな跳ね方をしたような感覚すらあった。そのたった一言でこうなってしまうのだから、我ながら重症である。今回は紗季の冗談だったからよかったものの、本当に葵がいたら、一体どうなっていたことか。そう考えると、今の自分の反応も仕方がないものだと言えるはずだ。


「何がしたいの!?」

「アイリスが何を考えてるのか探ろうかと」

「お願いだからやめて?」

「あ、湊先輩……」

「……二回目は驚かないからね」

「純奈……、それは流石に……」


 何とかして紗季を抑え込もうとする中、味を占めたように今度は純奈が呟く。だが、いくら自分がまともな状態ではなくても、このタイミングでは流石にその冗談は通用しない。紗季もその意見には賛成のようで、純奈に困惑の眼差しを向けていた。


 そんなタイミングが合わない純奈の様子に、少しだけ気持ちが落ち着いた。果たして持つべきものは友と言えるのだろうか。


「いくら今日の私でも、今のじゃ驚けな……」

「アイリスさん」

「ふわぁ!?」


 じっとりとした眼差しを純奈に向けたところで、背後からまさかの声がした。この教室では滅多に聞くことがない声である。今度は体ごと跳ねた。


「あっ、葵さん!?」


 勢いよく振り返る。それがよくなかった。


「わっ……!?」


 一気に強張った体。それを無理矢理動かしたせいで、足が縺れてバランスを崩す。倒れる体が向かう先は、当然振り返った向こう側で。


「大丈夫ですか?」

「……っ!」


 葵の肩に顔を押し付ける形で体の動きが止まる。そんな体を支えるように、葵の手が両肩に添えられていた。


「っ!?」


 顔が一気に熱くなる。一瞬遅れて、全身が熱くなる。葵に伝わってしまうのではないかと思う程、鼓動が大きくなる。


 離れないといけないのに。心臓が破裂しそうなくらい恥ずかしいのに。それでも何故か離れたくなくて。体は固まってしまったかのように動かない。


「アイリスさん?」


 そんな様子に違和感を抱いたであろう葵が、どこか気遣わしげに名前を呼んでくる。その声は相変わらず優しく、穏やかで。一点の曇りもなく、純粋に心配してくれているのが伝わってきた。


 今だけではない。朝からこんな姿を晒し続け、会う人誰もが根掘り葉掘り聞き出そうとしてくる中、多少のからかいはあったものの、葵はすぐにいつもの態度に戻ってくれた。周囲からすれば小さなことなのかもしれないが、葵への好意を自覚した自分にとっては、この上なく大きな出来事だった。


「ご、ごめんなさい……」


 そう謝るも、未だに体は動こうとしない。きっと、葵もどうすればいいのか分からず、さぞ困惑していることだろう。もし立場が反対だったとしたら、少なくとも自分は戸惑うはずだ。


「いや……、怪我さえなければいいんですけど」


 穏やかな声音の中に、やはり微かな困惑の色が窺えた。いくら普段から落ち着いている葵でも、こんな状況では流石に感情を揺らしてくれるのだと思うと、少しだけ嬉しかった。たとえ、それが困惑であったとしても。


 そして、こんな状況だからこそ。少しだけ、ほんの少しだけ、冷静さが戻ってきたからこそ。新たに気付けることがあった。


 葵にぶつかる直前、反射的に差し出した手は、今は葵の胸元にある。これまでに触れたことがない、その左胸。比較的薄めの夏服だったからこそ伝わってきたであろう、その鼓動。


(え……?)


 もちろん、普段の葵の心拍数など、自分が知っているはずもない。はずもないが、今の葵が刻む鼓動は、どこか速めなような気がした。自分のものと比べると、それは流石に自分の方が速いと言わざるを得ない。けれども、全く動じていないように見える葵の姿とは結び付かないのも、また事実だった。


(葵さんも……?)


 と言っても、葵も自分のことを恋愛的な意味で好いてくれているといった、あまりにも都合がいい解釈はしない。それは、これまでの葵を見ていれば一目瞭然である。誰にでも同じように接する葵には、誰か一人の特別な相手というものが想像できなかった。


 それは、これからの自分が大変な目に遭うということを示しているが、とりあえず昨日今日はそれどころではなかった。


 鈍い頭であれこれと考える。その間、たまに葵に肩を揺さぶられたような気もするが、それは些細なことだ。今は、速くなっているのかもしれない葵の鼓動が優先事項である。


(緊張してくれてる?)


 単純に考えるとそれしかない。流石の葵でも、この格好は恥ずかしかったのか。仮にそうだとして、相手は誰でもこうなるのか。それとも、自分が相手だからこうなってくれたのか。気持ちとしては後者なら嬉しいが、今それを確かめる術はない。


 いっそ、このまま腕を葵の背中に回して無理矢理意識させてしまうことも、人によってはできたのかもしれない。だが、残念ながら自分にできる芸当とはとても思えなかった。そうしたが最後、きっと心臓が大変なことになる。


「……」


 けれども、やはり意識はしてもらいたくて。そんな気持ちを込めて、少しだけ頭を押し付けてみる。周囲から見ても分からない程度の、けれども葵には分かる程度の、そんな力具合。気持ちが伝わったのかどうかは分からないが、肩に添えられた手の力は緩み、鼓動も少しだけ速くなった。


 葵の顔は見えないものの、恐らく澄ました顔をしているのだろう。それでも、内心はそうでもなかった。そんな、これまで知ることができなかった葵の内面を知ることができて嬉しかったのと同時に、可愛く思えて仕方がなかった。


(あ……)


 そう気付いた瞬間、朝からずっと続いていた緊張が、少しだけ解れたような気がした。まだまだこれまでと同じとはとても言えないが、とりあえずは体に自由が戻ってくる。


「……お騒がせ、しました」

「気にしてませんから」


 ようやく体を離して、再度謝罪の言葉を伝える。返ってきたのはそんな言葉だったが、それが少しだけ嘘を含んでいることは、もう分かっている。そして、それが全く嫌な気持ちにならない嘘だということも。


 今日一日、まともに見るだけでも苦労していた葵の顔を、ようやく少し落ち着いた気持ちで眺める。恥ずかしさが完全になくなった訳ではないので、やや俯き加減ではあるが。


「えへ……」

「何いきなり笑ってるんですか」


 そう思って見ないと気付けない程の、本当に小さな変化だった。いつもと何も変わらないように見える、葵のその表情。けれども、よくよく見るとうっすらと頬が赤くなっているような、そんな気がした。




 朝から様子がおかしかったアイリスが、ほんの少しだけ、いつもの調子を取り戻していた。何があったのかは分からないが、復調の兆しがあるのなら、それは間違いなく喜ばしいことなのだろう。


 そんなアイリス達と合流してから、今日の練習場所に移動して最初に行ったこと。それは、各パートの再確認でもなければ、全体練習でもない。


「もっと可愛さに振りきってもよかったんじゃないかなぁ……?」

「これくらいでいいです」

「これ以上はちょっとね……」


 自分と悠が羽織った上着を見て、碧依がそう零す。そんな碧依も同じ姿で、その隣では、やはり同じ姿のアイリスがじっとこちらを見つめていた。何か言いたいことでもあるのかと思って目を向ければ、その瞬間に視線を逸らされる。復調の兆しはどこかへ行ってしまったのかもしれなかった。


「結構しっかりした衣装を作るんだね」


 逸らした視線を戻そうとして、まだ見られていることに気付いたアイリスが再び視線を逸らすのを眺めている傍らで、碧依がそう話を続ける。誰に向かって言うでもなく、思わず呟いたというような、そんな声である。


「落ち着いたデザインでよかったです」


 アイリスを眺め続けていても埒が明かないので、とりあえず視線を碧依に戻す。その瞬間、アイリスの視線も戻ってくる気配があった。


「これなら湊先輩と羽崎先輩が着ても、そんなに違和感がないですよね」

「違うんだよ、星野さん」

「はい?」


 紗季の言葉に、碧依がしなくてもいい反論をする。どうせおかしなことしか言わないのだから、真面目に聞くだけ無駄である。


「葵君は、もっと可愛いのでも普通に似合うよ。羽崎君は見たことないけど、でも絶対似合うよね」

「湊先輩、羽崎先輩。着せ替え人形だと思われてません?」

「思われてますよ」

「僕はまだ何も着てないから……。大丈夫、大丈夫……」

「これが第一歩ですよ」

「何で湊君がそっち側なの」


 不服そうに言う悠だが、恐らくいつか押しきられて何かを着ることになるはずだ。仕方なくではあるが、先程手渡された衣装を着てしまった時点で、心理的なハードルは一段下がっている。あとは時間の問題だ。


 そんな悠の未来が僅かに垣間見えた、賑やかな衣装合わせの時間なのだった。


「『道連れ』って言葉、知ってます?」

「知ってるけど、何で今聞いてきたの?」

「この先そうするからです」

「やめて?」


 懇願する悠の目が迷惑そうだった。だが残念なことに、その辺りの決定権は自分にはない。持っているのは、いつだって周囲の友人だった。


「はいはい、二人にはいつか何かを着せてあげるとして……」

「そうじゃないんですよ」

「何を聞いてたらそうなるの……?」

「葵君がしなきゃいけないことは、他にあるでしょ?」

「僕が?」


 どう考えても他人の話を聞いていなかったであろう碧依が、いきなりそんなことを言い出した。先程とは違って、今は比較的真剣そうな目をしている。どうやらふざけている訳ではないようだった。


「何かありましたっけ?」

「アイリスさんを見て、何にも思わないの?」

「えっ……!?」


 まさか話を振られると思っていなかったのだろう。油断していたらしいアイリスの驚く声が響く。


「アイリスさんですか?」

「そ。仲が良い後輩の女の子が、せっかくこんな衣装を着てるんだよ? 何か言うことがあるんじゃない?」

「あの……、碧依先輩……?」

「どうしてそれを碧依さんが言うのか分かりませんけど、似合ってると思いますよ。可愛いです」

「ひぅっ!?」


 小さく、そんな声が聞こえた。落ち着きなく視線を揺らすアイリスが身に纏っているのは、ここにいる全員と同じ、法被をベースにした衣装だった。黒を基調として、腰の辺りに桜の花弁を模した飾りが縫い付けられている。その色はもちろん桜色だ。


 あまりアイリスが着ている印象がない黒ではあったが、どんなものでも大抵は似合ってしまうのが、アイリスの大きな特徴でもあるのだった。


「よかったね、アイリスさん」

「碧依先輩は何がしたいんですかぁ……」

「秘密」


 アイリスの弱々しい抗議は、碧依には届かない。微笑ましいものを見る目でアイリスを見つめる碧依の姿から考えると、先程の行動は善意からくるものに見えなくもない。


 だが、何か裏に秘められたものを感じるのも事実である。実際、碧依の口からは秘密という言葉が聞こえてきた。


「で、アイリスさんからも葵君に言わないといけないことがあるよね?」

「はい!?」


 大げさ過ぎる程の声が、アイリスから上がった。碧依もまさかそこまで驚かれるとは思っていなかったらしく、綺麗に目を丸くしている。


「そんなに驚くようなことだった?」

「だっ、だって! 何を言わせようと……!?」

「いや、葵君もこれを着てるんだし、アイリスさんも何か言ってあげたらいいんじゃないって思ったんだけど……」

「……え?」

「え? それ以外にあった?」

「……」

「……」


 共に驚いた後は、共に沈黙。ある意味息の合った二人だった。


「何かあったん……」

「衣装の感想ですよね!? それ以外にないですよね!?」

「あぁ、うん。そうなんだけど……」


 わざと碧依に被せるような、アイリスの言葉。何か別のことを考えていたのは明白だった。けれども、今日の様子を見る限り、それを教えてくれることはないのだろう。気にはなるが、考えるだけ無駄だと割り切って沈黙を貫く。


「今、それ以外のこと……」

「考えてませんけど? 葵さんのことで頭がいっぱいでしたけど?」

「……そっか」


 それはそれで恥ずかしい宣言に、碧依がそっと引き下がる。流石にこれ以上は酷だと思ったのか、その目はこの上なく優しげなものだった。


 そして何より、聞いている自分が誰よりも恥ずかしかった。


「葵さんの衣装、ですよね……」

「……」


 正面から向き合っているのに、何故か目だけは合わない。衣装を見ていると考えれば、それも当たり前なのだが。


「葵さんも似合ってて、可愛いと思います……よ?」


 少しだけ頬を染めながらの、そんな感想。仕草だけならば、見ているこちらも照れてしまいそうな見た目だった。だが、感想自体は素直には喜べない。


「何で疑問形なんですか。あ、いや、断言してほしいわけじゃないです」

「葵君は可愛いよ!」

「碧依さんには言ってないですし、断言しなくていいですし、何か言い方がおかしいです」


 突っ込みどころが多過ぎる。どうしてたった一言にそんなに詰め込めるのか、むしろ自分が教えてほしいくらいだった。


「あれだね、二人でお揃いってやつだね」

「お揃い……」

「他にもたくさんいますよ」

「細かいことは気にしなくていいの。これを見なさい」

「お揃い……!」


 そう言って碧依が指差す先。そこには、嬉しそうに頬を緩めるアイリスの姿があった。


「何がそんなに嬉しいんですか」

「だって……、えへへ……」


 驚いたり、照れてみたり、喜んだり。今日のアイリスは、普段にも増して感情の揺れが激しい。一体何がアイリスをそうさせているのか、皆目見当がつかなかった。


「まぁ、厄介なことを企んでるわけじゃないなら、好きにしたらいいですけど」

「はい……!」


 アイリスへの甘さは自覚しているが、それでもこんなに嬉しそうな表情を見せられてしまえば抗えない。ある意味では相性がよくて、また別の意味では相性が悪かった。


「今のはよかったのかな?」

「余計なことじゃないし、問題なし」

「何の話をしてるんですか?」


 残された三人が何かを話しているのが聞こえてくる。けれども、何故かアイリスの様子から目が離せずにいる今、その声が意味を持った音として認識されることはなかった。

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