54. 変化の意味 (1)
週が明けて、九月十一日。水曜日に行われる体育祭の本番に向けて、練習が大詰めを迎える、そんな月曜日である。
けれども、特に生活のリズムが変わることもなく。いつも通りの時間に目が覚めて、いつも通りに朝の支度をして、いつも通りの時間に駅へと向かう。
多少の前後はあるものの、これもいつも通りと言える時間に駅舎へと辿り着く。そこには、いつも通りの後ろ姿があった。
「おはようございます」
後ろから、そう声をかける。何も変わらない、毎朝の挨拶。
「うわぁ!?」
アイリスがいつも通りではなかった。
声をかけた途端、はっきりと肩を跳ねさせ、勢いよくこちらを振り返りながら一歩距離を取るという、見たこともない奇妙な芸当を披露していた。振り返った勢いで少しだけ宙を舞った菜の花色の髪が、薄暗い駅舎の中できらきらと輝く。
「おっ、おはようっ、ございます!」
今日初めて見たその顔は、何故かうっすら赤く染まっていた。いつもなら笑みを浮かべながらの挨拶も、今朝は目も合わなければ、言葉も途切れ途切れ。明らかに何か異常事態が発生していた。
単に考え事をしていて不意を突かれただけの可能性も、ない訳ではないが。
「朝からどうしました?」
「何でもないですよ!?」
「それは無理ですって」
どう見てもいつもと違う姿を晒しておいて、何でもないは流石に通らない。未だに合わないその目が、そんな考えにより拍車をかけていた。
「何か考えてました?」
「もっ……! 妄想なんて、そんなのしてませんけど!?」
「そこまでは言ってないですし、してたんですね」
語るに落ちるとは、まさにこのことである。誰も聞いていないのに、勝手に答えを教えてくれる程にアイリスが動揺しているということなのだろう。
「してません……!」
「だから無理ですって」
この期に及んで、まだ誤魔化そうとするアイリス。どんなことを考えていたのかを詳しく想像することはできないが、そんな態度を見るに、恥ずかしい方向の妄想だったに違いない。
「聞かれたくないことを考えてたんですね」
「うぅ……」
図星を突かれたと言わんばかりに、呻き声だけを上げて俯いてしまう。そうかと思えば、一瞬だけ上目遣いという形で目が合う。少しだけ分かったような気になっていたアイリスの行動が、今日は全く読めなかった。
「まぁ、何を考えてたのかまで詳しくは聞きませんけど、気を付けた方がいいですよ」
「……何を、ですか?」
「碧依さんが乗ってくるまでに立ち直っておかないと、色々と面倒なことになります」
今のアイリスを見た碧依がどんな反応を見せるかなど、考えるまでもなかった。そして、その火はきっと自分まで飛び火する。そんな未来が、簡単に頭の中に浮かんでしまった。
「頑張ります……!」
そんな事態の厄介さは、今のアイリスにも流石にしっかり伝わったようで。力強いのか、必死に絞り出したのか、どちらかよく分からない宣言が飛び出してくるのだった。
乗客の様子などお構いなしに、いつも通りの時間にホームへとやって来た電車に乗り込み、いつも通りの席へと向かう。これまでは隣を歩いていたはずのアイリスが、今日は何故か少しだけ後ろを歩いていた。
毎朝座り続け、ほぼ指定席となってしまった席に腰を下ろす。すぐに隣にアイリスが座ってくるものだと思っていたが、これまた何故か目の前で立ち尽くしたまま。やはり、どうにも様子がおかしい。
「アイリスさん?」
「……」
気になって呼びかけてみるも返事はなく、ただ自身が座るはずの席を眺めるだけ。そして、時折視線が自分に向けられる。どちらの仕草も、これまでに見たことがない仕草だった。
「座らないんですか?」
「座りますけど……」
そこで謎の逡巡を見せるアイリス。ここまで様子がおかしいとなると、流石に心配になってくる。
「具合でも悪かったりします?」
顔が赤いのを見た時に、最初に考えた可能性。声の調子やその後の様子からして大丈夫だとは思っていたが、もしかすると実は体調が悪いのかもしれない。それにしても、立っているよりも座った方が楽なような気もするが。
「だったら、家まで送っていくくらいはしますけど」
学校には遅れてしまうが、それは仕方ないだろう。体調が優れない後輩を一人で帰らせるのは、流石に不安が大き過ぎる。
「大丈夫、ですっ。大丈夫……」
「そうですか?」
「元気なのは元気ですからっ」
言葉の勢いが不安定なのが気になりはしたが、本人がそう言うのならどうしようもない。空元気だった時のために、一応は気にかけておくことを心に留める。
「失礼、します……」
こんな場面でこれまで聞いたことがないような断りの言葉を入れてから、アイリスがようやく隣に腰を下ろす。
近かった。
「近……」
思わず声にも出た。夏休み明けにも同じことを考えたが、あの時よりもさらに距離が近い。
先週までは肩が触れる程度であり、拳一つ分程ではなくなったとはいえ、僅かに残っていた隙間。今はそれも完全になくなり、体の左側の側面がほぼ全てアイリスと密着してしまっていた。
「だ、だめ、ですか……?」
アイリスから漏れた、どこか震えるような声。そして、今日一番長く合った目。その目は、いつもより多くの涙を湛えているようにも見える。
「別に気にしてません」
「よかったぁ……」
理由までは分からないが、そんな姿を見せられて拒否できるはずもなく。そう返すと、アイリスから小さく安堵の声が漏れた。これだけ距離が近かったからこそ聞こえた言葉だったのだろうか。意外とこれまでの距離でも聞こえたかもしれないが、それを確かめる術はどこにも存在していなかった。
「……起きちゃった……」
自分以外誰もいない部屋。そのベッドの中で、一人小さく呟く。
休日はおろか、学校へと向かう平日にしても早過ぎると断言できる時間。これまでの自分なら、間違いなくまだ夢の中にいる時間である。
カーテンの隙間から部屋に差し込む光の様子が、普段と少しだけ違うように見える。そんな小さな違いにすら気付くことができる程の、高校生になってからほぼ間違いなく一番早い起床時間だった。
「……」
こんな時間に目が覚めることが絶対にないかと問われると、その答えは否定の言葉になる。頭の大部分に靄がかかったような状態ではあるけれども、目が覚めること自体はこれまでにも何度かあった。だが、そういった時は必ずそのまま夢の世界へと逆戻りするのが、いつもの自分だ。
だというのに、今日はそんな気配もなく。靄は完全に晴れ、これ以上ない程に覚醒してしまった。だが、眠りが浅かった訳でもない。生活リズムは大して変わっておらず、眠りの深さは変わっていないような気がしていた。
変わってしまったのは、自分の感情。変わったと言うよりも、気付いてしまった、その感情。
気付いてしまったすぐ後はなかなか寝付けなかったうえに、昨日は冗談でも何でもなく一日中そのことを考えてしまって、色々と大変だった。そして、それは目が覚めた今も変わらない。だからこそ、夢の世界へ戻ることができなかったのだった。
「……ん」
横になっていても仕方がないので、ベッドの上で体を起こす。時計を見れば、滅多に見ない数字が、そこに表示されていた。
(五時四十五分……)
一番早い起床であることが確定した。少なくとも、高校に入学してからは一度も見たことがない時間だった。
そして、そんな数字を見てしまったからこそ、その言葉を無意識に覚えていたからこそ、気付いてしまう。
(葵さんも起きてる……)
一昨日の昼休憩の時に話していた。一人暮らしで色々と準備をする必要があって、その分朝が早いと。五時半には起きていると。
「……」
視線が窓の外、葵が住んでいる部屋がある方向へと向く。これは完全に無意識の行動だった。
歩いてたった数分の距離。その先で、自分の想い人が今まさに朝の支度をしている。そう思うと、鼓動が少しだけ速くなった。
そして、そんな想いに突き動かされるようにして、自分も朝の支度を始める。同じ時間に同じことをしているという、そんな想像だけで少しだけ体温が上がったように感じられた。
部屋を出て階下へと向かえば、リビングからは既に物音がする。レティシアが既に朝の支度を始めているに違いない。自分が階段を下りる気配は、レティシアに伝わっているだろうか。考えても仕方のないことだが、何かを考えていないと、また頭の中が一色に染まってしまう。当然、嫌なことであるはずもないが、何かと大変なのは事実だった。
そんな葛藤を抱きつつ、一旦リビングに背を向けて洗面所へと向かう。せっかく早起きをしたのだから、いつもより丁寧に身支度を進めようかと考えたところで、またも意識してしまっていることに気付く。鏡に映る顔の、その頬がほんのり桜色に色付く。
「……」
誰に見られている訳でもないのに、努めて平静を装う。
結局、身支度の時間はいつもより十分も長かった。
「あら、珍しい」
リビングへと繋がる扉を開けると、そこにはやはりレティシアがいた。いつもと変わらない見た目で、一体何時に起きているのかという疑問を抱いてしまう。
そんなレティシアも、階段を下りる気配が娘であるとは思っていなかったようで。意外そうに少しだけ目を丸くしていた。
「今日、何かあった?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
「昨日、ずっと様子がおかしかったのと関係ある?」
「……気付いてたんだ」
「当然。母親ですから」
自分としても上手く誤魔化せたなどとは思っていないが、改めてそう指摘されると恥ずかしいものがある。果たして、昨日の自分は両親から見て、どんな風に見えていたのか。聞きたさ三割、聞きたくなさ七割といった具合だった。
「洗面所に行ってたんでしょ? さっき階段を下りる音がしてから、結構時間が経ったわね?」
「……」
「いつもより時間をかけて身支度をしてたわけだ?」
「ちょっと早起きしたからね」
「ふーん……」
「なに?」
何かを探るようなレティシアの視線。一瞬狼狽えるが、流石に母親であろうとも、心の中まで見通すことなどできるはずがない。そう思うのに、それでもレティシアならと考えてしまうのは、たまに見せる鋭さがあるからだろうか。
「ま、いいわ。もう食べる?」
「んー……、いつもの時間にしようかな……?」
「ちょっと早く食べて、授業中にお腹が鳴ったら恥ずかしいもんね?」
「そんなに食いしん坊じゃないし」
言いながら思い出す。そういえば、過去に二度も葵にお腹の音を聞かれた。一昨日は、葵から弁当のおかずを二つ貰った。
(そう思われてる……?)
少しだけ不安になる。美味しいと感想を伝えた時に喜んでくれたので、悪いようには思われていないと信じたい。けれども、不安なことには変わりなかった。
(どんな顔をして話せば……!)
アーロンに駅まで送ってもらった、その少し後。傍目には平静を装いながら、内心大いに慌てる。
今日は自分の方が先に駅舎に到着した。葵の方が早いこともあるので、いるかどうかは賭けだった。
そして、勝った。
どんな顔で話せばいいのかすら分からない今、自分から葵に声をかけるのは難易度が高過ぎる。その点、先に着いてしまえば、少なくとも葵側から声をかけてもらうことができる。
だが、それはあくまで会話の始まり部分だけの話であって、その後を保証するものではない。声をかけられた後、どう接するのが正解なのかは、結局分からないままだった。
(どんなお話をすれば……?)
今までこんな風に考えたことなどなかった。どんな時でも溢れるくらいに話題が出てきて、時間が足りないと感じる程だったのに、今やこの有様である。目を閉じて考えてみても、答えは見つからない。
そんなことをしていたからだろうか。いつもなら逃すはずのない気配に気付かなかったのは。
「おはようございます」
「うわぁ!?」
いきなり聞こえてきたその声。想い人だと気付いてしまった相手の、大好きな声。どう考えても自分のせいではあるが、形としては不意を突かれることになってしまい、肩が大きく跳ねてしまった。
そして、思ったより近くから声をかけられたことに驚いて、一歩分距離を取りながら振り返る。あまり運動が得意ではない自分にしては、随分機敏な動きだった。
「おっ、おはようっ、ございます!」
全く以ていつも通りではない挨拶。顔が赤くなっているのが自分でも分かるうえに、目を合わせることもできなかった。今その薄茶色の瞳を見つめてしまえば、間違いなく冷静ではいられなくなる。既に冷静さは失っていると、頭の片隅でそう囁く声もあったが、それに関しては全力で無視することにした。
「朝からどうしました?」
「何でもないですよ!?」
「それは無理ですって」
そんなことは言われなくても分かっている。少しだけ上擦った声では、誤魔化すも何もない。しかも、相手は葵だ。流石に両親程とまでは言えないが、それでもその二人に次ぐレベルで、自分のことを知ってくれているであろう相手。見破られて当然だった。
「何か考えてました?」
「もっ……! 妄想なんて、そんなのしてませんけど!?」
「そこまでは言ってないですし、してたんですね」
あまりの緊張に、盛大に口が滑ってしまった。正直な話をすれば、昨日散々した。初めて抱く感情をどう扱えばいいのか分からなくて戸惑いながらも、頭の中の正直な部分は全力で稼働していた。
以前、結婚式を挙げる妄想はしたことがあった。これでもかというくらいに紗季と純奈に根掘り葉掘り聞かれた、あの妄想。だが、今回はそれだけでは止まらなかった。
色々なところへ遊びに行く妄想はまだ大人しい方で。二人で同棲しているところも考えれば、一緒に子供を育てているところも考えた。どう考えても、あの時紗季に言われた言葉が響いている。
何か一つ妄想する度に、顔を真っ赤にしてベッドの上で転げ回った。そんな出来事があったからこそ、「妄想」などという言葉が口を衝いて出てしまったのだった。
「してません……!」
「だから無理ですって」
必死に誤魔化そうとするが、既に遅い。葵は確信を得ているはずだ。
「聞かれたくないことを考えてたんですね」
「うぅ……」
まさにその通りで。昨日考えたあれやこれやを葵に聞かれてしまえば、きっとこれまでのように接することはできなくなる。そんなことは絶対に嫌だった。
一瞬だけそう考えてしまって、不安に駆られる。どうにか安心が欲しくて、ちらりと葵の瞳を覗き見る。いつも通りの、穏やかな薄茶色の瞳。まだまだ恥ずかしさの方が先に立つが、それでも幾分か不安は払拭されるのだから不思議なものである。
「まぁ、何を考えてたのかまで詳しくは聞きませんけど、気を付けた方がいいですよ」
そうして小さな葛藤と戦っていると、葵から何やら不穏な言葉が投げかけられた。今の自分は些細なことでも何かのバランスを崩す自信がある。できれば笑い飛ばせるくらいのものであってほしい。
「……何を、ですか?」
そう思いながら、恐る恐る尋ねる。
「碧依さんが乗ってくるまでに立ち直っておかないと、色々と面倒なことになります」
微塵も些細なことではなかった。むしろ、一大事に分類される程のことである。頭の中が葵で埋め尽くされていて、碧依の登場する隙が一切なかった影響が、こんなところに出ていた。
確かに、碧依が今の自分を見たらどんな反応を見せるのかは、容易に想像できる。喜々として色々と尋ねてくるに違いない。そして、自分がそれに耐えられる未来は想像できなかった。
「頑張ります……!」
どうにか絞り出した、その一言。理想を言えば、葵といつも通りに話せるようになっていれば、何の問題もないはずだった。けれども、それが容易ではないことくらい、誰にでも理解できる。一体いつまでこんな緊張が続くのかは分からないが、少なくとも碧依が乗ってくる駅までに解消できるとは、到底思えなかった。
改札を抜け、ホームへと向かう。いつもなら葵の隣を歩いていたはずなのに、今はとてもではないが、そんなことはできなかった。少し後ろを歩いている今でさえ、鼓動は速くなってしまっている。隣を歩けばどうなってしまうのか、想像すらできない。
そうして朝からずっとぐるぐると頭を働かせていたからこそ、とあることに気付く。
いつもより自分の歩みは遅いはずなのに、葵との距離は離れない。自分が調整している訳ではないのだから、そうしているのは一人しかいない。
「……」
思えば、葵と自分ではどう考えても歩幅が違う。いくら葵の身長が平均より低かろうが、自分よりも大きいことには違いない。何も考えずに歩いていれば、普段からして二人の距離は離れていって当然のはずだった。それなのに、今に限らず、これまでもそうなったことは一度もない。
(ずっと葵さんが合わせてくれてた……?)
さらに鼓動が速くなる。この時ばかりは、後ろを歩いていてよかったと、本気でそう思う。自然と緩む頬を見られてしまえば、何があったのか尋ねられるのは必然。「歩くペースを合わせてくれていたことが嬉しかった」と言うくらいならできそうではあるが、その後がどうなるか分からない以上、葵相手であろうが、警戒はしておいた方がいいのは確かだった。
そんな葵に続いて、電車に乗り込む。どんな状況であろうとも、毎日変わらず待ち受ける指定席。先に腰を下ろした葵の左隣の席。
そう意識した時点で、もうだめだった。
(隣……? 隣……!?)
改札を抜けてからここまでの短い時間でさえ隣を歩くことができなかったのに、これから二十分以上も隣に座ることになる。とてもではないが、耐えられる気がしなかった。
「アイリスさん?」
「……」
不思議そうに自分を見つめる葵に呼びかけられるが、今は反応することができない。どうにもならないのに、それでもどうにかならないかと、全力で頭を回転させる。
ちらりと、葵に視線を向ける。明らかに自分の様子がおかしいことには気付いているはずだ。それでも、いつものようにからかってくることはない。葵の中でどういった線引きがされているのかは分からないが、今はそういう時ではないと判断されたらしい。
「座らないんですか?」
「座りますけど……」
再度の問いかけ。流石に、二度も無視してしまうことはできなかった。そして、その言葉で隣に座ることが確定してしまった。そもそも、今更全く別の席に座るのも、目の前で立ち続けているのも無理があったので、選択肢としては一つしかなかった。ただ気持ちを落ち着かせる時間が欲しかっただけの話である。
「具合でも悪かったりします? だったら、家まで送っていくくらいはしますけど」
そんなことを考えていると、葵からやや心配そうな声が聞こえてきた。確かに、様子がおかしいとなれば、真っ先に疑うのはその可能性だろう。仮に葵の様子がおかしければ、自分もその心配をする。
そして、そんな心配をされてしまったからこそ、また考えてしまう。紗季に逞しいと評された妄想だ。
風邪を引いてベッドに横になる自分を、葵が甲斐甲斐しく看病してくれる、その光景。料理が得意な葵なら、きっと食べやすいものを作ってくれるはずだ。それを手ずから食べさせてくれたりするのだろうか。眠るまで手を握っていてくれるだろうか。
葵の言葉を聞いてから、ここまで考えるのに僅か数秒。頭の回転の速さは今日一番である。この速さをもっと違うところで発揮したかった。
「大丈夫、ですっ。大丈夫……」
「そうですか?」
「元気なのは元気ですからっ」
妄想を振り払って、そう答える。まだどこか心配されている気配はあるが、体調自体は何の問題もないのだから、いずれその心配も消えていくのだろう。余計なことを考えさせてしまったことを申し訳なく思う一方で、こんな風に心配してくれたこと自体が、嬉しくて仕方がなかった。
もちろん、だからと言ってわざと心配をかけさせようなどとは、微塵も思わなかったが。
「失礼、します……」
いつまでも立っている訳にもいかず、勇気を振り絞って隣に腰を下ろす。こんな場面では初めて口にする言葉と共に。
「近……」
座った途端に、葵からそんな声が聞こえてきた。そう言われて、初めて気付く。
(近いぃ!)
全く意識していない行動だった。それはもう密着と言ってしまっても問題ない程の距離で、どう考えてもただの先輩と後輩と言い張れる距離感ではなかった。
(なんで……!?)
隣を歩くことを想像しただけで緊張していたはずなのに、この行動。自分でも理解が追いつかなかった。
そして思う。葵の声に乗せられた感情は、一体何だったのか。ただの困惑ならばまだいい。呆れや、それ以外の負の方向の感情は乗っていなかっただろうか。
もしそうだったとしたら。嫌な想像を振り払うことができず、背筋に冷たいものが走る。
「だ、だめ、ですか……?」
自然と声が震えた。
(嫌われたくない……!)
これもまた、初めて自覚した感情。
あまり人に執着しない葵のことだ。相性がよくないと思えば、そっとその人から離れていくイメージがある。もし自分からも離れていってしまったら。毎朝、一人でこの電車に乗ることになってしまったら。そんな寂しさに耐えられる気がしなかった。
瞳が潤むのを感じる。想像だけでこの有様だった。
「別に気にしてません」
祈るような気持ちで待った葵の言葉。それが通じたのかどうかは分からないが、幸い、負の感情は全く感じられなかった。
「よかったぁ……」
安堵のため息と共に、そんなか細い声が出た。そして、それと同時に、触れ合った部分の熱をはっきりと自覚する。冷房で冷えた車内の空気の中にあって、それでもなお温かいと感じられるその熱。恥ずかしさや緊張は当然あるが、それよりも、隣に葵がいると実感できる喜びの方が大きかった。
気付かれないように、そっと葵の顔を横目で覗き見る。
(ちょっとだけ、赤い?)
目の錯覚なのかもしれない。そうであってほしいと願った自分の見間違いなのかもしれない。それでも、ほんの少しだけ、葵の頬が赤くなっているような気がした。
(照れて、くれてる……)
それが本当に正解なのかは分からない。けれども、そんなことはどちらでもよかった。大事なのは、ここまで密着したからこそ、葵の頬が赤くなっているのかもしれないということ。自分を意識してくれているのかもしれないと思うと、これ以上ない程に嬉しくて仕方がないのだった。
「おはよ……近っ」
妙に口数の少ないアイリスと電車に揺られ、碧依が乗ってくる駅に到着する。いつも通り電車に乗り込んできた碧依の第一声は、挨拶と驚きが混ざったものだった。
「え? 何? 何かあった?」
恐らく、先程のアイリスとは違う理由で立ち尽くす碧依。視線がアイリスと自分の間を行ったり来たりしていた。と言っても、その距離は相当に短いが。
「さぁ……?」
「『さぁ』ってことはないでしょ。何をやらかしたの、葵君?」
「どうして僕に原因がある前提なんですか」
「だって、アイリスさんの様子がおかしくなるのって、大体葵君関係でしょ?」
「……っ」
「ほら」
碧依の言葉に、はっきりとアイリスの肩が跳ねた。これだけ近ければ、意識していなくてもその動きは伝わってくる。
「何かしましたっけ?」
その反応からして、碧依の言っていることが正解なのだろう。けれども、思い当たる節が全くなかった。今朝会った時には既にこんな状態だったが、土曜日に別れた時は、大して変わった様子はなかった。土曜日の夜から日曜日にかけて何かがあったところで、自分は一切関わっていない。その間に、一体何があったというのか。
そんな純粋な疑問を込めて、アイリスへ尋ねる。
「あっ、葵さんは、何もしてない、ですっ」
「何々? ほんとにどうしたの?」
座席に腰を下ろした碧依が、やや前のめりになってアイリスを覗き込む。明らかに様子がおかしいその返答に、さらに違和感を覚えたようだった。
「何でもないですけどっ!?」
「それは無理でしょ」
碧依が自分と全く同じ感想を抱いていた。
「……無理じゃないですもん」
「無理ですよ」
何が何でも押し通そうとするアイリスを見て、思わず横から口を挟んでしまった。その途端に、瑠璃色の瞳が明後日の方向を向く。
「無理じゃ……、ない、ですもん……」
「私と葵君で態度が違い過ぎない? やっぱり何かしたでしょ、葵君」
「だから分かりませんって。今朝いきなりこうだったんですから」
そう碧依に返事をするものの、ここまでの様子を見てしまうと流石に自信がなくなってきた。碧依に対しては比較的普通に話していたのに、相手が自分に変わった途端にこのしおらしさである。確かに、これで何もないと言いきれる方がおかしい。
碧依もそれは分かっているようで、露骨に疑いの目を向けてくる。
「一昨日、相合傘で帰ったでしょ? その時、また何かアイリスさんに妄想させるようなことでも言ったんじゃないの?」
「疑い方が特殊過ぎませんか?」
こんな疑い方をされる人間が、この世にどれだけいるのだろうか。そして、碧依にまで妄想逞しい後輩だと思われていることが発覚したアイリスの心境は、一体どのようなものなのだろうか。
「勝手なイメージだけど、葵君、そういうことを無意識で言ってそう」
「本当に勝手ですね」
「どうせまたほいほいと『可愛い』とか言ったんでしょ」
「それは……、たまに言いますけど」
その辺りの言葉を口にするのは慣れていることもあって、深く考えずに口を衝いて出ることがある。そんな自覚があったこともあり、自分の目も明後日の方向を向くことになった。
「多分、その辺りが何か引っかかったんだろうね。で、逞しく色々考えちゃって、今に至ると」
「うぅ……!」
「当たってるっぽいね」
アイリスの呻き声に、碧依が確信を得る。今この瞬間においては、自分よりも碧依の方がアイリスのことを理解できているらしい。
「……」
何故か悔しさのような感情が浮かんできたのは、気のせいということにしておいた。
「まぁ、葵君がその辺の性格を変えられるわけでもないし、アイリスさんがどうにかするしかないね」
「分かってますけどぉ……!」
さっきぶりの絞り出すような声。何かしらの感情で満たされているのが手に取るように分かる声だった。
「それか、葵君がしばらく距離を取……」
「嫌ですっ!」
「おぉ……?」
「え……」
通勤通学の時間なのに人影がまばらな車内に、アイリスの必死な声が響く。数人の視線が自分達に向けられるが、特に何事も起こっていないのを見て、すぐに元に戻っていった。
だが、何事も起こっていないのは関係のない人から見た時の話であって、その内側にいれば事情は全く異なる。それは、困惑の声を上げた碧依の様子を見ても明らかで。
「離れるのは、嫌、ですっ……!」
密着していた腕が絡め取られる。すぐに浮かんだそんな表現は、それでもまだ不十分。その言葉通り、離れるのを食い止めようと強く、強く抱き締められる。
「アイリスさん?」
「っ!」
伝わってくる、本当に微かな震え。それでも、碧依が口にした言葉の実現を拒むかのように、力が緩むことはない。俯き加減のその顔からは表情を読み取ることはできない。精々が、固く閉じられた目が横から見えるだけ。
「……何の心配をしてるのかは知りませんけど」
「……」
そんな様子に、幼い頃、雷に怯えて同じように抱き付いてきた相手を宥めた記憶が蘇ってくる。あの時とは異なる状況ではあるものの、あの時と同じように、なるべく穏やかな声を意識して話しかける。
「アイリスさんから嫌われない限りは、そういうことはしないと思いますよ」
一度だけ、離れようかと考えたことはあった。けれども、結局は離れないことを選んだ。そんな自分が再び同じことを考えるかと言われると、返事は否定になる。
「……ほんとですか?」
「アイリスさんが嫌じゃなければ」
「葵さんのことを嫌うなんて、絶対っ、ないですっ」
一体どこにそれだけの力を隠していたのかと思う程に、力が込められる。
「じゃあ大丈夫ですって」
だから落ち着いてほしいと。そんな思いを込めた言葉が届いたのか、少しだけ力が緩む。やっと、アイリスに冷静さが戻り始めていた。
「これは……、仲が良い、のかな……?」
反対側で呟く碧依の言葉に返事をする者は、どこにもいなかった。




