53. アイリス
「そこで右回りに一回回って……」
「右回り……」
「最後に両手を前に差し出して、おしまいです」
「前に……。こう、ですか?」
「いいと思います! 首をちょっと傾けるともっと可愛いと思うんですけど、やってみませんか!?」
「嫌です」
昼休憩が終わり、午後の練習が始まって少しして。予定通り、全てのパートが午前中で振付の指導を終え、しばらくは個人で好きに練習することになった、そんな時間帯。
旗も手にせず何をしているのかといえば、やはりこちらも午前中に全ての振付を教わったアイリスから、最後の指導を受けているところである。
昼休憩が終わった直後は旗を手にしたのに、個人練習と告げられた途端、アイリスに旗を取り上げられた。曰く、午前中で旗の振付を全て覚えたところは見ていたので、午後はこっちを早めに覚えましょう、とのことだった。
理に適っている気はしたが、衆人環視の中で練習したくない気持ちとせめぎ合ったことは否定しない。けれども、どうせこれからの練習や本番で周囲に見られるのだからとアイリスに押しきられ、こうして指導を受けることとなったのだった。
「んー……、違和感がない」
「可愛いでしょ? あげないからね」
「そんなつもりで言ってないから」
アイリスの隣で、自身も振付の確認をしながらこちらの様子を眺めていた紗季が、そんなありがたくない感想を口にする。どこにも喜べる要素がなかった。
その少し隣に視線を移せば、そこでは今アイリスから教わったのと同じ振付を、悠が教わっていた。指導役はもちろん碧依である。
「こ、こう……?」
「んー……、可愛い……」
「合ってるかどうかを聞いてるんだけど……」
碧依が紗季と似たような感想を漏らす。残念ながら、悠との会話は全く噛み合っていなかった。
「これで一通りは踊れるようになりましたね」
「『なってしまった』って言った方がいいかもしれないですけどね」
アイリスに話しかけられて視線を戻す。そう言いながら目の前までやってきたアイリスは満面の笑みだったが、自分の心情としては複雑なものがある。あの時、あんな風に誘われて断れたとは、到底思っていないが。
「葵さん、ほんとに覚えるまでが早かったですよね」
「不本意ながら」
「教えてる私も、すっごく楽でした」
「そうですか……」
教える側だったアイリスの負担が小さかったのなら、それはまだよかったのだろうか。もう全てがよく分からなくなっている。
「調子はどう?」
そうして混乱しているところに現れたのは、このグループへの参加を決定的なものにした張本人である雪だった。他に人がいるところで練習したのは初めてなので、その様子が気になったのだろう。教わっている途中から、こちらを見ているのには気付いていた。もちろん、雪以外の視線にも。大半は物珍しそうなものを見る目だった。
「ばっちりです! もう葵さんも踊れると思います!」
「そっか。それならちょっと安心かな。流石に二つは大変だろうなって思ってたから」
そう言って、雪が言葉通り安堵の笑みを浮かべる。一応はこれまでも気にかけてくれていたらしい。
「もしよかったら、見せてもらってもいい?」
「大丈夫ですよ! 最初からにしますか?」
「何でアイリスさんが答えてるんですか」
「今は私が葵さんの先生役ですからねっ」
確かにそれは事実だが、そこまで自慢げに話すことなのだろうか。アイリスを見る雪の目も、とても生温かいものに変わっている。表現を変えるとするならば、微笑ましいものを見る目だ。
「そうだね。せっかくだから、一通り見せてもらおうかな?」
「任せてください!」
「だから、やるのは僕ですって」
「私も一緒にやりますから」
言いながら、アイリスが隣に並ぶ。詳しい話はまだ聞いていないが、どうやら本番でもこの位置関係らしい。思い返してみれば、以前、そんなようなことを言っていた記憶がある。
「紗季ー」
「何?」
「音、お願いしていい?」
「はーい」
練習用としてアイリスのスマートフォンの中に取り込んであった音源を、一時的に音響係となった紗季が流し始める。これまで何度も聞いてきた音楽で、覚えた振付は特に意識せずとも勝手に頭の中に浮かんできた。
浮かんできてしまった。
「さ、葵さん。練習の成果を見せる時ですよ!」
「これもまだ練習ですけどね」
「細かいことはいいんです」
最初の動きが始まるまでの短い時間で、アイリスとそんな言葉を交わす。適当な冗談を言っていないと、恥ずかしさがどんどん増してきそうな気がしたからだ。
それでも、耳は音楽を聞き逃さない。頭の中に浮かんだ振付が、ほとんど勝手に体を動かし始めた。
「うん! ばっちりだと思うよ!」
雪が拍手と共にそんな感想を述べる。要望通り、最初から最後まで通しての演技。それが終わった後のことだった。
自分で言うのも何だが、最後まで淀みなく体を動かすことができたような気がしていた。それがいいことなのかは置いておくとして、だ。
そして、初めてアイリスが隣で演技をしていたからこそ気付いたことが一つ。
「途中、何回か動きが左右対称になるんですね」
「あれ? 言ってませんでしたっけ?」
「さっき初めて気付きました」
これまで教わっている時には特に気にしていない動きだったが、隣のアイリスと合わせて一つの動きとなっているところが何箇所かあった。気付いてから改めて考えてみると、もうそういう動きとしか思えない。真横を向いて腕を伸ばすような動きなどは、特に。
「すみません、言ったつもりになってました」
「いや、別に困ったことはないので、特に気にしてないです」
それが教えられていなかったところで、振付に何か大きな影響がある訳でもない。あるとすれば、アイリスに合わせて腕の角度を調整するだけだ。
「これだけ踊れるなら、全体の練習に混ざっても大丈夫そうだね」
一通りの演技を見てもらったうえで、雪からもお墨付きを貰う。未だに気持ちの面では複雑なものがあるが、ひとまず肩の荷が一つ下りたと言ってもいいだろう。
「ま、その前に衣装の確認があるんだけどね」
そして、荷が一つ増えた。すっかり忘れていたが、本番は今着ている体操服の上に、衣装班が作った特製の衣装を羽織ることになっている。まだそのデザインは明かされていないが、元々女子のみのグループに向けてデザインされたものだ。どういった方向性になっているのか、ある程度予想はできてしまう。
「その衣装って……」
「うん?」
「どんなデザインか教えてもらうことって、できたりします?」
「あぁ、気になってるんだ?」
「まぁ、そうですね」
雪が言う「気になっている」と、自分が言う「気になっている」は恐らく微妙に意味が違うのだろうが、今はそんなことを気にしている場合ではない。どちらの意味にしても、デザインが気になっているのは確かなのだから、指摘する必要もなかった。
「大丈夫。湊君も、向こうの羽崎君も、きっと似合うから」
「そこは心配してないですよね? 葵さん」
「心配したかったです」
心からの声が出た。今後、これだけ真剣な声が出せる機会はそうそう訪れないだろう。
「そんなに可愛さに振りきったデザインにはしてないから、怖がらなくてもいいよ」
「それなら……」
そう答えたところで、可愛さに振りきっていないなら、ある程度は許容するようになってしまっている自分に気付く。初めてウェイトレス服を着てしまった時の、あの気持ちはどこへ消えてしまったのだろうか。
昼休憩の時、メイド服だのナース服だのといった会話を周囲が繰り広げていたのも、タイミングが悪かった。あれと比べると、高校生が集まって作る衣装くらいであれば、そこまで恥ずかしいものにはならないだろうという考え方をしてしまった。
「あの、雪先輩」
「うん? 何か気になることでもあった?」
「一つだけ、聞きたいことがあるんですけど……」
「何かな。答えられることなら」
そんな思考に落ち込む自分の隣で、アイリスが何かを尋ねたそうに雪に話しかける。
「本番で着た後の衣装って、どうするんですか?」
「どう、って言うと?」
「回収したりするのかなって」
「あぁ、そのこと? その辺は着た人の自由にするつもりだよ」
「自由、ですか?」
雪の言葉にいまいちぴんと来ていないのか、アイリスの首が少しだけ傾く。
「うん。記念に持っておきたいって人はそのまま持って帰っていいし、そこまでしなくてもいいって人の分は、こっちで回収して処分することになってるの」
「貰ってもいいんですか!?」
「おぉ……。いきなり勢い付いたね? まだデザインは公開してないけど、そんなに欲しかったの?」
「色々とありますから!」
どんな色々なのか、何となく想像できる気がした。そして、それ以上は想像したくなかった。
「記念撮影とか、たくさんしましょうね、葵さん」
「そんなことだろうと思いました」
「あれ? 分かってたんですか?」
「アイリスさんの考えることくらい、何となく分かります」
「そうですか? えへへ……」
「何でちょっと嬉しそうなんですか」
心の内を読まれて恥ずかしがるならまだしも、少し嬉しそうに照れる意味が分からなかった。アイリスの考えていることが、本当に何となくしか分からなくなった瞬間である。
「もしかして、二人は付き合ってたりするの?」
「ちっ、違いますよっ!?」
その様子を見ていたからなのか、純粋な目をした雪から、随分と踏み込んだ質問をされてしまった。まさかそんなことを尋ねられるとは思ってもいなかったであろうアイリスの動揺具合が、はっきりと言葉に表れる。加えて、慌てたように両手を振っている辺り、動揺を言葉だけに収めきれていない。
「ふーん? やたら仲が良さそうだし、そうなんじゃないかって思ったんだけど」
「違いますね」
予想が外れて意外そうに口にする雪に、追加で訂正を入れておく。アイリスの慌てた言葉だけでは、それこそ照れ隠しに取られかねなかった。
「へぇ? そうなんだ?」
「そうですよっ!?」
「じゃあさ……」
まだ動揺から抜け出せないアイリスを横目に見ながら小さく呟いた雪が、一歩近付いてくる。どこからどう見ても、何か厄介なことをする前振りだった。
「私はどうかな? 湊君?」
「は?」
「え!?」
そして放たれた雪の言葉。そんな言葉に、自分で出した困惑の声と、アイリスが出した驚愕の声が綺麗に重なる。
「雪先輩!?」
「いやね? アイリスさん達に紹介された時から、可愛い子だなって思ってたんだ。アイリスさんと付き合ってるって思ってたから今まで何にも言わなかったけど、付き合ってないんだったら大丈夫だよね?」
「え……?」
「それとも、実は誰かと付き合ってたりするのかな?」
「浮気ですか……!? 葵さん……!?」
「浮気って何ですか。そんな人もいませんし」
雪の一言一言に、面白いくらいにアイリスが反応する。残念なのは、自分も事態に巻き込まれているので、その反応を純粋に楽しむことができないことである。
「じゃあよかった。それで、どうかな?」
「どうかなも何も……」
「あの……、葵さん……」
何を不安がっているのか、そんなか細い声を漏らしたアイリスに弱々しく手を握られる。動揺から不安へと変化した大きな感情の揺れは、心配そうにこちらを見上げる瑠璃色の瞳にも、如実に表れていた。
そんな視線を受けながら、ゆっくりと口を開く。
「……どちらかと言うと、『にこにこ』より『にやにや』が似合いそうな笑い方ですね」
「は……?」
「あ、ばれた?」
「ばれるも何も、最初からずっとそうだったじゃないですか」
「あれ? ……あれ?」
「上手くできてたと思ったんだけどな」
今度は不安から混乱へと感情を移したアイリスを置き去りにして、雪の偽りを剥がし取る。
「全部冗談だったんですか!?」
少しの間を置いて、やっと話の内容を理解したアイリス。次は混乱から、再びの驚愕。この僅かな時間で、感情が揺れに揺れていた。今のアイリスは、この世で一番「落ち着き」という言葉から遠ざかっているのだろう。
「あ、可愛いって思ったところは本音」
「そこも冗談でいいんですよ」
「ちょっとだけいいかもって思ったのも本音。ちょっとだけね?」
「反応しにくいのでやめてください」
「でも、アイリスさんと仲が良いみたいだから、割って入る隙はないかなって思ったのも本音」
「割と本音が多いですね?」
次々に出てくる雪の本音が、自分から突っ込みを引き出し続ける。この勢いであれば、むしろ冗談の部分の方が少なかった可能性すらある。
「よかったぁ……!」
「先輩の顔を見たら、すぐに分かったはずですよ」
「……そんな余裕、なかったですもん」
ようやく多少の落ち着きを取り戻したアイリスが、顔をふいっと背け、拗ねたように呟く。落ち着いたところで、感情はまだ彷徨ったままのようだった。
「湊君は騙せなかったけど、アイリスさんは引っかかってくれたから、私はそれで満足かな」
「優しそうな先輩だなって思ってたのにぃ……!」
「ごめんね? アイリスさんの反応が可愛過ぎて、つい」
「あ、それは分かります」
「分からなくていいんですよっ!」
どんな時でも、どんな場所でも、アイリスの立ち位置は変わらなかった。僅かに関わりがあるだけの雪にすら見抜かれているのだから、一体誰が相手なら勝てるのだろうか。
「……」
自分が何回か負けたことを思い出して、これ以上は何も考えないことにした。
「意見が合うね。やっぱり私はどう?」
雪がさらなる攻勢に出たせいで、余計なことを考えている場合ではなくなったのも、一つの原因ではあるが。
「だめですっ。葵さんは私のですから!」
「僕のですって」
毎度のことながら、何故自分の所有権が自分にないのだろうか。数か月前までは、こんな疑問を抱くことになるなど、夢にも思っていなかった。
「そうだよね。あれからずっと手を離さないもんね?」
「あっ……!」
今度は「にこにこ」という表現が似合う笑みを浮かべた雪の指摘によって、アイリスが慌てて手を離す。そんな様子を見た雪の笑みが、これまでで一番深いものに変わった。
「仲良いね?」
アイリスに向けた言葉かと思いきや、雪の視線はまさかのこちら向き。果たして、その真意は何なのだろうか。アイリスのことなら多少なりとも理解できるが、ほとんど話したことがない雪の心は流石に読めなかった。
どう返すか迷った挙句、結局は無難な言葉を選択する。
「ですね。色々と大事な後輩ですから」
そんな答えに満足したのかどうかは分からないが、雪が何度か頷いているところを見ると、少なくとも及第点ではあったと考えてもいいのだろう。
「だって、アイリスさん。よかったね」
「……はい」
離した手をもう一方の手で握り締めていたアイリスの返事は、僅か二文字だけ。嬉しそうにしてくれているのは何となく分かったが、何かそれ以外にも感情が含まれていそうな、そんな声に思えてしまうのだった。
山の天気は変わりやすいと言う。それは確かに納得できることで、実際数か月前に身をもって実感した。
では、平地の天気は変わりやすくないのかと問われると、完全にそうとは言いきることができない、が正解だろう。
まだ夏の気配が色濃く残る九月の上旬。急激に発達した積乱雲が、短時間に強烈な雨を降らせることがある。俗に言うゲリラ豪雨である。前もって予測するのは難しく、準備もないまま運悪く遭遇してしまえば、大きなダメージを受けること間違いなしの気象現象。
何故、今こんなことを考えているのかといえば、その答えは単純明快で。
遭遇したからに他ならない。
「絶対……! 絶対にこっちを見ちゃだめですからね……!」
「見ませんって」
そして、それ以外のことを考えないようにするためでもあった。
状況は言葉にすれば簡単な話で。アイリスが雪にからかわれた後も練習を続けていたが、急に降り出した強烈な雨に、全員揃って仲良く濡れ鼠になったというだけのこと。
けれども、言葉ではこんなにあっさりとした説明で済む状況も、視覚が加わると一変する。
「いつもみたいな冗談じゃ済まされませんからね……!」
「だから、心配しなくても大丈夫ですって」
ほとんど背中に張り付くようにして身を隠すアイリスに、そんな言葉を返す。周囲には何人かの人影があり、その中には悠や碧依、紗季の姿もある。当然のことだが、全員雨宿りの真っ最中である。
勢いは少し弱まったものの、未だに大きな音を立てながら降り続く雨。それが止む気配を探るように、揃って空を見上げていた。
その姿が視界に入りそうになって、急いで目を逸らす。何の準備もなく雨に濡れた服がどうなるかなど、見るまでもなく明らかだった。そもそも、アイリスが背中に隠れて出てこない理由がそれという時点で、考える必要すらもない。
「もっとおっきなタオルにするべきでした……!」
周囲からの視線を遮るように体を小さくしているであろうアイリスから、そんな後悔の呟きが漏れる。一般的なサイズのタオルを持っているのは見ていたが、それでは見られたくないものを隠すには不十分だったのだろう。結果、近くにいた人間、すなわち自分を壁にして隠れているのだった。
幸い、練習していた場所のこともあって、近くにいるのはほとんどが女子生徒という状況である。少し離れた場所で練習していた多くの男子生徒は、それぞれが雨宿りできる場所を探して、三々五々に走り去っていった。
ただし、それはあくまでアイリスにとっての幸いであって、自分や悠にとっての幸いではない。自分達にとってのこの場所は、はっきり言ってこれ以上ない程に気まずい空間でしかなかった。
「……」
そんな訳で、周囲に目を向けることもできないので、ひとまず視線を鞄の中に向ける。当然外側は雨に濡れてしまっているが、撥水加工のおかげで中身は無事だった。そこに入れてあるものを考えると、濡れてしまっては何の意味もなくなるところだったので、ひとまず安心する。
「葵さん? 何をしてるんですか?」
「アイリスさんが今一番欲しいであろうものを取り出そうとしてます」
「葵さんが着るメイド服ですか?」
「そんなことが言えるなら、渡さなくても大丈夫そうですね」
「うわぁ!? 嘘です嘘ですっ!」
自分が思っている以上に余裕があるのだろうか。今の状況でそんな冗談が言えるのなら、取り出そうとしているものは渡さなくてもいい気がしてきた。
「私、今とっても困ってます!」
「そのまま困り続けてたらいいんじゃないですか?」
「分かりました! もうメイド服とか言いませんから!」
「言いましたね?」
「この際仕方がないです……」
「じゃあ、これを」
偶然にも自分にとって喜ばしい言葉をアイリスから引き出せたということで、やや安堵しながらあるものを背後のアイリスに手渡す。もちろん、その姿を視界に入れないようにして、だ。
「上着、持ってきてたんですか?」
受け取ったアイリスが、意外そうな声を漏らす。
アイリスの言う通り、手渡したのは少しだけ厚みのある上着だった。入学した時に全員に配られる、学校指定の一着である。肌寒い時に羽織るのが一般的な使い方だが、この上着も表面が水を弾くようになっているので、今のようなタイミングで使うこともできなくはない。
「雨具代わりにはなるかなと思って」
「晴れてたのに?」
「たまたま天気予報でゲリラ豪雨に注意って言ってたからですよ」
朝の支度をしている時、何となく見ていたニュース番組がそんな情報を流してたのを聞いて、これまた何となく引っ張り出してきただけの話だ。それ以上のことは何もない。
「でも、それなら葵さんが着た方がいいんじゃないですか? 持ってきたのは葵さんですし……」
「僕よりアイリスさんが着た方がいいに決まってるじゃないですか。ずっと僕の後ろに隠れてるわけにもいかないですよね?」
「乾くまで待ってたら……?」
「どれだけ壁にするつもりですか」
控えめに言うアイリスだったが、いくら仲が良くても流石にそこまではできない。素直に上着を着てくれる方が助かるのは、誰の目から見ても明らかだった。
「とにかく、僕のことは気にしなくていいですから」
「葵さんがそう言うなら、じゃあ……」
いつものアイリスから考えるとやや静かな声と共に、背後から渡した上着が擦れる音がした。言葉通り、大人しく羽織ってくれたらしい。
「もう振り返っても大丈夫ですか?」
「はい。もうばっちりです」
そんな確認を経て、ようやくアイリスを視界に捉える。
幾分か拭き取りはしたものの、未だに湿り気を帯びる菜の花色の髪。それがいくらか頬に張り付いている。その髪を伝って、雨粒の残滓が一滴、頬を流れ落ちていった。
その一滴を指先で拭ってから、上着の大きさを確かめるようにアイリスがその両手を広げる。
「やっぱり、ちょっとだけおっきいですね」
「まぁ、それは流石に」
その様子は、「ぶかぶか」という表現がよく似合いそうな風貌だった。小柄なアイリスにとっては、丈が長いのはもちろんのこと、袖も長い。小さな手の平まですっかり隠れてしまい、今や白くてほっそりとした指しか見えていなかった。
ただでさえ少し幼く見えるアイリスがそんな格好をすると、より子供っぽさが増したような印象を受ける。本人に言えば機嫌を損ねること間違いなしなので、絶対に口にはしないが。
「でも、助かりました。ありがとうございます」
やっと羞恥心から解放されたと、そんな安堵が伝わってくる穏やかな笑みだった。普段からよく見るような表情なのに、どこか照れくささを感じて目を逸らしてしまう。
「葵さん?」
「……何でもないです」
「そうですか?」
そんな様子を不自然に思われてしまったのか、アイリスの首がこてんと傾く。いつもなら菜の花色の髪がさらりと揺れたのだろうが、今だけはそれも見られない。
「気にしないでください。それより、今のアイリスさんがするべきことはこれです」
「はい?」
誤魔化すようにそう言って、二枚のタオルを取り出す。アイリスが使っていたようなサイズよりも、ずっと大きい代物である。そして、何のことか分かっていなそうなアイリスの、ほとんど隠れてしまった小さな手に向かってそれを差し出す。
「向こうの二人に渡してあげてください」
「あぁ! 任せてください!」
視線を向ける訳にもいかず、たった一本の指で指し示す。それで合点がいったようで、さらさらと上着が擦れる音をさせながら、碧依と紗季のところへと向かっていった。
やがて、アイリスと共に三人がこちらへやって来た。
「ありがとね、葵君。助かったよ」
「私もです。ありがとうございます」
「……僕もいろんな意味で助かりました……」
三人の中で、何故か悠が一番疲弊していた。自分がいないところでどんなやり取りが交わされていたのかは知る由もないが、その場にいなくてよかったと思わせる表情ではある。
「随分用意がいいね?」
「その件はもうやりました」
「そうなの?」
「天気予報で注意って言ってたらしいですよ」
碧依からすれば初めての質問だが、自分にとってはつい先程同じ話をしたばかり。そんなこともあって適当に流すつもりだったのだが、代わりにアイリスが説明役を果たしてくれていた。
「本当はあと二人分あればよかったんですけどね」
「まぁ、最悪僕達は別にね」
碧依の方はアイリスに任せ、悠とお互いの姿を確認し合う。揃ってずぶ濡れであり、乾いた後のことも気にはなるが、今のところはひとまず問題ないといった状況だった。
「アイリスはその上着なんだ?」
「羨ましいでしょ」
「いや、別に」
「あれ?」
男同士の状況確認など、僅かな時間があれば終わる。そんな訳で意識をアイリス達に戻した瞬間、何かの思惑が外れたらしいアイリスの不思議そうな声が聞こえてきた。
「上着なら、私も貸してもらったことがあるしね」
「え?」
「そんなこともありましたね」
「僕達、こんな目に遭うのも二回目なんだね……」
げんなりした様子の悠の言葉に釣られて、五月の宿泊学習のことを思い出す。あの時は、オリエンテーリングの途中で雨に降られ、碧依と莉花に上着を貸したはずだ。四か月も前の出来事だが、しっかりと記憶に残っている。
「そうですか……」
「アイリスさん?」
何かを考えるように俯いてしまったアイリスに声をかける。少しだけ、いつもの明るさが影を潜めてしまったように感じるのは気のせいだろうか。
「あ、いや、何でもないです」
「はぁ……?」
そうかと思えば、そのすぐ後にはいつものアイリスが現れる。くるくると変わる雰囲気が忙しそうだった。
「流石に、もう持って帰ってお洗濯しても大丈夫ですよね……?」
「考えてることが同じなら、多分大丈夫だとは思いますよ」
それが先程考えていたことなのかは分からないが、とりあえず今のアイリスが気にしているのは、上着を持って帰った時のアーロンとレティシアの反応だろう。いつか、図書館からの帰りにも同じことを気にして上着を返してもらったことを思い出す。
「まぁ、そこまでしてもらわなくても、僕が洗濯すればいいんですけどね」
ずっと昔ならともかく、現代では洗濯機を動かせばいいだけだ。干す手間はあるけれども、それも数着なら気にもならない程度のもの。わざわざアイリスが持って帰る必要はどこにもない。
「いやいや、ちゃんと洗いますって」
「いやいや、大丈夫ですって」
「いやいや」
「いやいや」
「何してるの」
ひたすら上着を奪い合う様子を見かねたのか、碧依から制止が入った。その顔には、どことなく呆れが浮かんでいる。
「洗ってくれるって言ってるんだから、そのまま渡したらいいんじゃない?」
そんな碧依の言い分は、アイリス側に偏ったものだった。正直な話をすれば、その言い分はとてもよく分かる。自分としては何も損はないので、普通であれば渡していたのかもしれない。
だが、相手はアイリスだった。
「何か悪さをしそうな気がして……」
唯一の懸念点はそこである。迂闊に私物を渡したが最後、何をされるか分かったものではない。
「失礼ですね。私が何をするって言いたいんですか」
「匂いを嗅いだりとか」
「あれ? 身に覚えが……?」
自分でこんなことを言うのもどうかとは思う。だが、すぐ隣にその実例がいるせいで、絶対にないとは言いきれないのが悲しかった。
「それはもう嗅ぎました!」
手遅れだった。
「胸を張って言うことじゃないんですよ。いつの間に嗅いだんですか」
「葵さんの背中に隠れてる時です」
「着てすぐ……」
何なら、着た後の最初の行動と言ってもいいのではないだろうか。あの時の衣擦れの音には、そんな動きの音も混ざっていたのかもしれない。
「何の匂いもしませんでした」
「しばらく着てないものを渡したんですから当然です」
「あ、私が貸してもらった上着はちゃんと葵君の匂いがしたよ?」
「しばらく着てたものを渡したんですから当然です」
「ずるいですっ!」
「何がですか」
アイリスに抗議の視線を向けられるが、だからと言って自分に何かできる訳でもない。そもそも、張り合わなくていいのに勝手に張り合ってきたのは碧依なのだから、抗議はそちらに向けるべきではないだろうか。
けれども、アイリスにそんな思いが通用するはずもなく。
「こうなったら、葵さんの匂いを直接……、嗅ぐ、しか……」
勢いに任せて出た言葉だったようだが、その勢いはあっという間に消えていく。口にする間に、自身が何を言っているのか理解したようだった。
「……」
「そこで照れないでくださいよ。僕まで恥ずかしくなってくるじゃないですか」
「あぅ……」
見る見るうちにアイリスの顔が赤くなっていく。それを見た紗季が、これ以上ない程楽しそうに口角を吊り上げていた。
「何を想像したのかなぁ? アイリス?」
「なっ、何にもっ!?」
その過剰な反応が既に何かを考えたと白状しているようなものだが、アイリスが気付くことはあるのだろうか。
紗季も同じように何かを隠したことを見破ったようで、さらにアイリスを追い詰めていく。
「そうだよねぇ……。アイリスは妄想が得意だったもんねぇ……?」
「そんな言い方しないでよ! ほんとっぽく聞こえるでしょ!?」
「ほんとのことでしょ」
「違うもん!」
紗季の言葉に必死に反論するアイリスだが、どう考えても分が悪い。アイリスが勝つ未来は、この場の誰も想像できていないだろう。
「流石に匂いを直接嗅がれたことはないんだ?」
「あるわけがないです。僕達を何だと思ってるんですか」
「可愛い男の子と、愉快な後輩の女の子」
「後半しか合ってないですね」
慌てに慌てるアイリスを横目に見ながら下された碧依の評価は、あんまりと言えばあんまりな評価。碧依が普段、どんな風に周囲を見ているのかが気になる一言だった。
「誰が愉快ですかっ」
「あ、聞こえてた」
「今はこっちでしょー? アイリス?」
「うぅっ……!」
意外と余裕があったのか何なのか、碧依の言葉にアイリスが一瞬だけ反応する。だが、それも本当に一瞬の出来事で。楽しそうに問い詰める紗季がアイリスを逃す訳もなく、即座に話の軌道を修正してしまう。アイリスは早くも涙目だった。
「助けてあげなくていいの?」
「羽崎君」
「何?」
「人には、救えるものと救えないものがあるんですよ」
「あれは救えるものだと思うけどな……」
そんな感想を零す悠と共に、引き続きアイリスの様子を眺め続ける。
「直接って何だろうな?」
「何でもないってば……!」
緩むことのない紗季の攻撃に、アイリスの砦は既に陥落寸前だった。
「何でしょうね……。最後が一番疲れた気がします……」
「誰のせいだろうね?」
「紗季のせいに決まってるでしょ……」
「私は楽しかったよ?」
「だろうね!」
濡れた体操服から制服に着替えを済ませ、再び玄関口で集合する。
あれから雨が上がるのをしばらく待つ時間が続いたが、雨脚が弱まるだけで、ついぞ晴れることはなかった。校庭を使った全体練習ができなくなり、仕方がないので予定を繰り上げて早めの解散となったのだった。
アイリスと紗季がそんなやり取りをしている中、改めて空を見上げる。昼までは縹色が広がっていたが、今や一面鈍色の雲。相変わらず雨が上がる気配はなく、ここまで降り続くとなると、最早ゲリラ豪雨という表現も合わないような気もしてきた。
それでも、傘があれば問題ない程度まで回復してくれたのは助かった。これから駅まで、そして家まで歩くことを考えると、雨脚が弱いに越したことはない。
「皆はどうする?」
隣で同じように空模様を見ていた碧依が、そう切り出す。
「帰りのことですか?」
「そうそう」
アイリスのことを受け流しながらも、碧依の言葉をしっかりと聞いていた紗季がそう聞き返す。紗季の情報処理能力が優れているのか、それとも、アイリスの攻撃に威力がないだけなのか。
「私は家族が迎えに来てくれることになりました」
「あ、ほんと? 私も一緒」
「僕のところも来てくれるって」
迎えを頼みやすい相手がいる三人は、今日が休日ということもあって、その約束を取り付けることができたらしい。そうなれば、迎えが来るまでここで待つことになるのだろう。
そして、この場にはもう一人、家族に迎えを頼める人がいる。
「アイリスさんはどうするの?」
「できれば、私も家族に頼みたかったんですけど……」
碧依に問われたアイリスが、空と同じように顔を曇らせながら小さく呟く。その様子を見る限り、今日のアーロンとレティシアは迎えを頼める状況ではないのだろう。
「無理そうなの?」
「今日は用事があるって言ってたので、ちょっと無理そうです」
「そっか……。家が近かったら一緒に乗っていったらって思ったけど、流石に遠いもんね……」
「そうですね。碧依先輩にしては珍しく真面目な、その気持ちだけ受け取っておきます」
「あれ? 何で今、軽く言葉で刺されたの?」
「気にしないでください」
紗季から受けたストレスが碧依へと向かったのか、アイリスの言葉には若干の棘があった。ただ、誰彼構わず怒りをぶつけるアイリスではないので、ぶつけられた碧依の日頃の行いが悪かったということで、勝手に納得しておくことにする。
ともあれ、アイリスはいつも通りの帰宅となることが決まっていた。
「葵君は?」
そうなれば、碧依が尋ねる相手は残り一人。言うまでもなく、自分だった。
「僕もいつもと同じように帰りますよ」
「そっか。一人暮らしだもんね」
「ですね。迎えはありません」
気軽に迎えを頼める相手など、とうの昔にいなくなった。今更そんなことを気にすることもないが、こうして迎えに来てもらえる相手がいる人を見ていると、少しだけ羨ましく思うことはある。無いものねだりなのは、よく分かっているつもりなのだが。
「それじゃあ、いつも通り二人ですね」
「代わり映えしないとも言いますね」
五人もいるのに、結局二人で帰ることが決定した瞬間だった。
「でも、アイリスは傘持ってるの?」
「……持ってない、です」
気まずそうに紗季から視線を逸らして、そう答えるアイリス。朝の時点で傘を持っていないことは分かっていたが、どうやら折り畳み傘も持っていないらしい。
「傘なしは厳しいと思うけど。この雨」
紗季が指差す先では、水溜りに降り注いだ雨が、絶え間なく波紋を生み出していた。この雨を小雨と言うのは、どこか憚られるものがある。
「ちなみに葵君は?」
「折り畳み傘なら」
アイリスがそんな状況ならば、当然次は自分が尋ねられる。紗季に続いて尋ねてきた碧依に、鞄の中を思い出しながらそう返す。どれだけ一日中晴れていようとも、常に鞄の中に折り畳み傘は入っている。あって困ることはそうそうないが、なくて困ることがあるのなら、入れておけばいいという精神だった。
「アイリスも一緒に入れていってもらったら?」
「へぇ!?」
「どこからその声出したの」
流れからしてある程度予想できた提案だったが、それでもアイリスは意表を突かれたらしい。聞いたことのない種類の声が、その口から漏れ出してきた。どんな感情を抱けばそんな奇妙な声が出せるのか、少しだけ気になってしまう。
「い、いやっ、でも、傘って……!」
「所詮折り畳み傘なので、結構小さいですよ?」
「それでも、ないよりはいいんじゃないですか?」
「それはそうでしょうけど、アイリスさんが面白いことになってますよ」
「傘……! 傘……!?」
「『傘』しか言わなくなったのは、面白いって言っていいんですか?」
見ていて面白ければそれでいい。盛大に狼狽えて目を泳がせるアイリスは、見ていて面白い相手の筆頭だった。
「それで? 葵君としては入れてあげてもいいの?」
「別に気にしませんよ。多少濡れるのは覚悟してくださいねってくらいです」
「だって、アイリスさん。葵君は大歓迎って」
そこまでは言っていないという抗議は、恐らくあっさりと受け流されてしまうのだろう。そう思って、じっとりとした目で見つめるだけに留めておく。
自分としては、あくまで来るもの拒まずというだけであって、積極的に招き入れている訳ではない。もしそうするなら、せめてもう少し大きな傘を用意したはずだ。
何となくそんなことを考えていると、唐突にアイリスのものではない声が聞こえてきた。
「あぁ、相合傘を気にしてるんだ?」
この場の誰もが、既にそのことを理解していると思っていた。それなのに、今になってようやく話の根底にあるものを理解した者が、口にしなくてもいい単語を口にする。
「ひぅ……!?」
「どうしてわざわざ口にしたんですか」
「あっ……」
発した言葉は取り消すこともできず、しっかりとアイリスの耳にも届いてしまう。その言葉の威力たるや、慌てふためいて両手をわたわたと振り乱していたアイリスが、再びの奇妙な声と共に動きを止めてしまう程だった。
「顔真っ赤」
「……!」
「何を意識しちゃったのかなぁ?」
「な、なんでもない……」
「傘、ちっちゃいらしいからね?」
「なんでもないってば!」
上着のことでからかい倒される状況からやっと抜け出せたと思いきや、今度はこんなことで攻められる。アイリスの不運は、まだしばらく続きそうだった。
「もっとこっちに寄った方がいいですよ」
「はひ!?」
「どんな返事ですか」
「き、緊張して……」
放っておけば右手と右足を一緒に前に出しながら歩いていそうなアイリスに、そう声をかける。
悠、碧依、紗季の三人に見送られながら校門を出た、その少し先。駅まではまだまだ距離がある、そんな場所でのことだった。
拳二つ分程度離れた隣を歩くアイリス。これだけ離れていれば、駅に着く頃には相当体を濡らすことになる。気温はまだ高いものの、風邪を引く可能性が全くない訳ではない。少しでも濡れずに済む方法があるのなら、そうする方がいいに決まっている。
けれども、相変わらず奇妙な返事をするアイリスが、その距離を詰めてくることはない。ただただ顔を俯かせ、ひたすらに地面の水溜りへと視線を送っていた。
「今更何に緊張してるんですか」
「きょ、距離が、近くて……」
「電車の中の方が近いですよね」
「それはそうですけどぉ……!」
絞り出すようにアイリスが言う。何故かは分からないが、とにかく緊張しているということだけは伝わってきた。
「仕方ないですね……」
「うぁ……!」
「逃げちゃだめですって。濡れますから」
「でも……!」
待てど暮らせど、アイリスの方から距離が詰められることはなかった。ならば、自分から詰めるしか方法はない。そう思って少しだけ近寄ると、小さな呻き声を上げたアイリスが、また距離を取ろうとした。
このまま放っておけば堂々巡りの完成で、二人で傘を分け合っている意味がまるでなくなってしまう。そう思い、アイリスの動きを声だけで制する。
アイリスとしても、距離を取れば取る程雨に打たれてしまうことは理解しているようで、どうにか逃げようとする一歩を堪えていた。
「それでいいんですよ。体を冷やして風邪でも引かれたら、アーロンさんとレティシアさんに何を言われるか」
「絶対楽しそうに『看病してあげて』って言います……!」
「でしょうね」
そんな二人の様子が簡単に目に浮かぶ。あの手この手で家に誘い込むと公言されてしまっているので、少しでもそんな可能性は排除しておきたい。
「まぁ、もっと単純な話、アイリスさんに風邪を引いてもらいたくはないですしね」
「そういうところですよ! もう!」
「何なんですか」
いきなり言葉の勢いが増したアイリスに、少しだけ気圧される。だが、雨に濡れて湿気った火薬では、そんな勢いが長続きするはずもなく。
「そういうところですよ……」
「だから何なんですか」
火が消えた弱々しい言葉を呟いたきり、とうとう黙り込んでしまった。
そのまま、ほとんど腕をくっつけるようにして歩みを進める。いつもより少しだけ歩みの遅いアイリス。その歩幅に合わせ、足取りは自然とゆっくりとしたものになっていた。
「……」
その日の夜のこと。明日は日曜日で、いつもならまだ眠気は訪れないはずの午後十一時過ぎである。だが、今日は既に眠気が襲ってきていた。途中で切り上げることにはなったものの、それでも長い時間体育祭の練習をしていたせいなのか。
このままその眠気に身を委ねれば、きっと明日の朝まで気持ちよく眠れるという確信があった。けれども、いつもよりも早い時間というのがどうしても勿体なく感じて、微かな力で睡魔に対抗する。
そんな薄ぼんやりとした頭で考えるのは、当然今日の出来事。特に、先輩にからかわれたことと、一つの傘を分け合ったことだった。
「……っ」
そして、思い出してしまう。所謂相合傘の中で聞いた、葵の声。雨粒を受ける傘の中で聞く声は、特に綺麗な声に聞こえると何かで目にしたことがある。それが事実なのかは分からない。だが、そう思って聞いていると、大好きな声がより一層綺麗に聞こえてしまって大変だった。
だが、もっと気になっていることが、その他にある。
(何で……、あんな……)
浮かぶのは、葵の傘に入れてもらった時の記憶。普段であれば、何も気にせず喜んで入れてもらっていたと、そう断言できる。だというのに、今日は異常な程に緊張してしまった。鼓動はとにかく速く、大きく、触れるか触れないかという腕を通して、葵に伝わってしまうのではないかと心配した程だ。どう考えても、いつもの自分ではなかった。
(……全部、葵さんのせい)
一番仲が良い先輩の、一番仲が良い相手でありたい。はっきりとそう思うようになったのは、いつ頃だっただろうか。それからは、随分と子供じみた嫉妬を見せてきた覚えがある。
特に、碧依相手に嫉妬することが多かった。自分としては葵と初めてしたことも、葵からすれば既に碧依としたことがあるということがよくあった。今日の上着のことも、まさにその一例である。
「……」
仕方がないことだとは分かっている。自分は葵の一つ下の学年で、碧依は葵と同じ学年、同じクラス。放課後や休みの日は自分と一緒に過ごしてくれることが多い葵だが、それ以外の時間となると、どうしても碧依と一緒に過ごす時間が長くなるはずだ。そうなれば、当然自分が知らないこともあると、そう思ってこれまでは溜飲を下げてきた。
それに、そんなものは自分との思い出で上書きしてしまえばいいと、本気でそう思って葵との時間を過ごしてきた。そうすることで、葵の中に思い出が増えていくのが嬉しくて、何より自分も楽しかった。
(何で……)
けれども、最近はそれだけでは物足りなくなっている。これまで何度も大事な後輩だと、そう言ってくれていて、誰よりも自分のことを見てくれていると思う。それでも、いつの間にかもう少し、あと少しと欲張ってしまうようになってしまった。
一体、自分はいつからこんな風に考えるようになったのか。そんな自問自答の旅は、あっという間に終わりを告げる。
(夏休みから……?)
ひたすらに葵と一緒に過ごした夏休み。まだ終わって間もないその一か月と少しが、自分の中の何かを変えた。はっきりとその輪郭が見える訳ではない。だが、もやもやとした何かが、確かに心の中にある。
だからだろうか。雪にからかわれた時、あんな反応をしてしまったのは。
いつの間にか隣にいるのが当たり前になっていた葵が、もしかしたら離れていってしまうかもしれない。そう考えた時に、自分でも思いもしなかった程に嫌な気持ちになった。誰にもこの場所は譲りたくないと、誰にも葵の一番は渡したくないと。
自分がそう思っていると気付いた瞬間には、もう葵の手を握ってしまっていた。離れないでほしいと、そう願うように。雪の表情を見る余裕など、あるはずがなかった。
あの感情は、果たしてそれまでと同じ嫉妬だったのだろうか。
(……)
ぼんやりとしている今だからこそ。普段は無意識に抑え込まれていた感情が、その抑えを失って僅かに顔を覗かせる。もやもやとしていた輪郭が、少しずつはっきりしていく。
「あ……」
そんな中、視界の中にあったとあるものを意識してしまう。できるだけ長持ちする保管方法を調べ、大事に手入れをしながら飾っていた、自分と同じ名を持つアヤメ色の花。
葵から貰った、アイリスのソープフラワー。それを見た瞬間、心の中が一つの感情で染まっていく。
それは、これまで一度も抱いたことがなかった感情で。
「えっ……!?」
どんどん顔が熱くなっていくのを感じる。眠気など、一気に吹き飛んでしまった。誰に見られている訳でもないのに、忙しなく辺りを見回す。そうやって動いていないと、自分がどうにかなってしまいそうな気がして。
「うぁあ……!」
そうして心を落ち着かせようとしても、意味のある言葉は出てこない。初めての感情の奔流に抗うこともできず、ただただ戸惑うことしかできない。
けれども、頭の片隅に僅かに残った冷静な部分は、自分の意思に関係なく勝手に思考を進めてしまう。
確かに、そう考えると色々と納得できる。葵と妙に距離が近い碧依に嫉妬するのも、もっと自分を見てほしいと願ってしまうのも、雪とのやり取りの中で葵が離れていってしまうのではないかと不安になったのも。全部、一つに繋がっていた。
いつからこうだったのか。少し前に自問自答したことと同じことを考える。だが、今回は答えが出る気配が全くない。
出会った時の第一印象は、可愛い人だった。あまり言い過ぎると嫌がるので抑え気味にしてはいるが、そうでなければ、きっと毎日でも口にしていると思える程の強烈な印象である。
そして、その見た目通りの柔らかな人当たり。初めてのアルバイトで緊張していたはずなのに、いつの間にかその緊張が解れてしまっていた。
それから共に過ごすうちに、色々なことがあった。
出会ったばかりの春。すぐ近くに住んでいることを知って驚いた。同じ高校の先輩だと分かって嬉しかった。予想通りウェイトレス服が似合っていて可愛かった。少し引いてしまうくらいに成績がいいこと知って言葉を失った。
一緒にいることが当たり前になっていった夏。誕生日を祝ってもらって大はしゃぎした。一緒に獣耳ウェイトレスになっているところを碧依達に見られて照れくさかった。一緒に浴衣を選べて楽しかった。ホラーが苦手なことを知られて恥ずかしかった。一緒に夏祭りに行けて喜んだ。誕生日を祝おうとしてたくさん悩んだ。両親にとんでもないことを言われて大慌てした。
そんな中で、どんな時でも自分と一緒に笑ってくれた。
たった二つの季節しか過ぎていないのに、思い出はいくらでも浮かんでくる。
気付いてしまえば、もう後戻りはできない。出会ってからのたくさんの思い出は、細雪がしんしんと降り積もるように、心の中に残り続けていた。
「……っ!」
今やその輪郭は、はっきりとしたものに変わっている。恥ずかしさを感じつつも、受け入れることに嫌な気持ちなど一切抱かない。
落ち着きなく動いていた体を無理矢理押し止める。熱くなった頬に、両手で触れる。
「好き……」
そう呟いた瞬間、胸の中にすとんと落ちるものがあった。
「私は、葵さんが、好き……」
今度はわざと葵の名前も呼んでみる。恥ずかしさは増したが、それでも自然と笑みが浮かんだ。
「好き……!」
ようやく自覚した、その想い。
今となってはもうどうしようもない程に、葵のことが好きだった。




