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52. 感情の行方 (4)

 午前中の練習が一通り終わり、一時間の昼休憩に入った。


 いつもの昼休みならば、悠、碧依、莉花と四人で集まることが多いが、今日に限っては顔触れが異なっている。こういった場でもなければ実現しにくい、学年を越えた面々が集まった五人である。


 と言っても、真新しい顔触れという訳でもなく、要は組み合わせが珍しいだけだった。


「そういえば、葵さんのお弁当って見たことがなかったですね」

「教室が違いますからね」


 アイリスが過去を振り返りながらそう切り出したのは、そんな場でのことだった。


「毎日用意してるんだっけ?」

「ですね。そう言う羽崎君は?」

「用意してもらってるよ。僕達くらいの歳で、全部自分で用意してる方が珍しいんじゃない?」

「まぁ、だと思いますよ」


 この手のことにおいて、自分が少数派であることは流石に自覚していた。だからこそ、聞かれない限りはわざわざ主張することもない。今回も、悠に尋ねられたから答えただけだ。


「はい!」


 そう思っていたのに、やたらと主張の激しい声が聞こえてきた。何なら、勢いよく手も上がっている。


 その手の持ち主は、やや自慢げな表情を浮かべる碧依。


「何ですか」


 全身から「聞いてほしい」という雰囲気が漏れ出しているその姿に押されて、思わず素直に尋ねてしまう。恐らく碧依の思い通りになっていると思うと、どうしても悔しいという感情が心の中に芽生えてくる。


「私はちょっと手伝ってるよ!」

「え!? 碧依先輩が……!?」


 話の流れからすれば予想通りとも言える、碧依のお手伝い宣言。だが、アイリスにとっては予想外の一言だったようで、目を丸くして碧依のことを見つめていた。


「何でそんなに驚いたのかな?」

「だって、お料理ができるイメージなんてないですし……」

「へぇー……。そんな風に思ってたんだ?」

「あ、いや、何でもないです」


 促されるままに余計なことを口走ったアイリスが、自らの劣勢を悟り、どうにかこの場を誤魔化そうとしていた。


 と言うより、助けを求めるような眼差しでこちらを見ていた。


「碧依さんも料理ができるんですか?」

「できるって言える程じゃないけどね。まだ練習中」


 助け舟を出す訳ではないが、気にはなったので尋ねてみる。返ってきた答えは、謙遜でそう言っているのではなく、本心からの言葉のように思えた。


「全部自分で作ってくる湊先輩と比べちゃったら、大抵の人はできない人になっちゃいますよね」

「慣れですよ、慣れ」

「そんなものですかね……?」

「前の日の残り物を使えば、そんなに大変でもないですし」

「前の日に作ってる前提じゃないですか」


 どこか呆れたように紗季が言う。慣れると本当に大したことはないのだが、どうにもそれが上手く伝わらない。伝えたところで、何になるという話でもないけれども。


「それでも準備に時間はかかるよね? 湊君、毎日何時に起きてるの?」

「五時半くらいには」

「五時半……!? 私には無理です……!」

「アイリスさんが起きてるとは微塵も思ってないです」

「ぐぅっ……!」


 アイリスが驚きを隠すこともなくそう絞り出すが、そんなことは最初から分かっていた。休日には昼近くまで寝ていることもあると、アーロンとレティシアから暴露されたこともあるのだ。今更、平日に限っては早起きなどとは考えていない。


「アイリスなら、まだ涎を垂らしながら寝てる時間だよね?」

「涎なんて垂らさないし!」

「ほんとぉ?」

「何で疑ってるの」

「私が見たいから」

「寝てるところなんて、紗季には絶対見せないもん」

「図書館でもう見たよ」

「……」


 アイリスと紗季の攻防は、アイリスの完敗で終わった。頭の片隅に追いやられていたであろう記憶を思い出したアイリスが、これ以上ない程綺麗に黙り込む。先程ならまだぐうの音は出たが、今回はぐうの音すら出ていなかった。


「ほら」

「見せなくていいって! 覚えてるから!」


 そんなアイリスを尻目に、紗季が素早くスマートフォンの画面に写真を表示する。そこには、横からでは見ることができなかった光景が写っていた。


「葵君の肩で寝たの?」

「へぇ……。やっぱり仲良いね、湊君」

「枕にされるのを『仲が良い』と言っていいのなら」


 初めて見る写真に、悠と碧依がそんな感想を零す。この場の全員に公開されている以上、今更言っても意味のないことなのだが、誰にも見せないからということで写真を撮っていなかっただろうか。あの時の約束は一体。


「寝心地はどうだったのかな? アイリスさん?」

「……分かるわけがないじゃないですか。寝てたんですから」

「途中から起きてたでしょー?」

「らしいけど?」

「そういうことは言わなくていいの!」


 碧依の言葉を躱そうとするアイリスだったが、紗季がそれを許さない。その場にいた人間がいる中で碧依から逃れるのは、至難の業と言ってもよかった。


 味方を得た碧依が、さらに勢い付く。


「そんな風に言うってことは、起きてるのに葵君の肩に寄り掛かってたのは本当なんだ?」

「さ、紗季の嘘ですもん……」

「葵君に聞いてもいいけど?」

「い、いいですよ? 葵さんはちゃんと答えてくれますから」


 アイリスの言う「ちゃんと答える」とは、一体何のことを言っているのだろうか。気になって見てみれば、辺り一帯をふよふよと泳いだ瑠璃色の目が、自分の目を捉えた。


 よく「目は口程に物を言う」と表現する。事実、アイリスの目は普段から様々なことを分かりやすく語っている。だが、今はそこまで確証を持ってアイリスの言いたいことを断言することはできなかった。大方、上手いこと誤魔化してほしいということなのだろうが、そう言われると抗いたくなる、天邪鬼な部分が鎌首をもたげてしまう。


 そんな訳で。


「起きてましたね」

「なんでですかぁっ!」

「やっぱり」


 事実を告げてみた。やはり、嘘を吐くのはよくない。たとえ、アイリスが信じられないといった眼差しを向けてこようとも、だ。


「葵さんなら誤魔化してくれると思ってたのにっ!」

「こっちの方が面白くなるかなと」

「私は大変なことになりますけどね!」

「よく分かってるね、アイリスさん」

「あっ……!」


 碧依の言葉を聞いて、アイリスの顔から怯えの色が滲み出る。碧依は碧依で、こんなことばかりしているから、いつまで経っても天敵扱いが変わらないということに気付いていない。


 あるいは、気付いていてなお、この行動なのかもしれないが。だとすれば、厄介なことこの上ない。


 二人のやり取りにそんなことを思いつつ、とりあえずはいつでもアイリスを援護できるように心構えだけは済ませておく。


「じゃあ、寝心地は分かるよね?」

「……何でそんなに気にするんですか」

「異性の先輩の肩で寝るなんて、滅多に聞けない体験だからね。こんな面白そうなお話、逃すわけがないでしょ?」

「私は面白くないですもん」


 ぷいっと顔を背けたアイリスが、やや拗ねたような口調で呟く。仕草も相まってか、幾分か幼くなってしまったような印象を受ける。


「葵君の肩は面白くなかった、と」

「肩が面白くなかったって何なんですか」


 黙って聞いているつもりだったが、碧依が口にした意味が分からない言葉のせいで思わず声が漏れてしまった。


「葵さんの肩は面白いに決まってるじゃないですか」

「そういうことを言ってほしいわけじゃないんです」


 自分をかばうようにアイリスが言うが、残念ながらその言葉も何かがずれている。肩が面白いとは、一体どんな評価なのか。相変わらず意味が分からないままなのに、言われている側が気になってきてしまった。


「湊君の肩、面白いんだ?」

「羽崎君は、見た目以外は常識人枠です。そのままでいてください」

「湊君もだからね?」


 唯一の常識人が足を踏み外しそうになっていたので、ひとまず枠の中に押し戻す。悠まで碧依側に回ってしまえば、まず間違いなくこの場の収拾がつかなくなってしまう。絶対に守るべき、最後の砦のようなものだった。


「どんな風に面白いの?」

「そこを掘り下げるんですか?」

「あったかいんですよ。葵さん、体温が高めなんですかね」

「答えなくていいですって」


 面白そうな方向に舵取りをした結果、誰よりも自分が一番忙しくなった。あの選択は間違いだったと、今更ながらに気付く。


 そうして少し前の選択を後悔している間にも、アイリスと碧依のやり取りは続く。


「それでついつい寝ちゃったと」

「いえ、その前から眠かったです」

「寝る前から肩に寄り掛かってるはずがないじゃないですか」

「でも、肩に寄り掛かることができるくらい近くに座ってたんだ?」

「葵さんに英語を教えてましたから。葵さんに、英語を、教えてましたから!」

「何で二回?」

「他の人にはできない、私だけの特別なことですからねっ」


 妙に嬉しそうに言うアイリス。これまでは碧依のことを躱そうと必死だったはずなのに、この瞬間だけは、自分に向けて真っ直ぐに笑みを浮かべていた。


「忙しそうですね」

「手伝ってくれてもいいんですよ?」

「見てるだけの方が楽しいので、その辺は湊先輩にお任せします」

「そう言わずに。アイリスさんだけでも」


 息を吐くようにおかしなことを口にするアイリスと碧依に突っ込みを入れ続けていると、紗季が他人事のような雰囲気を纏ったまま小声で話しかけてきた。実際、他人事で間違いないのだが、そう言われると巻き込んで負担を軽くできないかと考えてしまう。


「面倒……、厄介なことになるので、絶対に嫌です」

「言い換える意味はありました?」


 その二つはほとんど同じ意味ではないだろうか。


「それくらい、今のアイリスには関わらない方がいいってことです」

「強制的に巻き込まれた僕の立場はどうなるんですか」

「頑張ってくださいね」


 笑みを浮かべながらの、軽く突き放すような一言。どうやら紗季の援護は期待できそうになかった。


「葵さん!」

「何ですか」


 そうして意識を紗季の方に向けていると、碧依と話していたはずのアイリスに呼びかけられる。何やら随分と勢い付いているが、二人して何を話していたのだろうか。そして、何故自分の頭の中で警鐘が鳴っているのだろうか。


 やや警戒しながら改めて視線を向ければ、真剣そうな表情を浮かべるアイリスと目が合う。


「葵さん用のメイド服、ちゃんと準備しておきます!」

「しなくていいです」


 意識を逸らしていた短い間にどんな会話が繰り広げられたのか、皆目見当がつかなかった。


「何があったんですか」


 分からなければ、尋ねるしか答えを得る方法はない。どうせろくでもない話をしていたのだろうと予想はしながらも、一応は経緯を確認しなければならないのが何となく複雑だった。


「アイリスさんがね? 私じゃ葵君に勉強を教えることはできないって言うの」

「だって、葵さんの方が成績いいじゃないですか」

「で、葵君だって分からない問題くらいあるでしょって言ったら、アイリスさんが」

「葵さんに分からないんだったら、碧依先輩にも分からないはずです」

「って」

「期待が重過ぎます」


 知らないところで背負わされた期待が大き過ぎた。生憎、そこまで何でもできる自信はない。


「じゃあ、勝負しようってことになって」

「勝負?」

「私と碧依先輩が、です」

「僕、何か関係あります?」


 アイリスと碧依が勝負するのに、どうして自分用のメイド服を準備する話になったのだろうか。そもそもの話として、どうして自分がそんなものを着ることになっているのだろうか。ある程度経緯を聞いても、疑問は尽きない。


「次の中間、私と葵君、どっちの合計点が高いか比べることになりました」

「はぁ……?」


 詳しいことは何も分からないが、要は一学期に碧依が挑んできた勝負をもう一度、ということだろう。ここまでの話は何の問題もないように聞こえるが、メイド服という結果を聞く限りでは、ここから先の話がひどかったらしい。


「それでですね。葵さんが勝ったら、そっちに賭けた私の勝ちで」

「葵君が負けたら、当然自分に賭けた私の勝ち」

「ってことになりました」

「どうして勝手に他人のことを賭け対象にしてるんですか」


 扱いが競走馬のそれだった。この時点で聞かない方がよかったと感じているが、恐ろしいことに、まだ「メイド服」という単語が登場していない。アイリスと碧依が繰り広げた会話が濃密過ぎやしないだろうか。


「それで、私が勝ったら、ご褒美で葵さんがメイド服を着てくれて」

「僕が頑張ったのに、何で罰ゲームを受けてるんですか」


 ようやく登場したその単語。できれば登場しないでもらいたかったという願いも空しく、最悪の形での顔合わせとなってしまった。


「私が勝ったら、ご褒美で葵君がナース服を着てくれるってことになったの」

「何で増えてるんですか」


 一瞬で最悪を更新する。この期に及んで、さらに新しい服を増やさないでほしい。処理が追いつかなくなる。


「どうなっても、僕はどっちかを着ることになるじゃないですか」


 単なる地獄だった。


「一応、同点なら勝ち負けなしなので、葵さんが何も着ないのはその時だけです」

「難易度が高過ぎる……」


 碧依の点数を見切ったうえで、自分の点数もそこに合わせにいく。自分が助かる条件が無理難題にも程がある。


「葵さんなら、いつも通りにやれば勝てます!」

「頑張りたくないんですけど」

「それなら私の勝ちだね」

「頑張らないといけないんですけど」


 アイリスと碧依に追い詰められて八方塞がり。点数が碧依よりも高かろうが低かろうが、そもそも着るのを拒否すればいいだけという話なのだが、この二人がそんな簡単に逃がしてくれるとは到底思えない。


 自分の勝利を信じて疑わない、そして所謂コスプレをしてくれると信じて疑わないアイリスと碧依の輝く目に挟まれ、頭を抱えるしかなかった。


「大変そうだね?」

「代わりに着てくれるって言いました?」

「一言も合ってないよ」


 傍観者の立場で気楽な言葉を口にする悠。どうにか巻き込んでしまおうと画策するが、どうにも上手く巻き込める手段が見つからない。頭の中はメイド服とナース服への恐怖でいっぱいだった。


「湊君的には、どっちの方が着たいの?」

「どっちも着たくないんですよ。何を勘違いしてるんですか」

「どっちも似合うと思うけどな」

「その言葉、そっくりそのまま返しますよ」


 どうやら悠は安全圏にいると思っているようで、これまでになく随分と好き勝手言ってくれる。いつかしっかり返すことを心に誓いながら、今は危険地帯からじっとりとした眼差しだけを送っておく。


「私、メイドの葵さんに『お嬢様』って言われてみたいです!」

「お嬢様」

「今じゃないですし、もう少し感情を込めてくださいよ」


 何も考えないまま口から飛び出したのは、自分でも驚く程に感情がない一言だった。


「あ! じゃあ、私は『ちょっとチクっとしますよー』って!」

「ちょっとチクっとしますよー」

「よくそこまで棒読みできるね」


 込めるべき感情が一つも見つからなかった。どこまでも空虚な言葉が響く。


「何が嫌なんですか。どうせもうウェイトレス服は着たのに」


 そんな自分の様子を見て、アイリスが呆れたように呟く。その言葉はある意味納得できそうなものではあったが、だからと言ってここでさらにレパートリーを増やしてしまえば、その後はなし崩し的になってしまうことが容易に想像できる。


「アイリスさん」

「何ですか」


 では、そんな時はどうするべきか。その答えは実に単純で、アイリスの意識を別のことに向けるのが正解である。


「静かにしてくれたら、おかずを一つあげます」

「玉子焼きで!」


 一瞬で意識を逸らしたアイリスから注文が入った。視線は完全に弁当箱に向いていて、狙い通りに事が運んだことを確信する。


「どうぞ」


 アイリスの気が変わらないうちに、ご所望の玉子焼きを差し出す。弁当箱の中に彩りを与えるとても便利な一品の、その一切れ。


「いただきますっ」


 夏休みの出来事を経て、そうすることに慣れが生まれてしまったのか。箸で摘んで差し出した玉子焼きが、どこかを経由することもなく、そのままアイリスの口の中に消えていった。


「あ、ちょっと甘めなんですね」


 にこにこと、実に美味しそうに食べているその様子を微笑ましく思っていると、やや子供っぽくなってしまった張本人がそのことに気付く。


「子供達向けの味付けが基本でしたから」

「なるほど。それで……」

「アイリスさんはどっち派です?」


 所謂、甘い派としょっぱい派。例外もあるかもしれないが、玉子焼きの二大派閥といえばこの二つだろう。地域によって好みが分かれるなどという話も聞いたことがあるが、地域という枠の外側にいるアイリスは、一体どちら側なのか。


 こういった場面にぴったりの話題で、さらに話をメイド服から逸らしていく。


「んー……? どっちも美味しく食べますけど、どっちかって言ったら甘い方ですかね……?」

「何となくイメージ通りですね」

「……どんなイメージですか?」


 少しだけ悩んでいたような表情から一転、やや目付きを鋭くして、じっと見つめてくるアイリス。口調に若干の陰りがある時点で、自分が何を想像しているのか、何となく察しているのだろう。


「多分、アイリスさんが想像してる通りだと思いますよ」

「そうですか。可愛くて仕方がないってことですか」

「すみません。違いました」

「なんでですか!」


 尋ねてきた時には「子供っぽい」というイメージを共有していたはずだが、自分の言葉を聞いた途端にこれである。その切り替えの速さは、最早流石としか言いようがない。


「あ、いや、可愛いのは間違いないんですけど、そんなことは微塵も考えてませんでした」

「そんなこと!?」

「子供っぽいイメージに合ってるなって」

「わざわざ言わなくていいんですよっ! どうせ分かってましたから!」


 思った通り、最初はきちんとそう考えていたらしい。アイリスのことはアイリスが一番よく分かっているということか。


「それは、葵さんに比べたら子供っぽいのかもしれないですけど……」

「僕が大人びてると思ってるのなら、それは大間違いですよ」

「でも、何でも大体一人でやっちゃうじゃないですか」

「本当に大人びてたら、こんな風にアイリスさんで遊んでません」

「私『で』遊ぶって言いました?」

「何でもないです」


 まさかこんな話になるとは思っておらず油断していたのか、ついうっかり口を滑らせてしまった。もちろん、そんな失言を聞き逃すアイリスではなく。


「言いましたよね?」


 物理的に少しだけ距離を詰めながらの詰問だった。疑うような眼差しを正面から受け止めることができず、そっと目を逸らしながら口を開く。


「言ってません」

「聞き逃しませんでしたよ?」

「今日は唐揚げもありますけど、食べます?」

「いただきます!」


 そんな訳で、再び話題を逸らしにかかる。今日限定の手段ではあるが、多少強引にでも話題を逸らすには、やはりこの手の方法が一番である。


 差し出した一口サイズの唐揚げが、アイリスの口の中へと消えていく。


「美味しいです!」

「よかったです」


 十分に味わったであろう後の、笑みを浮かべながらのそんな感想。自分で作って自分で食べる分には何も気にしないが、こうして誰かに感想を言ってもらえるのは、やはり嬉しいものがある。それがこれだけ親しい相手なら尚更だ。


「で、言いましたよね?」

「……」


 弁当箱から唐揚げが一つ消えただけになった。


「……反応がいいので、つい」

「やっぱり」


 誤魔化しきれないことが分かれば、自分にできることは認めることだけである。観念して小さく呟いた一言を聞いて、アイリスが呆れたようにため息を吐く。


「まぁ、たくさん愛情が込められてる葵さんの言葉だから許しますけど……」

「それは込め忘れました」

「じゃあ許しません」

「嘘です。これ以上ないくらいに込めました」

「もう……。素直じゃないですね」

「素直と言うか……」

「何ですか?」

「何でもないです」


 今は明らかに形勢が悪かった。余計なことは言わずにおくのが吉ということくらい分かっているのに、アイリス相手だとその余計なことがつい口を衝いて出てしまう。果たして、自分はこんな性格だっただろうか。この数か月間の関わりの中で、色々な意味で目の前の少女に影響を受けているのかもしれなかった。


「『仲が良い』で済むのかな……?」

「『仲が良過ぎる』に変えておけば?」

「餌付けって、仲が良いんですかね?」


 そうしてアイリスとの勝負から撤退したところで、黙って自分達のやり取りを見つめていた三人の感想が聞こえてきた。その中身は三者三様で、どうやらそれぞれ思うところがあるらしい。


「餌付けって」


 中でも、紗季の発した感想のインパクトが突き抜けていた。今のやり取りを外から眺めるとそうなるのかと、知らなくてもよかったはずの新発見をしてしまう。


「いや、だって……」


 相変わらず興味深そうにしている紗季が、アイリスと自分を交互に眺める。


「しかも直接って」


 呟きを聞く限りでは、そんな部分も気になっていたらしい。夏休みを経てしまった自分では、なかなか意識することができない部分である。


「今更ですよね?」

「何回かそんな機会もありましたからね」


 そして、それはアイリスも同じようで。このやり取りに対する羞恥心は、二人揃って過去に置き去りにしてしまっていた。


「二人がそれでいいなら、私からは何も言うことはないんですけど」


 明らかに含みがありそうな言い方で、紗季がそう締めくくる。その様子に何か釈然としないものはあるが、言い出した紗季本人がそれでいいなら、これ以上自分から言うことは何もない。


 そんな風に思っていると、恐らく切り出すタイミングを見計らっていたらしい碧依が声をかけてきた。


「ねぇ、葵君」


 何かを面白がっているような、やや弾むような口調である。


「はい?」

「何か忘れてない?」


 嫌な予感が的中しそうになっていた。まだ決定的な言葉は出てきていないものの、このままでは余計な一言が出てくるのも時間の問題だろう。


「忘れてはいないですけど、忘れた方がいい記憶って、あると思いませんか?」

「これは忘れちゃいけない記憶だよ?」


 せっかくアイリスの意識を逸らしたのに、再びそれを意識させる訳にはいかない。ここで話題が逆戻りしてしまえば、玉子焼きすらもただ消えただけになってしまう。


 今自分がいる場所こそ、何としても死守しなければならない大事な防衛線だった。


 次の声を聞くまでは。


「あ、葵さんに聞かないといけないんでした」

「……」


 もうこの言葉の時点で嫌な予感がした。最初の「あ、」が、明らかに何かを思い出した時の言葉だった。


「……何をですか?」


 それでも、微かな希望に賭けて尋ねてみる。まだあくまで嫌な予感がするだけであって、自分が考えていることと、アイリスが考えていることが全く別である可能性も残っていた。


「メイド服のスカート、どれくらいの長さがいいですか?」

「……」


 玉子焼きも消えただけとなった。


「待って。それなら、どんなナース服がいいか聞いておいた方がいいよね?」

「どうせ葵さんが勝つんですから、碧依先輩が用意するものなんてないです」

「いーや、今度は私が勝つから。アイリスさんこそ、何にもしなくていいよ?」

「どっちも聞かなくていいとは思わないんですか?」

「大事なことです」

「大事なことだよ」

「……」


 どうして、こんな時だけはここまで綺麗に結束してしまうのか。アイリスにとって、碧依は天敵だったはずなのに、だ。


 お互いの主張を戦わせていたアイリスと碧依が、タイミングまでぴったり揃えて自分に目を向けてくるのを見ながら、頭の中でそっと現実から逃げ出す。


「碧依先輩は何にも分かってないです! いっつも家事を完璧にこなすのに、たまに失敗して涙目になってるメイドの葵さんの方が、絶対可愛いに決まってるじゃないですか! 見たくないんですか!?」

「そんなの見たいに決まってるでしょ! でもね! 風邪とかで弱ってる時に、ナースの葵君に甲斐甲斐しく看病されたいとかって思わないの!?」

「されたいです!」


 アイリスと碧依がお互いに願望を曝け出し、当の本人を蚊帳の外に置いたままさらにヒートアップしていく。


「葵さん!」

「葵君!」

「どっちも着ませんか!?」

「どっちも着ない!?」

「どっちも着たくないです」


 間違いなく過去一番の結託を見せるアイリスと碧依。見ようによっては、この状態も仲が良いと言うのだろうか。仮にそうだったとしても、自分にとっては全く嬉しくない仲の良さである。


「じゃあ、やっぱりメイド服だけですね」

「違うよ? ナース服だけだよ?」

「何回言っても分からない先輩さんですね」

「アイリスさんこそ。何回言っても分からない後輩だね」


 そんな二人が、目を離した一瞬で仲違いしていた。やはり、仲が良いと表現するにはやや早かったらしい。


「僕のために争わないでって感じだね?」

「その言葉、今なら僕が世界一上手く使える気がします」


 何故かにこにこしている悠が言った言葉がここまで状況に当てはまることなど、そうそうあるものではない。願わくは、その状況は傍観者として眺めていたかった。話題の中心にいる者としては、もうどうしても叶わない願いなのだが。


「頑張ってくださいね、湊先輩」


 悠に続けてかけられた紗季のその言葉は、「試験を頑張ってください」という意味なのだろうか。それとも、「望まないコスプレを頑張ってください」という意味なのか。未だに持論を戦わせるアイリスと碧依を見ながら、ぼんやりとそんな嫌なことを考えるのだった。




「たまには葵さんのところに行って食べるのも楽しそうですね」


 賑やかな昼食を終え、午後の練習が始まるまで少しだけ時間が空く。昼食を終えてからすぐに練習が始まるようなスケジュールは、流石に組まれていなかった。


 そんな中、自分達の中で最後に弁当箱を空にしたアイリスが、片付けをしながらそんなことを口にした。


「えぇ……?」

「何で嫌そうなんですか」

「さっきみたいなことが毎回起こるかと思うと……」


 話している内容は何の変哲もないことだったが、どうにも環境が悪い。今日は碧依がいるだけであの有様だったのに、二年生の教室に来るとなると、ここにさらに莉花が加わることになる。そうなった時に何が起こるのかなど、もう考えたくもなかった。


「あれは碧依先輩が」

「アイリスさんが負けを認めないからだよね?」

「勝つのは葵さんですもん」

「代理戦争って知ってますか?」

「知りません」

「知ってるんですね」


 厳密には意味が違うが、言いたいことは伝わったのだろう。アイリスの目が理解の色を示していた。問題は、その目が真っ直ぐ自分の方を向いていないことである。


「まぁ、もう終わった話はいいんですけど」

「終わってませんよ? これからです」

「終わったんです。色々な意味で」


 深く考えると後悔してしまいそうな、そんな「色々」だった。ということで、メイド服やナース服は一旦頭の中から追い出して、心配していることを告げることにする。


「こっちに来るってことは、渡井さんも加わるってことですよ? 何も起こらないって、本当に言えますか?」

「……」


 アイリスが少し考え込む。即答できない時点で、その答えはある程度予想することができてしまった。


「……賑やかなことになりそうですね!」

「別にオブラートに包む必要なんてないですよ」

「そもそも、フリーゼさんって渡井さんのことが苦手じゃなかったっけ?」

「碧依先輩以上の天敵です!」


 こちらは即答である。莉花を攻撃するついでに碧依も攻撃しているところが、とても芸術点が高い。たった一言に、無駄な高等技術が詰め込まれていた。


 そんな言い方をしている辺り、アイリスとしても失念していた訳ではないだろう。だが、それならそれで、何故自ら死地に飛び込むような真似をしようとしているのだろうか。自分に起こった出来事で例えるなら、メイド服とナース服のどちらを着てほしいか、自ら尋ねるようなものだ。天地がひっくり返っても、そんなことは起こり得ない。


「落ち着いてお昼が食べられると思いました?」

「無理ですね」


 その原因である一人がこの場にいるというのに、随分とはっきりとした言い方だった。碧依も思わずといった様子で苦笑いを浮かべている。


「でも……」


 そこでまたもや考え込むアイリス。先程と違うのは、瑠璃色の視線が向かう先。少し前は地面に向いていた視線が、今度はしっかりと自分を捉えていた。


「あ。じゃあ、葵さんがこっちに来ますか?」

「後輩のクラスに紛れ込むのは難易度が高いですね」


 しばらく考えて出た結論はそれだった。いいことを思い付いたとでも言いたそうな雰囲気のアイリスだったが、それはそれでややハードルが高い。むしろ、異物感としては自分の方が強いような気もした。


「二年生のクラスに紛れ込むのだって、難易度は高かったですからね?」

「紛れ込めてはいないですからね」

「でも、誰も私のことを気にしなくなったじゃないですか」

「それはまぁ、確かに……」


 アイリスの言う通りだった。最初の頃はアイリスが教室を訪ねてくるだけで注目されていたが、今では当たり前の光景として受け止められている。紛れ込んでいると言っても、ある意味間違いではないのかもしれなかった。


「紗季はどう?」

「ん? 私?」


 いきなり話を振られた紗季が首を傾げる。話は聞いていたが、この話題で意見を求められるとは思っていなかったというような顔だった。


「私は別に気にしないかな。湊先輩なら知ってる人だし、多分純奈も大丈夫だと思うよ」

「ほら。紗季と純奈もこう言ってます」

「半分捏造みたいなものですよ」


 この場にいない純奈の言葉を都合よく想像している時点で、半分どころではないのかもしれないが。


「湊先輩がいると、アイリスの面白いところが見られるかもしれないですし」

「紗季?」


 ただ賛成してくれただけかと思っていた紗季にそんなことを言われ、アイリスの声に困惑が混ざり始める。自分が感じている雰囲気も、少しずつ怪しげなものに変わり始める。


「いい感じに壊れるアイリスって、見てて楽しいんだよね」

「そんなこと考えてたの?」

「こんなことばっかり考えてる」

「えぇ……? ちょっと距離置きたい……」

「その分私が詰めてあげるよ」

「それだと意味がないでしょ」


 前々から思っていたことではあるが、やはり紗季は莉花と同じ系統に分類される人物だった。紗季が押し、アイリスが引くといった雰囲気のやり取りに、奇妙な既視感を抱いてしまう。


「今は紗季じゃなくて葵さんなの。それで、葵さんはどうですか?」

「誘ってくれるのはありがたいですけど、やめておきます」

「えー……? なんでですか?」


 紗季に押されながらも、それを何とか受け流すアイリスに遠慮の言葉を口にする。途端にアイリスの顔に残念そうな色が広がっていくが、これには真面目な理由もあるので、どうにか受け入れてもらうしかない。


「アイリスさんのためでもあるんですよ?」

「私ですか?」


 想定外の言葉に、アイリスの表情が少しだけ変わる。そこに浮かんだのは驚きと、そして何故か嬉しさだろうか。


「この話、碧依さんも聞いてますよね」

「聞いてますね」

「聞いてるよ!」


 二人して碧依に目を向ける。当然、碧依もしっかりと自分達のことを見ていた。


「そうしたら、どう考えても碧依さん経由で渡井さんにも伝わります」

「伝わりますね」

「伝えるよ!」


 もう一度碧依に目を向ける。当然、碧依の目は逸らされていない。


「二人が大人しく自分の教室に残ると、本当に思いますか?」

「思いません!」

「ついていくに決まってるよね!」


 碧依の合いの手が答え合わせだった。結局、碧依がいるこの場でそんな話をしてしまったのが悪かったのだ。あとはどうなっても、二人はついてくることになる。


「渡井先輩は出禁ですけどね!」

「そういえばそんなことも言ってましたね」


 アイリスの高らかな宣言に、随分と前の記憶が蘇ってきた。何かをやらかした莉花が、アイリスのクラスに入ることを禁じられていたことを思い出す。確か本人はいなかったはずだが。


「んー……。それなら、やっぱり私が葵さんのクラスに行くしかない、ですね……」

「そんなに無理して来なくてもいいんじゃないですか?」


 これまでで一番悩む様子を見せるアイリスだったが、天敵二人の本拠地に乗り込んできたところで、することはせいぜい昼食を食べるだけだ。それならば、必ず機会を設けないといけない訳でもない。


「でも、せっかくですから一緒に食べたいですし……」


 けれども、アイリスの考えは違うようで。そんな風に言われると、否定し続けるのも悪い気がしてくる。


 だが、一つだけ気になる点はあった。


「何か隠してますよね?」


 それは、どうにかして一緒に昼食を食べようとしているアイリスの雰囲気。賑やかなのが楽しいということ以外にも、何かを考えていそうな雰囲気が僅かに漏れ出していた。


「……葵さんのお弁当、美味しかったです」

「それが狙いでしたか」


 問い詰められて、素直に白状するアイリス。どうやら、自分が感じていた微かな雰囲気の変化はそれが原因だったらしい。我ながら、この程度の変化によく気付いたものだ。


「それも、です。ちょっとだけですよ?」

「いやまぁ、美味しいって言って食べてくれるのは嬉しいですけど」

「代わりに、私のお弁当からも何か出しますから。交換です!」

「レティシアさんが作ったものみたいですけどね」

「わ、私もお手伝いするようにしますしっ」

「早起き、できるといいですね?」

「できますもん!」


 出会ってすぐの頃、同じようなやり取りをしたことを思い出す。あれは、アイリスが通学の電車を同じものにしようとしていた時だったか。


 あれから早くも半年近く。そう意気込むアイリスの表情は、あの時よりもずっと不安の色が薄くなっているように思えるのだった。

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