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51. 感情の行方 (3)

 九月九日、土曜日。その朝のこと。普段であれば家にいる時間帯で、起きてはいるが、そこまで活発に動いている訳でもない頃合いである。


 そんな時間に何をしているのかといえば。


「へぇー……、お弁当、作ってるんですか?」

「えぇ。普段からそうですよ」

「でも、そっか。そうですよね。葵さん、お料理が得意って言ってましたもんね」

「朝の準備のついでにって感じです」


 アイリスと共に電車に揺られながら、学校へと向かっているところだった。いつもは会わない時間なのに、今日に限っては隣にアイリスがいる違和感。駅で合流した時に覚えてから、未だにそれを拭い去ることができずにいた。


「私もお弁当なんですよね」


 自分がそんな違和感を持ったままであることなど知る由もないアイリスが、自身の鞄を軽く叩きながら言う。また一つお揃いが見つかったことが嬉しいのか、その顔がはっきりと綻んでいた。


「少しでもアイリスさんの手は加わってます?」

「お弁当って、美味しく食べるところまでで完成ですから!」


 自信満々に言い張るアイリス。つまり。


「加わってないんですね」

「……はい。お母さんには感謝してます」

「アイリスさん、料理はそんなにしないんでしたっけ?」

「そうですね……。お母さんに任せっきりです」


 自分からそう問いかけておいて何だが、高校生ならそれくらいが普通のような気がした。だが、アイリスはどこか気まずそうに目を逸らす。


「そんなに気にしなくてもいいんじゃないですか? 僕が変わってるだけですし」

「自分で言いますか、それ」

「でも事実ですよね?」

「確かに葵さんは変わり者ですけど」


 アイリスの一言は、何かニュアンスが違うように聞こえてしまった。今は料理の話をしているものだと思っていたが、アイリスにとってはそうでもないのかもしれない。


「やっぱり、身近にいる人がお料理上手ってなると、私も教わった方がいいのかなって思うんですよ」

「その辺は好きにしたらいいと思いますけど、できると便利ではありますよ」

「ですよね……」


 そう呟いて、やや考え込むアイリス。そんなアイリスの背中を押す訳ではないが、料理にまつわる大事な話が一つだけあった。


「ちなみにアイリスさん、卒業したらどうするつもりですか?」

「どうするって言うと?」

「進路です」

「えっと……、多分、大学に進むと思いますけど……。それがどうかしました?」

「だったら、一人暮らしの可能性が高いってことですね」

「お料理……!」


 流石にそこまで言えば気付いたようで、アイリスの顔には微かな焦りが浮かぶ。一人暮らしになくてはならない技能とまでは言えないものの、ある程度できた方がいいという結論に至ったのは、アイリスも自分も同じらしかった。


「今の内に、レティシアさんから教わっておいたらいいかもしれないですね?」

「確かに……。でもお母さん、色々詮索してきそうな感じが……」

「詮索?」


 料理を教えてもらうということからは程遠い言葉に、思わずそのまま聞き返してしまう。


「素直に一人暮らしをすることになった時のためにって言っても、全く信じてくれないんじゃないかなって」

「あー……」


 言葉でしかないのに、その光景が簡単に想像できてしまった。あのレティシアのことだ。何もないのに、根掘り葉掘り聞き出そうとしそうではある。


「実は、その辺もお母さんに頼みにくい原因だったり……」

「まぁ、それは……。……頑張ってください」

「どうやって頑張ったらいいんですか」


 部外者にはそれくらいしか言うことはできなかった。ここで変に間に入っても、自分にできることは何もない。


「でも……」

「はい?」

「今回はちょっと真面目に頑張ってみようと思います」


 その言葉通り、アイリスの目付きがいつの間にか真剣なものに変わっていた。一人暮らしという具体的な話に触発されたのかもしれない。何にせよ、本人が頑張ると言っているのだから、それはいい傾向のはずだ。


「応援してますよ」

「はいっ! すぐに葵さんも追い抜いちゃいますから!」

「そういうことは、まず自分でお弁当を作ってから言いましょうね」

「はい……」


 たった一言で項垂れるアイリス。早くも設定したゴールは、まだまだ遥か先にあるようだった。




「碧依先輩、途中で乗ってきませんでしたね」

「休みでダイヤも違いますしね。違う電車で行ったんじゃないですか?」

「そう言われると、私達もちょっと違う時間ですし、そうかもしれないですね」


 朝の通学路にしては珍しく、アイリスと二人きりの状況。夕方に反対方向へ向かうのならほぼ毎日のことだが、この時間にこうなのは恐らく初めてのこと。ようやく消えた例の違和感に代わり、今度は新鮮な感覚が訪れる。


「それにしても、今日一日練習ですかぁ……」

「嫌ですか?」

「あ、いや、そうじゃなくて。疲れそうだなって」

「疲れますよ」

「そこは否定するところじゃないんですか?」

「本当に疲れますから」


 流れ的にはそうだったのかもしれないが、否定できないのだから仕方がない。否定するところだろうが、そうでなかろうが、疲れるものは疲れるのだ。


「しかも、よりにもよって今日の練習場所って外ですよね?」

「確か河川敷でしたね」

「絶対に暑いじゃないですかぁ……」

「そういえば、暑いのは苦手って言ってましたね」

「それに、ずっと外だと日焼けもしちゃいますし」


 そう言って、アイリスが自身の腕を持ち上げる。日に照らされたその腕は、これまでに見慣れている通り、やはり白い。日焼けを気にするのも当然といったところだった。


「日焼け止めは塗りました?」

「ばっちりです!」

「塗り直す用に、ちゃんと持ってきました?」

「もちろんです!」

「じゃあよし、です」

「お母さんみたいなことを言うんですね」


 からかうように言うアイリス。どこからどう見ても顔がにやけていた。


 そんな訳でカウンターである。


「せっかく綺麗な肌をしてるんですから」

「えっ……!?」

「心配になるのは当然じゃないですか?」

「そそっ、それ、はぁ……」


 盛大に慌てながら、まるで日に焼けて赤くなってしまったかのように頬を染める。不意打ちに弱いのは相変わらずであることを確認しつつ、自分の鞄の中からとあるものを取り出す。


「そんなあなたにこちらの日焼け止めクリーム」

「通販じゃないですかっ!」


 どんな状態からでも、突っ込みの速度だけは落ちない。実に素晴らしい反応速度だった。


「しかも普通の市販品ですし!」

「よく気付きましたね」

「同じのを使ってますからねっ!」


 そう言うアイリスが鞄の中から取り出したのは、自分が今取り出したものと同じ日焼け止めのボトル。市販品だとばれるのも当然だった。


「あれ? 葵さんも日焼け止め?」

「何か?」


 またしてもからかわれたのだと分かってむっとしていたアイリスだが、そこで何かに気付いたように不思議そうな顔をする。


「いや、男の人って、そういうのをあんまり気にしない人が多いのかなって思ってたので」

「かもしれないですね」

「でも、葵さんですもんね」


 勝手に何か納得しているが、一体何を考えているのだろうか。あくまで自分の想像ではあるが、きっとろくなことを考えていないはずだ。


「どういう意味です?」

「葵さん、肌がとっても綺麗ですもんね?」

「ありがとうございます」

「照れてくださいよっ!」

「何なんですか」


 先程から、アイリスの感情が揺れに揺れている。揺らし始めたのは自分のような気もしたが、恐らく気のせいである。


「ウェイトレス服を着てる時は照れてくれたじゃないですか」

「それは服と相まって、です。今なら特に気になりません」

「むぅ……。面白くないです……」

「残念でしたね」


 アイリスからのカウンターはしっかり防いでおく。一学期の間、何度か似たようなことを繰り返しても慣れないのか、まだまだ甘いと言わざるを得なかった。


「単に痛くなるからですよ、日焼けをすると」

「日焼けした葵さんの肌を突っつく……」

「やめてください」


 それは単なる嫌がらせでしかない。


「ひりひりして涙目の葵さん……」

「そうならないための日焼け止めです」


 ぼそりと呟くアイリスが怖かった。何を企んでいるのか分からないところが、特に。からかわれたことへの仕返しでも画策しているのだろうか。


「焼きません?」

「話を聞いてました?」

「聞いてました」

「より質が悪いです」


 自信たっぷりに言うことではない。確かに、以前自分の話は聞き逃さないといったようなことを話してはいたが、それがその先の行動に繋がっていないのはいかがなものか。


「いや、でも葵さんは白いのが一番イメージに合ってるし……。でも日焼けした葵さんも見たいし、悪戯をしたいし……」

「心の声が全部漏れてますよ」

「白い葵さんと黒い葵さん……」

「聞いてますか?」

「聞いてますよ?」

「聞いてはいるんですね」


 本当に聞くだけだが。聞き入れると言っていた覚えはない。


「葵さんが二人必要ですね……」

「……」


 聞き入れないばかりか、何か面倒なことまで考え出した。そのあまりの内容に、一瞬心の中が騒めく。


「二人になれたりしません?」

「僕のことを何だと思ってるんですか?」

「葵さんならもしかしてって……」

「……」


 自分の扱いがいよいよ人扱いから外れ始めていた。アイリスの中で、自分は一体どんな立ち位置にいるのだろうか。


 気になりはするが、それはさておき。


「……」

「葵さん?」


 少しずつ歩みを緩め、そして止める。二歩分だけ先に進んで足を止めたアイリスが、訝しがるように名前を呼んでくる。


「……できるって言ったら、アイリスさんはどうしますか?」

「え?」


 完全に意表を突かれたといった声。たったそれだけだが、先程の言葉が冗談でしかなかったことがよく分かる。瞬きを繰り返す以外の動きが止まってしまった瑠璃色の瞳を、しっかりと見つめ返す。


「……」

「え……!?」


 ようやく再起動を果たしたアイリスが、目に見えて狼狽え始めた。


 そんなことが人間にできるはずがないということは分かっているのに、言い出した本人が黙って見つめてくる。体験したことがない状況に、情報の処理が追いついていないようだった。


「じょ、冗談、ですよね……?」

「本当にそうだと思います?」

「えぇっ……!?」


 そう言いながら、一歩分だけ距離を詰める。


「……」

「葵さんが、二人……?」


 手を伸ばせば触れ合える距離で、それでもひたすらアイリスを見つめ続ける。同じように見つめ返してくる瞳は、自分を通り抜けたその先を見ているようで、どこか焦点が合っていない。


「……」

「……」


 お互いに無言の奇妙な時間が続く。傍から見れば、随分と不思議な二人組に見えることだろう。


 そんなよく分からない時間は、アイリスの次なる言葉で終わりを告げた。


「私のために争わないでください……!」

「何を考えたんですか」


 何故か緊迫の一幕となってしまったこの雰囲気から考えると、随分と気が抜ける一言だった。アイリスの頭の中では、この短時間でどんなやり取りが繰り広げられたのだろうか。尋ねてみたいような、けれども尋ねると面倒そうな、とても複雑な感情を抱く。


「冗談に決まってます」

「で、ですよねっ。安心しました……!」

「安心したってどういうことですか」


 ほっとしたように胸を撫で下ろすアイリスが口にした、何気ない言葉。緊張が緩んで思わず漏れてしまった言葉なのかもしれないが、自分にとっては聞き逃すことができない言葉だった。


「だって、葵さんが二人もいたら……」

「いたら?」

「私がからかわれっぱなしじゃないですか……!」

「反撃の隙は与えません」

「怖いぃ!」


 実際にそうなった場面を想像したらしいアイリスが、自らの体を抱き締める。今日も今日とて、とてもいい反応だった。


「許してください……!」

「許すも何も、そもそも二人にはなれませんからね」


 懇願するように見つめてくるアイリスだったが、そもそも前提条件が成立していなかった。そんなことも無視してしまっている辺り、今のアイリスの思考は一方向にしか向いていないのだろう。


「それはそうなんですけど、つい……」

「妄想してしまった、と」

「妄想って言わないでください」

「いやまぁ、何だっていいですけど」


 その言葉に何か感じるものがあるのか、声だけはやたらと真剣なものだった。


 そこでやっとアイリスから視線を外して、残り一歩分の距離を埋める。隣に並んだアイリスも、同じペースで歩みを再開する。学校まではもうすぐなのに、いつまでもこうして暑い日向で棒立ちしている訳にはいかない。ずっとこのままでは、それこそ日焼けコースを進むことになりそうだった。


 という訳で、できるだけ日陰を選んで歩みを進める。


「葵さん、たまに真剣過ぎる顔で冗談を言うから、一瞬信じちゃうんですよ」

「どう考えても信じられる内容じゃなかったですよね」

「それでも信じちゃいそうになるくらい真剣だったんです」


 アイリスが、どこか恨みがましい視線を向けてくる。これまではあまり向けられたことのない、やや珍しい種類の視線だった。


「本当はあんな冗談、言うつもりはなかったんですけどね」

「言ってるのに何を今更」

「つい」

「その『つい』のせいで、練習も始まってないのにちょっとだけ疲れちゃいました」


 視線と同じく、恨みが含まれた言葉を口にするアイリス。多少なりとも機嫌を損ねてしまったかと思って、横目でちらりとその顔を盗み見る。


「何ですか?」

「何でも?」


 盗み見たはずなのに、しっかりと目が合ってしまった。先程の言葉に乗せた恨みが全てだったのか、アイリスの表情は既に晴れやかなものに変わっている。こうして見る限りでは、いつも通りのアイリスのように思えた。


「でもまぁ、二人の葵さんっていうのも、意外といいかなってところもありましたけど……」

「……。何を考えたんですか?」

「内緒ですっ」


 そう言って笑うアイリスの髪が、ふわりと風になびく。まだまだ厳しさを存分に残す陽光を浴びて、菜の花色が眩しいくらいに輝きを放っていた。




「……」

「アイリス?」

「んー……?」


 練習が始まってから一時間程した頃。太陽はまだ天頂まで達してはおらず、気温が高くなっていくのはこれからといった時間帯である。それでも、河川敷という場所柄なのか、思った以上に涼しい風が頻繁に吹くことで、少しは暑さが緩和されるのが僅かな救いだった。


 そんな中、休憩時間になったのをいいことに、未だ練習が続くあるグループへ目を向けていると、同じく休憩となった紗季が不思議そうに声をかけてきた。


「あー……。いつものアイリスか」


 気が抜けたような返事をした自分の様子を見て、その視線の先を辿った紗季が何かに納得したようにそう零す。


「いつものって何」

「いつものはいつものだよ」

「何それ」


 いまいち要領を得ない紗季の答えを聞きながら、それでも視線の向かう先は変えない。


 視線の先では、葵が片手で旗をくるくると回していた。


「いつも通り、湊先輩のことを見てる」

「んー……?」

「またそれか」


 呆れたような紗季の声を聞いて、ようやくその顔を正面に捉える。気になることはあっても、これ以上紗季を蔑ろにし続ける訳にもいかなかった。


「やっとこっち見た」

「……」


 だが、紗季が妙に楽しそうに笑っているのを見て、突然気持ちが変わってしまった。首の動きを止めず、そのまま反対方向を向いてみる。


「通り過ぎるな」

「む……」


 無理矢理顔を正面に戻されてしまった。頬に触れた紗季の手が生温い。


「ほっぺた柔らか……」

「やめてってば」

「……」

「真剣な目も禁止」

「あぁ……!」


 そのまま頬をいじり始めた紗季を窘めるも、全く聞く耳を持たない。そんな訳で、その両手には強制的にご退場頂くことにした。


 名残惜しそうに手を伸ばしてくる紗季だが、そう易々と触られるのもあまり面白くない。丁寧に叩き落しながら、話を本題に戻す。


「で、何?」

「それはこっちの台詞。じーっと湊先輩のこと見て、何考えてたの」

「あぁ……。葵さんのことってより……」


 そこで再び葵に視線を向ける。そのタイミングで、向こうのグループからも「もう少しで休憩」という言葉が聞こえてくる。休憩前最後の確認といった様子で、葵と悠が何かを話し合っていた。


「より?」

「旗、面白そうだなって」


 尋ねてくる紗季に目を向けることなく、静かにそう呟く。葵のことを見つめながらしばらく考えていたのは、そんなことだった。


 確かに、きっかけは葵を目で追っていたことではある。けれども、そのまま何となく目を向けているうちに、やっていることそのものにも興味が出てきたというのが、今のぼんやりとした自分の状況なのだった。


「へぇ……。湊先輩がやってるからとかじゃなくて?」

「それもある、かもしれないけど。でも、そういうのがなくても面白そうじゃない?」

「ま、ちょっとは分かるかな」

「男子のパートじゃなかったら、来年選んでみたかったかも」


 その言葉を最後に、二人して無言で葵と悠を眺める。しばらくそうしていると、向こうのグループも宣言通り休憩時間に入ったようで、振り返った悠と目が合った。


 特に視線を逸らすこともせずにいると、悠が葵の肩を叩いてこちらを指差す。そうして葵が振り返ったことで、これまでは見えていなかった薄茶色の瞳が姿を現した。


 練習する姿を見られて恥ずかしがるような人ではないことは、これまでの時間でよく理解している。案の定、いつも通りの可愛らしい顔のまま、悠と二人で近付いてくる。


「どうかしました?」


 お互いが手を伸ばせば届くといった距離までやってきた葵が、そう口にする。同年代の男子と比べると、はっきり高いと断言できる声。耳に心地よい、個人的に大好きな声だった。




「どうかしました?」


 紗季と二人で休憩していたアイリスに、そう声をかける。


「いえ……、大したことじゃないんですけど……」


 曖昧な言葉を呟くアイリスの視線は、明らかに自分が持つ旗に向いていた。考えていることがこの上なく分かりやすい目である。


「これですか?」


 言いながら、軽く旗を振る。その動きに合わせて、アイリスの視線があちらへふらふら、こちらへふらふら揺れ動く。


「アイリス。猫みたいになってる」

「にゃ」

「写真撮っていい?」

「だめにゃ」


 からかいの言葉に乗ってみせたアイリスだったが、流石にそこまでは許容できないようだった。はっきり拒否の言葉を投げつけられた紗季が、残念そうにスマートフォンをしまう。


「旗がどうしたんだろうね」

「さぁ……?」


 悠と二人して首を傾げてみても、答えは見つからない。分かっているのは、何となく興味を持っていそうということだけだ。


「休憩の間、ずっと見てたんですよ」

「旗を?」

「です」


 紗季からそんな情報も届くものの、結局それは表面的なことであって、アイリス本人がどう思っているのかは、実際に尋ねてみないと分からない。


「ちょっとだけ、貸してもらってもいいですか?」


 そう考えていた矢先、アイリスがそう願ってくる。自分でも回してみたかったのだろうと、アイリスが考えていそうなことに何となく辿り着いたのは、そこまで聞いたタイミングだった。


「どうぞ」


 特に貴重なものでもないので、持っていた旗を躊躇いもなく差し出す。


「ありがとうございます」


 旗はそのままアイリスの手へ渡った。自分や悠の身長で身の丈に迫る程の大きさなのだから、それがさらに小柄なアイリスと並べば、当然身の丈を超えることになる。その予想通り、旗の天辺はアイリスの頭の上に飛び出していた。


「あ、意外と軽いんですね」

「布と細長い棒だけですからね。重過ぎても回しにくいですし」

「そっか、そうですよね……」


 片手で旗を軽く振りながらの一言。両手で受け取ったはずの旗は、今は片手で支えられている。


「回してみます?」

「いいんですか?」

「もちろん」


 アイリスが旗を回すことに対して、自分が拒む理由は一つもない。安全に回せるだけのスペースを確保するため、三人揃って距離を取る。


「じゃあ、いきます……!」


 大したことをする訳でもないのにやたらと気合の入った掛け声を呟いて、それからアイリスの腕が動く。


 綺麗な円を描いて、赤い布をなびかせた旗が一回転する。ただし、旗の現在地は地面の上。旗を掴み損ねたアイリスの手には、河川敷を吹き抜ける涼しげな空気だけが握られていた。


「……」

「……」


 回した本人も沈黙。近くで見ていた側も沈黙。休憩中の生徒が生み出す喧噪の中、この場所だけが静寂に包まれている。


 そんな静謐な空間で、最初に動き出したのはアイリス。何を言うこともなく、ただ無言で落とした旗を拾い上げる。そして、そのままもう一度同じ構えを取った。


「あれ、もう一回やるつもりですね」

「ですね。僕はまた落とす方に賭けますけど、星野さんはどうします?」

「私も落とす方で」

「じゃあ、落とさない方に賭けるのは羽崎君ってことで」

「嫌だよ。僕もそっちに賭けたい」

「全部聞こえてますからね?」


 三人揃っての全力で失礼な会話は、流石のアイリスでも受け流せなかったらしい。全員等しく失礼だったのに、何故か自分にだけじっとりとした目を向けて、むっとした雰囲気を全力で伝えようとしていた。


「次はできますもん」

「できなかったら?」

「できるもん」

「じゃあ、落としたら罰ゲームね?」

「いいよ、やってあげる」

「……」


 売り言葉に買い言葉とでも言うべきなのか。紗季に乗せられるままに罰ゲームを賭けてしまったアイリスだが、先程の一回を見た後では、とてもではないが上手く回せる未来が見えなかった。


 やけに自信満々な様子で言ってのけた「やってあげる」は、上手く旗を回してみせるという意味になるのか。それとも、罰ゲームを「やってあげる」という意味になってしまうのか。その答えは数秒後に明らかになる。


「いきます!」


 一回目よりも威勢がいい掛け声と共に、旗が再び円を描く。


「……」

「……」


 そして、アイリスの手には、またしても空気が握られていた。


「……」


 何とも言えない空気がその場に漂う。結局、罰ゲームを「やってあげる」方になった。


「罰ゲームね」

「ぐぅ……!」

「何か考えておくから」

「お手柔らかにお願いします……」


 あれだけの啖呵を切って失敗したのだから、潔く受け入れるより他はないといった様子だった。未だに空気を掴み続けるアイリスの右手が、何かとても寂しいものに見える。


「葵さん……」

「はい?」


 生温かい視線を向けていた先で、空気を掴むのに飽きたらしいアイリスが落とした旗を拾う。それと同時に、何か含みがありそうな言い方で名前を呼ばれた。その後に続く言葉は何となく想像できるような気がするが、果たしてどうなるのか。


「教えてください」

「だろうと思いました」


 ほとんど予想通りの一言だった。拾い上げた旗を差し出しながら願うアイリスの目は、何故か真剣そのもの。


「本番でやるわけでもないのに、妙にやる気ですね」

「だって……」


 そう言って、アイリスがどこかを指差す。その先を辿れば、そこには悠と紗季がいた。


 もっと正確に言えば、悠から借りたであろう旗を、片手で綺麗に回す紗季の姿があった。


「羨ましいんですね」

「……それもあります」


 羨ましがっていると言うべきか、悔しがっていると言うべきか。どちらにせよ、アイリスの願いは変わらないが。


 それよりも、個人的にはアイリスの返答の言葉が気になった。まるでそれ以外の理由もあるような言い方で、アイリスにしては割と珍しい言葉だった。


「他にも何か?」

「そっちは内緒です」

「はぁ……?」


 本日二度目となるその言葉。そんなことを言われると中身が気になってしまうが、教える気がないからこそ、その言い方なのだろう。


 先程までは羨ましそうな、悔しそうな表情をしていたアイリスだったが、そう口にした瞬間は穏やかに笑みを浮かべていた辺り、悪い意味が隠されている訳ではないということだけは確かだった。




「何してるの?」


 そんなこんなで、残り十分程度の休憩時間でアイリスに旗の回し方を教えることになった直後のこと。しばらく別の友人のところにいた碧依が、不思議そうな雰囲気を隠すこともなく合流してきた。


「葵さんに旗の回し方を教えてもらおうかと思って」

「そういうことです」

「なるほど、また甘えてるんだ」

「何がどうなってそうなったんですか?」


 天敵の登場に、心なしかアイリスの言葉に棘があるように思えた。恐らく、呆れの感情が言葉に乗ってしまったのだろう。その表情も、「内緒」と口にしていた時とは違ってどこか険しい。


「だって、最近のアイリスさん、何をしても葵君に甘えてるようにしか見えないし」

「はい?」

「そんなわけで、葵君。そこ変わって?」

「らしいですよ? アイリスさん」

「甘え……、てはないですし、碧依先輩には絶対に甘えません」

「えー……?」


 残念そうな声を漏らす碧依だが、正直アイリスに話を振った時点でこの結果は目に見えていた。夏休み明けに自身で言っていた通り、好感度が全く稼げていないのだから、当たり前の話である。


「ほら、碧依先輩のことはいいんです。時間も少ないんですから、早くやりましょう」

「私のことはいい……」


 好感度の低さもここに極まれり、だった。アイリスが何気なく放った一言で意気消沈した碧依が、恨みがましい目を自分に向けてくる。


「……そのポジション、いつか奪ってあげるから」

「奪われちゃだめですからね、葵さん」

「どうしろと?」


 敵意を向けられる覚えもなければ、防衛意識を高めなければならない理由もよく分からない。この上なく意味のない板挟みになった人間の辛いところだった。


「葵さん、こっちです」


 ポジションの防衛に加勢するかのようなアイリスに手を引かれて、碧依との距離が開く。狙われている本人よりもずっと警戒心が強かった。


 そして碧依はといえば、開いたのと同じ分だけ距離を詰めてくる。碧依を抑えるものは何もないのだから、ある意味当然の行動である。


「何でこっちに来るんですか」

「何でも何も、アイリスさんが練習してるところは見たいし」

「面白いことなんて何にもないですもん」

「葵君に教えてもらうってことは、多分上手くできなかったんでしょ? 不器用なアイリスさんも可愛いから。見たい」

「……」


 二度も旗を落とした場面は見ていなかったはずだが、それでも的確に状況を把握している辺り、流石は聡明な碧依としか言いようがない。言い当てられたアイリスの方は、不満そうな顔で黙り込んでしまっている。


「見たいというか、見る」

「……そうですか」


 続いた力強い言葉。完全に使いどころを間違えているとしか思えない、やたらと真剣な表情もセットだった。その圧たるや、アイリスが諦めて引き下がる程である。アイリスが天敵相手に引き下がる姿など、あまり見ることができない姿だった。


「いいんですか?」

「もういいです。気にしないことにしました」


 つまり、空気同然に扱うという宣言だった。いよいよ好感度がどうこうという次元を超越してしまったのかもしれない。


「で、どうやってあんなにくるくる回してたんですか?」


 そして、本当に気にしないまま話を進め始めた。有言実行とはこのことだろう。


「結局は勢いです。勢いよく回して、手の甲を通す」


 そんなアイリスに倣い、自分も碧依を気にしないことにしてコツを伝えていく。


「手の甲……」

「旗から手を離した後、迎えにいくように手首を回すと掴みやすいです」

「手首を回す……?」


 最初に軽く説明してからにしようと思ったのだが、言葉での説明だけでは思いの外伝わりにくい。アイリスもイメージを掴めていないようで、自分が伝えたコツをただ繰り返し呟き、首を傾げるだけになってしまっている。


「ちょっと返してもらえますか?」

「あ、はい」


 このまま言葉で説明するよりも実際にやってみせた方が早いということで、一旦アイリスから旗を返してもらう。百聞は一見に如かず、だ。


 右手で受け取った旗を、そのままくるくると回す。それを追うアイリスの視線もくるくる回る。そんな様子が分かる程度には、手元を見ずに回せるようにはなっていた。


「そうやって回してたんですね」

「です。ちょっと持ってもらっていいですか?」

「はい?」


 そして旗は、感心したように呟くアイリスの手の中へ。あっという間の帰還だった。


「旗は僕が支えるので、とりあえず手を動かしてみましょうか」

「あ、そういうことですか」

「一回動きが分かってしまえば、あとは意外と簡単ですから」

「自転車の補助輪みたいですね。補助葵さん」

「補助輪がないと自転車に乗れないってことは放っておきますね」

「え? アイリスさん、それほんと? 可愛いね?」

「そんなわけがないじゃないですか! 葵さんもそれっぽく言うのはだめです!」


 アイリスが自転車に乗っているところなど見たことがないので、補助輪どうこうの真実を自分が知っているはずがない。そして、それは碧依も同じ。


 だが、想像力豊かな碧依の脳裏には、補助輪付きの自転車に乗るアイリスの映像が浮かんだらしい。即座に本人から否定が飛ぶ。


「アイリスさんが本当に自転車に乗れるのかは置いておいて」

「置いておかないでくださいよ。乗れますから」

「回しますよ?」

「聞いてます?」

「聞いてません」

「葵さんが言い出したのに!」


 そんな言葉と共に、旗を握るアイリスの手に力が入った。このままでは間違いなく失敗する。


「ほら、力を抜いてください」

「誰のせいで力が入ったと思って……」


 小さく文句を言いながらも力は抜く辺り、とても素直な教え子だった。


「じゃあ、まずは旗を前に回す」


 程よく力が抜けたタイミングを見計らって、いよいよ指導を開始する。自分の手には旗はないものの、アイリスを先導するようにして軽く手首を回してみせる。


「前……」


 その言葉通りにアイリスの手が動く。手の動きに追随する旗をそっと押さえて、回転する速さを調整する。


「この辺りで手を離す。支えてますから」

「離す……」


 半回転程したところでアイリスが手を離し、旗が完全に自由になる。このまま放っておけば、旗は重力に従って地面へ向かうだけ。先程のアイリスを再現することとなる。


「で、手首を今までとは反対方向に回す」

「反対に……?」


 そうならないように、次の動作を告げる。地面へ向かう旗を迎えにいく、一番大事な工程。だが、やはり言葉だけでは伝わらない。アイリスが捻ったのは手首ではなく首だった。


「ちょっと失礼しますね?」

「あ……」


 そんな訳で、最終手段である。直接アイリスの手を取って、動きを教え込む。結局これが一番手っ取り早くて、一番分かりやすい。


 再度、最初から一緒に手を動かしていく。


「こう回して、ここで手を離す」

「は、離す……」

「で、手首はそこから逆回転」

「……」


 アイリスの手を回しながら、旗は手の甲を通して一回転させる。ここまでくれば、あとは旗を手に収めるだけ。


「で、最後にこう掴んでおしまいです。何となく分かりました?」

「……もう一回だけ、お願いします……」


 一回では完全に伝わりきらなかったのか、やや不安そうな声色でアイリスが言う。そんなことを思う必要などないのに、申し訳なさそうに頬を染め、少しだけ俯いていた。


「じゃあ、また最初からやりますか」

「はいっ……」


 実際に本番で演技をする訳でもないのに、随分と真面目な心構えである。こういった教え子を持つと教える方も楽しくなってしまうのか、自分も何となく熱が入ってしまいそうだった。


「何をやってるんでしょうね、あれ」

「多分、湊君は何にも考えてないと思うよ」

「何かを教えるって時は真面目だもんね、葵君」

「はい?」

「何でもないよー?」


 いつの間にか、そんな自分達を眺める人数は三人に増えていたらしい。ふとした瞬間に感じた視線に顔を上げると、何やら楽しそうにこちらを見ている悠達と目が合った。どうやら、自分のことについて何かを話していたようである。


「アイリスの方は邪念がありそうですけど」

「何にも気付いてないね、湊君」

「葵君らしさ全開だ」


 そうして自分に気付かれてしまったからなのか、その後の会話は幾分か小声で繰り広げられる。視線の向きが自分から若干逸れながらの三人の会話は、辺りの喧噪に紛れてしまい、はっきりと聞き取ることはできなかった。

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