50. 感情の行方 (2)
翌日、九月六日、水曜日。昨日と同じく、放課後は体育祭の練習時間となっている。場所は体育館の一階部分。窓はあるものの、採光という機能はあまり果たしておらず、夏に限って言えば、他の場所よりも一段と涼しくて過ごしやすい場所ではあった。ただし、若干の薄暗さはある。
休憩時間になってからやって来たアイリス、碧依、紗季の三人も含めて、日の当たらない場所に腰を下ろす。辺りを見回せば、同じように日陰に人が集まっている。床に落ちた日差しが、まるで飛び石のように感じられた。
「湊君はどこで練習させられてるの?」
「羽崎君。言い方、気を付けた方がいいよ?」
女子三人が今教わったばかりの振付について話している中、隣に座った悠がぽつりと呟く。隠していた感情が滲み出したのか、悠にしては若干棘のある口調だった。
そして、即座に碧依に咎められている。指導役を怒らせても何もいいことなどなく、それどころか何らかの事態が悪化する可能性すらあった。
「ごめんね、思わず」
つまり、悠が間髪を容れず謝ったのは当然のことである。
「今はいいけど、練習の時に嫌々やってるみたいな雰囲気を感じたら……」
「感じたら……?」
「二人をもっと目立つ場所に変えてもらえるように、白野先輩にお願いしてあげる」
「真面目にやります」
「何で僕まで」
どこからどう見ても自分は関係ないのに、何故か巻き込まれてしまった。並びの変更は悠だけでお願いしたいものだ。
「葵さんは私の隣でいいんです。変えるのは羽崎先輩だけにしてください」
そこに込められた理由の違いはあれど、珍しくこの手の話でアイリスと意見が一致した。叶うのならば、この調子で女子グループから外れることも認めてもらいたいが、残念ながらそれは叶わない願いなのだった。
「可愛いなぁ、アイリス」
「何が?」
「秘密」
そんなアイリスの様子に、紗季が何事かを小さく呟く。何を考えているのかなど当然分かるはずもなく、その答えを知るのは紗季本人だけ。一応は楽しそうな様子でアイリスのことを見つめているので、悪い感情を持っている訳ではないのだろう。
「それで? さっきの話に戻るけど、湊君はどこで練習させ……、してるの?」
「アイリスさんの家の庭です」
「……うん?」
忠告されたのに、またしても何かの感情が滲み出しそうになっていた悠に向けて、昨日の練習場所を白状する。
だが、上手く聞き取れなかったのか、それとも単に理解できなかったのか。再度の質問への答えは、悠の頭の中を素通りしてしまったらしい。
「アイリスさんの家の庭です」
「あ、いや、聞こえなかったとかじゃなくてね?」
どうやら理解できなかったというのが正解のようだった。
「そうなの? アイリス?」
「そうだよ? 何かあった?」
自分の答えを意外に思ったのは悠だけではないようで、紗季もまた、アイリスへと確認の言葉を投げかけている。対するアイリスは、何かを疑問に思うこともなく、ただ淡々と事実を告げていた。
悠と紗季の思いが、そこで偶然一致する。
「え? 一つ下の後輩の家の庭で、その後輩から女の子用の振付を教わってるの?」
「え? 一つ上の先輩に、自分の家の庭で女子用の振付を教えてるの?」
対して、こちら側の回答もほぼ一致。
「どうしてわざわざ言葉にしたんですか?」
「どうしてわざわざそんな言い方をしたの?」
「皆仲良いね」
一人だけ除け者のような立ち位置となった碧依の言葉が、虚空にふわりと消えていった。
「どんな状況?」
悠が発したその一言だけで混乱具合を察せられるのだから、いかにシチュエーションとしておかしいのかがよく分かる。悠の隣では、紗季も同調するように頷いていた。
「どんなも何も、今言った通りですけど……」
恐らく、悠は何か追加の情報があると思ったのだろうが、そこに秘められた意味など存在しない。先程自分が言葉にした分が全てである。
「ちなみに、昨日はそのまま一緒にお夕飯も食べて、一緒に宿題をやってから葵さんは帰宅です」
「葵君」
「何ですか」
「家には寝に帰っただけ?」
「……そうなりますね」
「仲良いね?」
「まぁ……」
今の言葉を聞けば、誰だって碧依のような感想になるだろう。自分だってそうなる。
「あ、そっか。アイリス、言ってたもんね」
「何を?」
「アイリスのお父さんとお母さんの話」
「あぁ……。うん、二人が葵さんを引き留めてた」
「言い出したのはアイリスさん、賛同したのがアーロンさんとレティシアさん」
「らしいけど?」
「……私も、ちょっとは関わってるかも」
頑なに認めようとしないが、きっかけを作ったのがアイリスである時点で、原因の大半を占めるのはアイリスだ。そこに関しては疑いようがなかった。
「そっか……。確かに、そういうところなら、他の人からは見られないよね」
「一番見られちゃいけない人達に見られましたけどね」
言うまでもなく、アーロンとレティシアである。何なら、アーロンはそのために早めに帰宅してきた程である。そして、練習期間はなるべく早く帰ってくると、そんな宣言までされてしまった。反応に困ったのは言うまでもない。
「お母さんにからかわれて恥ずかしがってる葵さん、とっても可愛かったです」
「写真か何かないの? アイリスさん。写真」
「ありますけど見せません」
「何勝手に撮ってるんですか」
碧依との会話を聞いて、今初めて知った事実。あの時はレティシアへの対処で手一杯で、確かにアイリスへの警戒が薄れていたことは認める。だが、可能性としては考えなかった訳ではないが、まさか本当に撮影していたとは思っていなかった。
「えー? 何で?」
「何回でも言います。可愛い葵さんは私のです」
「ちょっとくらいなら……」
「だめです」
理由としてはとても複雑だが、結果的には写真がお披露目されることなく終わりそうだった。素直に喜ぶことはできないうえに、そもそも写真を撮られていなければこんなことにはなっていないことを考えると、感情の行き着く先が迷子になりそうである。
「珍しいタイプの独占欲だね?」
「それを向けられる側の気持ち、分かります?」
「僕は向けられることはないし、知らなくてもいいかな」
「いつか向けてくれる人が現れますよ」
「何で慰められてるみたいになってるの?」
そんなふらついた感情のまま、悠へそう返す。自分でもよく分からないことを言っている自覚はあるが、それを受けた悠の心情はどんなものだったのだろうか。推し量ることはできないが、悠の顔に浮かんだ穏やかな表情を見る限り、悪いようには取られていないようだった。
休憩時間が終わり、再び旗を手にする。慣れない、慣れたくはない振付が今日も待っていようとも、全体での練習は真面目にこなす必要がある。何故か二つ分のパートを担当することになった以上、これまでよりも集中して旗の振付を覚えなければならなくなっていた。
「頭がこんがらがりそう……」
「僕も去年はそうでした」
全体から見れば半分程度と、教えてくれる三年生がそう言っていた段階で、早くも悠が混乱で目を回していた。
「慣れる?」
「一回最後まで振付を教わって、後はひたすら繰り返しですから。いつか必ず覚えられますよ」
「そうは言うけど、そもそも湊君、こういうのを覚えるの得意でしょ?」
「覚えたところで、それをこなせるだけの能力があるかは別ですけどね」
自慢ではないが、運動はそこまで得意でもない。インプットはできても、アウトプットがだめならどうしようもないのだ。
「でも、割と普通にできてるよね?」
「やっぱり、一回やったことがあるのは大きかったです。今年からだったら、間違いなく羽崎君と同じになってましたよ」
「そうかなぁ……? 意外とあっさりできちゃいそうな気もするけど……」
「僕のことを買い被り過ぎですよ」
悪戦苦闘する悠に、今度こそ慰める言葉をかける。慣れないうちは、他人が上手く見えてしまう。ただそれだけのことだ。
「あと、意外と扱いが難しい」
「何がですか?」
「ちゃんと気を付けないと、布が柄に巻き付いちゃう」
「あぁ、それは確かに」
そう言いながら眺める先で、悠がわざと布を柄に巻き付ける。綺麗な赤い布が揺れていた旗が、柄の半分程に布が巻き付いただけの、見るからにみすぼらしい何かに変わってしまった。
「こうなっちゃうと、回す時大変だよね」
「すぐどこかに飛んでいきますからね」
「見た目も微妙過ぎるし……」
「ま、その辺も慣れです」
「全部慣れかぁ……」
上達への近道などないことを悟った悠が、布を解いて旗全体を軽く振る。動きに合わせて揺れる布地が、床に不規則な影を落とした。
そんな様子を一度だけ眺めてから、視線を別の方向へと向ける。特段意識した訳でもなく、何となくそちらを向いてしまったような、そんな感覚である。
「やっぱり気になるんだ?」
「はい?」
視線の動きを追いかけられたのか、今眺めていた先を悠に見破られたらしい。旗の動きを止め、じっとこちらを見つめていた。
「今もそうだったけど、結構ちらちら見てるよね」
「そんなにでした?」
「そんなに、だったよ。気になるんだよね、フリーゼさんのこと」
「気にならないと言えば、それは嘘ですけど……」
悠が指摘する通り、何となく目で追いかけているのはアイリスの姿だった。より正確に言うならば、碧依と紗季を含めた三人組の姿だが。
自分達から少し離れた場所で練習している三人。中でも、運がいいのか悪いのか、アイリスが立っている位置に、外からの光がちょうど差し込んでいた。それはあたかも天然のスポットライトのようで、アイリスの長い髪を綺麗に照らし出している。
アイリスの他にも、同じように光の飛び石の中を割り当てられた人が何人かいるようで、そこだけが明らかに周囲から浮いたような空間となってしまっていた。
「お兄ちゃんとして、かな?」
「羽崎君は『お兄ちゃん』呼びなんですね。可愛くていいんじゃないですか?」
「あっ……」
「でも、確か一人っ子でしたよね。憧れでもあるんですか?」
「それは……」
そこで悠が言葉に詰まる。思いもしない攻撃を受けて、思考が完全に止まってしまっている様子だった。若干頬を染めて照れている姿が妙に女の子っぽくて、何故か複雑な気分になってしまう。
きっと、アイリスや碧依、莉花の気持ちが少し分かってしまったからだろう。許されるのであれば、知らなくてよかった感情である。
「僕は別に気にしませんけど、碧依さんとか渡井さんの前でそんなことを言ったら、多分大変なことになりますよ」
「気を付けます……」
もしそうなった場合、大喜びで「お姉ちゃん」と呼ばせようとするに違いない。そんな光景が簡単に想像できてしまった。もしくは、もう既にどこかであったか、だ。
「ぼ、僕のことはいいんだよ。それより、今は湊君でしょ?」
「向こうのことですか?」
もう一度、アイリス達に視線を送る。先輩に教わっている最中によそ見をするはずもなく、そうなれば当然目が合うこともない。
新たに教わっているであろう振付を、全身を躍動させるようにして真似するアイリスと紗季。碧依はといえば、二人よりは動きが小さいものの、一つ一つの動きを確認するように、丁寧に体を動かしていた。
「そ。お兄さんとして?」
「僕の前でわざわざ言い直さなくても」
「今から気を付けておかないと、いつかうっかり出ちゃいそうだから」
気を引き締めるのが早過ぎるような気がしないでもないが、悠がそれでいいのなら、特に何も言うことはない。
「まぁ、兄妹がどうこうっていうのは、最近はあんまり気にしなくなりましたね」
「そう? 見た感じ、そんなにやり取りは変わってないなって思うよ?」
「周りからどう思われていようが、結局は僕達次第ですから」
「そう思えるのは心が強いよね」
「あんまり自覚はないです」
羨ましがるように言う悠だったが、ある意味ではこれも寂しいことなのだろう。周囲の大勢に対して興味を抱ける程、自分の興味の範囲が広くないのも大きな要因の一つかもしれないが。
「何にせよ、最近は仲が良い後輩として、ですね」
「ご家族とも仲が良いみたいだしね?」
「あれを『仲が良い』と言っていいのかどうか……」
「うん?」
その実情を知らない悠なので、その表現も仕方がないと言えば仕方がない。仕方ないが、何か引っかかるものがあるのも事実だった。
「とりあえず、それはいいです。それより、今はもっと考えないといけないことがあります」
これ以上は自分の気持ちがもやもやするだけなので、さっと思考を切り替える。切り替えた先も気持ちがもやもやするような気がしたが、どうせいつかは考えなければならないことなので、一旦感情は無視することにする。
「もっと考えないといけないこと……?」
一方、悠はすぐには思い至らないようで、少し考え込むように視線を上に向ける。しばらくそのまま固まっていたが、ついぞ答えがその口から出てくることはなかった。
あるいは、現実を直視したくないだけなのかもしれない。
「あれを踊るのか……って」
「あー……」
二人して黙り込む。その視線の先で、振付の指導は続いていく。男が踊るのは流石に厳しいと言わざるを得ない、とても可愛らしい動き。昨日アイリスに教えてもらった部分も大概だったが、今見ている部分もそれに引けを取らない。
「頑張ろうね……、湊君……」
「しばらく夏風邪にかかる予定とか……」
「多分逃がしてもらえないよ」
「ですよね」
とっくに諦めたはずなのに、こうして話していると、途端に逃げ出したくなる。それでも、今日も練習の時間は訪れる。アイリスと帰る先がほぼ同じである以上、逃げることなどできる訳もなかった。
「借り物競走じゃないんですね」
今日の全体練習が終わり、帰宅のためにアイリスと碧依と共に電車に揺られる。初めての体育祭となるアイリスからそんな疑問が湧いたのは、行われる競技の話をしている時だった。
「あ、それ私も思ってた」
アイリスと反対側からも、同じ疑問が出てくる。二年生であっても、今年の春に転校してきた碧依も、当然今回が初めての参加だった。
「借り人競走なんだね」
「変わってますよね」
碧依が口にした通り、我が校で行われる競技は、何故か「借り物競走」ではなく「借り人競走」だった。初めて聞けば、誰もがアイリスや碧依と同じ感想を抱くに違いない。
「あくまで噂なので、そう思って聞いてくださいね?」
「何か知ってるの?」
「昔は借り物だったらしいんです」
「あれ? そうなの?」
「えぇ。ただ、借りた物を壊してしまったことがあったらしくて」
「あ、それで……」
あくまでもそう言われているというだけの話だ。本当のことかどうかは、ある程度年配の教師しか知らないだろう。
ただ、こういった場で必要なのは真実ではなくて納得。それらしい理由が聞けたのなら、おおよその人はそれで満足する。アイリスと碧依もその例に漏れず、興味はその中身へと移ろっていった。
「私、まさに借り人競走に出るんですけど、どういうことをするんですか?」
「毎年構成は同じらしいです」
「同じ」
アイリスが借り人競走に興味を抱いたのは、どうやら自身が出場するからという理由らしかった。体育祭の予習に余念がないアイリスに向けて、教師役を務めることになった自分が解説のために口を開く。
「スタートして、まずはお題の紙を一枚選ぶ。そこから簡単な障害物があって、またお題を一枚選ぶ。これをもう一回繰り返します」
「お題が三枚ってことですか?」
「です。で、その三枚を組み合わせたお題に合った人と一緒にゴールしておしまいです」
「へぇ……。結構面白そうですね」
その様子を想像したのか、アイリスがやや俯いて、口の下辺りに人差し指を当てながらそう呟く。一体どんな光景を想像しているのかはアイリス本人にしか分からないが、そんなアイリスに向けて自分から言えることは一つだけ。
そこまで平和に終わる競技ではないということだけだった。
「本当にそう思いますか?」
「え?」
いきなりそんなことを言われるとは思っていなかったのか、アイリスが小さく動揺の声を漏らす。事前に不安になるようなことを言うのもどうかとも思ったが、こればかりは伝えておかなければならなかった。
「僕、去年やったんですよ」
「あ、それでそんなに詳しかったんだ」
自身は出場しないということで黙って話を聞いていた碧依から、再びの納得の声。それに軽く頷きを返してから、再びアイリスへと向き直る。
「何かあったんですか?」
「お題が一枚の紙で完結してるなら、何も問題はないんです」
「はぁ……?」
「でも、三枚に分かれてると、組み合わせ次第でとんでもないお題になるんですよね」
「あ……」
そこまで話して、アイリスもようやく気付いたようだった。
この競技、一枚目、二枚目、三枚目のお題は、各段階で似たようなものになっている。もちろん例外はあるが、一枚目は年齢層の指定が多く、三枚目は性別や社会的な属性を指定するものが多い、といった形だ。
けれども、三枚を組み合わせるという点は一切考慮されていない。結果、泣きたくなるような難易度のお題に振り回されることが多々あるのだ。それがこの競技の「見ている側の」楽しみとも言えるが。
「葵さんはどんなお題だったかって、覚えてたりします……?」
理解してしまえば、「面白そう」の一言では済まされない。戦々恐々といった様子で確認してくるアイリスには悪いが、ここでさらに不安の種を撒く。
「しっかり覚えてますよ」
「どんな……?」
「『十五歳から十八歳で』」
「高校生ってことですね。たくさんいるじゃないですか」
一体どんな条件が飛び出してくるのかと身構えていたところに、比較的簡単な年齢の指定。油断したアイリスの警戒が薄れていくのがよく分かる。
「『口紅をしている』」
「ちょっと少ないかもしれないですけど、でも何人もいますよね?」
「『男性』」
「いないじゃないですか」
一気に該当人数がゼロになったあの時の絶望は、なかなか体験できるものではない。世界中を探せばどこかにはいるのかもしれないが、少なくとも、去年のあの場にはいなかった。
あんまりと言えばあんまりな具体例を突き付けられ、アイリスの警戒心が再び引き上げられる。
「え? どうしたんですか?」
「無理だってなったお題は捨てて、もう一回最初から選ぶことができます」
「あ、やり直せるんですね」
「もちろん障害物も」
「わぁ……」
果たして、それはどんな感情から出てきた声だったのだろうか。あるいは、何の感情も込められていない可能性もあるにはあった。
「ちなみに、やり直したお題は何だったの?」
見ている側として興味が出てきてしまったのか、続けて碧依がそんなことを尋ねてくる。もう一年も前の出来事なのに、それでもこうして問われると一瞬で思い出せるのだから、どれだけ深く記憶に刻まれているのかがよく分かるというものだ。
「『五十歳から五十九歳』」
「保護者か先生なら……?」
またもアイリスが想像を始める。
「『関西出身の』」
「どうやって証明するんでしょうね?」
「『江戸っ子』」
「だからいませんって」
こちらのお題に関しては、日本中を探しても絶対に見つかりはしない。
「そもそも、何で『江戸っ子』なんてお題が入ってるんですか。成立させる気がないじゃないですか」
「それがこの競技の見どころですからね。どれだけ早くクリアできる組み合わせを引き当てるか、そこに全ての関心が集まります」
「特殊過ぎるぅ……!」
とんでもない競技を選んでしまったとでも言いたそうな表情を浮かべるアイリス。確かにとんでもない競技なのは間違いないが、体育祭の目玉競技の一つなのも事実だ。「見ている側」は随分と盛り上がる。
「あっ……。借り人競走のエントリー上限が少なかったのって……!?」
「察しがいいですね。一組に時間がかかるので、その分上限が少ないんですよ」
「そんなにですか!?」
知りたくなかったであろう裏事情を知ってしまい、アイリスが顔全体を驚愕一色で染め上げる。体育祭本番はまだ少し先なのに、随分といいリアクションを見せてくれるものだ。
「まぁ、一組ごとの制限時間はあるので、いつまでも彷徨い続ける亡者になることはないです。そこは安心してください」
「なんにも安心できないですっ」
「エントリーしなくてよかったぁ……!」
自分を挟んで座る、エントリーしてしまった者と、エントリーしなかった者。たった数十センチの間で、反応が綺麗に正反対だった。
「なんで止めてくれなかったんですかぁ……!」
話を聞いただけで半泣きのアイリスが、腕を掴んで揺さぶりながら抗議の視線を送ってくる。
「その場にいないのに、どうやって止めるんですか」
「選んじゃいけない競技があるって、前もって教えてくれたら助かったのに……!」
「どうせ今年は選ばないからと思って、綺麗に忘れてました」
「大事な後輩に危険が迫ってたのに!」
「別に危険じゃないですって」
しばらく校庭を彷徨い続けることになるだけだ。ほとんどの生徒がいい意味で笑ってくれて、そのうえ応援までしてくれるのだから、悪い雰囲気にはなりようがない。
けれども、その雰囲気を体験したことのないアイリスに、それが伝わる訳もなく。
「こうなったら、何が何でも葵さんを舞台に引きずり出すお題を完成させてあげます……!」
「巻き込まないでくださいよ」
そう言いながら苦笑いを浮かべてみるものの、あの競技で特定の人物を引っ張り出すのは、ほぼ不可能と言ってもいい。お題の組み合わせがランダムである以上、参加者の意思が入り込む余地がない。そう考えると、今のアイリスの脅し文句も、大して気にしなくていいものなのかもしれなかった。
「アイリスさん」
「なんですかっ」
エントリーしなかった者の余裕を醸し出しながら、碧依がアイリスに声をかける。
「頑張ってね。楽しみにしてるから」
「むぁー!」
アイリスの唸り声が響く。田舎を走る電車で、車内に人気が少なくて本当によかったと、心からそう感じるのだった。
「結局、去年の葵さんはどんなお題でクリアしたんですか?」
「『三十歳から三十九歳で、眼鏡をかけた女性』でした」
「思ったよりまともなお題ですね」
「誰もクリアできないと、それはそれで面白くないですからね」
「それでそんなお題も入ってる、と……」
「結局他との組み合わせなので、それでも難易度が跳ね上がるかもしれないですけど」
「いやだぁ……」
碧依が一足先に電車を降りていき、その後乗っている車両の中にアイリスと自分以外がいなくなってしまっても、話題は借り人競走のまま。果たして本当にクリアできるのかどうか不安になったらしいアイリスの聞き取り調査が続く。
結果、早くも不安に駆られるアイリスが誕生した。気が早いことこの上ない。
「はぁ……。どうにかして葵さんを引っ張り出したいですけど、やっぱり難しいんですかね……」
「でしょうね」
思ったより冷静だったらしいアイリスから、そんな言葉が漏れる。自らが望んだことの難易度を、しっかりと把握しているようだった。
「例えば……、『十五歳から十八歳』で……」
「高校生ですからね」
少しだけ弱気になったアイリスが、具体的にお題を想像し始める。達成できないお題からはなるべく意識を逸らしたいのか、眼差しがいつもよりも真剣なものに見えた。
「『とびっきり可愛い』」
「ん?」
「『男性』」
「羽崎君ですかね」
「どこに隠れていても、絶対に葵さんの方を見つけ出して連れていきます」
宣言が妙に怖かった。自信たっぷりにそう言いきるアイリスの様子を見ていると、本当に見つけ出されそうな気がしてならない。そこまでになると、それは最早恐怖体験の類である。
「あとは、そうですね……。『高校生』で」
「まだ続けるんですか?」
「『獣耳が似合う』」
聞く耳を持たない。不安をできるだけ打ち消そうとしていると考えると、あまり強く止められないのが痛かった。
「『男の子』」
「羽崎君ですかね」
「羽崎先輩も似合うでしょうけど、絶対に葵さんを引っ張り出します」
決意がやたらと固いアイリスだった。こんなところで決意の固さなど発揮しなくてもいいのに、一体何がアイリスをそこまで駆り立てるのだろうか。
「もういっそ、葵さんが当てはまるまで制限時間いっぱい引き直し続けることにしましょうか」
「そこまでいくと、それはもう執念ですよね。やめてください」
駆り立てられ過ぎである。
「……ちなみに聞きたいんですけど」
「はい?」
そこで、急激に流れが変わったような気配がした。流れだけではなく、アイリスが纏う雰囲気も。
「葵さんは、どんなお題だったら私を連れていってくれますか?」
「アイリスさんを?」
どんな感情で、アイリスがその言葉を口にしたのかは分からない。けれども、何かを期待していそうな表情を見る限り、負の感情ではないことだけは確かだった。
「そうですね……」
自分は借り人競走に出ないということで何も考えていなかったが、こう問われると考えざるを得ない。何となく瑠璃色の瞳を見つめながら、一言分の時間だけ頭を回して答えを導き出す。
「……」
「『小さい外国人』」
「お題は三つって言ったの、葵さんですからね?」
どうもお気に召さなかったらしい。アイリスの顔から期待が消えた。
「小さいのは否定しないんですね」
「そんなにちっちゃくないですもん」
「ある程度は認めるようになったんですか」
意外な言葉に、思わずそう漏らす。今までなら問答無用で全否定だったはずだ。どういった心境の変化なのだろうか。
「小さいのは小さいので、いいところもありますもん」
「例えば?」
「それは内緒です」
自身の身長に何かのメリットを見出したらしいが、残念ながら教えてはくれないようだった。目を閉じてそっぽを向いている辺り、今聞き出すのは難しいのかもしれない。
「まぁ、それならいいですけど」
「それよりもお題ですよ。三つですからね?」
「三つ、ですか……」
お気に召さない回答はなかったことにしたのか、再度アイリスが尋ねてくる。だが、正直に言ってしまえば、アイリスを形作る特徴が多過ぎて、その中からどれを選ぶか迷うという、ある意味とても贅沢な悩みに直面していたのだった。
それでも、少しだけ考えてから口を開く。
「『この高校の生徒』で」
「まずは範囲の指定ですよね。大事です」
「『学年が一つ下』の『異性』、ですかね……?」
「……へぇー、そうですか」
再度の回答も、明らかにお気に召していなかった。いかにも面白くなさそうな表情が、その顔に浮かんでいる。
「何かだめでした?」
「だって、それなら紗季とか純奈でもいいですよね。他にもたくさんいますし」
「まぁ、それはそうですけど。でも、僕の中ではアイリスさんですよ?」
「……それでも、ちょっと複雑です」
視線を逸らしたアイリスが、さらにその先を求めるように小さく呟く。車内に響く走行音に紛れて消えてしまいそうな、そんな声。
そんな言葉を聞いて、そのまま放っておける訳がなかった。要は、アイリス一人が該当するような、そんな回答を望んでいるのだろう。
「じゃあ……、『高校生』で」
「……」
どこか期待するような、でもそれを抑えているような、そんな視線が向けられる。
「『一番仲が良くて』」
「……っ」
「『一番気軽に話せる相手』、で」
「そ、そんなお題があるかは分からないじゃないですか……」
「分かりませんけど、こんなお題ならアイリスさんしかいないかなと」
「……じゃあ、それで許してあげます」
またもやそっぽを向きながらのお許し。ただ、今回は不満があっての行動ではないことだけは確かだった。嬉しそうに少しだけ緩んだ頬が、何よりの証拠である。本人的には隠せていると思っているのだろうが、横から見れば一目瞭然だった。
そんな様子を見て、もう一つだけ回答を思い付く。
「『この高校の生徒』で」
「はい?」
終わったと思っていた話題がいきなり再開されて、アイリスの首がそっと傾く。これまで様々な感情を宿して自分を見つめてきた瞳が、今は不思議一色に染まっている。
「『瞳の色と髪の色が綺麗』で」
「あぇ!?」
その瞳をわざと覗き込むようにして告げる。他の誰でもない、アイリス本人にしっかり伝わるように。
「『可愛い人』で」
「うぁ……!?」
「『ちょっとだけ背が低い』」
「三つって言ってるじゃないですかぁ……!」
完全に何かを意識した様子で、そんな一言を絞り出す。だが、それはあくまで「借り人競争」のお題の話であって、アイリスに対する印象には上限などない。
そんな訳で、継続を選択する。
「『からかわれた時の反応も可愛い』」
「そんな風に思ってたんですか……!?」
「『大事な』」
「っ!」
アイリスの肩が跳ねる。何よりも綺麗な瑠璃色の瞳には、恥ずかしさからなのか、うっすらと涙が溜まっていた。さらに、頬が真っ赤に染まっているのは、差し込む夕日のせいでもなければ、屋台の提灯のせいでもないだろう。
そんな様子から、言いたいことが十分に伝わったと判断して、最後の条件を告げる。
「『同級生』」
「なんでですか!」
アイリスが爆発した。
「羽崎先輩じゃないですか! それ!」
「ですね」
「なんでそれをこんなに見つめながら言ってきたんですか!」
「面白いかなって」
「もぉー!」
最近お得意の、腕を掴んで揺さぶる仕草。それがまたもや炸裂した。
「期待して損しましたっ」
「期待したんですね」
「しましたよ! 何か悪いですか!?」
揺さぶりがさらに大きくなる。その振幅が、そのままアイリスの興奮具合と比例していた。声も随分と大きくなり、自分達以外に同じ車両に乗っている人がいなくて本当によかったと、またしてもそんなことを思う。
「ちなみに」
「なんですか!?」
電車に揺られながら、アイリスにも揺られる。二つの揺れを受けながら、本当に最後の言葉を付け加える。
「『同級生』って条件がなければ、迷いなくアイリスさんです」
「ひぁ……!?」
謎の声と共に、揺れが一つ収まった。やはり不意打ちに滅法弱いアイリスだった。潤んだ瞳を揺らしながら、そっと自分を見上げてくる。
「こんな感じは不満ですか?」
「い、いえ……。大満足、です……。はい……」
一気に満身創痍といった状態にまで陥ったアイリスが、どうにかといった様子で一言だけ呟く。混乱のあまり、思ったことをそのまま口にしていそうな一言だった。
「期待に応えられてよかったです」
「うぅ……!」
最早呻き声を上げることしかできなくなったアイリス。俯いてしまったその頭の天辺を、窓から差し込む夕日が鮮やかに照らしていた。体育館の時とは違って、オレンジ色が強めのスポットライトである。髪の色と混ざり合い、何となくマリーゴールドに見えなくもない。
「……」
自分でこの状態まで追い込んでおいて何だが、この後の嬉しくない練習までに復活してくれるのか。それだけがやや気がかりだった。




