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5. ラピスラズリの煌めき (2)

 バックヤードからカウンターに場所を移して、軽く説明する。


「カウンターの内側でするのは、基本的にレジの対応と商品の陳列、梱包ですね。陳列と梱包で注意することは後々伝えるとして、まずはレジの対応からやりましょうか」


 最初からあれこれ伝えても、一度に全てを覚えられるはずがない。ということで、ゆっくり一つ一つ教えていくことにした。まずは、一番携わる機会が多いであろう、会計のやり方を選択する。


「レジ……。分かりました……!」


 若干不安そうなことには変わりないが、それでもやる気に満ち溢れている表情を見ていると、何となく微笑ましい気持ちになる。アイリスが小柄なことも相まって、まるで妹に接しているような感覚である。


「とりあえず、まずは僕が対応するので、その様子を見ていて下さい。その後で、空いてきた時に実際に操作してみましょうか。色々触らないと分からないことも多いでしょうし」


 そう話しつつレジの傍に立つと、早速顔なじみの客がやって来た。近くの中学校に通っている女子生徒だ。


「葵さーん。これ、お願いしまーす」

「はい、少しだけ待っていて下さいね」

「はーい。……ねぇ葵さん。そっちの人って、もしかして?」


 いつも通り軽く会話を交わしながら、個包装された焼き菓子の会計を進めていく。


 そんな中、女子生徒の視線はアイリスの方を向いていた。そうなるのが当たり前なのだが、これまで見たことがない人物に興味津々といった様子である。


「今日から新しくアルバイトとして入ったフリーゼさんです。これからよろしくお願いしますね」

「アイリス・フリーゼです。よろしくお願いします」


 そう言って、アイリスが軽く頭を下げる。その顔には軽く笑みが浮かんでいて、先程までの緊張の色は見当たらない。どうやら、本番前に緊張して、始まってしまえば落ち着いてしまうタイプらしい。


「……こんなの卑怯じゃない? 葵さん」

「何がですか? ……四百三十円です」

「可愛いが過ぎる。こんなのずるい。……はい、これで」

「何がずるいのか知りませんけど、その辺りはノーコメントでお願いします。……四百三十円ちょうどですね。ありがとうございました」


 引き続き会話をしながら、あっさりと会計を終える。他の店のことは詳しく知らないが、この店ではよくある光景だ。店員に話しかけやすい雰囲気も、太一と柚子が目指す理想の店の大事な要素だそうだ。


 だからと言って、今の話題を歓迎できるかといえばそうでもない。今後関わりが増えることが決まっている相手の印象の話など、気まずくなる未来しか見えない。その場に本人がいるとなれば尚更。


「あの……」


 そんなことを考えていると、そのアイリスから声がかかった。


「はい?」

「私のことなら、『アイリス』で大丈夫ですよ?」

「え、でも、いきなり名前で呼ぶのも……」

「でも、皆さん名前で呼び合ってますし、私だけ名字だと、仲間外れみたいな気がして……」


 そう言いながら、そっと目を逸らすアイリス。頬がうっすらと赤くなっているのは、自ら名前呼びを提案するのが恥ずかしかったからだろうか。


「それは……」


 先程「卑怯」と評された可愛さが倍増していることに衝撃を受けつつも、それを悟られないようにしながら考える。


 特に意識していなかったが、自分、太一、柚子の三人は、お互いを名前で呼び合っている。太一と柚子は最初からそうで、同じく自分が二人を呼ぶ時も最初からそうだった。そもそも二人は夫婦なのだから、名字で呼んでいては区別ができない。


 そんな中で自身だけが名字で呼ばれるのは、確かに人によっては気になるのだろう。そう言われてしまうと、ここで名前呼びを渋るのも不自然である。


 出会ってからほとんど時間が経っていない相手を名前で呼ぶことに、気恥ずかしさを感じない訳ではない。そういったことからは縁遠い人生を送ってきたので、どちらかと言えば気恥ずかしさの方が強いくらいだ。


 それでも、いずれはこうなっていたはずなので、呼び方を変えるきっかけが、想像よりも早くに訪れたと思うことにする。


「アイリスさん、でいいですか?」

「はい! ありがとうございます、葵さん!」


 花が咲いたような笑顔と共に、やや不意打ち気味に名前で呼ばれる。顔が少し熱く感じるのは、「葵」と呼ばれることに慣れていないからだろうか。それとも、自覚すらしていない、何か別の理由があるのだろうか。


 何にせよ、理由がはっきりしない落ち着かなさを感じて、無意識に目を逸らしてしまった。


「どうかしましたか?」

「あ、いや、何でもないです」

「はい?」


 そんな自分を見てアイリスが不思議そうに尋ねてくるも、咄嗟に誤魔化しの言葉を口にして煙に巻く。首を傾げている辺り、少し疑問には思われたようだが、幸いそれ以上言葉が続くことはなかった。




 カウンターでの対応の合間を縫って、カフェスペースの対応の練習も進めていく。


「カフェスペースの方は何となくイメージしやすいと思いますけど、注文を受ける、届ける、会計をする、片付ける、の流れが基本ですね。むしろ、それ以外はほぼないと思ってもらって大丈夫です」

「注文を受ける、届ける、会計をする、片付ける……」


 自分が教えた流れを確認するように、アイリスが指を一本一本折り曲げながら言葉を繰り返す。


「その辺りは、よくあるレストランと同じ流れですね」

「あ、そう聞くとイメージしやすいです」

「こっちも一度僕が対応するので、その様子を見てから本番にしましょう」

「はい!」


 平日である今日は、休日と比べてカフェスペースの利用客は少ない。時刻が既に午後六時半を回って夕飯時に差し掛かっていることもあって、今はさらに輪をかけて少なかった。接客に慣れるには、このくらいがちょうどいい環境だろう。


「すいませーん」


 そんな会話をしてから少しだけ時間が経った辺りで、カフェスペースでメニューを眺めていた客から声がかかる。いつもは会計待ちの客がいないかだけを確認してからカフェスペースに向かうのだが、今日はそこにアイリスへの目配せも追加された。


 軽く頷いたアイリスと共にカウンターを出て、唯一のカフェスペースの利用客のところまで歩いていく。


「お待たせしました。ご注文を伺います」

「紅茶セットを一つで」

「紅茶セットですね。ケーキはどれになさいますか?」

「チーズケーキでお願いします」

「紅茶とチーズケーキのセットですね。以上でよろしいですか?」

「はい」

「かしこまりました。少々お待ちください」


 特に変わった要望が入ることもなく、アイリスに教えるにはうってつけの注文を取り終えてカウンターの内側に戻る。


「注文は今みたいな流れで取れば大丈夫です。メニューごとに対応が少しだけ違いますけど、そもそもメニュー自体がそんなに多くないので、すぐ慣れると思いますよ」

「が、頑張ります」


 アイリスが両手を軽く握りながら宣言する。やる気があるのはいいことだ。


「で、ケーキはここのショーケースから取り出すんですけど、飲み物はキッチンにいる太一さんか柚子さんにお願いして淹れてもらいます」

「私達は淹れないんですか?」

「えぇ。その辺りも二人のこだわりがあるらしいですよ。なので、注文が入ったらキッチンに伝えて下さい」

「分かりました」


 注文を受けてからの流れを一通り説明しながら、キッチンにいた柚子に注文を伝える。手が空いていたのか、そこまで時間をかけずに紅茶の香りが漂ってきた。


「はい、葵君。お願いね」

「任されました」


 柚子から受け取った紅茶を一旦カウンター内のテーブルに置いてから、ショーケースへと向かう。その間も、アイリスの視線をひしひしと感じる。


「ケーキが温くならないように、このタイミングで取り出すといいと思います」

「ケーキは飲み物ができてから……」


 こちらを見ていることを確認してからそう告げると、小さく復唱する声が聞こえてくる。目付きも真剣そのもので、初めて見る作業を覚えようと努力しているのが伝わってきた。


「これでセットができたので、お客さんのところまで持っていって、ひとまずおしまいです」


 そう説明しながら注文を届け、アイリスのところへ戻る。


「大丈夫そうですか?」

「何とか……」

「メニューの大部分はセットメニューですし、まずはそこから中心に覚えましょうか」

「は、はい……」


 あまり一度にあれこれ教えるつもりはないが、それでも少しずつ覚えることが増えてきて大変そうだ。自分も、働き始めてすぐは目を白黒させていた覚えがある。当時は自分のことに精一杯で気付かなかったが、後から考えると、いつもさりげなく柚子が近くでサポートをしてくれていた。となれば、今度は自分の番である。


「この後はお客さんの数も少ないはずですし、次のお客さんの対応をしてみましょうか。僕も横にいてフォローするので、気楽にいきましょう」

「気楽に、ですか……?」

「最初のうちなんて、失敗して当たり前ですからね。その時どうにかするために僕がいるんです。失敗できる時にたくさん失敗しながら、少しずつ慣れましょう」

「でも、迷惑じゃ……」


 なるべく緊張の糸が緩むようにと言葉を選んでみるも、瑠璃色の瞳は不安そうに揺れたまま。失敗を恐れるその気持ちも、過去の自分が抱いたことのあるものだ。


「迷惑だなんて思うわけがないですから、安心して下さい」


 だからこそ、誰よりもその気持ちがよく分かる。当時の自分も言葉だけでは不安だったが、柚子がそんな自分を安心させるように笑っていたのを思い出して、同じように軽く笑いながら口にする。


「ほ、本当に?」


 少しだけ顔が赤くしたアイリスが尋ねてくる。完全に不安がなくなった訳ではないだろうが、自分にできるのは、なるべく緊張を解してあげることだけだ。あとはアイリス自身でどうにかしてもらうより他はない。


「本当です。ってことで、安心して砕けていいですよ」

「く、砕けたくはないです!」

「そんな風に返せるなら大丈夫そうですね」


 慌てたように突っ込みを入れてくるこの様子なら、何か盛大に失敗することはないだろう。実際にアイリスが接客するとなれば、その時は自分も多少緊張するのだろうが、何となくどうにかなるような気がする。


 それでも。本当に砕けたのなら、骨は拾っておくことにした。




 自分が対応した客が会計を終えて去っていった後、しばらく訪れる客のない時間が続いたが、ついにカフェスペースの利用客がやって来た。やや年配の女性で、見覚えのある客だった。


「さぁ、いよいよデビューですよ」

「うぁぁ……、緊張します……」


 そわそわと落ち着きがなかったアイリスに、とうとうその言葉を告げる。先程まではそうでもなかったはずなのに、結局直前になって緊張してきたらしい。声も手も、揃って微かに震えていた。


「ちなみにあの方、結構な常連で、かなり優しい方ですよ」

「そうなんですか?」

「ですね。初めて接客する相手としては、これ以上ないくらいの方です」


 どうにか落ち着いてもらおうと、アイリスにとってプラスの情報を口にする。そんなやり取りの最中、ついに件の客から声がかかった。


「いいですか?」

「はい、少々お待ちください」


 自分が返事をした後、アイリスの方を向く。


「行きましょうか。まずは僕が声をかけて、それからアイリスさんに引き継ぎますね」

「分かりましたっ」


 ここまで来れば、もう逃げることはできない。そう悟ったのか、気合いを入れるようにして、また胸の前で二つの握り拳を作っていた。相変わらず、その手は微かに震えているが。


「お待たせしました」

「あら、そちらは?」

「今日から新しくアルバイトとして入ったアイリスさんです。これからよろしくお願いします」

「よ、よろしくお願いします!」


 カフェスペースに設置してあるテーブルの一つに近付いて、まずはアイリスの紹介をする。カウンターで自己紹介をした時は随分と落ち着いて見えたのに、今は声が上擦っていて、明らかに様子が違っていた。やはり、自分で接客するとなると、より強く緊張を意識してしまうのだろうか。


「今回の接客はアイリスさんに任せたいのですが、それでもよろしいでしょうか?」

「えぇ、大丈夫よ」

「ありがとうございます」


 そんなアイリスに接客を任せてもいいか確認してみたところ、快く受け入れてもらえた。頭を下げて感謝を示しつつ、いよいよアイリスに引き継ぐ。


「それじゃあ、お願いします」

「はいっ」


 自分が下がるのと入れ替わりで、アイリスが前に出る。


「ご、ご注文を伺いますっ」


 勢いはよかったが、声は若干上擦ったままだった。目の前に座っていた女性客が、僅かに口元を緩める。


「コーヒーセットをお願いしてもいいかしら?」


 注文の内容は、初めて受けるには最適のものだった。基本中の基本のセットメニューなので、難しいことはほとんど考えなくて済む。


「コーヒーセットですね。えと……、その……」


 だが、そこでアイリスの言葉が途切れる。どうやら、緊張でその先の対応を忘れてしまったらしい。不安そうに瞳を揺らしながら、助けを求めるようにしてこちらを見つめてくる。


「セットメニューはケーキの種類を確認、ですよ」


 そんな時のための自分である。アイリスの不安を取り除けるよう、なるべく穏やかな口調で流れを再確認する。


「あ……。ケーキはどれにされますか?」

「そうね……。じゃあ、チョコレートケーキで」

「はい、チョコレートケーキですね。以上でよろしいですか?」

「えぇ、大丈夫よ」

「かしこまりましたっ。少々お待ちください」


 どうにか注文を取り終えたアイリスが、頭を下げてカウンターの内側に戻っていく。自分も軽く頭を下げてから戻ろうとすると、口の形だけで「頑張って」と伝えられた。


「じゃあ、キッチンに注文を伝えましょうか」

「太一さんと柚子さんのどっちでも大丈夫ですか?」

「そうですね。声をかけたら、その時に手が空いている方が対応してくれます」

「分かりました」


 カウンターの内側まで戻ってきたことで一旦落ち着いたのか、注文を受けた後の流れはしっかりと思い出せたようだった。自分に確認を取ってから、アイリスがキッチンに声をかける。


「すいません。コーヒーセットの注文がありました」

「分かった。ちょっと待ってて」


 キッチンに繋がる扉の向こうで返事をしてくれたのは太一だった。やや時間が空いた後、その太一からコーヒーの準備が終わったと告げられる。


 それをアイリスが受け取り、カウンターまで持ってくる。あとはケーキを取り出すだけだ。


「チョコレートケーキ、チョコレートケーキ……」


 注文を呟きながら、視線をショーケースの中で彷徨わせるアイリス。そこまで大きなショーケースでもないので、すぐに目的のケーキを見つけて、形が崩れないよう丁寧に取り出す。


 セットを完成させて、こちらを振り返る。きっと、間違いがないか確認しているのだろうということで、軽く頷いてみせた。


「……!」


 嬉しそうに笑みを浮かべたアイリスが、注文のセットを載せたトレイを持ってカウンターを出て、カフェスペースのテーブルへと向かう。


「お待たせしました。ご注文のコーヒーセットです」

「ありがとう」


 少しぎこちない動きで、セットをテーブルの上に移し終える。この辺りも、コツを掴めばそつなくこなすことができるようになるだろう。


 一連の接客を終えて戻ってきたアイリスに声をかける。


「お疲れ様です。とってもよかったと思いますよ」

「ほんとですか!」

「もちろんです。この調子なら、すぐに一人で接客できるようになりそうですね」

「えへへ……、ありがとうございますっ」


 手助けこそありつつも、自身で一通り接客をこなすことができて、少しは落ち着きを取り戻したらしい。表情には柔らかさが戻っていて、思わず見惚れてしまいそうになる程の笑みを浮かべている。


「その調子でレジの方も頑張ってみましょうか」

「はいっ!」


 接客が上手くいって、いい雰囲気が生まれた今がチャンスだ。この調子でカウンター内での仕事も少しずつ経験してもらおうと、若干目を逸らしながら、今後の流れを決めるのだった。




 あれから、カウンターで何人かの接客を繰り返すことができた。時間も時間なので、アイリスもゆっくりと一通りのカウンター作業を学べたはずだ。あとは回数を重ねていけば、自然と手が動くようになるだろう。


 そうこうしているうちに、先程アイリスが対応した例の常連客が来店してから、結構な時間が過ぎていた。


「アイリスさん」


 周囲に聞こえないように、少し顔を近付けて小声で話しかける。


「はひっ!?」


 アイリスから返ってきたのは、小声で話しかけた意味がなくなってしまう程の声だった。そんなつもりは一切なかったのだが、図らずも不意打ちのような形になってしまったらしい。驚きからか、それとも奇妙な声を上げてしまった恥ずかしさからなのか、アイリスの頬にはうっすらと赤みが差している。


「あ、すみません」

「い、いえ……、少し驚いただけですから……」

「結構な声が出てましたよ?」

「言わなくてもいいですっ。恥ずかしいんですから!」


 そう指摘したことで、頬の赤がより濃くなる。反応が面白いのでついからかいたくなるが、これ以上は別の理由で頬が赤くなりそうなので、この辺で引いておくことにした。


「もう……。何ですか?」


 気持ちを落ち着かせるように一度だけ息を吐き、それから窺うようにしてそう尋ね返してくる。先程の驚きの声とは打って変わって、自分と同じ小声だった。


「さっきアイリスさんが接客したあの方ですけど……」


 そう言ってカフェスペースを見る。アイリスの視線も、自分の後に続いた。


「あのお客さんがどうかしました?」

「もうそろそろ会計をお願いされそうなので、アイリスさんに対応してもらおうかなと」

「分かりました。……さっきまでと同じ感じで大丈夫ですか?」

「そうですね。伝票を渡されるので、それを入力してください」

「はい」


 これまで何度か繰り返してきた作業を確認しながら、アイリスが小さく頷く。その瞳に浮かぶ不安は、いつの間にか随分と薄くなっていた。




「お会計お願いします」

「はい、少々お待ちください。……コーヒーとチョコレートケーキのセットで、九百四十円です」

「千円でお願い」

「千円ですね。六十円のお返しです」


 既に何度かレジ対応をした成果か、自分の目から見ても、アイリスの動作に問題はなさそうだった。機械を扱う手付きは流石にまだ覚束ない部分があるものの、分からないことがあって詰まってしまうこともなく、初めて接客した常連客の会計を終えている。


「ありがとう。これから頑張ってね」

「はいっ。ありがとうございました!」


 お釣りを受け取った常連客が、最後に一言アイリスに声をかけてから店を出て行った。


「お疲れ様です。これで一通りの接客は大丈夫そうですね」

「まだ少し緊張しながら接客してますけどね……」


 そう言って、アイリスが少し疲れたような笑顔を覗かせる。緊張の連続で、思ったよりも体力を消耗しているようだ。無理をし過ぎないよう、しばらくは注意して様子を見ておいた方がいいのかもしれない。


「できることが増えれば、自然と緊張もしなくなりますよ。ということで、テーブルの片付けをしましょうか」

「そうだといいんですけど……」


 そんな会話を交わしながら、空席になったテーブルへと向かうのだった。




 その後、ちらほらとやって来る客に二人で対応する。ピークの時間を過ぎてしまえば、一気に客足は少なくなる。夕方よりもずっと落ち着いた時間が流れていた。


「どう? 少しは慣れた?」

「はい、おかげさまで」


 それはキッチンの方も同じようで、店内に顔を覗かせた柚子が、アイリスと楽しそうに話している。思い返してみれば、自分もよくこうして柚子に話しかけてもらったものだ。


「そっかそっか、よかった。まぁ、何かあったら遠慮なく相談してね」

「その時はよろしくお願いします」


 当たり前の話だが、やはり柚子もアイリスのことが気になっていたらしい。二人の会話の中心は、初めての接客についてのことがほとんどだった。


「それにしても、そのウェイトレス服、よく似合ってるわね」

「そ、そうですか……?」


 柚子の一言に、アイリスがどこか照れているような表情を見せた。確かに、白とチョコレート色を基調とした、やや落ち着いたデザインのウェイトレス服に、菜の花色の髪がよく映えている。


 ただ、ウェイトレス服が似合っているのは同意するとして、もう一つ気になっていることがあった。ちょうどそんな話題になったので、思いきって尋ねてみる。


「そういえば、どうしてウェイトレス服がすぐ用意できたんですか? アイリスさんの話があってから、そんなに時間ってありました?」


 アルバイトの話が以前から持ち上がっていたのなら、準備する時間も十分あっただろう。だが、太一と柚子の話を軽く聞いた感じでは、そんな時間があったようには感じられない。


 これまでアルバイトは自分しかいなかったのだから、てっきりウェイトレス服は用意していないものだとばかり思っていた。


「あ、それね。元々用意はしてたの。ちょっとだけサイズが大きかったから、その辺の調整はしたけど、そんなに手間はかからなかったわ」

「元々あったんですか?」

「えぇ。いつか葵君に着てもらおうと思って、準備はしてたから」

「……?」

「え……?」


 元々こういったことを想定して用意してあったのなら、まだ頷くことはできた。けれども、柚子の話は一瞬で理解できない方向に走り始める。思わず声を漏らした様子のアイリスを見れば、分かりやすく困惑した顔をしていた。


「え? え? でも、葵さんって男の子ですよね……?」


 アイリスの視線が、自らが着ているウェイトレス服と自分の間を何度も往復する。考えれば考えるほど、混乱の渦に巻き込まれていっているようだ。目の中に渦巻きが浮かんでいるようにも見える。


「あ、でも、似合いそう……」

「待ってください」

「でしょ? 絶対似合うと思って準備したんだけど、話を切り出すタイミングがなくて、ずっとしまったままだったの」


 混乱したままにアイリスが陥落して、最近もどこかで聞いた流れになりかけている。これまではそんなことはなかったのに、どこに行ってもこんな扱いになってしまったのは何故なのか。


「あら、どうかした?」

「どうかしてるのは柚子さんですよ?」


 自分でも無意識のうちに、雇い主に対して厳しい言葉が出てしまった。


「まぁまぁ。葵君にはいつか着てもらうとして……」

「……」

「アイリスさん。そのウェイトレス服、うちで毎回洗濯するから、着替えたら洗濯用の服が掛けてあるハンガーにお願いね?」

「あ、はい、分かりました」


 頭の中でウェイトレス服を着た自分の姿を思い浮かべていたのか、しばらく自分から視線が外れなかったアイリスが我に返る。その顔が赤いのは、先程とは違う理由からなのは明らかだった。


 ちなみに、自分の無言の抗議はそのまま受け流された。




「今日はお疲れ様。どう? 上手くやっていけそう?」

「はい。何とか、ですけど」


 閉店時間も過ぎ、四人全員でバックヤードに集まる。今日はあまり関わることのなかった太一が、アイリスにアルバイト初日の様子を尋ねていた。


「それはよかった。ぜひぜひ、これからもよろしくお願いします」

「こちらこそ、お願いします」


 お互いに頭を下げるアイリスと太一。少し前、アイリスと柚子で厄介なやり取りを繰り広げていたことを考えると、とても穏やかな会話と表現することができそうである。


「さ、もう時間も遅いし、二人は早く帰った方がよさそうだね」

「そうね。アイリスさんも、あんまり遅いとご家族が心配しちゃうわよ?」


 これまでもそうだったが、閉店後にあまり長い時間話していると、高校生が出歩くのは許されていない時間になってしまう。その辺りのことは太一と柚子も分かっているので、程々のところでこうして会話を切り上げてくれるのだった。


「あ、そうですね。じゃあ、着替えてきます」


 そんな二人の言葉を受けて、アイリスが更衣室に消える。


「僕も着替えてきますね」


 その様子を見送ってから、自分も軽く頭を下げて二階へと向かう。太一と柚子は、まだバックヤードに残って仕事を続けるようだった。




 私服に着替え終えてバックヤードに戻るのは、自分の方が早かった。着替えに男女差があることくらいは分かっていたので、特に驚くようなこともない。とりあえず、手に持ったウェイター服をハンガーに掛ける。


「葵君、葵君」

「はい? 何ですか?」


 何故かこの服は死守しなければならないような気がしたところで、太一が近くまで歩いてきて、小声で話しかけてきた。


「アイリスさんがいる前では聞きにくかったんだけど、今日の様子はどうだった?」

「今日の様子ですか?」


 どうして小声なのか一瞬気にはなったものの、話の内容を聞いて納得する。更衣室にいるアイリスに聞こえないように、という配慮なのだろう。確かに、自分の評価について聞こえてくるのは気まずいかもしれない。


「特に問題はなかったと思いますよ。お客さんからの評判もよかったですし」


 そうは言っても、悪いことなど言うはずもないのだが。初めての接客から閉店にかけてのことを思い出しても、とにかく微笑ましい目で見られていたことばかりが思い出される。


 それでも無理矢理指摘することがあるとすれば、やや緊張し過ぎていることくらいか。それに関しても、場数を踏むことで改善されていくことなので、気にすることではないのだろうが。


「本当? よかった」

「少なくとも、今のところ心配するようなことはないと思います」

「そっか。分かったよ」


 安心したような表情で太一が離れていく。やはり、キッチンにいる間も、ずっと気になっていたようだ。


 それとほぼ同時に、更衣室の扉が開いて私服姿のアイリスが戻ってきた。その手には今まで着ていたウェイトレス服を持っている。


「あの、制服はどこに?」

「こっちですよ」


 きょろきょろとバックヤードの中を見回すアイリスに問いかけられて、まさに今目の前にあるハンガーラックを指差す。


「あ、それですか。ありがとうございます」


 既にウェイター服が掛かっているのを見て理解したのか、アイリスが近付いてきて、丁寧にウェイトレス服を掛ける。何故かは分からないが、これと同じ服を着ないように気を付けなければならないような気がした。


「これで大丈夫ですか?」

「大丈夫です。太一さんと柚子さんが、明日までに洗濯してくれます」

「よろしくお願いします」

「はい、任せてね」


 小さく頭を下げたアイリスに向けて柚子が答える。その後、続けて自分の方を向いた。


「葵君。もう時間も遅いし、送れるところまででいいから、アイリスさんを送っていってあげて?」

「はい、最初からそのつもりです」


 家の場所を知られたくないといった事情があれば話は別だが、流れとしてアイリスを送っていくのは当然のことだと思っていた。こんな時間に、アイリスをたった一人で歩かせる訳にはいかないだろう。


「え、でも……」

「何か事情があるなら、その時はやめておきますけど」

「あ、そうじゃなくて、迷惑じゃないかなって……」


 ただ、アイリスとしてはその点が気になるようだった。自分のことを気にしているだけなら、少し押すことにする。これで自分が折れて、もし帰りに何かあれば寝覚めが悪い。


「そのことなら気にしなくても大丈夫です。嫌じゃないなら送っていきますよ」


 先程考えた、「家の場所を知られたくない」という気持ちから断ろうとしている可能性もない訳ではないが、気まずいという表情ではなく、本当に申し訳なさそうな表情をしているので、その可能性は限りなく低いと判断する。


「じゃあ……、お願いします」


 そんなあれこれが伝わったのか、最終的にアイリスが折れて話が決着を見た。


「決まったみたいだね。それじゃ、今日はお疲れ様」

「はい、お疲れ様です」

「お疲れ様でした」


 一連のやり取りを黙って聞いていた太一が、半ば帰宅を促すような形でそう口にする。こうしている間にも、どんどん時間が過ぎていっているからだろう。その意図を汲み、アイリスと二人して頭を下げる。


「えぇ、お疲れ様」


 最後に柚子の言葉を受けてから、揃って店を後にするのだった。


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