49. 感情の行方 (1)
週が明けて一日過ぎた九月五日、火曜日。その放課後から、本格的に体育祭に向けた練習が始まった。
体育祭の練習といっても、競技の練習は少ない。せいぜい選抜種目の練習くらいで、そんなものに自分が選ばれるはずもなく。することといえば、全員参加の応援合戦の練習しかなかった。
隣では、同じく何の選抜種目にも選ばれていない悠が、身の丈に迫る程の大きさの旗を手に悪戦苦闘している。
「思ったより難しいね、これ」
「すぐに慣れますよ」
「湊君は去年もやったんだっけ?」
「ですね。意外と体が覚えてました」
言いながら、悠が苦戦していた動きを実践してみせる。一年ぶりということでまだ多少のぎこちなさは抜けないものの、それも少しすれば消えるだろう。基本の動きくらいなら、今のところ問題はなかった。
「羽崎君は違いましたよね?」
応援のパートがいくつかに分かれているだけあって、毎年違うものを選ぶ生徒もいるらしい。悠がそんなタイプの生徒なのかは知らないが、少なくとも去年は旗を振り回してはいなかったはずだ。一緒のパートなら、まず間違いなく覚えているだろう。
「そうだね。別のをやってた」
そんな予想に違わず、肯定の言葉が返ってくる。そうなれば、次に尋ねることは一つである。
「旗の人たちが練習してるのを見て、面白そうだなって。だから今年はこっち」
「去年は何を?」
「……」
「あぁ、分かりました」
急に黙り込んだ悠の様子を見て、何となく察しがついた。去年の演目で、他人に言うのが憚られる演目といえば、答えは一つしかない。
「踊ってたんですね?」
「……踊ってました」
苦々しい記憶を思い出したのか、悠の顔が悲愴な色に染まる。「踊っていた」と、言葉にすればたったそれだけのことだが、中身はそうもいかないのが去年の演目だった。
「見てる側は楽しかったですよ?」
「こっちは苦しかったよ……」
悠がここまでの表情を浮かべる理由。それは至極単純なもので。
去年は振付に男女の区別がなかったと、その一言に尽きる。
男女関係なく、可愛さ方面に振りきった振付。それを一定数の男子が集団になって踊る姿は、その悍ましさもあって、随分と話題になったものだ。その好評ぶりたるや、今年は女子専用のパートとなってしまった程である。
「今年も男女混合かと思って期待してたんですけどね」
「あれは二度とやっちゃいけない暴挙だよ」
「羽崎君くらいなら、何の問題もないと思いません?」
未だに顔が曇っている悠だが、その見た目である。去年も特に違和感はなかったのではないかと思うのだが、これは自分の気のせいなのだろうか。
「そんなことを言うんだったら、湊君だって……」
「僕だって、何ですか?」
「何でもない。やめておくよ」
「何でそんな中途半端なところで止めるんですか。何が言いたいのかは分かってるのに」
「どうせ誘われるでしょ。僕以外にも」
そんなことを言う悠の視線が外れる。どこに向かったのかとその先を追えば、そこには、まさに今振付を教わっているアイリスがいた。その傍には碧依と紗季もいる。三人一緒に練習中のようだった。
「……誰から?」
「僕が言っておいて何だけど、確かに全員誘ってきそうだね……」
お互いに視線を戻して、ぽつりと呟く。こんなところで意見が一致してほしくはなかった。
「まあでも、どうせ最初に誘ってくるのはアイリスさんでしょうけど」
「だよね。今のうちに覚えておいたら?」
「一緒にやりますか」
「嫌だよ。何でちょっと乗り気なの」
「冗談ですって」
「相変わらず分かりにくいなぁ、もう」
不満げにそう漏らした悠が、再び旗を回し始める。初めて扱うであろうその大きさに、未だ慣れる様子は見られない。
旗の軌道に合わせて、宙に少しだけ歪な円が描かれていた。
「一緒にやりましょう、葵さん」
「案の定でしたね」
「だね」
「何がですか?」
パート練習の休憩時間。当たり前のように隣にやって来たアイリスの提案がそれだった。先程悠と話していた内容の通りである。
「どうせアイリスさんはそうやって誘ってくるだろうって、そんな話をしてたんですよ」
「水瀬さんも星野さんも誘ってくるタイプだけど、多分最初はフリーゼさんだって」
「私達のこと、よく分かってるね」
アイリスと一緒にやって来た碧依が、小さく頷きながらそう肯定する。ここで肯定されるのも複雑だが、それを指摘したところでどうにもならないのは分かっているので、視線をアイリスへと戻してしまう。
「でもですね?」
だが、碧依の後を引き継いだのは紗季。その繋がり方からは、どう考えても負の方向にしか話が進まないような気がした。誰にとって負の方向かという話だが。
「これ、お誘いじゃないんですよね」
「はい?」
「うん?」
懸念していた通り、どことなく不穏な言葉が続く。
アイリスはにこにことした表情を浮かべているだけで、そこから何かの思惑を読み取ることはできない。だが、碧依と紗季からは明らかによろしくない雰囲気が漂ってきていた。果たして、この後何を言い出すつもりなのか。
「女子の人数、あと二人いれば収まりがいいんだって」
「それ以上は聞きたくないです」
「僕達は何もしないからね」
災厄を封じ込めた箱の蓋が、碧依の手によって開けられそうになっていた。
「別にいないならいないで、ちょっと並びを変えるだけらしいんだけど」
「是非そうしてください」
「それで全部解決だよね」
「その話を聞いて、せっかくだし、二人のことを紹介しちゃった」
「『しちゃった』じゃないんですよ」
「何してくれてるの」
箱の中身が漏れ出し始める。
「で、今日の練習が終わった後、三年生の先輩が勧誘に来ます」
「あぁ……」
「終わったぁ……」
中身が全て溢れ出した後、箱の底には何の希望も残っていなかった。本家のお話よりも悲惨な状況である。
「優しそうな先輩だったので、そんなに心配しなくていいと思いますよ?」
「誰もそんなところは心配してないんですよ」
アイリスの言葉にそう返す。今の状況で、勧誘に来る先輩のことを気にする余裕などない。真に気にするべきは、いかにこの状況から逃げ出すか。その一点に尽きる。
「じゃあ、何が気になってるんですか」
「言わないと伝わりませんか?」
「きちんと言葉にしてもらわないと」
「どの口が……」
夏休み前の一幕を思い出す。あれは確か、期末の点数がどうこうと言っていた頃だっただろうか。
「それでも、アイリスさんと僕の仲なら、言わなくても伝わることもありますよね?」
「そんな風に言われると、ちょっと照れちゃいますね……。えへへ……」
その言葉通り、恥ずかしそうに頬を染めるアイリスを見て、碧依が軽く暴走しかけていた。悠が何とか抑え込もうとしている。そちらは悠に任せ、自分は一旦アイリスの相手を続ける。
「でも分からないです」
「何で分からないんですか」
「今の葵さん、ちょっと面倒ですよ?」
「いつかアイリスさんもやってたことですからね?」
「あれ?」
どうやら覚えてはいなかったらしい。アイリスが本気で首を傾げていた。
「あー……。アイリスならやりそうですね……」
その場にはいなかったはずの紗季が、それでもこれまでの言動を基にして納得していた。普段一年生の教室でどんな会話を繰り広げているのか、何となく想像ができる。
「紗季? 詳しく」
「アイリスなら、湊先輩相手に面倒な彼女みたいなことをしてそう」
「か、彼女じゃないし……」
「『面倒な』ってところも否定しましょうね?」
それでは認めているようなものである。照れくさそうに頬を染めるアイリスの姿は尋常ではなく可愛かったが、否定する量を間違えてはいけない。
「そ、そんなことはいいんですよ。それより、何が気になってるんですか?」
「恥ずかしいってことに決まってるじゃないですか」
それ以外に一体何があるのか。もしそれ以外の答えがあるのなら、自分が教えてほしい程である。
「今更何を言ってるんですか。葵さんはちゃんと可愛いんですから、何にも恥ずかしいことはないです」
「その評価がもう恥ずかしいです……」
思わず手で顔を覆いたくなるような評価だった。しかも、アイリスが真剣な表情で言っているところが、余計に恥ずかしさを増大させている。
「堂々としてればいいんですって。恥ずかしそうにしてたら、周りからはもっとそんな風に見られちゃいますよ?」
「それっぽいことを言って、どうにか丸め込もうとしてませんか?」
「……そんなことないです」
「目が合いませんよ?」
どうやら図星だったらしい。何だかんだと言っているが、要約すれば「女子のグループに混ざりなさい」ということだった。
「そもそも、今からこっちのグループを抜けるのも迷惑がかかりますから。勝手に返事はできないです」
「そっちがどうにかなったら、一緒にやってくれるってことですか?」
「どうしてそこまで頑なにやらせようとするんですか」
こてんと首を傾げながら尋ねてくるアイリス。その姿はやはり尋常ではなく可愛かったが、意味が上手く伝わらず、若干もどかしいような気持ちも生まれてしまう。
今の言葉は、どう聞いても「抜けられないから一緒にはできない」という意味にしかならない。はっきりと断るのも気が引けたので、遠回しな表現になってしまったことは否めないが。
「だって……」
「はい?」
恐らく、これから聞く理由が一番の理由なのだろう。その証拠に、瑠璃色の瞳が真っ直ぐ自分を見上げていた。そこに、何かを誤魔化すような色は見られない。
「葵さんの方が一年先輩さんで、一緒に体育祭に参加できるのは二回しかないんですよ? だったら、できるだけいろんなことを一緒にやりたいじゃないですか」
「……」
思った以上にまともな理由で、何の言葉も返すことができなかった。その結果が女子のグループに混ざって踊ることになるという点だけは、本当に解せなかったが。
「それでも、最初は一緒の団になれただけでもよかったって、そう思ってたんですよ。男女でやることが違っても、同じ場所で練習はできますし、本番でも一緒にいられますから」
「それは、まぁ……」
同じことを考えなかったと言えば、それは嘘になる。夏休み明けのあの日の放課後、興奮した面持ちで二年生の教室までやって来たアイリスを見て、内心少し喜んだのも認める。それだけ、傍にアイリスがいることが当たり前になってしまっているのが今の自分だった。
「でもですよ? 一つ叶っちゃったら、『もっと』って思っちゃうじゃないですか」
少しだけ目が伏せられ、声も小さくなる。
「そしたら、偶然ですけどこんなことになって。もしかしたら、一緒にできることがもう一つ増えるかもしれなくて」
「……」
「葵さんが絶対に嫌だって言うなら、それは仕方ないって思いますけど、できたら私は一緒にやりたいです」
「それ、は……」
「だめ、ですか……?」
これ以上なく不安そうな声。変わるはずもないのに、小柄なアイリスがさらに小さく見えた。本音を曝け出して落ち着かないのか、瞳は微かに揺れている。
「……」
そんな言葉をぶつけられて、これまでと同じように問答無用で断り続けることなど、できはしなかった。
「……話を聞くだけですからね」
「ほんとですか!?」
そう口にした途端、アイリスを覆っていた不安の霧が晴れ、輝かんばかりの表情が顔を覗かせる。まだやるとは言っていないのに、既にやることが決まってしまったような、そんな雰囲気だった。
「聞くだけですからね?」
「分かってます! 葵さんなら一緒にやってくれるって、信じてますから!」
「いや、だから……」
そのままの勢いで押しきられそうになるが、あくまでも話を聞くと言っただけだ。いくら心の中の天秤が揺れていようとも、そこはまだ決まっていない。
「向こうに伝えてきますね!」
だが、これもまたアイリスには伝わらない。そう言うや否や、アイリスが先程練習していた辺りへと走っていく。言っていた先輩とやらが、その辺りにいるのだろう。何と言うか、行動が本当に早かった。
「あれは断れないですよね」
そんなアイリスが十分離れるのを見計らって、何やら楽しそうな雰囲気を纏った紗季が声をかけてきた。先程は気付きもしなかったが、悠と碧依も黙って一部始終を眺めていたらしい。
「可愛い後輩の頼みだもんね?」
碧依からもそんな言葉を頂いてしまう。あのやり取りを見られていたと思うと、途端に恥ずかしくなってきてしまった。この場に莉花がいないのが、せめてもの救いである。
「聞くだけですから」
「いーや、葵君もやることになるね」
「ですね。実はもうほとんど決めてたりするんじゃないですか?」
「流石に……」
まだそこまでの決心はしていなかった。決心してしまうのも、最早時間の問題のような気もしているが。
「あれだけ熱心に誘われてたのは湊君なんだし、僕は逃げてもいいよね」
「逃がすわけがないじゃないですか。こうなったら一蓮托生です」
「そんな……」
看過できないことを言う悠を、同じく言葉で捕えておく。どうせこうなったのなら道連れである。そもそも、話では二人必要らしいので、悠もいなければ意味がない。
悠の残念そうな呟きを聞きながら、アイリスが走っていった方へと目を向ける。どれだけ人がいようとも、その姿はすぐに見つけ出すことができる。女子のグループをまとめていた先輩の一人に話しかけるアイリスの嬉しそうな表情が、とても印象的だった。
「合格!」
「……」
「……」
目の前に立つなり、そう言われた。
今日の練習が終わり、大半の生徒が帰宅の準備へと向かう。そんな中、自分と悠はアイリス、碧依、紗季の三人に連れられて、とある先輩の前に立たされていた。言うまでもなく、先程アイリスが話していた先輩である。女子のまとめ役であると同時に、団の中でも中心的な役割を果たす先輩だった。
「いや、可愛い子が二人いるって聞いてはいたけど、ちゃんとした服を着てもらったら、ほんとに分からなくなるかも」
「ちゃんとした服……?」
果たして、その服は本当に「ちゃんとした」服なのだろうか。個人的にはちゃんとしていないように思えてならなかった。
「あ、自己紹介をしてなかったね。三年の白野雪です。女子の方のまとめ役をやってます」
そう言って丁寧に頭を下げる雪。その名前とは裏腹な、肩甲骨の辺りまで伸びた黒い髪がゆっくりと体の前に流れ落ちる。
一目見た印象は、大人しそうな雰囲気である。碧依よりは大きく、莉花よりは小さそうな背丈や、少しだけ丸みを帯びた穏やかそうな目が、そんな雰囲気をさらに色濃くしていた。
けれども、人は見かけに依らないもので。まとめ役をこなしている通り、どちらかと言えば集団の前に立つタイプらしい。
そんな先輩に頭を下げられ、釣られてこちらも頭を下げる。
「二年の湊葵です。男です」
「同じく、二年の羽崎悠です。男です」
「初めて聞く主張だね」
大事なことなので、自己紹介に組み込んでおいた。その意図が伝わるかは疑問ではあるが。
「話は聞いてる?」
「多少ですけど」
「全部は聞いてないと思います」
「どれくらい聞いた?」
「あと二人いれば収まりがいいってところまでです」
「まだ何か裏があるんですよね?」
一縷の望みに賭けるように、悠が問いかける。ここまで来ても、まだ逃げ道を探しているらしかった。
「うん。それが全部だよ」
だが、当然逃げ道などなかった。雪にあっさりと否定された悠が肩を落とす。
「今の人数でも一応並びは考えてて、でも人数的にどうしても『うん……』って感じの並びにしかならないんだよね」
表現が抽象的で分かりにくいが、要は綺麗な並びにならないということだろう。今の人数が何人なのかは知らないが、そんな人数もあるのかもしれない。
「そんなわけで二人を紹介してもらったんだけど、もうね、合格」
「何がですか?」
「可愛さ、かな」
「不合格がよかったです……」
悠が思わずといった様子で呟く。頼み込まれると断れない性格であろう悠の表情が、追い詰められていることを実感して悲しげなものに変わっていく。
「アイリスさん、だっけ? からは、湊君は結構前向きに考えてくれてるって話は聞いたけど、どうかな?」
「……」
話を聞くとは言ったが、前向きに考えるとは言っていない。何やら余計なことを言ったらしいアイリスに視線を向ける。
「外堀を埋めておきました」
一仕事終えたような、晴れ晴れとした顔だった。
「……アイリスさん」
「何ですか?」
「ちょっとこっちに」
「うん?」
少し離れたところにいたアイリスを手招きして、すぐ近くまで呼び寄せる。具体的には、手が届く範囲まで。
「何余計なことを言ってくれてるんですか」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
全く警戒する様子もなく近寄ってきたアイリスの頬を摘み、そのまま左右へと引き伸ばす。相変わらずよく伸びる頬だった。
「あんなに殊勝なことを言うから話を聞くって言ったのに、あれは嘘だったんですか」
「嘘じゃないですって! だから離してください!」
うっすらと涙目にも見えるアイリスに懇願されて、そっと手を離す。摘んでいたところだけが、白い肌から浮き上がるように赤くなっていた。
「いっつもこんな感じなの?」
「そうですね。アイリスが湊先輩に構ってほしくてやってるんだと思います」
「違いますからね!?」
その否定は、誰に向けられたものだったのか。口調からして、自分か雪だろうか。
「楽しそうなところ申し訳ないんだけど、一緒にやってくれたりするのかな?」
「楽し……!?」
そんなやり取りの最中、文字通り申し訳ないといった様子で雪が返事を求めてくる。付け加えられた言葉に驚くアイリスを横目に見ながら、とりあえず気になっていたことを確認する。
「仮に。仮にですよ?」
「うん。仮に?」
「仮にやるとなったとして、今やってる旗はどうなるんですか?」
三人に話を聞いた時から思っていたことである。基本どの生徒も一つのパートしか担当していないので、旗の方を脱退することになるのだろうか。それはそれで向こうの人数問題に発展する可能性もあるが、その辺りをどう考えているのか。
その答えは、即答という形で返ってきた。
「そっちにも確認はしておいたよ。しっかりやってくれるなら、兼任も大丈夫だって」
「行動が早過ぎませんか?」
「完全に外堀が埋まってる……」
流石、まとめ役を務めるだけはある。行動力が抜群だった。
しっかり逃げ道を塞いだ上での交渉からは、女子グループに引き込んでしまおうという、強い意思が感じられた。
「で、どうかな?」
「いや、でも……」
「まだ何かあるの?」
「碧依さんは黙っててください」
いい加減諦めたらどうかとでも言いたそうな様子で碧依が話しかけてくるが、今は何か色々なものを失うかどうかの瀬戸際なのだ。最後まで抵抗して当然である。
もう既に失われたものもあるという事実は、この際気付かなかったことにした。
「練習はどうするんですか? 同時に二つには参加できないですし……」
「あ、その辺は大丈夫です」
「アイリスさん?」
想定していない方向からの返事。こうなると、もう嫌な予感しかしない。
「基本は旗の方を練習してもらって、別のタイミングで私が葵さんに教えることになってます」
「羽崎君の方は私が教えてあげる」
「教えることになってます?」
それはもう自分が承諾することを前提に話が進んでいないだろうか。先程アイリスが雪に何かの話をしに行った時にここまで話していたのなら、再びその頬を引っ張らなくてはいけなくなる。
「それで、たまに全体の練習に参加してもらえたらなって」
「葵さん、何かを覚えるのが得意ですし、多分大丈夫です!」
「今その評価は嬉しくないです」
「羽崎君にもしっかり教えてあげるから」
「何だろ? やるのが決まってるのかな……?」
ひたひたと背後に魔の手が忍び寄っている。最早、振り向けばそこにいる状態だった。
「気になるところはまだある?」
「……」
「……」
こちらが気になっている点を全て解消しようとしてくれているのか、雪がそう尋ねてくる。もちろん、一番尋ねたいのは「男子が混ざっていいのか」という根本的な疑問だったが、ここまで話が進んでいる以上、それも解決済みと考えていいだろう。尋ねるだけ時間の無駄である。
そんな訳で、悠と揃って沈黙を返してしまう。
「葵さん」
「……何ですか」
「一緒にやりましょう?」
穏やかな笑み。断られることなど一切考えていないような、そんな顔。
決着の時だった。
「……はい」
「やったぁ!」
「湊君!?」
有頂天外のアイリスと心慌意乱の悠。異なる二つの声が重なる。アイリスに至っては、両手を上げる程の喜びようだった。最近、本当にアイリスに弱くなったと、そんな様子を見ながら思ってしまう。
「よかった。受けてくれてありがとうね」
諦めたように了承の返事をした自分を見て、雪が安堵したような声を零す。外堀を埋めていたとはいえ、一応不安ではあったらしい。
「待ってください! 僕はまだ……!」
「羽崎君」
「何!?」
それでもまだ抵抗を続けようとする悠を、碧依が静かに遮る。
「もう葵君が落ちたのに、一人でずっと抵抗できる?」
「うっ……!」
痛いところを突かれたのか、悠が呻き声を上げて勢いを失ってしまった。それを好機と捉えたのか、碧依の言葉は悠と反比例するように勢いを増していく。
「無理だよね? 葵君が落ちたら、もれなくセットで羽崎君も付いてくるもんね?」
「うぅっ……!」
「やってくれるよね?」
「……」
「やってくれるよね?」
黙り込む悠に、最後の一撃。黙り込んでしまった悠から、じわじわと抵抗する力が抜けていくのが見て取れた。その顔に浮かぶのは諦めの表情だろうか。
「……できるだけ、目立たないところでお願いします……!」
練習場所のことを言っているのか、並びのことを言っているのか。はたまた両方か。何にせよ、言えることは一つだけ。
あらかじめ外堀を埋められるのは、とても恐ろしいということだった。
初日の練習を終え、着替えを終えたアイリスと当たり前のように待ち合わせての帰宅。今日もそうだったが、しばらくは悠や碧依も一緒の帰宅となるのだろう。
「それにしても、今日はやってくれましたね」
「何がですか?」
そんな悠や碧依と別れてから、そう話しかける。対するアイリスは、何を言っているのか分からないといった様子だった。惚けている雰囲気もないので、本当に見当がついていないらしい。
「しっかり外堀を埋めてから引きずり込んでくれたじゃないですか」
「あ、そのことですか」
「やり方がアーロンさんとレティシアさんにそっくりでした」
「二人の子供ですから」
胸を張って自慢げに言いきるアイリスだが、生憎自分は褒めていない。むしろ厄介だとすら思っている。
「でも、言い出したのは碧依先輩ですからね?」
「それはそうですけど」
「そして、色々動かしたのは私です」
「重罪ですね」
頭脳役と実行役。綺麗に役割が分かれた、無駄のない無駄な連携だった。普段は天敵だと言って警戒しているのに、何故こんな時だけ手を取り合ってしまうのか。こんなに典型的な呉越同舟は見たことがない。
「何と言われようと、もうやるって言質は取ったので。絶対に逃がしませんもん」
「発言が物騒なんですよ」
「葵さん、しっかり捕まえておかないと、あの手この手で逃げ出しそうじゃないですか」
「猫か何かだと思ってます?」
「なかなか懐かない、でも私には懐いてくれてる狐だと思ってます」
「六割ちょっとが間違ってますね」
なかなか懐かない、アイリスには懐いている、狐の三要素のうち、正しいのは最初の一つだけだ。それ以外は身に覚えがない。
「私に懐いているのが合ってるとして」
「ポジティブ過ぎません?」
その三つでそこが合っていると考えるのは、相当なメンタルの持ち主である。流石としか言いようがない前向きさだった。
「狐じゃないし、いろんな人に懐いちゃうってことですか? 浮気者ですか?」
「どうして僕が責められてるんですか」
「確かに碧依先輩とも仲が良さそうですし、意外と渡井先輩とも……?」
「あれを仲が良いって言っていいんですか?」
たまに一方的に女装させられそうになる仲だが、本当にその表現で合っているのだろうか。この世で自分しか抱いていないのではないかという疑問が湧き上がる。
「いや、でも結局私のところに帰ってきてくれるってことは……」
「アイリスさんが僕についてきてるんですよ」
寄る辺とした覚えもない。アイリスこそが衛星である。
「うん、やっぱり私に懐いているのが正解ですね」
「不正解です」
「なんでですか!」
「懐いてはいないので」
アイリス以外なら誰でも分かる答え合わせだった。何なら、答え合わせすら必要ない。
「こんなに一緒にいるのに!」
「一緒にいるからって、懐くとは限らないです」
「じゃあ、狐が正解ってことですか?」
「不正解です」
「なんでですか!」
「狐じゃないので」
実質一択の三択問題を綺麗に外しきるアイリス。誰も真似することのできない、芸術的な芸当だった。
「あんなに可愛い狐っ娘ウェイトレスだったのに!」
「表現が悪化してません?」
誰が狐っ子か。しかも、ニュアンス的に『狐っ娘』でイメージしていそうな辺り、とても質が悪い。
「今月はいつなんでしょうね?」
「……」
完全に頭から抜け落ちていたそれを、わくわくという効果音が似合いそうなアイリスの眼差しを受けて思い出す。夏休みが明けたということは、月は九月に変わっている。つまり、月一の恒例行事が再び迫っているということと同義だった。
「……考えるのはやめましょうか」
「逃げましたね」
「逃げられるのなら逃げたいです」
「無理ですよ。私と柚子さんがいる限り」
「やっぱり転職しか……」
「逃がしませんもん」
力強い目による、はっきりとした意思の表明。加えて、物理的にも逃がさないようにしているのか、左手もしっかりと捕らえられてしまった。強い意思を発揮する場面を間違えているとしか言いようがない。
「そんなことより」
「大事なこと……」
アイリスの中であの恒例行事がどういった扱いなのかは分からないが、今はそれよりも話したいことがあるらしい。電車の中で物理的な逃げ場はないというのに、左手をそっと握ったまま話題を変える。
「練習場所をどこにするか決めておかないと、です」
「転職活動の?」
「何を言ってるんですか?」
「いえ……、何でもないです……」
言い方は比較的穏やかだったが、纏う雰囲気は全く穏やかではなかった。アイリスにここまで圧倒されるのも久しぶりだった。
「ダンスの練習なんですから、ちょっと広めのところじゃないとだめだとは思いませんか?」
「それは分かりますけど、何か企んでません?」
明らかに何かの策を持っているような口振りである。穏やかではなかった雰囲気が、今度は怪しげなものに変わっていく。逢魔が時と呼ばれる、今の時間帯にぴったりの雰囲気だ。
「まだ日は長いですし、外でも大丈夫だと思いませんか?」
「……周りから見られないのなら」
言葉を重ねるごとに、怪しさは増していく。けれども、自分にそれを止める術はない。
「転んだりしても、地面が芝生なら安心だと思いませんか?」
「……」
そこまで聞いたところで、何となくアイリスの狙いが読めたような気がした。
「そんなわけで、私の家の庭をお貸しします!」
「絶対に見られちゃいけない人達に見られるじゃないですか」
的中してほしくなかった予想が、これ以上ない程綺麗に的中した。的中したことをこれ程までに喜べない予想もなかなかない。
「大丈夫ですって。お父さんは帰りが結構遅いですし」
「レティシアさんは?」
「……」
「……」
「……この時間は大体帰ってきてます」
「だめじゃないですか」
何なら、レティシアに見られる方がよりまずい。何だかんだ言ってアーロンは笑って受け流してくれることが多いが、レティシアは全力で突っ込んでくる。どちらがより厄介なのかは、考えるまでもなかった。
「大丈夫ですって。真面目に練習してたら、お母さんもあんまり悪戯してくることはないはずですから」
「状況がどう考えても真面目には思えないです」
一つ下の後輩の家の庭で、女子用の振付を教わる男子高校生。どこをどう切り取っても真面目なものにはならない。なるはずがなかった。
そして、真面目にやっていても、「あんまり」悪戯してくることはないはずという程度までにしか抑えられないと娘に評されるレティシアが、本当に厄介だった。
「それに、仮に見られなかったとしても、アーロンさんとレティシアさんの許可は必要ですよね?」
「お父さんとお母さんが断ると思います?」
「思わないです」
「ですよね」
夏休みの家庭訪問の印象からすれば、むしろ喜々として誘い込まれる未来しか見えない。厄介なのはアーロンも同じだった。
「なので、何にも問題はないです」
「問題しかないです」
「最近の葵さん、結構往生際が悪いですよね」
「そうさせてるのはアイリスさんですからね?」
往生際が悪くなるようなことばかりを仕掛けてきておいて、よく言うものだ。じっとりとした目を向けてくるアイリスを、そんな意味を込めて見つめ返す。
「まだ何かあるんですか」
先程は碧依から聞いた言葉。その先には敗北が待っているような気がするのは、あの時のイメージに引っ張られているからだろうか。
「どれくらい練習するつもりか分からないですけど、遅くなったら迷惑がかかるじゃないですか」
「迷惑だなんて思わないです」
断言だった。あまりにも迷いがない。
「……それに、僕だって帰ってから夕飯の支度をするのは大変ですし」
「でも、それはどこで練習しても同じですよね?」
「それは……」
まさにアイリスの指摘通りである。自分でも分かっていながらの言い訳で、気付かれなければそのまま押しきるつもりだったが、流石にそこまで甘くはなかった。
「いっそ、一緒にお夕飯を食べたらいいんですよ」
「いやいや……、流石にそれは」
とんでもない提案がアイリスからされるが、いきなり部外者がそこまでお世話になるのはいかがなものかと思う。準備に手間をかけさせてしまうこともそうだが、一家の団欒に自分が紛れ込むのも、気がかりと言えば気がかりだった。
そこで、一瞬何かの光景がフラッシュバックする。何かの耳とウェイトレス服が見えた気がするが、きっと気のせいだろう。
「お父さんとお母さんが断ると思います?」
「思いません」
「ですよね」
全く同じやり取りの繰り返しだった。断られる光景が本当に想像できない。自分のことながら、どれだけあの二人に気に入られているのだろうか。
「で、そのまま宿題をやってから帰ったらいいんです」
「それはアイリスさんが教えてもらいたいだけですよね?」
「ばれました?」
悪戯が暴かれた子供のように、口角をつり上げながらアイリスが言う。いかに押しきられそうになっていたとしても、流石にこの程度を見抜く余裕は残っていた。
「あんなに家に上げるのを嫌がってたアイリスさんはどこに行ったんですか」
「だって、もう何回か上げちゃいましたし……。それに、家に上げたくないんじゃなくて、私のお部屋がだめなだけです」
「僕が機会を窺ってるとは思わないんですか」
「優しい葵さんは、他人が嫌がることはしませんもんね?」
わざわざ「優しい」の部分を強調する言い方だった。にこにこと笑いながらそう言われてしまえば、信頼に背くことはできなくなる。
「さぁ、まだ反論はありますか?」
「……今してる話は、アーロンさんとレティシアさんの許可が出たらの話ですよね」
「さっきも言いましたけど、絶対に断らないですよ?」
「確認してみないと、絶対かどうかは分からないじゃないですか」
「してありますよ?」
「は?」
突然そんなことを言われて、二の句が継げなかった。驚きを隠すこともなく、ただただアイリスのことを見つめることしかできない。その視線の先で、アイリスがスマートフォンを取り出して何かの操作している。
やがて差し出された画面には。
「ほら」
「……」
アイリスが確認し、アーロンとレティシアが喜々として承諾を返している会話の履歴が、しっかりと残されていた。
「根回し……」
「全力です」
相変わらず、間違ったところで全力を発揮するアイリスだった。
こうなると、もう自分にできることは何もない。本日二度目となる決着の時が訪れる。
「練習場所、私の家の庭でも大丈夫ですよね?」
「……よろしくお願いします」
こちらも本日二度目となる敗北だった。




