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48. 小さな変化 (2)

「おはよう、湊君。水瀬さんも」

「おはようございます」

「おはよ」


 一年生の教室に向かうアイリスと別れ、碧依と共に二年二組の教室へと足を踏み入れる。そのまま自分の席へと向かえば、隣には既に登校していた悠が座っていた。実に一か月と少しぶりの対面である。


 鞄を机の横に掛け、悠の方を向いて椅子に座る。一つ前の碧依は、鞄から何かを取り出しているところだった。そして今まで通り、莉花の姿はまだない。


「久しぶりだね」

「ですね。ちゃんと家から出ました?」

「程々にね」

「その割には白いですよ?」

「それは湊君もだよ」


 お互いに代わり映えのしない肌の色を煽り合う。夏休み明けにも関わらず、その前と何も変わらないやり取りが、そこにはあった。


「結構焼けてる人も多いんだけどね」


 そんな悠の言葉を受けて、教室全体を見回してみる。そう意識してみると、程度の差はあるものの、確かにいくらか色が濃くなっているクラスメイトが何人も見つかった。


 色が濃くなった者もそうでない者も、大半が誰かと話し込んでいる。喧噪に紛れて何を話しているかなど聞き取れるはずもないが、共通しているのは、皆一様に明るい表情を浮かべている点だった。


 全員とまでは言わないものの、多くの人は長期休みが終わるという憂鬱さを昨日体感しているはずなのに、今は誰もそんな色を覗かせていない。長期休みに入る前のものとはまた少し違う、独特の雰囲気が教室内に漂っていた。


「結構外には出ましたけど、基本は屋内でしたから」

「そうなの? 何してた?」


 夏休み中に一切会わなかったこともあって、悠が何をしていたのかなど、想像することもできない。そして、それは悠からしても同じようで、その空白を埋めるための言葉が飛んできた。


 これまでで一番鮮やかに色付いた夏休みである。わざわざ意識して思い出す必要もないが、一応時系列順に列挙してみる。


「アイリスさんと浴衣を買いに行って」

「いつもの二人だね」

「アイリスさんとホラー映画を観て、アイリスさんと夏祭りに行って」

「うん?」

「アイリスさんと買い物に行って、アイリスさんの家に招かれて」

「……うん」

「アイリスさんとアルバイトをしてました」

「……そっか」


 列挙していく中で、悠の返事に含まれる困惑の色が濃くなっていくのがはっきりと感じ取れた。何を考えているのかなど、聞かずとも手に取るように分かってしまう。きっと、自分と同じことを考えているのだろう。


 正直な話、思い出すまでもなくアイリスに染まりきっているのは分かっていた。改めて口に出すと、その密度を実感できる。


「フリーゼさんばっかりだね」


 やはり同じことを考えていた。苦笑いを浮かべる悠は、それでも特に引いた様子はない。随分と心優しい友人である。


「流石に会い過ぎだよね。私と会った後も家に行ったんだ?」


 そんなタイミングで、何かの準備を終え、前の席から振り返った碧依が会話に混ざってきた。


「アーロンさんとレティシアさんに呼ばれて、ですね」

「一家に取り込まれそうになってない?」

「……間違ってはない、です」

「どういう状況……?」


 碧依はあくまで冗談として言ったのだろうが、それが冗談ではないことを知っているのは、今のところアイリスと自分だけ。予想外の反応を自分が見せたことで、当然の感想を悠が抱いていた。けれども、その答えはどこにもなく、むしろ自分も探しているものなのだった。


「着せ替え人形にさせられそうになってる……?」

「いや、もっと分からなくなったけど」


 ぼんやりと浮かんだ答えの一つを口にしたところで、謎は一層深まるばかりである。


「何にせよ、とにかく相変わらず仲が良いんだね」


 理解するのを諦めたらしい悠が、そんな形で総括する。不思議な関係ではあるが、そう評されても否定はしない程度には仲が良いと思っていいだろう。


「そうですね。可愛い後輩ですから」

「そうだ。聞いてよ、羽崎君」

「うん? 何?」


 自分の言葉を聞いて何かを思い出したのか、碧依が悠に話を振る。この場面で思い出すようなことが穏やかなことだとは思えないが、果たして何を言い出すのだろうか。また何か都合が悪いことを言い出した時のために、いつでも止められるように身構える。


 クラスメイトを相手にして、どうしてこんな態勢を整えなければいけないのかについては、あまり深く考えないことにした。それよりも大事なことはいくらでもある。


「葵君とアイリスさんね、距離感がおかしいんだよ」

「距離感? 何の話?」


 碧依の言葉を受けた悠の返事を聞きつつ、碧依が何を言いたいのかに思い至る。要は、今朝の電車の中でのことを言っているらしい。その程度のことであればと、少しだけ緊張を緩める。


「その話、私も聞きたいなー?」


 だが、緩めた瞬間、再び引き締めなければならなくなる声がした。


「あ、莉花。おはよ」

「おはよー、碧依。二人も。で、何の距離感の話?」


 振り返った先。いつもの四人組で最後に登校してくる莉花が、そこにいた。ちょうど碧依の言葉が聞こえるタイミングで教室に入ってきたらしく、興味を隠す様子など一切見られなかった。


「えっとね……。今朝の電車でなんだけど……」

「あぁ、一緒の電車なんだっけ?」

「そうそう。でね? 葵君とアイリスさん、二人してぴったりくっついて座ってたの」

「ぴったり……?」

「くっついて?」


 碧依の言葉だけでは状況を把握できなかったのか、悠と莉花が復唱しながら首を傾げる。


「そ。肩がずっとくっついてるくらいの距離。夏休み前はそうでもなかったのに」

「ほぉー……?」

「何ですか」

「夏休みの間、何があった?」

「特に何も」


 碧依の補足で理解に至った莉花が、面白いものでも見つけたような目付きで自分を見る。これから根掘り葉掘り聞き出すと、その目がはっきりと語っていた。


「そんなわけないでしょ」

「あるんですよ」

「何もなくて距離感だけ縮まるとか、何その二人。珍獣か?」

「見た目で言ったら、二人ともレアな見た目をしてるよね」

「あ、碧依もそう思う? 私も言ってて思った」

「誰が客寄せパンダですか」


 失礼千万な話である。たとえ、とある個人経営の洋菓子店で既に客寄せパンダになっているとしても、だ。


「何もなかったわけじゃないとは思うけどね」


 一瞬話が逸れかけたところで、悠がぽつりと呟く。こちらをじっと見つめるコバルトブルーの瞳は、その奥に自分の知らない感情が潜んでいるような気がした。


「お? 何か知ってるんだ?」

「知ってると言うか、今さっき聞いたと言うか……」

「私にも話そうか?」

「湊君本人から聞いたらいいと思うよ」

「話せ?」


 そう言って促す莉花の表情は気になるが、今さっき悠にも話したことを躊躇う理由は特にない。先程悠に話した時と同じように、もう一度時系列順に列挙していく。


「……」


 一通り同じことを話し終えた後、莉花の動きが止まった。


「何かありました?」


 固まったままでは話も進まない。再起動を促すように問いかけるが、反応は別のところから返ってきた。


「多分、戸惑ってるんじゃないかな?」

「そうだね。僕も聞いた時は戸惑ったし」

「そんなに戸惑うような話でした?」

「だったね」

「だったよ」

「……そうですか」


 多数決でそう決まってしまったのなら仕方がない。実際に体験した者と、その話を聞いただけの者では、受け取る印象が違うのも無理はないだろう。


「湊君さぁ……」


 この夏休みは他人から見れば戸惑うようなものだったことが確定してから、ようやく莉花が再起動を果たす。


「何です?」

「アイリスさんと付き合ってるの?」

「いえ?」


 そんな莉花の感想に、はっきりと否定を返す。自分にも、そしてアイリスにも、そんな関係になった覚えは一切なかった。アイリスの方は詳しく知らないが、この手のことで認識がずれることもそうそうないだろう。


「付き合ってないのに、その密度で会ってるの?」

「アルバイト先が同じなのが大きいですよね」

「いや、そういうことじゃなくてさ?」

「言いたいことは分かるよ、莉花。付き合ってても、多分ここまでは会わないよね」

「もう恋人以上か?」

「ご両親にも取り込まれそうになってるんだって」

「恋人以上、家族未満?」

「もう結婚秒読みだね。式には呼んでね?」

「……」


 何か突っ込んでも反撃を受けるだけだと思って黙っていれば、碧依と莉花だけでどんどん話が進んでいく。


「残念。あの子の隣に立つのは私だから」

「莉花?」

「いくら湊君でも、その役は譲らないし」

「莉花?」

「碧依、想像。あの子のそういう姿」

「……莉花!」

「ね!」


 突っ込み役がいなければ、会話はここまで暴走していく。そんなことを示すいい例が、目の前で繰り広げられていた。


「会話になってるんですかね、あれ」

「言いたいことは伝わってるみたいだし、あれでいいんじゃないかな?」

「碧依さんは渡井さんの名前を呼んでるだけですけど」

「いいんじゃないかな」


 そう言って優しげな目で碧依と莉花のことを眺める悠からは、諦めの感情が滲み出ていた。その会話に混ざったところで何一ついいことはないと、はっきりと理解したうえでの行動らしい。


「花嫁に逃げられそうな花婿二人……」

「絶対にあの二人に言っちゃだめだからね?」


 怯えを含んだ苦笑いで釘を刺す悠の表情が、とても印象的だった。




「おっ、来た来た。おはよー、アイリス」

「おはよう、アイリスさん」

「おはよー、二人共」


 玄関すぐ近くの階段で葵と碧依の二年生組と別れ、一年四組の教室に入る。自分の席の後ろと左隣には、既にその席の主が腰を下ろしていた。


「一か月くらいしか経ってないけど、それでも久しぶりって感じがするわ」

「ね。一学期は毎日話してたからかな?」

「結局、ずっと会えなかったもんね」


 鞄の中から必要なものを取り出しながら、紗季と純奈にそう返す。その言葉通り、この会話が、夏休みに入る直前以来の会話だった。


「アイリス、結構な頻度でバイトに入ってたよね?」

「確かに。何回か誘ったけど、全部予定が合わなかったもんね」

「ごめんね? 初めてのバイトだし、どれくらいシフトを入れたらいいか分からなくて」

「まぁ、終わったことをどうこう言っても仕方ないし、また今度ってことで」

「うん、ありがとね」


 そう言って快活に笑う紗季。やはり、持つべきは気のいい友人である。


「それで」

「ん?」

「湊先輩とは、どのくらい会ってたの?」

「あ、私も聞きたいかも」

「葵さんと?」


 紗季が浮かべる笑みの種類が若干変わったような気がしないでもないが、果たしてそれは自分の気のせいなのだろうか。どことなく面白いことを探しているような、そんな雰囲気が漂っている。


 普段であれば多少の警戒もしたはずだが、純奈にまでそう言われてしまったこと、休み明けで気が緩んでいたこともあって、何も考えずにこの夏の出来事を口にしてしまう。


「えっと……、一緒に浴衣を買いに行って」

「お、何か夏っぽい」

「アイリスさんの浴衣姿か……。ちょっと見てみたいかも……」

「一緒にホラー映画を観て」

「あぁ、期末の時に言ってた」

「本当に観たんだね」

「一緒に夏祭りに行って」

「そこで浴衣か」

「お揃いだったりしてね?」

「一緒にお買い物に行って」

「……まだ続く?」

「思ったよりも多いね?」

「私の家にも来てもらって」

「……」

「……」

「あとは、一緒にバイトをしてた」

「多くない?」

「多いね?」


 話し終わった頃には、紗季と純奈が若干引いていた。快活に笑っていた気のいい友人と、滅多なことでは人を悪く言わない心優しい友人はどこへ行ってしまったのだろうか。


「そう?」

「自覚なしか」

「まあでも、一学期にあれだけ一緒にいたから、そんな感覚でもおかしくないのかもね」

「それで済むかな……?」


 何とか納得しようとする純奈に対して、紗季は未だに思案顔。どうも何かが引っかかり続けているらしい。


「一応聞いておくけど、付き合ってるわけじゃないんだよね?」

「……違う、よ?」

「お? どうした? 何かあったか?」


 紗季のそんな問いかけのせいで両親のことを思い出してしまって、少しだけ反応が鈍る。そして、そんな反応を見逃す紗季ではなかった。


「いや……」


 言ってしまっていいものか、僅かな時間で考える。純奈ならまだしも、紗季に聞かれると面倒なことになりそうだと、頭の片隅では警鐘が鳴っていた。


「何かあったんだね?」


 そう考えていたのに、純奈も意外と興味があるようだった。普段は落ち着いているように見えるが、同じクラスなので、当然自分と同い年。考えてみれば、興味があって当然の話である。


「葵さんと私がってより、私のお父さんとお母さんなんだけど……」


 そんな訳で、言葉を選びながら話を進めることにする。


「アイリスのお父さんとお母さん」

「うん。二人がね、葵さんのこと大好きなんだ」

「アイリスと同じで?」

「違っ……! あ、いや! 先輩としてね!?」

「はいはい、分かったから。それで?」

「ほんとに分かってるの……?」


 嫌な笑みを浮かべた紗季を見ていると、どうも都合がいいように解釈されている気がしてならない。けれども、何を考えているのか問い詰めるのは、それはそれで絶妙に怖かった。何が飛び出してくるか分からない、まるでびっくり箱のような存在である。


「はぁ……。それで、特にお母さんなんて、葵さんのことを着せ替え人形にしたいって言ってて」

「それは大好きなのかな?」


 独特の愛情表現に疑問を覚えた純奈が首を傾げる。随分と奇怪な愛情表現だが、本人曰く「大好き」とのことなのだから、それ以外に表現のしようがない。


「でも、それってアイリスには関係ないんじゃない?」

「……お父さんもお母さんも、『葵さんを息子にしたい』とか言い出さなかったら、関係なかったかもね」

「は?」

「え?」


 両親が発した決定的な言葉を口にした途端、紗季と純奈の反応が見事に重なった。声だけでなく、表情までほぼ同じである。顔全体が、何を言っているのか分からないという困惑を物語っていた。


「だって、それって……」

「え? アイリス、湊先輩と結婚するの?」

「違うよ!? お父さんとお母さんが勝手に言ってるだけだからね!?」


 一気に飛躍した紗季の言葉に、思わず語気が強くなる。きっと今、自分の頬は赤くなっているはずだ。そう自覚できる程に、頬に熱が集まり始めていた。


「そっか……。だから付き合ってるか聞いた時、あんな反応だったんだね……」

「違うってば!」

「照れなくてもいいって。一学期から分かってたから」

「何を!?」

「聞きたい?」

「言わなくていい!」


 混乱する頭で、それでも紗季の言葉を食い止める。どう考えても、そこから続く言葉がこの状況を好転させるものとは思えなかった。


「なるほど……。それで、アイリスさんはちょっと意識しちゃったんだ?」

「……だって、葵さんが横にいる時にそんな風に言うんだもん」

「あー……」


 当時の状況を何となく理解したのか、純奈が何とも言えない表情を浮かべていた。興味は尽きないものの、これ以上深く探ってもいいのかどうかを迷っているような、そんな表情である。


「ま、それは多少なりとも意識はするか」

「でしょ? だから私は悪くないの。悪いのは葵さんとお父さんとお母さん」

「いや、湊先輩は違うんじゃ……?」


 迷っていても、自分の言葉に反応することはできるらしい。この場にはいない葵に同情するような眼差しの純奈が、やや控えめに否定の言葉を口にする。


「いい? 純奈」


 だが、その理屈は自分には通用しない。


「え?」

「葵さんが可愛くて、ちょっと大人びてるから、お父さんとお母さんが気に入っちゃったの。だから、葵さんも悪いの」

「あ、うん……。そっか……」


 力説した主張を分かってくれたのか、純奈が控えめに頷く。目が逸らされていたのは、きっと気のせいに違いない。


「それで?」

「ん?」

「アイリスはどこまで妄想しちゃったのかな?」

「えっ……」


 これで話は終わったとばかり考えていたのに、紗季の中ではまだ終わっていなかったらしい。不意を突かれて、思わず驚きの声を漏らしてしまう。


 それが迂闊だった。たったこれだけの反応でも、素の反応となれば、そこに含まれる情報量は自分が思っている以上に多い。


「その反応。何かは考えたね?」

「あ、いや……。えっと……」

「白状した方が楽になれるよ?」

「……」


 正直に言えば、少しは考えた。あんなことを本人が隣にいる中で言われて、考えない訳がなかった。何なら、葵が帰った後も少し考えた。


 けれども、それを今言えるかと問われると、それはまた別の話である。


「アイリスの妄想が逞しいのは、もうとっくに分かってるし」

「妄想が逞しいって何!?」


 聞き捨てならない言葉を口にする紗季。学校でそんな姿を晒した覚えなどないのに、一体何を言っているのだろうか。


「前に、湊先輩と水瀬先輩にウェディングドレスを着せてたでしょ」

「……あったね、そんなこと」


 晒していた。


「何それ?」

「あ、純奈はその時いなかったか」

「多分ね。覚えがないから」

「アイリスね、妄想の中であの二人にウェディングドレスを着せて、結構ご満悦だったことがあるんだよね」

「何してるの?」

「返す言葉もないです……」


 純奈の感想と不思議なものを見る目が胸に突き刺さる。どうやら、自分は妄想が逞しい部類で間違いないようだった。


「で、どこまで?」

「いや、その……」


 紗季のさらなる攻勢に、視線がふらふらと彷徨ったまま定まらない。傍から見れば、自分の目は随分とスムーズに泳いでいることだろう。


「付き合って同棲したりとか?」

「う……」

「式を挙げちゃったりとか?」

「うぅ……」

「子供はいたりするのかなー?」

「うぁあ……!」


 紗季が何か一言発する度に、その光景が頭に浮かぶ。特に、後ろ二つの破壊力がずば抜けていた。


「顔が真っ赤なアイリスさんも可愛い……!」

「ねー。アイリスはこんな役回りが一番輝くよね。それで? そろそろ答える気になった?」


 何やら嬉しくない評価を下されているような気配があったが、今はそれどころではなかった。自分の処理能力は、既に限界を迎えている。


「式は……、挙げました……!」


 結果、言わなくてもどうにかなったはずの妄想の大公開となった。


「やっぱりそこは外せないよね」

「憧れてたのかな?」

「もう……! 許してください……!」


 なかなか感じることのない熱量を顔に宿しながら、どうにか会話を終わらせてもらえないかと二人に懇願する。恐らく誰が見ても分かることだろうが、これ以上二人の攻勢には耐えられそうになかった。


「いやいや。ここからでしょ」

「そうだね。もっと詳しく話してもらわないと」

「ひぃ……!」


 だが、返ってきた答えは揃って否定。獲物を見つけた猛禽類のような視線が、真っ赤になった自分の顔に突き刺さる。


 逃げ場など、どこにもありはしなかった。


「助けてぇ……! 葵さん……!」

「そこで助けを求めるのが湊先輩な時点で」


 思わず漏れた声も、今の紗季と純奈にとっては燃料にしかならない。


 朝のショートホームルームのために担任の教師がやって来るまで、まだ少し時間がある。それまで無事でいられる自信は、残念ながらどこにもなかった。




「もう疲れたぁ……」

「暑かったもんね、体育館」

「しかも長かったからね」


 始業式を終えて、教室へと帰ってくる。冷えた空気など存在しなかった体育館と違って、教室は快適な温度に保たれていた。


 席に着いて、そのまま上半身を机に預けてしまう。


「疲れたのは二人のせいだからね?」


 さも始業式が疲れた原因かのように言う紗季と純奈に、その認識を改めるように伝える。暑さも多少は影響しているが、一番の原因はこの二人だ。


「楽しくて、つい」

「アイリスさん、反応がいちいち可愛いから……」


 そんな理由で追い詰められたのでは、堪ったものではない。せっかく今朝は普段通りに接することができたのに、またやたらと意識させられた今、どうやって葵に接するのが正解なのかが分からなくなってしまっていた。


「しばらく葵さんとまともに話せないかも……」

「大丈夫だって。今日の放課後には普通に話してるだろうから」

「そうだね。その頃には流石に落ち着いてるだろうし」

「私のことを何だと思って……」

「湊先輩が大好きなアイリスちゃん」

「先輩としてだからね?」

「知ってるよ?」

「ほんとに……?」


 いまいち信用できない紗季の言葉なのだった。




「あ、私、葵君と羽崎君と同じだった」

「え、何? ってことは、私だけ仲間外れ?」

「みたいですね」

「敵同士だね、莉花」

「嘘だ……」


 本日最後の時間となるホームルーム。扱われるのは、思ったよりも近くに控えている体育祭のこと。受け取った資料には、今後の各団の練習場所が日付ごとに記されていた。


 全員が資料に目を通している中、呼び出されて自身の振り分けを伝えられていた碧依が、戻って来るなり莉花を悲しみの淵へと追いやっていた。どうやら、碧依の振り分けも朱雀だったらしい。四人の中で、莉花だけが別の団という形になってしまっていた。


「まぁ、そんなに上手く全員同じ団にはならないよね」

「そう言う割には、三人は同じ団……」


 慰めるような言葉を悠が口にするが、莉花としてはそんな言葉だけで納得できるものではない様子だった。仲が良い四人組で自分だけが仲間外れという状況は、自分が想像しているよりもショックが大きいもののようだ。


「団は違うけど、莉花のことはちゃんと応援してあげるから」

「ほんとに? ちゃんと全力で応援してくれる?」

「するする」

「……一番応援してもらえるのは同じ団ですけどね」

「……湊君」


 特殊な悲しみに暮れる莉花が、やけに真剣な表情で話しかけてくる。


「何ですか」

「団、変わって」

「無理です」


 何を言い出すかと思えば、そんなことだった。生徒にはどうすることもできないことを、生徒に頼み込むのはやめてほしい。自分にはどうしようもないのに、何故か罪悪感を覚えてしまう。


「えー……。碧依と一緒がいいー……」

「私も莉花と一緒がよかったけど、こればっかりは仕方ないからね。今回は諦めて?」

「えぇー……?」


 莉花の気分がどんどん沈み込んでいくのがよく分かる。間違いなく、今この教室の中で一番落ち込んでいるのが莉花だった。


「湊君としては、もっと気になる人がいるんじゃない?」


 そんな莉花の様子を尻目に、悠が意外な一言を発する。これまで、あまり悠から聞くことがなかった種類の問いかけである。


「言うじゃないですか」

「でも、気にはなるでしょ?」

「まぁ……」


 気にならないと言えば嘘になる。今朝、そんなことを話したということもあって、多少は意識していた。悠には、そんな気持ちを小さな態度から見透かされたのかもしれない。


「お世話係としては、近くにいてくれた方が安心だもんね?」

「よくもまあ、そんな前の会話を……」


 口にした本人ですら忘れかけていたのに、どうして悠が覚えているのだろうか。何か重要なことを話していた訳でもなかったはずなのに、だ。


「聞きに行ってみる?」

「どうせこの後来ますって」

「そう?」

「こんなイベント事があって、来ないわけがないです」


 珍しくからかうような口調の悠だったが、そこまでするつもりはなかった。最早確信に近い予感が、今の自分にはある。一学期の間、アイリスと接し続けて会得した、必要なのか分からない技能だった。


「そっかそっか」

「何です」

「フリーゼさんのこと、よく分かってるんだなって」


 今度は嬉しそうな口調。今日の悠は随分と上機嫌らしい。


「今日はやけに攻めてきますね。何かありました?」

「特にどうってことはないけど、久しぶりに話せて楽しくなってるのはあるかも」

「随分可愛いことを言うんですね。そんなだから女の子扱いされるんですよ」

「もう女の子の服を着ちゃった湊君程じゃないけどね」

「……」


 初めてと言ってもいいくらいに、悠に言い負かされた。綺麗なカウンターに、何の言葉も出てこないまま黙り込む。


「……いつか、羽崎君にも何かを着せます」

「怖。やめてよ」


 対等な関係にするためには、悠にも何かを着てもらうしかない。そんな意味の分からない決意をしながら、ホームルームの時間を過ごすのだった。




「葵さん葵さん葵さん!」

「うるさいです」

「ごめんなさい」

「素直だ」

「さっきとは大違いだね」


 どうせ一日しかないのに登校させられた、金曜日の放課後。ホームルームが終わっても、教室内の話題は体育祭一色だった。


 誰と誰が同じ団なのか。


 練習場所の振り分けの不満。


 どの競技に出るか。


 尽きることのない会話がどんどん漏れ聞こえてくる。短期集中型の練習期間も含めて、これから本番まで、体育祭が話題の中心であり続けるのだろう。そう感じさせる空気だった。


 そんな中、二年生の教室までやって来たアイリスが、喧噪に負けないようにと他人の名前を連呼する。やって来たところまでは予想通りだが、その興奮具合と人数は予想できていなかった。


 やたらと嬉しそうなアイリスの隣には、苦笑いを浮かべながらその様子を見つめる紗季と純奈の姿がある。


「いつにも増して楽しそうだね、アイリスさん」


 そのアイリスの様子は、当然近くにいる碧依にも伝わる。感情が笑みから溢れ出しているアイリスを見つめる碧依の目付きは、「学校の先輩」と表現するよりも、もっと近しい、それこそ「姉」とでも表現した方がいいのかもしれない。


「落ち着きがないのはいつものことですよ」

「どういうことですか?」

「もっと落ち着いてほしいってことです」

「お淑やかな私がいいと?」

「……それも微妙ですね」

「どうしてほしいんですか」


 目の前のアイリスが珍しく呆れ顔。あれこれ考えた結果、普段のアイリスが一番なのだった。


「さっきから大変なんですから」


 そう言ってアイリスを指差すのは紗季。いつもであれば、そんな扱いをされたアイリスの抗議の声が聞こえたのだろうが、今回に限っては不問らしい。それよりも話すべきことがあるといった様子で、一枚の紙を握り締めている。


「落ち着けって言っても、全く言うこと聞いてくれなかったのに……」

「やっぱり湊先輩が、一番のお世話係ってことですね」

「譲りましょうか?」

「遠慮しておきます」


 自己紹介の時に自分で言っておきながらこう言うのもどうかと思うが、別にその立場にこだわるつもりなど毛頭なかった。譲れるのなら譲ってしまってもいいということで純奈に提案するが、考える素振りすらなく断られてしまう。


「そんなことより!」


 会話が途切れるタイミングを見計らっていたらしいアイリスが、そこで持っていた紙を机の上に広げる。是非確認してみてほしいと言わんばかりの表情だった。


「見てください!」


 実際、口にも出している。


 広げられたのは、この場の全員が予想していた通りの一枚。一年四組に所属している生徒の、団の振り分けだった。


「あ、星野さんは僕達と同じなんですね」

「みたいですね。アイリスから少し聞きました。羽崎先輩もですよね?」

「うん。よろしくね」

「はい! よろしくお願いします!」

「あ、ちなみに、水瀬さんも同じだよ」

「ほんとですかっ!」


 悠の言葉に、紗季の表情がぱっと明るくなる。


「そうだよー。私もさっき知ったんだ」

「知ってる同性の先輩がいてよかったです!」

「あぁ……。アイリスさんが絶対に向けてくれない素直な目を向けてくれてる……」


 その紗季からきらきらとした目を向けられ、恍惚とした表情を浮かべる碧依。言い方を変えれば、だらしない顔とも言う。


「それは碧依さんのせいですよ」

「今なら何を言われても許せちゃう……。……いつもなら女装させようとするけど」

「……」


 目が本気だった。雰囲気が一瞬で切り替わった辺りが一番怖かった。これ以上触れるのはよくないと、頭の中で本能が警鐘を鳴らしている。


 それ以上何も言わずに、再び振り分けに視線を戻す。不穏なことを言い放った碧依は、紗季との会話に戻っている。紗季と性格の似ている莉花と上手くやっている辺り、二人も相性はよさそうだった。


「で、長峰さんは渡井さんと同じ団、と」

「お? ほんと?」

「私もアイリスさんから聞きました。よろしくお願いします」

「ん、よろしくね。可愛がってあげるよ」

「程々にしておいてくださいよ?」

「皆のお母さんか?」

「釘を刺しておかないと、何をしでかすか分からないですから」

「刺されても、しでかす時にはしでかすよ?」

「自分で言わないでもらえます?」


 自信たっぷりといった様子で言うことではない。隣で純奈が不安そうな表情を浮かべているのに気付いていないのだろうか。


「頑張ってくださいね」

「な、何とか……」


 たったこれだけのやり取りで何かを感じ取ったのか、それとも一学期からの積み重ねがあるのか。何にせよ、純奈の顔から不安が消えることはなかった。


「相談してくれたら、その時は羽崎君を派遣しますから」

「何で僕?」

「囮にして、その間に逃げてください」

「やめて?」

「それはいいんですか……?」

「私は二兎を追うよ?」

「来ないで?」


 今すぐ二兎を追いかけそうな莉花を横目に見ながら、今度はアイリスへと視線を向ける。自分の番を今か今かと待ちわびるその姿を見ていると、途端に悪戯心が湧いてしまうのだから不思議なものである。


「それで、どうして二人の振り分けでそんなに興奮してたんですか?」

「なんでですかっ!」


 表情が一気に険しくなった。


「私の! 団を! 見てください!」


 わざわざ自身の名前が記された欄を指差してまで主張するアイリス。そんなものを見なくとも、アイリスが所属することになった団など、この教室を訪ねてきた時点で分かりきっていた。あれだけ嬉しそうにしていて、予想と違う団であるはずがない。


「朱雀」

「はい! 一緒です!」


 そこでアイリスが再び破顔する。


 確率としては四分の一と低めではあったが、見事に引き当ててきた。だからこその興奮だったのだろう。


「これでいつでも葵さんに肩を貸せますね?」

「まだそんなことを言ってたんですね」

「大事なことですから」

「転びませんって」


 朝の会話を引きずっているようだが、生憎そんな失態を見せるつもりはない。仮に転んでしまったとしても、頼る相手はまず間違いなく悠だろう。


「私はその機会を虎視眈々と狙ってますよ」

「ストーカーと同じ発想ですよ」

「愛があれば大丈夫です!」

「ストーカーは皆そう言うんです」


 随分とオープンなストーカーもいたものだ。潔いにも程がある。


「というか、天敵の一人とも同じ団ですけど、それは大丈夫なんですか?」

「呼んだ?」

「天敵で反応していいんですか?」


 これ以上ない程に切ない反応の仕方のような気がするが、碧依的にはそれでいいのだろうか。自分が同じ立場だったとしたら、あまり積極的に反応はしたくない。


「もう天敵でも何でも、アイリスさんに認識されてるならそれでいい気がしてきた」

「末期ですね」


 ここにも怪しげな考えの人間が一人いた。先程の莉花と合わせて、これで三人目である。この集団の属性が、やや危険な方向に傾いてきたのかもしれない。


「大丈夫ですよ」


 そんな碧依を一度だけ見てから、アイリスの視線が戻ってくる。


「葵さんが守ってくれますもんね?」

「……いやまぁ、できる限りのことはしますけど」


 疑う様子が一切ない純粋な目で見られてしまえば、誤魔化すことすらできない。言えることは、ただそれだけだった。


「ほら、大丈夫です」

「でも、男の子と女の子で練習が違ったりするんじゃない?」

「……」


 そう豪語するアイリスだったが、天敵たる碧依からの一言で黙り込む。どうやら、その辺りのことを失念していたらしい。


 やや時間を使い、やがてアイリスが導き出した結論は。


「……葵さんもこっちに来て練習しません?」

「無理です」

「可愛がってあげるね、アイリスさん?」

「やですっ! 助けてください! 葵さん!」


 まだ振り分けが決まっただけだというのに、随分と賑やかなやり取りだった。そんなやり取りも、教室を包む喧噪が綺麗にすっぽりと飲み込んでいく。


「ほら、放課後には普通に話してる」

「うん。楽しそうだね」


 早くも碧依からじりじりと距離を取り始めるアイリスを見つめながら、紗季と純奈が何事かを呟く。ここに来るまでに何かがあったようだが、それを知らない自分にとっては、その言葉の意味もよく分からないままなのだった。

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