47. 小さな変化 (1)
九月一日、金曜日。夏休みが明けて、二学期最初の登校日。どうせ一日で休みに入るのだから、いっそのこと今日も休みにしてしまえばいいのにと思いつつも、登校日という現実は変わらない。いつも通りの支度を整えて、部屋を出る。
九月に入ったからといって一気に涼しくなる訳でもなく、一日の中でも比較的涼しいはずの朝なのに、じっとりとした熱気が全身を包んだ。
太陽には少し雲がかかっているものの、雨が降り出すような気配は一切ない。先程見た天気予報も、一日中晴れのマークが並んでいた。
「……」
日陰の少ない道を、駅に向かって歩く。途中にある日陰など、河川敷の桜並木くらいのものだ。きっと、今頃はその常盤色の葉を風に揺らしていることだろう。
けれども、今日は河川敷を通らない、駅までの近道を選択する。普段であれば通らない道だが、夏休み明けの朝から無駄に消耗したくないという思いの表れだった。少しでも日差しの中を歩く時間を短くする選択である。
そうして歩くことしばらく。ほんの少しだけ額に汗が浮かんできた頃、この時間帯に訪れるのは久しぶりとなる、最寄り駅の駅舎が見えてきた。
普段であれば、改札の前のスペースにアイリスがいる。いるかいないかの確率としては半々程度のものだ。果たして今日はいるのだろうかと、そう思いながら駅舎の中を見渡す。
「……」
ある程度予想していた通り、アイリスの姿はなかった。あれだけ目立つ容姿をしたアイリスである。もしこの場にいれば、見逃す訳がない。恐らくは、起きる時間が少しだけ遅かったのだろう。
そんな風に考えながら、いつもアイリスを待っているベンチへと向かう。
通勤通学の時間だというのに、相変わらず人影もまばらなホームを眺めながら待つ。これまで二人で乗ってきた電車の発車時刻までは、まだ余裕がある。何かを考えるでもなく、ただぼんやりとしていると、背後から近付いてくる小さな足音が聞こえてきた。
それと同時に、どこか覚えのある、少しだけ甘い香りが漂ってくる。そして唐突に現れる、二つの手の平。それが両方の目を覆い隠し、視界が暗闇に染め上げられた。
「だー……」
「アイリスさん」
「速いぃ!」
お決まりの文句を言いきられる前に、そう答えてしまう。この場で自分相手にこんなことをする人物など、一人しか思い浮かばない。そして、その声を聞き間違えるはずもなかった。
「おはようございます、アイリスさん」
「おはようございますぅ……」
振り返って、声をかける。そこにいるのは、当然アイリスである。やり取りを完遂できなかったのが不満なのか、妙に視線が厳しい。二学期が始まって最初の会話なのに、いきなり出鼻を挫かれた形だった。
「最後までさせてくれてもよかったじゃないですか」
「歩いてきた辺りで気付いたので」
「私に対するレーダーが正確過ぎません?」
「きちんと居場所を把握しておかないと……」
「おかないと?」
「見失いそうで」
「誰がちっちゃいですかっ」
合流して早々、会話がいつも通りの流れに乗る。二学期になったからといって、そこが何か変わる訳でもなかった。
「冗談ですって」
「どうだか。葵さんのことですから、ほんとにそう考えててもおかしくないです」
「僕がアイリスさんを見失うわけがないじゃないですか」
「……それは、どういう……?」
「親子とか、兄妹ですから」
「ですよね! 知ってましたっ」
またもや何かが不満だったのか、そんな言葉と共に顔を背けられてしまった。どうやら割と本気で怒っているらしい。
「それも冗談です」
「じゃあ、何なんですか」
あまり信用していないのが丸分かりな目で、じっとりとこちらを見るアイリス。ただ、その目には、うっすらと期待も混ざっているようにも見える。
そんな目をされて、これ以上誤魔化す気など起きもしなかった。
「大事な後輩を見失うわけがないです」
「……だったらいいです」
何とか合格点は貰えたらしい。不満げな表情は崩れ、照れくさそうな色が見え隠れしていた。何度も目を逸らしながら、その度にちらちらと瑠璃色が自分の方を向く。
そんなタイミングで、駅舎に電子音が響き渡った。いつも乗っている電車の改札が始まったことを告げる音である。
「ほら、葵さん。行きますよ」
「えぇ」
立ったままだったアイリスに促されて立ち上がる。まだ電車はホームに到着していないので、実はそこまで急ぐ必要もないのだが、アイリスはいつもこのタイミングで改札を抜けようとする。これまでは大して気にしてもいなかったものの、何故か今日は気になってしまった。
「アイリスさん」
「何ですか?」
そんな訳で、改札を抜け、ホームへと向かう間に尋ねてみる。
「いつも結構早くからホームで電車を待ってますけど、何か理由でもあります?」
「あ、嫌でした?」
「いえ、大丈夫です。けど、少し気になって。向こうならベンチもあるのにって」
「葵さんに嫌な思いをさせてないならよかったです。まぁ、そんなに大した理由じゃないんです」
ホームのいつもの場所まで辿り着いたところで、アイリスが答えを口にし始める。
「私、何かを待つのが好きなんですよね」
「何かを待つ?」
少しだけ顔を上げ、どこか遠くを見つめるように空へと目を向けるアイリス。そうして呟かれた答えは、どうしてもやや曖昧なもののように思えて、思わずそのまま聞き返してしまった。
「はい。今なら電車ですし、それこそ葵さんが駅に来るのを待ってるのも好きです」
「はぁ……?」
さらに返ってきた答えは、やはりあまり聞くことのない類のものだった。けれども、アイリスの表情に冗談を言っている雰囲気などなく、至って真面目に話していることが窺える。
「何て言ったらいいんでしょうね? 楽しいことを待ってる時間が好きと言うか……。でも、それだと電車とかはちょっと違うんですけど……」
アイリス本人も、はっきり理由を把握している訳ではないらしい。言語化するのに苦労しながら、それでも何とか説明しようとしてくれていた。小さく首を傾げながら、続く言葉を紡ぐ。
「まぁ、よく分からないです」
「えぇ……」
諦めていた。
「だって、それ以上の理由なんてないですもん。何となく待つのが好きってだけで……」
「そういうものですかね?」
「そういうものです」
本人にそう言われてしまえば、それ以上深く尋ねることはできない。元々絶対に理由が知りたいということもないので、特に問題はないのだが。
そんなアイリスの言う待ち時間も、二人でいれば瞬く間に過ぎ去っていく。これまた久しぶりとなるこの時間の電車が、聞き慣れた金属音を伴ってホームへと滑り込んできた。
いつ見ても、人気の少ない車内である。窓の外から見える乗客の数は、ほんの数人程度だった。これからある程度の人数が乗ってくるとはいえ、経営状況が心配になる見た目ではある。
当然、いつもの席も空席のまま。アイリスと二人、何も言わずとも、自然とその席へと足が向かう。
そのまま二人で腰を下ろしたところで、何かの違和感を覚える。
「うん……?」
「どうかしました?」
何が違うのか、はっきりと分かった訳ではない。それでも、明らかに夏休み前とは何かが違う。そんな感覚を抱きながら漏らした声に、隣に座ったアイリスが反応する。
「いや、何かこう、これまでと何かが違うというか……」
「んー……?」
いまいち要領を得ない答えになっているのは自覚しているが、自分でも答えが分からないのだから仕方がない。アイリスも一緒になって考えてくれているようだが、こればかりはどんなに聡明な人物であっても正しい答えには辿り着けないはずだ。
「あ」
そう思っていたのに、アイリスは何かに気付いたかのように小さく声を零す。
「何か気付きました?」
「スカートじゃないのが気になるとか?」
「気になって堪りますか」
微かに期待したのに、聞くだけ無駄な発言でしかなかった。あれは何度履いても慣れるものではない。そもそも、何度も履く機会があること自体がおかしいのだ。
「葵さんなら、女の子の制服でも絶対に大丈夫ですって」
「どこにも大丈夫なところが見当たらないんですけど?」
何故か自分を安心させるように微笑んで言うアイリスだったが、精神的にも社会的にも問題しか見当たらなかった。安心できる要素は一つもない。
「文化祭なんかで着る予定とかってありませんか?」
「何も決まってないですし、そうなったら逃げます」
「碧依先輩とか渡井先輩が逃がしてくれますかね?」
「……逃げてみせます」
「自信はないんですね」
どうせ逃げきれないだろうと、そう考えていそうな笑みを浮かべたアイリスが体を前傾させ、自分の顔を覗き込んでくる。触れていた腕が離れて、代わりに車内の冷えた空気が肌を撫でる。
「もしそうなっても、アイリスさんには見せないようにします」
「何があっても、絶対に葵さんのクラスにだけは行きますね」
「誰も来ないような校舎の隅に引きこもってやり過ごします」
「葵さんの担当の時間を調べてから行きます」
「どうやってですか」
「猫耳ウェイトレスの写真を碧依先輩か渡井先輩に見せたら、きっと簡単に教えてくれると思いませんか?」
「教えますね。やめてください」
担当の時間が知られるだけでなく、爆弾まで碧依や莉花に見られることになる。完全なる自分の一人負け状態だった。何もいいことがない。
「まぁ、この写真は見せないんですけど」
珍しくそんな願いが通じたのか、望んだ通りの言葉がアイリスの口から出てきた。欲を言うならば、今スマートフォンの画面にその写真を表示するのもやめてほしかった。
「って、待ち受け画面じゃないですか、それ」
「そうですよ? 何か?」
「『何か?』じゃないんですよ。誰でも見られるようにしないでくださいって」
わざわざその写真を表示したのかと思っていたのに、実態はまさかの待ち受けだった。猫耳姿のアイリスと自分が鏡合わせのポーズを取っている、とても身に覚えのある一枚である。
「見せませんって。可愛い葵さんは私が独り占めですもん」
「横から誰かに見られるかもしれないじゃないですか」
「一枚だけなら仕方ないです。それよりも、朝起きて時間を確認する時にこの写真。寝る前に時間を確認してこの写真。それ以外でも、何かある度にこの写真。こっちの方が大事です」
「危ない薬みたいになってませんか?」
それはもう中毒性のある何かだ。可能ならば、全力で距離を置いた方がいい。
「可愛い葵さんは、最近の私の癒しですから。疲れも吹き飛びます」
「それにしたって待ち受けって……」
「画面をつけたら……、ほら! 可愛い!」
「見せなくていいです」
やたらと楽しそうに画面を見せつけてくるが、自分としては何も楽しくない。他人に見られないか、ただただ不安なだけである。
「葵さんも待ち受けにしていいんですよ?」
「狂人にも程がありませんか?」
自分の女装姿を待ち受けにするなど、正気の沙汰ではない。もし自分がそうする時が来たなら、それは誰かに脅されていると思ってもらって構わない。
「今してくれたら、私とお揃いです!」
「何も嬉しくないお揃いですね」
「私は嬉しいですよ?」
「方向性の違いですね。解散しましょうか」
「嫌です」
そんな言葉と共に、左手がアイリスに捕まえられる。解散に対する強い拒絶の意思が感じられた。
「葵さんは、もう私からは逃げられないんですよ」
「怖……」
「これからも、たくさん可愛いところを見せてくださいねっ!」
「嫌です」
恐らく叶うことのない願いを口にしながら、こんな場面で浮かべるべきではない程に綺麗な笑みを浮かべたアイリスから目を逸らすように、窓の外へと視線を移す。
少し前に発車した電車は、徐々にその速度を上げていく。窓の外には、随分と背丈が伸びた緑の海が広がっている。穏やかに吹く風に、まるで本物の海のように波打つ様がとても印象的だった。
「おはよう、二人共」
「おはようございます」
「おはようございます、碧依先輩」
電車に揺られ始めてからしばらくして。こちらも久しぶりの制服姿となる碧依が、いつもの駅から乗り込んできた。その足取りは夏休み前と変わることはなく、自然とアイリスと反対側の座席に腰を下ろす。
「二人には一回だけ会ったけど、それでもやっぱり久しぶりって感じがするね」
「あの時は制服じゃなかったですしね」
「そういえば、あれからアイリスさん以外の誰かに会った?」
「会ってませんね。それがどうかしました?」
「あ、うん、何となく分かってた」
何が知りたかったのかよく分からない疑問にそう答えれば、どこか生温かい視線が返ってきた。しきりに頷いているが、その頭の中では何を考えているのだろうか。
「葵さんは私ので、私は葵さんのですから」
「似たような言葉なら聞いたことはあっても、流石にそれはないね」
「そもそも、いつまで僕のなんですか。もう独り立ちの時期ですよ」
「やです」
「だってさ。まだまだ面倒を見てあげないとね? 葵君?」
「……」
たった三文字の拒否。それにも関わらず、そこに込められた意思は強い。余計な言葉がないだけに、純度がかなり高くなっていた。
「それにしても……」
何も言い返すことができないのなら、せめて無言の圧力でもかけておこうとアイリスを見つめる。負けじとアイリスが見つめ返してくる中、碧依が何かに気付いた。
「うん?」
「何ですか?」
二人して碧依に問いかける。そんな二人分の視線が自らの方を向くのを待っていたかのように、少しの間を空けてから碧依が言葉を続ける。
「近いね? 二人共」
「近い……」
「ですか……?」
一瞬、何のことを言っているのか理解が遅れる。だが、すぐに碧依が言いたかったことを理解し、そして同時に、先程の違和感の正体にまで辿り着く。
要は、隣に座ったアイリスとの距離。それが夏休み前よりも近いことこそ、違和感の正体だったのだ。
改めてそう言われると、途端に近く感じるから不思議なものである。一学期の間は、碧依と同じように少なくとも拳一つ分は隙間が空いていた。それなのに、今やそれだけの隙間すらなく、アイリスの肩が自分の肩の少し下辺りに触れている。
指摘されてしまえば、何故気付かなかったのか分からない程の距離感の変化だった。
「確かに近いですね」
「あ……。嫌、でした……?」
「いえ、特に気にしてないです」
「だったらよかったです」
アイリスが少しだけ不安そうな表情を見せるが、自分としては大して気にもならない。今の今まで違和感の正体に気付けなかったのだから、当然の話である。
「何か、この夏休みでやたらと仲良くなってない? あ、いや、前からそうではあったけど……」
自分では気にしていなくても、周囲から見ると気になるらしい。興味とも困惑とも取れる感情が滲んだ声で、碧依がぽつりと呟く。
「密度が凄かったですからね」
「多分、会わなかった日の方が少ないですよね」
そう答えながら、この夏休みを思い出す。あれだけの頻度で会っていれば、自然と距離感が縮まっていてもおかしくはない。
しかも、相手はアイリスである。気を許した相手にはとことん懐くという性格からして、そういった相手に対するパーソナルスペースは元々狭い方なのだろう。
「仲良くなったのは否定しないんだ?」
「それは、まぁ……」
「一番仲良しの先輩さんですから!」
そんな宣言を証明してみせるかの如く、再び左手が握られる。涼しい車内にいたからか、先程よりもその手が少しだけ冷たく感じられた。
「私が一番じゃないんだ?」
そして、その宣言に謎の対抗心を燃やし始める碧依。答えなど分かりきっているのに、それでも突っ込む辺り、本気でお気に入りの後輩らしい。自分としてもその気持ちは分からなくはないが、それにしても問いかけの内容が不用意ではないだろうか。
「碧依先輩は圏外です」
「圏外!?」
その結果、こうなった。さして多くの上級生と付き合いがあるようには見えないアイリスに、それでも圏外と評された時の衝撃は、その評価を受けた本人にしか分からない。
分からないが、碧依の表情を見るに、なかなかのショックではあったようだ。これまでは期待を隠しきれないといった目をしていたのに、今や信じられないものを見る目になっている。
「え……? ……え?」
いきなり大きなショックを受けると、人間はここまで語彙力が低下するらしい。それだけしか発することができなくなった碧依に代わって、自分がアイリスに問いかける。
「二番目は?」
その問いに、アイリスが少し考えるように首を傾げた。
「二番目ですか……? 強いて言うなら、羽崎先輩ですかね……?」
「羽崎君ですか?」
「はい。仲が良いって言うのかは微妙ですけど、少なくともおかしなことはしてこないので、碧依先輩よりも遥かに上です」
「遥かに上……」
またもや碧依がダメージを受けていた。そろそろ体力ゲージの色が赤に変わりそうな頃合いである。
「じゃ、じゃあ……、莉花は……?」
瀕死の体で、碧依がそう口にする。そこで莉花の名前が出てきたのは、仲間を増やそうという魂胆なのか、それとも、ただアイリスの周囲にいる上級生として挙げただけなのか。何となくではあるが、個人的には後者のような気がした。今の碧依に、前者のようなことを考える余裕はきっとない。
「渡井先輩も圏外に決まってます」
そして、予想通り莉花も圏外だった。
「あんなことをされてるのに、仲が良いって言うわけがないじゃないですか」
「だ、だよね……。……よかったぁ……」
「……」
安心したように小さく付け加えられた碧依の一言は、聞こえなかったことにした。恐らく、電車の走行音に搔き消されて、反対側に座っているアイリスには聞こえていないはずだ。聞こえたから何だという話ではあるが。
「二学期は、天敵二人にもっと抵抗するのが目標です」
「天敵二人……。好感度が稼げてない……」
「何回か碧依さん自ら下げてますけどね」
そこまで上がっているようには見えないのに、加えて定期的に下げる行動を起こしているのだから、アイリスのこの態度も頷ける。
具体的に言えば、思いきりじっとりとした目で碧依のことを見つめている。
「でも、葵君だって散々アイリスさんのことをからかってるよね? なのに葵君が一番なんだ?」
「葵さんからは愛が感じられます!」
「だって。愛してるの?」
「いえ?」
それはアイリスの錯覚である。後輩として大事には思っているが、そこまでの言葉を使われると、どうしても首は横に振らざるを得ない。
「なんでですか! もっと可愛がってくださいよ!」
「可愛がってはいますよ?」
「私も可愛がってあげるよ?」
「碧依先輩はいらないです」
「いらない……」
何度アタックしても、碧依の気持ちがアイリスに届くことはないようだった。ここまでになると、流石に碧依が不憫に思えてくる。
「決めました!」
「何をですか」
そして、碧依の様子を綺麗に無視し、何かの決意を固めるアイリス。また面倒なことを言い出すという、実績に基づく確かな予感があった。
「これまで以上に葵さんに可愛がってもらうのも、目標に付け加えておきます!」
「完全に僕次第ですけどね、その目標」
「あと、葵さんの可愛いところをもっと見るのも」
「完全に僕次第ですけどね、その目標」
録音再生のように繰り返しながら、アイリスを受け流す。二つ目の目標は好きにすればいいが、三つ目の目標に関しては、是非とも諦めてほしいものである。
「……」
どうせ月一で見せる羽目になると、自分が半ば諦め気味ではあったが。
「二学期って、おっきなイベントは体育祭と文化祭ですか?」
「あ、それ私も聞きたい」
駅から高校までの道すがら、アイリスがそう尋ねてきた。今年入学したアイリスはもちろん、春に転校してきた碧依も、初めて迎える二学期だった。浮かんで当然の疑問である。
「そうですね。去年はその二つと宿泊学習でしたけど、そっちは五月にやりましたしね」
そんな疑問に、一年前のことを思い出しながら答える。なかなか密度の濃い学期だった覚えがあるが、イベントが一つ移動したのなら、多少は楽になっているはずだ。
「文化祭はいいとして、体育祭は……」
これまでは楽しそうに話していたアイリスだったが、体育祭に関しては何か思うところがあるようで、そこで言葉が途切れてしまった。その様子からして、全面的に歓迎している訳ではないようだ。
「あれ? 嫌なの?」
アイリスの様子に、意外そうに声を上げたのは碧依。これまでのアイリスのイメージと、今の言葉が結び付かなかったらしい。
「嫌ではないです。でも、運動がそこまで得意ってわけでもないので……」
「あぁ」
ある程度予想していた通りの答えに、ほぼ無意識に納得の声が漏れてしまう。そして、それを聞き逃すアイリスではなかった。
「何を考えました? ちっちゃいからとか、そんなことを考えませんでした?」
「考えてませんよ」
疑うような目付きのアイリスだったが、本当にそんなことは考えていない。その理屈で言えば、碧依も運動が苦手ということになる。だが、本人からそんなことを聞いた覚えはなかった。
「じゃあ、何で納得したんですか」
未だ怪しむような視線を自分に向けたままのアイリス。自分は「一番仲が良い先輩」らしいが、その辺りの信用は薄そうだった。
「夏祭りの時、下駄に慣れなくて苦労してたのを思い出してました」
「あー……。ありましたね、そんなこと」
いつまでもそんな視線を受け止めるのも疲れるので、考えていたことを正直に白状してしまう。そこまで話したところで、ようやくアイリスの視線が丸くなる。
「あとは、踏み台から落ちそうになってたこととか」
「あー……」
丸くなった視線が、今度は逸らされた。
「まぁ、運動は得意そうじゃないなとは思ってました」
「そういえば、前にそんなお話もしたかもしれないですね」
「えぇ。何となく覚えはあります」
その辺りを誤魔化して強がることは流石にできないのか、アイリスもあっさりと事実を認める。自分もそちら側の人間なので、そういう理由で体育祭を若干敬遠する気持ちはとてもよく理解できた。
「葵さんも運動は苦手って言ってましたよね?」
「よく覚えてますね」
「お揃いですから」
どこにも喜ぶべき場所などないのに、それでも嬉しそうに笑うアイリスの心境は分からない。お揃いなら何でもいいのだろうか。
「アイリスさんがちっちゃい体で頑張ってるところとか、絶対に可愛いよね……」
アイリスとそこまで変わらない自身の身長を棚に上げ、碧依がそう呟く。今の状態でのそういった発言が好感度を下げているということに、一体いつになったら気付くのか。気付かないからこその圏外なのかもしれないが。
「碧依先輩だって、別におっきくはないじゃないですか」
「そう? じゃあ、私も可愛い?」
「鬱陶しいです」
「鬱陶しい!?」
本日二度目の衝撃だった。そして、こちらも二度目となる語彙力の喪失である。
「あの……、え……? 葵君……」
縋るような眼差しと、助けを求めるような声。その二つを碧依から向けられはしたものの、人にはどうしても救えないものもある。
「今のは自業自得ですかね」
「そんなぁ……」
「好感度が低いとそうなります」
「葵さんが頑張ってるところは可愛いと思います!」
「……高いとこうなります」
「……それでいいの?」
よくはない。
「転んで涙目とかになってくれませんかね?」
「あ、それは見たいかも……」
「見せません」
「『転ばない』とは言わないんですね」
「転びもしません」
期待するような目で見られたところで、それに応えるつもりは一切ない。そもそも、確かに運動は得意ではないが、だからと言ってそこまで簡単に転んだりはしない。アイリスの苦手具合がどの程度なのかは知らないが、自分に対して何かしらの幻想を抱き過ぎである。
「ちゃんと手当てしてあげますよ?」
「気にしてるのはそこじゃないです」
「肩も貸してあげますよ?」
「歩きにくそうなので遠慮しておきます」
「歩きにくそうって、どういうことですか?」
思わず口にした言葉に、アイリスが耳聡く反応する。自分をじっと見つめる瞳は、既に答えを見透かしているかのようだった。
つまり誤魔化しても意味がない。
「身長差が……」
「ちっちゃくて悪かったですねっ」
「あ! じゃあ、私に肩を貸して!」
「絶対に嫌です」
「あ、はい……」
懲りずに突撃と撤退を繰り返す碧依。今の碧依に必要なのは、無謀な突撃ではなく、好感度を上げるための裏工作なのかもしれなかった。
「こうなったら、何が何でも葵さんに肩を貸します!」
「叶うといいですね」
「絶対に叶えっ……!?」
「っと……」
足元も見ず、ずっとこちらばかりを見ていたアイリスが、言葉の途中で歩道の段差に躓いてバランスを崩す。伸ばされた腕を咄嗟に掴むことができたのは、本当にただの偶然だった。
「大丈夫ですか?」
夏祭りでも同じやり取りをしたことを思い出しつつ、アイリスがバランスを取り戻したことを確認してから腕を離す。
「何とか……。ありがとうございます」
「腕を掴むのが速かったね。流石はお兄ちゃん」
「転びそうなことをしてる妹だなと思って見てましたから」
「否定できない……」
たった今、まさにその通りのことをしてしまったことで、アイリスからは「反論」という選択肢が失われてしまっていた。うっすらと悔しさを滲ませつつも、完全にお世話をする側とされる側のやり取りだったことは、誰よりも本人が理解しているようだった。
「転ぶのはアイリスさんの方かもしれないですね?」
「うっ……!」
あれだけ肩を貸すと息巻いていた本人が、実は一番転ぶ可能性が高いとなれば、その面目は丸潰れである。言葉に詰まるのも当然の話である。
「……もしそうなったら、葵さんに保健室まで連れて行ってもらいますもん」
「近くにいれば、ですね。流石にそれくらいはしますよ」
そんな、果たされるのか果たされないのかも分からない約束を取り付けられる。転ぶにしても、ただでは転ばないアイリスなのだった。
「体育祭の組って、どうやって分けられるんですか?」
学校まであと少しとなったところで、再びアイリスから疑問が湧く。これもある意味、気になって当然の疑問だった。
「組と言うか団ですけど、分け方は分からないんですよね」
「分からないんですか?」
「えぇ。去年の夏休み明けに、いきなりどういう振り分けなのかの資料を貰って知りました」
「へぇ……。じゃあ、葵さんも私も……、ついでに碧依先輩も、もうすぐ今年の団が分かるってことですか?」
「ついで? 私、ついで……?」
「いや、団は三年間固定です。一年の時に割り振られたら、二年も三年もその団なんですよ」
「そうなんですか? てっきり毎年変わるのかと思ってました」
相変わらず流れるように碧依に衝撃を与えた後、意外そうに少しだけ目を丸くするアイリス。その様子から察するに、これまでは毎年振り分けが変わる学校だったのだろう。
「ちなみに、葵さんは?」
「朱雀です」
「あ、色じゃないんですね」
「ですね。何故か四神です」
単純に色で分かれる振り分けがよくあるパターンなのだろうが、どういう訳か我が校はそのパターンから外れていた。奇を衒った、ということではないと思うが、その真相を知る者はほとんどいないだろう。
「そうですか……。誰か知ってる人と同じになれたらいいんですけど……」
「まぁ、クラスの何人かとは絶対に同じになりますし、そこまで気にしなくても大丈夫だと思いますよ」
「はい! はい!」
「何ですか」
振り分けの話になってから口数の少なかった碧依が、ここぞとばかりに主張を始める。何を考えているのかは知らないが、放っておいても主張は続きそうだったので、とりあえず話を振ってみる。
「私達二年生組で同じ団になれたらいいなって!」
「無理です」
「えっ……?」
間髪を容れずに否定されるとは思ってもいなかったようで、主張の勢いが一気に弱くなった。
碧依の言う「二年生組」とは、悠と莉花も含めた四人のことだろう。だとすれば、四人全員が同じ団になることは絶対にない。
「僕と羽崎君は朱雀で、渡井さんは確か白虎って言ってましたから」
「うわ……。そこがもう違うんだ……」
「そんなわけで、四人揃うことはないですよ」
「そっか……、残念」
「……私は絶対に白虎にならないようにしないと……」
既に決まってしまっていてどうしようもないことを前にして、できることは諦めることのみ。それは碧依も分かってはいるようだが、残念なことには変わりないといった様子だった。
そして、碧依と反対側では、莉花が所属する団を聞いたアイリスが小さく決意を呟いていた。莉花が聞いたらどんな反応をするのか興味はあったが、そうした場合、今度はアイリスに何を言われるか分かったものではないので、これは流石に心の内に秘めておくことにするのだった。




