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46. 昔日を想う (2)

「今日はね、葵君に聞きたいことがあって来てもらったの」

「聞きたいこと、ですか?」

「そ」


 アルバムを閉じ、案の定アイリスの写真が公開されそうになって、それをアイリスが必死に食い止めた後。レティシアが切り出したのは、そんな話題だった。何やら楽しみそうな表情を浮かべている。


「答えられることならいいんですけど」

「大丈夫だと思うよ。何せ、アイリスのことだからね」

「アイリスさんの?」

「私?」


 アーロンの言葉を受けて、アイリスと目が合う。本人も何も聞いていなかったようで、若干の驚きを含んだ目をしていた。


「何でそれを葵さんに聞くの?」

「だってあなた、自分のことはほとんど話さないじゃない」

「そう?」

「中学の時はそうでもなかったけど、高校に入ってからはほとんど聞かないね」


 家庭でのアイリスの様子など知る由もないが、高校に入ってから少し様子が変わったらしい。これまでずっとアイリスのことを見てきたアーロンとレティシアが言うのだから、間違いないのだろう。


「言って……、ない……?」

「自覚してないの?」

「何を?」

「話してるのって、八割が葵君のことよ」

「……」


 レティシアにそう言われ、アイリスが急に黙り込む。やや真剣な顔をして俯いている辺り、高校に入学してから今までの会話を振り返っているのだろう。


 しばらく沈黙の時間が続いた後、記憶の旅を終えたアイリスが口を開く。


「あんまり覚えてなかった」


 記憶の旅は、迷子になって終わっていた。


「アイリスさん……」

「仕方ないじゃないですかっ」


 真剣に考えた後に出てくる答えがそれかと、思わず呆れたような声が出てしまった。アイリス自身も思い出せなかったことに僅かな罪悪感を抱いているようで、誤魔化すように少しだけ声が大きくなっている。ついでに言えば、慌てたように両手もよく分からない動きをしていた。


「じゃあ、葵さんはこれまでの私との会話を全部思い出せるんですか!?」

「無理です」

「覚えててくださいよ!」

「どうしてほしいんですか」


 感情も迷子になっているアイリスに対する正解が見えなかった。あるいは、最初から正解などないのかもしれない。


「ほらほら、あなたのわがままはいいの。今はこっちの話」

「よくないし……」


 レティシアの言葉に対して不満げに呟くものの、それ以上は何も言わない辺り、今は自分がどうこう言う場面ではないと分かっているらしい。


「とにかく、あなたは口を開けば葵君の話ばっかりして、自分のことはほとんど話さないの」

「おかげで、会う機会はかなり少ないのに、何故か葵君のことはやたら詳しくなったからね」

「ちなみにどんな?」


 アーロンとレティシアがそこまで言う話の内容が気になって、つい尋ねてしまう。


「男の子なのにやたらと可愛くて、花が好きなところがやっぱり女の子っぽい。勉強が得意で、特に化学と日本史が好き。相手の年齢関係なく話し方が丁寧語で、アイリスの面倒をよく見てくれる」

「あと、意外と人をからかったりするとか、名前は花の名前が由来とか、そんな感じかしらね」

「……」


 何の気なしに尋ねただけなのに、こちらの許容量を軽く凌駕する程の情報量が飛び出してきた。中には、アーロンとレティシアには話していないようなことまで含まれている。


 思わずアイリスの方に顔を向ける。


「な、何ですか……?」


 自分が今どんな顔をしているのか分からないが、アイリスから見れば戸惑いを覚えるようなものだったらしい。だとすれば、怪訝そうな顔だろうか。


「どれだけ話してるんですか」

「……二人があんな風になる、くらい……?」

「でしょうね」


 アイリスが普段自らのことを話さないというアーロンとレティシアの主張が、想像もできない形で証明されてしまった。知られて困るようなことは特に含まれていなかったので構わないのだが、証明するならもっと別の形で証明してほしかった。


「もちろん葵君の様子も知りたいけど、親としては娘のことが気になるに決まってるでしょ?」

「僕の様子も……?」

「でも、アイリスは話してくれない。だったら、一番詳しい人に聞けばいい。そうなると、相手は当然葵君になる」

「はぁ……?」


 やはり家庭訪問なのではと、そんなことを考えたところで、アイリスから声が上がる。


「それらしいことを言ってるけど、ほんとは違うんでしょ?」

「違わないわよ?」

「そうだね。嘘は吐いてない」

「でも、一番は葵さんとお話ししたかったからでしょ?」

「うん?」


 今度はそのアイリスから予想外の言葉が聞こえてきた。この一家は他人の不意を突かないと気が済まないのだろうか。


「葵さんには言ってなかったですけど、この二人、葵さんのことが大好きですからね」

「はい?」


 不意打ちでないにも関わらず、その意味は相変わらず理解できなかった。いきなりそんな暴露をされたアーロンとレティシアの顔には、何故か穏やかな笑みが浮かんでいる。


「葵さんみたいな息子が欲しかったって、もう何回も聞きましたもん。どうにかして合法的に息子にできないかって」

「いや、それは……」


 あまりにも際どい発言であることに、アイリスは気付いているのだろうか。その願いを叶えようとすると、思い浮かぶ方法は二つしかない。


「『このちっちゃいのと姉弟か……』じゃないんですよ!」

「何も言ってませんって」

「じゃあ、何を考えたんですか」

「小さいどうこうじゃなくて、結婚するとかしか方法がないんじゃないかと」

「……っ」


 またしても身長の話で勝手にヒートアップしていたアイリスが、ぴたりと動きを止めた。その言葉を直接言われるのは流石に恥ずかしいものがあったらしく、一気にアイリスの顔が茹で上がる。


「あら。やっぱり葵君もその結論になった?」

「やっぱりも何も、あとは養子くらいしかないと思いますよ」

「そっちはあんまり面白くないわね」

「面白い……?」


 面白いか面白くないかで判断するようなことではないと思うのだが、レティシアの基準がいまいちよく分からなかった。


「とにかく! この二人の狙いは葵さんですからっ」

「気を付けるといいよ。僕達はあの手この手で葵君をこの家に誘い込もうとするからね」

「自分で言いますか」


 そこまでになると、もういっそ清々しさすら感じる。実際、今日はこうして誘い込まれているので、説得力が恐ろしいことになっていた。


「いくらお父さんとお母さんでも、葵さんはあげないから」

「本当はアイリスさんのでもないんですけどね」


 未だに引かない赤みを頬に宿しながら、アイリスがそう宣言する。これまでに何度か聞いた言葉だったが、この流れで言われると微妙に違った意味の言葉に聞こえるのが不思議だった。


 そして、それはアーロンとレティシアも同じようで。


「何? 未来の旦那様だからあげないって?」

「妬けるね」

「違うぅ!」


 引きかけていた赤で再び顔を彩るアイリス。もう少しだけ、親子の攻防は続きそうだった。




「本当に大変な目に遭ってますね」

「誰のせいだと……」

「アーロンさんとレティシアさんです」


 親子のやり取りを横から眺め続ける時間が、ようやく終わった。もちろん、結果はアイリスの負け。両親に勝てるはずがなかった。


 自分がこの家にお邪魔してからそこまで時間が経っていないにも関わらず、アイリスは早くも疲れた様子を見せている。こんな調子で、今日一日を無事に乗りきれるのだろうか。


 既に無事ではないという異論は受け付けていない。


「葵さんのせいでもありますもん」

「いや、僕は関係ないじゃないですか」


 ひたすらアーロンとレティシアがからかっていただけだ。そこに自分は一切関与していない。


 けれども、被害を受けたアイリスはそうは思っていないようで。明らかに非難するような目で自分を見つめていた。


「関係あるに決まってます」

「何が」

「葵さんが可愛くて、しっかりしてるのがいけないんですよ」

「自分が何を言ってるのか、ちゃんと分かってます?」


 会話の前後が繋がっているようには到底思えなかった。両親にからかわれ過ぎて、とにかく話を逸らしたがっているようにしか思えない。


「当たり前じゃないですか」


 だが、アイリスの中ではしっかりと繋がっているらしい。握った手に力を込め、はっきりとした口調で言いきる。


「いいですか? 葵さんが男の子なのに可愛過ぎるから、お母さんがこう言い出すわけです」

「着せ替え人形にしたい」

「って」

「……」


 こんな場面で親子の連携を見せなくてもいい。


「そして、お父さんは息子が欲しいけど、仕事が忙しくてあんまり面倒を見てあげられないから、こう言い出すわけです」

「ある程度自立してると助かる」

「って」

「……」


 自分は今、一体何を見せられているのだろうか。三人分、六つの瞳に見つめられながら、困惑したまま何の言葉も出せなかった。


「葵さんがどれだけお父さんとお母さんに好かれてるか、分かりました?」

「独特な重さの愛……」

「そんなわけで、私が大変な目に遭ってるのは葵さんのせいなんです」


 とても納得できる理由ではなかったが、何が言いたいのかは理解できた。理解できたとしても、受け入れることができるかどうかは、また別の話だが。


「外堀から埋まりに来てる……」

「違うわね。もう埋まってるの」


 レティシアの訂正は、状況をさらに加速させるものでしかなかった。このままでは分が悪過ぎる。


 だったらどうするか。答えは一つである。


「僕のことはいいんですよ。そんなことより、今日はアイリスさんの話を聞きたいんじゃないんですか?」


 話を逸らすに限る。今回に関しては、「逸らす」と言うより「本筋に戻す」と言った方が正しい状況だった。


「逃げましたね」

「勝てそうにないですから」

「今日聞かなかったら、また葵君を誘い込む口実になるわね?」


 だが、レティシアの口からはそんな不穏な言葉が漏れ出した。比較的真剣な表情で悩んでいる辺り、放っておけば現実のものとなりかねない雰囲気である。


「学校のことと、アルバイト先のこと、どっちからがいいですか?」

「強引ですね。葵さんらしくない」

「生半可な押し方だと勝てそうにないですから」


 後輩の両親と繰り広げていい攻防ではない気もしたが、遠慮していては息子にされてしまう。自分でも意味の分からないことを考えている自覚はあったが、事実なのでどうしようもない。


「……」


 気持ちを落ち着かせるために、とりあえず横目でそっとアイリスを盗み見る。アーロンとレティシアに呆れた目を向けるその横顔には、それでもどこか柔らかな笑みが浮かんでいた。


「……っ」


 その瞬間、脳裏に浮かんでしまった光景を慌てて打ち消す。いかに普段は落ち着いていると評されようとも、これだけ意識せざるを得ない状況に追い込まれると、そんな光景だって浮かびもする。


 気持ちを落ち着かせるはずだったのに、むしろ鼓動が速くなってしまったのは誰にも言えない秘密である。


「葵さん? どうかしました?」

「いや……、何でもないです」


 突然軽く首を振ったせいで不思議に思われたのか、再びアイリスの視線がこちらを向く。気付かれるはずがないとは思いつつも、それでも努めて平静を装いながら、そう誤魔化す。


「うん? そうですか?」


 あまり納得はしていないのか、そう言いながら小さく首を傾げるアイリス。しばらくは、その瑠璃色の瞳を見つめることはできそうになかった。




「それじゃあ、学校の様子からにしようか」


 どうにかアーロンとレティシアを受け流し続け、やっと話を本筋に戻すことに成功した。先程からずっと引き出したかったその言葉を、とうとうアーロンが口にする。


「一番の目的は達成しちゃったから、ここからはついでなんだけどね」

「娘のお話がついでって、流石にひどくない?」


 そんなアーロンの言葉を引き継いだレティシアが、娘泣かせの一言を付け加えていた。案の定、アイリスが食ってかかる。


「親として気になるのは本当よ?」

「どうだか。私に聞けば済むはずなのに、それでも葵さんに聞きたがる辺り、やっぱり狙いは葵さんでしょ。あげないからね?」


 そんな言葉と共に、左手が引っ張られる。見れば、アイリスの足の上で両手に包み込まれていた。所有権の主張のつもりだろうか。


「だって、あなたに聞いたら、都合が悪いところは全部カットするでしょ?」

「する」


 それはもう気持ちがいい程に即答だった。頷きも無駄に力強い。


「それじゃあ面白くないじゃない。でも、葵君に聞けばそんなこともないでしょ?」

「葵さんもちゃんとカットしてくれるもん。そうですよね?」


 何となく自分の方を向いているのだろうという感覚はあるが、先程の光景が尾を引いて、正面から受け止めることはできなかった。ちらりと、一瞬だけ横目で見て、それから口を開く。


「僕のクラスでどんな扱いをされてるか、興味があったりします?」

「聞きたいね」

「えぇ」

「だめですって!」


 包み込まれた左手に力が込められる。言葉と共に、体でも拒否を示していた。


 自分のクラスでのアイリスがどんな扱いなのか、それを本人に話したことはなく、誰かが話しているのも聞いた覚えはない。仮に知っていれば、間違いなくアイリスの口からその話題が出るはずだ。


 つまり、何も知らないはずなのに、これだけはっきりと拒否の姿勢を示している。どんな扱いなのか、アイリス自身も何となく分かっていそうな雰囲気だった。


「兄妹とか親子って思われてるらしいです」

「あぁ、うん。まぁ……」

「どこでもお世話される側ってことね」

「やっぱりっ、そんなっ、ことっ、だろうとっ、思いました!」


 アーロンとレティシアからしても納得できる扱いではあったらしく、二人してしきりに頷いていた。そして、アイリスの方は当然と言える反応。一言発する度に、左手が大きく上下する。行動だけでなく、顔も当然のように不満げな色で彩られていた。


「……」


 そんな様子を眺めながら、あることを考える。


 たった今アーロンとレティシアに教えた、アイリスと自分の扱われ方。そこに嘘は存在していないが、隠し事は一つだけあった。


 今は兄妹や親子に落ち着いている、自分達の印象。だが、最初からそうだった訳ではなく、そこに辿り着くまでには、もう一つ別の印象があった。


 言うべきかを迷ったのは、ほんの一瞬。今の二人にそんなことを話してしまえば、その後の展開がどうなるかなど考えるまでもない。揺れ動く余地がない程に「言わない側」に傾いた天秤は、誰かの介入がなければ「言う側」に傾くことはない。


 ないけれども、もし、「言う側」に傾いていたら。アイリスと出会ったばかりの自分なら、その反応を見るために、自分を犠牲にした可能性はある。なのに、今回は「言わない側」に傾いた。


 人の心の動きは、その本人にしか理解することはできない。だが今回に限っては、自分の心の動きなのに、自分で理解することができなかった。そんな初めての感覚に、小さな違和感を抱く。


(……?)


 アイリスがアーロンとレティシアにからかわれているのをいいことに、小さな違和感の正体を突き止めるべく、思考の海に沈む。心の動き、感情を思考で完全に理解できるなどとは到底思えないが、そうしなければ、この違和感が解消されることはない。


 そうして三人の会話をただの音として捉えること数十秒。意味を持った音の流れとして聞いていなかった会話から、はっきりと意味を持った言葉が聞こえてきた。


「そもそも!」


 それは、アーロンとレティシアに向けられた言葉ではなかったからなのか、それとも別の理由でもあるのか。とにかく、いつの間にかアイリスの瑠璃色の瞳が自分を見つめていた。


「そういうのって、お、お付き合いしてるとか、こっ、恋人、とか……、そんなのじゃないんですか!?」


 せっかく隠していたのに、全部話題に出されてしまった。先程もそうだったが、直接的な言葉で表現されるのが恥ずかしいという様子だったのに、何故自ら言い出したのだろうか。


 現に、最近よく見る色に頬を染め、左手を包み込んだ手の力が弱まっている辺り、今回も間違いなく恥ずかしがってはいる。


 そんな娘の様子を見て、そんな娘の言葉を聞いて、アーロンとレティシアが黙っている訳がなかった。


「アイリス的には、そっちの方がよかったのかな?」

「それはそうよね? 『私の』葵さんだものね?」

「ちっ、違っ……! そういう意味じゃなくて……!」


 典型的な方法で追い詰められるアイリス。その両手が自由であれば、きっとわたわたと忙しなく動き回っていたのだろうが、今はある所有権を主張するのに忙しいようだった。こんなからかわれ方をしているのに、未だに自分の左手を握って離そうとしないのは、アーロンとレティシアに更なる燃料を投下するだけのような気がしてならないが。


「何が違うのかな? 手も離そうとしないし」

「今に腕でも組むんじゃない?」

「……っ!」


 案の定、そこに触れられる。それも、とても楽しそうな表情で。どこからどう見ても、微笑ましいものを見たといった様子だった。


 そして、指摘されたアイリスの行動は素早い。一瞬のうちに両手を引っ込めて俯いてしまった。ようやく解放された左手を引き戻しつつ、もう腕も組んだことがあると言うべきなのかを考える。


「いや……」

「何かあったかな? 葵君?」

「何でもないです」


 思わず漏れた声に反応したアーロンを受け流す。天秤は、またしても「言わない側」に傾いていた。


「実際、葵君はどっちがいいの?」


 アーロンを受け流しても、まだ厄介な存在はいる。それとも、「より厄介」と言うべきだろうか。自ら埋まりに来る外堀こと、レティシアだった。やや曖昧な質問だったが、今の自分にとって、あまりありがたくない質問なのだろうとは想像がつく。


「何がですか?」

「兄妹とか親子って思われるのと、恋人って思われるの」


 予想通りだった。本人がいる場でこれ以上に答えにくい質問など、そうそうない。そもそも、選択肢がおかしいということもある。


 横目でアイリスのことを窺えば、まだ赤みを頬に残しながら、それでもいつの間にか顔を上げてこちらを見つめていた。答えを聞くのは恥ずかしいけれども興味はある、といったところだろうか。


「どう答えても気まずくなりませんか?」


 そんな中で答えるのが恥ずかしく、一応の抵抗を試みる。どうせ流れは大して変わらないだろうと思いつつも、だからと言って何もしなければ、結末はレティシアが望むものになってしまう。


「じゃあ、ちょっと質問を変えましょうか」


 そう思っていたのに、意外なことにレティシアからそんな言葉が飛び出した。


「葵君から見て、この子は可愛いと思う?」

「それは、まぁ……、はい」

「……っ!?」


 変わった後の質問もなかなかのものだったが、最初の質問から比べればよっぽど答えやすい。普段から口にする言葉であることに加えて、そもそも、客観的に見ても十人いれば十人が「可愛い」と評するような、そんな容姿をアイリスが有していることは疑いようもない。


 そんなこともあって、あまり考えることもなく肯定の言葉を返す。返す相手が母親のレティシアであるところが普段とは違っていて、それ故にあまりはっきりとした言葉ではなくなってしまったのは、ある意味仕方のないことだろう。


 曖昧な返事を聞いたアイリスは、嬉しそうに少しだけ顔を綻ばせる。あんなからかい方をしてくるアーロンとレティシアがいる手前、あまり大きく感情を表現することができなかったらしい。


「じゃあ、付き合いたい?」

「話がすぐ戻るじゃないですか」


 せっかく質問が変わったのに、二言目には元の質問に戻っていた。あのワンクッションは一体何だったのだろうか。


「細かいことは気にしないの。それで?」

「細かくはないと思うんですけど……」


 結局変わらなかった結末は受け入れるより他はなく、どう答えたものかと思案する。選択肢は二つだが、そのどちらを選んでも奇妙な雰囲気になる未来が見える。


 ならば、選ぶべきは第三の選択肢。


「……これまで、誰かをそんな風に考えたことはないです」


 しっかりとレティシアの目を見据えて、そう返す。好奇心に彩られたその目が、少しだけ意外そうに細められた。


「本当に? この人が葵君くらいの時なんて、そんなことばっかりだったと思うけど」

「そこで僕に振るのは手厳しいものがあるね?」


 どうやら、アーロンとレティシアにも色々あったらしい。いきなり話を振られたアーロンが、何故か申し訳なさそうな表情を浮かべていた。


「少なくとも、僕は覚えがないですね」


 そういったことを考えるようになる時期に、そんなことを考えている状況ではなかったと、そう言った方が正しいのかもしれないが。


「じゃあ、今考えて」

「……」


 とにかく押してくるレティシアからは、絶対に逃がさないという強い意思が感じられた。何が何でも二択の選択肢から選ばせようとしているが、一体何がレティシアをここまで突き動かすのだろうか。


 だが、そんなことを考えていても、その質問が撤回されることはない。最早、どちらかを選ぶ以外に、この話題を終結に向かわせる方法はなかった。


「……」


 もう一度、隣のアイリスの様子を窺う。先程は興味ありげな様子でこちらを見つめていたアイリスだが、今度は目が合うことはなかった。ワンクッション挟んだことで何か心境の変化でもあったのか、顔ごとやや反対方向を向いている。それでも、しっかりと聞き耳を立てているようには思えた。


 その様子を見ながら、僅かな時間で考える。そして、出した結論は。


「アイリスさんとなら、楽しいんじゃないかとは思います」


 そう口にした途端、視界の端でアイリスの肩が跳ねた。


「付き合いたいか、付き合いたくないかで言えば?」

「絶対にその言葉を言わせようとするんですね」

「もちろんよ。ほらほら、それでそれで?」


 答えは分かりきっているはずなのに、それでも興奮を抑えられないといった様子でレティシアが先を促してくる。瞳はきらきらと輝いていて、こんな状況にも関わらず、アイリスの母親であることを実感してしまう。


 そんな小さな現実逃避も、もう何の意味もない。やはり言わないとこの話は終わらないようなので、観念して口を開く。


「付き合いたくないとは言えないです」

「つまり?」

「……」

「つまり?」

「……付き合いたい……、です……」

「うぁ……」


 最後の最後まで抵抗してから絞り出した言葉に、とうとうアイリスが堪えきれずに呻き声を漏らす。


 対して、聞きたかった言葉を引き出すことに成功したレティシアは、瞳の輝きを顔全体にまで広げていた。恥ずかしくて目を逸らした先では、アーロンまでもが満足そうな表情を浮かべている。この夫婦は一体何がしたいのだろうか。


「そうでしょう、そうでしょう」

「親が言うのも何だけど、外見だけじゃなくて、中身も可愛いと思うんだ。どうかな?」

「営業……?」


 アーロンの言葉が、まるでプレゼンか何かのようになってしまっている。普段なら真っ先にアイリスの抗議が入る場面なのだろうが、残念ながらそのアイリスは顔を赤く染めたまま固く目を閉じてしまっていて、援軍としてはあまり期待できそうになかった。


「さっきも言いましたけど、これまでもこれからも、そういうことは考えられないので」

「でも、これでこの子のことをこれでもかってくらいに印象付けることには成功したわけだし?」

「今後はどうなるか分からないね」

「それが狙いですか」


 求めていた言葉が聞けたからなのか、アーロンとレティシアはもう真意を隠すつもりもないようだった。嬉しそうな笑みを浮かべたまま、何の躊躇いもなくそんなことを口にする。


「そうね。強烈に印象を残して、今後意識するようになってくれたらそれでよし。葵君が私達の息子になる日が近付くってことだから」

「アイリスさんの意思はどこに?」

「この様子を見る限り、満更でもないんじゃないかな?」


 当の本人であるアイリスの意思が全く考慮されていない会話のように思えたのだが、正面と斜向かいに座っている二人にとっては、何かが見えているようで。


「そっ……、そんなこと、ない、もん……」

「ほら」

「……」


 誰よりも意識してしまったのは、アイリスなのかもしれなかった。




 話題をどうにか「アイリスの普段の様子」へと戻すことに成功したのは、それからしばらくしてからのことだった。


 悠や碧依、莉花からどう扱われているか、アイリス本人のクラスでの立ち位置など、学校関連で話せることは大まかに話しきる。それだけの時間が過ぎ去る頃には、いつもと完全に同じとまでは言えないまでも、アイリスもある程度復活していた。突っ込みのために復活せざるを得なかったと言った方が正しいのだろうが。


 ともあれ、アーロンとレティシアの興味がアイリスに移っているのは間違いなく、次はアルバイト先での様子が気になっているようだった。


「こっちでも、基本的にはマスコットみたいな扱いですね」

「マスコットねぇ……。お仕事的にはどうなの?」

「もうほとんど何でも一人でこなせるようになって、僕としてはかなり助かってます」

「ほとんど?」


 Dolceria pescaでの普段の様子を思い出しながら答えていると、自分が無意識に口にしたその言葉が気になったらしい。聞いていたレティシアの首が少しだけ傾く。


「アイリスさんも僕も、どっちも踏み台に乗らないと手が届かないところがあるんですよ」

「それで?」

「自分で乗る分にはいいんですけど、アイリスさんが乗ってる時はかなり心配ですね」

「なんでですか」

「とにかく危なっかしくて……」

「あ! それでいっつもすぐ近くに来てたんですか!?」


 その動き自体は本人も気付いていたようだが、意味までは理解していなかったらしい。思ってもいなかった理由に、アイリスが目を丸くして驚いている。


「そんなに心配してもらわなくても大丈夫ですって」

「そう言って、これまでに何回落ちかけました?」

「……二回くらい?」


 少しだけ間が空いての、そんな返事。「ない」と断言しない時点で、落ちかけたという自覚はあるようだった。ちなみに、目が合っていないうえに、回数も合っていない。


「五回を超えた辺りで、僕は数えるのをやめました」

「アイリス……」

「あなた……」

「違うもん! 踏み台に乗らないといけないところに飾り付けしなくちゃいけないのが悪いの!」

「その度に支えて、何回かは役割を代わって。あの仕事だけは安心して任せられないです」

「葵さんだっておっきくはないじゃないですかっ」


 もう何度目になるのか分からない、アイリスとの身長にまつわるやり取り。けれども、今回は普段と状況が違った。アーロンと、そしてレティシアがいる。特に、レティシアはどこでエンジンがかかるか分からない。


「アイリス」

「なに」

「ちょっと立ってみて」

「なんで」

「いいからいいから」

「なに……?」


 疑問符を浮かべながらも、恐らく何かのエンジンがかかってしまったレティシアに促されるままに立ち上がるアイリス。そして、レティシアの次の照準が自分に向いた。


「はい、じゃあ、葵君も立つ」

「僕もですか?」

「アイリスと並ぶように、ね?」

「はぁ……?」


 単純に身長を比べたいだけのような気もするが、それだけと断言することができないのがレティシアの特徴である。


 そうは思っても、ただ並んで立つだけのことを断ることもできない。大人しく立ち上がり、アイリスの横に並ぶ。


「まぁ、当然アイリスの方が小さいわね」

「それを言うためだけに立たせたの?」


 今更再確認するようなレティシアの一言に、アイリスがややご立腹だった。これに関しては無理もない。


 けれども、レティシアの思惑はさらに別のところにあるようで。自分達を交互に眺めながら、アイリスの一言を華麗に無視して言葉を続ける。


「アイリス。あなた、身長はどれくらい?」

「……百五十三だけど」


 若干不満げなまま、アイリスが呟く。


「じゃあ、葵君は?」

「百六十……」

「百六十三ですよね」

「……」

「何か?」

「いえ……」


 どうして聞かれた本人よりも早く答えているのか。いつ話したかも覚えていない他人の身長を、何故覚えているのか。他にも聞きたいことは色々あるが、今のアイリスに問うのは悪手のような気がした。


 さらに言えば、純粋な眼差しを向けてくるアイリスに尋ねたところで、この謎の状況が変わるとも思えない。


「何であなたが答えるのかは置いておくとして、その差ね……」


 手元のスマートフォンで何かを調べているレティシアの顔が、徐々に緩んでいく。何を調べているのか知りたいような知りたくないような、そんな複雑な感情が心の中に生まれる。


 娘たるアイリスでも、レティシアが何をしているのか想像できないらしく、お互いに顔を見合わせて微かに首を傾げる。


「アイリス」

「……なに」


 やがて何かを調べ終えたレティシアが、三度アイリスの名前を呼ぶ。そこに何か不穏なものを感じ取ったのか、アイリスが返事をするまで、少しだけ間が空いた。だが、そんなことでレティシアは止まらない。もちろん、アーロンも止めない。


「そのまま葵君と向き合うようにして立つ」

「向き合うように……?」


 そうして要求された行動は、アイリスだけでは達成できないもの。アイリスが体を動かすのに合わせて、自分も少しだけ体の向きを変える。


「何がしたいの」


 首だけをレティシアの方に向けたアイリスが、依然として怪しむような声音で問いかける。


「すぐに分かるから。二人共、もうちょっと近付いて」

「……」

「……」


 何となく、これ以上言う通りにすると大変な目に遭う気がした。それはアイリスも同じようで、向かい合った顔には困惑が浮かんでいる。


「ほら、早く」


 そんな二人分の困惑も、レティシアには通用しない。アイリスの押しの強さも親譲りか、などと考えていると、何かを諦めたような、小さな声が聞こえてきた。


「ちょっとだけ、失礼しますね?」


 その言葉と共に、アイリスとの距離が一歩分縮まる。それだけでも思ったより近くなった印象だが、レティシアはもう一歩とまだ促している。今の距離感ですら、思い描いた何かの理想には遠いらしい。


 仕方がないので、不穏なものを感じたまま、自分から更に一歩分だけ近付く。


「で、アイリスは葵君の両肩に手を置いて、背伸びする」

「背伸び……」

「うっ……」


 諦めたとはいえ、正直に従わない方がよかったかもしれないと、そんな感情が見え隠れするアイリスの顔。背伸びをしたことで、そんな顔がすぐ目の前にあった。若干の恥ずかしさもあって、思わず少しだけ仰け反ってしまう。


「はい、そのままキス」

「……っ!?」

「するわけないでしょ!?」


 一瞬にして、いつも以上の距離まで離れた。


「何考えてるの!?」


 当然の感想をアイリスがレティシアにぶつける。先程スマートフォンで何を調べていたのか覗き見していたアーロンが、その隣で苦笑していた。


「そういうことがしやすい身長差だって、そう書いてあったから」

「だからって目の前で試させないで!?」

「顔が近付いた時、二人共恥ずかしそうにしてるのがとってもよかったです」

「もぉー!」


 憤るアイリスだったが、レティシアはまともに取り合わない。


 結局のところ、アイリスのことを意識させるという目論見は、まだ続いていたということなのだろう。アイリスの話をしていたのに、それでも流れるようにこうなった辺り、隙を見せたら負けると考えた方がよさそうだった。


「もう絶対にお母さんの言う通りになんてしないからね!」


 恐らく顔を真っ赤にして目を逸らす自分の隣にて、広々としたリビングに響き渡るような声でアイリスがそう宣言するのだった。




「疲れました……」

「私もです……」


 アイリスの家の玄関にて。


 今日一日、ただ家の中にいただけなのに、やけに疲労を蓄積させられたような気がして、心なしか足取りが重かった。


 話が終わっても何だかんだともてなしが続き、気付けば時刻は午後六時を回っていた。夕食にまで誘われそうな勢いだったが、流石にそれは固辞して、今ここにいる。何が狙いなのか分かってしまったからという理由も、あるにはあった。


 とにかく、帰り支度を整えて、一家を代表したアイリスの見送りを受けているのだった。


「想像以上に魔窟でした」

「後輩の家を魔窟って」

「ぴったりの表現だと思いますけど」

「……まぁ、否定はできません」


 アーロンとレティシアの暴走を目の当たりにして、娘であるアイリスでも擁護する手段を失っている様子だった。


「普段は落ち着いてる二人だと……、思う……?」

「自信がなくなってるじゃないですか」

「だって、あんなのを見ちゃったら……」

「これ以上ないくらいに楽しそうでしたね」

「私はこれ以上ないくらいに恥ずかしかったです」


 その言葉を証明するかのように、アイリスの目は逸らされていた。それも、今だけではなく、しばらく前から。それでも見送りには来てくれるのだから、ありがたいことである。


「……でも、葵さんは割といつも通りでしたよね」

「そう見えました?」

「見えました。葵さんだけずるいです」

「そんなことを言われても……」


 器用にも目を逸らしたままむっとするアイリスだったが、実際はそう見えただけである。心の中は大変なことになっていたとしても、それに気付かなかったアイリスにとっては関係のないことなのかもしれないが。


「恥ずかしかったのは僕も同じですよ」

「……ほんとですか?」


 ここまで言ってもまだ信じきれないのか、ようやくこちらを向いた目は、疑いの色を多分に含んでいた。


「こんな嘘を吐いてどうするんですか」

「……じゃあ、いいです」


 真っ直ぐその目を見つめて念押しをしたことで、何かのお許しが出た。結局どうしてここまで疑われたのかは分からなかったが、許されたのならそれでいい。


「あ、私も出ます」

「別にそこまでしてもらわなくても」

「私がそうしたいんです」


 玄関の扉を開けたところで、アイリスがそんなことを口にする。やや慌てたように靴を履き終えるのを待ち、二人揃って外へ出る。


 八月も終わりに差しかかってはいるが、それでもまだまだ夏の空気が残っている。昼間の熱気の残滓に包まれながら思わず見上げた空は、少しだけ雲が多いものの、その姿を徐々にオレンジ色へと変貌させていた。


「まだ暑いですね……」


 アイリスも同じように空を見上げながら、隣でぽつりと呟く。西に傾いた陽の光を浴びて、菜の花色の髪が不思議な色彩を放っていた。


「もうしばらくは暑いままでしょうね」

「早く涼しくなってほしいです」

「最近は秋から冬も一瞬ですけどね」


 暑いのも寒いのも苦手というアイリスとっては、過ごしやすい季節というのは短いのだろう。実に難儀な好みをしている。


「ずっと秋がいいです」

「アイリスさんの髪って、紅葉と合いそうですよね」


 叶うことがないと理解しつつも、それでもそう願わずにはいられないといった様子のアイリス。家の中にいた時よりも少しだけ元気がないその姿を見て、まだ一緒に過ごしたことがない季節を想像する。


「そうですか?」

「えぇ。銀杏が背景だと同化しそうですけど」

「もしそうなったら、その時はちゃんと見つけてくださいね?」


 そんな他愛ない言葉を交わしながら、小さな門を出る。自分は門の外側に、アイリスは門の内側にそれぞれ立つ。


「それじゃあ、今日はお世話になりました」

「いえ。どっちかって言うと、お父さんとお母さんがご迷惑をおかけしました」


 そう言って、アイリスが軽く頭を下げる。これまでの間に少しだけ落ち着いたのか、ようやく目が合うようになった。


「大変でしたけど、楽しかったのは楽しかったです」

「それならよかったです。でも、これからは葵さんも気を付けてくださいね?」

「何にです?」

「お父さんもお母さんも、あの手この手で葵さんを落とそうとすると思うので」

「……気を付けます」


 おおよそ後輩から受ける注意ではないような気がしたが、実際にあり得そうなので何とも言えない。あの二人にはなるべく隙を見せないようにすることを誓って、一度だけ頷いてみせる。


「……」

「……」

「何ですか」

「何でもないです」


 対するアイリスの反応は、何故か無言で見つめてくるというものだった。どうにも心の内が伝わってこないので、それならと問うてみても、返ってきたのはたったのそれだけ。その頬が微かに色付いて見えるのは、西日に照らされているからというだけなのだろうか。


「次に会うのは新学期ですね」


 答えが出ない問いを頭の中に思い浮かべる自分をよそに、そんな言葉が続く。言われてみれば、もう夏休み中にアルバイトのシフトは入っていない。それ以外で会う約束もしていないので、次の機会となると、それは夏休み明けだった。


「朝、起きられるといいですね?」

「ちゃんと起きますもん」

「まぁ、多少寝坊したくらいなら、駅で待ってますから」


 ほとんど無意識に小さく笑いながら、そう口にする。元々早めの時間に登校しているので、少しくらい遅くなったところで大した問題はないはずだ。


「……っ」


 そう考えての言葉だった訳だが、何故かアイリスに目を逸らされてしまった。


「アイリスさん?」

「な、なんでもない、です!」

「それならいいんですけど……」

「私だって、葵さんが寝坊しても待ってますからね!」

「しませんよ」


 何かを誤魔化すように反撃してくるアイリスだったが、残念ながら、その言葉は自分には効かない。高校に入学してからの一年半近く、一度も寝坊したことはないのだ。アイリスと一緒に登校するようになってからはより気を付けるようになっているので、自分が寝坊する可能性は相当低いと思ってもらって構わない。


「葵さんも、たまには慌てるといいです」

「そう言うってことは、アイリスさんは慌てたことがあるってことですね」

「ないです」


 絶対に嘘だった。誰にでも見抜けるレベルで分かりやすい。


「……」

「……」

「……」

「嘘です……。何回か遅れそうになったことがあります……」

「知ってました」


 沈黙の時間に耐えきれなかったのか、アイリス自らの白状となった。分かりきった嘘を吐く方が悪いということで、慰めの言葉はなしである。


「迎えに来た方がいいんじゃないかって気もしてきました」

「そ、そこまでは……」

「気がしただけです。アーロンさんとレティシアさんに何を言われるか分かりませんし」

「確かにそうですね。絶対に面倒なことを言い出します」


 そういった点におけるあの二人への信頼は強力なものがあった。今日一日の賜物と言ってもいい。


「何にせよ、無理しない程度で来てください」

「絶対に一緒に行きます」

「アイリスさんがそれでいいなら、僕からはもう何も言いません」

「はい。楽しみにしててくださいね?」


 一体何をだろうか。そんな疑問を抱きつつも、ふわりと微笑んだアイリスにわざわざ聞き返すことはしなかった。


「……」

「……」


 そして訪れた、三度目の沈黙の時間。今度は、アイリスが何かを切り出すかどうかを迷っているようにも見えた。


「……葵さん」

「はい?」


 やがて、これまでよりも少しだけ不安そうな色を込めた声音で、アイリスが小さく切り出した。迷った末に、話すことを選んだらしい。


「夏休み、楽しかったですか?」

「うん?」

「……」


 この場面で聞かれるとは思っていなかった質問だけに、少しだけ反応が遅れてしまう。その間に見上げてくる瑠璃色の瞳が、持ち主の感情を表すかのように僅かに揺れていた。


 真正面から視線を受け止めながら、ほんの一瞬だけ考える。想定していなかっただけで、質問自体はとても簡単なもの。そして、その答えを迷うこともない。


「楽しかったに決まってます」

「ほんとですか!?」

「当たり前じゃないですか」

「じゃあよかったです!」


 自分が答えた途端、不安が浮かんでいた瞳は綺麗に消え去り、代わりに輝かんばかりの笑顔が現れた。この夏休みの間に見た表情の中でも、トップクラスの輝きである。


「葵さんからその言葉が聞けたら、私は大満足です!」

「よく分からないですけど、満足してもらえたならよかったです。……思ったより長話になっちゃいましたね」


 その笑顔を直視することができず、アイリスにばれない程度にそっと目を逸らす。露骨に話題を変えたのは、それでも隠しきれない何かの表れだったのか。


「あ、ほんとですね。長々と引き止めちゃってすみません」

「いえ、気にしなくても大丈夫ですから。それじゃあ、そろそろ……」

「はい! また九月に、です!」

「えぇ。また」


 最後にそう挨拶を交わして、アイリスに背を向ける。ここから家まで僅か数分。急ぐこともなく、ゆっくりと歩を進める。


 そうして、少しだけ帰路を進んだ時だった。


「葵さん!」


 背後からアイリスの声がして、立ち止まって振り返る。やや遠くに、右手を空に向かって掲げるアイリスがいた。


「私も! 楽しかったです!」


 少し離れた場所でも、はっきりと聞こえたその声。


 いつもなら、小さく頭を下げる程度で済ませていたはずだった。たが、今回に限ってはアイリスに感化されてしまったのか。


 小さく、だが確かに右手を振り返して再び歩き出す。


 ゆっくりと歩きながら、この一月と少しを振り返る。どこを切り取っても、そこにはアイリスの姿があった。まさに、瑠璃色と菜の花色に染まった夏休みである。


「……」


 今年の夏休みは、いつか振り返った時にどんな印象を抱く夏休みだったのだろうか。今いくら考えたところで、それはその時になってみないと分かりはしない。


 だが、間違いなく一つ言えるのは、自分にとってはこれまでで一番鮮やかに色付いた夏休みになったということだった。

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