45. 昔日を想う (1)
「どんなところ?」
「お母さん? もうその辺にしておかない? しておこう?」
「そうですね……。やっぱり、一番は人懐っこいところじゃないですかね」
「葵さんも!」
アイリスの懇願が響き渡る。やはり、いつまで経っても母親であるレティシアには勝てないらしい。正面では、アーロンが楽しそうに笑みを浮かべながら頷いている。
八月二十六日、土曜日。夏休み中のアイリスや自分には何の関係もない話だが、八月最後の土曜日は、アイリスの家で過ごすことになった。何故か四人でテーブルを囲んで、さながら家庭訪問のような状況である。家庭を訪問しているのは間違いないが、何がどうなったのか、自分が教師役。
レティシアを止めようと隣で奮闘するアイリスを横目に見ながら、どうしてこうなったのか記憶を辿る。
事の発端は数日前まで遡る。
八月十八日、金曜日。今週初めに例のあれを着たので、今月はもう何も気にすることなく出勤できるようになった、そんな時期。何かがおかしい気もしたが、気にするだけ無駄なので、何も考えなかったことにした。
時刻はそろそろ閉店の作業を始めてもいい頃合い。いかに夏といえども、少しずつ昼の時間は短くなり、外はとうに夜の帳が下りている。
「葵さん」
バックヤードから出てきたアイリスに声をかけられたのは、そんな時だった。
「はい?」
「来週の土曜なんですけど……」
「来週の土曜、ですか?」
そう言われて、少しだけ考える。今日が十八日で金曜日。十九日が土曜日なので、来週の土曜日は二十六日。
「二十六日ですよね。その日がどうかしました?」
「予定、空いてたりしませんか?」
「空いてますよ」
今度の問いには、一切考えることなく返事をする。この夏休み中に行くと決めていた両親の墓参りも既に済ませてあり、その時期には何も予定は入れていないはずだ。
「返事が早過ぎません? 確認とかしなくていいんですか?」
「残り少ない夏休みの予定くらいなら覚えてますから」
「あ、そっか……」
「今、何を考えました?」
何かに気付いた様子で目を逸らすアイリス。事と次第によっては、いきなり土曜日に予定が入ることになる。
「葵さん、灰色の夏休みだから……」
「二十六日ですね。空いてません」
入った。
「さっき空いてるって言ってたじゃないですか」
「たった今予定を入れました」
「何の?」
「部屋の掃除でもしまず」
「別の日にしてください」
どうせ夏休みなのだから、いつでもできるだろう。そんな言外の思いがしっかり伝わってくる、随分とじっとりした眼差しだった。全く以てその通りである。
「そもそもですけど、お掃除をしてる高校生の夏休みって、別に色付いてないですよね?」
「ですね。まぁ、そもそもで言ったら、アイリスさん一色で染まってますし」
「あ……。そ……、そう、ですね……?」
何が嬉しいのか、その言葉で少しだけ頬を緩めるアイリス。一体何が琴線に触れたのか、本当に分からない。気にはなるが、どうせ考えても分からないことなので、一旦諦めて話を進めることにする。
「で、その日がどうかしたんですか?」
「そっか、そうですよね。葵さんの夏休みは私で染まってるんですね……」
「本当に掃除しますよ」
「わぁ!? ごめんなさい!」
恐らくこの世で初めて使われたであろう脅し文句によって、ようやくアイリスが現実に帰ってくる。慌てたようにあわあわと口を動かす様は、やや久しぶりに見る姿だった。
「……何でしたっけ?」
慌てているからなのか、残念ながら話は進まなかった。
「……その日がどうかしたんですか」
「……ちょっと怒ってます?」
「怒りはしないですけど、掃除はしそうになってます」
「ごめんなさいぃ……!」
平謝りのアイリス。頭を下げるのに合わせて、菜の花色の髪が揺れる。
「そ、それで、その日なんですけど」
若干気まずそうに目を逸らしながら、アイリスがようやく本題に入ろうとする。本当の本当に、やっと話が進み始めた。
「お父さんとお母さんから、葵さんの予定が空いてるか確認してほしいって連絡があってですね」
「アーロンさんとレティシアさんから?」
意外な二人の名前が出てきて、思わず聞き返してしまう。てっきりまたアイリスの用事なのかと思っていたが、どうやら今回はそうではないらしい。
「はい。ほら、前にお誘いがあったの、覚えてますか?」
「あぁ、家に」
「それです」
言われてみれば、そんなこともあったような気がした。言われるまで思い出せなかったのは、その時は狐耳ウェイトレス姿だったせいで、記憶を丸ごと奥底に押し込めていたからだろう。
「それをその日に?」
「みたいです。もう家には上げちゃったんですけどね」
アイリスが言っているのは、まだまだ記憶に新しいホラー会のことに違いない。確かに、アイリスの家にお邪魔するというイベントはもう達成してしまっている。
「わざわざ改めて?」
「お父さんとお母さんのわがままです」
「わがまま……」
娘にこんなことを言われていると知った時の二人の心境は、果たしてどんなものなのだろうか。想像はできないが、その後に散々やり返されることだけは分かる。
「そんな子供みたいなわがままは置いておいて」
もし本人に聞かれていたら、反撃がとても恐ろしいことになりそうな一言である。ホラーは苦手なのに、怖いもの知らずにも程がある。
「どうですか? お誘い、受けてくれますか?」
「いいですよ。前から約束してましたしね」
アイリスの言葉を借りる訳ではないが、怖いもの知らずな発言は置いておくとして、その誘いを断る理由は特にない。そもそも、目の前のアイリスが少しだけ不安そうに尋ねてきた時点で、断る選択肢はなかった。
「よかったぁ……」
「何でちょっと不安そうだったんですか」
暇だと公言している先輩をたかが一人誘うだけである。しかも、自分の都合ではなく、親の都合で。断られたところで、アイリス本人には何も被害はないはずだ。アイリスがそこまで不安そうにする意味が分からない。
「だって、ちゃんと誘わなかったら、小さい頃の写真を葵さんに大公開するって言われたんですもん」
「あ、掃除……」
「だめですっ。その日の葵さんは私のです!」
「いや、アーロンさんとレティシアさんのでは?」
「私のです!」
「いやまぁ、何だっていいですけど」
そこが誰のものであろうと、当日アイリスの家に行くことには変わりない。それこそ、自身の写真を守ろうとするアイリスのものであっても、自分に何か変化がある訳でもなかった。
「そんなに写真を見られるのが嫌ですか?」
「言い出したのはお母さんです」
「絶対にろくでもない写真ですね」
「そうです」
今の言い方もどうかと思うが、あのレティシアがわざわざ罰ゲームのような扱いで繰り出してくる写真など、まず間違いなくまともな写真ではない。後輩の母親に対してこんな風に考えること自体が失礼なのだが、どうしても想像を止めることはできなかった。
「ちょっと興味が出てきました」
「なっ、何をするつもりですか……!?」
「見る以外にあります?」
少しだけ体を引いて警戒心を露わにするアイリスだったが、写真に対して見る以外のアクションがあるのなら、それは是非教えてもらいたい。
「まだだめですっ。小さい頃の写真は、まだ……」
「いつかは見せてもらえるってことですか?」
「それは……」
自身で答えを出す以外に選択肢はないのに、どこかにその答えを探すように瑠璃色の目が泳ぐ。目は口程に物を言う。今のアイリスの心の内を、とても分かりやすく表していた。
「い、いつか……」
「楽しみにしてますね」
「うぅ……」
よほど恥ずかしいのか、元々小さな体をさらに小さくするアイリス。しばらくは復活しないであろう雰囲気が漂っていたので、始めようとしていた閉店作業に意識を向けかける。
「それなら!」
だが、思いの外アイリスの復活が早かった。他に向きかけた意識が、再びアイリスへと戻る。
ただひたすら恥ずかしがっていた姿は消え、何かを決心したようにこちらを見上げるアイリスが、そこにいた。
「私だって、葵さんの小さい頃の写真が見たいです!」
「僕の?」
「です。葵さんが私の小さい頃の写真を見るんだったら、私だって見ていいですよね?」
「別にいいですよ」
「ほら。やっぱり葵さんだって恥ずかし……あぇ?」
自分の返事が、事前に想像していたものと違ったのだろう。気の抜けるような声と共に、アイリスの頭の上に疑問符が浮かんだ。
「家にお邪魔する時に持っていきましょうか?」
「あれ……? 恥ずかしく……、ないんですか?」
「別に」
「あれぇ?」
ひたすら疑問符を量産し続けるアイリスだが、残念ながら、その辺りは男女差と言うべきなのか。男性でも恥ずかしがる人はいるが、大して気にしない人も多いのではないだろうか。
それに、レティシアに勝手に選ばれるアイリスと違い、こちらは自分で見せる写真を選ぶことができる。見られたくないものがあれば、最初から弾くことができるのだ。ならば、特に気にすることはない。
「それで? 持っていきますか?」
「あ、はい。じゃあ、お願いします……?」
「分かりました。いくつか選んでおきますね」
アイリスが混乱から立ち直らないまま、写真のお披露目が決定する。アイリスが望んだことなのに、これでいいのかという気持ちがない訳ではないが。
「何か、葵さんの写真を見たら、私の写真も強制的にお披露目される気が……」
「それを止めるのはアイリスさんの仕事ですよ。頑張ってくださいね」
「葵さんも手伝ってくれますか?」
「僕はどっちに転んでもいいので」
「ですよね! 葵さんならそう言うと思ってました!」
少し不満そうに言うアイリスだが、今回の自分は敵でも味方でもない。当日見られなくても、いつか見せてもらえるとのことなのだから、結果は変わらない。あとはアイリスの気持ち次第である。
「絶対に阻止します!」
「できたらいいですね」
「しますもん!」
固い決意を露わにするアイリス。その結果がどうなるのかは、今のところ神以外に知る者はいなかった。
そうして迎えた二十六日。ホラー会とアイリスの課題の面倒を見た時と合わせて、これで三回目となるアイリスの家のリビングにて、アーロン、レティシアの二人と対面する。
テーブルを挟んで、正面にアーロン、斜向かいにレティシア。こちら側には、隣にアイリスという配置。完全にアウェー気分だった。
「今日はわざわざありがとうね」
「いえ。どうせ暇でしたから」
「……やっぱり」
「何か?」
「何でも?」
隣のアイリスが小さく何かを呟いた気がしたが、その内容までは聞き取れなかった。明らかに何かを誤魔化した辺り、聞かれると都合が悪いことだったのだろう。普段であれば多少突っ込みはするが、今はそういった場ではないので、黙って引き下がることにする。
「それで、今日はどうして……」
「ちょっと待ってください」
早速本題に入ろうとした瞬間、いきなりアイリスに遮られた。
「アイリス?」
まさかそこからストップがかかるとは思っていなかったようで、アーロンからも意外そうな声が上がる。だが、当の本人はそんなことも意に介さず、そのまま言葉を続ける。
「葵さん」
「僕ですか?」
てっきりアーロンかレティシアに何か言うものだと思っていたが、話の向かう先はどうやら自分らしい。ご丁寧にも椅子の上で体の向きを変え、そしてじっと見つめてくる。
「多分、私はこの後大変な目に遭います」
「はぁ……?」
「よく分かってるじゃない」
よく分からない宣言だったが、レティシアの一言で未来が確定した。この後、アイリスは大変な目に遭う。
「なので、最初にお願いします」
「何を」
「写真です」
「あぁ」
何のことかと思えば、大変なことになる前に、自分の小さい頃の写真を見ておきたいということだった。判断が的確と言うべきなのか、諦めが早いと言うべきなのか、微妙なところである。
「写真?」
事情を説明してもらっていなかったのか、アーロンとレティシアは不思議そうな顔をしている。二人同時に浮かんだであろう疑問を、レティシアが口にした。
「そ。お母さんが私の写真どうこうってお話をするから、じゃあ私は葵さんの小さい頃の写真が見たいって」
「わがまま言ったわけだ」
「わがままじゃないもん」
「いつものことですから。気にしてないです」
「いつもじゃないですもん」
そう言いながらも、持ってきたアルバムをアイリスに手渡す。見られても問題ない写真だけをピックアップした、謹製のアルバムだった。
と言っても、それほど大した代物ではない。市販のアルバムに写真を入れただけの、本当に飾り気のないものである。だが、受け取るアイリスの手付きはやたらと丁寧なもの。
「この中に小さい頃の葵さんが……!」
きらきらとした目でそのアルバムを見つめるアイリスだったが、その輝きが普段とは少しだけ違う種類の輝きに見えてしまったのは、自分の気のせいなのだろうか。具体的に言えば、やや怪しい輝きである。
「僕達も見ていいのかい?」
「もちろん。見られてもいいものだけを持ってきましたから」
自らの娘が大事そうに抱えるアルバムに目を向けたアーロンが、自分の心を窺うようにそう尋ねてくる。持ってきた時点で二人にも興味を持たれることは分かっていたので、今更断る理由もない。
「えー……。見られたらだめな写真も見たかったです」
「見られたらだめな写真は、見られたらだめなんですよ?」
自分で言っているのに、意味がよく分からない発言だった。
「じゃあ、それはまた今度見せてもらうってことで」
「見せませんけどね」
「見せてもらうってことで。今は小さい葵さんを愛でます」
「……」
確約されている未来かのような口振りで、アイリスが強引に押しきってくる。今のところ見せるつもりは一切ないのだが、いつか本当にそうなりそうで怖かった。
「では……!」
そんな自分の恐怖に気付いた様子もなく、机の上にアルバムを置いたアイリスが、そのまま表紙を捲る。
よくあるサイズの写真がまずは二枚、三人の目に晒された。
「わぁ……!」
「あら」
「へぇ……」
反応は三者三様。中でも、一番分かりやすい反応をしてくれたのは、やはりアイリスだった。
写真に印字されている日付を見る限り、四歳の時の写真である。今の自分ではここまでの満面の笑みは浮かべられないと、そうはっきり断言できる程の笑み。そんな笑みを浮かべた小さな自分が、真正面で構えられていたであろうカメラに向かって両手を伸ばしている、そんな写真だった。
「可愛いぃ……!」
「やっぱり、この頃から女の子っぽさがあるのね」
食い入るように写真を眺めるアイリスに、見たままの感想を口にするレティシア。アーロンは何故か黙って頷いている。レティシアの言葉に賛同しているのだろうか。
「葵さん!」
やがて、相変わらず目を輝かせているアイリスが顔を上げ、やや興奮気味に自分へと迫ってきた。この時点で、もうまともな未来は見えない。
「嫌な予感がしますけど、何ですか」
「笑ってください! こんな感じで!」
「無理です」
「そう言わずに!」
訪れた未来は、やはりまともなものではなかった。先程自分でも考えた通り、アイリスの要求は今の自分に叶えられるものではない。一瞬で向けられたスマートフォンの前では、特に。
「今の僕がこんな表情をするなんて、想像できますか?」
「できないから見たいんです!」
「それは確かに」
危うく言いくるめられそうになる。勢いに乗った時のアイリス程恐ろしいものもない。
「でも無理です」
「えー……。どうしてもですか……?」
「人には、できることとできないことがあります」
「葵さんならできます」
「できません」
このままでは埒が明かないので、元凶となったアルバムのページを捲る。別の写真に変われば、アイリスもこんなことは言わなくなるはずだ。
「ほあぁー……!」
次の写真は、雨の中、合羽を着て泥だらけになって笑っている写真だった。当時の自分は、たったこれだけのことでも何かが楽しかったのだろう。今の自分が見れば、洗濯が大変そうという感想しか浮かばない。きっと、当時も両親が苦労したはずだ。
「昔は意外とやんちゃだったのかな?」
「かもしれないですね。あんまり覚えてないんですよ」
アーロンの言う通り、写真から受ける印象は腕白な子供といったもの。今の自分とは結び付きにくいのは、重々承知している。
けれども、隣には無理矢理結び付けようとする後輩が一人いた。
「葵さん!」
「無理です」
「……まぁ、これは流石にそうですよね。泥だらけになってくださいとは言えないです」
妙なところで冷静なアイリスだった。取り出したスマートフォンも静かにしまっている。その過程はともかくとして、スマートフォンを引っ込めさせるという狙いは、アルバムのページを捲ることで達成できていた。
それからも、アイリスの手によって次々に写真がお披露目されていく。面影があるものを中心に選んできたので、一番古いものが最初の一枚である。そこから先は、小学校の運動会や文化祭といった行事の写真、誕生日やちょっとした旅行といったイベントの写真が現れる。
新たな一枚が登場する度、これでもかとアイリスの目が輝く。楽しんでもらえているのなら、選んできた甲斐があるというものだ。
そんな極端なアイリスの反応程ではないが、アーロンとレティシアも頬が緩んでいる辺り、二人にも多少は楽しんでもらえていそうだった。
「あれ?」
そんな中、とある写真でアイリスの手が止まる。
「どうかしました?」
「いや……、この写真なんですけど……」
その様子が気になって尋ねてみれば、見開き一ページ四枚の写真の内、とある一枚を指差される。何の変哲もない、室内で撮影された一枚だった。日付からして、七歳の時の写真だろうか。
「……っ!?」
気付いた瞬間、一気に血の気が引く。
しっかりと確認したつもりで、けれども見落としてしまった一枚。絶対に見せるつもりのなかった写真が、確かにそこにあった。
「何か気になることでもあったの?」
「んー……? 何だろ……?」
「それくらいの子が好きって?」
「やめてよっ!?」
辛うじて耳に入ってくる会話を聞く限りは、アイリスも軽く違和感を覚えた程度で、はっきりとは理解できていないらしい。それならば、自分がここから迂闊なことを話さなければいいだけの話だ。動揺した中でそれができるのかが問題だが、今はそれで乗りきるしかない。
「違いますからね!? 今の葵さんの方がいいですからね!?」
「何それ、告白?」
「両親が見てる前で、か。斬新だね」
「それも違うもん!」
何やら目の前で一家が騒がしくしているが、今は気持ちを落ち着かせること以外に余裕はない。自分以外の三人で会話が完結しているのなら、これほど好都合なことはなかった。
「葵さんも! そういう意味じゃないですからね!?」
「……え? あぁ、はい」
「……ちゃんと聞いてました?」
そんな風に考えていたのに、思ったよりも早く話を振られたせいで、返事が大分適当なものになってしまった。当然、そんな返事の違和感はアイリスに見透かされる。
「何となくは。アイリスさんは小さい頃の僕が好みってことですよね」
「違う……!」
「今の葵君が好みって言ってたもんね?」
「それもちょっと違う……!」
「ありがとうございます、でいいんですかね?」
アイリスの指摘通り、あまり話は聞いていなかったが、どうやらそんなようなことを話していたらしい。恐らく、見た目が可愛くて好みといった意味だとは思うので、素直に受け取っていいのかは微妙なところだったが。
「まぁ、アイリスのそんな好みは置いておいて、だ」
「置いておかれるのも複雑……」
「何かあったんだろう?」
逸れに逸れた話の軌道をアーロンが修正する。個人的には修正してくれない方がありがたかったのだが、だからと言っていきなり遮るのも、それはそれで不自然である。気付いていないのなら、話が自然に流れるのを待った方がいい。
「うん……。何か、ちょっと違う……?」
「この写真だけ逆光だからじゃない? 影のでき方が他とちょっと違うし」
「あ、それ!」
納得したような声と共に、アイリスの指がレティシアへと伸びる。不安でいっぱいの自分が見守っていることには気付かずに、その結論で落ち着いてくれたようだった。その結論で納得してくれるのならば、それに越したことはない。
「すっきりしたー」
「よくそんな細かいところに気付きましたね」
もうほとんど安全だとは思っているが、さらにだめ押ししておく。これで、話がそれ以外に流れることはないはずだ。
「全部の写真を覚えるつもりで見てますから!」
「それはちょっと……」
「ちょっと、なんですか?」
「変態っぽくて……」
「変態!?」
予想もしていない感想だったのか、思ったよりもアイリスがダメージを受けていた。けれども、今日のアイリスはそれだけでは止まらない。
「い、いいですもん! 小さくて可愛い葵さんが見られるなら、今日くらいはそう言われてもいいです!」
「潔さを発揮する場面じゃないと思うんですよね」
「知りません! そんなわけで次のページです!」
自分の突っ込みを振りきって逃げ出したアイリスがアルバムのページを捲り、そして次の写真が現れる。
「女の子の格好をしてる!?」
そこにあったのは、両親の悪ふざけによって生まれた一枚。当時からその格好で無邪気に笑うことはできなかったようで、他の写真と比べて、明らかに俯き加減となっている。
この写真を見つけた時、アルバムに残してもいいものかと少しだけ悩んだのだが、結局残すことに決めたのだった。この写真によって、アイリスの「女装させたい欲」が少しでも満たされることを期待してのことである。
「……この子、欲しいです」
最初の一言こそ驚きで彩られていたものの、その後にじっくりと写真を眺めたアイリスから出た感想がそれだった。
「変態感が増しましたよ」
「いや、だってこれは……」
視線を写真と自分の顔の間で何度も往復させながら、小さくぽつりと呟く。
「こんな子が弟か妹に欲しかったです」
「葵君に『お姉ちゃん』とかって呼んでもらう?」
「僕が?」
レティシアから、まさかのそんな提案。ふと隣を見てみれば、同じくこちらを見ていたアイリスと目が合う。
期待に満ち溢れた目をしていた。
「アイリスさんが年上……?」
何かが認識を阻害しているかのように、具体的な想像ができなかった。何度考えてみても、妹にしかならない。
「何かおかしなところでもありました?」
「全部、ですかね」
「ぜっ……!?」
あまりの言われように、本人が言葉を失っていた。言ったのは自分だが。
「どうしたって、アイリスさんは妹にしかなりませんでした」
「なんでですか!」
「むしろ、どこに年上要素がありました?」
「私は長女ですもん!」
「一人娘だけどね」
そう言って胸を張るアイリスだったが、アーロンの容赦のない一言で表情が歪んだ。親だからといって、常に味方とは限らないらしい。
「ちなみに、葵君も一人っ子よね?」
「長男ですね」
「葵君とアイリス。どこでこんなに差がついたのかしらね……」
「どういう意味? ねぇ、お母さん。それどういう意味?」
「あなたが子供っぽいって意味」
「葵さんが大人びてるだけ!」
そして、言い出したはずのレティシアすらも敵だった。アイリスの味方が誰もおらず、いっそ不憫にすら思えてきた。
「もう一つちなみに、葵君」
「はい?」
「この子のどんなところが妹っぽいの?」
「妹っぽいところ、ですか……? いくつか思い当たる節が……」
そう問われて、少し考えながら曖昧に答える。すぐに浮かぶのは二つ三つ程度だが、時間をかければかける程、他の答えも浮かんできそうだった。
「どんなところ?」
再度繰り返すレティシアの目は、アイリスの親であることを改めて認識させられる程に輝きで満ちていた。その根元にあるのは、きっと興味なのだろう。
こうして、アイリスがどうにかして話を食い止めようとする現在に至る。
「お母さん? もうその辺にしておかない?しておこう?」
どこにも味方がいないことを悟ったアイリスが、どうにか事態を収めようともがく。写真の感想を話しただけでこんなことになるとは、一切思いもしなかったことだろう。
「そうですね……。やっぱり、一番は人懐っこいところじゃないですかね」
「葵さんも!」
けれども、そんな奮闘も多勢に無勢。一対三の状況では、最初からアイリスに勝ち目はない。
「あら。意外とそうでもないのよ? 葵君にはやたら懐いてるけど」
「葵君に対しては、何か感じるものがあったんだろうね」
「前にアイリスさんから聞いたことがあるような気もしますね。本当なんですか?」
以前本人から聞いた覚えがある話だが、これまでのアイリスから受ける印象とは違っていて、あまり信じることができていない話だった。だが、アーロンとレティシアまでそう言うのであれば、信憑性は増す。
「少なくとも、僕とレティは、先輩後輩どころか同じ学年の友達とすら会ったことはないね」
「アイリスさん……」
「友達ならいましたっ! ただ機会がなかっただけでっ!」
それ以上は何も言っていないのに、弁解が妙に必死だった。自分ならともかく、アイリスに友人がいないとは考えにくいので、きっとその言葉は真実なのだろう。だが、ここまで必死に言われると、微かな疑いが生まれてしまうのもまた事実だった。
「それならいいんですけど」
「優しい目で見るのは禁止です!」
「わがままね」
「お母さんとお父さんのせいだからね?」
うっすらと頬を赤くしながらの力のない反撃では、レティシアは止まらない。アイリスの負け戦は、なおも続く。
「それで? 他には?」
「小柄で可愛いところとか」
「だって」
「う、嬉しくなんかない、ですし……」
そう口にした途端、これまでとは違ってどこか恥ずかしそうに目を逸らすアイリス。気のせいか、その体が少しだけ揺れているようにも見えた。
「こう、助けになってあげたい雰囲気があるんですよね」
「そのおかげで、葵さんはウェイトレス服を着られましたもんね?」
「『そのせいで』です」
レティシアへ向けていた反撃の矛先は、次は自分に向いたらしい。まだ目を逸らしたままだが、はっきりと敵対の言葉を告げてきた。
「あとは、『着られた』じゃなくて、『着る羽目になった』です」
「しっかり全部否定された……」
「よっぽど嫌だったのね」
「当然です」
レティシアには敵わないと判断してのことだったのだろうが、残念ながら今のアイリスでは自分にすら敵わない。自らの言葉をしっかりと訂正され、心の内を表すようにがっくりと肩を落としている。
「その割には、私がお願いした狐耳とか猫耳もつけてくれますよね」
「可愛い、後輩が、どうしてもと言うから、つけてるんですよ。そうじゃないならつけません」
「あ、はい……。ありがとうございます……」
一言一言区切って強調した意図が伝わったのか、向けられた矛先はあっさりと丸くなった。最早何の脅威にもなりはしない。
「こうなったら、アイリスさんには僕の代わりにウェイター服でも着てもらいましょうか」
「どんと来いです! その時は葵さんもウェイトレスで、性別逆転しましょうねっ!」
「嘘です。着なくてもいいです」
せっかく丸くなった矛先が、迂闊な発言を砥石として一瞬で切れ味を取り戻してしまった。つい最近、口は災いの元と言われたばかりなのにも関わらず、だ。
「そっか……。考えもしなかったですけど、確かにそれもありですね……」
「ないです」
「柚子さんに言って……」
「絶対にだめです」
何かを考えるように若干俯いて呟くアイリスを、今度は自分が必死になって制止する。そんなことをすれば、柚子は間違いなくアイリスの新たな制服を用意する。そうなれば、辿り着く先は一つだ。
「そうなったら、僕達にも写真を見せてもらえると嬉しい」
「そうね。面白……、面白そう」
「言い直す意味、ありました?」
言い直した前後で言葉が変わっておらず、レティシアが何をしたかったのか、全く理解できなかった。そして何より、いつの間にか一対三の一が自分になっていることが問題だった。
「あ、この前の猫耳の写真ならあるよ」
「それは今見ましょう」
「だめに決まってます」
後輩の母親が相手であろうと、譲れないものは譲れない。あの写真は断固として秘匿するべきものだ。
「そんな写真より、今しか見られないアルバムの方が大事だとは思いませんか?」
「ウェイトレスの写真はいつでも見ていいってこと?」
「違います」
どうにかして話を逸らそうとしているのに、曲解に曲解を重ねて軌道が戻っていく。アイリスに遺伝していることがよく分かる、とても純粋な目をしたレティシアだったが、どの時間軸においてもそれが許されることはない。
「ま、葵君が帰った後はどうしようもないんだけど」
「レティシアさん?」
「じゃあ、また後で見せてあげる」
「アイリスさん?」
「そんなわけで、次のページです!」
不穏な会話を交わすアイリスとレティシア。ページを捲る前に問い質したかったが、自分の呼び掛けには一切応じてくれなかった。
「あれ? このページで最後ですか?」
恐らく不満の色が宿っているであろう目で見つめる先で、またしてもアルバムのページが捲られる。アイリスが言う通り、アルバムはそのページで最後だった。それも、見開き四枚の内、埋まっているのは二枚だけ。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。このアルバムに収まっているどの写真よりも恥ずかしい写真が、自分のいないところで公開される瀬戸際なのだから。
「見せませんよね? アイリスさん?」
「分かりましたから。私からは見せませんって」
「なるほど。つまり、私から見せてってお願いすればいいのね」
「悪知恵の働かせ方まで親子で似ないでください」
そんな風に言いつつも、心の中には既に諦めている自分がいた。レティシアが言った通り、帰った後のことはどうしようもないのである。
「それで? もう最後なんですか?」
「……そうですね。あんまりたくさん持ってきてもと思って」
釈然としない気分ではあったが、アイリスにそう返す。持ってきたアルバムは、七歳の秋頃の写真を最後に、その役割を放棄していた。
「えー……。もっと見たかったです……」
「それは次の機会にということで」
次の機会は永久に訪れないと理解しつつも、残念そうに言うアイリスにはそう答えるしかなかった。
「いつか、絶対に見せてもらいますからね?」
「覚えていれば、です」
「私が催促し続けます」
「僕が持ってこなければ、誰も見られないんですよね」
「独り占めなんてずるいですっ」
自分の写真に対して「独り占め」という表現が正しいのかどうかは分からないが、どう言われようとも、次の機会はない。それは、今日色々言われたのでもう見せたくないという理由ではなく、もっと大きな理由からなのだが、当然、それをアイリスが予想できるはずもない。
「多分……」
「そうね……」
そんなことよりも気にするべきは、アルバムの終わり方を見て何かを悟ったらしいアーロンとレティシアをどう誤魔化すか。思考の大半をそんなことに割きながら、二人の様子に気付く気配もなく、未だに食い下がるアイリスを受け流すのだった。




