44. ウスベニアオイは遠く
「流石にこれは……」
八月十四日、月曜日。去年は何も意識しないまま、いつの間にか通り過ぎていた誕生日である。今年はアイリスに散々印象付けられたおかげで、しっかりと認識できている。
そんな日に届いた、一通のメッセージ。何度か繰り返し見ても文面が変わる訳でもないのに、信じたくなくて何度も読み返す。けれども、やはり文面は変わらない。
アイリスから届いたメッセージ。そこには、こう書かれていた。
『今日は猫耳を持ってきてください』
ご丁寧にも、猫のスタンプまで一緒に送られてきた。
今日のDolceria pescaで何が起こるのか、もう察しがつく。
「……」
自分以外に誰もいない部屋で、無言で考える。持っていくのか、持っていかないのかではない。行くのか、行かないのかである。
アイリスが働き始めて、もう四か月が過ぎた。ほとんど全てのことを一人でできるようになり、たまに一人でシフトに入っていることもある。いきなり今日は一人態勢と言われても、十分に対応できるくらいには成長しているはずだ。
なればこそ、今日は休んでもいいのではないか。そんな囁きが徐々に大きくなる。
「……」
だが、そんな囁きとは裏腹に、体は店へと向かう準備を進める。結局、休むことが頭を掠めたのは、ほんの僅かな時間だけだった。
そんな準備の最後。手に取るのは、先週貰ってしまった茶色の猫耳。曰く、髪の色と合っていて、とてもいいらしい。
「いや……」
今度は口に出して悩む。
持っていけば、間違いなく猫耳ウェイトレスが誕生する。それも男の。
持っていかなければ、間違いなく狐耳ウェイトレスが再登場する。それも男の。
「……地獄?」
改めて考えて、どうなっても獣耳男子高校生ウェイトレスが誕生する未来に辿り着いた。店に狐耳が常備されていることが、あまりにも大き過ぎる。
「もうどうにでもなれ、ですね……」
観念して、普段は持っていかない鞄の中にそっと猫耳を入れる。これでもし誰かに鞄の中身を見られたら、その瞬間に色々なものが終わるような気がした。鞄を開いたら猫耳が出てきた時の、誰かの心情やいかに。
そんな益体もないことを考えながら、家を出る。途端に、夏の空気が全身を包み込んだ。これでもかと熱を伝えてくる空気を何とか押し返しつつ、気持ち早足でアイリスの家へと向かう。
数分しか歩いていないにも関わらず、少しだけ体温が上がったように感じ始めた頃。家の前で誰かを待つ、アイリスの姿が見えてきた。誰かも何も、待たせているのは自分だが。
こちらから見えるということは、向こうからも見えるということ。当然のようにこちらに気付いたアイリスが、小さく頭を下げる。その様子を見て、気付けばまた少し早足になってしまっていた。
「おはようございます、葵さん」
いつもの距離まで辿り着いてすぐ。いつも通り先手を取るように、アイリスの声が届く。そこかしこから蝉の声がする中でも一切遮られることのない、透き通るような音だった。
「おはようございます。家の中にいた方がよかったんじゃないですか?」
「確かに暑かったですけど、今日は待ちに待った日ですからね。じっとしていられませんでした」
「待ちに待ったのは、一体どっちのことを言ってます?」
「どっちもです!」
「……そうですか」
これまではあくまで確定に近い予想だったが、アイリスが弾けるような笑みを浮かべた今この瞬間に確定した。今日は猫耳ウェイトレスが誕生する。
「ちゃんと持ってきてくれました?」
「持ってきたくはなかったです」
「ってことは、持ってきてくれたんですね」
「持ってこなくても、どうせ狐耳は店に常備じゃないですか」
先月から、バックヤードの目立つところにずっと鎮座している。狐耳と犬耳が並ぶ空間は、そこだけ異様な雰囲気を放っていた。恐らく、今日からそこに猫耳が二つ追加されることになる。
「あ、尻尾も増やしました」
「……」
「猫のもです」
「……」
そう言って、手に持っていた鞄を少しだけ掲げるアイリス。その中に、尻尾とやらが入っているのだろう。この上なく知りたくなかった事実だが、店に着いてから知るのも、それはそれでダメージが大きそうなので、どちらがよかったのかはよく分からなかった。
「これでもっと可愛くなっちゃいますね、葵さん」
「……帰っていいですか?」
少し前の考えが、もう揺らぎ始めている。今ならまだ数分で家に帰ることができる。暑さで体調を崩したとでも言えば、きっと休ませてもらえるはずだ。
「帰っても、つける日がずれるだけですよ?」
「どうあってもつけさせる気ですか。」
「当たり前です。何のために買ったと思ってるんですか」
「何でそんなに強気なんです?」
「私は今、可愛い葵さんを見るのに全力ですから」
とても迷惑なのでやめてほしい。全力を傾ける先を間違えている。
「安心してください。私もつけますから」
「どこが安心できるんですか?」
「葵さんは一人じゃないですよって」
「こんな場面で使っていい台詞じゃないですね」
そもそも、アイリスが尻尾を購入しなければ、こんな状況にはなっていない。せいぜい猫耳ウェイトレスが誕生するだけで済んだはずだ。
「……済んだ?」
「どうかしました?」
「いや……、ちょっと感覚がおかしくなってきたかもしれないです」
自然とこんなことを考えてしまう時点で、自分はもう手遅れなのかもしれない。綺麗にアイリスの術中に嵌っているような気がした。
「よく分からないですけど、そろそろ行きましょうか。早くお店で涼みたいです」
その言葉を裏付けるかのように、暑さで頬を微かに赤くしたアイリスが歩き出す。このままついていけば、待ち受けるのは猫耳ウェイトレス尻尾付き。家を出た時よりも、遥かに一歩が重い。
「葵さん? 行きますよー?」
足を踏み出せない自分から少しだけ離れたところで、アイリスが振り返って名前を呼んでくる。その顔には、邪気など一切感じられない、屈託のない笑み。
「……分かりましたよ」
そんな表情に、何故か少しだけ足が軽くなった気がした。
気がしただけで、重いことには変わりない。それは、バックヤードに繋がる扉もそうだった。
「……」
扉に手をかけたまま、少しだけ逡巡する。だが、後ろにアイリスが控えている今、扉を開かないという選択肢は存在していない。
事前に着ることが分かっている方が、心構えができて楽なのか。それとも、直前まで何も知らない方が幸せなのか。考えても仕方のない疑問を頭に浮かべつつ、過去最高に重たい扉を開く。
「あ、おはよう」
「おはようございます」
「おはようございます!」
出迎えてくれたのは太一。机の上に広げた何らかの書類を片付けているところだった。
「あれ? 柚子さんは?」
その場にいない人物の名は、アイリスの口から出てきた。これまで、ほとんど必ずと言っていい程、バックヤードでの出迎えは柚子だった。いつもと違う光景に、アイリスが違和感を覚えるのも無理はない。
「呼んだ?」
扉を開けてすぐに聞こえてくるものだと思っていたその声は、今日はやや時間を置いてから聞こえてきた。どうやら二階から下りてきたところらしい。ただ単にタイミングが合わなかっただけのようだった。
「おはようございます」
「おはようございます! 柚子さん!」
「はい、おはよう」
この数秒で二回目の挨拶を交わした後、アイリスが柚子へと近寄っていくのを横目に見ながら、鞄からあるものを取り出して机に置く。
言うまでもなく、猫耳だった。
「……本当に持ってきたんだね」
「持ってこなくても、どうせあそこの狐耳に変わるだけですから」
苦笑いで言う太一にそう返しながら、バックヤードの一角を指差す。スチールラックの上で異彩を放つ獣耳が、そこにはあった。
「確かに。あれは常備だからね」
「この世で一番いらない常備品です」
使い道が限定的過ぎて、埃を被る未来しか見えない。だからと言って、埃を被らないよう、大事に保管されても困るのだが。
「あれが?」
「そうです。可愛くないですか?」
「今日も写真を撮るのが捗りそうね」
極力意識しないようにしていた二人の会話が聞こえてきたのは、そんなタイミング。太一との会話が途切れ、アイリスと柚子の話し声しか聞こえなくなった時だった。
「ツーショットもたくさんお願いします」
「任せて。看板娘二人の猫耳姿なんて、そうそう見られるものじゃないしね」
「二人……?」
今更気にしてもどうしようもない言葉と分かってはいるが、どうしたって声は出る。月一の出勤で看板娘扱いとは、一体どういうことだろうか。
「……」
普段のウェイター姿の時から看板娘扱いされている可能性は、今は考えないことにした。
「今日は尻尾まで用意しちゃいましたからね!」
「あら、気合が入ってるわね」
「今日は葵さんの誕生日ですから。目いっぱい可愛くしてあげないと、です」
「何か恨まれるようなことでもしました?」
さもなければ、この仕打ちは受け入れられない。誕生日に着飾るのは理解できても、方向性があまりにもひどすぎる。
「恨んでることなんてないですけど、強いて言えば、ホラー会……、とか……」
「アイリスさん?」
何故か言葉の途中からアイリスの歯切れが悪くなった。直前の言葉を考えれば、その頭の中で何が起こったのかは何となく想像できる。そもそも、表情が少しだけ怯えたものに変わった。
「葵さんのせいで思い出しちゃったじゃないですかっ。せっかく忘れてたのに!」
「知りませんよ」
言い方は厳しいが、アイリスが勝手に思い出しただけである。そこに関与したつもりは一切ない。
「罰として、今日は柚子さんの撮影を拒否しちゃだめです!」
「今までだって拒否できなかったじゃないですか」
撮影会とやらはこれまで二度あったが、何だかんだと言いくるめられた記憶しかない。つまりは、何も変わっていない。
「それなら、私と柚子さんが言ったポーズは絶対ってことにします」
「……」
余計なことを言ったと、そう理解したのは全てが手遅れになってからだった。何も言わなければ、こんなことにはならなかったはずである。最近、アイリスの前では何も考えずに言葉を口にしてしまうことが多い気がした。
「『口は災いの元』だね」
「私とアイリスさんにとっては嬉しいことだけど」
「そっちは『禍福は糾える縄の如し』だ」
太一と柚子が話す声が、やけに遠く聞こえた。
「……」
「魂が抜けかけてる猫が一人」
「……人です」
いつもよりも圧倒的に長く感じた勤務時間が、やっと終わった。その疲労たるや、アイリスにまともに返す気力すら残っていない程である。
バックヤードの椅子に腰かけ、ぼんやりと天井を眺めている最中の出来事だった。
「魂が抜けかけでも、座り方はしっかり女の子っぽいんですね」
「意識してないと、中が見えそうになるんですよ……」
先月スカートを短くされたことで、新たに発生してしまった問題だった。自分がこんな問題に直面することになるなど、数か月前までは想像もしていなかった。
「そうなんです。大変なんですよ? 身に沁みました?」
「大変なのは分かりましたけど、身に沁みてほしくはなかったです」
この上なく理解しやすいものの、前提として色々なことが間違っているような気しかしない。多少分かりにくくとも、もう少し心に優しい理解の方がよかった。
「さて、そんなお疲れの葵さんに、一つお知らせです」
仕草が体に染みついたらどうしようかなどという、なかなかに恐ろしいことを考えていると、アイリスがそんな風に話題を変えた。どうやら、こちらが本命の話題らしい。
「こんな僕にまだ何か?」
「写真撮影の時間です。忘れたなんて言わせませんよ?」
「忘れました」
「早く来ないと、葵さんの私服を間違えて洗濯しちゃうかもって柚子さんが」
「卑怯ですよ」
にっこり笑ったアイリスが、しっかり退路を塞いできた。この服で帰ることなど、できる訳がない。いくら田舎町の夜道は人気が少ないとはいえ、全くいない訳ではないのだ。どんな目で見られるかなど、考えたくもない。
「猫耳姿の葵さんと一緒に写真が撮れるなら、どんな手でも使ってみせます」
「決意が固過ぎる……」
自分と同じく、猫耳ウェイトレス尻尾付きという、これ以上ないくらいに可愛く着飾ったアイリスから出てきていい言葉ではない。
「ほら、行きましょう?」
「可愛く首を傾げたらいいってわけじゃないですからね?」
ここで拒み続けても未来は変わらないので、重い腰を上げながら一応はそう反論する。
「でも、来てくれるんですね」
「まぁ……」
残った力を振り絞ったような反撃は、笑顔であっさりと受け流されるのだった。
「わざわざ閉めた後の店を使ってまでやることですか?」
「もちろん。月に一回しかないんだから、そこに全力を注ぐのは当然でしょ?」
アイリスにバックヤードから連れ出され、カウンターも通り過ぎる。店内で待ち受けていた柚子からは、そんな慈悲のない言葉が返ってきた。
その口振りだと、毎月こんなことが開催されそうな気がするのだが、それは気のせいなのだろうか。聞いておいた方がいいような、聞かない方がいいような、そんな複雑な気分だった。
「僕は先に戻ってるよ」
聞くか聞かないかを迷っていると、柚子と共に閉店作業を行っていた太一が、そう言いながら体をバックヤードに向けた。
「あら、見ていかないの?」
「気にはなるけど、見てる人が少ない方が、葵君も気が楽なんじゃない?」
「この格好の時点で気が楽じゃないです」
「それは諦めて。僕じゃ柚子には勝てないから」
そんな悲哀に満ちた言葉を残し、太一がバックヤードへと消えていった。
「さて」
そして、場の空気を切り替えるように、柚子がそう切り出す。それと同時に視線がこちらに向き、思わず一歩だけ後退ってしまった。逃げ場など、もうどこにもないというのに。
「じゃあ、まずは一人ずつ撮っていきましょうか」
「最初は葵さんからで!」
「ご指名みたいだけど?」
「どっちでもいいです……」
順番の先後など関係ない。どうあっても、待ち受けるのはポーズまで指定される撮影会に変わりないのだから。
「まずは王道ですよね」
「猫っぽくってこと?」
「そうです」
目の前で繰り広げられる相談。これから自分が取らされるポーズを決めているはずなのに、どこか他人事のような、そんな気がしてしまう。
言い方を変えれば、現実逃避となる。
「葵さん」
「何ですか」
「前に碧依先輩に撮ってもらった時のポーズ、覚えてますよね?」
「何のことですか?」
あれだけしつこくリテイクを受けて忘れている訳がないのだが、とりあえず惚けてみる。問題の先送りでしかないことなど重々承知していても、未だに心が状況に追いついていない。何なら、一生追いつかなくてもいい。
だが、そんな逃げをアイリスが許すはずがなかった。
「これです。覚えてますよね?」
「はい……」
件の写真まで見せつけられてしまえば、もう言い逃れはできない。要は、最初はこのポーズと言いたいのだろう。
「まずはこれでお願いします」
「まずは」
当然のことだが、ポーズを一つ取っておしまい、などということはなかった。アイリスと柚子が満足するまで撮影会が続く気配が、店内には色濃く漂っている。
「あ、もちろん可愛く笑ってくださいね?」
「もうどうにでもなれ、です……」
今日二回目の言葉を口にして、手を丸める。そのまま両手を構えるのは簡単だが、果たして可愛く笑えているのだろうか。普段は震えるはずのない頬が、今にも震え出しそうな感覚があった。
「そこで一言っ、です!」
「……にゃあ」
そう呟いた瞬間、店内にシャッター音が鳴り響いた。音の出所はもちろん柚子の手の中。声が録音できる訳でもないのに、鳴き真似にタイミングを合わせて一体何がしたいのだろうか。
そんな思いとは関係なく、もう何度かシャッター音が続く。どうやら、アイリスや柚子的には今の表情で問題ないらしい。
「可愛いです!」
「こんなことなら、もっと早くから着てもらうべきだったわね」
柚子が撮った写真を覗き込みながら、アイリスがお決まりの一言を発する。随分と目が輝いているが、その輝きは女装した男の写真を見ている時に見せていい輝きではない。
そして何より、柚子の感想が怖い。
「じゃあ、今度はそのまま後ろを向いて、こっちを振り返ってください。あ、両手も見えるようにしてくださいね?」
「……」
もう無駄な抵抗をすることもなく、ただ従順にアイリスの指定をこなすだけのパターンに入る。
菱川師宣作なら見返り美人図だが、アイリス作なら見返り女装男子高校生図。歴史の闇に埋もれること間違いなしだった。
「いいです! とってもいいですよ!」
けれども、そんなことはお構いなしに、アイリスの興奮度は跳ね上がっていく。そのアイリスに引っ張られるように、シャッターを切る柚子の手も忙しくなる。
「葵君。ちょっとだけ顔を上に向けてくれる?」
しかも、指示まで飛んでくる始末。どうせ断れないのは分かりきっているので、黙って顔の角度を変える。
「それ! 完璧!」
何が変わったのか知らないが、柚子がとても満足そうにしているので、何かが変わったのは間違いない。
「次は……」
アイリスからの指示も続く。この撮影会が終わった時に、帰宅できるだけの体力が残っているのか。それが目下最大の心配事だった。
「いやぁ……。葵君も可愛いけど、やっぱりアイリスさんも信じられないくらい可愛いわね……」
「えへ……。そうですか?」
「それはもう。そこで葵君も落ちてるでしょ?」
「葵さんは私の番の前からあんなだった気がします」
撮影を終えたらしいアイリスの声が聞こえてきた。自分の番が終わってから机に突っ伏して体力の回復に努めている様子を、「あんな」と表現しないでもらいたい。
「あら。アイリスさん、気付いてなかったの?」
「何がですか?」
「葵君、たまに突っ伏したままアイリスさんの方を見て、すぐに赤くなって顔を背けるってやってたのに」
「ほんとですか!?」
アイリスの嬉しそうな声が弾ける。見えてはいないが、その様子から察するに、本人には気付かれていなかったらしい。そうなると、柚子に気付かれてしまったのが痛い。
「ちゃんと可愛くできてました?」
わざわざ机を回り込み、自分の顔を覗き込むようにしゃがみながら尋ねてくる。何がそんなに嬉しかったのか、その顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「ノーコメントで」
「そうですかっ。可愛くできてたならよかったです!」
「何も言ってません」
「じゃあ、可愛くなかったってことですか?」
素直に認めるのが恥ずかしくて、つい否定するようなことを言ってしまう。その途端、アイリスの声のトーンが少しだけ落ちる。喜び一色に混ざり込んだ、ほんの僅かな不安の表れのように思えた。
だからだろうか。素直に認めるのが恥ずかしかったのに、それでも思ったことを正直に話してしまうのは。
「可愛かったです」
「っ! ありがとうございますっ!」
再び喜び一色となったその顔を見ていると、何故かこちらの頬まで緩んでしまう。何とも不思議な力を持った表情だった。
「それじゃあ、次は二人で撮りましょうか!」
高揚したらしい気分そのままに、そう提案される。記憶の彼方に消えていたが、確かに先程そんなことを言っていたような気もする。
後ろから両肩を持って起こされ、突っ伏していた体が机から引き離される。多少回復したといえども、まだ体は重かった。どうしてこんなところで、精神が肉体に及ぼす影響というものを体験しなければならないのだろうか。
「ほら、あと少しですから」
「あぁ……」
引き起こされるだけでは留まらず、そのまま柚子の前へと連行される。抵抗するだけの体力は、当然まだ戻っていなかった。
「アイリスさんが撮りたがってたんだし、ポーズは好きにしていいわよ」
「任せてください!」
力強く頷くアイリスには、あまり任せたくなかった。
「葵さん」
「任せたくないです」
思わず口を衝いて出てしまった。
「最初のポーズ、覚えてますよね?」
そして無視された。
「覚えてますね。思い出したくはないですけど」
「まずはそれで。あとは私が合わせますから」
やはり無視された。この場で自分の意見を通すのは不可能らしい。
本日何度目になるのか、もう数えてすらいない諦めの回数。それをまた一つ増やしながら、両手を猫のように掲げる。
無理にでも表情を柔らかくしないと、そこでもリテイクが入る。これまでの人生で培ってきた全ての技術を動員して、何とか笑顔を形作る。
「柚子さん」
「はいな」
アイリスが名前を呼ぶだけで、シャッターが切られる。意思疎通が完璧で、まさに阿吽の呼吸といった様子だった。
「……」
ちらりと横目でアイリスを窺ってみれば、自分と鏡合わせになるようにポーズを取っている。身長差のせいか、黒い猫耳がすぐ近くに見えた。
「んー……?」
「どうかしました?」
何度かシャッターを切った後。大抵は満足そうにスマートフォンの画面を眺めていたこれまでとは違って、どこか納得していない様子で首を傾げる柚子。
漏れ出た声は、当然アイリスにも届く。
「何か、ちょっとね……」
どこに納得できないのか、柚子自身も理解できていないらしい。撮った写真を眺めながら、眉間に皺を寄せている。
「あ」
そうして考え込むこと十数秒。柚子が何かを思い付いたようだった。頭上に電球が光るのを幻視する。
「二人共」
「はい」
「何ですか?」
「もうちょっと顔を近付けてみて」
「顔を」
「近付ける?」
そう言われて、アイリスと顔を見合わせる。思ったよりも近いところに瑠璃色の瞳があることに、そこでようやく気付く。並んで写真を撮っている分、隣を歩く時よりも近いのは当然だった。
「お互いの肩もくっつけちゃいましょうか。葵君の方が背は高いし、ちょっと屈んでね」
アイリスに任せるという発言は一体何だったのか。何かを思い付いてしまった柚子の指示は、そのアイリスよりもいくらか細かいものだった。
「葵さん」
「これくらい、ですか?」
柚子がどの程度を求めているのかは分からないが、とりあえず適当に屈んでみる。長い時間維持するには厳しい体勢だが、写真を撮るくらいの時間なら何とかなりそうな、そんな体勢である。
「ありがとうございます」
何かに対するお礼を口にしたアイリスの肩が、左肩に触れる。その声は、先程よりも明らかに近くから聞こえてきた。
「そう! で、そのままお互いの方に頭を傾けて! 両手は猫で!」
思い描いた構図が目の前で完成しつつある状況に、柚子の興奮が止まらない。普段は基本的に穏やかなのに、今の柚子からはそんな雰囲気は微塵も感じられない。
そんなことを考えつつ、やらなければ終わらないという精神で指示に従って頭を傾ける。隣のアイリスも同じように傾ければ、その熱が感じられるのではないかと錯覚する程に距離が近くなる。
これだけ近ければ、もしかすると自分の熱も伝わってしまうのではないかと心配したところで、やっと頬が熱を宿していることを自覚する。先程一人で撮影されていた時とは違う感覚だった。
そんな感覚に一瞬困惑を抱くものの、それもすぐに柚子によって掻き消される。
「いい! しばらくそのままね!」
シャッターを切る速度が少し前とは明らかに違う。柚子が一人、止まらない興奮の奔流に飲みこまれている。
指示通り、お互いにポーズを崩すこともせず、撮影監督と化した柚子の合図を待つ。柚子が満足そうにスマートフォンを下ろしたのは、それから少し後のことだった。
「今日一番の仕事をしました!」
「閉店後なのに?」
「細かいことは気にしなくていいの!」
パティシエールが閉店後にその日一番の仕事をしてしまうのは、果たして細かいことなのだろうか。本人が問題ないと豪語している以上、こちらから言えることなど、何もありはしないのだけれども。
「じゃ、次はどんなポーズにする?」
そして、相変わらずこの質問の時には自分に視線が向かない。向けられたところで希望などある訳もないが、改めて拒否権がないことを実感させられる。
「えっと……。じゃあ……」
柚子の言葉を受けて少しだけ思案の表情を浮かべたアイリスが、次のポーズに向かって行動を起こす。
「ちょっとだけ……、失礼しますね?」
「え……?」
一体何をするのかと思いきや、控えめにそう呟いたアイリスに左腕を抱き締められた。冷房の効いた店内の空気に晒されていた肌が、自分のものとは別の体温を伝えてくる。
また肩が触れている、また顔が近い。そんなことを気にする余裕すらない程のポーズ。初めてこんな格好をさせられた時にも同じような構図で撮影したと、頭の片隅でそう思い出すものの、それでもそこに意識が向かわない。
「にゃあ……」
柚子の言葉を借りる訳ではないが、心の中で今日一番の困惑を更新していると、腕を抱き締めたアイリスが、小さく、そしてか細く、その鳴き声を響かせた。
構図は同じかもしれないが、どうもアイリスの様子が以前とは違う。あの時は元気そうにピースサインまでしていて、こんなに大人しくはなかったはずだ。
「……」
困惑を押し殺し、そんなアイリスの様子を窺う。自分からは顔の右側しか見えないが、それでも白い肌に桜色が浮かんでいるのだけは、はっきりと見て取れた。流石のアイリスも、この格好でこのポーズは、どこか恥ずかしいものがあったのかもしれない。そう思うと、特大の困惑も少しだけ薄れるような、そんな気がした。
「……っ」
それ以上に、そのあまりの可愛さのせいで、困惑している場合ではなくなってしまったのも大きいが。
「ほらっ! 葵君も! ぼーっとしてないでアイリスさんに合わせて!」
そんな自分の変化に気付いているのかいないのか、またしても興奮した様子の柚子の指示が、容赦なく自分に向けて飛んでくるのだった。
「……」
「魂の抜けた猫が一人」
「……」
「あ、今度は反応すらないんですね」
もう猫でも何でもいいので、早く帰りたい。アイリスに話しかけられたところで、そんなことしか頭に浮かばなかった。
撮影会の分、いつもより少し遅くなった退勤の時間。残っていた体力も、途中で回復した体力も根こそぎ奪われ、最早着替える体力すら残っていなかった。
「葵さん、ちゃんと家まで辿り着けますか?」
「……疲れました」
「わぁ。噛み合わない」
アイリスが隣の椅子に腰かけながら何かを尋ねてきたが、最早何も考えられない。今の自分は、ただただ適当に言葉を吐き出すだけの機械も同然だった。
「そうですよね。早く着替えたいはずなのに、それもしないくらいですもんね」
「帰りたいです」
「わぁ。また噛み合わない」
普段こんな姿は見せないようにしているからか、思った以上に心配されてしまったようで、アイリスが横から身を乗り出してきた。
少しだけ見上げるような形となった瑠璃色と目が合う。
「ほんとに大丈夫ですか?」
「……そう思うなら、少しは手加減してください」
「わぁ。今度は噛み合った」
「どれだけ大変だったか……」
どうにか少しだけ体力が回復したことで、ようやく周囲に意識を向ける余裕が生まれた。
自分の目に生気が戻ったことに安心したのか、アイリスの姿勢も元に戻る。その動きに合わせて届いた空気は、どこか甘い匂いがした。
「照れてる葵さんが可愛過ぎるのが悪いんですよ。普段は滅多に見せてくれないですし」
「だからって、あんな風に抱き付いてくるのはだめです」
思い起こされるのは、左腕を抱き締められた後のこと。若干暴走気味となった柚子に押されるままにアイリスが正面から抱き付いてきた時には、体が完全に硬直してしまった。人間、全く予想していない事態に直面すると、何もできなくなる。
そうして撮られた写真は、他人に見せられないのは当然として、自分でも見返す勇気がなかった。
あの時柚子の方を向いていたアイリスの頬は、その前に見た桜色よりもさらに濃い色に染まっていた。間違いなく恥ずかしさはあったのだろうが、自分はもっと濃い色を晒していたはずだ。加えて、それはもう驚いた顔を切り取られているに違いない。
「あんなに恥ずかしかったのは八時間くらいぶりです」
「ついさっきじゃないですか」
この姿を披露した時以来とも言える。
「葵さんが恥ずかしがってるのは分かってましたけど、私だって、あの時は色々大変だったんですから」
「あんなことをしてきたのに?」
「それは……、色々……」
明らかに何かを隠すように、アイリスの目が泳ぎ始める。最終的には、顔ごと背けられた。
「何かを隠しましたよね?」
「何でもないです」
「耳が赤いですよ」
「う……」
元々肌が白いアイリスである。小さな色の変化がとても分かりやすかった。
「だめですっ。葵さんにも教えられませんっ」
「へぇ……」
「な、なんですか……?」
そこまで言われると、どうしても気になってしまうのが人間の性。本気で嫌がるようなら聞き出すつもりはないが、多少探ってみてもいいのかもしれない。
そう考えたところで、カウンターに繋がる扉が音を立てて開いた。
「お待たせ」
現れたのは、店内の片付けをしていた柚子だった。どうやら全ての作業を終えたらしい。
「あら? 何かあった?」
バックヤードに漂う雰囲気に何か違和感を覚えたのか、これまでの経緯を知らない柚子がそんな一言を口にする。
「いえ、何でもないです」
何を考えるでもなく、そう答える。わざわざ柚子がいる場で探る程の事でもないだろうと思って返した言葉に、アイリスが安堵のため息を吐いていた。
「そう? じゃあいいけど」
柚子もそれ以上突っ込むつもりはないのか、撮影会でのしつこさが嘘のようにあっさりと引き下がった。そして、そのまま机を挟んで正面に陣取り、自身のスマートフォンを取り出しながら口を開く。
「写真、いる?」
「欲しいです!」
即答したのは当然アイリス。電光石火の早業で自身のスマートフォンを取り出していた。受け取り態勢を整えるまでの時間が短過ぎる。
「たくさんあるけど」
「全部で!」
またしても即答。迷いが一切なかった。
「そしたら、まとめて送るわね」
「お願いします!」
「一応葵君にも聞いたつもりだったけど、聞くだけ無駄だったわ」
「どういうことですか」
「誕生日プレゼントってことで、葵君にも全部あげる」
「えぇ……」
百歩譲って、アイリスと二人で写っている写真を貰うのならまだ分かる。だが、アイリスだけが写っている写真と、自分の女装姿だけが写っている写真を貰って、一体どうしろというのか。物騒な表現だが、スマートフォンに爆弾を仕込むような行為にしか思えない。
「遠慮なんてしなくていいから」
「遠慮してるように見えます?」
実際は引いている。
「せっかくですし、葵さんも貰っておきましょうよ」
「せっかく?」
「せっかく、です」
自分の知っている「せっかく」と、アイリスの言う「せっかく」は違う意味を持っているに違いない。そうでなければ、こんな純粋な目で口にはできないはずだ。
「まぁ、強制的に送り付けるんだけど」
「こんな誕生日プレゼントは初めてです」
「貴重な経験ってことね」
思考がポジティブ過ぎる柚子だった。どうやっても勝てる未来が見えない。
「あ、私も今渡していいですか?」
勝てる未来が見えない会話の打開策を考えていると、この瞬間を待ち侘びていたと言わんばかりにアイリスがそう提案してきた。律儀に右手が掲げられている。
「僕からどうこうは言えませんよ」
尋ねられたところで、自分は貰う側なのだ。こちらから催促するようなことはできない。
「じゃあ、ちょっとだけ待っててくださいね?」
その返事を肯定と受け取ったアイリスがそう言って立ち上がり、更衣室へと消えていく。
言葉通り、待つこと十数秒。控えめな装飾が施された紙袋を手に、アイリスが戻ってきた。その顔は、少しだけ緊張しているようにも見える。
「お誕生日、おめでとうございます」
それでも、その紙袋を差し出す時には柔らかな笑みが浮かぶ。
そんな表情を眩しく思ってしまったのか、それとも、こんなに改まって誕生日を祝われるのが気恥ずかしかったのか。複雑な心情が滲み出したかのように、一瞬だけ視線を逸らしてしまう。
だが、それも本当に一瞬。わざわざ用意してくれたのだからと、きちんと向き合う決心をする。
「ありがとうございます」
アイリスの手から紙袋を受け取りつつ、そう返す。自分で聞く分には、何とか穏やかな声音で返事ができたはずだ。
一応は周囲から聞いてもそうだったのか、目の前のアイリスの表情からは、ほんの僅かな緊張すらも消え去っていた。
「開けても?」
「どうぞ」
一言声をかけてから、丁寧に紙袋を開ける。ほとんど重さを感じない程に軽いが、一体何が入っているのだろうか。
「……」
久しぶりに贈られた誕生日プレゼントに、年甲斐もなく少しだけわくわくしてしまう自分に対し、アイリスは再び緊張を滲ませ始める。そんな感情が忙しいらしい後輩に見守られながら、そっと中身を取り出す。
「これは……。ブックマーカー……、ですか?」
「です。葵さん、よく本を読むって言ってたので」
誕生日プレゼントの正体はブックマーカーだった。大きさはちょうど文庫本サイズ。なだらかな曲線を描き、本から飛び出す上部は大きく湾曲している。その先端には、葉を模したチャームが揺れていた。
透明な袋に収まったそんなブックマーカーは、蛍光灯の光を受けて、金属特有の光沢を放っている。
「もしかしたら、もう似たようなものを持ってるかもって思ったんですけど……」
「いや、いつか買ってみようかとは考えて、結局ずっと先延ばしにしてたので」
あれば間違いなく便利なのは分かっていたが、なくても何とかなってしまっていたので、なかなか買う機会が訪れなかったのだ。自分でも優柔不断だとは思っていたのだが、こうしてアイリスが安堵したような表情を見せてくれるのなら、これまで買わなくてよかったとすら思えてしまう。
「大事に使いますね」
そう告げるのなら、しっかりとアイリスの目を見て。今この瞬間は、恥ずかしいから目を逸らすという行為は絶対にしないと誓いながら。
「はいっ。可愛がってあげてください!」
「可愛がる……?」
アイリスの表現は独特だったが、要は「積極的に使ってください」くらいの意味だろう。
「私だと思って!」
「私だと思って……?」
そうではない可能性が出てきた。このブックマーカーのどこにアイリスの面影を見出せばいいのだろうか。
「それなら、普通にアイリスさんを可愛がります」
「うぇ……!?」
「あら」
疑問に思いながらそう口にした瞬間、滅多に聞けない声がアイリスから飛び出してきた。一方、柚子からは意外そうな声。
「そそっ……!? それはっ! どういう……!?」
「そもそも、割と普段から可愛がってはいますけど」
「うぁあ……!」
何故か両手を頬に当てたまま俯いてしまったアイリスの表情は、自分からは窺えない。唯一見える耳が、先程よりもずっと赤くなっていることだけは分かる。
「葵くーん?」
「はい?」
「……純粋な目」
そんなアイリスから柚子に視線を移したところで、よく分からない評価を下される。呼ばれたから返事をしただけなのに、何故こんな評価を受けなければならないのか。
「それにしても、面白い絵面ね」
「何がですか」
「きっと、今とっても大変なことになってるはずの猫耳尻尾付きウェイトレスと、そんな状況に追い込んだ猫耳尻尾付き男子高校生ウェイトレス」
「誰のせいだと」
「可愛い葵君のせいかな?」
「転職活動の時期ですかね」
「だめ」
流れるように転職を考えたが、残念ながら許可は下りなかった。もちろん、冗談でしかないのだが。
「ま、そんなことより」
「そんなこと?」
「いつもよりちょっと遅いし、早く着替えた方がいいわね。ご家族も心配するでしょうし」
「……そうですね」
前置きのように使われた「そんなこと」という言葉に思うところはあったが、確かに柚子の言う通りである。撮影会とその後の誕生日プレゼントの件が重なって、いつもよりもずっと遅い時間になってしまっている。自分は心配してくれる人がいないのでどうとでもなるが、アイリスは早く帰った方がいいだろう。
「そっちで固まってるアイリスさんは私が何とかするから、葵君も着替えてきてね」
「それじゃあ、お願いします」
「アイリスさんのお兄さんみたいな返し」
「今日で一つ年上になりましたから」
そんな言葉を残して、二階への階段を上がる。これでやっと一か月だけこの服と決別できると思うと、少しだけ声が明るくなってしまったのも仕方のないことだろう。
そこまで考えて、来月も着ることを自然に想定していることに気付き、小さく息が漏れた。
「……どうせ諦めてますけど」
今自分の顔に浮かんでいるのは、きっと苦笑い。心情を実に分かりやすく表していることだろう。
アイリスからのプレゼントが形作ってくれた穏やかな気分に、一点の染みを落とすウェイトレス服。不思議な組み合わせによる不思議な気分は、それでも、勤務前よりも足取りを軽くさせる。
階段を上りきった辺りで、階下からアイリスの驚く声が聞こえてきた。まず間違いなく柚子の仕業である。
「……」
一体何をしているのかと、そう思いはしても、わざわざ確認のために戻りはしない。今は、この服を脱ぐのが一番の優先事項である。寄り道などすることなく、更衣室として使わせてもらっている部屋の扉を開く。
こうして。本当に色々と大変だった十七歳の誕生日は、左手に微かな重みを残して過ぎ去っていくのだった。




