43. 白紙の願い (2)
「あれ? そういえば、もうすぐ葵君の誕生日だっけ?」
尋問が終わった。何も尋ねられていないのにも関わらず、だ。
「あ、じゃあ、プレゼントでも買いに来たの?」
「……」
「……」
「当たりだ」
一気に表情が消えたであろうアイリスと自分の顔を見て、碧依が確信する。
誕生日が近いのを思い出すのは百歩譲ってまだいいとしても、どうしてこのタイミングだったのか。そして、詮索を避けるためにアイリスと繰り広げた茶番は何だったのか。その全てが無駄に終わってしまった。
「そっかそっか、そういうことか。思い出した。前に言ってたもんね」
「葵さん」
「何です」
「何なんですか、この人」
「……何なんでしょうね?」
一人で勝手に納得している碧依を尻目に、ようやくアイリスが口を開く。その口から出てきたのは、少しだけ恨みが込められた言葉だった。きっと、いきなり目的を当てられて、どんな感情を見せるのが正解なのか分からなくなってしまったのだろう。
その気持ちは自分もよく分かる。自分としては隠したい気持ちはなかったが、それでもこんな形で当てられると、やはり思うところはあった。
「大好きな葵君に渡すプレゼントだもんね? しっかり選びたいよね?」
「勘違いしないでください」
「うん?」
一体何を考えているのか、にこにこと笑う碧依に向けて、アイリスが反撃の言葉を口にしようとしていた。何やら色々と誤解を招きそうな発言もあったので、否定するならしっかりと否定してもらいたい。
「今日は葵さんの好みを知るために来たんです。プレゼントは私が一人で悩んで決めます」
肝心の誤解を招きそうな部分は否定してくれなかった。これで自分からどうこう言うのも気まずいので、そのまま受け流すことにする。
「好みは分かったの?」
「引くぐらい正確に把握されました」
「把握しました」
そう言いきるアイリスは、どこか自慢げな表情を浮かべていた。自分には分からないが、どこかに胸を張れるところがあったらしい。
「ちなみに、どんな好みなの?」
「手の平サイズで、機能はシンプルなもの。凝り過ぎないデザインで、メタリック系のものです」
「……細か過ぎない?」
「だから言ったじゃないですか。引くぐらい把握されたって」
「まさかこんなだとは思わなかったの」
迂闊に尋ねた碧依が、先程と同じように熱弁するアイリスに圧倒されていた。この細かさで好みを把握しているとなれば、誰だって碧依のような反応になって当然だろう。つまり、自分の反応もおかしくないということになる。
「それにしても……」
若干引き気味のまま、碧依が再びアイリスに視線を向ける。
「何ですか」
「『大好きな』ってところは否定しないんだね」
「先輩として、大好きですから」
臆面もなく、そう言いきったアイリス。聞いている自分の方が恥ずかしくて、少しだけ体温が上がってしまったような気がした。それが受け流すと決めた部分だったのだから、尚更である。
「アイリスさんはいつも通りなのに、葵君の方が赤くなってるね」
「可愛いですよね。あげませんけど」
「えー? ちょっとだけ……」
「だめです」
そんな言葉と共に、腕を引かれて碧依から離される。
「独占欲強め?」
「かもしれませんね。今まで考えたことがなかったですけど」
「愛されてるね、葵君?」
「いや、多分これは……」
からかうようにそう口にする碧依だったが、アイリスが見せるこれは、そういった類の感情ではないような気がしていた。何となくのイメージではあるが、これは。
「葵さんの可愛いところを見ていいのは私だけです!」
「こういう独占欲です」
「うーん……、複雑……」
拗らせているとも言う。それは碧依も同意見のようで、目の前で困ったような笑みを浮かべてアイリスを見つめていた。
「まぁ、僕のことはどうでもいいんですよ。それより、碧依さんは何をしに?」
これ以上アイリスを拗らせておいても意味がないので、今度はこちらから碧依にそう尋ねてみる。自分達とは違って一人で来ているらしい碧依だったが、手には何も持っておらず、何をしに来たのかがいまいち把握しにくかった。
「私? 私は暇だったからだよ?」
把握しにくくて当然だった。碧依の方は、特に目的を定めずにやって来たらしい。
「夏休みなのに」
「夏休みだから、だよ。だったら、アイリスさんはそんなに毎日忙しいの?」
「忙しかったですよ?」
指を一本一本折り曲げながら、アイリスがここまでの夏休みのことを一つ一つ思い出していく。
「葵さんと浴衣を買いに行きましたし、葵さんとホラー映画を観ましたし、葵さんとお祭りに行きましたし、葵さんと誕生日プレゼントの調査に来ましたし、葵さんとバイトをしましたし……」
「葵君しかいなくない?」
「僕もアイリスさんと会った記憶しかないです」
「独占されてるね」
他の誰かといえば、せいぜいアーロンやレティシア、太一、柚子と会ったくらいである。夏休みの思い出を改めて列挙すると、そのほとんどをアイリスが占めていた。占有率が恐ろしいことになっている。
「しかも、まだ半分くらいしか経ってないでしょ? 濃過ぎない?」
「どうせ一学期もほとんど毎日でしたからね。大して変わってないです」
「麻痺してるね」
「隣にいるのが自然な状態にしてあげます」
「一人の時間をください」
「完全に束縛系の彼女さんとその彼氏さんみたいなことを言ってるけど、大丈夫?」
言われてみればそんな風にも思えるが、事実ではないので別段気にもならない。唯一気になるのはアイリスの反応くらいだが、それも大したものは見られなかった。
「別に付き合ってるわけでもないですし……」
「いや、付き合ってもないのにそれって結構……」
「葵さんの周りには、可愛いところを狙う人が何人もいますから。私が守ってあげないといけないんです」
「アイリスさんもその筆頭ですけどね」
「あれ?」
「やっぱり変な方向に拗らせてるね」
見られたのは不思議そうな表情だけ。奇妙な形に捻じ曲がった独占欲を、ただただアイリスが披露するだけに終わった会話だった。
「そういえば、夏休みの課題って、どれくらい終わった?」
出会ったのは偶然だが、その場で別れるのも味気ない。そんな訳で、暇だと言っている碧依も含めて、三人で館内を歩く。
もうすぐ誕生日を迎える自分のことを中心に話をする中で、実に夏休みらしい話題が碧依から提供された。
「八割くらいは終わりました」
「そんなに? 早くない?」
「後に残すのが嫌なので」
「でも、確かに葵君はそういうタイプだよね」
どこか納得したように話す碧依。その話題を振ってきた碧依自身は、一体どれくらい進めているのだろうか。進めているからこそこんな話題を選んだようにも思えるが、果たして。
「碧依さんは?」
「私は六割くらいかな……?」
少し考えながらのそんな返事。他人に「進んでいる」と言う碧依だが、もうすぐ夏休みの折り返しと考えれば、碧依もまた十分に進んでいる方だろう。
「アイリスさんはどうです?」
「……っ」
三人いるのだからと、何の気なしにアイリスにも同じ話題を振ってみたのだが、碧依の時とは違ってその途端に目を逸らされた。明らかに何かを隠している反応だった。
「アイリスさん?」
「や、やってはいますよ? やっては……」
「どれくらい進みました?」
「……三割、くらい……、です」
この流れで隠すことなど一つしかないのに、それでもどうにかなるのではないかと思っているらしいアイリスを追い詰める。観念して途切れ途切れに発せられた数字は、この中では断然遅い進捗具合。アイリス自身もそれを理解しているのか、気まずそうな表情を浮かべ、声も小さくなっていた。
「全然進んでないね」
「はい……。ごめんなさい……」
「僕達に謝られても」
自身以外の二人が間違いなく進んでいる方と断言できるこの状況は、想像以上に肩身が狭いのだろう。この話題が始まる前までの勢いが、完全に鳴りを潜めてしまっていた。
「でも……」
「うん?」
「碧依先輩のことは知らないですけど、葵さんはおかしいですって」
「何がですか」
勢いは失っても、反論することはできる。そんな様子で自分を見上げる目は、何故か少し不満そうに細められていた。
「だって、夏休みに入ってから、割とずっと一緒にいましたよね?」
「さっきアイリスさんが言ってましたね」
「なのに、何で葵さんだけそんなに進んでるんですか」
「効率の違いじゃないですか?」
「ぐっ……」
反論することはできても、それが通るとは限らない。現に、たった一言でアイリスが黙り込みかけている。それでも、何かに抗うようにか細い声を絞り出す。
「だって、成績が違い過ぎますもん……。葵さんは悩まなくても答えが出せるかもしれないですけど、私は一問に時間がかかりますし……」
「一年の問題の方が、多分私達より簡単だと思うよ」
「うぅ……!」
若干目を逸らしながら言うアイリスに向けられた、恐らく予想していなかったであろう碧依からの一言。呻き声がさらに苦しそうなものに変わった辺り、先程よりもさらに追い詰められているらしい。
「……葵さん」
「はい」
そして、このタイミングでの呼びかけ。何も尋ねなくても、その先の言葉が手に取るように分かる。
「助けてください……」
「でしょうね」
予想通りだった。この流れでこれ以外のことを言われていたら、まず間違いなくおかしな声が出ていただろう。
「どうするの? 葵君?」
「どうするも何も……」
「お願いします……!」
縋るような目で見つめられるだけではなく、両手で包み込むようにして手を握られる。この頼まれ方をされて断ることのできる人間が、果たしてこの世に存在するのだろうか。
「断れます?」
「無理」
「ですよね」
「何なら私が助けたい」
実際、横で聞いていただけの碧依すら陥落していた。頬を緩ませてアイリスのことを眺めるその様子は、周囲の目がなければ抱き締めているに違いないと思わせる程である。
あっても抱き締めそうではあるという脳内の意見は、ややこしくなるので口には出さないでおくことにする。
「きちんと全部自分でやるのが条件ですからね?」
「助けてくれるんですか!?」
地獄と言ってしまうのは大袈裟な表現だが、仏を見たような眼差しのアイリスなのだった。
「今言ったことを守るなら」
「守ります!」
「日はまた今度決めましょうか」
「はいっ! お願いします!」
そのアイリスが、心の底から安堵した様子で頭を下げる。さらりと揺れ、腕に触れた菜の花色の髪がくすぐったかった。
「やっぱり、先輩後輩の会話じゃなくて親子の会話に聞こえるんだよね」
「頼りになる第二のお母さんです」
「一人で頑張りますか?」
「お父さんです」
「飼い慣らしてるね」
「これくらいは楽勝です」
割と素直な部類に入るアイリスは、まだ御しやすい方である。本当に厄介なのは、何をしでかすか予想ができない、莉花や紗季のようなタイプなのだった。
「ただ、一つだけ不安なことがあるんですよね」
「不安なこと?」
そう言いながら思い出すのは、中間試験と期末試験の時のこと。図書館に通うこと、計三回。今もスマートフォンの中にデータが残っている、例のあれ。
「寝るんですよ、アイリスさん」
「うっ……!」
「寝る?」
連続の鸚鵡返しとなった碧依。事情を知らなければ、それが当然の反応と言える。
「中間と期末の前にも一緒に勉強してたんですけど、いつの間にか寝てるんですよね」
「教えてもらってるのに?」
「うぅっ!?」
普段はからかうようなことばかり言っている碧依の正論だからこそ、より一層アイリスには効いてしまったのかもしれない。胸元を押さえる仕草と共に、今日一番苦しそうな声が漏れ出している。
「今のところ、三打数二安打です」
「強打者だ」
「その節は大変ご迷惑を……」
「別に迷惑だとは思ってないです。単純にアイリスさんの進み具合が遅くなるだけなので」
「気を付けます……!」
勢いを失ったり取り戻したり、再び失ったり。とにかく忙しいアイリスなのだった。きっかけは全て自分側だが。
「寝顔とか、写真に撮ってないの?」
「ありません」
当然の反応から当然の興味を抱いてしまった碧依の言葉に、これまた今日一番の早さでアイリスが反応する。いくら苦しそうに声を漏らしていても、反応すべきところにはしっかり反応できるらしい。どこで使えるのか分からない知識が、また一つ増えてしまった。
「持ってるとしたら葵君だよね? 何でアイリスさんが言いきるの?」
「ないものはないんです」
「さては、持ってるんだね?」
そのアイリスの反応から何かを察した碧依の矛先が、再び自分に向く。それだけアイリスのことをよく見ているということだが、とにかく指摘が正確過ぎる。
「ノーコメントで」
「持ってるんだ」
そして、確信に至るまでが短過ぎる。
「見せて?」
「アイリスさん的には?」
「だめに決まってます」
結果、碧依がこう頼んでくることも当然の流れだった。寝顔の写真を撮られたこと自体はもう誤魔化しきれないと理解したアイリスが、それでも最後の抵抗を見せる。
「えー? じゃあ、今度私の膝を貸してあげるから、そこで寝てよ」
「何で寝てもらえるって思ったんですか?」
「押せばいけるかなって」
「そう簡単に押しきられません。……葵さん以外には」
「だって、葵君。押して?」
アイリスがぼそりと付け加えた一言のせいで、絵に描いたような無茶振りをされている気がした。これまでの経験上、この状態のアイリスに願いが通じるようには思えないが、頼まれたのでとりあえず押してみることにする。
「僕の膝で寝ます?」
「葵君、違う」
どうやら碧依が思っていた押し方とは違ったらしい。
「……ちょっとだけ、いいかもです」
「ほんとに押しきられそうになってるし」
「どうして本気にしてるんですか。やりませんよ」
そして、宣言通りアイリスが押しきられそうになっていた。答えを迷うかのように瑠璃色の瞳を揺らし、こちらをちらちら見上げながらそう口にする。そんなことをした日には自分が落ち着かなくなるので、枕は自分で用意してほしい。
「で、ですよね……。膝枕はまだちょっと早いですよね……」
「今後やる予定もないですけど」
「冗談でも何でもなく、本当に葵君に弱いんだね」
「えへへ……」
「褒めてないよ」
「どこに照れる要素があったんですか」
自身で言っていた時とは違い、碧依に言われて何故か嬉しそうに頬を緩めるアイリス。四月から一緒にいても、その心の動きを理解することは未だに難しいようだった。
「二人はこの後も会う約束とかってしてるの?」
「いや、今まで程はないですね。さっき、アイリスさんの課題の面倒を見るのが追加されましたけど」
アイリスが自分の好みを把握したことで若干の手持ち無沙汰になってしまったところに、碧依の合流。そのまま遊んでいこうという話になるのは、自然な流れである。
今いる場所が周囲と比べても賑やかなのは、人の声のせいなのか、それとも電子音のせいなのか。そんな中、目の前のアイリスが真剣そうに覗き込む筐体の中には、猫の顔を模した巨大なクッションが鎮座していた。明らかにアイリスの顔よりも大きい。
そのクッションに向かって、アームがゆっくりと下りていく。どう考えても掴むにはサイズが足りていないそれは、どこかに引っかけて落とせということを示しているのだろう。
「あぁ……!」
だというのに、どこにも引っかからず、ただ形を変えただけのクッションを見て、アイリスからそんな声が漏れる。
クレーンゲーム。アイリスが今見つめているクッションは、そう呼ばれる機械の中に収まっていた。辺りには同じような筐体が並んでいる。
要するに、ゲームセンターだった。フロアの端、相当な面積を占めたその場所は、あちこちに様々な機械が立ち並び、あの手この手で訪れる人間を誘惑していた。
「あと一回……」
「頑張ってねー」
自分で決めた回数まであと一回となったアイリスが、最後の硬貨を投入する。隣の碧依からは、そんなアイリスを応援する気の抜けるような声が聞こえてきた。
「てっきり、後半もほとんど毎日会うのかと思ってた」
目の前で再びアームが動き出してから、一旦中断されていた会話が再開される。
「今のところは、ですけどね。この後どんな予定を入れられるか分かりませんし」
「葵君からは入れないんだ?」
「何もないですから。無理して会う必要もないです」
「ふーん……」
碧依と二人して奮闘するアイリスの姿を眺める。交わす言葉は、いつもより少しだけボリュームが大きい。
「あ」
「だめでしたね」
見つめる先で、アームが空を切る。そのアームが元の位置に戻っても、クッションは筐体の中に鎮座したままだった。
「だめでした!」
「みたいですね」
お目当てのクッションが取れなかったのに、何故か勢いよく報告してきたアイリスにそう返す。勝手な想像だが、楽しめたのならそれでいいというタイプなのだろう。
「残念だったね」
「結構使わないと取れないみたいだったので、ほんとに残念ですけど諦めました」
案外そうでもないのかもしれなかった。結局取れなかったクッションに未練があるらしく、視線がたまに筐体の方を向いている。
ここで自分が代わりに取ることができたのならよかったのだろうが、生憎クレーンゲームはほとんどやったことがないということもあって、そこまで上手くいく未来が見えなかった。
「この恨みは、葵さんに猫耳をつけてもらって晴らします」
「嫌です」
仮にクレーンゲームが上手かったところで、頼まれても代わりに取らないことが確定した。
「もう狐耳はつけたんですから、猫耳もいいじゃないですか」
「それとこれとは話が別です」
何故か二対一になりそうな雰囲気を感じつつ、それでも拒否の姿勢を貫く。少数派だろうが何だろうが、つけない意思を貫けばいいだけの話だ。
「葵君」
「碧依さんも敵に回ろうって言うんですか?」
「そうだね。見たい」
「つけませんから」
「でも、どうせアイリスさんに押しきられるのに、抵抗しても無駄じゃない?」
碧依の中では、自分がアイリスに押しきられることは既に決まっているらしい。その予想を一切疑う様子もなく、純粋な眼差しのまま首を傾げている。
「押しきられるとは限らないじゃないですか」
「いや、だって葵君、アイリスさんには甘々でしょ?」
「……否定はできませんけど」
「甘やかされると育ちます!」
やはり、形勢は二対一となった。
「今甘やかすと、育ってほしくないところが育つ気がします」
「葵君を可愛く仕立て上げるパラメータが上がるね」
「限界も突破できます!」
「この世で一番いらないパラメータです」
何が悲しくて、そのパラメータを自分で伸ばさないといけないのだろうか。自滅行為にも程があるので、いくらアイリスが期待を込めた目で見つめてこようが、それを受け入れるつもりは全くなかった。
「つけてくれないんですか?」
「そうですね」
「誕生日プレゼントでも?」
「そんな誕生日プレゼントってあります?」
「メタリック系じゃないですけど、両方の手の平に収まるくらいで、機能はシンプルで、デザインもそんなに凝ってないですよ?」
「前提として、欲しくないんですよね」
誕生日プレゼントとして、そもそもスタートラインに立っていないことを理解してほしい。ある程度好みを満たしていれば何でもいい訳ではない。
「わがまま……」
「わがまま……?」
ただそれだけのことなのに、何故かとても不本意な評価を頂戴することになってしまった。どうにも納得がいかない。
「じゃあ、こんなのはどう?」
そうしてアイリスの攻撃を躱し続けているところに、碧依からの追撃。どんな手で来るのか詳しくは分からないが、一つだけ言えるのは、確実にまともな手段ではないということである。
「何ですか」
「葵君が猫耳をつけてくれたら、私とアイリスさんは嬉しい」
「僕は嬉しくないです」
自身とアイリスを一度ずつ指差し、全く嬉しくないことを口にする碧依。早くもまともではない雰囲気が漂っている。
「で、つけてくれないなら、私がアイリスさんのスカートを捲る」
「なんでですか!?」
「何がしたいんです?」
思っていた以上にまともではない手段だった。一気に顔を赤くしたアイリスは、所謂人質という立場ではないだろうか。
「葵君がつけてくれなくても、私は嬉しい、葵君も嬉しい、アイリスさんは恥ずかしい」
「発想が変態のそれですけど」
「問題ないね!」
「葵さんも嬉しいんですか!?」
「こっちに振らないでください」
どう答えても、間違いなく奇妙な雰囲気になる。とにかく、絶対にやらないのでスカートを押さえなくてもいい。その仕草だけで場の雰囲気がおかしくなりそうだった。
「興味ない? 男の子なのに?」
「興味あるんですか……!?」
「いや、だから……」
その聞き方は反則である。「興味がある」と答えればアイリスにおかしな目で見られ、「興味がない」と答えれば女の子扱いで猫耳行き。どちらの選択肢も、その先に地獄が見えていた。
「流石に下着はちょっと……。いくら葵さんでも……」
「見ませんから」
「あ、じゃあ、猫耳をつけてくれる?」
「どんな迫り方……」
猫耳かアイリスの尊厳か。一体何がどうなってこうなったのだろうか。よく分からないが、全ては目の前で楽しそうにしている碧依が悪い。
「もー……、仕方ないなぁ……」
「どうして呆れられてるんですか?」
「そこまで言うんだったら、あれで勝負しようか?」
そう言って碧依が指差す先にあったのは、先程からたまに小気味のいい音を響かせていたボウリングレーン。ゲームセンターに併設された小規模なもので、本格的な施設には遠く及ばないものの、数人で楽しむには十分なものだった。
「ボウリング?」
「そ。一番スコアが高かった人が勝ちね」
「アーチェリーのこと、まだ根に持ってます?」
「どうだろうねー?」
間違いなく根に持っていると、そう確信できる満面の笑みだった。碧依がやたらと色々な点数を競いたがるのも、大本を辿ればそこに行き着くのかもしれない。
「葵君が勝ったら、猫耳はなしだし、アイリスさんの下着も守られる」
「改めて言葉にすると、なかなかとんでもないことを言ってますね」
事情を知らない人が聞けば、思わず聞き返してしまう程度には意味が分からない状況である。
ちなみに、事情を知っていても意味が分からない。
「アイリスさんが勝ったら、下着は守られるけど、葵君は猫耳をつける」
「……」
「私が勝ったら、スカートは捲るし、猫耳もつけてもらう」
「どっちか一つだったはずでは?」
「勝てば官軍、だよ」
「うわ……」
いきなりの強権発動だった。どうやら、自分が思っている以上に宿泊学習の時のことを根に持っているらしい。それだけ、アイリスに対する気持ちが強いということなのだろう。
悲しいのは、それがアイリスには一切伝わっていないことである。今回のような発言を繰り返していれば、伝わらないのが当然なのだが。
「ちなみに、葵君はどれくらいボウリングやったことある?」
「今日が人生初です」
「へぇ……。じゃあ、私の勝ちだね」
「そんなにやったことがあるんですか?」
「ううん? 二回目」
「どうして自信満々に?」
団栗の背比べもいいところだった。その一回で、果たして何が変わるというのか。
「アイリスさんは?」
もうボウリングで勝負をすることは確定しているようなので、そうなってくると、またしても自分を盾にしているアイリスのボウリング遍歴が気になってくる。
「家族でよくやります」
「え?」
「私の勝ちです」
こちらも自信がありそうな宣言だった。碧依と違うのは、確かな実績に基づいているところ。
「……」
「……」
無言で碧依と顔を見合わせる。もしかすると、自分達は挑む相手を間違えたのかもしれなかった。
結果は語るまでもない。
「私の勝ちです」
「……」
「……」
始める前と同じやり取り。人生初と人生二回目が挑んでいい相手ではなかった。アイリスが屈託のない笑みを浮かべている。
圧倒的に上手い、ということはないのだろう。探せば、アイリスよりも上手い人はいくらでも見つかるはずだ。それでも、大きなミスもなく、堅実にコンスタントに点数を重ねるその姿は、自分と碧依を諦めさせるには十分なものだった。
「だからボウリングの話が出た時に何も言わなかったんだね……」
「はい。勝つ自信がありましたから」
「強者だ……」
小柄な体格に似合わない強者感を滲ませるアイリスの背後には、あと少しで百点台後半に突入するというスコアが表示されていた。
対して、自分と碧依はどちらも二桁スコア。足してもアイリスには届かなかった。情けないことこの上ない。
「フォームも綺麗でしたね」
「葵さんはぎこちなくて可愛かったですよ?」
「嬉しくないです」
「褒めてるのに」
嬉しくないと言っているのに、圧勝して気分がいいらしいアイリスの口は止まらなかった。先程までの警戒心に満ち溢れたアイリスは、一体どこへ行ってしまったのか。
「とにかく、これで私は変態先輩から身を守れましたし、葵さんの猫耳を見ることができます」
「変態……」
「碧依さんの自業自得ですからね」
「はい……」
さらに距離が空いた感が漂うアイリスと碧依。二人の距離が縮まる日は訪れるのだろうか。
「さ、葵さん。行きますよ」
「……どこに」
「猫耳を探しに」
「ですよね。知ってました」
どうせ叶わないと思いながらの最後の抵抗だった。自分から言い出した勝負ではないものの、負けたのなら潔く受け入れるより他はない。今日はプレゼントを買わないと、アイリス本人がそう公言していることだけが救いだった。少なくとも、猫耳が誕生日プレゼントになる事態だけは避けられる。
「猫耳って、どこに売ってるんでしょうね」
「それを僕に聞くんですか?」
それは敗残兵に鞭打つ行いではないだろうか。何が悲しくて、自分で猫耳を探さなければならないのか。
「私、知ってるよ」
そんな状況を救ってくれたのは、一度はアイリスによって抑え込まれたはずの碧依。どうやら早くも立ち直ったらしい。
その言葉を「救ってくれた」と表現してもいいのかは、甚だ疑問ではあるが。
「案内しようか?」
「そうですね。じゃあ、変態先輩にお任せします」
「あの時は葵君の猫耳に惑わされて、ちょっとおかしくなってたんです……。謝るから、もう許してください……」
「……じゃあ、碧依先輩にお任せします」
悲しそうな碧依の懇願によって呼び方は戻ったはずなのに、何故か二人の距離は戻っていないような気がした。碧依を見るアイリスの目が、まだ若干鋭い。
「『僕の猫耳に惑わされた』ってところには何も言わないんですね」
「そこは納得できますから」
「何でですか」
一体どこに納得する要素があったのだろうか。そんなに自信たっぷりに言われても、自分は納得することなどできない。
「二人共ー? こっちだよ」
アイリスと話している間に歩き出していた碧依から、やや大きめなそんな声がかかる。この一歩を踏み出してしまえば、それは猫耳への片道切符。これほど重い一歩もなかなかない。
「ほら、葵さん」
だが、その一歩は自分の意思とは関係なく踏み出すことになる。碧依を追って歩き出そうとするアイリスに手を繋がれてしまえば、もう逃げることはできない。
「……分かりましたって」
ここに至ってようやく観念して、碧依の背中を追う。
ボウリング対決において、碧依に何のデメリットもなかったと気付いたのは、それからしばらくしてのことだった。
「かわっ……!?」
「可愛いですよ! 葵さん!」
「……」
そうして引きずり込まれた、アイリスと一緒に行ったところとは違う雑貨店。そこには、碧依の言う通りいくつかの猫耳が陳列されていた。他にも様々なパーティーグッズが並んでいる辺り、それ系のコーナーなのだろう。
だが、それが何だというのか。今気にするべきは、頭の上に乗った猫耳である。
「ちょっと恥ずかしそうなところも最高ですっ」
興奮気味のアイリスがそう言うものの、自分が今感じている恥ずかしさは「ちょっと」どころではない。それは隠しきれずに漏れ出したほんの一部であり、心の内では極大の羞恥心が吹き荒れている。
「あぁ……。クッションが取れなかった傷が癒されます……」
「……そうですか」
確かに、これ以上ない程にこにこと笑みを浮かべるアイリスの様子を見れば、そんな傷も癒えているのは容易に想像がつく。どんな方法で傷を癒しているのかと思わなくもないが、アイリスなので仕方がない。
「あ、次はこれね」
そんなアイリスに気を取られているうちに、碧依に別の猫耳を手渡される。今頭の上に乗っているものは黒かったが、今度は茶色。少ないながらも、ある程度のレパートリーは揃っているようだった。
「……」
何を言っても状況は変わらないので、無言で換装する。下手に感情を動かしたが最後、もっと顔が赤くなる自信があった。
「いい……」
「やっぱり茶色の方が似合いますね!」
そして、とてもありがたくない感想を頂く。碧依に至っては、いつ写真を撮り出してもおかしくない程の様子だった。売り物なので、辛うじて自重しているだけに過ぎないのだろうが。
アイリスはアイリスで、それはもう目を輝かせている。何故花火を見ている時と、男の猫耳姿を見ている時の目の輝きが同じなのか、全く理解できなかった。
「……」
「あれ?」
そんな中で、換装後の黒い猫耳の行き先に迷ったので、とりあえず目の前のアイリスの頭に乗せてみた。
「似合います?」
「それはもう。可愛いですよ」
「えへ……」
可愛くない訳がなかった。照れたように笑うその姿に、これまでとは別の理由で顔が赤くなりそうだった。
「……二人共」
「何です?」
「何ですか?」
「それ、ちょっと貸して」
自分と同じく、何かを撃ち抜かれてしまったらしい碧依が、頭の上の刺激物を指差す。妙に真剣なその目付きは、何やら碧依らしくない迫力を生み出している。
「はぁ……?」
何がしたいのかはよく分からないが、とりあえず言われた通りに手渡してしまう。これを外せるのなら、何も文句はなかった。
同じようにアイリスからも猫耳を受け取り、これで碧依の手の中には猫耳が二つ。そして、それを棚に戻すでもなく、手にしたまま背を向けて歩き出す。
向かう先にはレジがあった。
「碧依先輩、買おうとしてません?」
「買おうとしてますね」
確定である。気付きはしたが止めに入る間もなく、店員とのやり取りが始まってしまう。こうなれば、できるのは見ていることだけ。
やがて、大した時間もかけずに会計を済ませた碧依が戻ってくる。手には、会計済みにステータスが変わった猫耳が二つ。
「はい、アイリスさん」
「ありがとうございます……?」
買ってもらって喜ぶべきなのか。そんな迷いがありありと伝わってくる、困惑に満ちたアイリスの声だった。
「で、こっちは葵君の誕生日プレゼント」
「……」
どうすることもできず、ただ無言で茶色の猫耳を受け取る。余計なことを考えたばかりに、本当に猫耳が誕生日プレゼントになってしまった。
「ちゃんと買ったからね。これで写真を撮っても大丈夫!」
薄々気付いてはいたが、やはりその辺りを狙っていたらしい。堂々とスマートフォンを取り出した碧依にじっとりとした眼差しを向け、自分の意思を表明する。
「そういうわけで、もう一回つけようか」
「つけると思いました?」
写真を撮られると分かっていて、どうして自分から死地に飛び込むことがあろうか。自分にそんな特殊な趣味はない。
「葵さん、葵さん」
「はい?」
「ちょっと貸してください」
碧依と猫耳をつける、つけないという問答を繰り広げる最中、アイリスが手を差し出して、自分が持っている猫耳を要求してくる。いつもと何も変わらない、純粋な眼差しのアイリスだった。
「これを?」
「それを、です」
何故アイリスがこれを欲しがっているのかは知らないが、別段惜しいものでもない。何も考えずに、そのまま渡してしまう。
「ありがとうございます。で、こうです」
「あ……」
その途端、死地に蹴り落とされた。もとい、強制的につけられた。
「で、私もつけます」
そして、猫耳姿の二人が再登場となった。
「……葵君さ、ほんとアイリスさんに甘いよね」
「今のは何も考えてませんでした」
「嫌がる割には外さないし」
「外してもどうせ戻されますから」
きっと、この感情を諦めと言うのだろう。こんな場面で知りたくはなかった。
「ま、何でもいいや。私は写真が撮れたら、それで幸せ」
「僕は不幸せです」
「異常に可愛いアイリスさんと一緒に撮ってあげるから」
「普通の姿なら喜べたんですかね……?」
頭にこんなものが乗っている時点で、叶うことのない願いだが。思わず触ってしまった猫耳はやたらとふわふわしていて、悔しいけれども触り心地が抜群によかった。
「葵さん。にゃあ」
「可愛いっ!」
「落ち着いてくださいって」
律儀に両手も使って猫の真似をするアイリスに、再び碧依が陥落していた。放っておけば、そのまま家に持って帰りそうな勢いである。じりじり迫ってきているのが怖い。
「ほら、葵君も一緒に!」
「えぇ……?」
つけることに関してはもう諦めたが、それは流石にハードルが高い。そう促されたところで、素直にアイリスと同じようにすることもできず、ただ顔が引き攣るだけ。
「やらないと終わらないからね?」
「……」
自分が渋っていることを見抜いた碧依の、スマートフォンを構えながらの宣言。退路はどこにも存在していなかった。
「……にゃあ」
「顔が固い」
「……」
色々なものを諦めてどうにか猫の真似をしてみるも、真剣な顔をした碧依にやり直しを指示される。最高の写真を撮ろうとしているらしい碧依の要求を満たせるのは、一体いつになるのだろうか。あまり想像しない方が、心の平穏のためにはいいのかもしれなかった。
「楽しかったですね!」
「疲れました……」
夕日が照らす中、自宅の玄関を背にしたアイリスの笑顔が眩しい。
同じ電車で途中まで帰ってきた碧依の姿はもうない。行きと同じ、アイリスと二人だけの帰路だった。
「写真もたくさん貰いましたし」
「何で僕まで貰ったんですかね……?」
「いい写真なんですから、貰っておいて損はないと思いますよ?」
「確かに、腹立たしいくらい可愛いですけど」
あの後碧依から貰った写真には、随分と可愛い姿をした二人組が写っていた。アイリスは言うまでもないが、見慣れたはずの自分の姿すら可愛く思えてしまったのが、本当に複雑だった。
「今度のウェイトレスは猫耳ウェイトレスですね」
「嫌過ぎます」
「流石にもう慣れません?」
「慣れたくないんですよ」
その慣れは、恐らくこの世で最も必要のない慣れである。当たり前のようにウェイトレス服を着るようになってしまった自分の姿など、とてもではないが想像したくない。
「まぁ、その辺は柚子さんに相談ですね」
「逃がす気がないじゃないですか」
「覚悟しておいてくださいね?」
「……」
だが、どう足掻いても逃れられないのだろう。ならば、アイリスの言う通りに覚悟を決めておいた方が、まだ楽になれるのかもしれない。
こんな悲愴な覚悟を要求されるなど、数か月前には予想もできなかった。
「それはそれとして、プレゼントもちゃんと選んでおきますから。そっちも楽しみにしておいてくださいね」
「それだけがよかったです」
これもまた、通じない願いなのだろう。自分がウェイトレス服を着ることになったきっかけの一端を担っているアイリスだったが、プレゼント選びに関しては真面目なことが唯一の救いだった。
「私的には、プレゼント選びも猫耳ウェイトレスも、どっちも楽しみなので」
「アイリスさんに被害はありませんからね」
どうなってもアイリスには得しかない。それならばこの反応も頷ける。頷きたいかは別として。
そんな別れ際の会話の最中、毎日夕方に聞く音楽が町内に流れ始める。音が見える訳でもないのに、アイリスと共に空を見上げてしまう。
オレンジ色の空に、少しずつ夜の色が滲み始めていた。
「もうそんな時間ですか」
「ですね。それじゃあ、僕もそろそろ……」
「あ、はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ。また明日」
「はいっ。また明日です」
お互いに頭を下げ、そう言葉を交わしてから、アイリスが玄関の向こう側に消えていく。
「……」
その姿を見送ってから、玄関に背を向けて歩き出す。
少しずつ暗くなっていく空は、疑いようもなく綺麗に晴れ渡っている。明日もよく晴れた、暑い日になりそうだった。




