42. 白紙の願い (1)
「葵さんって、何か欲しいものがあったりするんですか?」
「今は特に何も困ってないので、すぐには思い付かないですね」
「じゃあ、なくても何とかなるけど、あれば便利、くらいのものがいいんですかね?」
「ですね。どちらかと言えば、実用的なものだと貰うのは嬉しいかもしれないです」
そんな会話を交わしながら、アイリスと二人で並んで歩く。夏休みの真っ只中だというのに、相当な頻度で一緒にいる気がしてきた。今日もその例に漏れず、隣はいつも通りの相手。
誕生日を目前に控えた八月九日、水曜日。まさにその誕生日に向けて、本人の意見の聞き取りという名目でウィンドウショッピングに駆り出されているのだった。
浴衣を買いに行ったあの場所程の広さは流石にないものの、県内では随一の規模を誇る大型商業施設。その入り口にある館内案内図の前にて、掲載されている店名を眺めるアイリスが、何かを考えるような表情を見せていた。
「一応、少し調べてはみたんですよね」
「何をです?」
案内図から自分へと視線の向きを変え、そう口にするアイリス。
「十代の男性への誕生日プレゼントのおすすめを」
「まぁ、定番ですよね」
「あ、あとは、その……」
「うん?」
調べてきたという内容を教えてくれていたアイリスの歯切れが、そこでいきなり悪くなった。自分に向いていた視線は、今はどこか恥ずかしそうに逸らされている。
「か、彼氏さんへの誕生日プレゼントとかも……」
「そこまで照れるんだったら、何でわざわざ言ったんですか」
恥ずかしくなって当然のことだった。言われた自分ですら、気を付けないと頬が赤くなってしまいそうである。
「そんなのも調べましたって、ご報告までに……」
「報告されてどうしろと?」
どんな顔をして向き合えばいいのか分からなくなるだけの話だ。できれば、自身の胸の内に秘めておいてほしかった。
「で、どんなものが見つかりました?」
このままこの話を続けていても状況は好転しないので、やや強引にでも話題を本筋に戻す。そんな自分の意図を汲んでくれたのか、アイリスが露骨にほっとした表情を見せながら口を開いた。
「そうですね……。定番で言うと、パスケースとかハンカチとかが出てきました」
そこで一旦言葉が途切れる。視線の質が窺うようなものに変わった後、さらに言葉が続く。
「葵さんのパスケース、綺麗で新しめですよね?」
「去年買ったばっかりですから」
アイリスの指摘通り、自分が使っているパスケースは、まだまだ交換には早そうな見た目ではある。高校に上がったタイミングで買ったものなので、当たり前と言えば当たり前だった。
それでも、アイリスがプレゼントしてくれたものなら、多少新しかろうが交換してしまいそうな気もしたが。
「ハンカチにしたって、結構たくさん持ってますよね」
「平日五日分は」
「あとはペンケースとか文房具とかでしたけど、こういうのは人によって使いたいものもあるでしょうし……」
「難しいですね」
「葵さんのせいですからね?」
そう言いながら、アイリスが困ったように小さく笑う。物持ちがいいので、日用品を交換する機会があまりないのは認めるとしても、それは流石に理不尽ではないだろうか。
「ま、とりあえず色々見て回りましょうか。もしかしたら、何か気に入るものがあるかもしれませんし」
「その辺はお任せします。自分ではよく分からないので」
「任されました!」
勢いのある返事と共に歩き出したアイリスを追いかけて、その隣に並ぶ。
「どこに行くのかは決めてるんですか?」
「一応、さっき言った定番系のものから見てみようかなって思ってます。葵さんの好みも分かりますから」
「先に言っておくと、落ち着いた色合いのものが好きです」
「じゃあ、赤とか黄色みたいな色で探してみますね」
アイリスと自分とで、「落ち着いた色」の定義が異なるのかもしれなかった。にこにこ笑いながら言っている辺り、ただの冗談の可能性も否定はできなかったが。
「落ち着いてください」
「私がですか? 色がですか?」
「両方です」
「欲張りですね」
「帰りますよ」
「そしたら、とびっきり可愛いアクセサリーをプレゼントしますね。リボンのついた髪飾りとか」
「ほら、早く行きますよ」
「どれだけ嫌なんですか」
せっかく誕生日プレゼントに買ってきたのだから、目の前でつけてほしいとせがまれる未来まで見えた。せがまれるだけならまだしも、押しきられていたところがより質が悪い。
「でも、そっか……。そういう方向も……」
「なしです」
「えー……? 葵さんにぴったりのプレゼントになるかと思ったんですけど……」
「絶対に似合いませんから」
「いや、似合いますよ。きちんと似合うのを選ぶので」
「……」
アイリスの目が本気だった。放っておくと、本当にそれ方向のものを選びに行きかねない程に。
「……冗談ですって」
「いや、その目と間は本気でした」
基本的なところではアイリスのことを信用しているが、この分野に関しては信用が薄い。その警戒心が、今のアイリスは絶対に本気で言っていたと、そう告げている。
「まさか。葵さんに初めて渡す誕生日プレゼントなんですよ? ちゃんと思い出として残るようなものを渡したいじゃないですか」
「ある意味忘れられないプレゼントにはなりそうですね」
「確かに。じゃあ、やっぱり……」
「余計なことを言いました。忘れてください」
油断も隙もなかった。些細なきっかけからすぐに思考がその方面に向かうのが、アイリスの悪い癖だった。癖の対象が限定的過ぎる。
「ま、そんな冗談はさておいて。雑貨屋さんなら色々なものがありそうなので、そこでたくさん意見をください」
「自信はないですけど、頑張ってみます」
「自分のことなのに」
仕方がない、と。そんな感情が零れる柔らかな笑みが、アイリスの顔に浮かんでいた。
案内図で見つけた雑貨店で、ひとまずパスケースを探して歩き回る。
「パスケース……、パスケース……」
隣ではアイリスがそう呟きながら、自分と同じくあちこちに視線を向けていた。
店の規模はそこまで大きくないものの、多種多様な雑貨が並ぶ中、目的のものを見つけるのはなかなか骨の折れる作業だった。
「あ」
そうして店の中を彷徨い始めてから二分程して、そんな声が聞こえてきた。振り返れば、アイリスの視線が一か所に固定されている。
「ありました?」
「ありました。あそこです」
アイリスが指差す一角に目を向ける。その言葉通り、いくつかのパスケースが並んだコーナーが、その先にあった。財布や小物入れといった商品に紛れ、手に取ってもらえるのを今か今かと待っているように見える。
「見事に落ち着いた色ばっかりです」
「僕の勝ちですね」
「何がです?」
こちらを見ることすらせずに、呆れたように返された。その手は、目の前のパスケースに伸びている。
アイリスが手に取ったのは、何の変哲もないパスケース。横から見る限り、カードが三枚程入りそうな、極々一般的なものだった。
「もっとたくさんの色があってもいいと思うんですけどねー……」
手に取ってみたはいいものの、特にぴんと来るものはなかったのか、そんなことを呟きながら元あった場所に戻していた。
「そもそも、こういうのに入れるようなカードって、そんなに持ってます?」
「電車の定期くらいですね」
「ですよね」
「免許もクレジットカードもないですし」
高校生が持てるカードなど、それこそ定期くらいである。あと少し年齢が上がれば、また色々と種類が増えるのだろうが、今はその話は関係ない。
「……」
「何ですか」
つらつらと頭の中にカードを思い浮かべていると、いつの間にかアイリスがこちらをじっと見つめていることに気が付いた。
「葵さんなら、どこかのポイントカードとかを持ってそうだなって」
「主夫ですか」
「主婦ですね」
「うん?」
「あれ?」
何もおかしいところなどない会話のはずなのに、何故か二人して首を傾げる。アイリスとの間に何か致命的な齟齬があるような気がしてならないが、どうにもその答えが見つからない。
どうやら、それはアイリスも同じようで。傾けられた頭が、鏡映しのように目の前にあった。柔らかそうな髪が、その頬を流れている。
「ま、いっか。とにかく、持ってないんですか?」
けれども、目の前にあったのは僅かな時間。考えても仕方がないと思ったのか、目の前の頭がすぐにいつもの角度に戻る。
「持ってませんね」
分かりそうで分からないもどかしさを抱えつつも、アイリスを無視することなどできない。もやもやとした疑問は、一旦頭から追い出してしまう。
「意外ですね。普通の高校生より、色々とお買い物する機会は多いじゃないですか」
「それはそうですけど、一人暮らしの買い物くらいだと、そんなに貯まりませんから。宝の持ち腐れです」
「そんなものですか……」
今の話を聞いたからなのか、複数枚のカードが入るようなパスケースから、一枚だけ入るようなコンパクトなパスケースへとアイリスの視線が動く。
「こんな感じの色も確かにいいですけど……」
その手の中には金茶色。革製品にはよくある色だが、手にしたアイリスの声音はどこか不満げなもの。
「もうちょっと明るい色でも、葵さんなら似合うと思うんですよね」
「明るい色、ですか?」
「明るくて落ち着いた色がいいなら、青とかどうです?」
「……青」
「そういえば、葵さんが青いものを持ってるのって、ほとんど見たことがないなって思って」
自分でも予想していなかったタイミングでの、まさかのそんな提案。普通は気付かないような場所なのに、随分とよく見ているものだ。
「あと、『葵さん』だけに」
「……」
「……」
「それは……、ちょっと……」
果たして、上手く笑えただろうか。頬の辺りが引きつりそうになるのは、どうにか堪えられただろうか。
「あおい、さん……、だけに……」
「……傷が深くなるだけですよ」
「あおいさんだけにっ」
「勢いでも誤魔化せませんって」
落ち着いた色とは正反対の色に頬を染めながら、若干涙目のアイリスが無理矢理押しきろうとする。それだけ恥ずかしがるのなら、何故口にしてしまったのだろうか。甚だ疑問である。
「うぅ……! 思い付いちゃったんだから、仕方がないじゃないですか……!」
「思い付いたことを何でも口にするのは控えましょうね」
「葵さんが先生みたいなことを言う……」
「お返事は?」
「葵さんが幼稚園の先生みたいなことを言う……」
気分はまさにそれだった。今日の用事で、どうして自分がアイリスの面倒を見ることになったのか、これがさっぱり分からない。
「お返事する時は、元気よく手を上げましょうね」
「はーい!」
そう口にした途端、アイリスの右手が真っ直ぐ天井へと伸びた。顔には笑みが浮かんでいるが、きっと沈みかけた気分を無理矢理引き上げているのだろう。いつもの自然な笑みとは違って、やや硬さが残る笑みだった。
「……」
「……葵さんがやらせたんじゃないですか」
思いもしない反応が返ってきて黙り込んでしまった自分に、手を上げたままのアイリスがじっとりとした眼差しを向けてくる。消えてしまった笑みの代わりに、今度は声に不満の色が滲んでいた。
「いや、まさか本当にやるとは思いませんでした」
「いつか絶対に葵さんのことを赤ちゃん扱いしてあげます……!」
よく分からないことを決心するアイリスだったが、そんな日は来ないので身構えなくてもいい。
「……はぁ」
「落ち着きました?」
「誰のせいだと……」
「きっかけはアイリスさんだと思いますよ」
「そうですけどっ」
体の中から何かを追い出すようにため息を吐いたアイリスに、事の発端という現実を突き付ける。どうやら本人もそれは分かっているらしい。分かっているからこそ、あの沈みようだったのかもしれない。
何はともあれ、見た目上は立ち直ったアイリスの手の中に、もうパスケースはなかった。
「パスケースは絶対になしです」
「貰えば使いますよ?」
「……っ。それでも、ですっ」
一瞬迷ったのが、分かりやすく反応として現れていた。揺れは微かなものだったようで、結局すぐに抑え込まれてしまったようだが。
「見る度に思い出しちゃいそうですもん」
「多分、僕は見るまでもなく覚えてます」
これまでに見たことがないアイリスの姿など、そう簡単に忘れられる訳がない。ましてや、それが今後なかなか見られないような珍しいものとなれば、尚更である。
「記憶、忘れる、検索」
一方、アイリスはそんなことを微塵も考えていないようで。一体どんな結果が出てくるのかが気になる調べものをしていた。真剣な顔をしているのが少し怖い。
「何が出ました?」
「衝撃」
「そんな簡単に忘れられたら、誰も苦労しないんですよ」
「簡単ですか? これ?」
あることのせいであまり冗談のようには聞こえなかったらしく、やたら心配そうな目で見つめられてしまった。今回の誤魔化しは失敗だ。
「でも、その理論が正しいなら、アイリスさんに衝撃を与えて、僕のウェイトレス姿を記憶から消すことができる……?」
「今消えたところで、どうせ今月も見られますけどね」
「そうなんですよね……」
これ以上ない程に悲しくなる正論を返され、がっくりと肩を落とす。そもそも、自分がアイリスに対して物理的な衝撃を与えることなどできるはずがないのだが、今は仮定の話である。
「あ」
「ん?」
誕生日を目前に控えているとは思えない見た目で落胆しているところに聞こえてきた、何か思い付きましたと言わんばかりのアイリスの声。この流れで真面目なことを考えている訳がないので、絶対にろくでもないことを言い出すはずだ。
「毎月葵さんの記憶を消せば、毎月新鮮な恥ずかしがり方をするウェイトレス姿の葵さんが見られる……!」
「じゃあ、僕はその度にアイリスさんの記憶を消します」
「誰も得をしないじゃないですか!」
「僕が得をして……、ない?」
結局、毎月ウェイトレスになっていることには変わりなかった。本当に誰も得をしていない。
「何がしたいんですか」
「ウェイトレス服を着たくないんです」
したいのではなく、したくないのだった。
そんな話をしながらパスケースのコーナーを離れ、再び店内を巡る。次にアイリスの目が向いたのはマグカップ。最初に伝えた通り、実用的なものを中心に探してくれているようだった。
「紅茶、飲むんですもんね?」
「えぇ」
「だったら、一応使うことはある、と……」
猫のシルエットが描かれた白いマグカップを手に取って眺めるアイリスが、過去の話を思い出しながらそう尋ねてくる。様々な角度からそのマグカップを眺めている辺り、本当に調査に余念がない。ここまで真剣に考えてくれているのを見ると、何となくむず痒い気分になる。
「可愛い……」
「……」
自分で欲しがっていただけだった。
「猫好きですか」
「好きです!」
力強い返事。いつかの狐やフェネック、犬の話の時もそうだったが、この様子から察するに、どうも動物全般が好きらしい。
「飼うなら?」
「人懐っこいなら、猫でも犬でも全部大歓迎です!」
マグカップを棚に戻しながらの、そんな言葉。満面の笑みで猫や犬とじゃれ合うアイリスの姿が、実に簡単に想像できてしまった。
「膝の上で丸くなってほしいんですよ!」
両手が空いて体の自由度が上がったからなのか、やたらと具体的な欲望を口にしながら、ぐいっと迫ってくるアイリス。今この瞬間だけは、すぐ傍のマグカップは意識の中に残っていないのだろう。
「葵さんが猫耳……」
「そこまでです」
「ふあ!?」
妄想の方向が怪しくなってきたところで、軽く猫騙しをしてみる。驚いて目を丸くするアイリスは、それこそ猫のように尻尾と耳の毛を逆立てていそうだった。
「何するんですかっ」
「それは僕の台詞です」
勝手に妄想に登場させられた挙句、勝手に猫耳までつけさせられたのなら、完全に自分が被害者である。アイリスがそう言う資格はないはずだ。
「似合う葵さんが悪いんですよ」
だが、その理屈はアイリスには通用しない。不満そうな表情で、責任転嫁も甚だしい一言を言い放つ。
「僕なんかより、アイリスさんの方がよっぽど似合うに決まってるじゃないですか」
「そんなことないです。絶対に葵さんの方が似合います」
「そもそも、男が猫耳をつけたところで、そこには地獄が広がるだけなんですよ」
「いーえっ。私の目の前には天国が広がりますね!」
随分と安っぽい天国だった。
「狐耳が似合う男子高校生なのに、猫耳は似合わないなんてこと、絶対にあり得ません」
「自分で何を言ってるのか分かってます?」
世の中の大半の人間が首を傾げそうな発言だった。もちろん、自分の首もしっかりと傾いている。これを聞いて首を縦に振れる人間など、恐らくアイリスしかいない。
「……」
唐突にクラスメイトの顔が二人分頭の中に浮かんだが、それについては何も考えないことにした。
「そんな葵さんは、この二つならどっちが好きですか」
「話の振れ幅ですよ」
話の流れも何もなく、いきなりそう問うてきたアイリスの手には二つのマグカップがあった。一つは先程の猫のシルエットが印刷されたもの。もう一つは、その隣にあった白地に桜が印刷されたもの。
一瞬だけ悩んで、すぐに答えを出す。
「猫ですね」
「あれ。てっきり桜かと思ってました」
「そっちは、ちょっと女性向け感が強いかなと」
「そうですか……」
一人何かを納得しながら、両方共棚に戻してしまうアイリス。どうやら、選んだ方を買う訳ではないようだ。
戻した後もアイリスの視線はそのまま商品の間を彷徨い続け、やがて先程とは別の二つのマグカップを選び出す。
「じゃあ、この二つなら?」
再びの質問。今度はどちらも無地のマグカップ。片方は陶器製、もう片方はステンレス製のもの。
「その二つなら……。こっちですかね」
猫と桜よりは悩んで出した結論は、ステンレス製。特にこだわりはないので、本当にただ何となくこちらが好きというだけだった。
「ふむ……。なるほど……」
またも何かを考えるように頷きつつ、やはり両方共棚に戻す。
「買うわけじゃないんですね」
「今日は何も買わないですよ? 葵さんがいるのに買っちゃったら、プレゼントが何なのか分かっちゃうじゃないですか」
「僕はそれでも喜びますけど」
「その辺は私の気持ちの問題ですから」
予想に反して、あれこれ選びはするものの、自分の目の前では買わないとのことだった。その口振りから察するに、プレゼントの準備段階も大事にしたいということなのだろう。
「もっと言うと、今日見るものはプレゼントには選ばないです」
「え?」
さらに続けてアイリスから飛び出してきたのは、そんな意外な言葉。自分で選択肢を狭める発言だが、本当にそれでいいのだろうか。
「今日は葵さんの好みを知るのが目的ですもん」
「それに合うものを自分で選ぶってことですか?」
「ですね。どれにしようかなって迷うのも楽しいですから」
そう言うアイリスの顔には柔らかな笑み。そこには、嘘の気配など一切感じられない。
「それに、喜んでくれるかなって想像するのも、選ぶ側の特権です」
「随分と可愛いことを言ってくれるじゃないですか」
「そっ、そう、ですか……?」
自分が思わず零してしまった本音を聞いて恥ずかしそうに頬を緩めるアイリスは、それこそ可愛さが極まっていた。微かに俯いているところも、その可愛さをより一層高めている。
「と、とにかく、今日はそういうつもりですから。葵さんも、そのつもりでちゃんと答えてくださいね?」
「もちろん」
自信がないと言いはしたが、そういうことなら努力するしかない。真剣に選んでくれているアイリスのためにも、よく分からないなどと考えている場合ではなかった。
「そんなわけで」
「うん?」
「とりあえず、猫耳を探しましょうか」
「嫌です」
本当に、よく分からないなどと考えている場合ではなかった。
「むぅ!」
可愛さが極まった様子から一転、不満そうに少しだけ頬を膨らませたアイリスの軌道を修正するのは、これまで以上に労力を要するのかもしれなかった。
調べた中にあったらしいハンカチや文房具も見て回ったが、やはり意見を尋ねられるだけで、購入の意思はないようだった。
「何となく葵さんの好みが分かってきた気がします」
「そうですか?」
そう言うアイリスだったが、これまで見てきたのはパスケースにマグカップ、ハンカチに文房具である。共通点といえば、せいぜいが「実用的なもの」ということくらいだろうか。自分のことなのに、そこに好みは見出せなかった。
「私を甘く見ないでください。葵さん研究の第一人者ですよ」
「そんな研究をしてるのはアイリスさんくらいです」
世界で一人しか研究していないことに対して、「第一人者」という言葉を使うのは間違っている。もっと言うならば、是非とも研究そのものをやめてもらいたい。
「第一に、可愛いんです」
「誰も研究結果を話せとは言ってないです」
第一にそれを持ってくることも間違っている。今のところ、アイリスの言葉に正しそうな部分は一切見られなかった。
「じゃあ、どうして可愛いかなんですけど」
「世界一無駄な考察ですね」
「顔が女の子っぽいのは当然として、声もちょっと高めなんですよね。なので、違和感なく可愛いが浸透してきます」
「可愛いが浸透……?」
生まれて初めて聞く言葉だった。からかわれているのかとも思ったが、そう語るアイリスの顔は真剣そのもの。
その口からは、まだまだ無意味な考察が紡がれる。
「その声で乱暴な言葉遣いだと似合わないですけど、葵さんは誰にでも丁寧に話すので、ちょっとしたお嬢様に見えないこともないです」
「見えることがあってはいけないと思うんです」
「第二に」
「あ、意見を聞く気はないんですね」
先程から返事がない時点で察するべきだった。こうなったアイリスは、もう誰にも止められない。
「そんな見た目なのに、女の子の格好をするのが恥ずかしくてたまらないって考えてるところは、とっても評価が高いところだと思います」
「自然にスカートの裾を握り締めてた時なんて、どれほど写真を撮りたいと思ったか……」
「普段はほとんど照れない葵さんが、そんな時だけ顔を真っ赤にしてるのも最高だと思うんです」
「あ、例の月一の日、葵さんと私が一緒に働いてる日にしてほしいって、柚子さんに頼んであります。これからも、存分に恥ずかしがるところを見せてくださいね?」
口の動きが止まらない。半ば諦めて黙って話を聞くだけになっているが、アイリスはそんなことを気にする様子もなく、とにかくすらすらと考察を語っている。何なら少し楽しそうだった。
「三つ目。やたら面倒見がいいんですよね。お祭りの時に話してくれたことが影響してるんでしょうね」
「未だにバイト中に気にかけてくれますし、勉強も教えてくれますし」
「多分、生まれつきお世話好きなんですね。簡単に言うと、だめ人間製造機です。私も気を付けてます」
随分な言われようだった。目の前の相手を指して「だめ人間製造機」とは、随分と突っ込んだ発言である。レティシアから頼まれているので基本そこまではしないが、いざとなったらとことん甘やかして、それこそ「だめ人間」にしてしまおうかという気持ちが湧いてきた。
「四つ目。弱点を突かれると、普通の人以上に崩れますね」
「でも、なかなかその弱点を突かせてもらえないのが難点ですね。守りが固い分、突破されると弱いってことなんだろうって思ってます」
「葵さんは結構本音を隠すタイプで、そういう人って崩れた時は本音が漏れるので、たまには崩れてほしいですね」
「前に足が綺麗って言ってくれたの、流石に恥ずかしかったですけど、嬉しいのは嬉しかったですし」
最早研究結果の発表ではなく、辱めに近いような気がしてきた。こうなってくると、黙って聞く選択は間違いだったのではないかとすら思えてしまう。
「そんなわけで、葵さんの好みは、あんまり大きなサイズじゃなくて、できれば手の平に収まるサイズ。実用的なもので、多機能ってよりはシンプルなもの。デザインは凝り過ぎず、単調過ぎず。革とか布系よりはメタリック系のもの、ですかね」
「待ってください」
これには流石に声が出た。話が飛び過ぎているうえに、好みとやらの把握が尋常ではなく細かかった。
「個人的には、メタリック系のものが好きそうってところは意外でしたね。ちょっと男の子っぽいです」
「いや、だから……」
「そんなわけで、私の考察でした。合ってます?」
そこでようやく語りに語っていたアイリスと目が合った。たまに見せる、不安そうに揺れる瞳はそこにはなく、あるのは絶対の自信に満ちた輝く瞳である。尋ねるという形を取ってはいるが、自身の考察を疑っていないようだった。
「言われてみればそんな気もしますけど、問題はそこじゃないんですよ」
「何か?」
「話が繋がってるように思えなくて、頭がついていかないです」
「繋がってませんからね」
「は?」
当たり前のような顔をしているアイリスから、思いもしない言葉が聞こえた気がした。もし本当にそうなのだとすれば、自分の戸惑いが全て無駄なものになる訳なので、是非詳しく話してもらいたいものだった。
「繋がってない?」
「はい。お話ししてる間、葵さんの顔がどんどん赤くなってくのが楽しくて、つい」
「え……」
その言葉で、これまで意識していなかった頬の熱さを初めて自覚する。気付いてしまえば、何故今まで気付かなかったのかが不思議に思える程に頬が熱かった。冷房の効いた館内にいるにも関わらず、だ。
「そうやってほっぺたを触る仕草も可愛いって、もうずるいですよね。普通の男の子って、あんまり自分のほっぺたを触ることってないと思いますよ?」
そんなことを言われて、急いで手を離す。そのままにしていれば、アイリスに餌を与えるだけになってしまう。
「とにかく、お話が止まらなかった方はこれまでの葵さんの印象で、好みの方は今日の印象ですね。何の関係もないです」
「質の悪い話し方を……」
とはいえ、頬を赤くする姿が見たくてからかうのは、自分もたまにすることがある。それだけに、この話題でアイリスに対してあまり強く出ることはできなかった。
「葵さんも私にするじゃないですか。そのお返しです」
本人にもばれていた。柔らかく「お返し」という言葉を使っているが、実態は「仕返し」なのだろう。悪戯っぽい笑みが、そんな考えを裏付けている。
「……効きました」
「本音が出ます?」
「からかいが出ます」
「なんでですか」
本音が聞きたいという狙いもあったのか、その部分は上手く達成できなくて不満なようだった。それすらも可愛かった悪戯っぽい笑みが消え、代わりに目付きが微かに鋭くなっている。
「はぁ……」
「いっつもからかわれる私の気持ち、少しは分かってくれました?」
「だからって、そう簡単にやめるわけじゃないです」
「なんでですか」
転んでもただでは起きないということで、今度は自分の番である。散々押された「お返し」に、自分も少しだけ押すことにする。
「さっき自分で言ってたじゃないですか。可愛いからに決まってます」
「きっ、効きません、もん……」
「効いてますね」
あまり一矢報いた気はしないが、されるがままよりはよっぽどいい。そうして後に残ったのは、共に頬を赤くした二人組だけ。実に不毛な時間だった。
「あ」
「え? 何です?」
その人物を見つけてしまったのは、そんなタイミング。アイリスを挟んだ向こう側にたまたま視線を向けたら、そこにいた。
目が合ってしまったので、向こうも自分達に気付いているはずだ。驚いたような表情を浮かべたのも束の間、すぐに楽しそうな笑みに表情を変え、こちらに歩み寄ってくる。
「いや……。動かない方がいいと思いますよ」
「えっ? なにっ!? なんですか!?」
背後から迫る危機に、アイリスはまだ気付かない。振り向けばそれで済む話なのに、律儀に「動かない方がいい」という自分の言葉を守っている。素直さは時に身を滅ぼすのだと、場違いな感想が頭の中に浮かんだ。
そうこうしているうちに、件の人物が目の前まで迫ってきた。すなわち、アイリスのすぐ後ろである。
「あの……? 後ろに誰かいませんか……?」
そこまで接近されたところで、アイリスも流石に気が付いたらしい。何者かの気配を感じ取ったアイリスが、少しだけ怯えたような表情を見せる。ホラー会の時程ではないものの、うっすらとした恐怖は感じているようだった。
「いますね」
だが、名前を呼ぶなと言わんばかりに人差し指を立てられている手前、誰が立っているのかを教えることはできない。非常に残念だが、アイリスには大人しく餌食になってもらうことにする。
「誰で……」
「だーれだ?」
「ひぁあ!?」
アイリスの言葉は最後まで続かなかった。
背後の人物の行動は、定番と言えば定番。それはもう楽しそうに、その両手でアイリスの両目を塞いでいた。久しぶりに悪戯ができて嬉しいという感情が抑えきれていない。
対するアイリスは、肩をびくりと飛び跳ねさせて驚いている。少し前にも聞いた気がする悲鳴を上げ、混乱の真っ只中へと突き落とされていた。
「だれ……っ!? やだっ、助けてください! 葵さん!」
「惜しいですね」
「なんで落ち着いてるんですかぁ!? やだぁ!?」
「アイリスさんも知ってる人なので、そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ」
アイリスも自分も知っているという点では、少なくとも不審者ではない。行動は完全に不審者のそれだったが。
「こんなことをするのなんて、碧依先輩か渡井先輩か紗季くらいしか知りませんっ」
「三人も出てくるんですね」
この一瞬で候補が三人も出てくる交友関係とは、一体どんな交友関係なのだろうか。全員知っている三人なのに、思わず首を傾げたくなってしまった。
そうこうしているうちに、目の前でアイリスの両目を塞いだ人物が怪しげな表情を見せ始める。これまでは見逃がしてきたが、そろそろ止めないと色々と厄介なことになりそうだった。
「いい加減当てないと、もっと面倒なことをしそうな顔をしてますよ」
「碧依先輩ですっ」
「正解!」
その言葉と共に、両手がアイリスから離れる。
件の人物が、アイリスの視界にも入るように回り込む。夏休みに入ってからは初めて見る、碧依の登場だった。
「何でその三人の中で、私が最初に出てきたの?」
アイリスが落ち着いてからの、碧依の最初の言葉。投げかけられたアイリスはといえば、しっかり碧依とは反対側に移動して、自分の体を盾に警戒態勢を敷いていた。
「……葵さんは紗季にあんな風には言わないですし、渡井先輩になら『しそう』じゃなくて『する』って言います」
「そんな方法?」
「葵さんのこと、ちゃんと研究してますもん」
その言葉を否定しようにも、先程の熱弁を経た今となっては、とてもではないがそんなことはできなかった。
「普通は声で判断するんじゃないですか?」
「そんな余裕はありませんでした。私の怖がり具合を見くびってもらっちゃ困ります」
「自慢げに言われても……」
視線鋭く、碧依を睨みつけながらの一言。だが、そんな視線を受けても碧依が気にした様子はない。警戒心を露わにして自分の背中に隠れているその姿を、ただただ微笑ましそうに見ているだけである。
「まぁ、それはいいとして。二人は何をしてたの?」
「内緒です。絶対に教えません」
「だそうです」
「えー?」
当然と言えば当然の碧依の疑問だったが、どうもアイリスは答えを教える気はないらしい。そこを隠したところで、この後のことは何も変わりはしないと思うのだが。
「そういう風に言われると、妙に気になっちゃうな?」
「考えなくてもいいです」
「アイリスさんは答えてくれないかもだけど、でも、ここにはもう一人いるからね」
そう言って、碧依が自分の方に目を向ける。どうやら質問の矛先が変わったらしい。それを敏感に感じ取ったアイリスが、服の裾をそっと引っ張りながら口を開く。
「教えちゃだめですからね、葵さん」
「何がそんなに嫌なんですか」
「だって、絶対にからかわれるじゃないですか」
「今更ですか? 散々僕にからかわれてきたのに」
「葵さんはいいんです。でも、碧依先輩はだめです」
不思議な理屈をこね回すアイリス。何にせよ、とにかく理由は知られたくないということだけは伝わってきた。けれども、碧依が勝手に察するのを止めることはできないので、迂闊なことを言わないようにするくらいしか、自分にできることはない。
「からかうかどうかは別にして、何をしてるのかは普通に気になるからね。当ててあげるよ」
「葵さん」
「はい?」
「分かってますよね?」
「絶妙なヒントを出せってことですか?」
「なんにも分かってない!」
まるで以心伝心の間柄かのようにアイリスが確認してくるが、残念ながら自分達は以心伝心には程遠かった。これまで碧依に向けていた怪しむような視線が自分に向けられ、裾にはさらに少しだけ力が加わる。
「ばれたところで、そんなにからかわれる用事でもないじゃないですか」
「いや、碧依先輩は絶対に面倒な絡み方をしてきます」
「僕がウェイトレス姿になった時のアイリスさんみたいに?」
「面倒って思ってたんですか!?」
「まぁ、少し」
「……ちょっとショックです」
全く関係ないタイミングで、アイリスが傷を負っていた。これに懲りたら、少しは自重してもらえるとありがたい。
「さて、葵君」
そしてアイリスの言葉が続かなくなったところで、満を持してといった様子で碧依が口を開く。アイリスと話し続けていれば質問から逃れられるかと思っていたが、そうは問屋が卸さない。
随分と緊張感のない尋問が、今始まろうとしていた。




