41. 変わりゆく心 (3)
あれからいくつか屋台を回りながら辿り着いたのは、このお祭りの中心となっているとある神社。普段は閑散としている境内も、この時間だけは人で満ち溢れている。
場所柄なのか何なのか、周囲にはこれまでよりも多くの浴衣姿が見られるような気がした。あるいは、単に自分が気にして見るようになっただけなのか。
「……」
「……」
そんな中、二人揃って手を合わせる。
夏祭り。またの名を縁日。神仏と縁を結ぶ日。やっと回ってきた、参拝の時間だった。
「……」
先に手を下ろし、隣のアイリスの様子を窺う。いつもの元気な様子は鳴りを潜め、目を閉じて静かに何かを祈っている。随分とその時間が長いように思えるが、一体何を祈っているのだろうか。その真剣な横顔からは、心の内を探ることはできなかった。
「……よし」
そうして少しの間眺めていると、小さな一言と共に、アイリスの手も下ろされた。それとほぼ同時に、いつもの瑠璃色が戻ってくる。
「長かったですね」
次の参拝客に場所を譲るようにして賽銭箱の前から移動しつつ、アイリスにそう問いかける。返事があったのは、お互いに手を取り合って石段を下りきったタイミングだった。
「見てたんですか?」
「先に終わったので」
「む……。ちょっと恥ずかしいですね……」
「やけに真剣な表情でしたけど、何をそんなにお願いしてたんですか?」
参拝のために列を成す人々を横目に、さらにそう尋ねてみる。そこまで簡単に教えてもらえるようなものではないだろうが、あくまで一つの話題としてである。
「色々です」
「色々」
案の定、答えは曖昧なものだった。明るく笑ってはいるものの、この様子では、具体的なところまでは教えてもらえないのだろう。
「はぐらかしましたね」
「葵さんもたまにやってるじゃないですか」
「確かに。よくご存知で」
「葵さんの言葉は聞き逃さないって、さっき言いましたもんね」
「現実味を帯びてきて、本当に怖いんですけど」
冗談の類かと思っていたが、案外嘘は吐いていないのかもしれない。そう思わせる程に、アイリスの言葉には本気の色が宿っていた。
「でも、そうやってはぐらかすってことは、それなりに恥ずかしいお願いだったってことですかね」
「ちちっ、違いますっ、けどっ!?」
「誤魔化すのが下手過ぎませんか?」
動揺が顔に表れたのか、視線は定まらず、口元は引きつっている。何も隠せていないどころか、全力で嘘を吐いていますと、そう告白しているのも同然だった。
ここまで嘘を吐くのが下手となると、それこそ先程の「聞き逃さない」の件が嘘ではないということになってしまうが、それはそれである。今は目の前で狼狽えるアイリスの対処が先だ。
「何も誤魔化してませんけど!?」
「僕の目を見て言ってもらえますか?」
完全に明後日の方向を向きながらそんなことを言われても、全くと言っていい程に説得力がない。
「ほら」
「うぅ……!」
ちらちらと何度かこちらを横目で見ては、再び目を逸らすという動きを繰り返すアイリスに、さらなる追い打ちをかける。
「でも、違うってことは、別に恥ずかしいお願いじゃなかったってことですもんね」
「あっ……」
しまったと、そんな思いを含んだ声がアイリスの口から漏れた。今頃、心の中では痛いところを突かれたと感じていることだろう。
「だったら言えますよね?」
「違いますっ。お願いが恥ずかしいんじゃなくて、それを言うのが恥ずかしいんですっ」
うっすら頬を染めながらの抗議。繋がれた左手が、アイリスの動きに合わせて前へ後ろへ不規則に揺れ動く。
「そうきましたか」
「そもそもっ! そんなに言う葵さんは、何をお願いしてたんですか!?」
「僕ですか?」
答えるのがよほど恥ずかしいお願いでもしていたのか、どうにか矛先を逸らそうと、アイリスの反撃が続く。だが、残念ながら、アイリスの思惑通りには事は進まない。
「僕は特に何も」
何故なら、自分は何も願っていなかったからだ。恥ずかしげもなく堂々と答える自分の姿を見て、またしてもアイリスの声が響く。
「絶対に嘘です!」
「意味のない嘘なんて吐きませんよ」
嘘を吐くのは、何か隠したいことがあるからである。自分にとってこの場で隠したいことなど何一つとしてない以上、嘘を吐く必要などない。単純明快な話だが、隠したいことがないという前提を知らないアイリスには、それを信じきることができないらしい。
「じゃあ、何のために並んでまでお参りしたんですか」
「流れですね。お祭りと初詣くらいでしか、お参りなんてしませんし」
「だったら、尚更お願いは伝えておかないといけないじゃないですか」
「願いは自分で叶える派なので……」
「強い……!」
どうも、昔から他人に何かを任せるのが得意ではなかった。自分でできることはなるべく自分の手で済ませたいという、願望とでも言うべき習性。そういったこともあり、先程も目を瞑って、手を合わせていただけなのだった。
「あ、そういえば……」
ただ、そうして願い事について話す中で、あることが頭の中に浮かぶ。
「何か見つかったんですか?」
「ありはしますけど、これもどうせ僕次第なので」
「恥ずかしいお願いですか? 恥ずかしいお願いですよね? 恥ずかしいお願いって言ってください」
「必死ですか」
瑠璃色と菜の花色の後輩が、よく分からないことを言いながら徐々に迫ってくる。自身のお願いから意識を逸らしてほしいのか、不思議なところで全力を傾けていた。
「別に恥ずかしくなんてないです」
「じゃあ、言ってみてくださいよ」
「『これからもアイリスさんに嫌われませんように』」
「ひぁ……!」
瑠璃色と菜の花色の後輩が、謎の声を上げて少しだけ後退る。顔を真っ赤に染め上げて照れているのを見る限り、嫌われそうな要素があるからこそ、こんな願いが出てくるということには気付いていないらしい。
「それはっ……! なんっ……!? えぇっ!?」
「驚き過ぎじゃないですか?」
「いきなりそんなことを言われたら、誰だってこうなりますって!」
「そんなものですかね?」
「そうですよっ。私は葵さんが恥ずかしいお願いを聞きたかったのに、何で私を恥ずかしがらせてるんですか!」
繋いだ手に、左右の運動まで加わる。随分と忙しい右手と左手だった。
「だから僕は恥ずかしくないって言ったじゃないですか」
「いやいや……。今のは普通恥ずかしがるお願いですって」
「生憎、色々普通じゃないので」
「そうですね、忘れてました、見た目とか」
「五七五で煽ってくるのは気に入りました」
気に入ったからとて、手が緩む訳でもなく。事の発端がどんな会話だったのかも、当然忘れることなどない。
「それで? 僕は教えたんですから、当然アイリスさんも話してくれるんですよね?」
「あ……」
忙しかった右手と左手が、そこでぴたりと動きを止める。
「僕には言わせておいて、自分は言いませんなんてこと、真面目なアイリスさんはしませんもんね?」
「あ、あの……?」
恐る恐るといった様子で自分を見上げてくるアイリス。先程までの勢いはどこへ消えてしまったのか、反論の糸口を見つけることができず、瑠璃色の瞳が微かに揺れるだけだった。
「僕もアイリスさんの言葉は聞き逃しませんから」
「いや、今回は聞き逃してくれてもいいかなーって……」
「何ですか? 聞こえませんけど」
「聞き逃してるじゃないですかっ」
都合が悪いことは聞き逃す、とても便利な耳だった。
「僕のことはいいんですよ。今はアイリスさんのことです」
「……どうしても、言わなきゃだめですか?」
「まぁ、絶対に言いたくないってことなら、流石に無理にとは言いません」
「絶対ってわけじゃない、です、けど……」
何度も絶妙な角度の上目遣いで見つめられると、自分としても何かの拍子に折れてしまいそうになる。この辺りも、本人が自覚していないであろうアイリスの強力な武器の一つだった。
「その……」
「はい」
それでも、少しだけ迷いを見せた後、とうとうアイリスが口を開く。
「……んと、も……よ……れま……に、です……」
「は?」
小さな声でもごもごと。どうやら何を願ったか教えてくれたようだが、全く聞き取れなかったと言っても過言ではない。聞こえてきたのは、細切れになった一文字二文字だけ。とてもではないが、これでは復元は不可能である。
「何も聞き取れませんでした」
「やっぱり聞き逃してるじゃないですかぁ……!」
「今のは誰でも無理ですって」
耳が良い悪いという、そんな次元の話ではない。そもそも音になっていないものは、誰にだって聞き取れない。
けれども、アイリスにとってはそんなことは関係ないようで。ラピスラズリの表面に少しの涙を湛えながら、必死に反論してくる。無意識に力が入っているのか、左手が引っ張られて、距離が僅かに縮まった。
「だからっ……! ……い……っと……く……う……、です……」
「さっきよりひどくなってませんか?」
二回聞いた意味がない。結局、何を願ったのかは全く分からなかった。分からなかったが、見ている自分が心配になる程に顔を真っ赤にしているアイリスに、これ以上聞き返すようなことは流石にできない。
「やっぱり内緒ですっ!」
「でしょうね」
限界を迎えたアイリスから、白旗が上がる。この期に及んで、その願い事を教えてもらえるとは到底思えなかった。
「恥ずかしげもなくあんなことを言える葵さんがおかしいんですよ」
「自分のことをよく見せたいとか、そういう気持ちがないですから。何だって言えます」
「そういうところですよ! もうっ」
何に対して怒っているのかは分からないが、そう言って顔を背けるアイリス。その顔からは、ようやく赤みが抜け始めていた。
そうしてアイリスが顔を逸らした先に自分も目を向けたことで、その二人組を見つける。
「あ」
「アーロンさんとレティシアさんもお参りみたいですね」
明らかに周囲とは違った雰囲気の二人組が、列の最後尾に並んだところだった。向こうも自分達に気付いているようで、レティシアが小さく手を振っている。
「行きますか?」
答えは分かっているが念のため、といった形でアイリスに問われる。当然、その答えは一つだった。
「もちろん。手まで振られたんですから」
「ですよね」
予想通り意見は一致し、揃って二人が並ぶ列の最後尾に近付いていく。
「さっきぶり」
「楽しめてるみたいね」
自分達が口を開く前に、アーロンとレティシアから声をかけられる。
「どうも」
「お父さんとお母さんもお参り?」
「そうね。二人はもう?」
「うん。今戻ってきたところ」
「じゃあ、鳥居の辺りで待っててもらえるかな。そこで合流ってことで」
「はーい。あんまり待たせ過ぎるのは嫌だからね」
「それはこの行列次第だね」
軽く肩を竦めるアーロンと、その横で何故か笑みを浮かべるレティシアを残し、待ち合わせ場所となった鳥居へと足を向ける。
「レティシアさん、妙に楽しそうでしたけど、何かあったんですかね?」
恐らく自分達の声が届かなくなったであろう場所で、何となく覚えた違和感をアイリスに問いかけてみる。いくら娘といえども、親の心の中を綺麗に見通すのは難しいだろうが、それでも気になったので仕方がない。
「さぁ……? 元々お祭り好きですし、それだけだと思いますけど……」
「そうですか……」
案の定はっきりとしない答えに、どこかもやもやとした気持ちを抱く。ただ、これ以上考えても答えが出る訳でもないので、もうそういうものなのだと割り切ることにしたのだった。
「何かそんなに楽しいことでもあったかい?」
「えぇ。それはもう」
葵とアイリスが去った後。参拝のための列に並んだアーロンとレティシアが、そんな会話を交わしていた。
「当ててみせようか?」
「あら。できるの?」
「まぁ、今回はかなり簡単だね」
「そんなに言うなら、しっかり当ててもらいましょうか」
そう挑発的な物言いをするレティシアも、心の中ではアーロンが正解に辿り着いていることを理解して話しているのだろう。葵とアイリスが立ち去る前から浮かんでいた笑みが、今になっても消えることがない。
「手」
「お見事」
「あんなにしっかり繋いでたらね」
「しかも、私達の前でもそのままだったってことは、相当自然な格好ってことね」
その笑みの答えがこれである。要は、最近よく名前を聞く先輩と自分の娘が手を繋いでいて、そのうえ自然に振る舞っていたのが嬉しかったというのが真相だった。
「葵君はまぁ、葵君だからとして。レティから見て、アイリスの方はどうかな?」
「んー……。親しいのは間違いないけど、恋愛感情は薄そうね。少なくともまだ」
「そうだね……。確かに、まだちょっと無邪気で距離が近いって感じだからね。根っこにはそういう感情がありそうな気もするけど」
「でも、そういう子こそ、自覚した時が大変なことになるんだから」
「自分の娘だよ?」
「そうね。慌てふためくあの子の姿が目に浮かぶわ」
「……レティらしいよ」
相手が自分の娘だからこその、レティシアの言葉。まるで未来を見透かそうとしているかのような言葉に、アーロンの顔には自然と苦笑いが浮かぶ。
「葵君の方は?」
「恋愛感情なんて全く持ってないわね。完全にお世話する対象としか思ってないわ」
「あぁ、いや、それもそうなんだけど。もしそうなったとして、お相手としての葵君はどうかなって話で」
「あら。文句なんてあると思う? あんな可愛い子を、合法的に着せ替え人形にできるのよ?」
「合法的……、かな……?」
今回は素直に賛成できなかったらしく、アーロンの首が少しだけ傾く。
「ま、そんな本音は置いておくとして」
「本音なんだね」
「もちろん。……真面目な話、あんな話をした私達にも変わりなく接してくれてる時点で、その性格は何となく分かるから」
「あぁ……、まぁ、それは……」
二人して思い出すのは、葵とアイリスが今日着ている浴衣を買った、その帰り道でのこと。葵が隠していた秘密が明かされた、あの時のことだった。
「あと、やっぱりあれだけ可愛い子が息子になるのは嬉しいし、アイリスの面倒も見てくれそう」
「真面目な話が長続きしないね」
「私達があれこれ言ったところで、結局はあの二人次第だから」
「ま、それもそうだね」
そんな会話を続けるうちに、列がいくらか前に進む。
当然、二人の会話が葵とアイリスに届くことはなかった。
「葵さん、葵さん」
「何です?」
鳥居まであと少しのところで、その言葉と共にアイリスに腕を引かれた。どうやら何かを見つけたらしい。
「あれ、葵さんが言ってた屋台じゃないですか?」
「あれ?」
そう言ってアイリスが指差す先。そこにあったのは、先程話していた味噌田楽の屋台があった。まるで立ち寄ってくれと言わんばかりに、待ち合わせ場所である鳥居のすぐそばに出店している。
「みたいですね」
「お父さんとお母さんが来るまで時間はありますし、せっかくなので寄っていきませんか?」
「素直に食べてみたいって言ったらどうです?」
「食べたいです!」
「じゃあ、行きましょうか」
元々断るつもりなどなかったので、元気よく挙手までしたアイリスを連れて、件の屋台へと歩み寄る。
屋台の店主と決まりきったやり取りをして、商品を受け取る。代金はこれまで通り、後からまとめて払い方式である。律儀なことに、いくら払えばいいのかを、屋台に立ち寄る度にアイリスが計算していた。
そうして手の中に収まった、使い捨ての皿に乗った十本の串。たこ焼きの時と同じく、これでもかと湯気が立ち昇っているが、こちらは冷めるまでに大した時間はかからないはずだ。そもそも、きっとそこまで熱くない。
そんな訳で。
「いただきます」
「ストップです、葵さん」
「は?」
早速久しぶりとなる味を堪能しようとしたところで、何故かその手をアイリスに止められた。思わず隣を見てみれば、アイリスの顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「何か?」
「とりあえず、これを」
「……」
財布だった。
「これを」
「……はい」
右手が塞がった。
「それじゃあ、改めて……。どうぞ!」
そして行きつく先は、何やら既視感のある光景。今日だけで三回もしていれば、流石に多少は慣れもする。若干薄れた恥ずかしさを感じつつ、にこにこと楽しそうに笑うアイリスが差し出した串から、味噌田楽をそのまま口の中へと運ぶ。
「美味しいですか?」
「それはもちろん。ちょっと甘めですかね」
こんにゃくの独特の食感と共に、味噌の甘さが口の中に広がる。使っている味噌の違いなのか、自分で作るものよりも少しだけ甘みが強いように感じられた。
「じゃあ、私も一本……」
「どうぞ」
そう言いながら、持っていた皿を差し出す。それと同時に、ある予感が走った。
「その前に。お財布、ありがとうございました」
「ですよね」
その予感通り、右手の財布がアイリスの手の中に戻る。そうなれば、この後の展開は考えるまでもない。
「あー……」
「ですよね」
こちらも予想通りだった。小さく口を開けたまま、待機の姿勢に入るアイリス。こちらもまた、今日だけで複数回繰り返した流れだった。
「もうちょっと違う方法はないんですか」
「だって、言葉で言ってもやってくれないじゃないですか。だったら、行動に移した方が早いです」
「潔いと言うか、何と言うか……」
そう嘆いたところで、雛鳥のように口を開けているアイリスがいなくなる訳でもない。随分と手慣れてしまった動作で、串を一本差し出す。
「どうぞ」
「いただきます」
差し出したこんにゃくが、アイリスの口の中に消えていく。
「どうです?」
「……意外と美味しいですね。渋過ぎて立ち寄らなかったのが惜しいくらいには」
「だったらよかったです」
味は概ね好評のようで、とりあえず胸を撫で下ろす。もしアイリスの口に合わないとなれば、残り全てを自分一人で処理することになっていた。一人で九本は流石に飽きるだろう。
「やっぱり、誰かと一緒に来る方が楽しいですね。自分だと寄らない屋台も見つかりますし」
「相手は選びたいですけどね。こんなにゆっくり見て回ったのは、今日が初めてでした」
「あー……。お疲れ様です」
何を言いたいのかを理解したらしいアイリスからの、軽い労いの言葉。それと一緒に、次の串が差し出された。右手は空いているのに、もう何も思うことなくそれを口の中へと運ぶ。
「それにしても」
「うん?」
「私みたいにきっかけがないと、これってなかなか子供が手を出すものじゃないと思うんですよね。葵さんは何がきっかけだったんですか?」
「きっかけ……、ですか」
アーロンとレティシアを待つ間の話題として選ばれた、そんなアイリスの問い。少しだけ考えて、やがて浮かんだ答えは。
「空いてたから、ですかね」
「はい?」
これ以上なく簡潔な答えだったのに、どうやらアイリスはその意味を理解できなかったらしい。まるで頭の上に疑問符でも浮かんでいるかのように、小さく首を傾げて不思議そうにしている。
「空いてたからです」
「いや、聞こえなかったとかじゃなくてですね?」
繰り返した意味はなかった。「葵さんの言葉は聞き逃さない」と言っていたアイリスの面目躍如である。
「初めてこのお祭りに来たのが、確か十歳の時なんですけど」
「十歳の葵さん……。絶対に可愛いですよね……」
「話が進まなくなるので、何も聞かなかったことにしますね」
真面目な顔で何を呟くかと思えば、真面目に聞いて損をすることだった。真面目に反応しても話がおかしな方向に転がっていくだけなので、強引に話を進めることにする。
「で、その時は引率される側だったわけで。まだ施設に入ったばっかりで、周りに全然馴染んでなかったんですよ」
「……」
「どの屋台に行きたいとかも言えずにいたら、そんな時に聞かれたんです」
「『どこに行きたいか』ってですか?」
「です。それで、混んでる屋台を言うのも申し訳なかったので、適当に空いてる屋台を選んだのがきっかけです」
「本当に十歳ですか?」
最初に浮かぶ感想がそれで正解なのかは微妙なところだが、自分でもそう思う瞬間はあるので、何も反論できなかった。自分のことながら、一切可愛げのない十歳である。
「その十歳はあんまり可愛くないと言うか……。いや、葵さんは可愛い……?」
「どんな混乱の仕方ですか」
「葵さんは可愛いです!」
「言いきれって意味じゃないんですよ」
はっきりと言いきったアイリスだったが、残念ながら結論を間違えている。両手を胸の前でぐっと握る仕草が可愛くても、間違っているという事実は覆らない。
「とにかく、確かそんなきっかけだったはずです」
「へぇ……。何となくそんな気はしてましたけど、昔から葵さんは葵さんだったんですね」
「……。どういう意味かは聞きませんよ」
「もっと子供っぽいところを見せてくれてもいいんですよ?」
「アイリスさんは子供っぽいところばっかり見せてくれますもんね。少しは見習おうと思います」
「なんでですか!」
アイリスの声が神域と俗界の狭間に響く。
そんな声を受け流しながら神域にできた行列に目を向ければ、随分と目立つ二人組の背中はずっと遠くにあった。この分なら、アーロンとレティシアが合流するまであまり時間はかからないだろう。
「たった一歳しか違わないのに……!」
それまでの時間は、微妙に荒れ模様となったアイリスを宥めるために費やすことになりそうだった。
「お待たせ」
こんにゃくをアイリスの口に運びながら機嫌を窺っていると、参拝を終えたアーロンとレティシアが待ち合わせ場所までやって来た。このタイミングであれば、アイリスに食べさせているところをしっかりと目撃されているはずだ。
「完全に親鳥と雛鳥だったわね」
予想通りだった。微笑ましいものを見るようなレティシアの眼差しが、アイリスと自分の間を一度だけ往復する。
「いいもん。葵さんが私は子供っぽいって言うんだもん」
「あら、大正解じゃない」
「お母さんまで……!」
味方が見つからないアイリスが、恨みを込めてレティシアを睨む。だが、元々くりくりとした丸い目をしているアイリスが睨んだところで、そこに威圧感が生まれるかは別の話である。
それはレティシアも同じ意見のようで、アイリスの視線を全く意に介さず、そのまま言葉を続ける。
「もうちょっと落ち着きがないと、いつか愛想を尽かされちゃうかもね?」
「葵さんはそんなことで人を嫌ったりしないもん」
「それをあなたが言うの?」
「後輩だからね」
「だから?」
本人の意思を確認することのない会話が、目の前で繰り広げられていた。この場にいる人間の代弁という斬新なことをやってのけたアイリスが、事後承諾という形で自分に話を振ってくる。
「ですよね? 葵さん?」
「まぁ……」
「ですよね?」
どちらかと言えば、自分が嫌われる側なのではないかなどと考えながら、やや曖昧な返事をする。そんな煮えきらない態度をどう解釈したのか、アイリスの語気が少しだけ強くなった気がした。
「あ、はい」
そして、勢いに押されて肯定する先輩が一人できあがった。
「ほら」
「今のがまさに子供っぽい行動だね」
「お父さん?」
一連の流れを見ていたアーロンも明確な敵対の意思を表明し、とうとう完全にアイリスの味方という人物がいなくなった。
「いいよ。お父さんとお母さんがそう来るなら、私は葵さんを味方にするから」
「僕が事の発端ですけどね」
「私の味方ですよね?」
「あ、はい」
「再生機能でもあるのかい?」
「あ、はい」
「乗らなくていいですよ、葵さん」
「あ、はい」
「……」
アイリスの視線が一気に冷たくなったので、流石にこのくらいにしておいた方がいいだろう。夏の夜はまだまだ暑いはずなのに、何となく空気が冷えているように感じられた。
「そんなことを言ってる葵さんですけど、さっきのお願いがありますもんね?」
「お願い?」
初めて耳にするであろう言葉に、レティシアが不思議そうにしながら聞き返す。
「うん。私に嫌われませんようにって」
「……。……そうなの?」
「実際にはしてませんけどね。候補の一つって話です」
「そう……」
その願いを聞いたアーロンが口を挟まないのも、レティシアの歯切れが悪いのも、どちらもその願いの意味を知っているからだろう。この場で知らないのはアイリスだけである。
「そのお願い、むしろあなたがするべきものじゃない?」
「なんっ……!? なんでっ!?」
深く突っ込まれると厄介なことになりそうな予感がしていたが、話題の矛先がアイリスに向いたことでひとまず安心する。あるいは、レティシアがわざと逸らしてくれたのかもしれないが。
とにかく、ある程度落ち着いて会話ができそうになったところで、アイリスの異様な慌て方が気になった。
「アイリスさん?」
「はい!?」
「何かそんなに慌てることでもありました?」
「ありませんけどっ!?」
全力で否定するアイリス。本人は何とか誤魔化そうとしているのかもしれないが、こうなった時のアイリスは何かを隠すのが致命的なまでに下手になる。今も、誰が見ても隠し事があると分かる程に目を泳がせていた。
「アイリス」
「な、なに……?」
「何か隠してるわね?」
「何も……?」
「ま、もう分かったからいいけど」
「嘘!?」
そんなに驚いていると、「隠し事をしています」と白状しているようなものなのだが、当の本人はそれどころではないらしい。何の手掛かりもなかったはずなのに、心の内をあっさり看破されたかもしれないとなれば、それも仕方のないことなのだろうが。
自分に聞こえないようにという配慮なのか、アイリスの耳元に口を近付けて、何事かを囁くレティシア。囁かれたアイリスの方はといえば、信じられないといった様子で少しだけ目を見開いていた。
「どう?」
「……当たり」
「やっぱり」
どうやら、レティシアの推測は正しかったようである。母親だからという以上に、そもそも素晴らしく勘が鋭いのだろう。
「私達の娘、可愛いと思わない?」
推測が当たって嬉しいのか、やたらと上機嫌なレティシアにそう問いかけられる。
「可愛いのは間違いないと思いますよ」
「だって。よかったわね?」
「何これぇ……?」
今この瞬間の思いがアイリスと一致する。レティシアは一体何がしたかったのだろうか。その答えは、レティシアのみが知る。
「ほら、立ち話はこのくらいにしておいて、そろそろ移動しようか」
話に一区切りついたタイミングを見計らって、アーロンがそう切り出す。夕食の時間をとうに過ぎたこの時間に移動するとなれば、目的は一つである。
「あれ? もう花火の時間?」
アイリスもそのことを分かっているようで、当然のようにその単語が口から出てきた。
毎年恒例の打ち上げ花火。規模こそ町のお祭りに見合った程度のものだが、それでも多くの人を集める、この夏祭りにおける一番大きなイベントだった。
「あと二十分くらいだね」
そう言われて近くの時計を見てみれば、時刻は既に午後七時四十分を回っている。今から移動して四人揃って腰を下ろせる場所を探していれば、ちょうどいい時間になりそうだった。
「もうそんなに……」
「意外とあっという間でしたね」
「ですね。早く行かないといい場所がなくなっちゃいますし、行きましょうか」
「アイリスさんは特に見えなくなりますもんね」
「花火は小さくても見えますもん!」
「小さいって認めましたね」
「小さくないですもん!」
これまで通りに差し出した手を、これまでで一番勢いよく取られる。ほんの僅かにだけ、手を打ち鳴らしたような音がした。鳥居の外でそんな音がして、神様も随分と困っていることだろう。
花火がよく見える河川敷までは、ここから歩いて五分程。言う程急いで行かなくても、そこまで問題はないだろう。そんな自分の思いとは裏腹に、既に歩き出したアイリスに腕を引かれる形で足を踏み出す。
「自然に繋ぐんだね」
一歩遅れて歩き出し、そして自分達の横に並んだアーロンがそう口にする。穏やかな眼差しは、アイリスと自分の手に注がれていた。
「親の前なのに」
対して、レティシアはにこにこと笑いながら。当然と言うべきなのか何なのか、反応したのはアイリスだった。
「あ……」
指摘を受けて、徐々に顔が赤くなっていく。これまでは見知った相手がいなかったこともあり、繋ぎ始めのように意識することはなくなっていたようだが、流石に親の前はまだ恥ずかしかったらしい。
アイリスの視線が、繋がれた手と自分の顔を何度か往復する。離すかどうか迷っていることを表すかのように、手の力が弱まったり強くなったりを繰り返していた。
「……そ、そうだけど、何?」
結局、繋いだままにする方に軍配が上がった。赤い顔のまま、どこか上擦った声で反論するアイリス。
「下駄に履き慣れてないからって、葵さんからだもん」
「アイリスさんが、転びかけたからですよね」
まるで自分から望んだかのような言い方である。別にそれでも構わないと言えば構わないのだが、一応訂正だけはしておく。
「やっぱり面倒を見てもらってたのね」
「やっぱりって何?」
「そのままの意味」
「……何かもやもやする」
不満そうに小さく呟くアイリスだが、それでもその手は離れない。つい先程まで迷っていたのが嘘のように思えてしまう程、しっかりと力が込められたままである。
そんなアイリスと歩幅を合わせながら角を曲がると、正面に土手が見えてきた。あれを越えれば、花火会場の河川敷。今日の最後を彩る花火が、もうすぐそこまで迫っていた。
「思ったより混んでないですね」
「有名な花火大会ってわけでもないですから」
四人揃って河川敷に腰を下ろしてからの、アイリスの感想がそれだった。
その言葉に釣られて周囲を見渡しても、混雑がそこまでひどいという印象は抱かなかった。どうやら、夏祭りに来ていた人が全員集まっている訳ではないようで、ある程度落ち着いて見られるという意味ではありがたい混雑具合である。
恐らくだが、ここからでなくても十分近くから見られるということで、夏祭りの会場に残っている人も多いのだろう。
「その分、ゆっくりできるってことで」
「それもそうですね。座って見られるのはありがたいです。……何か考えましたか?」
「何も?」
少しだけ謎の間を空けてから、疑うような視線をアイリスが向けてくる。ただ、今の自分は誓って何も考えていなかった。そう言われてからであれば、余計な考えが頭の中を駆け巡ったが。
そんな他愛のない話を続けているうちに、いつの間にか開始時刻になっていたらしい。やや離れた場所から何かが空気を裂く音がしたかと思えば、続いて空高くで爆発音が鳴り響く。
晴れ渡って星が瞬くキャンバスに、真っ赤な大輪の花が咲いた。
「……っ」
最初の一発ということで、不意打ちの形になってしまったアイリスの肩が小さく跳ねた。その様子が少しだけ気になって、横目でその表情を窺う。
同じ驚きでも、ホラー会の時とは全く違う表情だった。散っていく光を受けて輝くその顔は、わくわくして仕方がないといったような、とても無邪気なもの。これまで色々な表情を見せてくれたが、その中でも特に目を奪われる表情である。
「……」
飾り気のある言葉など何も思い浮かばず、ただ素直に可愛いとだけ考えながら、これ以上見ているとおかしな気持ちになりそうで、そっと夜空に視線を戻す。
最初の一発を皮切りに、大小様々、色とりどりの光の花が咲き誇る。一瞬だけ強烈な存在感を放ち、次の瞬間には小さな光となって消えていく。個人的には、その儚さが花火の一番好きなところだった。
落ちていく光を目で追いかけるのを何度か繰り返した頃。隣でひたすら花火を楽しんでいたアイリスから、小さく声が漏れ出した。
「よく、花火のことを『大輪の花』って言いますけど」
「はい?」
夜空で響く爆発音と、それに合わせて上がる歓声の中、その声だけは何よりもはっきりと耳に届く。
「私達もお花みたいなものですよね」
「……」
「……」
アイリスと自分の周囲にだけ、痛い程の沈黙が広がった。
「……どうしました?」
「……忘れてください。変な気分になりました……」
これまでとは違って俯いて顔を隠してしまったアイリスにとっては、届かない方がよかった言葉なのかもしれなかった。
恐らく名前のことを言っているのだろうとは分かったが、何故花火と同列に語ったのかは分からなかった。本人曰く、変な気分のせいとのことだが、感傷的な気分にでもなったのだろうか。
「いや、何回か擦ろうと思います」
「許してくださいぃ……!」
せっかく花火が打ち上がっているのに、アイリスは未だに俯いて顔を隠したまま。先程までその顔を様々な色に彩っていた光は、今は菜の花色と混ざり合うだけ。
「あ、ほら、また花が咲きましたよ」
「擦るのが早いぃ……!」
俯きからは復活したが、その視線の向かう先は夜空ではなく自分。空いていた左手で思いきり肩を揺さぶられ、丸かったはずの花火が輪郭を僅かに崩しながら自分の目に飛び込んでくる。
揺れる視界の中、アイリスの肩越しにアーロンとレティシアが自分達を見て笑っているのに気付く。花火を見に来たというのに、家族三人、誰一人として夜空を見上げていなかった。
「ほぁー……!」
隣から気の抜けるような声を聞きながら、夜空を見上げる。盛大に咲き乱れる大輪の花が、数多の色で観客の目を焼いていた。
俗に言うスターマイン。これまでとは比較にならない程の勢いで、多種多様な花火が打ち上がっている。アイリスの視線も自分の視線も、あちらへこちらへとにかく忙しい。
「はー……!」
漏れ聞こえてくる声が間延びしたものばかりで、思わず花火よりも気になって目を向けてしまう。
謎の「私達もお花」発言から立ち直ったアイリスが、一切よそ見をすることなく花火を見上げていた。間延びした声の原因は、小さく開きっぱなしになっている口。そこから数秒に一回、実に楽しそうな声が漏れ出していた。
そんな様子に僅かに口元を緩ませつつ、再び花火に視線を戻す。
まさにその瞬間、最後の輝きと言わんばかりに今日一番の密度で打ち上がった花火が一斉に花開き、夜空を埋め尽くした。あまりにも強烈な光に、瞬いていた星々が一瞬で姿を眩ましてしまう。今この瞬間は、咲き誇る光の花が何よりも夜空の主役だった。
だが、その時間はそう長くは続かない。やがて光は小さくなり、揺らぎながら地上へと落ちていく。追加で打ち上がる音もない。人が生み出した光が夜空の主役を務めた時間は、こうして終わりを告げた。
見上げる先で、主役の座を取り戻した星々が再び瞬き始める。
「綺麗でしたね!」
興奮冷めやらないといった様子で、アイリスがそう感想を口にする。その瞳は、今しがた咲いていた光の花にも劣らない程に輝いていた。
「やっぱり、近くで落ち着いて見るのが一番ですね」
「ですよねっ!」
「あとは、花発言で一瞬頭を悩ませなければ完璧でした」
「忘れてくださいって!」
もう花火は打ち上がっていないのに、アイリスの顔がぱっと赤く色付く。自分以外の誰も見ていない今日最後の花火は、瑠璃色と菜の花色を背景にした花火だった。
「分かりました。忘れるように頑張りますから」
「努力しないと忘れられないようなことでした?」
「それなりには」
「う……。あの時は気分が盛り上がっちゃったんですよ……」
「そういう時こそ、発言には気を付けましょうね」
「とってもよく分かりました……!」
そう言って落胆するアイリスの手を引いて、ゆっくりと立ち上がる。しばらく座っていたこと、斜めになった河川敷、そして履き慣れない下駄。三つが合わされば、この後何が起こるかなど容易に想像ができる。
「わっ……!」
案の定バランスを崩したアイリスの肩を、空いた右手でそっと支える。これでもう転ぶことはないはずだ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。さっきもこんなことをした気がしますけど」
「記憶にありません」
悪びれることもなく誤魔化すアイリスの手を引いて、今度こそ河川敷を上る。向かう先では、アーロンとレティシアがこちらを振り返って立ち止まっていた。
「葵さん」
足元を確かめるようにして隣を歩くアイリスから、ともすれば喧騒に掻き消されてしまいそうな程に小さな声で呼びかけられる。
「はい?」
特に何も考えず目を向けたところで、何よりも綺麗な瑠璃色の瞳が自分を見ていることに気付く。
「お祭り、来年も一緒に来ましょうね」
今日一番の、とびきりの笑顔。断るという選択など、一瞬たりとも思い浮かばなかった。
「もちろんです」
こうして。
ある意味では初めてその楽しさを経験した夏祭りは、ずっと先の約束と、左手を包む温かさを残して終わりを迎えたのだった。




