40. 変わりゆく心 (2)
「いいですか? 確かにもうすぐ葵さんの方が一つ年上になりますけど、それでも一歳しか違わないんですよ」
次に立ち寄る屋台を探しながら二人で歩く中、ひたすらアイリスの説教が続いていた。どうやら、今回の怒りは持続型らしい。
人差し指を一本立てて揺らしているのは、説教をする時の仕草なのか、それとも一歳を表しているのか。
「ちゃんと聞いてるんですか? 葵さん?」
そんなことを考えていると、アイリスからそんな確認が入る。一瞬余計なことを考えたタイミングでの、そんな問い。自分の心の内を見透かしたかのような振る舞いだが、覚でもないので、単なる偶然だろう。
「聞いてますよ。もうすぐ僕の誕生日って話ですよね」
「違わないですけどっ。今はそういうお話じゃないんですよっ」
完全に否定する訳でもなく、一応は認めてくれている。怒るのに向いていないと言うべきか、とにかく優しいのは間違いなかった。
「葵さんはいつになったら、私を子供扱いするのをやめるのかってお話でっ……!?」
「大丈夫ですか?」
話に夢中になり過ぎたのか、はたまた単に下駄を履き慣れていないからなのか。足元のバランスを崩したアイリスの体が、僅かに前に傾く。
咄嗟にその腕を取ったことと、そもそも転びそうになる程ではなかったこともあって、すぐに元の体勢に戻った。
「ありがとうございます。助かりました」
「どういたしまして。やっぱり履き慣れませんか?」
これまでの流れは一旦置いておいて、小さく頭を下げるアイリス。そんなアイリスの足元を指差しながら問う。
「そうですね……。ちょっと違和感はあります」
「普段履かないなら当たり前ですよね。僕もちょっと意識はしてますし」
「葵さんもですか? 何となく意外ですね」
「そんな意外なことってあります?」
現代に生きていて下駄を履く機会など、そうそうあるものではない。そう思えば、誰だって慣れていないという結論に至りそうなものだが。果たして、アイリスは自分にどんなイメージを持っているのだろうか。
「葵さん、そういう意外なものに強そうなので」
「それにしたって下駄ですよ?」
以前に運動が若干苦手という話はしたはずだ。そんな人間が、いきなり慣れない履物を履いて普段通りに動ける訳などない。
「それよりも」
「え?」
そんな不思議なイメージを抱くアイリスに左手を差し出す。その意図を理解できなかったらしいアイリスの視線が、手と顔の間を何度か往復していた。
「繋げば、少しくらいバランスを崩しても転ばないですよね?」
「それは……、そう、ですけど……」
意図を伝えても、纏う雰囲気が微かに変わっただけで、手が繋がれることはない。
「嫌ならいいですけど」
「嫌なんかじゃないですっ!」
「おぉ……」
そうかと思えば、唐突に勢いを増したアイリスに圧倒される。無意識に体が仰け反ってしまった。
「それじゃあ、失礼します……」
勢いを増したと思ったが、それも一時的なものだったらしい。おずおずと右手を差し出してくるアイリスは、あまり見ることができないしおらしさだった。
そうして触れたアイリスの手は温かく、見た目の印象よりも小さく感じた。そして何より、骨ばった男の手とは違って、不思議なくらいに柔らかい。
「そんなに畏まらなくても」
「いや、畏まるとか、そういうことじゃなくてですね……?」
「だったら何だって言うんですか」
「はぁ……。葵さんはそうですよね」
ため息まで吐くアイリスは、明らかに呆れたような顔をしていた。生憎、自分も覚ではないので、その心を読むことはできない。
「もういいです。ほら、行きましょう」
そして、何かを諦められたまま手を引かれる。その手に導かれるままに、アイリスの隣に並んで歩幅を合わせる。
「とりあえず、これでアイリスさんの利き手は封じましたね」
「発想が物騒過ぎません? 何をするつもりですか」
「別に何も」
「後輩の女の子と手を繋いで、最初に考えることがそれですか?」
じっとりとした眼差しを向けられたところで、アイリスが何を考え、何を迷っていたのかをようやく理解する。
「それで少し躊躇ってたんですか」
「少しも躊躇わない葵さんがおかしいんですよ」
「手を繋ぐくらいで何を」
何を考えていたかは理解したが、その心情は理解できない。これまで散々子供達相手にしてきた行動に、はぐれないように、転ばないようにという意味以上のものは見出すことができなかった。
「何回子供達を連れてこのお祭りに来たと思ってるんですか」
「子供達?」
「ん?」
てっきり、また子供扱いされて怒り出すものと思っていたが、予想していた反応とは違ったものがアイリスから返ってきた。自分が何を言っているのか分からなかったのか、届いた声は疑問の色を含んでいる。
「何のお話ですか?」
「あれ。話したことってありませんでしたっけ?」
「何をですか?」
お互いに決定的な言葉を口にしないせいで、会話にすれ違いが発生している。この四か月での関わりが多過ぎて、何を話したのか、何を話したことがないのか、それすらもよく分からなくなっていた。
「十歳頃から中学を卒業するまで施設で育ったって話、しませんでしたっけ?」
「そういえば、前にそんなことも……」
「あ、やっぱり話してたんですね」
「ですね。……あれ? じゃあ……」
そうしてすれ違いを解消する中で、以前は辿り着かなかったところに、今回は辿り着いてしまったらしい。アイリスの動きが若干鈍くなり、微かに揺れる瑠璃色の瞳が自分を捉える。
自分の家族について考えていることなど、手に取るように分かる。この手の話題ではお決まりの流れだ。
「……」
そして、そのまま黙り込むのもお決まりの流れ。咄嗟に言葉が出てくるような話題ではないことは理解している。
複雑な感情が渦巻く心の内を表すかのように、アイリスの視線が揺れ動く。繋がれた左手には、少しだけ力が込められた。
「あの……」
「いや、これは僕が悪かったです。こんなところで話すようなことじゃありませんでした」
何かを言いかけたアイリスを遮って、謝罪の言葉を口にする。話の流れがそうなってしまったからではあるが、どう考えても夏祭りを楽しもうとしている今話すことではなかった。いつも通り、「色々」で流せばそれで済んだ話だ。
現に、気分が高揚していたはずのアイリスの顔が、今ではすっかり泣き出しそうなものに変わってしまっている。言ってしまえばアイリスには何の関係もない話なのに、随分と優しいことだ。
「でも……、何も知らなくて……」
「せい」
「いだいっ!?」
アイリスが謝る必要などどこにもないというのに、何故か謝ろうとしてきた。なので、左手にアイリス以上の力を込めてその口を封じてみた。
大して筋肉の付いていない、利き手とは反対の腕。その握力など、自分でも情けなくなる程度しかないが、流石にアイリスよりはある。その証拠に、突然の圧力によってアイリスが悲鳴を上げる。
「何をするんですか!?」
不意打ちがよほど効いたのか、それとも、その前に浮かべた涙なのか。どちらにせよ、涙目なことには変わりなかった。
勢いよく迫ってくるアイリスに、今は沈んだ様子など見られない。
「意味もなく謝ろうとしたからです」
「だって……!」
「これが気にしてる人の顔に見えますか」
そう言いながらアイリスの瞳を見つめる。鏡がある訳でもないので自分がどんな表情をしているのかは分からないが、一応は普段通りの表情でしかないはずだ。
「いつも通りの葵さんにしか見えません」
「じゃあ、それが答えです」
「でも……」
「せい」
「いだぁ!?」
再び力を込める。そんな雰囲気になればこうなると、先程の一回で分かっているはずなのに、それでも気にするのがやめられないらしい。
「本人が気にしてないのに、アイリスさんが気にしてどうするんですか」
「だから……! あっ……!」
「……」
「いたっ……くない!?」
「せい」
「いっ……!?」
三度目。ただただ左手に力を込めるだけでは芸がないので、今度は緩急をつけてみた。望んだ通り、実にいい反応をしてくれるアイリスである。
「一人時間差攻撃です」
「バレーボール……!」
「ちなみに、まだ利き手の右手が残っています」
牽制するように利き手を持ち上げて、さらに軽く振ってみる。三度にも渡る不意打ちの効果が出ているのか、たったそれだけでアイリスの気持ちは元に戻ったようだった。
「分かりました! もう気にしませんから!」
「本当ですね?」
「ほんとです! わたし、うそつかない!」
「嘘っぽさ全開ですよ」
その全力の否定を見る限り、本心には違いないのだろう。だが、如何せんその言葉は怪し過ぎる。
「とにかく、気にするのは禁止です」
「もぉー……。普通にそう言ってくれたらよかったじゃないですか……」
「言ったじゃないですか」
「そうですけど……っ!? 右手はだめですって!」
右手を掲げてみせるだけで、簡単にアイリスが引き下がる。本当に便利なものだ。
関係ない話ではあるが、右手の握力も大したことはない。
「余計なことを気にされて、アイリスさんの態度が変わるのは嫌ですからね」
「変わりません!」
「いっ……!?」
「あ、ごめんなさい」
「いえ……」
何がそんなに気に入らなかったのか、語気が強くなったと同時に、今度はアイリスの右手に力が入る。あまり力が強くないのは予想通りだったが、妙な方向に力が加わったらしく、思わず声が出てしまう程度には痛みは予想を上回っていた。
そんな様子を見て、アイリス本人も無意識に力が入ってしまったことに気付いたようで、一瞬後にその力が抜けていく。
「葵さんが何を考えてるのかは分からないですけど、私の態度は絶対に変わらないですからね」
「……」
驚いたように謝った後の、力強い宣言。その思いを示すかのように、瑠璃色の瞳は逸らされることがなかった。真っ直ぐな視線に、自分の方が耐えられずに顔を背けてしまう。
「……それはありがたいですけど」
「あ! 照れてますか!?」
その途端、アイリスから嬉しそうな声が上がる。
「照れてません」
「嘘ですねっ! 顔が赤いですもん!」
「屋台の提灯のせいじゃないですか?」
「近くに提灯なんてありませんよ?」
「……」
本当になかった。
「照れてますよね?」
「……はい」
つまり、認めるより他なかった。
「そうですか、そうですか」
「……何ですか」
嬉しそうな様子そのままに、何故か何度も頷くアイリス。一体何を納得しているのか知らないが、自分にとっては恥ずかしい何かを考えていることだけは間違いない。
「葵さんも可愛いところがありますね。あ、いや、普段から可愛いんですけど」
「アイリスさん程じゃありませんよ」
「うぇ!?」
案の定そんなようなことを考えていたらしいので、どうにかそこに反撃の糸口を見出す。照れたのは認めるしかなかったが、だからと言って、やられっぱなしなのは性に合わない。
「なんっ……!?」
「初めて会った時から、可愛くない時がないですよね」
「あぅ……」
「あ、いや、僕を女装させようとする時は可愛くなかったです」
「褒めるなら最後まで褒めてくださいよ」
うっかり漏らしてしまった余計な発言で、頬を赤くして照れていたアイリスが瞬時に元に戻ってしまった。作戦失敗である。
「……ちょっとどきどきして損しました」
「少しはしたんですね」
「してません」
「顔が赤いですよ」
「提灯のせいじゃないですか?」
「近くに……、ありますね」
今度はあった。
「提灯のせいです」
「じゃあ、提灯がなくなるところまで褒め続けます」
「どきどきしました。だから許してください……!」
危うく押しきられるところだったが、何とか引き分けにまで持ち込む。もしこれで本当に褒め続けることになっていれば、自分にも甚大なダメージを残すことになったはずなので、アイリスが引いてくれて本当に助かった。
「……それで」
「何ですか? まだやるつもりですか?」
「違いますって。真面目なお話ですから」
「真面目な話?」
こんな流れで真面目な話などできるのだろうか。逸れに逸れていた話は、真面目とは正反対の方向に直進していたような気もするが。
そんな思いとは裏腹に、そう言うアイリスの顔は真剣そのもの。しっかりと自分のことを見据えている。
「子供達と一緒に来たってことは……」
「まぁ、引率係ですよね。流石に中学に入った辺りからですけど」
「ですよね。何となくそんな気はしてました」
その言葉に、ここ数年の夏の記憶が蘇る。中学に上がってからの三年間、どの年も大変だったが、中学三年生だった二年前が輪をかけて大変だった。
「……」
「表情が消えましたよ」
今になって思い返してみれば、間違いなくいい思い出ではある。それでも、思い出す自分の顔からは表情が消えてしまったらしい。今の自分の感情がどんなものなのか、そんなことも分からない。
「子供達の引率って、大変なんだなって……」
「何があったんですか」
「子供達って、元気なんだなって……」
「葵さん?」
何かを思い出して呟く度に、よく分からない感情が一つ一つ抜け落ちていく気がした。蘇る記憶の中で、祭りを楽しんだという記憶はない。あるのは、とにかく振り回された記憶だけである。
「アイリスさんは体験したことあります?」
「何をです?」
「小学校低学年くらいの子供五人に、色々言われるわけですよ」
「はぁ……?」
不思議そうにしているアイリスに尋ねてみても、あまりはっきりとした返事は得られない。その場面を上手く想像できていないのか、曖昧な言葉を口にして、微かに首を傾げるだけ。
「あの屋台に行きたい、私はあっちがいい、あの玩具取って、お腹空いた、疲れたから抱っこ、おんぶ」
「あー……」
そこまで言えば流石に何を言いたかったのか理解したらしく、アイリスがその顔に苦笑いを浮かべる。心なしか、その目が当時の自分を労わってくれているように見えた。
「まるでアイリスさんみたいに」
「誰が小学校低学年ですか」
今の自分は労わってくれなかった。
「そんなに言うなら、私も抱っこしてもらいますよ」
「この細腕を見て、それでも同じことを言えるんですか?」
「気合いでどうにかしてください」
「それならまだおんぶの方が楽です」
相手の体重を背中でも支えられる分、まだ多少は力も分散する。とはいえ、おんぶにも欠点はあった。
「子供達をおんぶしたら、髪の毛をぐしゃぐしゃにされるんですけどね」
「ずるいですっ!」
「何がですか」
その欠点を口にした瞬間、手を繋いだままのアイリスが一歩分だけぐいっと近付いてきた。縮まってしまった距離を取り戻すように半歩分だけずれながら、そう問い返す。
「私だってやってみたいです!」
「つまり、アイリスさんは小学校低学年と」
「やっぱり、そういうのは子供の特権ですよね。流石に私くらいになると、もうそういうのは卒業しましたから」
「手首が捩じ切れてそうですね」
見事なまでの手の平返しである。アイリスの手首が心配になる程だった。
「ま、まぁ、おんぶはちょっとハードルが高いので、私も恥ずかしいですけど……」
「この歳で抱っこも大概ですよ」
そこにあまり大差はない。する方もされる方も、それなりの覚悟を要求される。自分達はまだまだ十代ではあるが、もうそこまで無邪気な歳でもないのだ。
「ですよね……。ちょっとおかしなことを言いました……。あはは……」
抱っこかおんぶをされる想像でもしてしまったのか、恥ずかしそうに掻いているその頬は、はっきりと赤く染まっている。今度は提灯のせいなどと誤魔化せる濃さではなかった。
「そんなわけで、とにかく面倒を見るのが大変なんですよ。少し目を離すと、すぐにどこかに行こうとしますし」
「あ、それは私も心当たりがあります」
「アイリスさんも?」
納得するように頷きながらの意外な一言。どちらかと言えば、アイリスは面倒を見られる側のイメージが強かっただけに、そんな言葉が返ってくるとは思ってもいなかった。
「私も、すぐにいろんなところに行っちゃう子供でした」
「……」
イメージ通りだった。
「どうかしました?」
「いえ、何でも」
納得する場所が違うと、視線にそんな意味を込めてみても、上手く伝わることもなく空振りに終わってしまった。この四か月間、ほとんど毎日のように顔を合わせていても、流石にそこまでのことができるまでにはなっていなかった。
「葵さんは小さい頃から落ち着いてそうですよね」
「そうですか? あんまり覚えてはないですけど」
「絶対にそうです。はしゃいでる葵さんなんて、私には想像できないですもん」
「アイリスさんに見せたことがないだけですよ。……多分」
「自分でも自信がないんですね」
きっと、自分にもそんな時期はあったはずだ。抱っこにもおんぶにも、何の覚悟もいらなかった無邪気な時期が。
仮にあったとしても、アイリスに見せるつもりなど微塵もないが。何を言われるか分かったものではない。
「でも、そういう意味で言ったら、葵さんの子供も落ち着いた子供になりそうですよね」
「いきなりどうしました?」
そんなことを考えていたタイミングで、小さく笑っていたアイリスが話題を一気に変える。一体何がどう繋がってその考えに至ったのだろうか。
「そもそも相手もいないのに」
「そういうお話はいいんですよ。どうせ想像のお話なんですから」
「はぁ……?」
「落ち着いた子ですし、絶対に可愛いですよね……!」
随分とうっとりとした表情で呟くアイリスだが、個人的には何か引っかかる部分があった。違和感と呼ぶにはやや小さいが、無視して話を進めるには気になってしまうような、そんな引っかかりである。
「……その可愛いは」
「女の子だったらそのままの意味ですし、男の子でもそのままの意味です」
「分ける意味ってありました?」
両方同じだった。恐らくは子供特有の可愛さと言いたいのだろう。そうであってほしい。
「私の子供はどうなるんでしょうね?」
「どうって、何がです?」
「ほら、髪の色とか目の色とか」
「あぁ……」
深掘りしたくない話題から逃げるためではないが、確かにそれは気になるところであった。レティシアとアイリスの親子を見る限りは、菜の花色と瑠璃色の遺伝が強いように思える。そうなれば、アイリスの子供とやらも同じなのだろうか。
「相手次第でしょうね」
「ですよね。茶色系なんかは強いとかって言いますもんね」
とはいえ、それも確実ではない。アイリスもそれは分かっているようで、目の前にある茶色系の髪をちらちらと見ながら、そんなことを口にする。
「それも聞いたことはありますけど、絶対じゃないみたいですよ」
「へぇ……」
何かを考え込むように小さく声を漏らしたきり、アイリスが無言になる。たったそれだけのことなのに、途端に周囲の喧噪が大きくなったような気がした。
それからやや間を空けて、アイリスが再起動する。
「あ、ごめんなさい。考え事をしてました」
「別に気にしてませんよ。それより、次はどうします?」
すっかり夏祭りの話から遠ざかっていたが、まだたこ焼きの屋台にしか立ち寄っていない。周囲に様々な種類の屋台が揃っている今は、そろそろ次の目的地を定めてもいい頃合いだった。
「そうですね……。さっきは食べ物系でしたし、今度は何か遊べるところがいいかもしれないです」
「じゃあ、何か適当に探してみますか」
「ですね。行きましょうか」
次の目的地を何となく決め、揃って辺りを見回す。あの話題で流れかけた気まずい雰囲気は、今はもうどこにも残っていなかった。
弾けるような、乾いた音がした。見た目から想像するよりも随分と軽い音である。飛んでいったもの以外にも、そんなところであくまでも玩具なのだと実感する。
「あぁ……!」
次いで、アイリスの情けない声も聞こえた。先程から、この二つの音がセットで隣から聞こえていた。
大きく身を乗り出し、さらに右腕を可能な限り前に伸ばしているその姿勢は、どう考えても日常で見られる姿ではない。夏祭りの、この屋台ならではのものと言ってもいいだろう。そのアイリスの手には、やや古めかしい見た目の玩具の銃。「ぱんっ」という音と共に飛んでいったのは、小さくて軽いコルク玉。
たこ焼きの次に選んだ屋台は、射的の屋台なのだった。
「一発も当たってないじゃないですか」
「まだ弾は残ってますもん」
残念そうな表情のまま姿勢を戻したアイリスの言う通り、残りのコルク玉の数は二つ。可能性だけで言えば、確かに当たることもあるのかもしれない。
けれども、身を乗り出す性質上、やはり身長の影響が大きい。小柄なアイリスがいくら身を乗り出したところで、そして右腕を伸ばしたところで、銃口から景品までの距離は遠いまま。さらに、不安定な姿勢の分、その銃口も安定しない。これでは、当たることに期待する方が酷というものだった。
「そもそも、葵さんは一発も当たらなかったじゃないですか」
「僕は最初に苦手って言っておきましたし」
「ほんとだとは思いませんでしたっと!」
無謀にも、会話しながらの射撃に挑戦したアイリス。そうして放たれた弾は、狙いの景品の角を掠めて飛んでいった。何故今の一射が一番惜しいのだろうか。
「あぁ!」
「残念。当たっても落ちなきゃだめ」
悔しそうに声を上げるアイリスに、店主の無慈悲な言葉が突き刺さる。射的の例に漏れず、この屋台でも倒しただけでは景品は手に入らない。棚から落とす必要があるのだった。
実際に挑戦するとなればもどかしいルールだが、横から見ている分には関係ない。宿泊学習の時のように何かが賭けられている訳でもないので、全弾外した後でも、とても気楽に観戦することができている。
「これで最後……、これで最後……」
ほんの数分前の苦い記憶を思い出していると、アイリスがそう小さく呟いているのが聞こえた。一番惜しかった今の一発とは違い、最後の一発は集中して放つことに決めたらしい。その横顔からも、アイリスの真剣さが伝わってくる。
「……。……!」
じっくり集中して狙いを定め、そして最後のコルク玉を放つ。微かに放物線を描いたコルク玉は、見事に景品の中心に直撃した。
「あっ!」
だが、直撃しただけ。思わず声を漏らしたアイリスの視線の先で、件の景品は倒れることもなく、棚の上に鎮座していた。
「はい、残念だったね」
「むぁー……」
店主が言う通り、これでアイリスも景品が獲得できなかったという結果が確定した。不満そうに頬を膨らませても、その結果が変わることはない。
「景品なしの気分はどうですか?」
「葵さんが知ってる通りです」
「それにしては随分悔しそうですけど」
「葵さんと違って、私は当てましたからね。あとちょっとだったんです」
それでも、アイリスからすれば勝負には勝ったらしい。やはり、倒れずとも、コルク玉を当てたという点が大きいのだろうか。
玩具の銃を片付けるアイリスを見ながらそんな話をしていると、これまでにこにこ笑って自分達の様子を眺めていた店主から、予想もしていない一言をかけられた。
「これ、持っていって」
そうして差し出されたのは、アイリスが最後に命中させたお菓子の箱。六粒入りのキャラメルの箱だった。
「え……? いいんですか?」
その言葉が予想外だったのはアイリスも同じようで、驚いた様子で店主を見つめている。すぐに受け取らなかった辺り、まだ遠慮の気持ちが強いのか。
「いいっていいって。やたら悔しそうにしてたし、一応は当たったから」
「ありがとうございます!」
だが、さらに押されてしまえば、もう受け取らないという選択肢はない。店主がかなりの高齢なのも相まって、アイリスが甘やかされる孫のように見えてしまったのはここだけの話である。
「あとは、その可愛さに免じて」
「聞きました? 葵さん?」
店主に言われたはずなのに、何故かアイリスが自分の方を向く。満面の笑みとはまさにこのことと言わんばかりの表情だった。
「聞きましたけど、だから何です?」
「何か思うことはないんですか?」
「別に何も」
「……ふーん。そうですか」
受け答えの何かが不正解だったらしい。笑みはその身を潜め、代わりに再び不満顔の出番となった。アイリスの背後で店主が苦笑いをしている。
「ちなみに、どれだけ不満そうな顔をしても、おまけは一つだけ。……何となくおまけをあげたくなる顔をしてるけど」
「嬉しくないです」
「ま、そもそも一発も掠ってないんじゃ、おまけのしようもないってね」
「放っておいてください」
望んでもいないおまけを巡って、どうしてここまで言われなければならないのだろうか。さらに、無言で左手を握ってきたアイリスの手には、何故か先程よりも力が入っているような気もして、さながら二人の敵に挟まれている気分だった。
「見せつけてくれちゃって」
「想像してるのとは違うと思いますよ」
「その見た目で?」
「子守みたいなものです」
やたらと突っ込んでくる店主に引っ張られて、言わなくてもよかったはずの迂闊な言葉が口から漏れる。孫のように可愛がられているのは、自分も同じだったのかもしれない。
「葵さん? どういう意味です?」
そして、隣で黙って話を聞いていたアイリスが、その失言を聞き逃す訳もない。真顔での問いかけが、どこか不気味な雰囲気を醸し出していた。
「どういう意味も何も、アーロンさんとレティシアさんから預かってるみたいなものじゃないですか」
「それにしたって、すぐそうやって子供扱いして! そんなに小さい子供が好きですか!」
「誤解しか生まない言い方はやめましょうね」
普段は閑散とした商店街だが、今は多くの人で賑わう夏祭りの真っ只中である。比較的大きな声でそんなことを言われると、どこでどんな誤解が発生するか分かったものではない。
現に、視界の端で店主が少し引き気味だった。既に被害が出始めている。
「違いますからね?」
「分かってる。うん、大丈夫だから」
一応釈明をしておくが、店主はそう言って頷くのみ。本当に分かっているのだろうか。
「聞いてます? 葵さん?」
「聞いてなかったです」
「そこは嘘でも聞いてたって言うところじゃないですかっ」
「向こうの誤解を訂正するのに忙しかったので」
そう言って店主を示す。今までとはすっかり様子が変わった自分達を見て、どこか困惑気味の表情を浮かべていた。
「いつもこんな感じ?」
「ですね」
「……頑張って」
一体何を悟ったのか、何故か励ましの言葉が飛び出してきた。そして当然、その言葉はアイリスにも届く。
「頑張れってどういうことですか」
「いや、何でもない。そのキャラメルで勘弁」
アイリスの矛先に追加された店主が、手を合わせながら即座に引き下がる。撤退の判断が的確だった。
「ほら、ここで騒ぐのは迷惑になりますから。そろそろ行きますよ」
「さっきも言ったのに、まだ分かってなかったんですね。今日こそは分からせてあげます」
「はいはい、分かりました、分かりました」
「まだ何も言ってないですっ」
営業の邪魔にならないように、そっと屋台の前から移動する。最後に目が合った店主からは、口の動きだけでエールを送られてしまうのだった。
アイリスの機嫌を直すなら、とりあえず甘いもの。ということで、何かないかと探していた時に目に入ったベビーカステラを献上した。
その結果、どうなったのか。
「ほらほら、葵さんもどうぞ」
「ありがとうございます」
献上したはずのベビーカステラのお裾分けまでしてくれる程に、すっかり機嫌が回復していた。甘いもので簡単に扱うことができる辺りも子供っぽい印象を相手に与えていると、アイリスがそう気付く日は来るのだろうか。
考えていても答えは出ないので、意識をアイリスが向けてきたオレンジ色の袋に向ける。
小さくて丸い、ころころした見た目の焼き菓子からは、ふんわりと甘い香りが漂ってくる。まだまだ買ったばかりということもあり、手を近付ければ、その温かさがほんのりと伝わってきた。
そうは言っても、先程のたこ焼きのような熱さでもない。ありがたく一つ頂戴して、そのまま口の中へと放り込む。途端に、ふんわりと香る程度だった甘い香りが程よく強くなる。
「どうです?」
「美味しいです」
「ですよね!」
満足そうに頷きながら、アイリスもさらに一口。アイリスでも一口で頬張れるそのサイズも、手が伸びやすくなる一つの魅力だった。
「これを食べてると、お祭りに来たって感じがしませんか?」
「ですね。言われてみれば、お祭り以外ではまず見かけないですからね」
「ほんとですよね。普段からあってもいいと思うんです」
言葉が途切れたタイミングで、アイリスがさらにもう一口。一つ頬張る度に小さく頬が緩むのが、見ていて面白かった。
「お祭りでしか食べられない物珍しさがいいんじゃないですか?」
「適当に言ってません?」
「適当です」
「やっぱり」
結局、理由はどうであれ、美味しければそれでいい。屋台によっては当たり外れがあるのかもしれないが、今回は大当たりだったのだから、そんなことは関係ない。
「でも、私はたまに食べたくなることがあるので、簡単に買えたら嬉しいです」
けれども、アイリスはどうやら違う考えのようで、そんなことを口にする。その気持ちが理解できないと言えば、それは流石に嘘になる。
「別に、すっごく美味しくて毎日食べたいとはならないですけど、思い出した時に食べたくなりません?」
「まぁ、たまに」
「ですよね。はい」
「どうも」
差し出されたカステラを受け取る。温かくて、甘い。
「そういえば……」
「うん?」
何が面白いのか、自分がカステラを頬張る様子を見つめていたアイリスが、何かを思い出したかのように小さく呟いた。
「どうかしました?」
「葵さんって、お料理が得意でしたよね?」
「得意と言うか、好きなだけですけどね」
「作れたりしません?」
「これを?」
「これを、です」
ベビーカステラを指差しながら問えば、アイリスが袋を持ち上げながら返してくる。これを作った経験のある人など相当限られていそうではあるが、作ったことがあるかないかで言えば。
「作ったことはありますね」
「あるんですか!?」
「何で聞いた本人が驚くんですか」
「いやだって、普通は作らないですって、これ」
尋ねてきたアイリスも、どうやら同じ認識だったらしい。まさか肯定が返ってくるとは思っておらず、つい驚きの声が出てしまったといったところだろう。
「何がどうなって作ろうと思ったんです?」
「僕が作ろうと思ったと言うか、作らされることになったと言うか……」
「んん?」
過去の出来事を思い出しながらの自分の曖昧な呟きに、アイリスが不思議そうな表情を浮かべる。
「子供達ですよ」
「あれ? 喧嘩を売ってます?」
「閉店中です」
かと思えば、あっという間に目付きがやや鋭くなる。「小さい」や「子供」といった類の言葉に、あまりにも敏感過ぎやしないだろうか。先程は自分でも口にしていたというのに。
こてんと首を傾げるその仕草は、本来であれば可愛らしいものだったのかもしれないが、この瞬間においては全く可愛くない。若干の威圧感すら感じられる程だった。
「そうじゃなくて。子供達にせがまれてってことです」
「子供達に、ですか?」
まだ合点がいっていない様子のアイリス。事情が特殊過ぎるので、それも仕方のないことなのかもしれない。
「お祭りの時期に関係なく、子供達が騒ぐわけですよ。おやつにこれが食べたいって」
「だから作った?」
「職員の人と色々調べながら、ですね」
「へぇ……、作れるものなんですね、これ」
「レシピ自体は簡単ですよ。レシピ自体は……」
「あれ? 葵さん?」
そんな話をしていると、どうしても試行錯誤した記憶が浮かび上がってくる。それとは反対に、気分は闇の底へと、深く、深く沈んでいく。
「疲れきった顔をしてますけど、何かあったんですか?」
「作ることはできるんですよね……」
「はぁ……?」
「じゃあ、それが子供達のお眼鏡に適うかと言われたら、別にそうでもなくて……」
「あ」
そこまで話せば、流石にアイリスも何が言いたいのかに気が付いたようだった。
「何回、これじゃないって突き返されたことか……」
「子供って、そういうところは素直ですもんね」
「毎日ベビーカステラのレシピを漁る日々でした」
「うわぁ……」
「おかげさまで、認められる頃には随分と腕も上がりました」
「おかげさまで……?」
言い回しに疑問を覚えたらしいアイリスが、再び首を傾げていた。自分でもこの言い回しはどうかと思うが、こうでも思わないとやっていられない。
「そんなわけで、作ることはできます」
「いつか作ってくださいって言いにくくなっちゃったじゃないですか」
「突き返さないなら」
「しませんって」
「本当に?」
「疑い過ぎじゃないですか?」
食べる前は笑顔だったのに、少し食べては突き返されるという経験を積めば、誰でもこうなる。あの時は心に深い傷を負ったものだ。
とはいえ、それも過去の話。
「まぁ、確かにアイリスさんはそんなことしないでしょうし、ご要望とあらば」
「ぜひぜひ。お願いします」
「確かに。承りました」
「葵さんがいつもより丁寧になっちゃうくらい、美味しく作るのが大変だったんですね」
随分と簡単に話を受けてしまったが、作るのは随分と久しぶりになる。隣で今度こそ労ってくれているアイリスのためにも、少し練習しておいた方がいいのかもしれない。
「でも、そういうお願いが葵さんに来るのって、何か違いませんか?」
「違う?」
「だって、葵さんがお世話係みたいになってるじゃないですか」
「あー……」
自分が頭の中でレシピを思い出す一方、アイリスは一連の話を聞いてそんなことを考えたらしい。内側にいた自分は不思議に思わなくても、事情を知らなければ浮かんで当然の疑問である。
その答えは、実に単純なもので。
「特別な理由なんてないです。単にその時、僕が一番年上だったからですよ」
「中学生くらいで、ですか?」
「ですね。他は小学生とか、それより下ばっかりだったので」
「じゃあ、葵さんが皆のお兄さん的な存在だったわけですね」
軽く頷きながらの、アイリスの言葉。秘密兵器にした割に、その後一切出てこなかった呼び方が、こんなところで顔を出した。だが、言った本人はそんなことには気付いていないようで、何事もなかったかのように言葉が続く。
「あ。じゃあ、葵さんがお世話好きなのって……」
「お世話好き……、なのかどうかは置いておくとして、その辺りがきっかけなのは間違いないです」
「葵お母さん……!」
「お父さんです」
何故、誰も彼も揃って「お母さん」という言葉を口にするのだろうか。やたらときらきらした目で見つめてくるアイリスが言ったとしても、流石にそれは許容できなかった。
「ピンク色のエプロンとかが似合いそうですね!」
「エプロンくらいなら、まぁ……」
そう呟いた瞬間、アイリスの目が一際きらりと光った気がした。それを見てしまって、今の一言が完全に余計なものだったことを悟る。
「言いましたね?」
「言ってません」
「私の耳は、葵さんの言葉を聞き逃しません」
「怖……」
目はきらきらと。それでも口調は真面目に。先日開催したホラー会で見たどの映画よりも、今のアイリスの言葉の方が怖かったかもしれない。もしその言葉が本当なら、もうアイリスの前で迂闊に喋ることもできない。
「狐耳と尻尾をつけた、ピンク色エプロンの男子高校生ウェイトレス」
「地獄みたいな状況ですけど」
要素が多過ぎて、大渋滞を引き起こしている。もっと言うなら、普通は「男子高校生」と「ウェイトレス」は共存し得ない。既に共存させてしまったので、手遅れ感が半端ではないのだが。
「だめですか?」
「しおらしくしても、だめなものはだめです」
「じゃあ、ウェイトレスだけでも!」
「そっちはどうせ着せられます」
「そうでした」
そこに関してはもう諦めている。ウェイター服とウェイトレス服の所有権が太一と柚子にある以上、自分の抵抗にも限界があった。当日は心を無にして乗りきるしかないと、そう理解している。
問題は、その日が毎月いつ来るのか、本人すら知らないところだった。
「なるほど……。ちょっとずつ慣らしていけば……」
「絶対に嫌です」
「そこを何とか!」
狐耳ウェイトレスだけでも要素が多かったのに、それ以上増やされては堪ったものではない。今回ばかりは、いかにアイリスの頼みであっても聞き入れることはできない。
だが、目の前のアイリスもなかなか引く姿勢を見せない。こうなってしまったアイリスを説得するのは、これまでにない程に骨が折れそうだった。




