4. ラピスラズリの煌めき (1)
二年生に進級してから、早くも一週間が経過した月曜日。予想していた通り、この休みの間に桜が満開を迎えていた。期間限定ではあるが、いつもの河川敷が鮮やかな桜色に染まっていて、無意識に見上げるようにして歩いていたのはここだけの話だ。
いつもの電車のいつもの座席からも、時折窓の外を桜が流れていくのが見て取れる。一年の中でも今しか見られない光景ということもあって、やはり目は勝手にそちらへと吸い寄せられてしまう。
花見というものはなかなかできないような生活を送っているが、今年はどうしようかと頭を悩ませているうちに、碧依が乗ってくる駅のホームが見えてきた。
この一週間で見慣れてしまった光景。先週と同じように、ホームで電車を待つ碧依の姿があった。やはり、同じ時間の電車をメインで利用しているのは間違いなさそうだ。
それでも、今日はいつもと違うところがあった。碧依が立っている位置が、先週までと違って自分に近い。このままでは、同じ電車に乗っていることに気付かれてしまうだろう。
そこまで考えたところで、気付かれても特に問題ないことに気が付く。同じ電車に乗っていたからとて、何かがある訳でもなかった。
「……」
電車が減速して停車する寸前、ホームにいる碧依としっかり目が合った。この距離ならば、流石に気付いてもおかしくはない。車内に乗り込んできた碧依が、真っ直ぐこちらに向かってくる。
「おはよう、湊君」
「おはようございます」
「隣、いい?」
「どうぞ」
ありふれた朝の挨拶を交わしてから、隣の席に手の平を向けて促す。制服に跡が付かないようにしながら碧依が隣に座ると、座面のクッションが少しだけ隣に引っ張られた。
「湊君もこっち方向だったんだね。駅も近かったりするのかな?」
「もう何駅か行ったところに折り返しの駅があるんですけど、そこが最寄りですね」
「何駅かってことは、そんなに近くはないか」
「ですね」
この駅から終点の駅までは、十分程度で到着する。取り留めのない話をしていれば、恐らくはすぐだろう。とはいえ、まだお互いのことを詳しく知らないような間柄で、取り留めのない話をするのは難しい。
「そういえば、毎日この時間なんですね」
「え、見られてたの?」
そんな訳で、先週から気になっていたことを尋ねてみたところ、分かりやすく驚いたような反応を見せてくれた。目が若干丸くなっている。
「いつもこの席でぼんやり外を眺めてるので」
「もー、声をかけてくれたらよかったのに」
「わざわざ席を立ってまでっていうのは、流石に不自然かと思って」
「まぁ、それもそうだけど……」
深くも何ともない理由を説明するが、碧依の口は微かに尖って複雑そうな心情を表している。納得はするものの、自身だけが知らなかったことに対して、少し思うところがあるといった様子だった。
「そう言うってことは、湊君もいつもこの電車ってことだよね」
「寝坊しない限り、まずこの電車ですね」
「へぇ。そっかそっか……」
碧依が、どこか含みのある目でこちらを見つめてくる。何か悪いことをした訳でもないのだが、そんな目で見られてしまうと、どうしても罪悪感のような何かが生まれてしまう。
「何ですか?」
「んーん? 何でも?」
明らかに何かを隠しているが、答えは教えてもらえないらしい。とはいえ、何か害のあることを考えていることもないだろう。もしそうだとすれば、こんな風に少しだけ楽しそうに笑うことはないはずだ。
その後も二人で会話を交わしていると、予想通りあっという間に終点の駅に到着した。二人揃って改札を通り、駅前に出る。
普段ならここで違う道に足を向けるが、二人揃って歩いているのに、ここで別れるのも不自然だ。
「あれ? 先週も同じ電車だったってことは、駅を出てから私の後ろを歩いてたってこと?」
こうして駅を出て、徒歩で学校に向かう段階になったから気付いたのか。詳しく知らなければ、そう考えてもおかしくないようなことを碧依が口にする。
「いや、駅を出てからは違う道でしたよ」
「違う道?」
「駅を出てすぐのところに、交差点がありますよね?」
そう言いながら振り返って、件の交差点を指差す。
「今はあの交差点を真っ直ぐ来ましたけど、普段はあそこを右に曲がってるんです」
「もしかして、そっちの方が近かったりするの?」
「いや……、多分どっちも大差ないはずです」
「でも、湊君っていっつも私より先に教室にいるよね?」
「単純に僕が男で、歩くのが水瀬さんより多少速いだけだと思いますよ」
これも気になって当然の疑問である。ただ、どちらの道も歩いたことがある自分の感覚で言えば、正直どちらの道を選んだとしても、大した時間の差はないはずだ。
「男の子?」
「どうしてそこを聞き返すんですか?」
真面目な話をしていたはずなのに、碧依からは予想外過ぎる言葉が返ってきた。小さく首を傾げる仕草に合わせて、飴色の髪がさらりと揺れた。
「え? だって……」
「だって?」
「こんなに可愛いのに、男の子って言われても……」
「また……」
まるで、何か当然のことを話すようにして碧依が言う。いくら聞き慣れた言葉であっても、それが複雑なことには変わりない。悪い感情は込められていないようなので、自分が気にしなければいいだけなのだが、それもまた難しいのだった。
「まぁ、そんなことは置いておくとしてですね」
「大事なことだと思うんだけどなぁ……」
大事なことではない。
「置いておくとして」
「あ、はい」
「こっちの学校にはもう慣れました?」
「露骨に話題を変えたね」
そういうことは気付いても言わないでほしい。
「慣れましたか?」
「そのまま押しきるんだね……。うん、大分慣れたよ。皆色々気にかけてくれるし」
「それならよかったです。転校して周りに馴染めないのは辛いですからね」
碧依の周囲に関して言えば、色々な思惑があって近付いている者もいるのだろうが、それでも孤立するよりはいいだろう。加えて、先週の様子を見る限り、何かあれば莉花がガードしているので、その辺りもあまり心配しなくても問題ないはずだ。碧依本人も、警戒心はしっかりと持っている様子だった。
「気にかけてくれてたの?」
「まぁ、席も近いですし。何かあれば、程度ですけど」
「そっか。ありがとね」
「いえ、結局特に何もしてないですから」
感謝の言葉を口にする碧依だったが、その碧依の周囲にはいつも誰かしらがいたので、自分の出番はなかったのが正直な話だ。役に立っているとは到底言えない。
「何もしてないってことはないと思うけどな。今もそうだし」
「今だって、話し相手になってるだけですよ」
「あ、そっちじゃなくてね」
「え?」
「んーん? 何でも?」
明らかに何かをはぐらかされた。電車の中と同じ言葉ではあったが、表情は僅かに違っている。その穏やかな表情を見るに、今度もマイナス方向の思惑はなさそうだ。
「そういう言い方をされると、余計に気になるんですけど……」
「んー……、そうだなぁ……」
そんなことを考える自分を見つめた碧依が、何かを考え込むように間を空ける。
「何て言うか、優しいなって感じかな? これ以上は内緒」
「はい?」
碧依がそう言って口の前に人差し指を持ってくる。どうやら今回も答えは教えてはもらえないらしいが、無理矢理聞き出すほどの事でもないだろう。そう思って、それ以上の深追いはやめにしておいた。
何気ない会話の時間と無言の時間を二十分の間に繰り返して、学校まで辿り着く。一瞬、タイミングをずらして教室に向かった方がいいのかと考えもしたが、その上手い言い訳が見つからないうちに、結局教室の前まで来てしまった。もう何を言っても今更なので、そのまま入ることにする。
先に入っていった碧依の後に続いて、教室に足を踏み入れる。碧依に向いていた視線がそのまま自分に注がれ、そのうち何人かの男子の視線が怪訝なものに変わっていくのがはっきりと見て取れた。何を考えているのか、手に取るように分かってしまう。
彼らが考えているようなことなど何もないのだが、事情を知らない彼らにそれを求めるのは無理がある。そんなことを考えつつ、大勢に挨拶を返す碧依を追いかけながら、自分の席へと向かう。
その途中で自分に向けられる声はない。かけられる声の量の差が、自分と碧依のクラスの中での立ち位置の違いを如実に物語っていた。
「おはよう、湊君」
「おはようございます」
そんな自分に声がかかったのは、席に着いてからだった。何だかんだ言って、自分よりも登校の時間が早いらしい悠からだった。
「水瀬さんと一緒だったの?」
「電車が一緒だったんですよ」
「あ、方向一緒だったんだ?」
「えぇ。まぁ、同じ電車に乗ってるのは先週から知ってたんですけどね」
「そうなの?」
鞄の中から教科書を取り出しながら、悠の疑問に答えていく。
「窓の外を眺めてたら、ホームに立ってるのが見えたので。今日初めて気付かれてしまいました」
「しまったって……」
「教室まで来た時に、こんな風になるのは分かってましたから」
「あー……」
悠もその様子を見ていたのか、どこか納得したような声を上げる。とはいえ、碧依のことなので、明日以降も一緒になるのが何となく予想できてしまった。今後の自分のためにも、早いうちに慣れておいた方がよさそうである。
「何のお話してるの?」
「えっと……、湊君と水瀬さんが同じ電車だったって話」
「あ! それ! 湊君ひどいんだよ! 先週も同じ電車に乗ってたのに、声をかけてくれなかったんだって。どう思う?」
「あ、えっと……」
挨拶回りを終え、ようやく自らの席にやって来た碧依に、少しだけ厄介な形で悠が絡まれていた。自分と話した内容もあり、どうにも答えに困窮しているらしい。
「私がホームに立ってるのを、じーっと眺めてたんだって!」
「言い方に悪意しかないように聞こえるんですけど?」
「確かに、そう言われるとちょっと怪しいというか……」
「え」
味方だと思っていた悠が、いつの間にか碧依寄りに変わっていた。ちらちらとこちらの様子を窺うその表情が、若干申し訳なさそうな色に染まる。
「でしょ?」
「ごめんね、湊君。あんな言い方されたら……」
「分かりましたって。次から機会があったら声をかけますから」
分が悪いのを察した時点で、もう自分が折れるしかなかった。これ以上何かを言ったところで、状況が好転するとは思えない。
ただ、そうは言っても、通学時を除けば外で碧依を見かける機会などそうそうないだろう。あまり気にしなくてもよさそうな約束ではあった。
「おはよー、碧依ー」
「おはよ、莉花」
そうして自分が一人で追い詰められていると、莉花が後方の扉から教室の中に入ってきた。先週もそうだったが、この四人の中では、莉花が一番遅い時間に登校してくる。とは言っても、時間にほとんど差はないのだが。
「二人も。おはよ」
「おはようございます」
「おはよう、渡井さん」
いつも始業にかなり近い時間に登校してくる莉花がやって来たということは、そろそろ朝のホームルームの時間だろうか。そう思って時計を確認すると、確かにもうすぐといった時間だった。
「何の話してたの?」
「ん? 湊君が私の事をじっと見てくるってお話」
「誤解を招く気しかないじゃないですか」
「え? 何? そんな趣味でもあるの?」
「あるわけがないですって」
流石にこれは否定しておく。そうしておかないと、今後いつまででもからかわれそうな予感がしたからだ。否定してもその辺りは変わらないという嫌な未来も見えたが、あえて何も見なかったことにする。気にしたところで、精神にはよくない。
「ふーん……。じゃあ、そういうことにしておこうか」
「どうしてここまで絶妙に味方がいないんですか」
目付きはじっとりと。口元はにやにやと。分かりやすくからかっているという表情を浮かべた莉花が、何か含みのある言葉で納得した様子を装っていた。嬉しくないことに、この一週間で、もうこんな立場を確立してしまったのが自分なのだった。
「ま、全部冗談だけどね」
「冗談じゃなかったら堪ったものじゃないです」
そこまで話したところで、碧依がわざわざそう口に出してくれた。自分も含め、この四人は全員冗談だと分かって話しているが、周囲で聞いていたクラスメイトに本気にされても困るからだろう。自分達くらいの年齢だと、他人の話を勝手に判断する人がいてもおかしくはない。その気遣いがありがたかった。
そもそもの発端が碧依であることは、この際言わないでおくが。
「はーい、朝のホームルームを始めますよー」
そのタイミングで、今日もいつも通りの様子でやって来た平原先生がそう宣言する。その言葉をきっかけに、教室内に広がっていた喧噪は徐々に収まっていった。
一日の授業を全て終え、時刻は既に午後五時半を過ぎていた。空をオレンジ色に染め上げた夕焼けが眩しい。
そんな中で自分は何をしているのかといえば、普段とは違う制服を着て、目の前のテーブルに座っている女性に話しかけていた。
「お待たせしました、ご注文のケーキセットです」
現在住んでいるマンションと同じ町にある洋菓子店Dolceria pescaの店内は、空と同じオレンジ色に染まっていた。その温度すらも感じられそうな程の光に照らされながら、先程注文があったケーキセットを届け、カウンターの中に戻る。
「葵君、ちょっと悪いけど、こっちを手伝ってもらえる?」
「どうかしました?」
「これ、焼き上がったからショーケースに並べておいてほしいのと、こっちのケーキは予約の人が取りに来るから、箱に入れて冷蔵庫に入れておいてくれる? 今ちょっと手が離せなくてね……」
「分かりました。任せてください」
「ありがとうね」
そう頼んできたのが、自分のアルバイト先であるこの洋菓子店を経営する夫婦の一人、桃野太一である。去年の自分の担任だった教師の知り合いで、その伝手で働かせてもらっているのだった。
キッチンに戻っていく太一の後ろ姿を見送ってから、改めて頼まれ事を確認する。
既に焼き上がったクッキーが、持ち帰り用に数枚ずつ包装されて、ショーケースの上に置かれていた。もう一つの頼まれ事であるケーキの方は、真っ白なクリームでデコレーションが施されたホールケーキである。その他のデコレーションを見るに、誕生日祝い用のものだろうか。
二つを見比べて、まずは冷蔵が必要なケーキの梱包から先に進めることにする。畳まれた状態で保管されていた梱包用の箱を組み立て、その中に形が崩れないよう、慎重にケーキを入れていく。しっかり納まっているのを確認してから蓋を閉じ、そのまま冷蔵庫に保管する。ちなみに、まだ蓋を固定するシールは貼っていない。予約客に受け渡す時に、中身を確認してもらう必要があるからだ。
次に包装されたクッキーの袋を手に取る。こちらは、ショーケースの中でもレジに近い場所に並べることになっている。客側から見た時に、なるべく見栄えがよくなるように配置していく。
「あら、ありがと、葵君」
ショーケースの扉を閉めた自分に声をかけてきたのが、この店を経営しているもう一人である桃野柚子だ。今日はキッチンを太一に任せて、接客要員として店内に出ている。太一と柚子は、それぞれパティシエ、パティシエールとしてキッチンを担当することもあれば、こうして接客に出ることもあった。二人揃って丁寧な接客で、客からの評判も高い。商品の出来に加えて、夫婦の人当たりのよさも、この店の評判のよさの一因なのだった。
「何か手伝う事はありますか?」
「今は大丈夫かな? 店の中も落ち着いてきたし」
そう言いながら、柚子が店内を軽く見回す。釣られて同じように目を向ければ、先程までとは違って、対応待ちとなっている客の姿はどこにも見当たらなかった。
近くの中学校の通学路にあるのと、住宅街も近いことから、平日はいつもこの時間が一番客の多い時間だった。今はちょうど、持ち帰りの客もカフェスペース利用の客も一通り対応が終わった、空白のタイミングである。
「じゃあ、カウンターの中で待機してますね」
「えぇ、お願い」
そう言って、レジの近くで待機する。だが、今確認した通り、すぐに会計が必要になるような客はどこにもいない。これまでは忙しかったが、これからしばらくの間は多少落ち着いて仕事ができそうだった。
接客を続けて、気が付けば閉店作業を始める二十一時が目前に迫っていた。大抵、この時間には全ての客が店を後にする。今日も例に漏れず、店内にはもう誰も残っていない。
閉店に向け、カウンターの内側で少しずつ作業を進めていると、太一から声がかかった。
「葵君、ちょっと話しておきたいことがあるんだけど」
「はい?」
振り返ると、太一と柚子が揃っていた。普段はキッチンの方で作業をしている時間のはずだが、今日は例外らしい。太一に続いて、柚子が口を開く。
「実はね、もう一人アルバイトを雇うことになって。その子が、明日から出勤する予定なの」
「もう一人、ですか?」
「そう。もう一人接客をしてくれる人がいれば、私達が両方キッチンに入ることができるし、前々から考えてはいたの」
「で、そのもう一人が見つかったから、葵君に知らせておこうと思って。まぁ、葵君は誰に対しても丁寧だし、大丈夫だとは思うけど」
随分と急な話だが、どうやらそういうことらしい。太一と柚子が決めたことならば、特に不満はない。この一年の付き合いで、そう思える程に二人のことは信頼している。
「明日から……。何時頃からですか?」
「最初は葵君に付いてもらって、色々仕事のやり方を勉強してもらおうかなって思ってる。ってことで、しばらくは葵君と同じ時間だと思ってもらっていいよ」
「あ、そういうことですか」
「葵君の負担が少し増えるかもしれないけど、お願いしてもいいかな?」
「はい、大丈夫です」
二人には、働き始めた頃から色々とよくしてもらっている。それくらいの頼みなら、喜んで引き受けるに決まっていた。
ただ、一つだけ気になる点があるとすれば。
「一つだけいいですか?」
「何だい?」
「その人って、どんな人でした?」
自分の性格上、どんな人が相手でも同じように接することはできると思うが、だからと言って、相手の人となりが気にならない訳ではない。同じ場所で働くのだから、お互い気楽に接することができるのなら、その方がいいのは間違いなかった。
そんなことを考える自分の疑問に答えてくれたのは、太一ではなく柚子で。
「とってもいい子だったわよ。でも、やっぱり少し緊張してたみたいだけどね」
当たり前の話だが、柚子は既に件の人物と話をしているらしい。その時の様子を思い出しているのか、柚子の顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
普段はどちらかと言うとおっとりしていると評される柚子だが、相手の人となりを見抜くのを得意としている。その柚子のお墨付きとあれば、特に問題はなかったのだろう。それならば、これ以上自分が気にすることはない。
「柚子さんがそう言うなら安心しました」
「あとね……」
そのはずだったのだが、その柚子が悪戯っぽく目を細めたことで、ほんの僅かに不安が心に忍び寄る。
「明日、会ってみてびっくりすると思うわよ?」
「え?」
「ま、それは明日のお楽しみってことで。そろそろ閉店作業を進めようか」
気になる一言があったのに、すぐに太一の言葉で会話が打ち切られてしまった。ますます気になってしまう会話の終わり方ではあるものの、明日になれば分かるのならそれでいいかとも思う。いつまでもそこを気にするよりも、今は閉店作業に向かった二人の手伝いをした方がいい。そう考えて、自分も二人の背中を追うのだった。
そして、明くる日の放課後。一日の授業を全てつつがなく終え、一度私服に着替えてからアルバイト先へと向かう。今日も出勤時間は午後五時なので、多少時間には余裕がある。昨日の柚子の言葉が気になっているのか、自分でも気付かないうちに、少し早足になっていたらしかった。
やがて、Dolceria pescaと書かれた看板が見えてくる。ここから見える限りでは、店内はまだそこまでの混雑ではなさそうだ。とはいえ、もうすぐピークの時間になるのは間違いない。そんな中で新人の教育もできるのか、若干の不安を覚えつつ、店の裏口に回る。
「あ、おはよう、葵君」
「おはようございます」
バックヤードにいた柚子が、自分に気付いて声をかけてくる。挨拶を返しながらバックヤードをぐるりと見回すも、普段と変わった様子は特に見られなかった。
「あら、気になる?」
「気になりますよ。昨日、最後にあんな風に言われましたし……」
「心配しなくても、すぐに会えるわよ。彼女ももう来てるから」
「あ、女性なんですね」
その一言で初めて知る。思い返してみれば、相手の性別については何も考えていなかった。相手の年齢にも左右されるだろうが、接し方には気を付けた方がいいのかもしれない。
「そういえば、その辺りの話はしてなかったわね」
「ですね」
「でも、葵君なら大体どんな相手でも上手くやれるでしょ?」
「少し不安はありますけど、何とかしてみます」
「頼もしいわ。よろしくね」
そんな言葉を受けつつ、いつも通りのウェイター服に着替えようと更衣室に向かう途中で、とあることに気付く。とても重要な、とあることに。
「柚子さん」
「ん? 何?」
「その新人の方が女性なら、更衣室ってどうなって……」
相手の性別を知らなかった昨日は思い至ることができなかった、これから気にするべき、とても大事なこと。それは、これまで自分が何も考えることなく使ってきた、この店にたった一つしかない更衣室の扱いをどうするのか、ということだった。
「あぁ、そうだったわね。伝えるのを忘れてたわ。葵君には悪いんだけど、今までの更衣室は彼女に使ってもらうことにしたの。鍵がかかる更衣室って、ここしかないから」
バックヤードから繋がる更衣室を指差して、柚子がそう口にする。きっとそうなるのだろうと、気付いた時にはある程度想像していたので、すんなりと納得することはできた。確かに、女性からすれば鍵がかからない更衣室は不安だろう。
だが、そうなると。
「でも、更衣室って一つしかないですよね?」
「そ。だから、葵君には二階を使ってもらおうかなって」
そう言いながら、柚子が人差し指を立てて二階を指す。
「二階って……。それ、お二人の自宅じゃないですか」
本当にそれでいいのかと、若干不安に思いながら聞き返す。
このDolceria pescaは建物の一階部分を店舗としており、二階と三階は桃野夫婦の自宅となっていた。今の柚子の発言は、つまりその二階を自分の更衣室の代わりにするということだった。ただの高校生である自分をそんな簡単に家に入れてもいいのかと、どうしてもそう思ってしまう。
「私達が一年間葵君を見てきて、信頼できる子だって思ったから、こうして提案してるの。だから、そんなに気にしなくても大丈夫」
それでも、そんな言い方をされてしまえば、これ以上自分から言えることはない。ここで断ったところで代案がある訳でもないので、素直に厚意を受け取ることにする。
「分かりました。じゃあ、ありがたく使わせてもらいますね」
「えぇ。ウェイター服はもう二階に持っていってあるから」
「最初から断らせる気がないじゃないですか」
「あら、ばれた?」
穏やかに笑う柚子が、バックヤードにある階段を上がっていく。どうやら、更衣室代わりに使う部屋まで案内してくれるらしい。その背中を追って、この一年、ずっと存在を認識しつつ、それでも一度も使うことがなかった階段に足をかける。
こうなることを予想していたかのように、階段の先は照明で明るく照らされていた。
着替え終わってバックヤードに戻れば、先に降りていた柚子が再び迎えてくれた。
「さ、葵君の準備も終わったみたいだし、そろそろお待ちかねのご対面にしましょうか」
「そういえば、まだ見かけてませんけど、どこに?」
そう言いながら、少しだけ考える。もう接客に出ているということは流石にないだろう。この場にいない太一が一緒にいるとしても、あれこれ教えてほしいと頼まれている自分との顔合わせが、ここではなく店側になるとは考えにくい。
となれば答えは、ほぼ一択だ。
「更衣室で着替えて、そのまま待ってもらってるわ」
柚子の答えは、予想した通りのものだった。椅子から立ち上がった柚子が、更衣室の扉に近付く。時間もあまりないので、早速ご対面らしい。こちらからは中が見えないように扉を開けて、優しく声をかけている。
「お待たせ。こっちに来てもらえる?」
「は、はいっ!」
その扉の向こうから、やや緊張したような声が聞こえてきた。それから少しの間が空いて、自分にとって初めての後輩が姿を現す。
「え……?」
その姿を目にして、思わず口からそんな声が漏れた。
「は、初めまして! アイリス・フリーゼです! これからよろしくお願いします!」
そう言って勢いよく頭を下げる仕草に遅れて、腰まで届こうかというストレートの髪がふわりと揺れた。照明の光を反射して輝くその髪は、かなり黄色味が強い金髪。どこかで見た、「菜の花色」という表現が自然と頭の中に浮かんだ。
再び顔を上げてこちらを見る瞳は、綺麗な瑠璃色だった。今は緊張の色が強いが、常であれば親しみを感じさせるような、柔らかな丸みを帯びた人懐っこそうな印象の目である。
他にも、鼻や口のバランスが恐ろしい程に整っているといったような特徴はあるものの、やはり目を引くのはその二か所。物語や遠い外国の映像の中でしか見たことがない、綺麗な金髪碧眼の、外国人の女の子だった。
「……」
こればかりは流石に予想していなかった。柚子が昨日言っていたことの意味を、今になってようやく理解する。
「あの……?」
「あ……、すみません」
言葉も出せずに驚きで固まっていると、アイリスから戸惑ったような声が上がった。緊張の中で初めて対面したアルバイト先の先輩が、何も言わずに固まってしまっている。そんな状況になれば、自分とて似たような声を上げるだろう。
「初めまして。湊葵です。よろしくお願いします」
どうにかありふれた返事を口にしたところで、アイリスの表情から幾分か緊張が抜けていった。頬に差していた赤みが、少しだけ薄れている。
「どう? 驚いたでしょ?」
「それはもう……」
タイミングを見計らっていたのか、柚子が悪戯に成功した子供のような表情で尋ねてくる。自分を驚かせることが目的だったのなら、これ以上ない程に上手くいっていた。
「さて、じゃあ悪戯にも成功したことだし、お仕事の話をしましょうか」
「はっきり『悪戯』って言いましたね」
「ほらほら、細かいことは気にしない」
まさに暖簾に腕押しといったところだった。毎度のことながら、何があっても、この人にはのらりくらりと躱されてしまう。こんな掴みどころのない雰囲気も、魅力の一つなのだろうが。
「ここからは本当に真面目なお話ね? 二人それぞれにもう伝えたけど、しばらくの間は、二人一緒にシフトに入ってもらいます」
これは昨日のうちに聞いていたことだ。どうやら、アイリスも同じ話を聞いていたらしい。その言葉に小さく頷くアイリスの様子を眺めながら、柚子が言葉を続ける。
「で、一通りの仕事について、葵君に教えてもらってね」
「はい!」
「どんな風に教えるかは、ひとまず葵君に任せるわ。お願いね?」
「分かりました」
任せると言ってはくれたものの、そこまで複雑な仕事が多い訳でもないうえに、店を開いている限りは必ず太一か柚子がいる。必要以上に気負い過ぎることもないだろう。
そのタイミングで、バックヤードの扉から太一が顔を覗かせた。
「あ、おはよう、葵君」
「おはようございます」
「その様子だと、もう顔合わせは済んだみたいだね」
「そうね。もう終わったわ。どうかしたの?」
「そろそろキッチンに戻ろうかと思ってね。できれば接客を葵君に任せて、柚子もキッチンに入ってほしいんだ」
太一の言葉に釣られて時計を見れば、そろそろ店内が混雑し始めそうな時間となっていた。増加するであろう注文の対応に人手を割きたいのだろう。
「私は大丈夫だけど、葵君はどう? 接客が一人になっちゃうし、教えながらにもなるけど、大丈夫そう?」
そう確認されて、アイリスの視線を受けながら少し考え込む。
確かに、これまでよりはやや忙しくなるのは間違いない。けれども、来店してくれる人は少人数で接客していることを理解してくれていて、わざわざ急かしたりするような人もいない。その事実に胡坐をかくようなことはしないが、恐らく対応はできるはずだ。
そこまで考えてから、答えを返す。
「大丈夫だと思います。もしどうにもならなかったら、その時はすぐに伝えるようにします」
「それならお願いしようかしら。何かあったら、その時は遠慮なく呼んでね」
「はい。ありがとうございます」
「よし、それじゃあ戻ろうか」
太一の一言で各々が動き出す。その中でこちらを窺うアイリスを見て、とあることに気が付いた。
「あ、少しだけ準備をしてから向かいます」
「ん、分かったよ」
キッチンへ姿を消す寸前の太一と柚子にそう声をかけ、壁際に置かれている机の引き出しからある物を取り出して、若干不安そうに待っているアイリスの元に向かう。
「改めて、よろしくお願いしますね」
「は、はい! こちらこそ、色々迷惑をかけてしまうと思いますけど、よろしくお願いします!」
早速人前に出るということで再び緊張しかけているのか、やや言葉の勢いが強かった。
「しばらくは必ず傍にいるようにするので、そこまで緊張しなくても大丈夫ですよ。そうは言っても、なかなか難しいとは思いますけど」
「あ、はは……、そう、ですね。なるべく落ち着こうとは思ってます……」
「こればっかりは慣れるしかないので、頑張って下さい。そんなに難しい仕事はないですし」
「頑張ります!」
どうにかといった様子で頷きながら話すアイリスに、先程取り出したある物を手渡す。
「これ、使って下さい」
「これは?」
自分のものよりも随分と小さな手が、やや躊躇いがちにそれを受け取る。渡したのは、誰もが一目でその意味を理解できる、緑と黄のあのマーク。
「僕が去年働き始めた頃に使っていた初心者マークです。しばらくの間それを付けておけば、お客さんからも分かるんじゃないかと思って」
「あ、ありがとうございます!」
「じゃあ、それを付けたら、早速向こうに行きましょうか」
あまり長い時間、店内を無人にしておくのはよくないだろう。そう考えて、初心者マークを付け終えたアイリスと共に、バックヤードを後にするのだった。