39. 変わりゆく心 (1)
八月五日、土曜日。以前アイリスと約束した、夏祭りの当日である。三日間に渡って開催される、その二日目だった。例年、二日目の屋台の数が一番多く、まさに本番と呼ぶに相応しい日だ。
昨晩、買い物から帰ってくる途中で前夜祭の様子を覗いてみたが、既になかなかの盛況ぶりだった。あれからさらに屋台が増えるとなると、さぞ賑やかな夏祭りとなるのだろう。
完全に記憶から消え去っていた去年のことはともかく、一昨年まで一緒に遊びに行っていた同じ施設の子供達のことを思い出す。一緒に遊びに行ったと言うよりも、引率係だったと言うべきかもしれないが。小学校低学年の子供も混ざる中、全体に気を配るのはひどく骨が折れた覚えがある。
だが、今日はアイリス、アーロン、レティシアの三人だけ。アイリスのはしゃぎ具合が想像できないが、少なくとも大人が二人もいるのなら、大して心配する必要もないはずだ。
そんなことを考えながら、例の浴衣に袖を通す。
「……いや。いやいや……」
自分の姿を鏡で確認し、思わずそんな声が漏れてしまう。買いに行ったあの時は頷いてしまったが、改めて着てみれば、やはり女性的な印象が強かった。確かに「男女兼用」とは書いてあるが、これは。
「書いてあるだけなのでは?」
そんな風に考えてしまう程に、絶妙な似合い具合だった。
とはいえ、そんなことを言っていても何も始まらない。もしこれでこの浴衣を着ていかなければ、きっとこの部屋に帰ってくることとなる。アイリスを連れて、もとい、アイリスに連れられて。家が近いのも考えものである。
無駄な足掻きは早々にやめ、玄関へと足を向ける。時刻は午後五時半。アイリスの家に寄って、そこから会場まで向かえば、六時を少し過ぎるくらいになるだろう。色々と都合がいい時間のはずだ。
浴衣と一緒に買っておいた下駄を取り出して、再度履き心地を確かめる。慣れない履物ということで、わざわざ鼻緒が柔らかく、長時間履いていても指が痛くならないものを選んでおいた。足元までこだわるアイリスと一騒動あったことは、最早言うまでもない。
「……」
足元が違えば、普段歩き慣れた道もどこか違った印象の道になる。からころと夏らしい音を響かせながら、アイリスが待つ家へと向かうのだった。
「じゃん! どうですか!」
たった数分の距離を歩き、アイリスの家の呼び鈴を押す。少ししてから出てきたアイリスの第一声は、自分に感想を求めるものだった。その期待に応えるため、普段とは異なる装いのアイリスをしっかりと見つめる。
どの浴衣を買うか迷っていた時とは違い、しっかりと形を整えた浴衣姿である。あの時も思ったことだが、当然よく似合っている。そして、あの時とは違う点が一つ。
いつの間に準備したのか、青のグラデーションが綺麗な、紫陽花の花弁を模した髪飾りまでつけていた。
「可愛いですよ」
仮に可愛くない部分を探そうと思ったとしても、どこにもそんな部分が見つからない、全身余すところなく可愛いアイリスなのだった。冗談を言えるような余裕など今の自分にある訳もなく、ただ素直に思ったことを口にするだけだ。
「ほんとですか!?」
何の飾り気もない言葉だったが、それでもアイリスは喜んでくれた。見ている自分の方が恥ずかしくなる程の笑みを浮かべ、頬をほんのりと赤く染めている。
「えぇ。髪飾りもよく似合ってます。持ってたんですか?」
「です。元々はお母さんのなんですよ」
そう言って、アイリスが体の向きを変える。ちょうど自分から見やすい向きになった辺り、もっとよく見てほしいということなのだろう。その要望に応えて、もう少しじっくり見させてもらうことにする。
改めて見ると、明らかに外国の雰囲気を漂わせる菜の花色の髪に、和の雰囲気を漂わせる紫陽花の花が似合うという、何やらよく分からない状況である。だが、それを調和させてしまうのが、アイリスの恐ろしいところなのかもしれなかった。
「ちょっとだけ動くんですよ」
「動く?」
「こんな感じです」
アイリスが少しだけ頭を振ってみれば、枝垂桜がその花を風に揺らすように、数枚の花弁がゆらゆらと揺らめいているのが見て取れた。紫陽花に対する例えが枝垂桜なのも、それはそれでいかがなものかとは思うが。
「光の当たり具合が変わると、ちょっとだけ印象も変わりますね」
「綺麗ですよね。お母さんがくれるって言うので、せっかくってことでつけてみました」
「大正解だと思いますよ」
「全体で星いくつですか?」
「三つで」
「やったぁ!」
今回は文句なしである。目の前で両手を上げて喜ぶアイリスの姿は、また自分から尋ねてきたことを差し引いても、三つ以上星をあげたくなる可愛さだった。これから間違いなく注目を集めることになるアイリスの隣を歩くのは苦労しそうな気もしたが、これだけの笑顔を見せてくれるのなら、十分にお釣りが来る。
「葵さんもとっても似合ってますよ! 星三つです!」
「喜んでいいんですかね?」
とうとう望み通りの言葉を手に入れたことで上機嫌なアイリスから、そんな評価を頂く。つい先程、鏡を見て微妙な感想を抱いた身としては、どこか複雑な評価だった。
「いいと思いますよ? 知らない人が見たら、きっと性別が分からなくなるってくらいに似合ってます」
「本当に喜んでいいんですか?」
とても複雑だった。
「やぁ、お待たせ」
「一年ぶりだと、やっぱりどうしても手間取るわね」
「お母さん、それ毎年言ってない?」
「気のせい気のせい」
アイリスと同じく浴衣に身を包んだアーロンとレティシアが、そんなタイミングで姿を現す。三人のイギリス人が浴衣姿で並んでいるのは、こんな田舎町ではとても珍しい光景ではないだろうか。しかも、全員よく似合っているとなれば、珍しさはさらに増す。
「あら可愛い」
「……ありがとうございます」
そんなことを考えている間に、レティシアの視線が自分に向いていた。この状況でアイリスに言ったと勘違いすることなど、できるはずがない。
挙句の果てに、淀みなく呟かれたその言葉は、思わず口を衝いて出たといった様子の一言だった。恐らくは、からかいを含んでいない、純粋な感想だったのだろう。だからこそ、よりダメージは大きい。
「皆揃いましたし、早く行きましょう! 葵さん!」
あれこれ複雑な自分の心情を知ってか知らずか、もやもやとしたものを吹き飛ばすような勢いで、アイリスに袖を引かれる。夏祭りが楽しみで待ちきれないと、そう顔に書いてあった。
「分かりましたから。そんなに引っ張らなくても」
「葵君を引っ張り回し過ぎるのはよくないからね?」
結局、袖を引かれたまま、入ってきたばかりの門を出る。背後から、はしゃぎ過ぎないよう諌めるアーロンの声が聞こえた。
目の前のアイリスが返事をするが、果たして本当に分かっているのだろうか。未だに解放されない袖を見ながら、一昨年までとは違った意味で賑やかな夏祭りになりそうだと、改めてそう実感するのだった。
「今年も人がたくさんですね」
夏祭りの会場となる商店街に到着しての、アイリスの一言。その言葉が示す通り、そして出発する前の予想通り、随分と盛況のようだった。
普段は人が一人も歩いていないような商店街だというのに、今日だけを切り取れば、活気に溢れた商店街に見えなくもない。一体、この田舎町のどこにこれほどの人がいたのだろうかと、そんなことを考えてしまう程の人出である。
「やっぱり、昨日よりも賑わってますね」
「昨日も来たんですか? フライングですか? 違反ですよ?」
「違反……?」
何故かは分からないが、アイリスからの圧が強い。隣に視線を向ければ、じっとりとした目でこちらを見上げていた。
「何が言いたいのか知りませんけど、買い物に行った帰りに通りかかっただけですよ」
「だったらいいです」
「何なんですか」
素直にそう答えたところで、アイリスからの圧は綺麗さっぱり消え去った。残ったのは、「わくわく」という文字が見えそうな程に楽しみそうな雰囲気だけ。
「今日を楽しみにしてたのに、葵さんだけ一足先に楽しんでるのはずるいですもん」
どうやらそういうことらしかった。要は、一緒に楽しみたかったということだろう。明かされてしまえば、実にアイリスらしい理由である。
「……ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「何ですか?」
アイリスらしい理由だが、それを聞いて思い出すこともある。今尋ねてもいいものかとも考えたが、本人の許可が下りたのなら、気にすることなく尋ねることにする。
「楽しみにしてたのは分かりましたけど、それはそれとして、昨日と一昨日、家に一人で大丈夫だったんですか?」
「大丈夫なわけがないじゃないですか!」
「おぉ……」
一瞬でアイリスが爆発した。先程とは違い、この件は咎める気しかないようで、勢い付いたアイリスによって物理的に距離が一歩分縮まった。あまりの勢いに、思わず少しだけ仰け反ってしまう。
「一日中! ずっとびくびくしながら過ごしてた私の気持ち! 葵さんに分かりますか!?」
「いや、分からないです」
詰め寄られたところで、怖がりではない自分にその気持ちが分かる訳がなかった。ここでこう答えるのが正解とは到底思えないものの、勢いに押されてつい言葉が出てしまったのだった。
「どのお部屋でも、絶対に扉に背中を向けないようにするのが、どれほど大変だったか!」
「怖がり過ぎでは?」
「私が帰ってからも、ずっとそんな調子だったわよ、その子」
「末期じゃないですか」
レティシアによって明かされた、追加の情報。まさかそれほどのダメージを残していたとは、一切考えもしていなかった。
「それでいつもよりリビングにいる時間が長かったんだね」
「自分の部屋すら怖いって」
「何か悪いですか!? 葵さんのせいですからね!?」
とうとう開き直ったアイリス。むっとした表情のまま顔を逸らし、分かりやすく不満そうな雰囲気を醸し出している。先程までの上機嫌なアイリスはどこに消えてしまったのだろうか。
気にはなるものの、言われた通り原因は自分にあるので、とてもではないが尋ねることなどできなかった。
「何回葵さんの家に押しかけようと思ったことか!」
「思い留まったんですね」
昨日、一昨日と、一人も来客はなかった。こう言うと、普段は来客があるように思えるから不思議である。普段からほとんどない。
「こうなったら、今日はそのお詫びをしてもらいます!」
「話が飛びませんでした? 電波でも悪いんですかね?」
「目の前で! 直接! 話して! ます!」
「分かりましたから、少しずつ近付いてこないでください」
一言一言区切りながら、その度にアイリスが近付いてくる。結果、その顔がすぐ目の前にまで迫ってくることになり、はっきり言って心臓に悪かった。普段とは違う格好なのも、気まずさに拍車をかけている。
思わず一歩下がって、少しだけ距離を取る。
「それで? どうしろと?」
お詫びとやらの内容が分からないままなので、自分から尋ねてみる。
「怖がらせた分、今日はたくさん甘やかしてもらいます」
返事は、夏祭りに対するものとはやや異なる種類の期待が感じられる、そんな眼差しと共に紡がれた。
「……怖がらせたのは映画では」
「何か言いましたか?」
「何でもないです」
余計な一言だった。言った瞬間、アイリスの目があまり見たことのない鋭さになっていた。それこそ、反射的に言葉を撤回してしまう程度には。
「話を聞く限り、普段から結構甘やかされてる気もするけどね」
「お父さんには聞いてないよ」
アーロンの感想は、目の角度が変わらないアイリスには聞き入れられなかった。どうもアーロンへの当たりが強いような気がするのは、気のせいなのだろうか。間違いなく仲は良いはずなのだが。
「甘やかす、甘やかさないは分かりませんけど、今日は普段通りってことで」
「……じゃあ、今はそれでいいです」
これも頷いておくのが一番丸く収まるはずなのだが、素直に頷くと何を要求されるか分からないので、つい曖昧な言葉を口にしてしまう。あまり納得はしていない様子のアイリスではあったが、どうにかそれで引いてくれた。
「ほらほら、ここでこうしていても仕方ないし、早く行きましょ」
話が一旦決着したのを見計らって、ようやくレティシアがそう切り出す。今いる場所は、立ち並ぶ屋台の端の端。ここから、商店街の先にある神社まで屋台が連なっているはずだ。ここはまだまばらだが、神社に近付けば、隙間なく屋台が並んでいるに違いない。
「ま、そう言ってもここからは別行動のつもりだけどね」
「あれ? そうなの?」
アーロンの言葉に、アイリスが驚きを示していた。様子が一瞬でいつものものに戻った辺り、アイリスも話を聞いていなかったらしい。
「親の目があると、思いきりはしゃげないだろう?」
「もう小さい子供じゃないんだから、そんなにはしゃがないし……」
「本当に?」
「……多分」
自身の行動を見透かそうとするアーロンとレティシアに、今度は気まずそうに顔を逸らすアイリスなのだった。
「……ほんとに別行動なんですね」
「ですね」
アーロンが言葉通り本当にレティシアと二人で行ってしまった。残ったのは、隣にいるアイリスだけ。場所は未だに商店街の端の端。
「僕達も行きましょうか」
「そうですね。葵さんが甘やかしてくれる時間も短くなっちゃいますし」
「最初からゼロとは考えないんですね」
「だって、葵さんですもん」
「はぁ……?」
よく分からない確信を得ているアイリスと並んで歩き出す。一緒に買った二つの下駄が、似ているようで少しだけ違う二つの音を奏で始める。
「何から回りましょうか?」
まだまだ数が少ないこの場所ですら、様々な種類の屋台が軒を連ねている。ある程度決めてから回らなければ、迷いに迷って時間がなくなるということになりかねない。
そう考えて、アイリスに尋ねてみる。あれだけ楽しみにしていた夏祭りである。どこか行きたいところがあると考えていいだろう。
「お腹が空きました!」
「どこから回るか聞いてるんですよ」
空腹だと言う割に元気よく発言してくれたところ悪いが、質問と答えが噛み合っていない。何か食べるものを買える屋台に行きたいということだけは理解できたが。
「たこ焼きで!」
相変わらず元気よく口にするアイリス。自分は特に希望がなかったので、とりあえず向かうべき屋台は決定と言ってもいいだろう。
瑠璃色の瞳、菜の花色の髪、そして紫陽花と菖蒲の浴衣。これだけでも十分周囲から浮いているアイリスだが、そこにたこ焼きまで加わってしまえば、色々な意味で注目を集めること間違いなしである。
「好きなんですか?」
「お祭りで食べるのは。普段はあんまり食べないですけど」
「そういうことなら、探してみますか」
この雰囲気の中でならというアイリスの主張は、大いに理解できる。普段なら何でもないものや光景が何か特別なものに見えてしまうのは、祭りならではの現象だろう。
そう思いつつ辺りを見回してみるが、それらしい文字を掲げた屋台は見当たらない。夏祭りにたこ焼きの屋台がないということは考えにくいので、近くにはないというだけのはずだ。
「それにしても、最初から空腹なんですね」
近くの屋台に設置されていた時計は、午後六時十分を指していた。それぞれの家庭の事情もあるだろうが、夕食にはやや早い時間帯ではないだろうか。
「お祭りの時だけ特別です。いつもはもうちょっと遅い時間ですよ」
「特別、ですか」
「小さい頃からこうだったので、詳しいことはお父さんとお母さんしか知らないです」
どうやらそういうことらしい。その口調から察するに、何か深い意味がある訳でもないようだ。
「屋台の食べ物なら、葵さんは何が好きです?」
「屋台限定で……」
「限定しなかったら、きっと筑前煮になっちゃいますからね」
自分の過去の発言をからかうようにして、アイリスがそう口にする。実際にそう尋ねられなかったので現実にはならなかったが、恐らくその想像は正しいのだろう。
アイリスの悪戯っぽい笑みを見ながら、頭の中で様々な食べ物を思い浮かべては消していく。そんな中で残った、一つの食べ物は。
「味噌田楽……」
「味噌田楽!?」
「こんにゃくの」
「また渋いのを……」
この答えは全く予想していなかったのか、大いに驚いてくれた。だが、驚かせるための嘘という訳でもない。本当に残ったものがそれだっただけの話だ。
「なかなか高校生の口から出る言葉じゃないですよね、味噌田楽」
「そうですか? たまに家で作りますよ。大根とかで」
「作る人はもっと少ないと思いますよ……」
口にした側、やっている側からすれば何でもないことだが、当事者以外から見るとそうでもないらしい。そんな人々を代表して、アイリスの笑みの種類が苦笑いに変わった。
「お祭りで食べた記憶がないんですけど、美味しいんですか?」
「そこそこ、ですかね」
「そこそこ」
好きな食べ物を聞いたのに、返ってきたのが「そこそこ」美味しいものだったということで、アイリスの声音がやや意外そうな色を含む。
「自分好みの味にできるので、作った方が美味しいに決まってます。でも、こういうのは雰囲気込みだと思うので」
「あ、それ分かります。お祭りでしか食べられないってわけじゃなくても、妙に食べたくなるものってありますもんね」
「そういうことです」
今話したものとは別にもう一つの理由もあるのだが、それは特段話すような理由でもないので省略する。夏祭りを楽しみにしていたアイリスの気分に、わざわざ水を差す必要もあるまい。
「あ、ありました!」
そう言って掲げられたアイリスの指先が示す先に、目的の屋台を発見する。タイミングよく吹いた風が、生地が焼ける匂いを運んできた。その香ばしい匂いに刺激されてしまったのか、これまで感じていなかったはずの空腹感が急に湧き上がってくる。
自分も意外と現金な胃袋をしていると、そう考えながら二人してその屋台に歩み寄る。やはりまだ夕食時のピークには早いのか、屋台の前の人影はまばらである。今なら、そこまで待ち時間もなく受け取れそうだった。
「いくつにします?」
「んー……?」
屋台の前で立ち止まり、いくつ買うかを相談する。目の前に並ぶ舟は、六個入り、八個入り、十個入りの三種類。そこまで多くない選択肢を前に、アイリスが考える時間も短いもの。
「じゃあ、六個入りで」
「分かりました。すみません、六個入りを一つで」
アイリスが考えている間、別の客の対応をしていた店主に注文を伝える。こういった屋台の店主にしては、少し若いような印象を受ける店主だった。見た目だけで言えば、三十代くらいだろうか。
自分の注文を受けた店主の手元を見れば、わざわざ焼き上がったばかりのものを舟に詰めてくれている。どうやらタイミングがよかったらしい。
「お待たせ。六個入り一つね」
「ありがとうございます。じゃあ、これで」
「はい、確かに」
商品を受け取るのと交換で代金を渡す。鉄板から伝わる熱が大きいのか、屋台側に少し腕を伸ばしただけで、そこだけ気温が一気に上がったような気がした。
「あ、私も払います」
「今二人で払うと時間がかかりますから。後で渡してくれたらいいです」
「そうですか?」
「えぇ」
支払いを半分持とうとしてくれたアイリスを止める。人影がまばらとはいえ、全くいない訳ではない。あまり長い時間屋台の前を占有するのもよくはないはずだ。
そんな意図を理解してくれたのか、比較的あっさり引き下がってくれたアイリスと屋台を後にする。
屋台で販売されている料理の何がいいかといえば、歩きながらでも食べやすいものが多いところだろう。普段であれば歩きながら食べるのは行儀が悪いと言われるのだろうが、この場ではそれを咎める者などいない。
そんな訳で、さっそく食べたがっていたアイリスに舟を差し出す。
「持ってますから。どうぞ」
「あー……」
「またですか」
てっきりそのまま食べるのかと思いきや、小さな口を開けたアイリスが待機の姿勢に入った。浴衣を買いに行った日にも見た、「食べさせてください」という意味を持つ仕草である。
目の前にあるのは都合よく球体ということで、今回こそストレートと考えたが、どう考えても持つと熱いのでやめておいた。
なので、その熱さはアイリスに押し付けることにする。
「どれが一番熱いですかね……」
「やっぱり自分で食べます」
そう呟いた途端、開いていた口は閉じ、代わりに横から伸びてきた手が爪楊枝を攫っていった。
「リアクション芸人じゃないんですから」
やや呆れた口調のアイリス。その目も同じく、呆れたような色を浮かべて自分を見つめていた。
「確かに。どちらかと言うと、リアクションアイドルですかね」
「そこじゃないんですよ。リアクションから離れませんか?」
「アイリスさんのリアクションがいいのは事実ですから」
「それ、褒められてるんですか?」
「褒めてますよ?」
「複雑です……」
そんな会話を交わす間も、アイリスが六つの球体を慎重に吟味する。どれも等しく湯気が出ていて、正直自分は見た目からは何も分からない。
「これです!」
何を根拠に選び出したのかは分からないが、何かを感じ取ったらしいアイリスが一番手前のたこ焼きに爪楊枝を刺していた。結局分からなかったから、取りやすい一番手前にした訳ではないと思いたい。
「あっふい!?」
吟味した意味はなかったらしい。選んだたこ焼きを頬張った途端、奇妙な叫び声を上げながら涙目になっていた。浅い呼吸を繰り返して、どうにか口の中を冷まそうとしている。その度に、口からうっすらと湯気が漏れるのが見て取れた。
ちなみに、どれを選んでも同じ結果になることは分かっていた。何故なら、舟を持つ左手がかなり熱いからだ。舟越しにこれだけの熱を伝えてくるたこ焼きを口に含めばどうなるかなど、火を見るよりも明らかだった。
「火傷しました……」
「大丈夫ですか?」
「あんまり大丈夫じゃないです……」
舌先を少しだけ出したアイリスから、被害状況の報告を受ける。いきなり出鼻を挫かれた形である。
「出来立てを貰ったのに悪いですけど、少しだけ冷ましてからにしましょうか」
「賛成です……。このままじゃ、口の中がぼろぼろになっちゃいます……」
軽い相談のうえ、たった一撃でアイリスを打ちのめしたたこ焼きには、その攻撃力を下げてもらうこととなった。
「あ」
「どんな面倒なことを思い付いたんですか」
「何で面倒って分かるんですか」
「こういう時のアイリスさんは、絶対に面倒なことを考えてます」
「失礼な」
いいことを思い付いたと言わんばかりに漏れ出した声。その「いいこと」は、アイリスにとってのいいことであって、自分にとっての「いいこと」ではない。そう指摘されたアイリスが不満の表情を露わにしているが、自分の考えは間違っていないはずだ。何なら答え合わせをしてもいい。
「じゃあ、聞くだけ聞きます。何を思い付いたんですか?」
「葵さんに冷ましてもらえばいいんですよ。ふーって!」
「自分でやってください」
案の定、面倒なことを言い出した。他人に冷ましてもらうくらいなら、自分で好きなように冷ませばいいのに、何故わざわざ自分を挟もうとするのだろうか。
「さっき言ったじゃないですか! 今日は甘やかしてくださいって!」
「それがこれですか?」
「そうです!」
大きく頷きながらの肯定。冷ましてもらうところを受け入れてもらえれば、そのままの流れで食べさせてもらえると考えている顔だった。つい先程までの不安など綺麗に消え、きらきらと輝かんばかりの笑みを浮かべている。
「……」
少しだけ考える。一昨年まで一緒に来ていた小さな子供相手にするのならまだしも、一つしか変わらない、それどころか、あと一週間程度は同い年の後輩相手に同じことをするのは、どこか気恥ずかしいものがあった。
ただ食べさせるだけなら、気分によっては受け入れていたかもしれない。だが、わざわざ冷ますという工程を挟むだけでここまでやりにくくなるとは、正直思いもしなかった。
そんな訳で、妥協案を提示する。
「どうぞ」
「いや、熱いですって」
爪楊枝を使って、アイリス口元にたこ焼きを差し出す。アイリスにとっては残念ながら、冷ましたりはしていない。
「食べさせるのは食べさせます。でも、冷ますのは自分でやってください」
「えー……」
要求が一部しか通らなかったことで、アイリスの声が少しだけ曇ったものになる。
「嫌ならこのまま引っ込みます」
「……仕方ないですね。ここまでは葵さんが甘やかしてくれたってことで」
「ちょっとだけです」
何やら簡単に受け流してはいけないような言葉が聞こえてきたような気がして、思わずそんなことを言ってしまう。真正面から否定するには力が足りていないが、少しでも否定しておかないと、今後に影響がありそうだった。
「ふー……。ふー……」
「……」
アイリスがたこ焼きを冷ましている間、他に何かをすることもできず、ただ時間だけが過ぎていく。何故か妙に気まずい時間。
話している間に僅かとはいえ冷めていたであろうことも相まって、差し出したたこ焼きがアイリスの口の中に消えていったのは、そのすぐ後のことだった。
「おいひいです!」
まだ少しだけ熱かったようだが、それでも味わう余裕はあったらしい。先程の店主が見ればさぞ喜んでくれるであろう笑みが、アイリスの顔に浮かぶ。
「じゃあ、次は葵さんですね」
上機嫌なアイリスがそう言って、持っていた爪楊枝で次なるたこ焼きを刺し、自分の口元に差し出してくる。間に空気が挟まれていても、少しだけ熱気が伝わってくるような気がした。
「自分で食べますって」
「いいえ。葵さんの手は、舟を持つのと私に食べさせるのとで、とっても忙しいはずです」
「今は右手が暇ですよ」
アイリスに食べさせるための手らしいが、今は完全に自由な右手を振ってみる。その動きを妨げるものなど何もない。
「あ、ごめんなさい。これ、ちょっと持ってもらっていいですか?」
そんな自分の動きを見て、アイリスが一度たこ焼きを舟に戻す。それから取り出したのは、たこ焼きの屋台の前でも見かけた財布だった。差し出されて、何かを考える前に反射的に受け取ってしまう。
「どうかしました?」
「これで右手も塞がりました」
「強引過ぎませんか?」
満足そうに言うアイリス。どうやら、右手を塞ぐためだけに財布を渡したらしい。話の流れからして、受け取る前に気付くべきだった。今更そう思ったところで、もう遅いのかもしれないが。
「これで葵さんは食べさせてもらうしかなくなりました」
「財布を返すのは?」
「私が受け取らなければいいだけです。葵さんは優しいので、どこかに捨てたりもしませんもんね」
「……」
再び差し出されたたこ焼きを前に、それでもどうにかならないかと逃げ道を探す。だが、両手が塞がっている時点で逃げ道も何もない。大人しく観念するより他なかった。
「……いただきます」
「どうぞ!」
多少熱かったところで、今はその熱さよりも気まずさが勝つ。ということで、一度も冷ますことなく、そのまま口にする。
「……熱いです」
「何で冷まさないんですか」
口の中に熱が広がっていくのを実感しながら、アイリスと同じ感想を呟く。そのアイリスはといえば、熱いのが分かっているのに何故冷まさないのかと、不思議そうな表情で首を傾げていた。
「まぁ、何となく」
適当に誤魔化しながら、まだまだ熱を持ったたこ焼きを食べ進めていく。アイリスの言う通り、焼き上がってからそれほど時間が経っていないたこ焼きは、涙が出そうな程に熱かった。舌がひりひりする。
「熱いのは熱いですけど、でも美味しいです」
「ですよね!」
感想を共有できることが嬉しいのか、アイリスの機嫌が先程から上り調子である。今なら、多少のお願いは受け入れてもらえそうな気がした。
「両手が塞がってるので、もうアイリスさんに食べさせることはできないですね」
「あ、お財布、返してもらいますね?」
「……」
右手が空いた。
「んあ……」
アイリスの口も開いた。
「……どうぞ」
またしても観念して差し出したたこ焼きが冷まされ、三度アイリスの口の中に消えていく。その満足そうな表情は変わらない。
「さ、あと二個は葵さんのですね」
「アイリスさんが食べたいって言って買ったんですから、僕は少なくても大丈夫ですよ?」
「そう言ってくれるのは嬉しいですけど、他にも色々ありますから。あんまり最初に食べ過ぎるのも」
「なるほど。そういうことですか」
アイリスの言う通りである。ここから見えるだけでも、まだまだたくさんの飲食系の屋台が並んでいる。最初から飛ばし過ぎるのは、流石に控えた方がいいだろう。
「そんなわけで、残りは葵さんの分です」
「じゃあ、遠慮なく」
「あ、その前に」
「はい?」
爪楊枝を掴もうとした、その瞬間。アイリスが不穏な動きと共に自分のことを制止する。具体的に言えば、再び財布を取り出しながらの一言だった。
「はい、これ」
「……」
「はい」
「……」
右手が塞がった。
「どうぞっ」
満面の笑みのアイリスによって、たこ焼きが口元に差し出される。当然、逃げ道はない。
「……いただきます」
結局、残りの一個も自分の手で食べることはなかった。
二人で三個ずつのたこ焼きを食べ終え、次はどこへ行こうかと相談しながらゆっくりと歩いていく。話題の中心が次のことなのであって、今まで食べていたたこ焼きの感想も忘れた訳ではなかった。
「美味しかったですね」
「美味しかったのは美味しかったですけど、流石にちょっと恥ずかしかったです」
「そんなにですか? 私は楽しかったですよ?」
「後輩に食べさせてもらうのは……」
「今は同い年じゃないですか」
「……誰かに食べさせてもらうのが」
アイリスは満足そうに笑っているが、恥ずかしいものは恥ずかしい。相手が後輩であろうと同い年であろうと、そこに大きな違いはない。
「確かに、葵さんはどっちかって言ったらお世話する側でしょうしね」
「見ていて心配になる人が増えましたしね?」
「どうして私を見るんですか?」
「特に深い意味は。アイリスさんと話してるからじゃないですか?」
「絶対嘘です」
確かに嘘で、大して深くはない意味ならある。それでも、最近はその機会も減ってきたような気はしている。いわば、この四か月の成長の証だった。
「あ」
「え?」
そんなアイリスを見ていて、とあることに気が付く。
「口の端。ちょっとだけソースが付いてます」
そう言って、自分の口の端を指差す。よく見れば分かるという程度だったが、間違いなくうっすらと茶色が残っていた。
「え? ほんとですか?」
慌てたようにアイリスが口元に触れるが、微妙に位置が合っていない。依然として茶色は残ったままだ。そもそも、屋台で貰った手拭き用の乾いた紙では、拭ったところで綺麗に取れない可能性の方が高い。
「取れました?」
「いや、だめですね」
「んぅー……?」
再び拭うも、変化はない。口元を指して場所を示したが、それに気付いていないのかもしれない。
見ていても仕方がないので、信玄袋からウェットティッシュを取り出す。
「ほら、じっとしててください」
「んぅ」
こうなれば、もう見えている側が拭いた方が早い。一旦足を止め、アイリスの口の端をウェットティッシュでそっと拭う。
こうしていると、小さな子供相手に同じことをしていたのを思い出す。世話を焼く側となった原点は、きっとそこにあるのだろうと、場違いなことが頭に浮かんだ。
「綺麗になりましたよ」
「あ、ありがとうございます……?」
何故か困惑しているアイリスを尻目に、役目を終えたウェットティッシュをごみ箱へと捨ててしまう。
振り返れば、アイリスの表情が困惑から不満に変わっていた。
「何ですか」
「『小さい子供みたいだな』とか、そんなことを考えてましたよね」
「否定はしません」
「ほら! やっぱり!」
何がそんなに気に入らないのか、不満そうな顔は変わらない。口の端にソースを付けたままにしていたアイリスの行動など、まさに小さな子供の行動そのもののはずなのだが。
「私、そんなに小さい子供じゃないですからね!」
「だったら、口の端に何か付いたままにしないように気を付けましょうね」
「ぐっ……! あ、葵さんだってソースが……!」
「付いてません。さっき拭きました」
「うぅー!」
苦し紛れの反撃が及ばなかったアイリスの悔しがる声が、夏祭りの喧騒の中に響く。それだけ不満そうにしていても可愛く見えてしまうのだから、もう存在そのものが反則である。
「そもそも、『甘やかしてほしい』って言ったのはアイリスさんじゃないですか」
「そうですけど! これは何か違う気がしますっ」
「まぁ、子供のお世話ですもんね」
「分かってるんじゃないですか!」
自分の余計な一言で、アイリスの悔しさのボルテージが一段階上がる。頬を赤く染め、必死に何かを訴える姿は、見る人によっては心に刺さる仕草なのかもしれない。だが、実態はただの抗議である。現実はそこまで甘くない。
「ほらほら、そういうことはいいですから。お祭りは逃げませんけど、時間は逃げていきますよ」
「よくないですもんっ」
可愛さの方が圧倒的に強い抗議を受け流しつつ、次なる屋台に向かって歩みを再開する。アイリスが素直についてきてくれるかが心配ではあったが、一歩分の遅れを取り戻すかのような下駄の音がした後、これまでと同じく隣に並んでくれた。
「それでもついてきてはくれるんですね」
「……時間は逃げますから」
抗議と時間の天秤は、どうも時間に傾いたらしい。だが、その心情は複雑なようで、明らかな不満を表す表情がアイリスの顔には張り付いていた。




