38. 一緒だから
「……っ!? ……っ!?」
画面の中で何か変化がある度に、掴まれた手首に力が込められる。痛くはないものの、しばらく痕が残りそうではあった。
アイリスと一緒に一本目のホラー映画を観始めてから、既に一時間程が経った。物語は中盤に差しかかり、脅かし役の黒髪の女性も絶好調である。その好調ぶりたるや、隣のアイリスがぷるぷると小刻みに震える程だ。手首を通して、その震えが伝わってくる。
その様子が気になって少しだけ目を向けてみれば、まだ一本目の半分だというのに、既に零れ落ちそうな程に涙を湛えている目が、そこにはあった。律儀にも、その目を逸らすことなく視聴を続けている。妙なところで真面目だが、多少逸らしたところで誰も文句など言わないというのに。
「ひぁあぁぁ!?」
いきなり画面に大写しになった女性を見て、アイリスからそんな悲鳴が上がる。悲鳴の大きさに比例して、手首に込められる力も強くなる。とりあえずは今日一番だった。
「葵さん! これだめですって!」
とうとう、観始めてから初めての弱音が飛び出した。これまでの傾向から考えるに、何かがいきなり登場するような表現に弱いらしい。
そうしてアイリスが震えながら自分を見つめている間にも、画面の中で話は進んでいく。
「こういう表現、僕も好きじゃないんですよね」
「ですよね!? じゃあ、もうやめにしませんか!?」
話についていくために画面に目を戻し、ぼそりとそう呟く。自身の反応を受け入れてもらえたと思ったのか、アイリスがここぞとばかりにホラー会の中止を申し込んできた。
「だって、突然目の前に現れたら、それが何であっても人間は反射的に反応するじゃないですか」
「あの!? そういうことじゃなくて……!」
だが、残念ながら自分が言いたいことはそうではなかった。
「ぶつかったら危ないので、咄嗟に止まるために反応する必要があるんですよね。その体の反応を怖がってるみたいに捉えた挙句、それを狙った表現をするのは、正直呆れるしかないと言うか……」
「私の話を聞いてください……!」
「もっとこう、心理的に怖いとか、その辺に訴えかけてきてほしいんです」
すぐ近くで微かな物音がして、何かがいるのではないかと思ってしまうような恐怖。ゆっくり振り返って、視界の端から少しずつ姿を現していく何か。やはり何かがいたと思いつつも、それでも振り返るのを止めることができない。そういった怖さが自分の好みなのだった。
「分かりました! 葵さんのホラーの好みは分かりましたからぁ! ひぃ!?」
黒髪の女性が画面の中で這いずり回る音が、アイリスの言葉を強制的に中断させる。こう表現するのが合っているのかは知らないが、全力で楽しんでくれているようだった。これなら選んだ甲斐があるというものだ。
「アイリスさんはどんな表現が好きです?」
「全部嫌いですっ!」
楽しさの方向性が違うのか、そういった話はできないらしい。そもそも、そんな余裕が今のアイリスにあるとは到底思えなかったが。
「っ!? 後ろ……! 後ろぉ……!」
はっきりと「嫌い」と言う間にも、話は少しずつ進んでいく。画面の中の登場人物に気付くよう促している辺り、随分と物語に入り込んでいるようだった。
体の震えは、まだしばらく落ち着きそうにない。
「……うぁ」
「面白かったですか?」
二時間かけて、一本目が終了した。まだ二本残っているにも関わらず、隣のアイリスは既に疲れ果てていた。感想にすらなっていない、小さな呻き声を漏らしてぼんやりしている。
「帰りたいです……」
「どこに?」
思わず安心できる場所に帰りたくなってしまったようだが、今いる場所こそが、アイリスが最も安心できるはずの家だった。つまり、安心できる場所はもうどこにもないということである。
「助けてください……、葵さん……」
「その僕が仕掛け人なんですよね」
「何でも言うことを聞きますから……!」
「じゃあ、あと二本、しっかり観ましょうか」
「いやぁ!?」
頭を抱えるアイリスを横目に見ながら、二本目のディスクをセットする。勝手に選んだ二本目は、一本目と同じく和風ホラー。先程の反応を見る限り、これもしっかりと楽しんでくれそうだった。
ソファに戻ってリモコンの再生ボタンを押そうとしたところで、自分の手に小さな手が重ねられた。
「何です?」
その手の持ち主は当然アイリス。この場にはアイリスと自分の二人しかいないのだから、最初から分かりきっていることだ。これでもし第三者の手なら、現実の方がずっとホラーということになる。
「……っ!」
手を重ねてきたアイリスは、必死で首を横に振っている。考えるまでもなく、再生しないでほしいといった意味だろう。
「今やめてくれたら、私のお部屋に入ってもいいですっ」
「再生、と」
「なんでですか!」
苦肉の策として絞り出したからなのか、その表情はやや険しいもの。この選択肢で自分を迷わせようとしているのかもしれないが、大して興味がないアイリスの部屋と、とても興味があるアイリスの反応。両者を天秤にかけた時にどちらに傾くかなど、火を見るよりも明らかである。
「ひぅ!?」
アイリスの必死の抵抗も空しく、画面の中で二本目のプロローグが始まってしまう。まだ何でもない映像でしかないのに、その体はもう震えていた。
一本目の時は片手で手首を掴まれていただけだったが、気付けば両手で握られている。握られる場所も手首から手に変わっていた。リモコンを持っていた時に、両手で押さえられてそのままだからか。
アイリスの両手が引っ込んだタイミングで、そのまま左腕ごと持っていかれる。傍から見れば随分と不思議な格好になっている気もするが、どうせ誰も見ていないのだからとあまり気にしないことにする。
これから再び訪れる恐怖に緊張しているのか、それとも一本目の影響なのか。左手を包むアイリスの手が、ほんの少しだけ汗ばんでいるのが印象的だった。
「あぁ……!」
最早今日何度目になるかも分からないアイリスの呻き声。一本目のように、いきなり画面に何かが現れて脅かしてくる表現こそないものの、気付けば何かが近付いてくるといった、静かな恐怖に打ちのめされていた。どうやら、二本目はこういった趣向らしい。
作中で何度も聞いた、何かが近付いてくる呻き声。擦れ気味のその声が、再び聞こえてくる。
「……っ!? ……っ!?」
その度に、左手が強く握り締められる。その時のアイリスの感情を示す、とても分かりやすいバロメーターである。
ちなみに、今は「とても怖い」の状態だった。通常の状態が「怖い」で、その上に「とても怖い」、そして一番上に「泣きそうな程怖い」がある。当然、段階に比例して手に力が入るのは変わっていない。
そんな細かな変化まで理解できるようになったところで、二本目もいよいよクライマックスに差し掛かる。映像と音からなる様々な恐怖の波状攻撃が、これでもかとアイリスを追い込んでいた。
「ふあ!?」
追い込まれ過ぎた結果、なかなか聞くことができないタイプの悲鳴が飛び出していた。
「どこから声を出したんですか」
「分かりませんよぉ……。そんな余裕なんてないです……」
「誰のせいなんでしょうね」
「葵さんに決まってるじゃ……ひぁあ!?」
最後まで言いきることすら許してもらえていない。遂に完全に画面から背けられた顔が、ぐっと自分の肩口に押し付けられる。
そうこうしているうちに、映像が途切れてスタッフロールが流れ始めた。アイリスの言葉を途切れさせた先程の一撃が最後だったらしい。
「終わりましたよ」
「……ほんとですか?」
こんな機会を作ったということで信用されていないのか、顔も上げずに疑うような声音で尋ねてくる。エンディングの曲が流れているのは聞こえているはずなのだが、とことん疑ってからでないと視線を向けたくないらしい。
「ほら、スタッフロールですから」
「はぁー……!」
画面を横目でちらりと確認してから、大きく息を吐き出すアイリス。肩口に顔を押し付けたままそんなことをされると、その熱の行く先は自分の腕しかない。息のかかった部分が、妙に生温かく感じられた。
「疲れました……」
「まだあと一本あるのに?」
ぐったりとした様子で体を預けてくるアイリスに、少しだけ緊張しながらそう問いかける。仕掛け人である自分が言うのも何だが、このまま最後の一本を見ても大丈夫なのだろうか。
「何で葵さんがそんなに平然としてるのか、意味が分からないです」
「前も言ったじゃないですか。所詮は作り物だって」
「分かってても、怖いものは……!?」
そこで唐突にアイリスの言葉が途切れる。その視線の先を追って画面に目を向ければ、スタッフロールが流れていたはずの画面に、物語の舞台となった古い日本家屋が映っていた。
中途半端に開いていた玄関の引き戸が、ゆっくりと閉まっていく。その引き戸が完全に閉じた、その瞬間。
叩きつけるような音と共に、ガラス部分に真っ赤な手形が現れた。
「いやぁあ!?」
握られたままだった左手に、一気に力が込められた。疑う余地もない程に「泣きそうな程怖い」の力強さだった。せっかく離れた顔は再び肩口に逆戻り。小刻みに震える様子は、まるで生まれたての小鹿のようである。足だけでなく全身が震えている辺り、なお状況は悪いのかもしれない。
たまに見る、スタッフロールの間にも映像が挟み込まれるパターンだった。どうやら、それに綺麗に引っかかったということらしい。
そのままアイリスが固く目を閉じている間に、今度こそスタッフロールが終わり、再生も終了した。
「今度こそ終わりましたよ」
「嘘です! そうやってまた騙そうとしてるのは分かってます!」
「騙すも何も、さっきのは僕も知りませんでしたから」
初めて見るのだから、あんな仕掛けがあることなど知りようがない。だが、その事実がアイリスに伝わるかはまた別問題で、疑心暗鬼に陥ったアイリスに目を開ける様子は見られない。
「ほら。離してくれないと次の準備ができませんって。せっかく三本目が一番怖そうなのに」
「しなくていいんですよっ!」
アイリスからすればそれでいいのか、そんな言葉と共に、より一層両手に力が込められる。リモコンの時とは違い、とうとう直接的な妨害に出てきた。
「そうやって目を閉じてると、何かが近付いてきそうじゃないですか?」
「おはようございます!」
自分の適当極まりない発言に、アイリスがぱっちりとその目を開く。予想通り、瑠璃色の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。リビングには若干眩しい程の夏の日差しが差し込んでいるのに、一体何が怖いのだろうか。幽霊側にしても、これだけ明るい中での仕事は断りたいだろう。
「あ、後ろ……」
「ひぁっ!?」
そうは思いつつも、何もいないアイリスの背後に視線を向け、小さく呟く。狙い通り、過剰なまでに驚きながらアイリスが振り向いた。左手の拘束が緩んだ隙を突いて、ソファから立ち上がる。
「何もいませんよ」
「なんっ……!? 何なんですかぁ!」
「拘束を解くための嘘です」
「あっ!」
今更気付いても、もう遅い。手早くディスクを交換して、再生を始めてしまう。アイリスが妨害する暇すら与えない。
「あっ……」
「始まっちゃいましたね」
「葵さんが再生したんじゃないですかぁ!?」
次なる抗議は、手を握られるというような可愛い次元ではなかった。そのまま引き抜かれてしまうのではないかという勢いで、左腕を抱き締められる。あまりよくない体勢ではあるのだが、そんなことを気にする余裕は、今のアイリスにはないらしい。
「今からでもやめませんか!?」
「再生の止め方が分からないので……」
「リモコンで止めるだけですっ」
「リモコン……?」
「今まで触ってたのに!」
自分で再生を止めればそれで済む話なのに、何故かそこには思い至らないアイリス。きっと、それほど余裕がないということなのだろう。
「あ、ほら。いよいよですよ」
「っ!?」
暗い画面の中、雨音に交じって、何者かの低い唸り声が聞こえてくる。
最後に選んだのは海外作品だった。舞台となる廃病院の外観も、やはり日本のものとは雰囲気が違う。個人的には、映像の中の廃病院の方がそれらしい雰囲気に思えた。
ちなみに、アイリスは早くも画面を見ていない。自分の左腕を必死に抱き締めながら、再び肩口に顔を押し付けている。全身の小鹿具合も絶好調だった。
「観なくていいんですか?」
「観たくないんですよ……! 病院はだめですって……!」
「明らかに出ますからね」
「何で分かってるのに冷静なんですかぁ……」
「分かってるからですよ」
出ると分かっているのだから、恐れることはない。一番恐れるべきは、出るか出ないか分からない時だ。そうは言っても、その理屈はアイリスには通用しないのだろうが。
「まぁ、これが一番怖いみたいなので、無理にとは言いませんけど」
「だったらやめませんか!?」
「僕が見たくて借りてきたので」
「葵さんの家で見たらいいじゃないですか!」
「一人で見たって、そんなに面白くないですからね。せっかくなら誰かが怖がってくれないと」
自分で怖がれない分、他の誰かが怖がってくれなければ、あまりホラーを観たという気分になれない。そういう意味では、アイリスはうってつけの人物だった。それが自分勝手な理由だと分かってはいても、だ。
「羽崎先輩でも誘えばいいじゃないですか! 絶対に怖がってくれますって!」
何故か自らの方にぐいっと腕を引き寄せながら、アイリスがそう口にする。悠と詳しい話をしたことはないが、確かにアイリスの言う通りなのだろう。あの性格でホラー耐性があるとは思えなかった。
それでも、悠ではなくアイリスを誘ったのは。
「でしょうね。ただ、アイリスさんと観る方が楽しいでしょうから」
「……っ」
結局はそんな理由なのだった。画面上で話が進む中、しっかりとアイリスの目を見て告げると、そこでアイリスの言葉が止まってしまった。やや間が空いてから、何かを窺うようにおずおずとその口が開く。
「……ほんとですか?」
「こんな嘘を吐いてどうするんですか」
「……」
そこでまた、何かを考えているらしい無言の時間が生まれる。考えているというよりは、迷っているといったところだろうか。悩みの内容が何となく分かったような気がする中、しばらくしてからアイリスの口から出た言葉は。
「……私も観ます」
これまであの手この手で逃げようとしていたとは思えない、何かしらの覚悟を決めたような一言だった。
「さっきも言いましたけど、別に無理はしなくてもいいんですよ?」
ここまで追い詰めてから言うのもおかしな気がするが、本当に無理だとなれば、流石にそれ以上押すことはできない。今はまだ会話を交わすことができているが、それもできなくなれば、そこでお開きにするつもりだった。
「ちょっとだけですっ。ちょっとだけですからね!?」
「それ、観る意味あります?」
だが、一度覚悟を決めたアイリスは引き下がらない。細切れ状態だったとしても、最後まで駆け抜けるつもりらしい。
「雰囲気だけでもいいんですもん!」
そう言って、怖気づきながらもどうにか画面へと視線を向けるアイリス。
「あ」
「ひゃぁあ!?」
タイミングがいいのか悪いのか。登場人物の一人が悪ふざけでもしていたらしく、いきなり顔が画面に大写しになった。
せっかく上がったアイリスの顔は、そのまま肩口へと戻っていった。
結局のところ、三本目を観ている間、アイリスが画面に目を向けることはほとんどなかった。ほんの数回ならあったようだが、それもすぐに視線を逸らしていたように思える。
視界がほぼない中、聴覚だけでホラー映画の進行を感じるのは、それはそれで怖いような気もするが、果たして大丈夫だったのだろうか。映画の中で悲鳴が上がる度、特大の震えを起こしていた時点で、あまり大丈夫ではない気はしている。
再生が終わったのを確認して、アイリスに声をかける。しっかりと腕を抱いているその姿は、もうコアラにしか見えなかった。
「アイリスさん?」
「……あい」
震えが口にまで影響を及ぼしているのか、若干噛み気味の返事である。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫に見えますか?」
「見えないです」
見える訳がなかった。もしこれが演技なのだとしたら、相当な演技派だ。
「だから言ったんですよ」
「だって……、一緒に観た方が楽しいって葵さんが言うから……」
「一緒に観たん……、ですかね……?」
一緒に観るとは何なのかを問いかけるような、アイリスの姿だった。自分が思わず首を傾げてしまうのは、仕方のないことだったのだろう。
「観たんです。そうですよね?」
「あ、はい。観ました」
必死なアイリスに押しきられる形で、一緒に見たと認めることとなった。アイリスがここまで言うのだから、これは一緒に観たと言っても問題ないはずだ。一体誰に対して言い訳のように言っているのか分からないが、心の中でそう思うことにする。
「はぁ……、やっと終わりました……」
そこでようやく人心地が付いたのか、アイリスがコアラ状態から脱した。深くため息を吐くその姿は、今まで見たどんな姿よりも疲れが滲んでいた。
かく言う自分も、映画を三本も観たことで流石に疲労を隠せない。アイリスの疲労は、また何か違う疲労なのだろうが。
「またいつか開催しますか、ホラー会」
「絶対にっ! 嫌っ! ですっ!」
「そこまで言わなくても」
拒絶の言葉が随分と力強かった。今回のようなホラー会は今後二度と開催されることがないと、はっきり理解できてしまう程である。今日のアイリスの様子を見れば、そんな返事になることなど分かりきってはいた。それでもそう問いかけたのは、ただのじゃれ合いのようなものだ。
そんな中身のない会話を交わしながら、ソファから立ち上がる。この家にやって来てから、既にかなりの時間が経っている。用事が済んだ以上、あまり長居するのもよくはないだろう。広げていたパッケージを手早く片付け、持ってきた袋に入れる。
「あの……」
「はい?」
どこか不安そうなアイリスから声をかけられたのは、そんな時だった。
「もしかして、もう帰ろうとしてます……?」
「今すぐってわけじゃないですけど、そうですね。長居しても悪いですし」
「……」
「アイリスさん?」
自分の返事を聞き、急に黙り込むアイリス。何かを言おうとしているのか、その迷いが瞳の揺れに表れていた。
そのまま僅かな時間が流れる。その間に答えが出たのか、揺れていた瞳が真っ直ぐ自分を捉えた。
「も、もうちょっと、一緒にいたいなー、なんて……」
「……」
「……」
「……家に一人になるのが怖いって、素直に言ったらどうです?」
「せめてお母さんが帰ってくるまではお願いしますっ!」
二人分の沈黙が続いた後、透けて見えていたアイリスの魂胆を指摘する。その結果、返ってきたのは必死の懇願だった。鮮やかな菜の花色の髪を揺らしながら頭を下げるアイリスの姿に、小さくため息を吐きながら苦笑いを浮かべる。
レティシアが帰ってくるのがいつになるのかは分からないが、もうしばらくはこの家に滞在することになりそうだった。
一本目の映画を観始める前よりも、アイリスとの距離が明らかに近くなっている夕暮れ時。拳一つ分空いていた隙間は、今や指一本すら入らない程の狭さになってしまっていた。
「今日はいいとして、明日からはどうするんですか」
「……葵さん、大体暇してるって言ってましたよね」
「暇じゃなくなりました」
「嘘! 絶対嘘です!」
「結構失礼なことを言ってるって自覚はあります?」
明らかに明日以降も連れ回そうとしている人物の発言だった。連れ回す理由が随分と特殊である。
「じゃあ、何をするんですか?」
「そうですね……。そういえば、買ったまま読んでない本がありますし、それでも読みます」
どこか問い詰めるような雰囲気を放つアイリスに乗せられ、ぼんやりと部屋の様子を思い出しながらそう答える。殺風景な部屋ではあるが、多少の時間を潰す程度はできる部屋だった。
「絶対に今考えたじゃないですか」
「いやいや。アイリスさんを怖がらせた次の日に読もうと思ってたんですよ」
「どんな予定の立て方ですか」
適当極まりない自分の返事に、アイリスが呆れた様子でため息を吐く。
そんなアイリスが背にしているのは、オレンジ色の光が差し込む大きな窓。先程まで映画を見ていた時とは、座る位置が異なっていた。恐らく、リビングの扉を背にするのが怖いのだろう。そんな状態で、これからしばらくこの家で暮らしていけるのだろうか。
「とにかく、予定ならありますから」
「本を読むくらいなら、ここでもできますよね?」
「どれだけ必死なんですか」
一人にならないようにするためなら、形振りなど構っていられないといった様子だった。アイリスが普段どこで大半の時間を過ごしているのかは知らないが、少なくとも今日はそのほとんどをリビングで過ごすことになるのだろう。
「そもそも、近くにアイリスさんがいて、ゆっくり本を読めるわけがないじゃないですか」
「近くに女の子がいるからってことですか?」
今この一瞬だけは恐怖を忘れてるのか、とても綺麗な笑顔でそんなことを口にする。綺麗な笑顔のはずなのに、妙に腹立たしい。
「近くに忙しない人がいて落ち着かないからですよ」
「結構失礼なことを言ってるって自覚はあります?」
「もちろん」
「もぉー!」
先程の自分と全く同じ言い回しだった辺り、きっと意趣返しのつもりだったのだろうが、その程度では特に効きもしない。結局悔しがるのはアイリスの側なのだった。
「真面目な話、これからどうするんですか。夏休みは長いですよ?」
「こうなったら、私が葵さんの家に押しかけます」
「日差しが厳しいですし、対策はしっかりしておいてくださいね」
「上げてくださいよっ。何で締め出したままなんですか!」
「家に誰かを上げるのが嫌なので」
自分の部屋は、自分だけの空間であってほしい。そう願うようになったのは、一体いつ頃だっただろうか。昔はこうではなかったように思えるが、あまり記憶が定かではない。
「見られたくないものでも隠してるんですか?」
「本くらいしかない、殺風景な部屋ですよ。大して広くもないですし」
「上げたくないって言われると、ますます興味が湧いてきました」
「絶対に上げないんですけどね」
残念ながら、恐怖を置き換えようとするかの如く湧いてくるらしいアイリスの好奇心が満たされることはない。ならば、その好奇心は早いところ忘れた方が本人のためである。
そういう訳で。
「あれ?」
わざとらしくそう呟きながら、天井を見上げる。
「どうかしました?」
狙い通り、アイリスも同じように天井を見上げる。そうなれば、あとは流れに乗って言葉を紡ぐのみ。
「アイリスさんって、ペットを飼ってたりします?」
「いえ? 何も飼ってないですけど、それがどうかしました?」
自分が言いたいことを理解できないのか、天井から視線を外して自分の方を向くのが何となく雰囲気で伝わってきた。
「今、二階で何か音がしませんでした?」
「っ!?」
視界の端で、いっそ気の毒な程にアイリスの肩が跳ねた。ひたひたと、忘れていた恐怖が再びにじり寄ってきたらしい。
視線を天井から戻せば、本当に身長が縮んでしまったのかと思ってしまう程に体を小さく丸めたアイリスが、先程以来となる涙をその目に浮かべていた。頬に一筋の跡を残して流れていった汗は、きっと暑さのせいではないはずだ。
「えっ……!? じょ、冗談、ですよね……? 二階って、私のお部屋があるんですけど……」
「冗談ですよ?」
「何かいるってこ……冗談なんですか!?」
「ですね」
別段長く引っ張るような話題でもないので、冗談だということをあっさりばらしてしまう。それを聞いたアイリスの反応は、これ以上なく分かりやすいものだった。
「なんなんですかぁ!? そんなに私を怖がらせて楽しいですか!?」
しっかりと好奇心を忘れ、今や心の中は恐怖と怒りで埋め尽くされているようだった。普段は共存し得ない二つの感情に掻き乱され、怯えながら怒るという、なかなかに珍しい表情を見せてくれている。
元々指先一本分の隙間もなかったのに、そんな表情のままさらに詰め寄られる。その行動から察するに、どうやら怒りの感情の方が優勢らしい。
「いっつもそうです! 何かある度に私のことをからかって!」
「それはお互いさまでは?」
アイリスを返り討ちにしたことも多々あったはずだ。自分が発端となるパターンばかりではない。
だが、そんな理屈は今のアイリスには通用しない。
「紗季とか純奈には優しいのに、何で私はからかわれてばっかりなんですかっ」
そう言って、さらに勢いを増して迫ってきた、その瞬間だった。
まさに先程眺めていた辺りから、家鳴りがしたのは。
「ひぁあ!?」
「っと……。……ぐぅっ」
ただの自然現象ではあるが、今のアイリスには効果覿面である。迫ってきた勢いそのままに、悲鳴を上げながら抱き付いてきた。抱き付くことに全力を注いでいるのか、小さな体を受け止めきれず、そのままソファに押し倒されてしまう。その瞬間、アイリスの悲鳴とは別の音がした。
その音とは、背中がソファの座面に着地した瞬間に、アイリスの頭が鳩尾にめり込んで出た音。当然、その出所は自分の喉である。
「な!? ななっ、何!? 何ですか!?」
完全にパニック状態と化したアイリスだが、声をかける余裕もない。そんなことよりも鳩尾の痛みだ。
鈍い痛みが全身に広がっていく中で、一瞬だけだが呼吸すら止まった。悶え苦しもうにも、アイリスに押さえつけられているせいで、それすらも上手くできない。
そのうえ、パニック状態のままのアイリスが、さらに頭を鳩尾に押し付けてくる。傍からであれば随分と親しげな間柄に見えるのかもしれないが、現実はそう甘くない。追い打ちをかけるような押し込みが、そんな雰囲気を一切許さない。
この奇妙な状況の中で、それらしい雰囲気を放っているのは、少し速くなった自分の鼓動だけ。ただし、アイリスに密着されたからではなく、未だ続く痛みが原因であることは間違いなかった。これまた何も甘くない。
「もういやです……!」
「僕も……、もう嫌です……」
同じ言葉だったが、きっとアイリスと自分の言っている意味は違うのだろう。何でもいいから、早くどいてほしい。
「葵さんだって怖いんじゃないですか!」
「違いますって……。家鳴りくらいで怖がるわけがないです……」
どうにか言葉を絞り出す。そこまで長い言葉を話している訳でもないのに、まるで息が切れているかのような、そんな錯覚に陥ってしまう。
「ほんとに家鳴りですか!? 何かいるんじゃないですか!?」
「大丈夫ですから……。お願いだからどいてくださいって……」
大丈夫ではないのは、むしろ鳩尾の方である。何か酸味のあるものが逆流しかけているような気配すらあった。
「あっ……。ご、ごめんなさい!」
そこに至ってようやく自身の状況に気付いたアイリスが、突っ込んできた時と同じ速さでその体を引く。とはいえ、それで受けたダメージがすぐになくなるということではない。起き上がることもせず、右手で鳩尾を労わることしか、今の自分にはできなかった。
「だ、大丈夫、ですか……?」
そんな自分の様子を見て流石に恐怖よりも心配が上回ったのか、やや控えめな声が聞こえてきた。左腕で目元を覆ってしまっているのでアイリスの顔を見ることはできないが、声の調子から察するに、どうすればいいのか分からず困ったような表情を見せているのだろう。
「……鳩尾に頭突きされて平気な人間はいません」
徐々に引いていく鈍い痛みと格闘しながら、再びそれだけを絞り出す。鳩尾に頭突きを受けたのもそうだが、その後の押し込みもかなり効いたのか、いつも通りに戻るまではもう少し時間がかかりそうである。
「ですよね!? ごめんなさいっ!」
慌てたように謝るアイリスの声が聞こえてくる。本人が思っていた形とはまるで違うのだろうが、一時的に恐怖を忘れることはできていそうだった。
「ひどい目に遭いました」
「最後のは私が悪かったですけど、元はと言えば、葵さんがあんなことを言うからです」
何とか痛みが引いてきた頃には、アイリスも幾分か冷静さを取り戻していた。随分と的確な物言いである。
「迂闊にアイリスさんを怖がらせると、こっちがダメージを受けるんですね。知りませんでした」
「これに懲りたら、もうしないでください」
「何でそんなに強気なんですか」
今回の件に関して言えば、喧嘩両成敗といったところだろう。七割程は自分に非があるような気もしたが、細かいことは気にしないことにする。
「こうなったら、頭突きも受け止められるくらいに鍛えるしか……」
「どうして怖がらせないって方向に考えないんですか?」
じっとりとした眼差しを向けてくるアイリスだったが、理由は単純明快である。
反応がいいからだ。
「でも、確かに少し鍛えてもいいかもしれませんね?」
そんなことを考えていると、アイリスから思わぬ一言があった。以前碧依達に言われた言葉とは正反対のそれが、まさかアイリスの口から出ることになるなど、予想できるはずがない。
「碧依さん達には鍛えるなって言われましたよ」
「程よく、です」
「はぁ……?」
「体が細くてお腹は柔らかいって、それってもう女の子ですよ?」
聞き捨てならない言葉が聞こえてきたところで、反射的に手が伸びる。これまでの自分では考えられなかった行動だった。
「アイリスさんの頬も柔らかいですね?」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ちょっと痛いです!」
両方の頬を摘んで、そのまま横に伸ばす。思った以上に柔らかい頬が、むにむにと面白いように形を変えた。やっている自分の側からすれば意外と楽しいが、アイリスからすればただただ情けない顔を晒しているだけである。
程よく伸ばして遊んだところで、頬を解放する。摘んでいたところだけがうっすらと赤くなっていた。
「何してくれるんですか、もう……」
解放された頬を両手で押さえ、不満そうに口を尖らせたアイリスが抗議の声を上げる。その声に少しだけ力がないのは、自らの発言が事の発端だと自覚しているからだろうか。
「お腹を摘まなかっただけ、まだ優しいと思ってください」
流石にそこまでする勇気はなかった。そこまでいくと、それはただの変態である。
「絶対にだめですからね!?」
「しませんって」
自分のことなので当然だが、自分は絶対にそんなことをしないと分かっている。だが、アイリスからすれば確実には分からないようで、自らの体を抱き締めるようにして首を横に振っていた。
「葵さんなら、どさくさに紛れてやるかもしれないじゃないですか!」
「僕のことを何だと」
本当にやりかねないと思われているのなら、非常に不本意と言うより他はない。何度か非常識な格好をした気はするが、それでも常識は失っていないはずだ。いくら多少は親しいとはいえ、後輩の女の子のお腹を触るなど、常識外れもいいところである。
「変なところで躊躇いがない先輩さんです」
「常識的な躊躇いはあります。アイリスさんと違って」
「最後の一言は必要でした? ねぇ? 葵さん?」
「大事な一言ですよ」
「いらないです!」
好奇心どころか、恐怖心をも忘れたアイリスの声がリビングに響く。その勢いは、鳩尾にダメージを受ける直前のものと全く一緒。再び同じ攻撃を受けないよう、無意識のうちに右手で鳩尾を守ってしまうのだった。
「あら」
「お邪魔してます」
「てっきり、もう帰ってるかと思ってたわ」
「そのつもりだったんですけどね」
午後六時過ぎ。空のオレンジ色が濃くなり、「逢魔が時」という表現が似合うような時間帯。
アイリスが今か今かと待ち望んだレティシアが、ようやく家に帰ってきた。
「何かあったの?」
「アイリスさんに束縛されてました」
「言い方に悪意があります!」
「娘のそういうところは知りたくなかったわ……」
「お母さんも真に受けないで!」
全て自分の言い方が悪かったせいだが、レティシアが心情的にも物理的にも少しだけ引いていた。慌てたようにアイリスが一歩距離を詰めれば、その分レティシアが一歩下がる。二人を隔てる距離は変わらない。
「何で逃げるの?」
「何となく。逃げておいた方がいいかなって」
「何となくで子供から逃げるって何……?」
「ま、そんな重たい娘は置いておいて」
「『太った』みたいな言い方しないでっ」
アイリスの抗議など聞こえていないのか、はたまた華麗に無視したのか、とにかくレティシアの視線が自分の方に戻ってくる。
「本当にどうしたの? 何かあった?」
「葵さん。言っちゃだめですからね」
「一人で家にいるのが怖いらしくて、引き止められました」
「微塵も話を聞いてない……!」
レティシアがしていたのと同じように、自分もアイリスの声は聞こえなかったことにした。これではいない者も同然である。
「アイリス……。あなた……」
詳しい事情を知ったレティシアは、やや呆れたようにそんな呟きを零す。口調と同じように、娘に向ける眼差しにも呆れが含まれていた。
「違うもん。外は暑いから、涼しくなってから帰ったらどうですかって思っただけだもん」
「たった数分の距離ですけど」
いかに暑くて無理は禁物だとしても、その程度の距離ならどうとでもなる。
そして何より。
「それに、そう言うなら明日からは一人で大丈夫ですね」
「ごめんなさい。嘘です。助けてください」
鮮やかな手の平返しである。結局あれから何の解決策も見出せなかったアイリスが、再び懇願の態勢に入った。若干の涙目で見つめられたところで、自分も妙案など浮かびはしないのだが。
「そんな調子で、夏休みの残りはどうするのよ」
「葵さんがこの家に入り浸る……」
「さっき断ったじゃないですか」
そっと目を逸らしながら言うアイリスは、諦めが悪いことこの上なかった。しかも、母親の前でよく臆面もなくその言葉を言えたものだ。保護者不在の家に高校生の男女を残しておいて、親として不安がない訳がない。その感情が表に出てこなくとも、あまりいい印象を抱かないことくらい、誰にだって理解できる。
「別に私はそれでもいいけど、葵君の都合もあるでしょ?」
「……」
今までで一番、アイリスとレティシアの親子関係を実感したかもしれない。この親に育てられたのなら、アイリスの普段の言動も納得できる部分が多かった。
「葵さん、大体暇してるって言ってたもん」
「予定は変わるものですよ。今は忙しくて仕方ないです」
「嘘ですね。私の目を見て言えますか?」
「とっても忙しいです」
「何でそんなにしっかり見つめながら言えるんですか。絶対嘘なのに」
瑠璃色の瞳を真正面から見つめながらの一言。やや気恥ずかしさを感じるものの、心を込めた、純度百パーセントの嘘だった。
対するアイリスは不満顔。嘘だと分かっているのに問い詰めることができず、きっともどかしい思いをしていることだろう。だからと言って、折れる気などない。
「忙しいって言ってるじゃない」
「どう考えても嘘でしょ? お母さん、ちゃんと葵さんのことを見てる?」
「あなた程は見てないわね」
「確かに」
丸め込もうとした相手に、アイリスが一瞬で丸め込まれる図を見た。それでいいのだろうか。
「で、どうするの?」
「……、葵さんの家に入り浸る……」
「さっき断ったじゃないですか」
「別に私はそれでもいいけど、葵君の都合もあるでしょ?」
やり取りが一分前と全く同じだった。だが、状況はより悪くなっている。よくない表現にしてしまえば、「男の家に入り浸る」だ。そして何より、レティシアの信頼が重い。
「僕が住んでる部屋なんですけど」
「何ですか?」
「何故か家賃が他の部屋より明らかに安いんですよね」
「絶対に出るじゃないですか!? やだぁ!?」
真面目な顔をして、今日分かった事実を悪用する。アイリスを撃退するには、この手の話が手っ取り早い。
「まぁ、嘘なんですけど」
とは言ったものの、思えば幽霊が七人程憑いていても、別におかしくはないことに思い至る。
「何がしたいんですかっ!?」
だが、そんなことはアイリスが知る由もなく、ただただあちこちへと感情を揺り動かされ続けるだけ。そのころころ変わる表情は、どれだけ見ていても飽きることがなかった。本人がどう思っているのかについては、今は考えないことにする。
「アイリスさんが諦めやすくなるかなと」
「もう!」
「つまり、一人で頑張りなさいってことね」
「そんなぁ!?」
レティシアのそんな総括に、絶望の悲鳴を上げるアイリスなのだった。




