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37. ヒガンバナ

「んぅ……」


 今日も寝ていた。誰が寝ているのかなど、最早言う必要もない。


「熟睡ですね」


 特に意識した訳ではないが、自然と声が小さめなものに変わる。当然、寝ているアイリスを起こさないようにするためだった。


 返ってくる声は、運転席と助手席から。


「いつものことだよ」

「今日は葵さんもいるから、もしかしたらって思ってたんだけどね」


 どうやら、遠出した日の帰りはいつもこうらしい。何かを期待していたらしいレティシアの言葉を受けて、改めて視線を隣に向ける。


 四月に出会ってからほぼ毎日自分を見上げてきた目は閉じられ、一体どんな夢を見ているのか、口元は若干緩んでいた。鮮やかな瑠璃色が見られず、綺麗な声を聞けないのは残念ではあるが、寝顔は寝顔で尋常ではなく可愛いので、これもまたありなのだろう。


 窓に寄り掛かって寝ているせいか、規則正しい寝息に合わせ、窓ガラスの一部が白く曇っていた。


「後輩の両親と同じ車の中に取り残されるのは、ちょっと気まずいかな?」

「今更です」

「まぁ、それもそうね。最初からあんまり物怖じしてなかった気もするし」

「慣れてますから。接客業ですし」


 自分のことを気遣うように言うアーロンだったが、一年以上も接客をしていれば、そういった耐性は嫌でも上がる。働き始めた時には想像もしていなかった、思わぬ副産物だった。


「そういえば、ずっと気になってたことがあるんですけど」

「うん?」


 自分達の間柄の話になったということで、本当に何となく今思い出しただけの疑問をアーロンとレティシアに投げかけてみる。


「アーロンさんもレティシアさんも、どうして僕のことは『さん』付けなんですか?」


 思い返してみれば、初めて会った時からそうだった。二人の年齢は知らないが、どう考えても自分と二回り程は離れているはずだ。それだけ年下の、一介の高校生に対する敬称ではないと常々思ってはいたのだ。


「別に大した理由はないんだけどね」

「そうね。単にアイリスがそう呼んでたから、私達もそうなったってだけ」

「どれだけ刷り込みを……」


 返事があるはずもないが、思わず再びアイリスを見つめてしまう。その口からは、ただただ規則正しい寝息が漏れるだけ。


「平日は毎日かな」

「他に話すことはないんですか」

「それはアイリスに聞いてね」


 ごもっともなレティシアの言葉だった。自分から尋ねるのは恥ずかしいような気もするが、いつか尋ねてみても面白いのかもしれない。


「そんなに気になるかな?」

「嫌なわけじゃないです。でも、年上の人にそう呼ばれると、少しむず痒い気はします」

「そうねぇ……。じゃあ、ありきたりだけど、葵君?」

「それなら慣れてます」

「それならそうしようか。『さん』付けよりも仲が良さそうに思えるしね」


 後輩の両親との間柄を「仲が良い」と表現してもいいのかという気もしたが、本人達がそれでいいなら、自分がとやかく言うこともない。仲が悪いよりはずっといいのだから。


「着実に一家に馴染んでる気もするし」

「どう考えても不純物ですよ」


 そんなアーロンの一言で、一家に紛れ込んだ狐耳ウェイトレスの男子高校生の姿を思い出してしまった。できれば思い出したくなどなかった、不純物の極みのような姿である。


「ほら、『一姫二太郎』って言うじゃない?」

「僕が弟なんですね」

「その件はもうやってるんだよ、実は」


 アーロンの口から流れるように語られる事実。アイリスが家でどんな話をしているのか、本当に気になってきた。


「ま、葵君とアイリスの二人で、アイリスがお姉さんなのは無理があるわね」


 くすくすと。そんな笑い声が聞こえてきそうな雰囲気のレティシアだったが、口にした言葉はその雰囲気に全く似合わない辛辣なものだった。




 いつの間にかアイリスが眠ってしまってから、どれだけの時間が経っただろうか。三人で何でもないような話を続けていたが、途中からアーロンの様子に何度か違和感が覚えていた。何と言えばいいのかは分からないが、口数が少し減り、何かを窺っているような気配がある。


 そんな違和感を抱いていたまましばらくして。不意に会話が途切れたタイミングで、まさにそのアーロンが口を開いた。


「……葵君」


 敬称が変わった、その呼び方。だが、これまでの軽やかな口調とは違い、どこか重苦しい印象の口調だった。


「はい?」

「実は、僕も聞きたいことがあったんだけど、いいかな?」

「聞きたいこと、ですか?」

「あぁ」


 来たと、そう感じた。これからアーロンが口にすることは、きっと先程からタイミングを窺っていたことだろう。何を考えていたのかは想像できないが、その様子からして、恐らく明るい話ではないはずだ。


「話してもらわないことには何とも言えないですけど、多分大丈夫です」

「それでいいのかい?」


 アーロンも、自分が何かを察したことは分かっているだろう。それでもあっさり答えた自分の様子に、ルームミラーに映るアーロンが苦笑いを浮かべていた。


「まぁ、それなら……」


 けれども、そんな表情は長続きしない。すっと真面目な表情に切り替わったアーロンが、とうとうそのことを切り出した。


「聞きたかったことっていうのはね、葵君のご両親のことなんだ」

「……っ」


 その言葉を聞いた途端、これまでの穏やかな気持ちは消え、心が一気に冷えていく。忘れてはいけないと誓いながらも、心の奥底に閉じ込め続けていた光景が、嫌でも顔を覗かせる。


「……」


 いつか尋ねられるのではないかと思っていたが、まさかこのタイミングとは思いもしなかった。そのせいもあってか、上手く返事ができずに黙り込む。


「葵君?」


 そんな心情の変化が顔にも表れていたのか、それとも、単に黙り込んでしまったことを不自然に思われたのか。レティシアが気遣うように話しかけてくる。


「あ、いや……、大丈夫です」

「本当に?」

「多分」


 いつも通りの様子を装うように努めるが、上手く話せる自信はない。それでも、何も言わないまま黙り続けることはできなかった。


「両親が、どうかしましたか?」


 果たして、その声は震えていなかっただろうか。たったそれだけのことすらも、今の自分には分からない。


「まぁ、こんなところで話すことじゃないのは、分かってはいるんだけどね。でも、なるべくアイリスが聞いていないところってなると、なかなかなくて」

「大体一緒にいますからね」


 そんな言い方をするということは、ある程度事情を知っていると考えてもいいだろう。問題は、どこまで知っているのか、である。もちろん、全てを知っているはずはない。あのことの全貌を知っているのは、この世で自分だけだ。


「葵君は今、一人暮らしなんだよね?」

「ですね。去年から」

「詳しく話を聞いたことはないけど、もしかして、ご両親はもう亡くなってるんじゃないのかな? それも、七年前に」

「……」


 大当たりである。アーロンの言う通り、両親が亡くなったのは七年前。自分が九歳の時だった。そこまで正確に言い当てられる辺り、随分と詳しく調べているらしい。


 またしても黙ってしまった自分の反応で、アーロンも答えが分かったことだろう。それでも、一応は返事をしておく。


「……そうですね」

「そうか。ってことは、葵君はやっぱり……」

「アーロンさんが想像している通りです」

「だから葵君、一人暮らしだったの?」


 その返事で何かを確信したらしく、ルームミラーの中のアーロンの目が少しだけ細められた。一方で、レティシアは事情を知らないようだった。こんなところで一人暮らしの理由を明かされて、分かりやすく驚いたような口調になっている。


「でも、どうして七年前だなんて分かったの?」


 恐らくたくさんの疑問が湧いているであろうレティシアの言葉が向かう先は、自分ではなくアーロンだった。無意識のうちに、この手の話を自分に尋ねるのを避けたのかもしれない。


「七年前……、あー……。もっと言うと、九年前、かな?」


  そんなところで、アーロンから確認が入る。やはり、詳しくはあるが全てではない。


「合ってます」

「ありがとう。その九年前に、連続誘拐事件があったのは覚えてるかい?」

「もちろん。地方の県の小さな町にしては、かなり大きな事件だったから。結局六人全員助からなかったのよね?」

「そうだね。犯人の夫婦と一緒に、誘拐された全員が火事で亡くなったはずだよ。それが七年前だ」

「……」

「あ……、え……?」


 アーロンの説明によって、とうとうレティシアも答えに辿り着いてしまう。いきなり突き付けられた事実に困惑しているのが、後ろから見ているだけでも分かった。


「犯人の夫婦の名前は、湊橋也と湊七実。……葵君」

「はい」

「君のご両親、だろう?」

「……」


 児童連続誘拐事件。


 今から九年前、丸一年をかけて複数人の児童が誘拐された事件。一回一回の犯行が周到に準備されていて、手掛かりと呼べるものがほとんど残されておらず、解決までに一年以上の時間を要した事件である。


 七年前に犯人が特定されたが、当の二人は逃げることもなく、誘拐した子供を監禁していた自宅に火を放ち、そのままほぼ全員が焼死した。ニュースでは、そう伝えられている。


「そうですね。両親です」


 今更否定したところで意味もないので、か細い声で事実を認める。走行音に紛れて二人に届かないのではないかとすら思えるような声だったが、どうにか届いてくれたらしい。


「そういえば、あの火事で犯人夫婦の子供だけは助かったって……」

「それが葵君なんだろう?」

「……そうですね」


 顔を覗かせた、真っ赤な記憶。火が放たれる前に何があったのかは、記憶が混濁していて思い出すことができない。だが、目を覚ました時、既に周囲は火の海だったことは覚えている。


 その後の記憶には、再び霧がかかっている。とにかく外へ逃げ出すのに必死だったことは間違いない。それでも、途中で見たいくつもの黒い塊だけは、鮮明に記憶に刻まれていた。


「いつ気付いたんですか?」


 一度だけ頭を振ってその光景を封じ込め、今度は自分から尋ねる。いくら大きな事件だったからといって、無関係だったアーロンが七年前に終息した事件の詳細を覚えているはずがない。何か思うことがあったからこそ、改めて詳しく調べたのだろう。


 そうなれば、一体いつから疑っていたのかが気になるのは当然のことだった。


「名字を聞いて、一人暮らしをしてるって知った時かな。あの町でその名字は、それだけ大きな意味がある」

「それを知って、お二人はどうするつもりですか? もうアイリスさんには近付くな、と?」


 冷えきった心そのままに、やや悪意を込めた言葉を口にしてしまう。だが、子を持つ親としてはそれが当然の反応だろう。児童誘拐の関係者など、一番近付けたくない部類のはずだ。


「……」


 ふと、隣で眠るアイリスに目を向ける。今は穏やかに寝息を立てるアイリスだが、この話を聞いたら、一体どんな反応を見せるだろうか。


 一番考えられるのは、はっきりとした拒絶。アイリスがそういったことをできる性格なのかは置いておくとして、近くにいてほしくないと考えるのは当たり前だ。事実、友人だと思っていた相手も皆そうだった。


「いや? 別にそんなことは考えてないけど」

「そうね」

「これでも、アイリスから散々話を聞かされて、こうして直接会ってもいるからね」

「葵君がどんな子なのか、私達はある程度知ってるし」


 だが、アーロンとレティシアから返ってきた言葉は、全く予想していないものだった。それだけに、その言葉を信用することができない。そう言いながら結局離れていった人など、これまでにいくらでもいる。


「気を遣わなくても大丈夫ですよ。慣れてますから」

「慣れるって」

「表面上は今のお二人みたいなことを言って、実は裏では、なんて人もいましたし」


 町外の高校に通っている影響なのか、今は周囲もさほど気にしてはいないようだが、町内の中学校に通っていた頃は大変だった。それこそ、性格が大きく変わってしまう程に。


「……」


 当人の心情が分かるのは当人だけ。アーロンもレティシアも、それをよく理解しているのか、何も声をかけてこなかった。それとも、単純に言葉を探している間だったのかもしれないが。


「人間なんて、信用できない生き物ですから」


 小さく零した、心の奥底に隠していた一言。タイヤが地面と擦れる音だけが響く車内。その言葉は、きっと届いているはずだ。


 いつか莉花に言ったことがある「人嫌い」という言葉。その言葉が一番当てはまるのは、紛れもなく自分自身だった。


「……私達二人はそれでもいいわ。今はね」

「そうだね。でも、こんな話をしてるのに、その隣で熟睡してるアイリスのことはしっかりと見てあげてほしいかな」

「そうね。今更葵君が離れていったら、多分大泣きするわよ、その子」

「……独り立ちは遠そうですね」


 自らのことよりも娘のことを心配する姿は、まさしく親といった姿だった。そう言われると、確かに泣きそうではある。以前アーロンに家まで送ってもらった時に、住んでいる部屋の場所まで見られたはずだ。下手をすると、そこまで押しかけられる可能性すらある。


「四月からずっと一緒にいたなら分かると思うけど、アイリスはとにかく隠し事が下手だからね」

「それは……。……確かに」


 その言葉を肯定するのもどうかと思ったが、だからと言って否定はどう考えてもできなかった。隠し事が上手いアイリスなど、これまでの姿からは想像できない。


「仮にその子が今の話を聞いたとしても、きっと態度は変わらないわよ」


 両親からしてもその評価。もちろん、自分としても信用はしたいが、この数年で形成された性格がどうしても邪魔をする。あるいは、これだけ慕ってくれる後輩に嫌われるのが怖いだけなのか。どちらにせよ、まだアイリスに話すことはできないだろうと思う。


 それはそれとして。


「そもそも、もう少し落ち着いてくれたらいいんですけどね」

「それは無理だね」

「えぇ、無理ね」


 今度は二人揃って辛辣だった。




「今日はありがとうございました」

「こちらこそ、付き合ってくれてありがとうね」

「最後まで寝たままでごめんなさいね?」


 自宅の前まで送ってもらい、車の外から頭を下げる。レティシアが目を向けた先では、これまでと何も変わらずアイリスが眠り続けていた。


「随分はしゃいでましたからね。疲れても仕方ないです」

「そう言ってもらえると助かるよ」


 今度はアーロンが目を向ける。その眼差しは穏やかで、自分がいない時の普段の関係性が窺えた。


「……」


 そんな二人からやや目を逸らしつつ、今はもういない両親のそんな様子を思い出そうとしてしまう。車の中であんな話をしたのも影響しているのだろうか。だが、思い出は既に遠い彼方へと消え去ってしまいそうになっていて、どうにもはっきりとしない。


 だからこそ、そんな光景がどこか羨ましかったのかもしれない。もしくは、そんな光景だからこそ、見るのが辛かったのかもしれない。とにかく、なるべく早く一人になりたかった。そうしないと、また余計なことを言ってしまいそうだったから。


 そんな思いを隠し、なるべくいつも通りに口を開く。


「それじゃあ、僕はこれで」

「うん、またね」

「葵君」


 もう一度頭を下げて踵を返そうとしたところで、レティシアが真剣な目付きで自分を見つめていることに気が付いた。その声も、いつもより数段は落ち着いたもの。


「はい?」

「離れるのはなし、だから」

「……」


 心の内を綺麗に見透かされていて、思わず黙り込んでしまう。この場においては、そんな態度は何よりも分かりやすい肯定を示している。


 完全に離れるのはある程度先だとしても、少しずつ関わりを減らすつもりではいた。あんな話をしてしまった以上、これまで通りでいられるはずがない。


「さっき、『離れないであげて』って言った時、はっきりとした返事をしてくれなかったから」

「……そうですね」


 未だに真剣な眼差しのレティシアは、そんなところまで見抜いていたらしい。その言葉の通り、わざと返事をしなかったのだった。


「この子はまだ知らないから何も言えないけど、少なくとも、私達二人は態度を変えるつもりはないわ」

「そうだね。まだアイリスがお世話になってるお礼もしてないし。夏休み中にもう一回は付き合ってもらうよ」


 この先どうなっていくのかは分からないが、今が大きな分岐点なのだろうと思う。ようやく手に入れた、一人で歩いていく安寧の道か。それとも、誰かと一緒に歩いていく予測不能な道か。自分が選ぶべきは、一体どちらの道なのか。


「頷いてくれないなら、毎日部屋の呼び鈴を連打しに来るわ」

「大人なのか大人気ないのか、どっちかにしてくださいよ」


 これまで真剣な雰囲気を放っていたレティシアのまさかの宣言に、図らずも笑みが漏れてしまった。自分のことを見透かしていた大人はどこへ消えてしまったのか。今目の前にいるのは、堂々と小学生のような宣言をする大人である。


「そんな風に笑ってくれるのなら、今のところは大丈夫そうね」

「分かりましたから。降参です」

「それじゃあ」

「面倒な生い立ちですけど、これからもよろしくお願いします」

「もちろん」


 結局、レティシアに押しきられる形となった。あるいは、心のどこかでは二人のことを信じたかったのかもしれない。何にせよ、これでこれからも関係は変わらないということだ。


「今はそれだけ聞けたら満足。引き止めちゃってごめんなさいね?」

「いえ、大丈夫ですから。それじゃあ……」

「えぇ。また今度」


 そう言いながら手を振るレティシア。この短時間で三度目になる会釈をして、今度こそ踵を返す。


 部屋の鍵を開けて、見慣れた室内へと足を踏み入れる。背後で扉が閉まったのとほぼ同時に、三人の乗る車が動き出す音が微かに耳に届いた。




「ほら、アイリス。起きなさい」

「んぅ……?」


 葵が車を降りてからほんの数分後のこと。自宅の駐車場に車を入れたアーロンが後部座席に回り、未だに眠り姫なアイリスに声をかけていた。


 帰路の途中から夢に浸っていたアイリスが、そこでようやく目を開く。まだまだ意識がはっきりしないようで、ぼんやりとした目で辺りを見回している。


「……あれ? 葵さんは……?」


 既に自宅に帰り着いているのだから、葵がその場にいないのは当然のことなのだが、寝起きの頭ではそこまで気付けないらしい。


「残念。お父さんだ」

「……」

「待ちなさい。どうして二度寝に入ろうとする」

「だって、面白くなかったから……」

「分かった。お父さんが悪かったから。だから起きて」


 アーロンの懇願によって、ようやくアイリスが完全に目を覚ました。それでも普段よりは若干瞼が下がっているのか、瑠璃色の瞳はその身を少しだけ隠している。


「それで? 葵さんは?」

「もう家まで送り届けたよ」

「どうして起こしてくれなかったの」

「熟睡してたからね。葵君も話す時に小声になってたし、起こさないように気を遣ってくれたんだと思うよ」

「……葵君?」


 寝起きの頭でも、アーロンの言葉に潜んだ違和感には気付いたらしい。やや不思議そうな顔をしたアイリスが、微かに首を傾げてみせた。


「あぁ。アイリスが寝てる間に色々あってね」

「色々?」

「そう、色々。本当に」

「ふーん……?」


 明らかに何かを誤魔化した様子のアーロン。その姿を見つめるアイリスの眼差しはどこか訝しげではあったが、一応はそれで納得したようだった。


 そこで、ようやくアイリスが車から降りる。閉めたドアのすぐ傍で、凝り固まった体を解すように大きく伸びをしていた。


 アーロンが、そんなアイリスに問う。


「今日は楽しかったかい?」

「うん!」


 対するアイリスは即答。見る者全てを魅了してしまうような、屈託のない笑みを浮かべていた。


「そうか。それなら、葵君にもきちんと伝えてあげるといいよ」

「うん?」


 事情を知らないアイリスが再び首を傾げるが、アーロンはそれ以上何も言わず、玄関へと足を向ける。


 後に残ったのは、何も知らないアイリスだけ。詳しく尋ねる相手もおらず、何をどうしても疑問を解消することはできない。


「変なの」


 呟かれた一言は、本人以外の誰の耳にも届くことなく、ふわりと夕闇の空へ吸い込まれていった。




 そんなことがあって、何か気まずくなるかといえば案外そうでもなく、アイリスと会う次の機会はすぐに訪れた。ただし、今回はアーロンとレティシアは不在である。それなのに、場所はアイリスの家。それでいいのかと問いたくなるが、今日の目的からして、どちらかの家でなければ難しい。そういうことならと、アーロンとレティシアが場所を提供してくれたのだった。


 高校生は夏休みでも、社会人たるアーロンとレティシアは働きに出ている八月二日、水曜日。その午前八時半。見慣れた家を前にして、呼び鈴を押す。


 やや間が空いてから聞こえてきた声は、いつもより明らかに沈んでいた。


「……来ちゃったんですね」

「来ちゃいました」

「なしにはなりませんか?」

「一人で観て、詳しく感想を伝えてくれるのなら」

「……」


 何かを迷っているような沈黙が少し続いた後、インターホンの接続が切れる音がした。それから二十秒もしないうちに玄関の扉が開き、中からアイリスが顔を覗かせた。


 そのまま無言でこちらまで近付いてきたアイリスと、小さな門を挟んで向かい合う。


「おはようございます」


 あの日以来、初めて直接交わす言葉。どこか不自然になるかもしれないという不安は杞憂に終わり、意外とこれまで通りの調子を維持できていた。


「……おはようございます」


 だが、対するアイリスの方がこれまで通りではない。今日何をするのかを考えれば、それも当然の反応ではあるのだが。


「元気がないですね」

「当たり前じゃないですかっ。これからホラー映画を観ないといけないんですよ!?」


 怒っていそうな口調なのに、表情はびくびくと。そんなアイリスが口にした通り、今日の目的はそれなのだった。だからこそ、どちらかの家でなければ難しいのである。


 嫌がりつつ、怯えつつ。それでも門扉を開けはしてくれたので、初めてその敷地内に足を踏み入れる。


「それでも迎え入れてはくれるんですね」

「だって、そうしないと一人で観ないといけなくなるんですもん……」

「受け取るだけ受け取って、ネットで適当に感想を調べることもできたんじゃないですか?」

「……」


 自分がそう言った途端、これまで分かりやすく怯えていたアイリスが俯いて黙り込んだ。明らかに脳が高速回転し、この状況を打破する一言を考えている。


「それじゃあ、今日はありがとうございました!」


 これまでとは打って変わって満面の笑みを浮かべるアイリス。恐ろしい程に可愛い笑みではあるが、それが本気で通用すると思っているのだろうか。


「もうばれてますけど」

「何のことですか?」


 どうやらあくまで惚けるつもりらしい。笑みは一切崩していない辺り、いっそ清々しさすら感じられる。


 だが、自分がそんなに簡単に逃がす訳もなく。


「どの辺がどうだったか僕からも聞くので、しっかり観ておいてくださいね」

「……一緒に観ましょうか!」


 手の平返しが止まらないアイリスだった。結局二人で観るという結論に落ち着き、家の中へと案内される。


 高校に入学してからかなりの頻度で目にしていた家。その外観から受ける印象に違わず、内装も随分と瀟洒なものだった。柔らかな照明が目に優しい。


「とりあえず、どうぞ」

「お邪魔します」


 そう言いながら頭を下げる。玄関に入ってすぐに、上がり框が目に入った。この辺りは日本風らしい。広々とした玄関だったが、並んでいる靴の数はかなり少なかった。恐らく、大半を靴箱の中にしまっているのだろう。


 用意されていたルームシューズに履き替え、先を歩くアイリスの背中を追う。


「私のお部屋は絶対にだめですからね!」


 二階へと続く階段の前で、まるで通せんぼをするかのように両手を広げたアイリスがそう宣言する。その様子から考えるに、アイリスの自室は二階にあるのだろう。


「分かってます。散らかってるんですよね」

「散らかってなんかないですっ。恥ずかしいだけですもん!」

「本当に?」

「……ほんとに」


 その間が少し怪しい空気を漂わせているが、とにかく、そこまで言うのであれば階段周りにはあまり近付かない方がいいだろう。ホラー以外にも気を張らないといけなくなるのは、不憫と言えば不憫だ。


「大丈夫ですって。二階には行かないので」

「それならいいんです」


 自分の言葉に安心したのか、アイリスが階段の前から退き、リビングの扉らしき方へと体を向けた。


 その姿を見送りつつ、自分の足は階段の方に向かう。


「リビングはこっちですかね」

「舌の根の乾かぬ内に!」


 自分がついてきていないことに気付いたアイリスが、あっという間に戻ってきて手首を掴む。もちろん本気で二階に行くつもりはなかったので、制止に従って動きを止める。もし本気で向かうつもりがあるのなら、この程度の拘束では止まらない。


「二階には行かないって言ったじゃないですか!」

「冗談ですって」


 再び階段の前に立ち塞がるアイリス。内心の焦りがそのまま表に出てきているのか、頬が若干赤くなっていた。


「そんなに私のお部屋が見たいんですか!」

「いや、それほどでもないです」

「そこは見たいって言ってくださいよ!」

「どうしたいんですか」


 この後に待ち構えるもののせいなのか、アイリスの言動が不安定だった。


「入るのはだめですけど、興味は持ってください」

「面倒……あ、いや、何でもないです」

「今、『面倒』って言いました?」

「言ってないです」


 認めるとそれはそれで面倒なことになるので、強引に言わなかったことにした。疑うような目で覗き込んでくるアイリスから逃れるために、顔ごと明後日の方向を向く。そうして逸らした視線の先には、どこかの部屋に繋がるであろう扉があった。


「後輩の女の子のお部屋ですよ? 少しくらい興味があったりしないんですか?」

「そんなことを言ったって、普段過ごしてる部屋ってだけじゃないですか。何に興味を持てと?」


 何か変わった物があるのなら興味も湧くが、そうでもないのなら、それはただの部屋だ。湧くものなど何もない。


「何て言うか、男の子としてそれでいいんですかね?」

「僕に言われても」


 自分のことしか知らないので、尋ねられても答えられる訳がなかった。


 それはそれとして、アイリスの様子がいつの間にかいつも通りのものに戻っている。


「ちなみに、私は葵さんのお部屋に興味があります!」

「何もない部屋です」


 その言葉通り、瞳をきらきらと輝かせて期待を表すアイリスだったが、残念ながら自分の部屋など殺風景なものだ。前提として、部屋自体があまり広くないからということもある。


「綺麗に片付いてそうですよね」

「きちんと掃除はしてますからね」


 印象通りの部屋ならいいのだが、これもまた自分ではよく分からない。誰かを招いたことなど、これまでただの一度もないのだった。


「とにかく、私のお部屋は想像だけしてください」

「さぞかし綺麗な部屋なんでしょうね。きちんと片付けられていて、色合いも整っていて……」

「わざわざ口に出さなくてもいいですって!」


 背後に回ったアイリスにそう言われながら、背中を押されて強制的にリビングへと連れていかれる。


 押し出されるようにして足を踏み入れたリビングは、随分と広い空間だった。外観の時点で大きな家だとは思っていたが、それに比例するかのような広さである。大きめに取られた窓からは外の光が差し込んでいて、広い空間を明るく照らしている。


 床の一部を覆うように敷かれたカーペットの上には、L字型のソファの組み合わせで閉じた空間ができあがっていた。個人的なことを言えば、広い空間の中にある閉じた空間は、落ち着けそうという理由で好きだ。その先にテレビがあるので、今日の主戦場はあそこになるのだろう。


 別の方向に視線を向ければ、そこにはキッチンがある。余計なものは置かれておらず、しっかり整理整頓されている。こちらは白を基調とした空間らしく、差し込む光を眩いくらいに反射していた。


 それら全てをまとめて、一言で表すならば。


「広いですね」


 やはりその言葉になるのだった。


「そうですか? 他の家のリビングってあんまり知らないので、何とも言えないんですけど……」


 落ち着きなく視線を彷徨わせる自分を物珍しそうに見ながら、アイリスがやや自信なさげにそう口にする。


「多分、僕の住んでる部屋が丸ごと入ります」

「へぇ……、このリビング、そんなに広かったんですね」


 普段生活している側からすれば、あまり気になる点ではないのだろう。どこか不思議そうな雰囲気も纏っていたアイリスが、言われて初めて気付いたとでも言わんばかりに頷いていた。


「キッチンも広くて羨ましいです」

「そう言うってことは、お料理もするんですか?」

「一人暮らしですから」


 生きていくためにはあった方がいい技能だ。今の時代、出来合いの物を買えばそれで大半は済むが、自分が食べたい物を作ることができるというところは、自炊の大きな利点である。


「そういえば、前に紗季達と図書館でそんなお話をしましたね」

「しましたっけ?」

「しましたよ。好きなお料理が筑前煮って、絶対に当たらないクイズを」

「あぁ……」


 記憶が曖昧だったが、その言葉で思い出した。言われてみれば、少し話したことがあった。話した張本人が忘れていたのに、よく覚えていたものだ。しかも、自分の答えまで。


「得意なんですか?」

「得意ですけど、どちらかと言うと『好き』ですかね」

「あー……、たまにいますよね、そういう人」

「化学の実験みたいで」

「……いませんね、そういう人」


 苦笑いを浮かべ、あっという間に自らの意見を翻したアイリス。今回に関しては、間違いなく自分が悪かった。料理をこんな形で捉えている高校生など少数派の極みなので、アイリスが予想できないのは当然である。


「そう言うアイリスさんは?」

「人には、得意なことと苦手なことがあってですね」

「苦手なんですね」


 話の流れで尋ねてみただけなのだが、すっと目を逸らしてそう言われたところで、その先の言葉は何となく予想ができてしまった。この流れで、自分の予想と反対に話が進む訳がない。


「まだ何も言ってないじゃないですか!」

「その入り方で得意なわけがないです」

「確かにそうですけど……!」


 案の定予想通りだった。悔しそうに口を尖らせるアイリスは、勝手なイメージで申し訳ないが、塩と砂糖を間違えていそうだった。


「やっぱり、お料理ってできた方がいいんですかね……?」


 何か思うところがあるのか、不安そうにこちらを見上げながらそう問いかけてくる。どんな答えを期待しているのかは分からないが、自分に返せるのはあくまで一般論だけだ。


「できるに越したことはないと思いますよ」

「ですよね。お母さんに教わろうかな……?」

「家庭科の実習でも役立ちますよ」

「何回あるんですか」

「年一くらいですかね」

「少な……」


 特殊なメリットも語ってはみたものの、どうやらアイリスには刺さらなかったらしい。恐らく、自分にはプレゼンの才能がないのだろう。


「お料理……。お料理かぁ……」

「何ですか」


 何故か何度も呟きながら、自分を見上げてくる。比較的感情が読みやすいアイリスだったが、今回はその心の内を読むことはできなかった。


「いや、何でもないです」

「そんな言い方をされると、妙に気になるんですよね」

「内緒です。ほら、お茶を淹れてきますから、向こうで座っててください」

「はぁ……?」


 そんな風に促されてしまっては仕方がないということで、大人しく示されたソファへと向かう。何人も同時に座ることができる程にスペースがあって、普通ならどこに座るのか迷ってしまうのだろう。


 だが、今日はアイリスと自分の二人しかいない。それならば、テレビの正面に当たる場所で大丈夫なはずだ。画面が一番見やすい、特等席である。


 借りてきたホラー映画を用意しながらしばらく待っていると、何となく記憶の中に残っているとある匂いが、キッチンの方から漂ってきた。


「ブルーマロウですか」


 思わずそう声をかける。


「そうですよ? 葵さんに台無しにされた、誕生日プレゼントの候補だった紅茶です」

「妙に悪意がありません?」


 これに関しては何も悪いことなどしていないと思うのだが、アイリスは一体いつまで根に持つつもりなのだろうか。覚えていても得をすることなどないので、一刻も早く忘れてほしい。


「お待たせしまし……」

「ありがとうございます」


 淹れた紅茶を持って、アイリスが隣へとやって来る。テーブルの上に並んだパッケージが目に入ってしまったのか、露骨に泣きそうな表情を浮かべていた。だが、ここまで来てやめるという選択肢はない。アイリス本人もそれが分かっているのか、観念したように腰を下ろした。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫なように見えますか?」

「見えません」

「正解です」


 毎朝電車で隣に座っている時よりも、拳一つ分だけ近い距離。少しでも恐怖を和らげようとするアイリスの抵抗が感じられる。


「どれからにします?」

「怖くないのからで……」

「残念ながら、全部ホラーです」

「うぅ……。じゃあ、これで……」


 早くも泣きそうなアイリスがか細い声で選んだのは、国内でも屈指の知名度を誇るホラー映画。もちろん、自分もテレビで見たことがある。


「楽しみですね」

「……何がですか」

「アイリスさんの反応が」

「ですよね! 分かってましたっ!」


 そんな話をしながら、取り出したディスクをセットする。アイリスにとっての恐怖の時間が、いよいよ始まろうとしていた。

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