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35. 塗り替えたいもの (2)

「……思ったより種類が少ないですね」

「男物の浴衣なんて、そんなものです」

「色も暗めのものばっかりですし」

「そんなものです」


 男性向けのコーナーに移動しての、アイリスの感想。その言葉が示す通り、女性向けのコーナーとは明らかに雰囲気が違っていた。


 まず、色味が違う。今までいた場所には様々な色が並んでいたのに対して、黒や深緑、濃紺を始めとした、暗く、そして濃い色が大半を占めている。そもそも、色の種類自体も少ない。


 それに伴って、明らかに売り場面積も狭かった。並んでいる数が少ないのだから、当然のことではあるが。


 そして、浴衣そのものの見た目も違う。女性向けのものは花があしらわれたものが多かったが、男性向けのものは幾何学的な模様のものが目立ち、そもそも柄が入っていないものもたくさん見受けられる。


 悪いように言ってしまえば、おまけのコーナーのような扱いにも見えた。


「あんまり選べないじゃないですか」

「着せ替え人形にならなくてよかったです」


 気合いを入れた割に、それを発揮する機会が乏しいことに気が付いたアイリス。だが、あれやこれやと要求されることが少ないまますんなりと決まりそうな雰囲気なので、自分としては特に問題はない。


「いや、着せ替え人形にはします」

「……はい」


 それでもそこは譲らないらしい。さも当然のことのように言いきったアイリスに、抵抗する気すら起こらず、ただ頷くだけだった。


「さて……。どれにしましょうか……」


 着る本人を差し置いて、アイリスが真っ先に浴衣を手に取り始める。その横顔は真剣そのものだが、どこか楽しそうな雰囲気も感じられる、何とも不思議な表情だった。


「最初から悩んでも仕方がないですし、とりあえず一つ着てもらっていいですか?」


 そう言うアイリスから手渡されたのは、黒地に何かの幾何学模様が描かれた、とある浴衣。説明によれば、「麻の葉柄」とのこと。


「どうです?」


 服の上から羽織るのに、そこまで時間がかかるはずもない。体の前を手で軽く押さえ、アイリスに感想を問う。


「んー……。黒じゃないですね。葵さんの雰囲気にはあんまり合わないです」


 やや考える素振りを見せるアイリスだったが、残念ながらお気に召さなかったらしい。小さく呟きながら、すぐに視線を陳列棚に戻していた。


 脱いだ浴衣を棚に戻しつつ、自分も近くの浴衣を眺めていると、視界の端にアーロンとレティシアが映った。どうやら二人も浴衣を選んでいるようである。あの見た目の二人が浴衣を見繕う姿は、なかなかに珍しい光景だった。そういう意味で言えば、こちらも半分は同じだが。


「葵さん」

「はい?」


 そんなアーロンとレティシアに視線を向けていると、隣で浴衣を眺めていたアイリスから話しかけられた。最初こそ目が合ったものの、すぐに逸らされて瑠璃色の瞳が明後日の方向を向く。


「……あっちで探しません?」

「……」


 目が向けられたのは、先程までアイリスの浴衣を選んでいた場所。つまり、女性向けのコーナーである。


「いや、変な意味じゃなくてですね?」

「変な意味以外に、一体何があるって言うんですか」


 何やら真面目な雰囲気を醸し出しながら言うアイリスだったが、そこに真面目な意味など存在しようがない。何をどう言い繕ったとしても、自分に女性ものの浴衣を着せようとしていることに変わりはなかった。


「葵さんって、かっこいいよりは可愛いってイメージじゃないですか」

「……で?」


 そう思っていたのに、本当に何かしらを真面目に考えていたらしく、続けて説明が始まる。そのスタートが複雑な気分になる言葉だったのは、この際一旦気にしないことにした。


「それなら、こっちよりもあっちの浴衣の方が、イメージに合うと思いません?」

「思いません」


 それを自覚したら、いよいよ終わりである。


「さっき見て回ってた時、結構シンプルな浴衣もあったじゃないですか。ああいうのだったら、葵さんが着ても、そんなにおかしくないとは思うんですよね」

「……確かにありましたけど」


 アイリスの言う通り、着る人を選びはするが、男性でも着られそうな浴衣はあった。あったが、それを積極的に選ぶかと問われると、それは否である。


 否なのだが。


「せっかくですし、一回着てみませんか?」

「せっかく?」

「せっかく」


 力強く頷かれたうえに、選んでもらっているということもある。負い目と表現する程のものではないが、無下に断るのも、それはそれで悪い気がした。


「……試すだけですからね」


 だからこそ、普段であればなかなか認めないようなことも、こうして受け入れてしまう。そう言いながらも若干目を逸らしてしまったのは、自分にできる最後の抵抗だったのだろう。どうしても手遅れ感は否めないが。


「試すだけで済めばいいですね?」

「やっぱりやめます」

「うわぁ! 冗談ですから!」


 即座に意見を翻しかけた自分を見て、アイリスが盛大に慌ててそう口にする。わたわたと手を小さく振る仕草は、こんな場面なのにどうしても可愛く見えてしまった。ただし、言っていることは何一つ可愛くない。


「ほら! 行きましょう! 善は急げです!」

「善……?」


 よく分からない言葉を口走りながら、アイリスが先を行く。あまり気乗りはしないが、だからと言って今更一人で探すことなどできる訳もないので、仕方なく後をついていく。


「……」


 何故なのか、男性向けのコーナーに来る時よりも、アイリスの足取りが軽いように見えた。




「これ、どうですか?」


 先程までいた場所に戻ってきて、アイリスが即座にある浴衣を手にする。行動があまりにも素早い。


「さっき、葵さんに似合うんじゃないかなって思って見てたんですよ!」

「その時から画策してたわけですね」

「見つけちゃったものは仕方がないです」


 自分の突っ込みも何のその、潔く開き直ったアイリスからそのまま浴衣を受け取る。濃紺色の布地に、あざみの花。過度な着色もなく、確かに自分でも着られないことはない。


 着たいかどうかは別として。


「……」

「うん! やっぱり似合いますね!」


 最早何も言わずに羽織った自分の姿を見て、アイリスが満足そうに頷いた。その表情と言葉からすると、どうやら似合ってしまったらしい。実に複雑な気分である。


「ただ、もうちょっとシンプルな方がいいですかね。これくらいお花が多いと、どうしてもしっかり女物に見えちゃいます」

「見えるも何も、女物なんですよね、これ」

「細かいことは気にしちゃだめです」


 細かくないと、そう問い質したところで受け流されるに決まっているので、あえて何も言い返したりはしない。受け流されるのもそうだが、自分からこの場所に来てしまった以上、何を言っても状況が変わることはないだろう。


「せめて、もう少し……」


 何かを呟きながら引き続き浴衣を選んでいるアイリス。自らの浴衣を選んでいた時と同じか、それ以上に真剣な横顔が目に映る。そこまで本気になる場面ではないような気がするのは、自分の気のせいなのだろうか。


「これなんてどうでしょう?」

「今度は何ですか」

「じゃん!」


 自信満々な掛け声と共に目の前に現れたのは、布地は先程同じく濃紺色だが、描かれた花が朝顔に変わった浴衣。よく見なくても分かるが、正面からではなく、横から見た朝顔だった。その花は藤色よりもさらに薄い紫色、そして薄い紺色の二色。


 こちらもまた、着られなくはない。だが、着たいか着たくないかで言えば、やはり着たくない方に天秤が傾く。


「柄もシンプルですし、きっとこっちの方が似合います!」

「はぁ……?」


 よく分からない理論に曖昧な返事をして、アイリスに手渡された浴衣を羽織る。明らかに男性用よりも小さいのに、それでもぎりぎりサイズが合ってしまうことが、絶妙に心を傷付ける。


「いい! いいですよ! 葵さん!」

「何がですか」

「全部です!」


 どこか興奮気味のアイリスに、近くにあった鏡の前まで連れていかれる。こんな格好をしている時の姿見程恐ろしいものはないが、連れてこられた手前、見ないという選択肢は存在しない。


「……まぁ」


 そうして恐る恐る自分の姿を確認してみれば、ウェイトレス姿よりはまだ見られる姿が、そこにはあった。真面目に選ぶという話をしておいて姿見で最初に見た姿がこれなのは、どこか納得がいかない部分はある。けれども、「まだ見られる」ということは、心のどこかで認めていることの証でもあった。


 そこまで考えて、思わず頭を振る。少しだけではあるが、自然とこの浴衣を受け入れそうになっていた。二度のウェイトレス経験を経て、ハードルが下がってしまっているのかもしれない。とても恐ろしいことだった。


「いいと思いません?」


 あれこれ複雑なことを考えていると、当然のことを話すような口調でアイリスがそう話しかけてきた。その目は何かの期待を宿したように輝いていて、こんなところでも似合ってしまっていることを実感する。


「なくはない、ですけど」

「けど?」

「どうしても『女装』の二文字が頭を離れません」


 結局気になるのはそこなのだった。常に頭の中心に居座るその二文字。どれだけ似合っていようが、その事実があるだけで恥じらいが生まれてしまう。


「そんな風に特別に考えるからだめなんですよ」


 だが、アイリスは別の考え方をしているようで。


「はい?」

「可愛い格好をした男の人なんて、今時いっぱいいるじゃないですか」

「……いますか?」


 そう言うアイリスだったが、残念ながら自分の近くではあまり見かけたことはない。そもそも周囲に人が少ないという事実からは、一旦目を背けておく。


「いますって。だから、それくらいの浴衣なら普通です」

「いや、普通では……」

「普通なんです」

「あ、はい」


 その言葉と共に、一歩だけ迫られた。何がアイリスをそこまで突き動かすのかは知らないが、妙にこの浴衣が気に入っているらしい。これに決めさせようという魂胆が随分と露骨だった。


「ってわけで、私はこの浴衣を着た葵さんとお祭りに行きたいんですけど、どうですか?」

「その言い方は卑怯じゃないですか?」

「分かってて言ってます」


 別に着られなくはないと考えているところに、援護射撃かのようなその言葉。さらに心を揺さぶられる。悪戯っぽく笑うアイリスのあまりの可愛さに、心臓が一度だけ大きく跳ねた。


「ちなみに、一つだけ残ってる中間の時のお願いを使うって手もあります」


 もっと卑怯な手が飛び出してきた。


「何をどうしたって着せる気じゃないですか」

「気付きました?」

「気付きたくはなかったです」


 自分の意思とは関係なく、最初から結末は決まっていた。あとはどの結末、もとい浴衣を選ぶかだけ。


 そういう意味では。


「分かりましたよ、降参です。これにしますから」

「やったぁ! 葵さん可愛い!」


 まだこれの方が、受ける傷は少ないのかもしれなかった。自分で「まだ見られる」と思ったのも大きい。


「結局こうなるんですね……」


 購入すると決まり、羽織っていた浴衣を脱いで丁寧に畳み直す。それと同時に口から漏れるのは、諦めを含んだ言葉。だが、そんな気持ちの中に、アイリスの喜ぶ姿が見られて嬉しいという感情がないとは言いきれなかった。こんな喜ばせ方はどうかとは思うものの、ある意味自分にしかできない喜ばせ方ではあるので、これも複雑な気分にさせる一因なのだった。


「葵さんが可愛いのが原因ですからね?」

「褒められてないです」

「褒めてますよ?」


 最後まで意見は合わないのだった。




「結局そうなったんだね」

「ある意味予想通りではあったけど」


 アーロンとレティシアに購入報告をしたところ、そんな感想を頂いた。


「予想通りって……」

「男物の方はあんまり種類がなかったから。着られるなら、ある程度華やかな方が浴衣っぽくていいと思うよ。」

「男女関係なく、ね?」

「そういうもの……、ですかね?」


 何故かは分からないが、一家総出で丸め込まれている気がする。この二人をして、あのアイリスあり、だ。


「ちなみにですね」

「うん?」


 こんなところでも遺伝の強さというものを実感していると、先程からにこにこと笑みを浮かべていたアイリスが口を開いた。


「種明かしをすると、葵さんの浴衣、男女兼用って書いてあります」

「はい?」


 思わぬ言葉が飛び出してきたせいで、少し気が抜けたような声が出てしまった。だが、今はそれを気にするべき時ではない。アイリスの言葉の真偽を確かめるべく、浴衣に付いているタグを探す。


「あ……」


 大して苦労もせずに見つけたタグに、本当に書いてあった。まさに、アイリスの言う通りの言葉が。


「ちゃんと確認しておけば、あんなに悩むこともなかったんですけどね」


 珍しくアイリスに完全にしてやられた。そもそも浴衣に男女兼用のものがあるという発想がなかったというところも原因ではあるが、それにしても迂闊だった。


「へぇ。今はそんなのもあるんだね」

「そうは言っても、葵さんが持ってるそれ、ちょっと女性寄りのデザインな気もするわね」

「最初からそういうのにしてもらうつもりだったけど、せっかくならちょっと可愛めの方がいいなって考えてたんだ」

「いい仕事をしたわね。流石は私の娘」

「えへー」


 そんな会話を交わす一家を前にして、何も言葉が出てこない。完全に女装という訳ではなくなったことへの安堵と、それでも可愛めのデザインという評価への不安が混ざり合い、一体どんな顔をしているのか、自分でも分からなくなる。


「そんなわけで、葵さん」

「……何です」

「何の気兼ねもなく、その浴衣が着られますね!」

「……」


 屈託のないアイリスの笑顔が、とても眩しかった。




「さて、まだかなり時間があるけど、どこか行きたいところはあるかな?」


 昼食を終えたところで、アーロンがそう切り出す。ちょうど昼時で混雑していて少し時間がかかったとはいえ、時刻はまだ午後一時半。浴衣を買うという目的は果たしたものの、ここまで来てそれだけで帰るものもったいない。そう思わせるだけの店に囲まれた中での、そんな提案だった。


「はい! あります!」


 そう言って勢いよく手を上げたのはアイリス。その視線は、何故か切り出したアーロンではなく、自分に向けられている。


「ゲストの葵さんじゃなくて、あなたが最初に手を上げるのね」

「葵さんだったら許してくれるもん」

「その考え方はわがままになりそうで、ちょっと危ないわよ」

「言われてるけど、どうだい?」

「アイリスさんの行きたいところで。僕は少し前に来ましたから」


 レティシアに窘められているアイリスに苦笑いを向けながら、行き先は任せるという意思を表明する。特別行きたい店があった訳でもないので、行きたい店がある人に譲る方がいいはずだ。


「ありがとうございます!」


 これだけ嬉しそうに笑みを見せてくれるのなら、尚更である。


「で、どこに行きたいんですか?」

「葵さん、宿泊学習でここに来たんですよね?」


 行き先が気になって尋ねてみるも、返ってきたのも質問だった。ここに着いた時にも言った通り、宿泊学習で来たのは確かだが、それが一体何なのだろうか。あまり関係がない話のように思えるものの、アイリスにとっては何か意図があるらしい。


「その時に行ったお店、ありますよね」

「ソープフラワーのお店とプリンのお店ですか?」

「です! せっかく来たなら、一回見てみたいなって」

「アイリスさんがそれでいいなら……」


 どうやらそういうことのようだった。恐らく、お土産を受け取って興味が湧いたといったところだろう。自分の気のせいなのか、アイリスからは「わくわく」という擬音が似合いそうな雰囲気が放たれている。


「なるほど……?」

「何?」

「何でも?」


 そんなことを考えている間に、アイリスとレティシアが不思議な会話を繰り広げていた。何かに気付いたように笑みを浮かべるレティシアと、そんな母親に訝しむような視線を向けるアイリス。自分には意味が理解できない、一瞬の攻防がそこにあった。


「とにかく! 行きましょう!」


 母親との攻防は流石に分が悪いと感じ取ったのか、会話を無理矢理切り上げるよう、アイリスが背を向けて歩き出す。


「そっち、反対方向ですよ」

「……」


 ただし、その歩みは五歩で止まった。そのまま無言で固まっている。


「まだまだお世話される立場からは抜けられそうにないね」


 静かなアーロンの一言が、容赦なくアイリスを突き刺していた。無言のまま踵を返して、今度は六歩。目の前に帰ってきたアイリスは俯き気味で、その表情を窺うことはできない。


 やがて、小さな声が漏れる。


「……連れていってください」

「任されました」


 これまでとは違って、やや沈んだ声音。その心の内にどんな感情を抱えているのかは分からないが、きっと羞恥が大部分を占めているのだろう。そんなアイリスに頼まれて、道案内を承る。


 今いる場所から向かったことはないが、案内表示を見れば、大体の道程は分かるはずだ。とりあえず向かうべきは、どこか見覚えのある場所まで。


 先程は一人先走ったアイリスだったが、今度は自分と一緒に歩き出すのだった。




 そうして辿り着いた、明度と彩度が周囲と違い過ぎる店。店頭に飾られていた特大のプリザーブドフラワーは、あの時とは違ったものに変わっている。五月には暖色系のものだったが、今は秘色やマリンブルー、ゼニスブルーに白色と寒色系がメインのものになっていた。サイズは変わらないまま、涼しげなイメージに変貌を遂げている。


「ほぁー……」


 誰もが圧倒されるその見た目。例に漏れず、隣のアイリスも軽く見上げるようにして不思議なため息を漏らしていた。


「わくわくするお店ね」

「どれか買って帰ろうか。リビングにでも飾っておくといいかもね」

「どれくらいのサイズがいいかしら……」


 大人組は流石に落ち着きを保ってはいたが、それでも気分は高揚しているらしかった。早くも何を買おうか迷う、そんな会話が聞こえてくる。


「値段も相変わらずですね」


 一度この店を訪れたことがある自分が、この中では一番落ち着いているようだった。以前と同じく興味本位で値段を確認してみれば、そこにはやはり六桁の数字が並んでいた。以前ここに鎮座していたものは、果たして売れていったのか。店員に聞いてみたい気もする。


「さんっ……!?」


 自分の言葉に釣られて値札を見たアイリスが、とてもいい反応を示してくれた。「目を丸くする」という表現がぴったり似合っている。


「大作ですからね」

「流石に無理です……」

「買ってどこに飾るんだって話もありますけど」

「お部屋に……?」

「正気ですか?」


 値段の高さに混乱しているのか、信じられないような考えがアイリスの口から出てきた。軽く想像するだけでも場違い感が半端ではない。あるいは、それだけの部屋がある家に暮らしているかのどちらかだ。いずれにせよ、一般的な感覚からは外れている。


「小さいのは向こうにありますから。見てみますか?」

「そうですね。こういうお店ってあんまり見ないので、結構楽しみです」


 その言葉を体現するかのように、瑠璃色の視線はあちこちを行ったり来たりしている。そんなアイリスをある理由から意外に思って眺めていると、自分の視線に気付いたのか、その頭がこてんと傾いた。


「何ですか?」

「いや、『小さい』って言葉に反応しなかったなって」

「わざわざ言う必要はありました? ねぇ、葵さん。ねぇ?」

「気にしないでください」

「もう!」


 楽しそうだった様子が一変して、今は怒りの感情を露わにしながらこちらを睨んでいる。そうさせたのは自分なので、当たり前のことなのだが。


「私だって、毎回反応するわけじゃないですもん」


 そして、拗ねるように顔を背ける。口調までもがどこか幼くなってしまったように感じられた。


「受け入れ始めた、と」

「違います。これから伸びます」

「諦めることも、一つの大事な才能だと思いますよ」

「何で今、そのお話をしたんですか?」

「深い意味はないです」

「浅い意味しかないですもんね!」


 二人だけなのにやたらと賑やかな会話を交わしながら、大型のプリザーブドフラワーの横を通って店内に足を踏み入れる。これまでは正面だけがカラフルな空間だったのが、とうとう全方位がカラフルな空間となった。


「……綺麗ですね」


 あっという間に機嫌が持ち直したアイリスが、隣でそう呟く。人にもよるのだろうが、それだけの力が、この光景にはあった。


「どんな色が好きとかってあります?」

「色ですか……」


 これだけの色に囲まれているとどうしても悩んでしまうのか、アイリスが少しだけ考え込む様子を見せる。だが、それも僅かな間のことで、答えは意外と早く返ってきた。


「青系、ですかね?」

「こんな感じの?」


 その答えを受けて、近くにあった商品を一つ指し示す。全体的に色が少しだけ濃いような気もするが、店先にあったもののミニチュア版と言える色合いである。


「そうですね……。ちょっとだけ薄めの方が好きかもです」

「水色とかってことですか」

「です。一番好きなのは薄めの青ですけど、他も大体薄めの色が好きです。緑とか紫とか」

「パステルカラーってやつですね」


 どうやら、アイリスは淡い色が好きなようだった。そう言われてみれば、これまでに見たことがあるアイリスの私服も、そんな色が多かったような気がした。今日もまさに淡い青のスカートである。流石にその種類までは分からないが、似合っていることは間違いない。


「葵さんはどうなんですか?」

「僕ですか?」


 瑠璃色や菜の花色と相まって、アイリスも随分とカラフルな見た目をしていると、そうぼんやり考えていると、そのアイリスから同じ質問を返された。不意を突かれたような形になって思わず聞き返してしまったが、頭の片隅ではほとんど無意識に思考が進む。


 色の好き嫌いをあまり意識したことはなかったが、挙げるとすれば。


「紫です」

「紫とか葵とか、源氏物語みたいですね」

「よく知ってますね、そんなこと」


 好きな色を答えたはずなのに、思いもしない方向に話が進んでいった。自身の知識を披露できて嬉しいのか、アイリスは若干得意顔である。


「聞いたことがある、くらいですけどね。読んだことはないですし」

「まぁ、名前だけ知ってる人がほとんどでしょうしね」

「でも、葵さんなら読んでそうです」

「専門外です」


 何やら期待されているらしいが、残念ながら自分も読んだことはなかった。そもそも、読もうと思ったことすらない。長編という事実が、気軽に手を出せない理由の一端である。


「ま、そんなことはいいんです。葵さんの好きな色が紫ってことが分かれば」

「そんなに大事でした?」


 個人的には、知っていても知らなくてもいい情報としか思えない。情報の重要度という意味では、かなり低い方ではないだろうか。


「大事に決まってるじゃないですか」


 だが、アイリスにとってはそうではないらしい。


「誕生日プレゼントを買う時に、もしかしたら参考になるかもしれないですし」

「あぁ、そういう」


 そんなアイリスが見据えているのは、少しだけ先のことだった。一人暮らしをしていると、イベント事だけでなく、自分の記念日も忘れやすくなる。本人が忘れている誕生日を親しい後輩に思い出させてもらう図が、こんなところで完成してしまった。


「そこまで気にしなくても」

「いーえ! 気にします! ちゃんと喜んでもらいたいですもん」


 自分からすればそこまで気合いを入れなくてもと思うのだが、これもまたアイリスにとってはそうではないらしい。自分を見つめる目付きは真剣そのもので、何があった訳でもないのに、思わず目を逸らしてしまった。


「……どんなものでも、貰ったら大概喜びますけどね」


 自分を慕ってくれている後輩からの誕生日プレゼントとなれば、喜ばない訳がない。そんな気持ちは、アイリスに伝わっているのかいないのか。


「ちゃんと選ぶので、楽しみにしててくださいね!」

「ハードルだけが上がっていってますけど、大丈夫ですか?」

「大丈夫ですって。……多分」


 きちんと選びはするが、自信がある訳ではないらしい。目を逸らしながら最後に付け加えられた一言が、妙に強調されて聞こえた。


 人がまばらな店内である女性の店員に声をかけられたのは、そんなタイミングだった。


「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」


 その声に、アイリスと二人して振り返る。店員と目が合って、僅かな間が空いて。目の前の店員の顔が、少しずつ不思議そうな色に染まっていった。


「あれ……?」


 外見の特徴という意味では、視線はアイリスに向きそうなものだが、今回は自分に向けられている。性別がよく分からないからという理由は考えないことにする。


「もしかして、一度ご来店されていませんか?」


 一体何が原因なのかと思えば、微かな記憶が原因だったらしい。二か月以上も前に一度来ただけなのに、よく覚えているものだ。こういった接客態度が、人を惹きつける店員には必要不可欠なのかもしれない。


「そうですね。五月に」


 それはともかくとして、正解だったので肯定の返事をしておく。自分がそう口にした瞬間、店員の雰囲気がふっと和らいだような気がした。


「やっぱりそうですよね。ご来店された時の印象が強くて、何となく覚えていました」

「印象、ですか?」

「そうですね。制服姿でいらっしゃる方はほとんどいませんから。しかも、四人とも随分と可愛らしくて」

「四人……?」


 その感想が自分の記憶と合致せず、思わず頭の上に疑問符を浮かべてしまう。あの時は男二人、女二人の構成だったはずだが、何があってその評価になったのだろうか。「何となく覚えていた」という言葉通り、細部は覚えていないのではないだろうか。


「お客様も、もうお一人の方も、男の子の制服を着ているのに性別が分からなくなるくらいでしたから」

「……」

「誰にでもこう思われてるんですね」


 しっかり覚えられていたうえに、アイリスからはわざわざ追い打ちが入った。まさか、あの時にそんなことを思われていたとは。自分や悠が何気兼ねなく過ごせる安寧の地は、この世のどこにあるというのか。


「今日は……?」


 今回は性別ではなく、組み合わせに疑問を抱いたらしい。以前は自分の性別を疑っていたらしい眼差しが、今はアイリスに向けられている。浴衣を選んでいる時のように「姉妹」と言われなかったので、店員に対する好感度が少しだけ回復した。


「高校の後輩です」

「後輩さんでしたか。失礼しました」


 視線程度であればわざわざ謝る程のことでもないはずなのに、それでも丁寧に頭を下げられる。個人的には見習いたい接客姿勢だった。


「それで、どういったご用件で?」

「前にソープフラワーを買っていったんですけど、それを渡したんです。そうしたら、お店に行ってみたいって話になって」

「来ちゃいました」

「そうでしたか。わざわざありがとうございます」


 ここでも頭を下げられる。本当に丁寧である。


「お誕生日か何かで?」

「いえ! ただお土産ってことでくれました!」

「もしかして、お付き合いをされている……、とか?」

「してないです」

「葵さん。そこで即答するのはちょっと……」


 何かを言いたそうな視線をアイリスから向けられるが、事実なので仕方がない。こんなところで嘘を吐いても、誰も何も得をしない。前提として、自分はそんなことを考えられるような人間ではないので、嘘でも付き合っていると言える訳がなかった。


「濁してどうするつもりですか」

「もっとこう、慌てるとか、顔を赤くするとか、色々あるじゃないですか」

「そんなこと、僕に期待できると思います?」

「そんな葵さんがやるからいいんじゃないですか!」


 息巻いて力説するアイリスだが、されたところで理解できるとは限らない。今回がまさにその例である。


 放っておくといつまでも力説されそうな勢いだが、幸いにしてこの場にはもう一人が存在している。厄介なことになりそうな流れを断ち切ってくれたのは、まさにそのもう一人だった。


「お名前」

「はい?」


 不意に呟かれた一言に、思わず反応する。アイリスを受け流すために返事をしたのではなく、本当に無意識に反応したのだった。


「花の名前と同じなんですね」


 アイリスと自分のやり取りを聞いて気付いたらしい。広く知れ渡っているとは言い難い花だが、そこはこういった店の店員らしく、知識が豊富なようだった。


「えぇ。そこから取ったらしいです。アイリスさんもですよね」

「ですね。六月六日生まれなので」

「えっと……? 六月六日生まれだから……?」


 とはいえ、流石にその由来にまでは至ることができなかったようである。分かる方が特殊なので、当たり前と言えば当たり前の話ではある。


「その日の誕生花がアイリスなんです」

「あ、なるほど。そうでしたか」


 自分が変わり者であることを改めて実感しながら、アイリスの言葉の意味を簡潔に伝える。誕生花という概念自体があまり有名ではないとは思うが、それだけで伝わった辺り、やはり専門的な店の店員である。


「葵さんも、ですもんね」

「です」

「じゃあ、お揃いってことですね」

「そうなんです! お揃いなんですよ!」


 そう言ってくれた人が初めてということで嬉しいのか、アイリスが若干前のめりになっていた。それとは反対に、いきなり迫られた店員は少し引き気味である。


「なのに、誰も何も言ってくれなくて! 珍しいお揃いなのに!」

「た、大変ですね……」

「ほんとです!」


 その「大変」という言葉は、本当にアイリスに向けられた言葉なのだろうか。同じように迫られた、周囲への言葉ではないだろうか。そして何より、そう言った際、視線は自分の方を向いていた。


「……」


 何も言われていないのに、「扱いが大変そうな後輩さんですね」と言われているような気がした。だが、アイリスがそれに気付いた様子はない。


「分かってくれる人がいて嬉しいです! ここはいいお店だと思います!」

「あ、ありがとうございます……。是非、ゆっくりご覧ください」


 最後にそう言って、店員は去っていった。去り際に苦笑いを浮かべていたので、きっと逃げたのだろう。正しい判断である。


「いい人でした」

「いい客かどうかは、ちょっと疑問でしたけどね」

「何でですか?」

「気にしないでください」

「うん?」


 せっかく機嫌が最高に近い状態になっているのに、わざわざ下げる必要もない。そう考えて、その先を言葉にするのはやめた。余計なことを言って面倒事に巻き込まれるのは避けたい。


「ほら、あっちにソープフラワーもありますから」

「葵さんが選んでくれたやつですね。見てみたいです!」


 アイリスの意識を逸らすように、見覚えのある一角を指差す。そこは、今もきらきらと顔を輝かせている後輩への初めてのプレゼントを買った、ある意味思い出の場所。


 さして広い訳でもない店内なので、向かおうとしている先は既に見えている。以前来た時に陳列されていた商品全てを覚えているはずがないのだが、記憶の中の景色とはどこか色合いが違うような気がした。




「これ、ほんとに全部石鹸でできてるんですか?」


 並んでいるソープフラワーを見て、最初に聞こえた感想がそれだった。よく見れば普通の花とは質感が違うことが分かるのだが、軽く見ただけでは石鹸でできているとは信じられないようだった。


「ちょっと信じられないですよね。細工も細かいですし」

「花弁まで綺麗に作られてますもんね……」


 少しだけ屈むだけでは飽き足らず、顔を商品に近付けて細部まで観察するアイリス。どうやら随分とお気に召したらしく、感嘆の声が小さく漏れ出している。


「貰ったサイズのものが多いのかと思ってましたけど、そうでもないんですね」

「あれがたまたまあのサイズだったってだけですから」

「こんなにおっきなバラの花束まであります」


 アイリスが指差すのは、薔薇色や真紅色といった、赤を基調としたバラのソープフラワーで作られた花束だった。サイズはアイリスに渡したソープフラワーよりも二回り程大きい。手に取って眺めているアイリスの顔が、ほとんど隠れてしまうようなサイズだった。


「そういう花が好きなんですか?」


 楽しそうにバラを眺めるアイリスに、そんな疑問が湧いてくる。


「ん……。特別これが好きってお花はないですけど、やっぱりバラは綺麗ですよね」

「色もたくさんあって、華やかですもんね」

「ですです。花弁がたくさん重なってるのも可愛いです」


 花束を元の場所に戻し、今度はボックスタイプの商品を手に取っている。楽しそうな様子であれやこれやと商品を眺めるアイリスが、いつもよりも数割増しで可愛く見えた。


「お気に入り?」

「あ、お母さん」


 そんなアイリスと一緒にあれこれ眺めていると、レティシアが後ろから覗き込んできた。アーロンの姿が見えない辺り、どうやら別行動になったらしい。


「あら、綺麗なバラ」

「でしょ!」


 ちょうどアイリスが持っていた青いバラのソープフラワーを見て、レティシアも楽しそうにそう口にする。見ていた商品に肯定的な反応があって嬉しいのか、アイリスの笑みがより一層深まっていく。


「やっぱり青が気になるのね」

「やっぱり?」

「だってあなた、青が好きでしょ?」


 つい先程話したことが、目の前で繰り返されることになった。自分は漠然としたイメージしか持っていなかったが、母親であるレティシアにとっては当たり前の事実だったらしい。


「あれ? お母さんに言ったことってあった?」

「ないと思うけど、流石に分かるわよ。あなたが持ってるもの、青系が多いし」


 そのレティシアの言葉で、アイリスの私物に青が多いというイメージが補強される。口振りから察するに、自分が知らない私物に関しても、恐らくその系統の色が多いのだろう。


「そんなにだっけ?」

「そうね。昔から……、ううん、何でもない」

「え? 何? 何を言いかけたの!?」


 そんな何でもなかったはずの会話がいきなり途切れたことで、雰囲気が一気に不穏なものに変貌する。後に続く言葉が気にはなるものの、途切れる直前、レティシアと一瞬目が合ったことを考えると、何となく聞かない方がよさそうな気もする。


「あなたのためにも、これ以上は聞かない方がいいわよ」

「何それ!? 気になる!」


 聞かない方がいいと言われているにも関わらず、なおも突き進むアイリス。その先に待ち受けているものは、果たして何なのか。今はレティシアだけが知っているそれは、この後何をもたらすのか。


「そんなに聞きたいの?」

「気になるもん!」

「じゃあ、ちょっとこっちに来なさい」


 そう言って、レティシアがアイリスを手招く。自分に聞こえないようにという配慮なのだろう。内容は分からないが、配慮したのはアイリスに対してなのか、それとも自分に対してなのか。


 そうこうしているうちに、招かれるままに近付いたアイリスと、それを迎え入れたレティシアが背を向ける。こちら側からは、その表情すら見えない。


「……」

「真っ赤ですよ」


 やがて、レティシアに何事かを囁かれたアイリスが、耳まで真っ赤にして戻ってきた。いつかも同じ光景を見たが、あの時と違うのは、今のアイリスには逃げ場がないということ。


「聞かない方がよかったです……」

「そう言われてたじゃないですか」


 突き進んだ先にあったのは、やはり不都合な事実だったらしい。アイリスがここまでになってしまうようなことをわざわざ聞きはしないけれども、だからと言って、気にならないと言えば嘘になる。


 それでも聞きはしないが。


「だって、気になったんですもん……」

「まさに『好奇心は猫を殺す』でしたね」


 辞書に具体例として載せたい程の似合い具合である。


「少なくとも、葵さんには絶対に言えないわね?」

「言えるわけない……!」

「今は、ね?」

「それも違うもん……!」


 最早アイリスの得意技のようになってしまった、両手で顔を覆う仕草。若干声がくぐもるその仕草が、レティシアの追い打ちによって今日も今日とて出番を与えられていた。


「……何があったんだい?」


 そこで最後に合流したアーロンが、当然の如く困惑していた。

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― 新着の感想 ―
面白かったです。 アイリス側からの感情は徐々に変わってきてるようだけど葵からアイリスへの感情はどうなのかな??? 続きも楽しみに待ってます。
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