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34. 塗り替えたいもの (1)

 まずは日が近い夏祭りからということになった。


 夏も折り返し地点を過ぎたというのに、一向に涼しくなる気配が見えない七月二十九日、土曜日。夏休みが始まって、今日で四日目である。今日こそが、約束をしたその日にアイリスから連絡があった、浴衣を見繕う予定の日だった。


 だが、小さな田舎町では、色々と選べる程品揃えがいい店というものはなかなか見つかるものではない。


 では、どうなったか。


「いっそ、これがお呼ばれでもいいんじゃないですか?」

「だーめ。そっちはちゃんと別の機会に」

「今日は浴衣がメインだからね」


 その答えがこれだった。以前一度だけ座ったことがある後部座席に体を収めながら、運転席と助手席に座る人物に話しかける。自分が「お呼ばれ」という言葉を口にした通り、視線の先にいるのはアーロンとレティシアだった。同じく後部座席に座っているのはアイリスである。


 つまり、一家総出でお買い物ということだった。せっかくだから大きなところに行こうという考えであっさり決まった行き先は、二か月半程前に行った、隣の県のあの施設。まさかこの短期間で再び行くことになるとは、微塵も思っていなかった。


「ちょっとお話ししたら、お父さんとお母さんがやたらと張り切っちゃって……」

「いや、車まで出してもらえるのは、本当にありがたいですけど」

「葵さんのことはもちろんそうだけど、そもそもアイリスが初めて着る浴衣だからね。親が張り切っても、何もおかしなところはないよ」

「ちゃんと面白いものを選んであげるから」

「面白いって何? 可愛いのじゃだめなの?」


 不穏なことを口走ったレティシアに、アイリスが思わず抗議の声を上げている。面白い浴衣を着たアイリスとやらは、それはそれで見てみたい気もした。


「可愛いのは葵さんに選んでもらいなさい」

「張り切り方がおかしくない? ねぇ?」


 自分がそんなことを考えている傍らで、アイリスの抗議の声はあっさりと受け流され、そして矛先がそのままこちらに向かってきた。


「アイリスさんはどんな柄が好きですか?」

「あれ? ほんとに選んでくれるんですか?」


 いつもの自分の様子から、何も聞かなかったことにされると思っていたらしいアイリスが、少しだけ意外そうに首を傾げる。


「聞いてみただけです」

「何なんですか」


 だが、実際はこうである。何も聞かなかったことにしたのと変わらない反応に、意外そうな表情はあっさりと消え、代わりに呆れるような眼差しが自分へと向けられた。


「僕じゃ力不足です」

「そんなことはないと思うよ。多分、葵さんが選んでくれた浴衣なら、毎日でも着るくらいには喜ぶと思う」

「お父さん! 余計なことは言わなくていいから!」

「否定はしないのね」

「嬉しいもん!」

「正直ですね」


 アーロンの言葉はともかく、そう言われると、少しは頑張らないといけないような気がしてきた。実際にどうなるかは分からないが、感想を伝えるくらいはしてもいいのかもしれない。


「あなたも葵さんの浴衣を選んであげたら?」

「私が……?」


 呆れの色は完全には消えていなかったものの、喜びの色も確かに含まれていたアイリスの表情。それが、レティシアの提案によって一気に思案一色に染まった。時折、横目で自分のことを窺っている。


「……」

「何を考えてるんですか」

「お互いが選んだ浴衣を着て、お祭りに行ってるところまで考えてるわね」

「そこまでは考えてないもん!」

「じゃあ、どこまで?」

「……お揃いの浴衣を着るところまで」

「お揃い……?」


 柄は同じで、色は違う。そんな意味だろうか。きっとそうに違いない。そうであってほしい。そうでなければ、またしても写真を撮られる羽目になる。


「よく分からないですけど、アイリスさんに任せない方がいいってことだけは分かりました」

「いいじゃないですか! 選ばせてくださいよ!」

「アイリスさんが選ぼうとしてるのは、男物の浴衣ですか? それとも、女物の浴衣ですか?」

「私が選ぼうとしているのは、見てるこっちが恥ずかしくなりそうなくらいに可愛い、女物の浴衣です!」

「正直者ですね。そんなアイリスさんには、絶対に選ばせてあげません」

「なんでですかっ」


 思っていたものとは違う反応が返ってきたのか、分かりやすく不満を露わにするアイリス。その回答で何故選ばせてもらえると思ったのか、そんなところもよく分からない。


 とにかく、同じ正直者でも、木こりには欲がなく、アイリスは欲に塗れていた。


「真面目に選びますから!」

「本当に?」

「ほんとです! 私、嘘吐かない!」

「怪しさしかないです」


 急に日本語が怪しくなったのを聞いてしまうと、どうしても任せにくく感じてしまう。


「この目を見ても同じことが言えますか?」


 それでも押してくるアイリスが、そう言うや否やぐっと身を乗り出してくる。一気に近くなったラピスラズリは、感情をそのまま宿したかのようにきらきらと輝いていた。


「怪しいです」

「あれ?」


 どこからどう見ても、自分を着せ替え人形にしようとしているようにしか見えなかった。ウェイトレスの一件があって以来、どうも味を占めているように思えるのは、果たして自分の気のせいなのだろうか。


「おかしい……。こんなはずじゃ……」

「おかしいのはアイリスさんの考えですよ」

「これじゃあ、真面目に男物を選ぶしかなくなっちゃいます」

「最初からそれしかないんです」

「葵さんのミニ浴衣……」

「何てものを」


 残念そうに呟くアイリスの口から、何かとんでもない単語が聞こえてきた。どうやら、自分が想像していたより遥かに悍ましいものを生み出そうとしていたらしい。


「……」


 一瞬そんなことを考えたが、既にとある洋菓子店でその悍ましいものが生み出されていることを思い出して、それ以上考えるのをやめた。心の平和によくない。


「葵さんとお揃いってことは、あなたもそれを着ることになるのよ?」

「ちょっと恥ずかしいけど、葵さんに着せるためなら少しくらいは我慢するし……」

「頑張る方向を間違えてますって」


 皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を切る。まさにその典型だった。


「私のミニ浴衣、見たくないですか?」


 単純に押すだけでは効果がないと気付き始めたのか、アイリスのアプローチの方向性が若干変化する。


 こてんと首を傾げて尋ねてくるアイリスのミニ浴衣姿。見たいか見たくないかで答えるのであれば、それは。


「ちょっと見てみたい気はしますけど」

「じゃあ、葵さんも着てください」

「別にそこまでじゃないです」

「もぉー!」


 見てみたくはあるものの、その代償に自分も同じものを着る必要があるとなると、気持ちが一気に萎んでしまう。代償が等価交換とは到底言えず、支払うものが大き過ぎるのが問題だった。


 そんなことを考える自分の隣で、少しだけ体を跳ねさせて感情を表現するアイリス。車の揺れと重なってしまったせいでややスカートが捲れ、膝と太ももの境目くらいまで見えてしまっている。


「ほら、あんまり暴れるともっと捲れますよ」

「どっちが女の子なのか分かったものじゃないね」

「アーロンさんの娘じゃないですか」


 まさかの一言がアーロンから飛び出した辺りで、アイリスがようやく落ち着きを取り戻す。一度発散したことも大きいが、そもそもそこまで怒りが持続する程のことでもなかったらしい。


「……分かりましたよ。今回は真面目に選びますから」

「それならいいんです。楽しみにしてますから」

「はいっ!」


 ようやく求めていた答えを引き出せたことに安堵して、頬を緩めながら返事をする。妥協点が見つかったからなのか、アイリスの機嫌もあっさりと直ってくれたようだった。


「あら、嬉しそうだこと」

「いいんじゃないかな? あんな風に話せる相手がいるのも」

「聞こえてるからね? 本人の前で恥ずかしいこと言うのはやめて」


 後部座席からはその顔を見ることはできないが、アーロンとレティシアの穏やかな声が聞こえてきた。そんな評価を受けたアイリスの頬が、ほんのりと赤く色付いている。


 ふと窓の外の景色に目を向ければ、いつの間にか車は高速道路の上にいた。道の脇に並んだたくさんの木々が、視界の外へ向かってあっという間に駆け抜けていく。そんな窓ガラスに映ったアイリスと、一瞬だけ目が合ったような気がした。




 入口からはやや離れたところで車を降り、来るのは二度目となる大型商業施設の全景を眺めながら広大な駐車場を歩く。


「葵さん、一人暮らしだったら、こんなところは来ないんじゃないですか?」

「そうですね。五月に来たのが初めてです」

「あれ? 来たことあったんですね」

「宿泊学習の時に来たんですよ」


 その途中でアイリスにそう問いかけられ、そういえばそこまで詳しく話してはいなかったということに思い至る。


「ってことは、碧依先輩達と?」

「ですね。いつもの四人で」

「……へぇ。そうですか」


 気のせいか、アイリスの声の温度が少しだけ下がったように感じられた。自分から見えるのはその横顔だけで、今は正面にそびえ立つ建物を眺めながら小さく頷いている。


「どうしました?」

「あ、いや、何でもないです」


 だが、問いかければいつも通りのアイリス。声音もいつも通りで、何も変わった様子はない。最初に考えた通り、自分の気のせいだったのだろうか。


「じゃあ、あのお土産も?」

「どっちもここですね。ここに来た日以外は山籠もりでしたから」


 アイリスがどちらのお土産を思い出しているのかは分からないが、ソープフラワーにしてもプリンにしても、結局はここで買ったものである。ならば自分の答えは一つだ。


「葵さんがここに来たいって言ったんですか?」

「いや。碧依さんです」

「……へぇ」


 そう答えた瞬間、またしてもアイリスの声の温度が下がった。二度目ともなれば、流石に自分の気のせいではない。しかも、今回は身に纏う空気も冷たくなっている。


「絶対に何かありますよね?」

「何でもないですよ?」


 嘘である。やたらとにこにこしながらそんな言葉を口にするのは、間違いなく隠し事をしている証だ。何を考えているのかは知らないが、また何か面倒なことを考えているのは分かっている。


 そんなことを考えながら、前を歩くアーロンとレティシアに続いて店内へと足を踏み入れる。僅かな間だけ隣から感じた気のせい程度の冷たい空気とは違い、冷房によって冷やされた、はっきりと冷たい空気が顔を撫でていった。


 目の前に広がるのは、以前来た時には訪れなかったエリア。当然、立ち並ぶ店に見覚えなどあるはずもなく、二度目なのに何故か新鮮な気持ちに包まれてしまった。


「さ、こっちだよ」


 あらかじめ調べてあったのか、案内も見ていないというのに、アーロンとレティシアの足が止まることはない。促されるまま、その後ろ姿を追いかける。


「……むぅ」


 意識が前の二人に向かいかけた瞬間、右隣で小さく何かが聞こえた気がした。




「はい、着いた」

「おぉ……」

「浴衣だらけだ……!」


 そうして二人の背中を追いかけること約二分。またしてもあちこちの店に目を向けている間に、件の浴衣売り場に到着する。そこでは、思わず感嘆の声が漏れてしまう程に、色とりどりの浴衣が展示、販売されていた。


 催事場を利用しているらしく、特定の店という訳ではなさそうである。その分広々としたスペースは、これから浴衣のシーズンを迎えるということもあって、老若男女を問わずたくさんの人で溢れていた。何かのイベントを思い描いているのか、飾られている浴衣を手に取るその顔は、皆一様に明るい。


「調べてみたら、ちょうどこんなのが開催されてたんだ」

「行くしかないって、二人で話してたの」


 アイリスと自分の方を振り返りながら、軽く経緯を話してくれるアーロンとレティシア。これまで詳しい話は聞いていなかったが、どうやらそういうことだったらしい。何ともタイミングのいいイベントである。


「葵さん! こっちです!」


 先程の不思議な雰囲気はどこへ行ってしまったのか、目の前に広がる浴衣の海にすっかりいつもの調子を取り戻したアイリスが、自分の手首をそっと掴む。催事場の一角に向かおうとしているようだが、自分は足を動かさず、その動きに待ったをかける。


「行きませんよ」


 浴衣を見に行くのに異論はないが、アイリスが向かおうとしている先には異論があった。


 そこは、自分が今まで見ていた一角とは明らかに並ぶ色の種類が違っている。一番目立つ場所に飾られているのは、白地に朝顔があしらわれた浴衣。


 どこからどう見ても女性向けのコーナーだった。


「どうかしましたか?」

「どうかしてるのはアイリスさんです」

「失礼な。私はいつも通りですよ」

「確かにいつも通りですけど」


 それは認めるところだが、それはそれとして、いつも通り女性向けのコーナーに連れて行こうとしないでほしい。車の中で「真面目に選ぶ」と言っていたのは何だったのだろうか。


「僕は向こうですから」


 そう言いつつ、やや落ち着いた色合いが多い一角を指差す。言うまでもなく、男性向けのコーナーだった。


「こっちにも、葵さんに似合うのがあると思いますよ?」

「純粋な目をしてるってところが、尚更質が悪いですよね」


 自分を見つめる瑠璃色の瞳に一切の曇りがないということは、本気でそう思っているということだ。一体いつになったら、自分は男だと認めてもらえるのだろうか。


「ほらほら、今はそういうのはいいから。素直に選んだり選ばれたりしなさい」

「……はーい」


 少しだけ不服そうなアイリスだが、レティシアにそう言われてしまえば、流石に従う以外の選択はできないようだった。解放された手首に残る熱を感じつつ、ようやく諦めてくれた後輩に向かって考えていたことを告げる。


「アイリスさんが選んだ浴衣の感想くらいなら、多分僕でも伝えられますから」

「ほんとですか!? それなら早く行きましょう!」

「っと……」


 結局、解放された手首を掴み直される。だが、先程とは違って、アイリスの行く手を遮るものは何もない。引っ張られるようにしてその隣に並び、楽しそうに笑みを浮かべるアイリスの歩幅に、そっと歩みを合わせるのだった。




「……ああいうのって、普通はもっと違った声のかけ方をするんじゃないんですか?」

「……」


 やや低い声で言うアイリスに対して、何も言うことができなかった。そのアイリスも、機嫌が悪いという訳ではなく、ただ困惑していると言った方がいいだろう。


 自分達が二人してこうなった原因は、実に単純なものである。こういった状況ではよくある、店員に声をかけられるという出来事が原因だ。ただし、そのかけられ方が特殊だった。


 どこにいても人目を引くアイリスなので、女性向けのコーナーに立ち入る前から目を付けられていたのだろう。他と比べても華やかな空間に差し掛かった瞬間、そこにいた店員から声をかけられた。


 姉妹でどのようなものをお探しですか、と。


 見る目のない人間に用はないということで、その店員は一瞬で追い払ったのだった。


「葵さんはこんな見た目ですけど、一応男の子じゃないですか」

「一応?」


 聞き捨てならないことを口にしたアイリスを、店員に向けたのと同じようなじっとりとした眼差しで見つめる。


「だったら、付き合ってるんじゃないかと思って声をかけてくるのが普通ですよね」


 だが、アイリスはそんな眼差しを気にした様子もなく、ただただ自らの考えを話し続けるだけ。これ以上こうしていても仕方がないと分かったので、早々にいつも通りの雰囲気に戻って会話を続ける。


「普通かどうかは知らないですけど、他には兄妹って線もありますよね」

「姉妹って。この見た目で」

「……兄妹もないですかね」


 どこをどう切り取っても、アイリスと自分の間に血縁関係があるようには見えないはずだ。アーロンとレティシアの二人と一緒にいるところを見ているのなら尚更。


「僕に至っては、男物の服を着てるのに、ですからね」


 百歩譲って、複雑な家庭環境があったとして。それでも最初に浮かぶべきは兄妹、もしくは姉弟だろう。そうであってほしかった。


「まぁ、すぐに謝ってくれたからまだよかったです」

「珍獣を見るような目で見られたのは、しばらく忘れられそうにないです」


 自分の性別も含めて色々と訂正した時の店員の慌てようは、見ているこちらが心配になる程のものだった。あそこまで絵に描いたようにあたふたする人間の姿は、そうそう拝めるものではないだろう。


「面白い人だったね」


 一部始終を眺めていたアーロンの感想がそれだった。何も言わず、穏やかに笑っていたと思ったら、どうやら随分と楽しんでいたらしい。


「何でもいいですけど、これでゆっくり見られそうですね」


 アイリスの言う通り、先程の店員を除けば、ほとんどの店員は接客中である。自由に見て回っていても、しばらく声をかけられる心配はなさそうだった。


「さて……」


 そう言いながら両手を腰に当て、辺りを見回すアイリス。何か好みの浴衣がないか探しているのだろう。


「どう選べばいいのか、さっぱり分かりません」


 迷う段階にすら至っていなかった。


 堂々と言いきったアイリスが、助けを求めるような顔をこちらに向ける。何を求められているのかは分かりやすいが、さりとて解決できる訳でもなく。浴衣を選んだことがないのは自分も同じなのだった。


「感想くらいなら伝えられますから」

「何で繰り返したんですか?」


 自分も選び方など知らないと、そんな意味は伝わったのか、伝わっていないのか。相変わらずこちらを眺めるアイリスの目は疑わしげで、その心を読むことはできなかった。


「これだけ種類があるんだから、好きなように見て回ったらいいじゃない。気に入るものも見つかるわよ」

「ほんとに?」


 そんなところに救いの手を差し伸べてくれたのはレティシアだった。要は、難しいことを考えずに、とにかく見て回れということである。どれにするかで迷うのならまだしも、選び方で迷うのは時間の無駄だという意味にも取れる。


 レティシアの助言を受けたアイリスは半信半疑といった様子だったが、何も手に取っていないのに悩んでも仕方がないという部分は納得したのか、とりあえず近くの浴衣に手を伸ばしていた。


「感想、お願いね」


 アイリスの様子を眺めながら、レティシアが小声で話しかけてくる。先程から言っている通り、ずっとそのつもりでいたが、改めてそう言われると僅かに緊張感が増す。言われた相手が、感想を伝えようとしている後輩の親ともなれば尚更だ。


「さっきも言った通り、絶対に喜ぶから」


 そして、アーロンまで参戦してくる始末。何かがあって心変わりしても、もう退路は残されていない。


「善処します」


 そうなれば進むしかない訳だが、だからと言って感想を上手く伝える自信がある訳でもない。微かな不安を覚えながら返した言葉は、無意識に玉虫色の言葉になってしまった。


「……」


 何となくアーロンとレティシアから視線を逸らせば、その先でアイリスが一着の浴衣を手にしていた。紺色の布地に白い撫子の花が描かれた浴衣である。たくさんの浴衣が並ぶ中から選んだということは、何か琴線に触れるものがあったのだろうか。


「どうですか?」


 服の上から浴衣を羽織ってみせるアイリス。少し濃い紺色のおかげで、菜の花色がより鮮やかに浮かび上がっていた。「無邪気」という花言葉を持つ撫子も、ある意味アイリスにはぴったりの花。


「……」


 そんな様子に、一つだけ思うことがあった。正直に言えば、少し前から懸念していたことでもある。


「身も蓋もないことを言ってもいいですか?」

「何です?」

「多分、大抵のものは似合います」


 不思議そうにするアイリスに向けて口にしたのは、褒め言葉ではあるが、ある意味では問題点とも言える評価。似合うものが多過ぎると、それはそれで選ぶのが難しくなるという、喜ばしいのか喜ばしくないのかよく分からない領域に両足を突っ込んでいるのが、目の前の少女なのだった。


「そ、そう……、ですか……?」


 自分の言葉が予想していたものとは違ったのか、不意を突かれた様子のアイリスが言葉を詰まらせる。何かしらの感情を抑えようとしているのかもしれないが、それでも頬が少し緩んでいた。


「それも似合うとは思いますけど、別のも見てみませんか? 一つだと比べにくいですし」

「……意外と乗り気ですね、葵さん」


 何故か視線をふらふらと彷徨わせたアイリスがそう言うが、意外とは一体どういうことだろうか。自分の姿を何かしら想像していないと出てこない言葉に、思わずその内容が気になってしまう。


「ほら、今はアイリスさんが着せ替え人形ですから。色々探しましょう」


 だが、今はそれよりもアイリスの浴衣探しである。


「自分が言われると複雑なんですね、着せ替え人形って」

「分かってくれました?」

「でも、葵さんを着せ替え人形にする夢は諦めないですよ」

「何でですか」


 わざとその言葉を使うことで自分の気持ちを分かってもらおうとしたのだが、残念ながら何も伝わっていなかった。アイリスの瞳の輝きは一切失われていない。


「でも、そこまで言うんだったら、ちゃんと感想は貰いますからね?」

「任せてください。アイリスさんとは違って、僕は真面目なので」

「私だって真面目でしたもん!」


 少しだけむっとしたように言うアイリスだったが、女性向けのコーナーに連れて行こうとしたことを「真面目」と評していい訳がない。一度、その言葉の意味を辞書で調べるべきだ。


「はいはい、二人揃ってすぐ話が逸れるんだから」

「時間はたくさんあるけど、浴衣もたくさんあるからね。あんまりのんびりはしていられないかもしれないよ?」


 そんな自分達を見ていたアーロンとレティシアが、話を本筋に戻すようにそう口にする。的確に軌道を修正してくれるその手腕に感謝しつつ、アイリスに一歩近付く。


「とりあえず、それは僕が持ってますから」

「あ、はい。ありがとうございます」


 アイリスが羽織っていた浴衣をそのまま受け取る。次のものと比べる時、近くにあった方が比べやすいだろうと思ってのことだった。


「次はどんなのにしましょうか?」


 辺りを見回しながら、アイリスがそう呟く。近くにある浴衣は、どれも今手にしているものと色合いが似たものばかり。どうやら、布地の色によって展示箇所が決まっているらしい。


「そうですね……。あんまり似た色のものばっかりを着てもとは思いますし、もっと違う色にしてみますか?」

「ですね。じゃあ、次はあっちに行ってみましょう!」


 そう言ってアイリスが指差した先は、今いる場所とは全く違う、白い布地の浴衣が並ぶ一角。光をよく反射して、そこだけ他よりも明るく見えるような気がした。


 自分が視線を戻すよりも少しだけ早く歩き出したアイリスの背中を、ゆっくりと追いかける。数歩分だけ先を歩くアイリスの、その背中で揺れる菜の花色の髪を見ていると、次に着る浴衣も間違いなく似合ってしまうのだろうと、やはりそう考えてしまうのだった。




 そこからは、ひたすら色々な種類の浴衣を試す時間となった。


 白地に金魚柄。


「アイリスさんの髪の色だと、全体的に明る過ぎるかもしれないです」

「そうなんですか? 私からは見えにくいので、あんまり分からないですけど……」

「はっきり言って眩しいです」

「『輝きを放つ女』と呼んでください」

「物理的に放ってどうするんですか」


 灰青色に椿の花。


「柄がごちゃっとしてる気がします」

「アイリスさん的には、シンプルな柄の方が好きってことですか?」

「そうですね。柄がたくさんなのも嫌いじゃないですけど、どっちかって言うと、すっきりしてる方が好きです」

「じゃあ、これは選択肢から外しておきましょうか」


 青地に白抜きの桜。


「目の色と近くて、僕は好きです」

「ほんとですか!?」

「えぇ。綺麗だと思います」

「有力候補ですね!」


 桃色に萩の花。


「意外とこういう色もありですね」

「そんな時は何て言えばいいと思います?」

「可愛いです」

「えへへ……。星はいくつ貰えますか?」

「二つ半で」

「何で三つじゃないんですか!」

「自分から聞いてきたので。それさえなければ、文句なしに星三つでした」

「もぉー!」


 黒地に八重菊。


「黒いのも、案外似合うと思いません?」

「ですね。アイリスさん、子供っぽいと言うか、小さいと言うか、幼いと言うか……」

「多過ぎません!? もっと素直に褒めてくださいよ!」

「大人びた雰囲気の浴衣も似合うんですね」

「うぁ……!」

「ただ、これをご覧ください」

「三万円……!」

「ちょっと手が出ないですね」


 まさに選り取り見取り。いくらでも時間が持っていかれそうな浴衣の海を、アイリスと二人で漂い歩く。予想通り大半のものが似合ってしまうアイリスに逐一感想を伝えるのは、なかなかに骨の折れる役回りだった。ただ、その感想に一喜一憂してくれるアイリスの姿を見てしまえば、そんな思いもすぐに消えてしまう。


「結構見て回りましたけど、やっぱり迷いますね」

「何か月分の『可愛い』と『似合う』を言ったんでしょうね」

「星まで貰っちゃいましたし、これからは輝きを放つ星です」

「それで? 恒星さんは特に気に入ったものはありました?」

「『アイリス』でお願いします」


 余計なことを言ったアイリスが、後悔するかのような声音で懇願してくる。まさに、雉も鳴かずば撃たれまい、である。


「アイリスさんは何か気になりました?」

「んー……。初めて選ぶので何とも……。葵さんはどうでした?」


 問い返されて、これまで口にしてきた感想を思い出す。基本はどれも褒めるものだったが、その中でも気になったものといえば。


「そうですね……。個人的には、青地か紺地のものが好きでした」


 その色なのだった。アイリスの目の色と合っているような気がして、何となく印象に残りやすかったということもある。


「じゃあ、その辺りから選びます」

「いいんですか? 着るのはアイリスさんですよ?」


 あっさりと自分の意見に乗るアイリスを見て、思わずそんな言葉が口を衝いて出る。意見を参考にしてくれたのは嬉しいが、アイリス本人の思いはいいのだろうか。


「いいんです。私だけだと、多分決めきれないですし」


 そこで一旦アイリスの言葉が途切れる。青や紺の浴衣が並んでいる方向に向けられていた視線が、今度は真っ直ぐ自分へと向けられた。何らかの意思がはっきりと宿ったラピスラズリは、菜の花色と並んで、今日見てきたどんな色よりも綺麗だった。


「それに、たくさん感想をくれた葵さんが好きだって、そう言ってくれたんですから。その浴衣を着たいです」

「……っ」


 穏やかに微笑みながらそう言ってのけるアイリスの姿に、顔が熱くなるのを自覚する。こんなことを言われて平静を装うことができる程、自分の精神は成熟していない。


「どうかしました? 葵さん?」

「いや……、何でもないです」

「そうですか?」


 納得したのか、していないのか。そんなことを考える余裕すら、今の自分にありはしなかった。幸いにして、それ以上自分の様子は気にならなかったのか、アイリスの視線は再び浴衣に向けられた。これ以上赤くなった顔を見られなくて済むと、何故か助かったような気持ちになる。


「はぁ……」


 心を落ち着かせるために、一度だけ大きめに息を吐き出す。それをきっかけにして、少しずつ顔の赤みが引いていくような感覚がした。


「あっちの方も見てみましょうか。また感想を教えてくださいね?」

「……任せてください」


 落ち着きを取り戻しながら、その言葉だけを絞り出す。


 そうして、今度は同じタイミングで歩き出す。背中を追いかけていた先程までとは違い、楽しそうに頬を緩ませるアイリスが視界の端に映っていた。




「色は決まりましたけど、それでも数はたくさんありますね……」

「せっかくですし、さっきは回らなかった辺りから見てみましょうか」

「はーい。たくさん迷いますよー!」

「何の宣言ですか」


 よく分からないことを言うアイリスと共に歩き回りながら、目に留まったものをいくつか見繕って試着する。これまで何度も繰り返してきた、最早慣れてしまった動きだった。


「気に入ったのはありました?」


 相変わらず何を着ても似合ってしまう容姿をある意味恐ろしく思っていると、牡丹の花があしらわれた浴衣を羽織ったアイリスから、またしてもそう問いかけられる。


「少しくらいはアイリスさんの好みも取り入れた方がいいと思いますよ」


 答えになっていないと思いつつも、今回は感想ではなく意見を伝える。自分が照れてしまうようなことを言ってくれたアイリスだが、今のところ本人の好みが反映されていないので、意識的にそうしたのだった。


「そうですか?」

「さっきも言いましたけど、着るのはアイリスさんですから」

「じゃあ……」


 そこまで押したところで、ようやく考え込むように目を閉じるアイリス。今まで着てきた浴衣を思い出しているのか、その表情はどこか険しい。


「……普通の青ってよりは、濃いめの青の方が好きです」

「紺色に近いようなって色ですか?」

「そうですね。……こんなのとかです」


 手近なところに好みの色の浴衣があったらしく、陳列棚からそっと引き出して見せてくれた。


 本人の言う通り、「青」と表現するにはやや濃い印象で、どちらかと言えば紺に近いくらいの色である。ふと棚に掲示されている説明札を見て、その色の名を知る。


「『瑠璃紺色』って色なんですね」

「瑠璃紺色?」

「みたいですよ。ここに書いてあります」


 そう言いながら、アイリスにも見えるように説明札を指差す。アイリスが一歩踏み出すようにしてその札を覗き込んだことで、その分彼我の距離が縮まった。


「ほんとですね」

「アイリスさんの目の色よりも、ちょっとだけ濃い感じがしますね」

「どっちの色が好きですか?」


 これまでよりも近くで悪戯っぽく笑って、そんな質問を投げかけてくるアイリス。どこからどう見ても、自分をからかおうとしているようにしか見えなかった。そんな見え透いたからかいに、そう易々と乗る訳もなく。


「そうですね……。ちょっと見比べたいので、もっとよく見せてもらってもいいですか?」

「えっ?」


 アイリスとは違って真面目な顔をしながら、綺麗な瑠璃色を見つめ返す。それと同時に、どうやら予想外の返事に対応できていないらしいアイリスに向かって、一歩だけ近付く。


「あのっ!?」


 近付いた勢いそのままに、今度は顔を近付ける。隣を歩く時では絶対に考えられない距離。そんな距離に、アイリスの顔があった。


「ちっ……! 近い! です!」

「見比べるんですから、ちゃんと近くで見ないと」

「うぅ……!」


 普段ならしっかりと合うはずの目が、これだけ近いのに合うことがない。アイリスの視線は、あっちへふらふら、こっちへふらふらと、落ち着きなく辺り一帯を彷徨っている。


「何で葵さんはそんなに落ち着いてるんですかぁ……!」


 そんな言葉が漏れてくるが、正直に言ってしまえば、あまり落ち着いている訳でもない。これだけの至近距離でこんなに整った顔を眺めるのは、普通であれば考えられないことである。今の自分は、単に必死で平静を装っているだけだ。


「決まりました」


 そうとだけ言って、一歩分距離を取る。これ以上長く近くにいると、自分も耐えられそうになかった。具体的なことを言えば、また顔が赤くなる。


「……どっちなんですか」


 ようやくいつもの距離に戻ったことに安堵した様子で、アイリスが再度問いかけてくる。これまで覗き込んでいた目がやけにじっとりと湿っているように見えるのは、自分の気のせいなのだろうか。


 それはともかく、諸刃の剣を振り回してまで得た答えは。


「浴衣の方ですかね」

「なんでですか!」


 たった一言で、アイリスの顔が怒りで染まった。


「あれだけのことをしておいて! 結局それですか!」


 これまでの恥ずかしがっていた姿はどこへ消えてしまったのか。ともすれば、ぽこぽこと軽く殴り掛かってきそうなアイリスなのだった。


「まぁ、冗談ですけど」

「最初から素直にそう言ってくださいよ!」

「アイリスさんの目の色の方が好きです」

「……っ!?」


 そんなアイリスが望んだ通りに素直な言葉を伝えてみれば、あれだけ勢いよく動いていたアイリスの口が、すっかりその役割を放棄してしまった。今となっては、何かを言いかけては閉じるのを繰り返すのみ。


「最初から素直に言ってくださいよ……」


 何とか絞り出した言葉は、十数秒前に口にしたものと全く同じ。ただし、その勢いは正反対である。


「僕なりの照れ隠しだと思ってください」

「……いつも通りの顔じゃないですか」


 納得していないのか、それとも単に拗ねているだけなのか。そっぽを向きながら、アイリスがそんなことを言う。それを聞いて、心の内でそっとため息を吐く。


「……」


 それでも、表面上はあくまでもいつも通りに。アイリスが何も言ってこなかったということは、どうやら最後まで平静を装うことができたらしい。軽く「照れ隠し」という言葉を使ってはみたものの、鼓動の速さはとてもではないが軽く無視できるものではない。


 一体何を考えてそうなったのか、まだ小さく何かを呟くアイリスの横顔は赤いまま。それを見つめる自分の心拍数は、まだしばらく下がりそうになかった。




「あ、これ……」

「何か見つけました?」


 アイリスが好きだと言っていた瑠璃紺色を中心に、まだまだあれこれと浴衣を探していたその時。少しだけ離れたところにいたアイリスから、小さな呟きが漏れた。


 そちらを振り返ってみれば、アイリスはとある浴衣を手にしていた。先程見た瑠璃紺色よりは少しだけ明るく、より瞳の色に近い浴衣である。


「私、これ好きです」


 そう言いながら、手に取った浴衣を広げている。描かれているのは、紫陽花と菖蒲の花。布地の色よりも大分薄い、楝色と瓶覗き色。先程アイリスが話していた通り、過度に散りばめられていない、比較的シンプルな柄の浴衣だった。


「どうです?」


 早速その浴衣を羽織ったアイリスが、目の前で楽しそうに、そして見せつけるように、くるりと一回転する。一緒に揺れた髪も、浴衣の裾も、とても綺麗だった。


「よく似合ってると思います」


 もっと気が利いた言葉を言えたらよかったのだろうが、生憎そんな月並みな言葉しか出てこない。理屈でどうこう考えるより先に、感情が先走ってしまった。


 何だかんだ言って、自分に似合うものがよく分かっている。これまで見てきた中でも特に似合っているように感じられたからこそ、そんな言葉が自然と出てきたのだ。


「僕も好きですね、その浴衣」

「ほんとですかっ!?」

「えぇ。今の僕は素直ですよ」

「えへへ……!」


 自分がそう口にしたのと同時に、この上なく嬉しそうに今日一番の笑顔を見せるアイリス。その顔を見るに、ほとんど心は決まっていそうだ。


「葵さんも気に入ってくれたみたいですし、これにします!」

「いいものを見つけましたね」

「はいっ!」


 元気よく返事をしながら、羽織っていた浴衣を脱いで大事そうに抱えるアイリス。


「……」


 そんな姿を見て、この浴衣を着たアイリスが夏祭りで隣にいるという光景を思わず想像してしまう。今日ここにいる理由を考えれば当然の光景なのだが、不思議と照れてしまって、慌てて想像を振り払う。せっかく下がっていた心拍数が、再び上がりそうな気配があった。


「さぁ! 次は葵さんの番ですよ!」


 自分の事情は露知らず、まだまだこれからと言わんばかりにアイリスがそう宣言した。何故か自分の時よりも張り切った様子で男性向けのコーナーへと向かうアイリスを見て、また大変なことになりそうだと、そんな予感を覚える。


「何してるんですか、葵さん! 早く行きましょう!」

「分かりましたから。ちょっと待ってくださいって」


 振り返るアイリスに促され、そこで思考を切り上げる。意識してそうした訳ではないのだが、それでも口元が少し緩むのが自覚できた。


 間違いなく大変なことにはなるだろうが、間違いなく楽しい時間にもなる。確信に近いそんな思いが、ふと頭の中に浮かぶのだった。

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