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33. 二色に染まる

 後日談。


 勝ちも負けもなかった。


「引き分けなんてこと、普通あります?」

「わざわざリーディングとライティングの合計点ってしたのにね」


 点数の公開を終えた後の、紗季と純奈の感想がこれだった。


 アイリスからテストが返ってきたと連絡があった、その日の放課後。普段とは反対に、今日は自分が一年四組に出向いていた。


「湊君、今回の英語、大分気合いが入ってたのに」


 一緒にやって来た悠からは、そんな感想が漏れる。悠には先に点数を披露していたが、それを見て勝ちだと思っていたらしい。予想が外れて少しだけ目を丸くしている。


「流石に勝ったと思ったんですけど」

「それは僕も同じですよ」


 もっとも、この場で一番意外そうにしているのは間違いなくアイリスである。リーディング九十七点とライティング九十三点で、合計は百九十点。勝ちを確信しても仕方がない点数だ。実際、最初に点数を披露した時のアイリスは、絶対的な自信に満ち溢れていた。


「リーディング九十四点、ライティング九十六点……」


 そんなアイリスが、信じられないものを見るように自分の英語の答案用紙を見つめている。そうなれば、自分からかける言葉は一つである。


「頑張りました」

「頑張らなくてよかったんですよっ!」


 最初の頃に満ち溢れていた自信も、今は見る影もなく消え去り、その顔には不満そうな表情しか浮かんでいなかった。


「引き分けだったわけだけど、どうするの?」

「何も決めてなかったですね。まさかこんなことになるとは思ってなかったので」

「どうしましょうか……?」


 悠に尋ねられ、アイリスと二人して考える。勝ち負けなしなのだから、あの約束も無効というのが妥当な決着だろう。


「どっちもなしにしますか?」

「そうですね。残念ですけど……」

「いや、ちょっと待ってください」


 一応アイリスに確認を取り、その案でほぼ決まりかけたところで、紗季からそんな声がかかる。まさかの第三者の参戦に、アイリスと揃って困惑の視線を向ける。


「紗季?」

「どうかしました?」

「どっちのお願いもなしなんて、そんなの面白くないと思いません?」


 何が言いたいのか、その辺りで察しがついたような気がした。理解したくはなかったが。


「……何が言いたいの?」


 それはアイリスも同じようで、半ば答えの分かった質問を紗季に投げかけていた。その声はどこか訝しげである。


「どっちもなしじゃなくて、どっちもありにしよう?」

「言うと思った!」

「引き分けなんだから、どっちも勝ったとも言えるし、どっちも負けたとも言えるでしょ」

「言え……、ますかね?」


 自分達を説得するように言う紗季だったが、それはどうも詭弁のような気がしてならない。引き分けなので、やはり勝ち負けはないはずだ。


「言えるんです! そういうわけで、どっちもやりましょう!」

「嫌だよ!」

「僕は何をお願いされるのか知りませんけど、星野さんは結局どっちも見られないんじゃないですか?」

「見られなくてもいいんですよ。二人が罰ゲームをやったってことが分かれば」


 豪快にも程がある嫌がらせだった。誰一人として得をしない、本当に意味のない行動である。


「『罰ゲーム』って言った……」

「渡井さんみたいなことを言いますね」

「渡井先輩には親近感が湧いています!」


 そう言う紗季は、見えるはずもない二年生の教室を見透かそうとするかのように上の階を見上げている。今後、二人が揃う場では発言に気を付けなければならないと、そう思わせる仕草だった。


「ちなみに、それぞれ何をするの?」


 勝負の内容は知っていても、その先を知らない悠からはそんな疑問が湧く。


「僕は『一つだけアイリスさんの言うことを何でも受け入れる』ですけど、何をするかは決まってないです」

「湊君の何でも貯金が貯まっていくね」

「嫌な言葉ですね」


 悠に言われて思い出す。確か、アイリスは既に二つの権利を有していたはずだ。中間試験の分である。一つは決まっていたが、残りの一つは保留となっていた。もし紗季の案が受け入れられると、それがさらに増えることになる。


「その貯金、羽崎君にもありますけどね」

「うっ……!」


 まるでその貯金が自分にしかないとでも言いたそうな悠だったが、忘れたとは言わせない。悠にも、宿泊学習で碧依に負けた分が残っている。


 自覚はあったのか、悠の顔が一気に苦々しいものに変わる。


「水瀬さんが忘れてるかもしれないし……?」

「碧依さん、多分そういうのは忘れないタイプだと思いますよ」

「そうかなぁ……?」


 希望的観測を語る悠だが、その思いは砕け散ることになる気がした。今は虎視眈々と機会を窺っている、そんな段階かもしれない。


「まぁ、嫌なことは考えないようにしようか」

「逃げましたね」

「触らぬ神に祟りなし、だよ。それで? 湊君は何をお願いするの?」


 祟り扱いまでされていると知った時の、碧依の反応はどんなものになるのだろうか。恐らく祟りがより強力なものになるので、本人には何も言わないのが正解なのだろう。


 それよりも、今は目の前の「お願いを聞く」である。


「アイリスさんには、ホラー映画を三本観てもらうことにしてます」

「……苦手そうだもんね」

「どういうことですか? 羽崎先輩?」

「そのままの意味だよ」

「む……。葵さんがあんなことを言うから……」

「流石に理不尽ですって」


 悠にあっさり納得されてしまったことでアイリスが不満を露わにするが、今回は完全に悠が悪いだろう。自分に責任を押し付けられても困るだけだ。


「アイリスさん」

「何?」


 そんなアイリスに向けて、ここまで沈黙を保っていた純奈がようやくその口を開く。わざわざこのタイミングでとなると、アイリスにとってプラスの方向には進まないはずだ。


「あんな風になった紗季さん、止まると思う?」

「……」


 アイリスが向けた視線の先。そこには、何が何でも二人共倒れに持っていくという思いに満ちた、不敵な笑みを浮かべる紗季がいた。


「やだぁ……」


 その顔を見て何を思ったのか、アイリスの口調が幾分か幼くなった。ふるふると首を横に振る仕草も、そんな印象に拍車をかけている。


「頑張って。湊先輩も一緒に観てくれるみたいだし」

「その葵さんも驚かせてきそうだもん……」

「よく分かってるじゃないですか」

「やだぁ!」


 今度の拒否は元気いっぱいだった。だからと言って、こうなってしまえば未来は何も変わらないのだが。


「観てる間に変なことはしないって、湊君にお願いを使えばいいんじゃないかな?」

「あ……! それです!」


 悠からの提案を、まるで神からの啓示のように受け入れるアイリス。だが、それは。


「映画を観るのは受け入れたってことになりますね」

「あぁ!? 違います!」

「面白そうなもの、選んでおきますね」

「いやです! 葵さんはそれでいいんですか!?」

「僕の方はさっき羽崎君が言ったことになりそうですから」

「うぅー!」


 いよいよ抵抗できなくなったアイリスが、こちらを上目遣いで睨みながら呻き声を上げることしかできなくなる。本人にとっては全力の抗議なのだろうが、どこにも迫力がない、ただただ可愛いだけの仕草だった。




 七月二十五日、火曜日。期末試験の結果も全て返却された、一学期の最終日。今日が終わればいよいよ夏休みに突入するという、どこか特別な雰囲気が満ちた一日である。


 暑く、長く、退屈だった終業式を終え、教室に戻ってくる。冷房のおかげで室内は快適な温度に保たれていた。うっすらと汗が流れた肌を、冷えた空気がそっと撫でていく。


 いつもなら一日の最後にホームルームがあるが、今日は特別。終業式で全学年まとめて行った判定で、既に放課後の扱いだ。


「生き返ったぁ……!」

「流石に暑かったですね」

「ほんとだよ。それなのに話も長いし……」


 体育館から一緒に帰ってきた悠が、絞り出すように声を漏らしていた。最近分かったことだが、どうも悠は暑さに滅法弱いらしい。体育の授業でも、四月や五月と比べると、明らかに運動量が落ちていた。


 今日の体育館の暑さはそんな悠に大きなダメージを与えたようで、いつもよりも顔が赤くなっていた。その顔に風を送る手が忙しそうである。


「でも、これでもう夏休みだもんね」

「補習もなくてよかったですね」

「分からないことを聞きやすい人が身近にいるから」


 アイリスとの勉強会ほどではないが、授業と授業の合間に、悠から質問を受けることは多々あった。丁寧に教えたと、胸を張ってそう言えるまでは答えられていないが、一応助けにはなれたらしい。


 自分の席まで戻り、少しだけひんやりとする椅子に座りながら話を続ける。


「長峰さんといい、羽崎君といい、どうして先生に聞きにいかないんですか。絶対にそっちの方が分かりやすいと思うんです」

「長峰さんのことはよく分からないけど、僕にとっては湊君の方が話しかけやすいからね」

「同じことを長峰さんも言ってましたね」

「そうなの? ま、湊君って、何となく話しかけやすそうな見た目をしてるから」

「誰が女顔ですか」

「誰もそんなことは言ってないよ。僕も他人のことは言えないし」


 悠にしては珍しく、この手の話題で自虐的なことを口にする。これまで素直に認めることは少なかったはずなのに、一体どういう風の吹き回しだろうか。暑さで余計なことを考える余裕がないのだろうか。


「とにかく、お世話になりました」

「どういたしまして」

「二学期もよろしくお願いします」

「頑張って先生に話しかけられるようになりましょうね」

「小学生みたいな扱いをされてる……」


 そう思うのなら、もう少し改善する努力をするといい。どんな時でも自分が近くにいるとは限らないのだから、成長は必須である。


「暑かったー!」

「ねー。もっと短かったらよかったのに」


 そうやって悠を小学生扱いしていると、自分達からやや遅れて碧依と莉花が戻ってきた。やはり抱く感想は誰もが同じようで、二人も暑さ、長さに辟易としていたようだった。


「髪が長いと、その分暑そうですよね」


 碧依の姿を見て、何となくそう口にする。髪を結んでいる莉花よりも、首回りの風通しが悪そうだった。


「それを葵君が言う? 結構長い方だよね」

「流石に碧依さん程じゃないです」


 碧依も碧依で自分の髪を見ながら言うが、碧依のように肩のやや下辺りまでは伸ばしていない。そういう意味で言えば、碧依の方が多少は熱が籠るだろう。


「はいはい、そこの二人。もうこれ以上暑さの話はしない。せっかく涼しい場所にいるのに」

「言い出したのは莉花なのに」

「気にしない、気にしない。それより、もっとするべき話があるって」

「何?」

「夏休みの話に決まってるでしょ」


 莉花がそう話す通り、教室の中はその話題で持ちきりだった。夏休み中の予定を話す者や今から宿題の多さを嘆く者、そのどちらでもなくとも、とにかく夏休みに関係する話ばかりが聞こえてくる。


 方向性の違いはあれど、その顔に浮かぶのは期待の感情ばかり。長期休み前特有の、どこか浮ついた空気が教室の中を支配していた。


「皆は何か予定ってあるの?」


 莉花の言葉に便乗した訳ではないだろうが、碧依がそう切り出す。そもそも気になってはいたのだろう。


「私は部活かな? 大会もあるしね」

「どこでやるの? 行けそうなら応援に行くよ」

「ほんと!? 碧依が来るなら、絶対に負けられないね!」

「いや、まだ行けるとは……」

「来なさい」

「あ、うん……。行けたらね……」


 思いがけない莉花の圧に負けた碧依の予定が、たった今、一つ決まった。「行けたら行く」というのは行かない人の常套句ではあるが、この場合は本当に行くことになりそうである。


「葵君と羽崎君は?」

「僕はあんまり外には出たくないかな? 暑いの、ほんとに苦手だし」

「じゃあ、休み明けも羽崎君は全体的に白いままだね」

「全体的に……?」


 碧依が言うのは、きっと肌と髪のことだろう。夏にはあまり積極的に外に出ないと自負する悠は、その影響もあってか、ほとんど日に焼けていない。スノーホワイトの髪と相まって、「全体的に白い」という碧依の表現も、どこか納得できるものだった。


「葵君はあのお店?」

「そうですね。流石に毎日じゃないですけど」


 会話の流れとして碧依に尋ねられ、ぼんやりと予定を考えながら答える。


 当たり前の話だが、Dolceria pescaは夏休みとは関係なく営業している。平日は夕方からが基本だが、長期休みであれば平日でも昼からシフトに入ることができる。そこまで入用になることはないだろうが、いざという時に備えて、ある程度の蓄えはあった方がいいはずだ。


「あのお店?」


 碧依の言葉を聞いて、悠が首を傾げる。あの時の話はしていなかったので、この場で知らないのは悠一人。疑問を抱いて当然だった。


 もちろん、思い出したくなくて、意図的に話していなかったのである。


「知られたくなかったんですけど、碧依さんと渡井さんにばれたんですよ」

「バイトしてるお店?」

「えぇ。知られたくなかったんですけど」

「どれだけ知られたくなかったの」


 言葉を重ねる自分を見て、悠が苦笑いを浮かべる。どれだけ知られたくなかったかと問われると、それは「絶対に」だ。今となっては、もう叶わない願いだが。


「偶然見つけちゃったんだ」

「しかも、ねぇ?」

「ねー?」

「え、何?」

「余計なことを言うのはだめですからね」


 そう言いながら、意味ありげな視線を自分に向ける二人。そして、その意味を理解できずに困惑する悠。一応釘を刺してはみたものの、一体どの程度抑えることができるのか、甚だ疑問だった。


「可愛いウェイトレス姿だったよね」

「次はいつなのかな? 湊君?」

「……」


 全く効果がなかった。


「うん……?」


 唯一の救いは、その言葉でも悠が真実に辿り着いていないこと。随分と際どい発言をした碧依と莉花だが、それだけでは確実に真実に結びつくとは限らないようだった。


「あ、フリーゼさんのってこと?」


 案の定、悠が間違った結論へと辿り着く。アイリスが同じ店で働いていることを知っていれば、間違いなくそちらに行きつくと思われる結論。だが、今回に限っては不正解である。


「違うよ?」

「湊君の、ウェイトレス姿」

「え?」

「……」


 碧依と莉花が、丁寧にその間違いを訂正する。それを聞いている自分はといえば、先程から黙ることしかできていない。


「え?」


 信じられないという悠の視線が突き刺さる。「あんなに嫌がっていたのに」という声も聞こえてきそうだった。


「狐耳までつけてたよね」

「次は尻尾もつけるとか何とか?」

「……ほんとに?」

「……だったら何なんですか」


 結局全てを暴露され、誤魔化すことさえもできなくなった。ということで、できるのは開き直ることだけ。


「とうとうやっちゃったんだ……」

「これからは月一でウェイトレスになるんだって」

「上手いやり方だよね。見たかったら、何回も通うしかないもん」


 莉花の言い方が、完全に客寄せ役への言い方そのものである。そんなものはアイリスだけで十分なはずなのに、それで満足しない雇い主と店員がいるせいでこんな目に遭っているのだった。


「写真とかって残ってないの?」

「見てどうするつもりですか」


 何やら怪しげなことを言い始めた悠を制するように、普段はなかなか向けない厳しい目を向ける。


「いや、どうもしないけど、ちょっと気になるかなって。絶対似合ってると思うし」

「そうですか。羽崎君も敵に回るんですか」

「敵って」


 あの姿を見ようとする者は、誰であれ全員敵だ。視線をさらに厳しいものに変え、心の中で臨戦態勢を整える。


「写真はねー……」

「そこの狐耳ウェイトレスにだめって言われちゃったから」


 叶うならば写真を撮りたかったと、残念で仕方がないと、そう言いたそうな雰囲気を放つ碧依と莉花。「狐耳ウェイトレス」などという言葉を再び聞くことになって、自分も残念で仕方がない。


「アイリスさんなら持ってるかも?」

「それか、お店の人なら?」

「探さないでください」

「旅に出そうだね」


 いっそ夏休みを利用して、知人など誰もいない場所に逃げてしまおうか。半ば本気でそう考える。


「私がどうかしました?」


 行き先を考えながら現実から逃げていると、四人の誰のものでもない、少し高めの声が聞こえてきた。この四か月近く、平日はほぼ毎日聞いた声である。


「あ、アイリスさん。葵君のウェイトレス姿の写真って持ってない?」

「持ってますけど、それがどうかしました?」


 たった今やって来たのか、それとも現実逃避をしていて自分が気付かなかっただけなのか。いずれにせよ、アイリスがいつの間にかすぐ近くまでやって来ていた。放課後になってからまだそこまで時間は経っていないはずだが、自らのクラスの方はいいのだろうか。


 そんなことが気になりはするが、それはそれとして、一つだけ言っておかなければならないことがあった。


「何を平然とばらしてるんですか。羽崎君もいるんですよ?」

「あ……」


 言われて初めて気が付いたと言わんばかりの表情である。きっと、何も考えずに返事をしたのだろう。


「あの……、まずかった、ですかね……?」

「ついさっきばらされたので、もう関係ないです」

「私の心配を返してください!」


 不安そうな表情から一転、あっという間にいつもの調子に戻る。今日も今日とて、ころころと表情を変化させるアイリスなのだった。


「って、ばれたんですか?」

「そうですね。これとこれがばらして、これが興味を持ってしまいました」

「これ扱い……」


 顔を動かして、これ三つを示す。そんな扱いをされることが少ない悠が落ち込んでいるが、敵にかける優しさなど微塵も存在していない。


「あ、それで私に写真を」

「そういうことです。絶対に見せちゃだめですからね」

「……見せませんけど、もし見せたら、その時はどうなっちゃいます?」


 そう言って、自分の考えを覗こうとするかのように上目遣いで見つめてくるアイリス。怖いもの見たさという気持ちが芽生えてしまったようで、微かな興味がその瞳に見え隠れしていた。


「ホラー映画の数が十本に増えます」

「三倍! 一日で終わらない!」


 見せるつもりはないようではあるが、それでもさらに釘を刺す。こう言えば、アイリスは何があってもあの写真を誰かに見せることはないだろう。それだけ、ホラーはアイリスへの攻撃力が高いということだ。


「ホラー映画? 何のこと?」


 隠していたもう一つの目論見である話題逸らしも、どうやら上手く機能したらしい。自分の口からは初めて聞いたであろう言葉に、碧依がしっかりと食い付いてきた。


 だが、逸らした先も詳しく話すつもりはなかった。


「何でもないです」

「え。気になるんだけど」

「何でもないです」

「ちょっと……」

「何でも、ない、です」

「あ、はい、ごめんなさい……」


 何度も問いかけてくる碧依を無理矢理押しきる。申し訳なく思う気持ちなど、一切湧きはしない。


「葵さん、ちょっと荒れ気味ですか?」

「今の僕の心はささくれ立ってます」


 そんな自分の様子を見て、アイリスが何かに気付く。やや控えめにそう問いかけてくるが、あんな暴露をされて、いつも通りでいられる訳がなかった。


「そんな荒れた葵さんを癒しに、大好きな後輩がやって来ましたよ!」

「……はぁ」

「あ……、ため息はしんどいです……」


 言っていて恥ずかしくなったのか、それとも自分の対応を受けて恥ずかしくなったのか。真実は定かではないが、とにかくアイリスがそっと目を逸らした。ほんの数秒前までは楽しそうな笑みを浮かべていたのに、その顔は今や気まずさで満ち溢れている。


「うわぁ……、何ここ。夏休み前の雰囲気じゃない……」


 唯一難を逃れている莉花から見ると、自分達の雰囲気はそう見えるらしい。この状況を作り出した元凶の一人なのに、他人事のように振る舞っているのがどうにも納得がいかない。


「渡井さん」

「何? 今度は私か? 私はちょっとやそっとじゃ……」

「補習、張りきってたって先生に伝えておきますね」

「やめて! 思い出させないで!」


 そういう訳で、莉花も現実に引き戻しておいた。


 何事もなかったかのように夏休みの予定を話していた莉花だが、実際は赤点科目の補習が入っている。それも、よりにもよって古文と漢文という、担任である平原先生の担当する科目だった。張りきっていたと伝えておけば、それはもう熱心に教えてもらえることだろう。


「よし」

「何が『よし』ですか。少しは落ち着いてください」


 打たれ強いのか何なのか、復活までの時間が比較的短かったアイリスから、そんな風に窘められる。こんな場面でもない限りは見られない、随分と珍しいやり取りだった。


「ほらほら。せっかく夏休みなんですから、何か楽しいことでも考えましょうよ」

「その話からこうなったんですよ」

「あー……」


 アイリスとしては場の雰囲気を和ませようとしたのだろうが、予想に反していきなり初手を封じ込められ、ふらふらと視線が泳ぐ。果たして、次の策はあるのだろうか。


「……帰りましょうか!」


 潔く諦めたアイリスが、逃げの一手を打った。


「何の策もなかったんですね」

「ち、違います! どうせ碧依先輩と渡井先輩がばらしたんですよね!?」

「そうですけど」

「じゃあ、そんな二人からは一刻も早く離れた方がいいに決まってます!」

「それは、まぁ……」


 よく分からない謎理論ではあるが、それでも一瞬納得しかけてしまった。そう思ってしまう程に、自分もこの場から逃げ出したかったということだろうか。


「……帰りますか」

「あ、ほんとに帰るんだ」


 結局その案を受け入れた自分の一言を聞き、碧依が意外そうに口にする。


「これ以上いても、ろくなことにはならないと思うので」

「確かに」

「『確かに』じゃないんですよ。碧依さんも元凶ですからね?」

「聞こえなーい」

「都合がいい耳ですね」

「でしょ? 自慢の耳だよ?」

「褒めてません」


 気持ちがまだ攻撃的だった先程とは違い、諦めの感情が心を支配し始めた今の自分では、にこにこしながら自らの耳を指差す碧依をどうにかできる自信はなかった。


 そんな碧依からそっと目を逸らし、鞄を手に立ち上がる。そんな様子を見てか、しばらく落ち込んでいた悠が久しぶりに口を開いた。


「あ、湊君」

「はい」


 逸らした視線を悠の方に向ける。


「いや、大したことじゃないんだけど。またねって」


 そう言いながら、右手を小さく掲げる悠。どうやらウェイトレスがどうこうという話はこれ以上する気がないらしく、ただ別れの挨拶をするだけのようだった。


「えぇ、また。……少しくらいは外に出た方がいいと思いますよ」

「あはは……。善処するね?」


 本当にするのかはさておき、前向きな回答ではあった。そんな悠に続いて声をかけてきたのは碧依。


「あ、また莉花と二人でお店に行くからね」

「来なくていいです」

「来ちゃだめです」


 一瞬の間も空けずに、否定がアイリスと重なった。言っていることは全く違うが、ある意味二重否定である。この場合は強調の意味となる。


「そこまで言わなくても……」

「……普通のお客さんとして来るなら、その時は接客しますけど」


 またしてもがっくりと肩を落とす羽目になった碧依が流石に不憫に思えて、ほんの少しだけ譲歩してしまった。こういったところが甘いと言われる所以なのだろう。


「真面目に訪問します!」

「それでも私は嫌です」


 だが、それでもアイリスは認めないようだった。町ごと出禁にした実績がある後輩は、やはり一味違う。


「大事なカモで……、お客さんですから。我慢してください」

「今『カモ』って言った? ねぇ?」

「それなら、まぁ……」

「それならって何?」


 アイリスを何とか丸め込みつつ、ぐいっと迫ってくる碧依からは体を反らして逃げつつ、客を二人確保する。知られたくはなかったが、知られてしまった以上、こうして宣伝しておくしかなかった。


「とにかく、普通のお客さんとしてお待ちしてます」

「行きたいけど行きたくない……」


 複雑な感情を抱く碧依なのだった。


「それじゃあ、そろそろ」

「あ、うん、じゃあね」


 いつまでもこうしていても仕方がないということで、最後にそう一言声をかけ、未だ補習という事実に頭を抱えている莉花を尻目に、アイリスと共に教室を出る。


 冷房がその効果を発揮していた教室内とは違い、廊下はかなり蒸し暑い。教室内との差もあって、暑さが容赦なく全身を襲う。


「あっついですね……」

「外に出たら融けるんじゃないですか? アイリスさん」

「葵さんに影を作ってもらいますもん」

「背、低いですけど」

「私よりはおっきいじゃないですか」


 早くもそんな暑さに辟易としている様子のアイリスが、密かに考えていたであろう策を披露する。だが、いくら暑いからといって、先輩を日除けに使おうとするのはどうなのだろうか。


 そんないつも通りの会話を交わしながら、玄関を出る。直接日差しが当たるようになり、さらに体感温度が上がった。


「さっ……!」

「……」


 不思議な効果音を呟きながら、アイリスが素早く自分の影の中に移動する。まさか本当にやるとは思っていなかったが、入られてしまった以上は仕方がない。それに、そうしたところで体感温度が大きく変わる訳でもないので、とやかく言うこともないだろう。


「……あんまり涼しくないです」

「でしょうね」


 当たり前のことを残念そうに言うアイリスに苦笑いを向けながら、少し狭いアイリスの歩幅に合わせて校門へと向かうのだった。




 あまり涼しくはなくても、結局アイリスは影の中を歩いていた。自分から言い出した手前、すぐに企みを引っ込めるのは恥ずかしかったのかもしれない。


「いよいよ夏休みですね!」

「一瞬で一学期が終わった気がします」

「それだけ楽しかったってことじゃないですか?」

「自分のおかげとでも言いたそうですね」


 影から少しはみ出るように、こちらを覗き込んでくるアイリス。その動きで揺れた髪が、夏の日差しを受けて眩しいくらいに煌いていた。


「楽しくなかったですか?」

「楽しかったです」

「だったらよかったです」


 何だかんだ楽しかった一学期を思い出しながらそう答えると、アイリスは満足そうに笑って影の中に戻っていった。求めていた程の涼はなくとも、そこだけは徹底している。


「夏休み、何をしましょうか?」

「宿題を早めに片付けて、そこそこの頻度で働いてたら、いつの間にか終わってます」

「灰色……」

「ちなみに、去年の僕の夏休みです」


 瑠璃色と菜の花色が鮮やかなアイリスに「灰色」と評された夏休みの過ごし方は、自分の去年の夏休みの過ごし方なのだった。自分では何とも思っていなかった夏休みも、他の誰かから見ると退屈なものだったらしい。


「遊びには行かなかったんですか?」

「図書館に入り浸るのを『遊びに行く』と言っていいのなら」

「絶妙なところを突いてきますね……」


 そう改めて問われると、確かに去年はほとんど遊びには出ていない気がしてきた。わざわざ誘うような相手も、誘われるような相手もほとんどいなかったのだから、それも仕方のないことなのだが。


「そっか。葵さん、友達……」

「五本」

「何でもないです」


 全くいなかった訳ではないが、改めてそういう表現をされると気になるものではある。


「図書館に行くから一緒に、なんて誘っても、大半の人は来ないでしょうし」

「そうですかね? 私なら行きますけど」


 少し考えるようにして空を見上げるアイリス。やや意外そうに言ってはいるが、その考え方は間違いなく少数派だ。


「一緒に行ったところで、館内では別行動ですよ?」

「私は葵さんの後ろについていきます」

「何が楽しいんですか、それ」


 完全に親鳥と雛鳥の行動だった。カルガモの様子が頭に浮かんでしまったのは、先程碧依にあんなことを言ったからだろうか。


「この人はどんな本を読むんだろうなって興味です」

「自分の好きなものを探せばいいんですよ」

「他の人と行ったらそうしてるかもしれないですけど、葵さんは特別です」

「はい?」

「だって、あんまり自分のこと教えてくれないじゃないですか。だから探ろうかと」


 そう言って、やや悪戯っぽく笑うアイリス。あれこれと理由を説明しているが、つまりは人となりの調査だった。それくらいなら素直に尋ねてくれればいいのに、随分と面倒な方法を選ぶものだ。


「自分から話さないだけで、聞かれたら答えますよ」

「金髪で、目が瑠璃色の大事な後輩はいますか?」

「いません」

「なんでですか!」


 そうは言っても、最初に聞かれることがそれとは思わなかった。あまりにも露骨な質問だったので、つい否定の言葉を返してしまう。


「冗談ですって」

「どの辺が冗談なんですか」

「一言『いません』しか言ってないのに、どの辺って何なんでしょうね」

「じゃあ、ちゃんと大事ってことですね!」

「ですね。金髪で目が瑠璃色ってところも違います」

「それはもう私じゃないですっ」


 先程まで気にしていたはずの夏の暑さを忘れたかのように、全身で憤りを表すアイリス。夏服の短い袖を左右に引っ張られたところで、大した影響もないのだが。


「冗談ですって」

「もうよく分からなくなってきました……」


 そんなやり取りに疲れたのか、それとも結局暑さを忘れてはいなかったのか。どちらにせよ、ぐったりと肩を落とすアイリスを見ていると、どうしてもある疑問が湧く。


「どうしてそこまでこだわるんですか」


 言葉にすればたったそれだけの疑問だが、とにかく不思議なことには変わりない。こう思ってしまうのも、自分が他人からの評価をあまり気にしない性格だからなのかもしれないが、それにしてもアイリスはその言葉をよく求めてくるような気がする。


「大事なことですよ。褒められて伸びる後輩にきちんと水をあげるのって、大切だと思いません?」

「根腐れするので、程々にしておきますね」

「私は人ですから! どれだけ水を貰っても大丈夫です!」

「花じゃないですか」

「お花みたいに可愛いなんて……!」

「言ってません」


 アイリスといい、碧依といい、自分の周囲には都合がいい耳を持った人しかいないのだろうか。


 可愛いのは否定できないが。


「ちなみに」


 素直にそう言うのも何となく悔しかったので、適当に誤魔化すために再度口を開く。


「何ですか?」

「アイリスには、乾燥を好む品種もあります」

「私はたっぷりの水を好みます!」

「バケツを用意しておきますね」

「ぶ、物理的にはいらないですっ」


 一体何を想像したのか、自分の影から出たアイリスに少しだけ距離を取られた。今度は髪全体が直接日差しを受け、鮮やかな菜の花色をこれでもかという程に輝かせている。


「わがままですね」

「葵さんが極端なんですよ」

「僕なりの親愛の表現だと思ってください」

「もっと穏やかな表現を希望します!」

「諦めてください」


 アイリスの反応が変わらない限り、自分の反応もきっと変わらない。そのことに本人が気付くのは、一体いつになるのだろうか。そんなことを考える間も、アイリスは抗議の声を上げ続ける。


 その声を受け流しながら視線を少しだけ上に向けると、そこにはほとんど雲のない青空が広がっている。たっぷりの水を好むらしいアイリスだが、残念ながらしばらく雨は降りそうになかった。




 二人揃って電車に揺られ、最寄りの駅の改札を抜ける。あとは自宅まで、相変わらず容赦のない日差しの中を歩くだけである。それだけではあるのだが、学校から駅まで歩くだけでも多少の汗を流したのだ。また同じことを繰り返すのかと思うと、少しだけげんなりとしてしまう。


 アイリスがあることを切り出したのは、少しだけため息を吐いてしまった、そんなタイミングだった。


「あ、葵さん」

「はい?」


 見た目上は涼しげな顔をしているアイリスが、自分の名前を呼びながらこちらを見上げている。


「お祭り、行きませんか?」

「お祭り?」


 そうして切り出されたのは、どうやら夏休みの予定にまつわることらしかった。今は意識していなかったその単語を、思わずそのまま繰り返してしまう。


「もうちょっとしたらあるじゃないですか。あれです」

「あぁ……」


 アイリスが言うのは、毎年同じ時期に開催される町のお祭りのことだろう。言われて思い返してみれば、二年前までは行っていたが、去年は行かなかった。一人暮らしをしていると、どうしてもそういった行事に疎くなってしまう。


「だめ、ですか……?」


 ろくな返事もせずにそんなことを考えていると、自分が渋っていると勘違いしたらしいアイリスが不安そうな声を零した。


「いや、大丈夫ですよ」

「ほんとですか?」


 そのことを少しだけ申し訳なく思いつつ、安心させるようにそう返事をする。


「ちょっと考え事をしてただけですから。嫌ってわけじゃないです」

「考え事ですか?」

「去年は行かなかったなって」


 了承の返事は受け取ったものの、それでもまだ気を遣われたのではないかと勘ぐっているらしいアイリス。自分が素直に考え事の中身を言葉にしたところで、ようやくいつもの明るさが戻ってきた。


「そういうことですか。てっきり、嫌なのに誘われたから『行く』って言ったのかと……」

「嫌ならはっきり言いますよ。そこで遠慮はしません」

「確かに、葵さんならそうですよね」

「その評価も別に嬉しくはないですけどね」


 誘い甲斐のない人だと、そんな意味にも聞こえてしまって、どこか複雑だ。


「去年は行かなかったってことは、その前は行ったことがあるんですか?」

「そうですね。確か、十歳の頃から毎年行ってました」


 ぼんやりと小さい頃のことを思い出しながら、これまた素直に返事をする。こんなことから分かることなどたかが知れているので、そこまで気を付けて会話をする必要もないだろう。


「私の方が多いですけど、それでも常連じゃないですか」

「そんなに行ってたんですか?」


 そんな自分の内心に気付いた様子もなく、アイリスがやや驚いたようにそう口にする。どうやら、自分の姿とお祭りが結びつかなかったらしい。一方、アイリスがお祭りの常連なのは自分のイメージ通りだった。


「小さい頃から毎年です。……誰が今も小さいですか!?」

「何も言ってませんって」


 自らの言葉に反応されてしまっては、自分としてはどうしようもできない。ただただ荒ぶるアイリスが落ち着くのを待つだけである。何となくの記憶だが、以前にも同じようなことがあったような気がした。


「いいですもん。そのおかげで、あんまりおっきくない葵さんの影で楽ができますから」

「またさりげなく移動してますもんね」


 駅を出てから、アイリスが不自然に立ち位置を変えることがあった。考えるまでもないが、それが目的だったのだろう。


「余計なことを考えた葵さんには、私の日除けになってもらいます」

「考えてないですし、これまでも日除けにしてたじゃないですか」

「それはそれです」


 ふいっと顔を背けながら言う後輩は、暴君に片足を突っ込みかけていた。


「まぁ、いいですけど。それより、毎年行ってたんですね」

「お父さんとお母さんが、ああいうお祭りが好きみたいで。毎年の恒例行事みたいになってました」

「今年はいいんですか?」


 アイリスの口振りから察するに、家族にとって大事なイベントなのではないだろうか。それをキャンセルさせるようなことになれば、どうしたって自分は気にしてしまう。


「一緒に行ってたのは小学生までですから。中学に上がってからは、毎年友達と行ってました」


 そう思っていたが、どうやら家族で行っていたのは小学生までらしい。それが分かっただけで一安心である。


「何も言ってませんし、何も思ってませんよ」


 安心したついでに、今度は先に手を打っておく。ここで何も言わなければ、アイリスが先程のように荒ぶるような予感があったからだ。


「私だって何も言ってませんけど? どうしたんですか?」

「何でもないです」


 マイナスの感情が表情に一切出ていないのが、むしろ怖かった。見た目はいつも通りのアイリスなのに、何故か気圧される。


「……もう。とにかく、お父さんとお母さんなら大丈夫ですから。最近は二人で行ってるみたいですし」

「仲が良いんですね」

「娘の私から見ても、たまに恥ずかしくなる時があります」

「……仲が良いんですね」

「……悪いよりは、まぁ」


 自分はもう知ることはできないが、親の仲が良過ぎるのも何かと思うところはあるらしい。これまでの苦労を思い出しているのか、少しだけ遠い目をするアイリスだった。


「って。お父さんとお母さんのお話じゃないんですよ。今は私達のお話です」

「まだ何か? どうするかは日が近付いてからでも……」

「違いますよ」


 急に現実に戻ってきたアイリスが、まだ決めていないことがあるとでも言うように自分の言葉を遮ってくる。明らかに何かを企んでいる、そんな顔をしていた。


「……何を考えてるんですか」

「そんなに身構えなくても」


 あまり意識はしていなかったが、警戒心が態度に出てしまったようだった。その身構え方たるや、アイリスが苦笑いを浮かべてしまう程である。


「アイリスさんがそういう顔をしてる時は、大抵ろくなことになりません」

「違いますって。一緒に浴衣で行きませんかってだけですよ」

「浴衣?」

「浴衣」


 何が飛び出してくるのかと身構えていたが、思いの外まともな言葉が聞こえてきた。ある意味拍子抜けとでも言うべきその言葉に、肩の力がすっと抜けていく。


「身構えて損しました」

「だから言ったじゃないですか。で、どうですか?」


 自分の返事が欲しいのか、アイリスが軽く促してきたので、余計なことに思考を向けるのをやめ、改めてその提案を吟味する。


 一緒にということは、当然アイリスも浴衣を着るはずだ。どう見ても浴衣の文化圏ではない見た目をしているが、当然のごとく似合ってしまうのだろう。その姿を見てみたいとは思うものの、それでも簡単には頷けない理由があった。


「いいとは思いますけど、そもそも僕は浴衣を持ってないんですよね」


 唯一にして、一番の問題点がそこである。男子高校生の一人暮らしとなれば、家に浴衣などある方が珍しいだろう。浴衣を着ているアイリスの、その隣を浴衣以外で歩くのは何かが違うような気がしてしまったのだった。


「私も持ってませんよ?」

「何で提案してきたんですか?」


 一体どうするのが正解なのかと悩む自分に、その悩みを無に帰す一言が飛んできた。どちらも浴衣を持っていない二人組の「一緒に浴衣を着ていこう」という約束ほど、話していて無駄なものもない。そもそもの前提条件を満たしていなかった。


「せっかくなので、買いに行きましょう!」


 何がせっかくなのかはよく分からなかったが、アイリスの提案としては、まず買いに行くところからということらしい。


「……」


 再び考える。


 浴衣というのは、なかなか着る機会がないものではある。自分達のような年代だと、自前の浴衣を持っている方が圧倒的に少数派だろうとも思う。一瞬だけ、わざわざ買うのかと迷ってしまう。


 ただ、その迷いも本当に一瞬。にこにこと自分を見つめるアイリスを見て、あっという間に答えは決まった。


「そうですね。せっかくですし」

「決まりですね!」


 返事をした途端、嬉しそうに破顔するアイリス。その顔を見ていると、自分まで浴衣を買うのが楽しみになってくるのだから不思議なものだ。


「行けそうな日、また今度決めましょうね!」

「えぇ。大体の日は空いてますから、基本はいつでも大丈夫ですよ」

「はーい!」


 まるで手が掲げられていそうな、とても元気な返事だった。楽しみにしてくれているのがとてもよく伝わってくる。


「夏休みも葵さんとたくさん会えそうですね?」

「言われてみれば……」

「バイトもそうですし、浴衣を買いに行って、お祭りに行って。葵さんの誕生日プレゼントのこともありますし、お父さんとお母さんにお呼ばれされてるのもありますもん」

「……本当に多いですね」


 そうして改めて並べてみると、それだけで夏休みが埋まりそうな勢いである。それこそ、アイリスと顔を合わせない日の方が少ないのではないだろうか。


「楽しみです!」


 ありがたいことにそう言ってくれるアイリスだったが、自分としては見過ごせないことが一つだけあった。


「ホラー映画、わざと抜きましたよね?」

「……楽しみ、です……」


 きらきらと輝いていたアイリスの顔が、その一言で一瞬にしてどんよりと曇った。相変わらずころころと変わる表情である。


「……」


 そんな賑やかなアイリスを見ながら、明日から始まる夏休みに思いを馳せる。


 今年の夏休みは、灰色と評された去年の夏休みとは全く違う、瑠璃色と菜の花色に染まる夏休みになりそうだった。

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