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32. 頼られて、慕われて (2)

「アイリスさん」

「はい?」

「英語なんですけど、ちょっと確認しておきたいことがあって。今は大丈夫です?」


 昼食を終えてから少し経った、午後一時半。再び四人で机に向かっている中で、気になることがあったのでアイリスに声をかける。


 アイリスを指名したのは、今開いている教科書が英語だからという単純な話だ。この分野においては、この中で一番の適任のはずである。


 とはいえ、アイリスはアイリスで別の科目を進めている可能性もある。事実、顔を上げたアイリスの手元を見ると、古文の教科書が開かれていた。全く違う科目だが、果たして大丈夫だろうか。


「とうとう葵さんが私に……!」


 色々考えはしたが、完全に杞憂に終わった。どこに喜ぶポイントがあったのかよく分からないが、何故かアイリスの瞳が輝いていて、心底嬉しそうにしている。この様子なら、きっと断られるということはないだろう。


「どこですかっ? どこですかっ?」


 その様子そのままに、わざわざ椅子を近付けてまで隣にやって来るアイリス。別にそこまでしてもらわなくても何とかなるが、せっかくやる気を出してくれているのだから、とやかく言う必要はない。


「やたら嬉しそうですね」

「当たり前じゃないですか。普段お世話になりっぱなしの葵さんに、やっと頼ってもらえたんですよ?」

「あんまり口に出さないだけで、働いてる時はいつも頼りにしてますよ」

「ほんとですかっ!?」


 さらに嬉しそうにするアイリスは、とにかく距離が近かった。隣に移動してきただけでも肩が触れそうな距離だったのに、そこから身を乗り出されると、ほとんど距離がなくなってしまう。


 そんな距離で改めて見ると、本当に整った容姿をしている。よく見ないと分からないなどと言うつもりはないが、流石にこの距離で眺める機会などそうそうあるものではない。


 これまでよくも悪くも何度も輝きを放ってきた瑠璃色の瞳はぱっちりとしていて、見る者を惹きつける不思議な魅力があった。


 鼻は小振りで、高過ぎず低過ぎず、綺麗に鼻筋が通っていて、女性らしい印象を与えている。


 リップクリームでも塗っているのか、唇はうっすらと桜色。ほぼ毎日耳にする、少し高めの透き通るような声が通り抜けるその場所は、今は緩やかに弧を描いていた。


 そして、瞳の色と合わせて、周りとの違いをよく際立たせているのが肌の色。やはり周囲と比べて白みが強いその肌は、瑠璃色や菜の花色をよく引き立たせていた。


「……」


 今更何を考えているのかと、その辺りで恥ずかしくなって意識するのをやめた。アイリスが身を乗り出してきた分、体を反らして距離を取る。


「こっちじゃなくて、教科書の方を見てくださいよ」

「あ、そうですね。ごめんなさい」


 そう注意したところで、ようやくアイリスが自分の椅子まで体を戻す。これでやっと質問ができると、意識を教科書に戻そうとしたところで、その機先を制するかのようにアイリスが口を開いた。


「でっ! 頼りにしてるって、ほんとですかっ」

「本当ですから、今は質問してもいいですか?」

「そんなことより大事なことです!」

「そんなことって」


 言いながら再び身を乗り出すアイリス。一度体を引いた意味がないうえに、他人の質問を「そんなこと」扱いである。


「だって、教えなくたって、どうせ葵さんはちゃんといい点を取っちゃうじゃないですか」

「頼りにならない先生役ですね」

「冗談です。何でも質問してください」

「変わり身の早さは一級品ですか」

「えへへ……。褒めても何も出ないですよ?」

「褒めてないです」


 嬉しそうに顔を綻ばせているアイリスには悪いが、褒めているつもりは一切ない。ないけれども、機嫌よく質問を受け付けてもらえるのなら、それはそれでよかった。褒めてはいないが、きっと解説は出る。


「ほんと、扱いに慣れ過ぎてる」

「アイリスさん、湊先輩の手の平の上で転がされてるの、全然気付いてないよね」

「ね。幸せそうに笑っちゃってまぁ……。クラスで見たことないよ、あんなの」

「クラスの男の子、何人か落とせるよね?」

「半分は固いね」

「聞こえてますよ」

「何でもないでーす」


 何やら紗季と純奈が好き勝手話しているが、その声はしっかりと自分まで届いている。どうやら幸せの真っ只中にいるらしいアイリスには、ノイズとして処理されてしまったようだが。


「とにかく、ここを見てください」

「んぅ……?」


 こうしていても何も進まないので、アイリスの意識を強制的に教科書へと向ける。現実に引き戻された瑠璃色の瞳が、自分が指差す先を捉えた。


「熟語の使い分け、ですか?」


 そこに書かれていた内容を見て、そう一言呟く。


「due toとかowing toとかですね。文法的な使い分けはありますけど、話す時に何かを意識したりするのかってところが気になって」


 やっと真面目な話が始まったことを確認し、質問したかった場所を具体的に口にする。どちらも似たような意味の熟語だが、自分達よりも英語が身近にあるアイリスから見て、この二つにはどういった使い分けがあるのかが気になったのだった。


「あー……」


 頭の中で何かを整理するように小さく声を漏らしながら、首を傾げて斜め上を見上げるアイリス。分からない訳ではなく、どう説明しようか考えているような、そんな印象である。


「よし! 大丈夫です!」


 少しだけ間が空いて、それからそんな自信に満ちた言葉が返ってくる。


「まずですね、その二つって、どっちもちょっと固い表現なんです」

「話し言葉としてはあんまり使わないってことですか?」

「ですね。話す時に使うなら、because ofが使いやすいですかね」

「なるほど……」


 そうして始まったアイリスの解説。こういったことまでは流石に教科書には載っていない。実際に言葉として使う人に聞くメリットの一つだった。


「で、owing toの方は、『書き言葉』って言われたりするんです。ただ、学校のテストで書き言葉だからどうこうって判断、あんまりしませんよね?」

「そうですね」

「なので、結局文法的な使い分けになっちゃうんですよね」

「最後はやっぱりそこですか」


 何か細かな違いがあるのかと思って尋ねた訳だが、結局そこまで違いはないらしい。それでも、教科書に載っていない知識を得られたので意味はあったと思いたい。


「そうです。文頭に置けるのはowing toだなとか、be動詞の後ろに置くんだったら大体due toだなとかです。……こんな感じで大丈夫ですか?」

「助かりました。ありがとうございます」

「どういたしまして、です」


 一通りの解説を終えたアイリスがどこか不安そうに締めくくるが、自分にとっては十分な解説である。素直に感謝を伝えると、そこでやっと胸を撫で下ろしたようだった。


「せっかくですし、葵さんも、もっと柔らかい口調にしましょう」

「いきなりどうしました?」


 撫で下ろしたと思った瞬間に、いつもの調子に戻るのがアイリスだった。今まで真面目に話していたのに、そこからの話題の転換が急過ぎる。もっとはっきり言えば、脈絡がない。


「自分で固い表現とかって言って、ちょっと思い付いたので」

「何をですか」

「葵さん、後輩の私に対してもそんな話し方じゃないですか」

「そうですけど、何か気に障りました?」


 人によっては慇懃無礼と思われても仕方がない話し方だと、そう自覚はしていた。これまでアイリスがそこを気にしているようには思えなかったが、内心でどう考えているのかは推し量れない。何か嫌な思いをしていても、それを隠されてしまえば自分にはどうしようもないのが今の状況だった。


「そういうことじゃないんです。葵さんの方が先輩さんなんですから、そんなに丁寧じゃなくたっていいと思いません?」

「アイリスさんの扱いは丁寧じゃないですよ」

「そこは丁寧でお願いします」

「前向きに検討します」

「いや、だからそれは……」


 アイリスの抗議を受け流しながら、ぼんやりと考える。要は、もっと気軽な口調で話せばいいのに、ということだろう。アイリスは簡単なことのように言っているが、それができるような状況であれば、こんな口調にはなっていない。


「十六歳にもなって、今更口調なんて変えられないですよ」

「そこを何とか!」

「無理ですって。できるとすれば……」

「すれば?」


 個人的には無理だと思っていても、聞いてみたいものは聞いてみたいらしい。なかなか難しい要求をしてくるアイリスに対し、とりあえず自分ができる最大限のこととして、とあることを口にする。


「アイリス」

「わっ!」

「……これくらいです」


 久しぶりにそう呼んだことで、綺麗に不意打ちの形となる。意識の外からの一撃はアイリスに想定以上のダメージを与えたらしく、何故かうっすらと涙を浮かべていた。


「びっくりして涙が出ちゃいました」

「器用なことをしますね」


 一体何がどう繋がって涙が出たのか、一つも理解できなかった。


 片手で涙を拭っているアイリスを視界の端に追いやりながら、正面に向き直る。案の定と言うべきか、一連のやり取りは紗季と純奈に見られていた。


「何です?」

「いや、私達にも敬語だなって」

「誰にでもです」

「面倒じゃないですか?」

「意外と楽ですよ?」


 ノートを黒く染めていくその手を止めて、紗季が疑問を口にする。誰もが抱くであろうその疑問だが、自分の考えは全くの正反対だった。


「相手が年上か年下かを考えなくていいですし、立場も気にしなくて済みますからね」

「あ、そういう……」

「二か月間だけとはいえ、歳が同じに見えないのに、実際は同じなんてこともありますから」


 誰のことかは言及しないが、特定のある人物を思い浮かべて言う。


「私のことですよね? 何で歳が同じに見えないって言うんですか? 葵さん?」


 誰のことか言及していないのに、隣にいた本人には想像したことが伝わってしまっていた。不満を表すかのようなじっとりとした眼差しをこちらに向け、疑問を口にする度に少しずつ距離を詰めてくる。


「まぁ……、そこは気にしなくていいんじゃないですか?」

「はっきりさせないといけないところだと思います」

「身長が低いからじゃないかな……?」

「ちっちゃくないもん!」


 せっかくはっきりとは言及しなかったのに、純奈が答えそのものを口にしてしまった。分かりきっているアイリスへの禁句を、遠慮がちに、だがしっかりと音にした一言だった。


「葵さんはそんなこと、考えてないですよね?」

「いや、考えてました」

「どうしてこんな時だけ素直なんですかっ」


 どうせばれてしまったのなら、これ以上隠しても無駄だからである。ここで誤魔化そうとしたところで、さらなる不満と共に一層距離を詰められるのは分かっている。


「葵さんだって、そんなにおっきくないじゃないですか。どれくらいですか」

「百六十五です」

「ほらおっきくない! たった十二センチです!」

「たった……?」


 我が意を得たりといった様子でそう主張するアイリスだったが、身長における十二センチの差は、「たったの」という表現が許されない差に思えてしまうのは気のせいだろうか。


「よく相手してあげてますね、湊先輩」

「はい?」


 厄介な状態になってしまったアイリスをどう捌こうか悩んでいると、紗季が何故か感心したような様子でそう声をかけてきた。一時的にでもアイリスから逃れられるのならと、半ば無意識で紗季の方を向く。


「私、最近アイリスがその手の話を始めたら、九割くらい聞き流すようになりました」

「その分のしわ寄せが僕に来てるんじゃないですか? これ」

「頑張ってください」


 恐らく、何度もアイリスに対する禁句を放ってきたのだろう。歴戦の猛者も、もうその話題には飽きたらしい。


「湊先輩、優しいから」

「優しくないと、私の話は聞いてもらえもしないってこと? 純奈?」

「そういうところだよ」


 負の方向に爆発したアイリスが、面倒さの塊のようになっていた。今の矛先は純奈なので直接の被害はないが、これは確かに相手をしたくなくなるのもよく分かる。


「ほらほら、そこまでです。いい加減集中しましょう?」


 とはいえ、このまま放っておくことなどできる訳もなく。この場所に来た意味を思い出してもらうためにも、流れを元に戻すようにそれだけを口にする。


「……納得がいかないです」


 そんな自分の言葉を受けて、やや不満そうにしながらも視線を教科書に戻すアイリス。場所が場所だけに、いつまでもそうしているのがもったいないと思ったのかもしれない。聞き分けがいいのか悪いのか、結局よく分からない後輩なのだった。




「……すぅ」

「……嘘だ」

「ほんとに寝ちゃったね」

「……」


 この部屋の予約時間の終わりが見えてきた午後四時過ぎ。これまた以前と同じ音と共に、アイリスが夢の世界の住人となった。


 ただし、前回とは異なるところが一つだけある。


「しかも、湊先輩の肩を枕にして寝た」


 紗季の言う通り、右肩にアイリスの頭が乗っていた。英語を教えてもらっていた時から椅子が近付けられたままではあったが、一体どうすればこの姿勢になるのだろうか。


「……隣で思いっきり体が揺れてるのは見えてましたけど」

「あ、これは寝るなって思いましたよね」

「寝顔可愛い。写真を撮らないと」


 一切遠慮することもなく、紗季がアイリスにスマートフォンを向けている。すぐ近くで三人の話し声がしても、アイリスが目覚める様子はなかった。


 そうこうしているうちに、何度かシャッター音が鳴り響く。アイリスが寝顔を撮られるのは別に構わないが、そのレンズの向きを考えると、自分も写っているのではないだろうか。


「僕も写ってません?」

「写ってますよ? アイリスのことを優しそうに見つめてるところとか」

「誰にも見せないのなら、まぁ……」

「見せませんって。アイリスに送り付けるかもしれないくらいで」


 紗季のその言葉を完全に信用していいのかという問題はあるが、そこは紗季の良心に賭けるしかない。ふざける時は全力でふざける紗季だが、こういった部分は真面目なのだと今日で理解できたので、そこまで心配はしていないが。


 それよりも、問題はアイリスの方である。またしても寝顔の写真を撮られたと分かった時のアイリスの反応は、一体どんなものになるのだろうか。しかも、恥ずかしさで言えば今回の方が恐らく上である。


「アイリスさん」

「……」


 このままずっと寝かせておくのもと思って少しだけ肩を揺すってみるが、残念ながらその目は開かない。


「肩の揺すり方が優しいですね。私だったらグーでいきます」

「それは『揺する』って言わないです」


 人はそれを「殴る」と言う。


「でも、こうして見ると、ほんとに仲の良い兄妹みたいに見えますね」


 どこか穏やかな目でアイリスを見つめる純奈からは、そんな感想が飛び出してきた。容姿が明らかに兄妹ではないことを無視すれば、今の格好はそう見えなくもないのかもしれない。


「確かに、よく冗談で『妹みたいだ』なんて言ったりしてますけどね」

「違うんですか?」


 自分の言葉の最後の調子から、そこに込められた何かを感じ取ったらしい。純奈の瞳の奥に、興味の色が宿ったように見えた。


「あくまで冗談なんですよ」

「じゃあ、ほんとのところはどう思ってるんです?」


 純奈の興味が波及したのか、紗季もシャッターを切る手を止める。どうでもいいが、一体何枚の写真を撮ったのだろうか。シャッターを切る音が相当な回数聞こえていた気がする。


「……一つ年下の後輩ですよ。そこは変わりません」

「それにしてはやたら親しげですよね。私達も一つ年下の後輩じゃないですか」


 何か聞き出したいことでもあるのか、紗季がやけに食い付いてくる。望むような答えを返せるとは到底思えないが、今の状態では他にできることもないので、もう少しだけその話に付き合うことにした。


「ほとんど毎日顔を合わせてますからね。その分、親しくもなります」

「甘やかしも?」

「……そうですね」


 これまで何度か言われてきたことではあるが、やはり改めて言われると、少し恥ずかしいものがある。歳がいくつも離れた相手ならまだしも、アイリスは一つしか変わらない。普通であれば、あまり甘やかす対象にはならないのだろう。


「甘やかしてる自覚はありますけど、流石に控えた方がいいんですかね? その辺が自分でよく分からなくて」


 肩に乗る頭を横目に見ながら、まだそこまで親しい訳でもない二人に問いかける。アイリスの友人である二人なら、何か考えがあるのではないかと思ってのことだった。


 菜の花色の髪しか見えないアイリスが、そこで微かに身動ぎをした。まるで、自分の言葉を否定するかのようなタイミングである。


「んー……? そのままでいいんじゃないですか?」

「私も。今のままでいいと思います」


 そんなアイリスに意識を向けている間に、中身が同じ二つの答えが返ってくる。てっきり「控えた方がいい」という答えが返ってくると思っていたのに、二人の答えは予想に反して肯定だった。


「湊先輩なら、アイリスがだめになるくらい甘やかしたりはしないんじゃないですか?」

「それは気を付けてます」

「じゃあ、多分大丈夫ですって」

「そうだといいんですけど」


 もっと幼い子供を相手にするのなら慣れているが、アイリスに対してという意味では、あまり自信はない。本当にアイリスのためになっているのかという、本人にしか答えが分からないことを考えたこともある。


「それに」

「はい?」


 そんな自分の悩みを見透かしたかのように、純奈が紗季の後を引き継ぐ。


「甘やかされてる時もそうですし、それ以外の時でも、アイリスさんは湊先輩と一緒にいる時が一番楽しそうですよ?」

「……そうやって言われると、ちょっと恥ずかしいですね」

「あ、その顔もらい、です」


 そんな言葉と共に、紗季が再びシャッターを切る。どんな顔で写っているのかは、あまり見たくはなかった。きっと、いつもよりは赤くなっているに違いない。


「何にせよ、楽しんでくれてるのならよかったです」


 自分からすれば、意識して楽しませようとしているつもりはないのだが。それでも、アイリスが楽しんでくれているというのであれば、自分が言うことは特にない。


「で、何でアイリスだけそんなに特別なんですか?」


 話はそこで終わったと思ったのに、これまでとは違う、どこかからかうような口調で紗季がそんなことを口にする。


「いや、さっき言ったじゃないですか。一緒にいることが多いからですって」

「それも本当のことだと思いますけど、他にも何か隠してますよね?」

「どうしてそう思うんですか?」

「何となく、です」


 そう言う割には、紗季は半ば確信したような表情を浮かべている。今この場においては、この上なく厄介な直感だった。当たっているのが、尚更質が悪い。


「……」


 ここまでしっかりと会話をしたのは今日が初めてと言っても過言ではないのに、それでも簡単に心の内を見抜いてくる紗季の鋭さに、思わず黙り込んでしまう。


 そして、沈黙はほとんどの場合において肯定を意味する。


「白状しちゃった方がいいんじゃないですか?」

「……はぁ」

「言う気になりました?」


 自分が吐いたため息をどういった意味に解釈したのか、紗季が若干身を乗り出して尋ねてくる。純奈から移っていった興味のはずなのに、いつの間にかその度合いは紗季の方が強くなっていた。


「……初めてなんですよ。こんな風に慕ってくれる後輩は」


 適当に誤魔化すのは得策ではないと判断したうえで、あくまで自分の意思で更なる本心を話し出す。


「ほう?」

「色々あって、学校では一人で過ごすことがほとんどでしたから」

「そうなんですか? あんまりそんなイメージはないですけど。誰にでも丁寧ですし」

「だからかもしれないですよ? 壁を感じるとか何とか」


 自分でも分かっているが、周囲とは一定の壁があるような話し方である。少なくとも、自分はそんな相手とは仲良くできる気がしない。単に、自分のコミュニケーション能力が低いだけなのかもしれないが。


「とにかく、今までがそうだったので、多分嬉しかったんですよ」

「アイリスが聞いたら、飛び跳ねながら喜びそうですね」


 そう言いながら、紗季の視線がアイリスに向く。そんな動きに釣られて、肩に乗っている頭へともう一度目を向ける。相変わらず顔は見えないものの、欣喜雀躍という表現が似合いそうな様子のアイリスが簡単に想像できた。


「聞いてると思いますよ」

「え?」


 菜の花色を眺めながらの一言。予想もしていなかった言葉を返されて、紗季の動きが一瞬止まる。そんな紗季を苦笑いで眺める純奈を見るに、どうやら純奈は気付いていたらしい。


「起きてますよね、アイリスさん」

「……」


 先程から抱いていた違和感の正体を、本人に突き付ける。この期に及んでまだ誤魔化そうとしているのか、アイリスは身動き一つしなかった。


「起きないとお仕置きですよ」

「……いつから、気付いてました……?」


 その言葉で観念したアイリスから、はっきりとした声が聞こえた。明らかにたった今起きた人間の声ではない。


「最初から。肩を揺すった、その少し後くらいに起きましたよね?」

「ばれてるぅ……!」

「え? そんなに前からですか?」

「ですね」

「全然気付きませんでした。純奈は?」

「最初からじゃないかな。もう少し後に気付いたよ」


 やはり純奈もアイリスが起きていることに気付いていた。自分よりも遠くにいるのに気付いていた辺り、アイリスのことをよく見ていたということだろう。


 その辺りで、ようやくアイリスの頭が肩から離れた。だが、熱はまだ肩に残っている。


「どうしてそんなことをしたんですか」

「だって……」

「だって?」


 自分の問いに、そっと目を逸らすアイリス。言葉もどこか曖昧で、見ているだけで感情が伝わってきそうな様子だった。


「どんな顔をして起きたらいいのか迷ってたら、何だか恥ずかしいお話が始まっちゃいましたし……」


 要は、目を開けるタイミングを逃したという話だった。そして、話が途切れることもなく、起きたことを知らせるタイミングもなく、今に至るという訳だ。


「私が寝てると思って、色々言ってくれましたね」

「起きてると思って言ってましたけど」

「それはそれでどうなんですか。顔が赤くなるのを我慢するの、とっても大変だったんですからね?」

「我慢できてなかったよ?」


 少し身を乗り出してアイリスの顔を見ていた純奈から、即座に否定が入る。自分からは見えなかったが、どうやら会話の途中からアイリスの顔が赤くなっていたらしい。


「あ、何か赤いなって思ってたけど、偶然じゃなかったんだ」


 寝ていると思っていたはずの紗季すら、それには気付いていた。つまりは全く我慢できていなかったということである。


「仕方ないでしょ!? あんなことを言われたら!」

「ちなみに、僕の方も恥ずかしいですけど、全部本音です」

「うぁっ……!?」

「あ、もっと赤くなった」

「言わなくていいから……!」


 どうせ既に多少なりとも恥ずかしい思いはしたので、これ以上は大差ない。そう考えて、アイリスに大事なことを伝えておく。


 結果、思った通り盛大に照れてくれた。


「嬉しそうだね、アイリスさん」

「顔がにやけちゃってるもんね」

「言わなくていいからぁ……!」


 楽しそうにアイリスをからかう紗季、純奈の二人組と、必死になって身を守るアイリス。後輩三人の親しげな攻防は、まだもうしばらく続きそうだった。




「色々とありがとうございました」

「ありがとうございました」

「少しでも助けになれたのならよかったです」


 毎朝アイリスと合流する駅の中。その改札の前で、紗季と純奈がアイリスと自分の方を振り返って、小さく頭を下げる。


「これでいい点が取れなかったら、私が許さないからね」

「アイリスが何したよ?」

「寝顔を見せてくれたくらいかな?」

「……ちょっとは紗季に教えてたでしょ」

「ちょっとね。大体は湊先輩だった」


 隣で何やら不思議なことを言っているアイリスだが、紗季の言う通り、アイリスが紗季と純奈に教えていた印象はあまりない。英語に関することを色々と聞いた辺り、一番教えてもらったのは自分である。


「アイリスさんが色々答えてたのって、湊先輩の質問が多かったよね?」


 どうやら純奈も同じ意見のようで、その視線は自分に向いていた。その言葉に釣られて、アイリスの視線もこちらに向く。


「いい点を取ってくれなかったら、何かお仕置きをしちゃいますからね?」

「誰に言ってるんですか?」

「うわ、強い」

「中間であの点数ですもんね」


 わざわざ色々と教えてもらって、無様な点数を取る訳にはいかなかった。気合いだけで言えば、得意科目の化学や日本史よりも上である。


「何なら、アイリスさんよりもいい点を取ります」

「英語で、ですか? こんな見た目をしてる私より?」


 どこか挑発的な口調で、アイリスが自分の宣戦布告を受け取る。他の科目ならいざ知らず、英語で負けるつもりは一切ないらしい。自信に満ち溢れた、そんな顔をしていた。


「もちろん。会話で使うような英語ならともかく、お勉強の英語だったら僕にも勝ち目はあります」


 それでも、一番仲が良い後輩にあれこれ教えてもらって、形は歪だったが期待までされて、こんなところで引き下がる訳にはいかなかった。


「言いましたね? 私より点が低かったらどうします?」

「一つだけ何でも言うことを聞きますよ」

「言いましたね!?」


 自分が勝負に賭けたものを聞いた途端、アイリスから溢れ出すものが、自信から輝きに変わる。


「今回の英語は全力でいきます!」

「張り合ってる、張り合ってる」

「負けた時が恥ずかしい張り合い方だけどね」

「勝つから関係ないもん!」


 そんなアイリスは、紗季と純奈の横槍に惑わされることもない。絶対の自信を持っているからこそ、ここまで強気に出られるのだろう。英語を話しているところを見たことはないが、何かしらのタイミングで問題なく話せると聞いたこともあるので、こうなるのも当然である。


「アイリスが負けたら、もちろん湊先輩の言うことを何でも聞くんだよね?」

「それとこれとはお話が別」

「流石にそれはどうなのかな……?」


 あまりにも都合がいいアイリスの発言に、純奈が若干引いていた。賭けだと思っているのは、どうも自分だけらしい。


「だって、葵さんのお願いって、ちょっと怖いし……」

「僕のことを何だと思ってるんですか」

「じゃあ、仮に私が負けたら、葵さんは何をお願いしますか? 絶対に負けないですけど」


 仮定の話でも自信に満ち溢れていた。本当に負ける気がないらしい。


「そうですね……」


 自分が勝った場合のことは何も考えていなかったので、そこで少しだけ思案する。せっかくやるのなら、何か季節を感じられるもの、夏らしいものがいい。そこまで考えて、とあることを思い付く。


「アイリスさんって、ホラーは得意ですか?」

「……嫌な予感しかしませんけど」


 一応の確認としてアイリスに尋ねた途端、満ち溢れていた自信は消え、怯えのような色がその顔に広がった。その反応だけで答えは何となく分かったものの、万が一ということもあるのではっきりとした答えを要求する。


「あんまり気にしないでください。得意か苦手か聞いてるだけですから」

「すっごく苦手です」

「決まりました」

「嫌な予感しかしないんですけど!」


 お願いが決まったタイミングから何かを察したのか、既にアイリスの瞳が揺れていた。きっと、想像している方向性は合っているはずだ。


「アイリスさんが負けたら、ホラー映画を一本……、三本観てもらいます」

「なんで増やしたんですか!」

「その方が面白いかなと」

「何にも面白くないですっ」


 怯えながら怒りを露わにするアイリスの様子を見て、間違いなく面白いことになると確信した。あとは勝つだけである。


「勝つから関係ないんじゃないの?」

「自信たっぷりだったよね」

「か、勝つもん!」


 先程とは違い、今度は横槍に惑わされていた。それだけ「ホラー映画」という単語が効いたのなら、自分は随分とクリティカルな選択をしたということになる。


「あ、湊先輩」

「はい?」

「全部とは言わないですけど、英語の点、私達も見せてもらっていいですか?」

「もちろんです。証人は必要ですからね」


 そんなアイリスと自分の勝負に興味津々なのか、紗季が点数の公開を要求してくる。恥ずかしい成績を取るつもりはないという以上に、自分が勝った時、アイリスに逃げられるのを防ぐため、自分も紗季と純奈を利用させてもらうのが吉だろう。


「逃げ道が塞がれていく……!」

「絶対に逃がしません」


 あれだけの啖呵を切ったのだから、それ相応の対価は差し出してもらう。今後も、アイリスが思い付く退路は丁寧に潰していくつもりだった。


「椅子に縛り付けてでも全部観てもらいます」

「鬼がいるぅ……!」

「勝てばいいんですよ、勝てば」

「絶対に負けられない……!」


 賭けてしまったものの大きさをようやく理解したのか、改めて固く決意するアイリス。その正面で、紗季が何かを思い付いたような表情の変化を見せていた。


「観てる間、後ろから抱き締めてもらえれば、少しは我慢できるんじゃない?」

「誰に!?」

「決まってるでしょ」


 その言葉と共に、紗季が自分の方を向く。


「収まりはいいかもしれないですね」

「絶対に! だめです!」


 小柄なアイリスなら、きっと視界が妨げられることもないはずだ。そういう意味では問題ないが、また別の大きな問題はある。断固として拒否するアイリスだが、そもそも自分もそんなことをするつもりはなかった。


「いいかもしれないですけど、観てる間に暴れそうなので遠慮しておきます」

「あぁ……、確かに」

「全身で拒否してそうですね、アイリスさん」

「……」


 全員の視線がアイリスに突き刺さる。即座に否定の言葉が飛んでこなかった辺り、本人にも自覚はあるようだ。


「そんなに激しく暴れないですもん……」


 ようやく返ってきた言葉がそれだった。その言い方では、「少しは暴れる」と言っているのと同じである。しかも、これまでとは違って言葉に全く勢いがなかった。


「自信がなくなったアイリスは放っておくとして」

「紗季?」

「湊先輩はホラー系、大丈夫なんですか?」

「所詮作り物ですからね。何とも思わないです」


 勢いを失ったアイリスは軽く受け流せるのか、紗季の意識が自分の方にだけ向く。無視されたアイリスが何故か自分にむっとした顔を向けてくるが、同じように受け流して会話を続けていく。


「現実的なんですね」

「それに、自分の身に何か起こるわけじゃないですし」


 結局はそこに尽きる。画面の中でどんなことが起こっても、映像を見ているだけという感覚が抜けないのだ。これでは、怖がるも何もない。


「なので、僕はアイリスさんの反応を余すところなく楽しめます」

「大丈夫……、勝てば観なくていい……。英語なら勝てる……」

「とうとう自己暗示までかけ始めたか」


 どうやらそこまでするほど見たくないらしい。俯き加減でぶつぶつと呟くアイリスは、まさにホラーテイストといったところだった。髪の色が鮮やか過ぎて、今のところ何も怖くはないが。


「紗季さん。そろそろ…」

「ん? もうそんな時間?」


 一足早くホラーの世界に向かったアイリスの正面で、時間を確認していた純奈が控えめに紗季に切り出す。そのタイミングで何となく時計を見てみれば、確かに二人が乗る電車の到着時刻が近付いていた。


「まだまだからかいたかったけど、それはまた今度にするね」

「もういらない……」

「湊先輩」

「はい」


 またしてもアイリスの言葉を無視した紗季が、改めて自分の方に向き直る。


「さっきも言いましたけど、ありがとうございました」

「私も。とっても助かりました」

「どういたしまして。二人も頑張ってくださいね」

「はーい!」

「もちろんです」


 最後の最後で気分が落ち込んだアイリスを尻目に、紗季と純奈が健闘を誓う。それぞれの性格がよく表れた、とても素直な返事だった。


「それじゃあ、失礼します!」

「アイリスさんも。またね」

「気を付けて帰ってくださいね」

「……ばいばい」


 そうして、二人が改札の向こうへと去っていった。残ったのはいつもの二人だけ。ただし、一人の様子はあまりいつも通りではない。


「僕達も帰りましょうか」

「そうですね。……絶対に負けませんから」

「言葉じゃなくて、結果で黙らせてください」

「うぅー……!」


 今しがた紗季と純奈が通り抜けていった改札に背を向けて、二人揃ってゆっくりと歩き出す。


 休日の夕方だというのに、駅舎の中は閑散としている。あるいは、休日の夕方だからこそ、か。とにかく、自分達の声以外が聞こえない中で、駅舎にアイリスの小さくて可愛い呻き声が響く。


 その声を聞きながら、夕日が照らす駅舎の外へと向かう。出口から差し込む光が、少しだけ長さの違う二つの影を床に落としていた。

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