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30. 三分咲き (2)

「今日ここを選んだのはたまたまだけど、最高のタイミングだったね」

「ね? 私の方に乗ってよかったでしょ?」

「一生碧依についていきます」

「僕達にとっては最悪の選択です」

「もうそろそろ帰りませんか?」

「店員が帰らせようとしない」


 アイリスのあからさま過ぎる提案が、問答無用で莉花に切り捨てられる。流れも何もない提案だったことが、アイリスの本気具合を示しているような気がした。


「そもそも、どうして二人でこの店に来たんですか」

「『来なければよかったのに』みたいな言い方だね?」

「まさにそう思ってます」

「同じく、です」


 からかうように言ってくる碧依だったが、アイリスと自分は最初からずっとそれしか考えていない。碧依と莉花が来なければ、こんな悲惨な事件は起こらなかったのだ。せめて今日でなければ、せめて自分達がいる時間でなければと、今となっては叶わない願いが頭の中をぐるぐると駆け巡る。


「でも、来てしまったものは仕方がないです。今後絶対に来ないと誓ってもらえれば、これ以上は何も言いません」

「これ以上も何も、既になかなか無茶なことを言ってるからね?」

「この店に来ないだけでいいんですよ? こんなに簡単なこともないです」


 無茶を言っていることなど自分が一番理解しているが、だからと言って、ここで引き下がる訳にもいかない。今後自分達が安心してこの店で働けるかどうかが決まるのだから、頑張らない理由がなかった。


 月に一回ウェイトレスの姿で接客させられる店を「安心して働ける職場」と表現していいのかという疑問は残るが、それはそれである。


「客払いする店員って、初めて見た」

「光栄です」

「褒めてないよ」


 そんな簡単なお願いなのに、碧依は一向に認めてくれない。一体どこに不満があるというのか。


「アイリスさんはこんなこと言わないよね?」


 一方、莉花の照準はアイリスに向いていた。そちらの方がまだ落としやすいと考えてのことだろう。こればかりは狙いが正確であると言わざるを得ない。


「この町を出禁にします」

「町ごと!?」


 だが、そんな予想とは裏腹に、アイリスの方が遥かに過激な発言を放っていた。流石の莉花もその言葉は受け止めきれなかったのか、目を丸くして驚きを露わにしている。その目に悲しそうな色が宿っているのは、自分の気のせいではないはずだ。


「二人がこの町にいると思うと、安心して過ごせないですもん」

「私達のことを何だと思ってるの?」

「天敵です」

「天敵……」


 思いの外敵視されていたことに、相応のダメージを負ったようだ。アイリスと莉花の争いで、珍しくアイリスに軍配が上がっていた。


「二人揃って出禁らしいですよ?」

「私は屈しないよ」

「何が碧依さんをそこまで突き動かすんですか」


 相方がアイリスに敗れたというのに、それでも碧依が止まる気配はない。やたらと強い思いが込められた眼差しが、真っ直ぐ自分を貫く。


 そうかと思えば、ウェイトレス服に視線が浮気する。込められた思いは案外軽いのかもしれない。


「葵君の男装姿を見るために、少なくともあと一回は来るから」

「ウェイターの方がいつも通りで、今日がおかしいんです」

「あれ?」


 この世で一番失礼な混乱の仕方だった。男がウェイター服を着ることを「男装」とは言わない。


「……何かよく分からなくなっちゃったけど、とりあえず二人が可愛いから、それでいいや」


 理解することを諦めたのか、随分と斬新な放り投げ方を見せる碧依だった。自分にとっては何も嬉しくない。


「で、何だっけ? どうして来たのかだっけ?」

「そうです。どうしてわざわざ辱めに来たんですか」

「言い方に悪意しかないね」

「今の心には悪意しかありませんから」


 つまり、まともな対応を期待するだけ無駄だということだ。そんな訳で、早く帰ってほしい。


「ま、その格好で何を言っても全然怖くないんだけど。狐耳可愛いね」

「……」


 そんな自分の悪意を受け流すかのように、碧依がにこにこしながら狐耳に目を向ける。今の今まで、そんなものをつけていることをすっかり忘れていた。受け入れ始めている自分が怖い。


「この狐耳を選んでプレゼントしたのは私ですから、私に感謝しながら帰るといいです」

「まだだってば」


 三度アイリスが帰宅を促すが、やはり受け流される。


 もちろん、碧依達の帰宅以外にも逃げ出す方法はある。他の客が増えてくれば、その接客を理由に離脱できる。だが、時間帯のせいなのか一向に客が増えない。


「そこでへこんでる莉花と一緒に来たのはね、デートなんだ」

「天敵……」

「そうですか。じゃあ、お二人の邪魔をしても悪いですし、僕達はこれで」

「ですね。お二人で楽しんでください」

「だめ」


 今度は自分が離脱を図ってみるも、またしても碧依に腕を掴まれてしまった。ここまで何があっても逃がしてもらえないとなると、最早執念のような何かを感じてしまう。


「私と莉花が、葵君とアイリスさんで楽しむんだよ?」

「『葵さんと私で』って言いました?」

「とんでもないことを言い出しましたね」


 相方の莉花がアイリスに負けたことは意にも介さず、攻めの手を緩めない碧依。あるいは、莉花が負けてしまったからこそ、一人で頑張らないといけないと思ってしまったのか。


 どんな理由にせよ、迷惑なことには変わりない。


「髪型とかをいじりたいです」

「僕のはアレンジしにくいと思うので、アイリスさんでお願いします」

「アレンジの幅が狭い中であれこれ考えるのも、それはそれで楽しいと思うんですよ」


 お互いがお互いを売り合う、何の得もない会話である。そんな迂闊なことをした自分達に、碧依の慈悲のない言葉が降りかかる。


「今日は何も持ってないからやらないけどね。でも、やるなら二人共だよ」

「……」

「……」


 売り合った結果、両者揃って購入となった。本当に意味のない時間だった。


「って、すぐに話が逸れちゃうね。デートってところまで話したっけ?」

「……そうですね」


 求めていたものが手に入って満足したのか、そのタイミングで碧依が本題を思い出す。そう言われてみれば、その言葉には思い当たる節があった。だが、あの時話していた店は間違いなくここではなかったはずだ。


「アイリスさんは知らないと思うけど、宿泊学習の時に私達で勝負をしたんだ」

「勝負、ですか?」

「うん。アーチェリーでどれくらい点が取れるかって勝負。自分より点が低かった人に、お願いを叶えてもらえるってことで」

「それがこの地獄とどう関係あるんですか?」


 軽く事情を聞いたアイリスの口から、あまりにも自然に「地獄」という単語が飛び出してきた。アイリスがこの場をどう捉えているか、とてもよく分かる表現である。


「私が莉花に勝って、一緒に洋菓子店巡りをしようって提案しました」

「あぁ、それで……」

「でも、あの時話してたのは学校の近くの店でしたよね?」

「あれから何回か一緒に出掛けてるからね。今日は偶然ここでした」


 あの時の話との違いに抱いた違和感が、一度だけ頷いてそう口にする碧依によって解消される。その偶然に、アイリスと柚子の策略がぶつかってしまったという訳だった。本当に迷惑な偶然である。


「つまり、とっても迷惑なことをしてくれたってことで合ってます?」


 事情を理解したとしても、アイリスの態度は何も変わらなかった。一切邪気のない顔で言っているところが、アイリスの心情を物語っているようだ。


「今日のアイリスさん、何か冷たくない?」

「普通の対応をしてもらえると思ってるんですか?」

「店員さんとお客さんなんだから、いつもよりもっと丁寧にお願いします!」

「お帰りはあちらです。ご案内いたします」

「そういう丁寧さはいらないかな」


 隙あらば状況の改善を図るアイリスだったが、残念ながら五度目も失敗に終わった。もうそろそろ店を追い出すのは諦めるべきなのかもしれない。


「そうそう。ほんとはアイリスさんのことも貰っちゃうつもりだったんだよ?」

「は?」


 心が折れかけている自分とは対照的に、まだ諦めきれない様子のアイリス。だが、話が予想外の向きに折れ曲がったことで、その勢いが幾分か削がれてしまったようだった。また一つ理解できないことが増えて、こてんと首を傾げている。


「アイリスさん、よく言ってるでしょ? 自分は葵君のだって」

「……確かに言ってますけど、それが何か?」

「だから、葵君に勝ったら、アイリスさんを好きにできる権利を貰おうと思ってたんだ」

「詳しく聞いても意味が分からないです」


 そう言いながらも、体は碧依から距離を取っていた。理解できなくとも、本能でそうするべきだと判断したらしい。実に優秀な本能だった。


「あれ? ほんとは?」


 そうして少しだけ余裕ができたからなのか、碧依の言葉の細かい部分に気が付いたようである。


「残念ながら、葵君には勝てませんでした」

「葵さん……!」


 闇夜を彷徨う中、灯火を見たような目が自分へと向けられる。助かったとでも言いたそうな雰囲気であることを考えると、実現してしまった時のことを想像したのかもしれない。


「頑張りました」

「そんなに私のことを渡したくなかったんですね!」

「負けたら何を言われるか分かったものじゃなかったので」

「素直に認めてくれてもいいじゃないですかっ」

「本音ですよ」


 碧依から遠ざかった分近くなった距離から、アイリスが抗議の視線を送ってくる。だが、自分の言葉は嘘偽りのない、純度百パーセントの本音だった。その抗議には何の意味もない。


「見た目は最高に可愛いのに、性格が可愛くないです……」

「そういうことばっかり言ってるからですよ」


 忠告したところで、アイリスのそれは治らないのだろうが。こんなに簡単に治るのであれば、これまで散々苦労したりはしていない。


「あの時の葵君の真剣な顔、アイリスさんは見たことがないんだろうなぁ?」

「他人の表情でマウントを取らないでもらえます?」

「私だってそれくらいは見たことありますもん! 一緒に勉強してる時とか!」

「アイリスさんも張り合わない」


 片やにやにや笑いながら、片や憤りながら。対照的な表情を浮かべながら、碧依とアイリスが対峙する。対峙するのは勝手にすればいいが、そこに自分を巻き込まないでほしい。どう考えても突っ込みが追いつかなくなる。


「というか、どうしてよそ見をしてるんですか」

「うっ……」


 そんな中、アイリスの迂闊な一言によって、これまで気付いていなかった事実に気付いてしまった。どうやらあの時、何度か集中が途切れていたらしい。


「そういう真剣さじゃないと思うけどな、あの顔」

「頑なにマウントを取ろうとしてくる……!」

「どんなに仲が良くても、アイリスさんは葵君の後輩だもんね。一緒に行事には参加できないもんね?」

「何であと三か月早く生まれなかったの……! 私……!」


 碧依に煽られながら自らの生まれを呪うその姿は、実態はさておき、まるで何かの物語の主人公のようである。ここからどんな物語が展開されるのかは、一切想像もできなかったが。


 そうして悔しがるアイリスに、碧依がさらに畳みかける。


「アイリスさんは自分が一番葵君と一緒にいるって思ってるかもしれないけど、普通に私達の方が長いからね? 一緒のクラスだし」

「何なんですかぁ! 私をどうしたいんですか!」

「涙目のアイリスさんが可愛くて、つい」

「助けてください葵さん! この人怖いです!」


 いよいよ自力で対処しきれなくなったアイリスから、救援要請が飛んでくる。碧依が望んだ通り、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「涙目が可愛いっていうのはよく分かるので、そのままで」

「敵しかいない……!」


 しかし、人の立場というものは、時の流れに応じて変化する。アイリスにとっては残念なことなのだろうが、今の自分は碧依の意見に賛成する立場だった。悲しそうに泣いているのは論外だが、からかわれて涙目になっているくらいであれば、場合によっては可愛いで済む。


「可愛いって言われてるんだから、素直に喜んだらいいのに」

「可愛さが素直じゃないんですけど」

「まぁ、変化球ですよね」

「分かってるんだったら、素直に可愛いって言ってくださいよ」

「可愛いと思いますよ」


 そろそろアイリスの不満が爆発しそうだったので、ここは素直に要求を受け入れる。


「……えへ」

「ちょろいよ、アイリスさん……」


 そう口にした途端、アイリスはあっさりと機嫌を直し、それを見た碧依が素直な感想を漏らしていた。アイリスが再び憤慨してしまいそうなその感想は、幸い頬を緩めているアイリスには聞こえなかったらしい。


「もう天敵でも何でもいい! 受け入れてやるから!」


 そうこうしているうちに、よく分からない決意を固めた莉花が復活した。そのまま落ち込んでいてくれた方が楽だったのにと考える自分は、もしかすると薄情な性格をしているのかもしれなかった。


「おかえり、莉花。結構時間がかかったね」

「この子の不意打ちはやっぱり効くわ」

「莉花に耐性がないだけだよ」

「碧依?」


 莉花が復活した瞬間から、会話が一気に騒がしくなる。この辺りは、莉花固有の特性のようなものである。


「で、何でこの子はこんなに満面の笑みなの?」

「葵君に可愛いって言われてた」

「あぁ……」

「どうして納得したんですか」


 大して情報がなかったはずの碧依の言葉なのに、何故か莉花が納得を表すように小さく頷いた。


「飼い主に可愛いって言われたら、それは尻尾を振って喜ぶでしょ」

「犬じゃないですか」

「犬でしょ。あんな耳までつけて」

「……確かに」


 そう言われて、今度は自分が納得する。今のアイリスは、見た目も行動も人懐っこい子犬のようだった。


「私はポメラニアンみたいだって、葵さんが言ってくれました!」

「それは『言ってくれました』って表現していいことか?」

「微妙なラインだね」

「可愛いので何にも問題なし、です」

「葵君になら、何を言われても受け入れそうだよね」

「懐きに懐いた犬か」

「わん!」


 機嫌が直ったどころか相当よくなっていたらしいアイリスの右手が、いつかのように左手に乗せられた。一体何が楽しいのか、相変わらず見惚れてしまうような笑みを浮かべている。


「いいなぁ……」

「一家に一人欲しい、この子」


 そのやり取りを羨ましがる二人の、そんな言葉。莉花の発言が徐々に怪しい方向へと傾き始めている。


「いっそ攫っていくか」

「私も協力するから、一日おきにどっちかの家に住んでもらう?」









「絶対にだめです」









 まさかそんなことまでは言わないだろうと思っていたのに、予想に反して二人がその言葉を口にしてしまった。


 その瞬間、自分でも驚く程の冷たい声が出る。心の中に暗雲が立ち込めるのが、はっきりと自覚できた。


「冗談だよ?」

「そんなに後輩を奪われるのが嫌か? うん?」


 盛り上がっていた碧依と莉花は、そんな自分の変化には気付かなかったらしい。返ってくる言葉は、今までの調子と何ら変わりない。


「そうですね。二人には渡しません」


 二人は何かを意識して今の発言をした訳ではないと、そんなことは流石に分かっている。その二人に淀みを吐き出さないように気を付けながら、なるべく普段通りの調子を装って返事をする。


「葵君が素直だ」

「珍しいね」


 自分の内心ではなく言葉に意識が向いているのを見る限り、二人はどうにか誤魔化せたのだろう。迂闊な一言で心の中を探られるようなことにならなくてよかったと、そう安堵しかけた瞬間。


「……葵さん? どうかしました?」


 何かの違和感を抱いたらしいアイリスが、心配そうな表情でそう問いかけてきた。今まで浮かべていた笑みは綺麗にどこかへ消え、律儀に左手に置きっぱなしだった右手は、いつの間にか短い袖をちょこんと掴んで引っ張っている。


「……何でもないですよ」

「ほんとですか?」

「えぇ」


 こんな一言で誤魔化せるとは到底思えないのだが、それでも何とか誤魔化すしかない。案の定疑いの眼差しを向けてくるアイリスだったが、無理矢理押し通す。


 アイリスに意外と鋭いところがあることは分かっていた。だが、これまでで一番の鋭さをここで見せられるとは、露程も考えていなかった。三か月と少しの月日は、小さな機微も感じ取れる程にアイリスを成長させていたらしい。


「葵さんがそれでいいなら、何も言いませんけど」


 あまり納得していないようではあるが、これ以上尋ねても仕方がないと思ったのか、アイリスの方から一歩引いてくれた。実にありがたいことである。


「また何か二人だけで通じ合ってるし」

「私達も混ぜてよ」

「無理ですね。碧依先輩と渡井先輩は、葵さんへの理解が足りてないですから」


 そんな自分達の様子を見ていた碧依と莉花に対し、先程の仕返しと言わんばかりにアイリスが言い放つ。実際、この場ではアイリスだけが自分の変化に気付いていたので、説得力が桁違いである。


「別に悔しくないはずなのに、そういう言い方をされると妙に悔しい」

「でも、確かに葵君のこの似合い具合は、私達の理解を超えてたかも……」


 未だに何が起こったのかを理解できていない碧依は、このまま話が進むと分が悪いと判断したらしい。強引に話題を転換し、ありがたくないことに再び自分のウェイトレス姿と狐耳をその目に焼き付けている。


「何を考えてたのかは聞かないことにしますね」

「大丈夫? 後悔しない?」

「聞いた方が後悔しそうです」


 何やら話したそうに言う碧依だったが、自分にとって都合がいいことなど間違っても考えていないはずなので、聞く理由がなかった。


「何でもいいですけど、僕達はそろそろ仕事に戻りますからね」

「えー? もう?」

「結構時間が経ってますからね?」


 分かりやすく不満そうにする碧依に対して、時計を指差しながら答える。少なくとも、碧依が言った「もう」という表現が相応しくない程度には、二人がやって来てから時間が経っていた。柚子から了承を得ていると言っても、それでも限度というものはある。碧依と莉花の前に並んだ皿が空になった今が、まさにそのタイミングだろう。


「アイリスさんも。そろそろ二人の相手も疲れましたし、戻りましょうか」

「そうですね。もうこれ以上はいらないです」

「あれ? 辛辣……?」

「ここに来て歓迎されてない感が……?」

「何を今更」


 最初から歓迎などしていなかったはずだ。それを碧依と莉花が無視し続けていただけの話である。


「お会計をするなら、それは対応しますけど」

「これ、早く帰れって言われてるのかな?」

「そこまでは思ってないですよ? でも、帰ってくれると心が穏やかになるのは確かです」

「さっきから葵君が厳しい……」


 接客モードが途切れてしまって、ついつい言葉が厳しくなる。目の前で碧依がへこんでいるが、普段学校で話している時のように、より身近に感じられる接客と思ってもらいたい。


「私は早く帰れって思ってますよ?」

「こっちはもっと厳しいんだけど!」


 一応は言葉を濁した自分とは対照的に、アイリスは素直な言葉を莉花にぶつけている。その態度は、碧依達がこの店にやって来た時から何も変わらない。


「そこまで言われちゃったら、今日はもう帰るしかないね。一応、十分楽しめたし」

「楽しめたのはケーキですよね?」

「ケーキも、だよ?」

「……」


 へこんでいるのはふりだったのか、あっという間に元の態度に戻った碧依がそう口にする。まるでケーキ以外にも楽しめたものがあるような言い方だが、他に何を楽しんだのだろうか。


 碧依の視線がしっかりとウェイトレス服と狐耳に向けられているのは、見なかったことにした。


「……お会計はあちらで」

「楽しかったな?」

「楽しんでもらえたのならよかったです。その分、五割増しで料金を頂きますね」

「写真を撮らせてもらえるなら、それも考えるかな」

「定価で結構です」


 たったの数百円で写真を撮られる訳にはいかなかった。ここは自分が折れるより他はない。


「残念。じゃあ、また次の機会に狙うことにするね?」

「次はありません」


 もう着る機会がない訳ではない。どうせまた着せられるので、単純にその姿を見せないというだけの話だ。そもそも、この二人はアイリスによってこの町を出禁にされている。


「莉花? そろそろ行くよ?」

「碧依ぃ……。初めてこの子に負けた……」

「そういうのはいいですから。早くお会計をしましょう」

「はい……」


 アイリスとしては、とにかく早く帰ってほしいというその一心らしい。ただひたすらに純粋なその思いが、普段は勝てないはずの莉花を貫いていた。


「それじゃあ、こっちに……っ!?」

「っと……」


 碧依と莉花をレジまで案内しようと立ち上がったアイリスが、椅子に足を引っかけて体勢を崩す。咄嗟に広げた腕の中に、その小さな体が収まった。


 幸い、思ったよりも衝撃は小さく、左足が一歩後ろに下がっただけで済んだ。


「大丈夫ですか?」

「え……? あ、はい……」

「だったらよかったです」

「……っ!」


 特に怪我もないであろう様子に安堵していると、腕の中のアイリスが小さく身動ぎをする。何かに気付いたかのような、そんな小さな反応である。


 そう思った次の瞬間には、腕の中からアイリスが消えていた。


「なんっ……!? 何を……!?」

「どうしました?」

「どうもこうもっ! ……あれ?」

「はい?」


 逃げ出した直後のアイリスは、目の中に渦巻きが浮かんでいる程に動揺していた。だが、それも束の間、不自然とも言えるような勢いで落ち着きを取り戻していく。その勢いたるや、アイリス本人が首を傾げてしまう程である。


「何です?」

「いや……。葵さんに抱き締められたと思ってすっごくどきどきしたのに、その格好を見たら一気に落ち着きました」

「どういう意味ですか」


 一体何があったのか気になって尋ねてみたところ、随分と失礼なことを考えていたようだった。咄嗟のことだったとはいえ、いきなりアイリスを抱き締める形になった自分も悪かったが、ここまで言われる筋合いはどこにもないはずだ。


「女の子だなって」

「体が折れるくらい、力いっぱい抱き締めてあげますよ」

「だ、大丈夫ですっ」

「遠慮しなくていいですから」


 少しだけもやっとした気持ちに突き動かされるままに、少しずつ後退るアイリスを同じだけのペースで追いかける。


「だめですって! ほらっ、碧依先輩と渡井先輩のお会計をしないとですよ!」

「少しくらいなら待たせても大丈夫です。客層はいいので」

「あの二人はよくない方です!」

「あれ? 何で私達が攻撃されてるの?」

「碧依はよくない客だってさ。残念だったね」

「莉花もだよ」


 流れ弾に被弾した二人の会話は、右から左へと抜けていく。今は目の前のアイリスを追い詰めることが先決だった。


「あ、葵さん、そんなに力は強くないじゃないですか! やっても多分折れないですって!」

「やってみないことには分からないですからね。何事も実践あるのみ、です」

「言葉の使いどころを間違えてますっ」


 どうにかして逃れようとするアイリスの言葉を、一つ一つ丁寧に跳ね返していく。その辺りでいよいよまずいと思ったのか、アイリスの瞳が一際大きく揺れ動き始める。


「どうかしましたか?」


 ちょうどそのタイミングで、恐らく騒ぎを聞きつけたであろう柚子がキッチンから出てきた。アイリスが自分に追い詰められている状況を理解できなかったのか、碧依と莉花にそう問いかける。


「葵君がアイリスさんを力いっぱい抱き締めようとしてるみたいです」

「あら、じゃあ写真を撮る準備をしておかないと」

「今日のところは、これで勘弁してあげます」


 柚子の流れるような一言で、一瞬にしてアイリスから距離を取ることになった。余計な写真が増えるのは絶対によくない。


「助かりました……!」


 壁際まで追い詰められていた状況から解放されたアイリスが、そっと胸を撫で下ろす。


「……」


 実のところ、自分も止め時を見失っていたので、柚子の一言には助けられていた。あのまま進めば、本当に宣言通りアイリスを抱き締めることになりかねなかった。いくら親しい後輩とはいえ、無理矢理抱き締めていい訳がない。


「そうは言いますけど、前の時は僕の腕に抱き付いてきたじゃないですか」


 そんな内心の安堵を誤魔化すように、少し前の出来事を口にする。


「葵さんに抱き締められるのは全然違いますもんっ」

「どういう理屈ですか」


 若干瞳を潤ませながら答えるアイリスによれば、どうやらそういうものらしい。自分はアイリスのように他人の機微を感じ取ることはできないようだ。


「とりあえず、二人のお会計でしたね。お待たせしました」


 一旦理解することを諦めて、しばらく放置していた二人に向き直る。先程まではすぐ近くにいたはずなのに、いつの間にか少し離れたところに立っていた。


 あるいは、アイリスと自分が離れたとも言う。


「あぁ、うん。それはいいんだけど」

「何か?」

「湊君とアイリスさん、どこでもおんなじ感じなんだなって」

「はぁ……?」


 そう呟く莉花の真意も、あまり理解できなかった。




 お互いに休憩を取り終えて、時刻は既に午後八時を回った。外はすっかり暗くなり、窓ガラスには景色ではなく店内の様子が映るようになっている。鏡のような役割を果たす窓ガラスの前を通る度に自分の姿を確認させられている気分になり、自然と足が遠のいてしまう。


 時間的には、来店する客がかなり少なくなってくる頃合いである。個人的なことを言えば、今日はもう一人も来なくていいという思いが強い。そうすれば、この格好を見られた人数はこれ以上増えない。


 そんなことを考えた矢先、ヘッドライトの動きで店の駐車場に車が滑り込んでくるのが分かった。残念ながら、まだ人数は増えるらしい。


 窓ガラスに映る店内の様子の中に、車から降りて歩いてくる二人のシルエットがうっすら混ざる。はっきりとは見えないが、何故か見たことがあるようなシルエットだった。


「いらっしゃいま……」


 扉が開く微かな音を残して入店してきた二人に、別の作業をしていたアイリスが声をかける。だが、その言葉が最後まで紡がれることはない。


 もう一人も来店してこなくていいと考えた罰なのか。この格好をさせられたこと。碧依と莉花に見られてしまったこと。その二つに続く、今日最後になるであろう、三つ目の受難。


「……」

「やぁ」

「あら、可愛い」

「何で来ちゃったの!?」


 これが本当に最後になるといいと考える自分の前に現れた二人組。まだ一度ずつしか話したことのないその二人は、なかなか見ることができない程に驚いている後輩の両親で。


 すなわち、アーロンとレティシアの登場なのだった。




「どんな風に接客してるのか気になってね」

「いつかお店にも行ってみたいって話してたし、ちょうどいいから行こうかって話になったの」

「『なったの』じゃないよ。ならなくていいから」


 他に客がいない店内。席に案内したアーロンとレティシアを、アイリスが問い質していた。


 問い質されたアーロンとレティシア曰く、娘がどんな風に働いているか気になったからと、どんな店なのか気になったからという、二つの理由で来店してしまったらしい。


「もうこの時間じゃお客さんはほとんど来ないから、どんな風に働いてるかなんて分からないし」

「私達を接客してくれてもいいのよ?」

「家族は接客しません。葵さんがしてくれます!」

「え」


 いつもとは若干違う、紗季や純奈と話していた時のような口調のアイリスを新鮮な気持ちで見つめていると、思わぬ方向から攻撃を受けた。せっかくアーロンとレティシアの視界に入らないような位置に移動して、何とかやり過ごそうとしていたのに、である。


「先輩に丸投げするのはどうかとは思うよ」

「お父さんの意見は聞いてないもん」

「でも、あの格好の葵さんに接客されるのは、それはそれでありなんじゃない?」

「まぁ、ちょっとは分かるかな」


 アーロンとレティシアの恐ろしい会話が聞こえてくる。極力目を合わせないようにしているのに、何故か二人がこちらを向いているのが分かった。そして、アイリスが近付いてくるのも。


「ほら、葵さん。呼ばれてますよ?」

「……店員の指名はできないので」

「お昼もやったじゃないですか。……やりたくなかったですけど」


 説得の言葉のはずが、思わずといった様子で本音が漏れ出していた。よくよく考えると、普段から割と本音ばかりのような気もするが。


「アイリスさんに接客してもらった方が、お二人も喜ぶんじゃないですか? 娘の成長とか何とか」

「私の成長だったら、もっと別のところで見せつけます。だから行きましょう」

「あぁ……」


 些細な抵抗も空しく、手首を掴まれてそのままアーロンとレティシアのところへと連れていかれる。向かう先の二人が怪訝そうな目をしていないのが、唯一の救いだった。


(救い……?)


 一瞬頭の中に浮かんでしまった言葉を、即座に否定する。自分で考えておいて何だが、救いでも何でもない。受け入れられていそうなのも、それはそれで複雑だった。


「久しぶりだね」

「私は五月以来かしら?」

「……いらっしゃいませ。お久しぶりです」


 そうこうしているうちに、とうとうアーロンとレティシアの目の前までやって来てしまった。こうなってしまえば、もう無関係を装うことなどできない。


「娘のこととか色々聞きたいことはあるけど、それよりも」

「ねぇ?」


 久方ぶりの挨拶を交わしたアーロンとレティシアの視線が、しっかりウェイトレス服に固定される。今日何度も浴びた、興味の視線だった。


「どうしたんだい、その格好」

「とってもよく似合ってるわ」

「……話せば長いです」

「私みたいなことを言いますね」


 やはり、何よりも気になるのはそこらしかった。娘がアルバイトをしている店を訪ねたら、先輩の男子高校生がウェイトレス服を着ていた。そのインパクトは計り知れないものがある。あまつさえ、狐耳までつけているのだから、受ける衝撃は天井知らずだ。


「無理矢理着せられました」

「簡潔だね」

「短かったわね」

「私の時より短いじゃないですか」


 三人全員から順番に同じ指摘をされた。味方はどこにもいなかった。


「いつも着てるのかな?」

「そんなわけがないです。これで二回目ですね」

「あぁ。あの写真の時ね」


 その言葉で、アーロンだけではなく、レティシアにもあの写真を見せていたことが判明した。思わずアイリスの方を向く。


「アイリスさん」

「……」


 自分はしっかりとアイリスのことを見つめているのに、何故か目は合わなかった。全力で顔を背けているアイリスは、きっと車の中でのお仕置きを思い出しているのだろう。あれと似たようなことをされたくないと、そう思っているからこその動きに違いない。


「まぁ、それは諦めてました」


 そんなアイリスを見つめ続けるだけでは仕方がないので、軽くため息を吐きながらそう口にする。何度考えても、アーロンにだけ見せて、レティシアには見せていないという状況が想像できなかった。どうせ二人揃っている時に見せたのだろう。


「その耳もお店が用意してるの?」

「いえ、これはアイリスさんが買ってきて、無理矢理つけられました」

「無理矢理つけました!」


 写真の中の姿が現実に現れたことに興味を抱くのはもちろんのこと、レティシアの興味は耳にもあるようで、そんなことを尋ねられる。だが、店側がこんなものを用意するはずがなかった。そもそも、男子高校生用に狐耳を用意するような店なら、最初から働いていない。


「誇るところじゃないね。似合ってるけど」

「……素直には喜べないです」


 心の底からそう思っていそうな口調で穏やかに言われたところで、複雑なものは複雑である。どう考えても喜ぶべき場面ではないので、どんな感情を表に出すべきなのかが分からなかった。


「いいものを選んだじゃない。流石は私の娘ね」

「でしょ? 次は尻尾も用意しようかなって思ってるんだ」

「その時はまた見せてね?」

「また断りにくいことを……」


 碧依や莉花にそう言われるのならまだしも、後輩の親にそんなことを言われてしまったら、断れるものも断れない。また見に来るのか、それとも写真に残されるのか。どちらにしても、嬉しくない事態なのは間違いなかった。




「実はね、今日来たのにはもう一つ理由があるんだ」

「もう一つ、ですか?」


 残り少なかったショーケースの中から注文の品を届けた後のこと。どうせ他の客は一人もいないからということで、結局二人と同じテーブルの席に腰を下ろす。左にアーロン、正面にレティシア、右にアイリス。明らかに自分が仲間外れである。


 アイリスの家の外ではあるが、一家団欒の中に入り込んだウェイトレス姿の男子高校生というのは、改めて字面にすると凄まじい違和感があった。


 そんな異様な光景の中で、突然発せられたアーロンの言葉。碧依や莉花に対するもの程ではないが、やはり状況が状況だけに、少し警戒してしまう。


「そう、もう一つ。葵さんを誘いにね」

「僕ですか?」


 右手の人差し指を一本立てながら、アーロンが言う。穏やかな笑みと相まって、その仕草がとてもよく似合っている。


 それはそれとして、「誘いに来た」とは一体どういうことなのだろうか。そもそも、自分は今どこに誘われているのだろうか。


「どこに誘おうとしてるの?」


 行き先も分からなければ、理由も分からない。何かを知っているのかと思ったアイリスも何も聞いていなかったようで、右隣で小さく首を傾げている。


「家に」

「家」

「家」


 そうして告げられた場所が意外過ぎて、アイリスと揃ってその単語だけを繰り返してしまった。あまりにも予想外のことを言われた時、人は同じ言葉を繰り返すことしかできなくなる。


「え!? 家!?」


 一瞬間を空けて、何を言われたのかを理解したらしいアイリス。アーロンの真意が全く見えないようで、驚きの感情がそのまま口から漏れ出していた。


「そうだけど」

「何をそんなに驚いてるの?」

「だって、私の家だよ!?」

「僕達の家でもあるね」

「私が普段どんな風に過ごしてるか、葵さんにばれちゃうでしょ!?」


 どうやら、アイリスが心配しているのはそこらしかった。確かに、ほとんど歳が変わらない異性が自分の生活圏に入ってくるのは、抵抗があって当たり前である。


「今更でしょ?」

「今更ってなに!?」

「葵さんだって、あなたが家でしっかりしてるなんて考えてないと思うわよ。ねぇ?」


 そのタイミングで話を振られても、返事に困るだけだ。両親の前で「娘がだらしない生活を送っていそうだ」と言える人間がいるのなら、是非お目にかかってみたい。言いにくいにも程がある。


「そうなんですか? 葵さん?」

「……」


 何故かじっとりとした目で、確認するかのようにアイリスが問いかけてくる。もちろん、まともな返事ができる訳もなく、ただそっと目を逸らすだけだ。


「何とか言ってくださいよ」

「……考えたことがないです」


 だが、アイリスは逃がしてくれない。自らに不利になることは明らかなのに、それでも自分から何かしらの言葉を引き出したいらしかった。


「今の間、絶対に嘘ですね」

「どうして僕に対してはそんなに鋭いんですか」


 せっかく何とか誤魔化そうとしたのに、張本人であるアイリスに嘘だと断定されてしまった。一体何がしたいのだろうか。


「やっぱり嘘だったんですね。ほんとは何を考えてたんですか?」

「……休みの日はお昼近くまで寝てそう、とか」

「今日は十時くらいだったっけ?」

「そうね。確かそれくらいだったはず」

「お父さんとお母さんは黙ってて!」


 さらに問い詰められて、頭の中にぼんやりと浮かんだイメージを口にする。一度だけ見たことがある寝顔が影響しているのか、想像した自分が照れてしまいそうな程に可愛い姿だった。


「今日はたまたまですもん! たまたま昨日夜更かしをしちゃって……」

「たまたま十時に目が覚めたのよね。もっと遅い日だって、たくさんあるものね?」

「アイリスさん……」

「違います! 今日だけですから! だからそんな目で見ないでくださいっ」


 縋るようにそう言うアイリス。その反応を見る限り、普段から遅い時間まで寝ているのは本当のことなのだろう。何となくのイメージでしかなかったのだが、綺麗に当たってしまうと、それはそれでどことなく気まずい。


「よく寝てるのに……、何でもないです」


 またしても適当に誤魔化すために口にした言葉が最後まで出なかったのは、アイリスの表情が一瞬にしてむっとしたものに変わったからである。


「何を言いかけました?」

「何でもないです」

「葵さん」

「本当に聞きたいんですか?」

「聞いてから考えます」


 きっと聞かない方がよかったと思うことになるはずだが、そこまで言うのであれば、正直に白状することにする。


「『寝る子は育つ』って言いますけど、アイリスさんの背は伸びなかったんですね」

「葵さん以下略!」

「気に入ったんですか、それ」


 さらに口を尖らせ、分かりやすく不満を露わにするアイリスは、それでも可愛く思えてしまうのだからもう意味が分からない。何か色々なものに愛されているとしか思えなかった。


「そうなんだよ。いつまで経っても、あんまり背が伸びなくてね」

「私の成長期はこれからだから!」

「アイリス。落ち着いて聞いて」

「なに」

「女の子の身長が伸びるピークはね、十歳くらいなの」

「……で?」

「あなたの身長の成長期は、もう終わったの」

「終わってないもん!」


 本人が必死に否定しているが、小さな頃からその成長を見守ってきた両親の前では、その言葉は空しく響くだけ。アイリスを見つめるアーロンとレティシアの眼差しは、これまで見たことがない程に穏やかなものだった。


「大丈夫ですって。僕の成長期も終わってますから」

「何の慰めにもなってないですっ」


 背が低い者同士、これからも是非仲良くしてもらいたいところだった。アイリスがどう思うかは知らないが。


「伸びない娘の身長の話は置いておいて」

「伸びるもん! いつか葵さんよりもおっきくなるから!」

「それは無理です」


 いくら自分の成長期が終わっているとはいえ、これから十センチ以上の成長は流石に見込めないだろう。言った本人も心のどこかでそれくらいは理解しているのか、言いきった後は目が合わなかった。


「娘が色々お世話になってるのに、僕もレティも少し話したことがあるだけだからね。改めてお礼をさせてもらおうと思って」

「わざわざそんなことは……」


 そんなアイリスは放っておかれたまま、話が急に真面目な方向へと転換する。随分と律儀な二人らしいが、そこまで言われるようなことを自分がしているとは到底思えない。そうなれば、素直にその申し出を受け入れられないのは当然のことだった。


「私達がしたいの。毎日楽しそうに家を出ていって、毎日楽しそうに帰ってくるんだから、そのお礼くらいしたって罰は当たらないでしょう?」

「僕のおかげとは限らないですけどね」


 アイリスにだって仲が良い友人がいて、そちらと過ごしている時間の方が長いはずだ。やはり自分のおかげとは言いきれない。


「もちろん、全部じゃないのかもしれないけどね。それでも、毎日葵さんの名前を口にしてるくらいだから、大部分を占めてるんじゃないかな?」

「うっ……」


 アーロンの思わぬ発言で、アイリスが流れ弾を食らっていた。小さく呻き声を上げ、頬をうっすらと赤く染めている。恐らくは、家での自分の様子を再び暴露されて照れているのだろう。


「そんなわけだから、よかったら誘われてくれると嬉しい」

「どうかしら?」

「……そういうことなら」


 ここまで言われて、それでもなお断り続けるのも、それはそれで失礼だろう。そう考えて了承の言葉を返す。


「よし、じゃあ決まりだね」

「いつがいいかは、また追々決めましょうか。連絡ならアイリスが取れるみたいだしね」


 かくして、後輩の家にその両親から招かれるという、なかなか珍しいイベントの開催が決定する。何が起こるかは分からないが、すんなり無事に終わるとは到底思えないイベントなのだった。

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