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29. 三分咲き (1)

 七月も中旬に差しかかり、いよいよ夏真っ盛り。最高気温が連日三十五度近くまで上がり、茹だるような暑さが続いている。まだ梅雨は明けていないはずだが、どうやら今年は空梅雨らしい。


 空を見上げれば、卯の花色の雲が縦にその背を伸ばしている。夏に特有の、巨大な積乱雲だった。


 通学路の桜並木は、その緑を一層濃くしたように見える。実際には何も変わっていないのだろうが、そう錯覚してしまう程、全力で葉を広げていた。


 屋外で立っているだけでもじっとりと汗をかいてしまうような、そんな天気の中、Dolceria pescaへの道を歩く。


 時刻は十二時十分。あと少しで、一日で最も暑い時間帯に差しかかるという時刻だった。


「暑いんですけどぉ……」

「言うともっと暑くなりますよ」

「言わないとやってられないです……」


 隣を歩いていたアイリスから、力のない声が漏れる。ここまで暑いと参考にはならないかもしれないが、あまり暑さには強くないらしい。その表情も、いつもより元気がないように見える。


「暑いのは苦手ですか」

「全然だめです」

「でしょうね」


 今の様子で暑さに強いと言われても、説得力はない。頬を一粒の汗が流れていく姿は、必死で暑さに抗っている姿そのものである。


「寒いのも苦手ですけど、まだ寒い方がいいです」

「アイリスさんは暑さにも寒さにも弱い、と……」

「そんなことを覚えてどうするんですか」

「何かに使えるかなと思って」

「絶対にろくでもないことに使うつもりですね?」

「そうとは限らないですよ?」


 アイリスが思わずといった様子で漏らした一言だったが、何か有意義な使い道が見つかるかもしれないので一応覚えておく。誰にとって有意義なのかは、あえて言及しないでおくが。


「……まぁ、いいです。とにかく、暑いのは一番だめです」


 あまりの暑さで反論する元気すらないのか、これまでにない程あっさりとアイリスが引き下がった。わざわざこんなことで確認するまでもないが、暑さに弱いのは本当のことらしい。


「暑いのはどうしようもないですからね」

「そうなんですよ。寒いのは着込めばどうにかなりますけど、暑くても脱ぐのには限界があるじゃないですか」

「暑ければ脱げばいいって、なかなか豪快な考え方をしますね」


 言わんとすることは分かるが、その考え方はどちらかと言うと男側の考え方のような気がする。勝手なイメージで申し訳ないが、アイリスがそういうことを考えるのはやや意外に思えた。


「夏の間、家では結構涼しい格好で過ごしてますからね。……想像しました?」

「するような気力もないです」


 からかうような表情でそう言うアイリスだったが、自分だって暑さでそれどころではない。おかしな格好でなければ、家でくらいは好きな格好で過ごしてほしい。


「ちゃんと服は着てますからね」

「そんなことまで想像しないですって」


 一体誰が隣を歩く後輩の下着姿など想像するのか。絶対にしないが、した日には気まずくて顔も見られなくなる。


「葵さんはその辺、きっちりしてそうですよね」


 何かを話していないと暑さを意識してしまうのか、会話を途切れさせないようにといった調子でアイリスがそう口にする。じっとこちらを見つめる瑠璃色の瞳は、流石に少しだけ元気がないように思えた。


「家では下着一枚で過ごしてますって言ったら、アイリスさんはどうします?」

「葵さんはそんなことしません」

「厄介なファンみたいなことを言い出しましたね」


 先程のアイリスが言っていたように、その姿を想像したかどうかを尋ねてみようと思っていたのに、返ってきた答えは思いもしないものだった。アイリスの中での自分がどんなイメージになっているのか、少し確認しておいた方がいいのかもしれない。


「ちなみにですけど」

「ん?」


 雨はそこまで降っていないのに湿度が高い、じめっとした空気を真似てアイリスのことを見つめる。そんな眼差しから逃げようとしたのか、はたまた単にタイミングがそうなっただけなのか、アイリスが話題を変えるように切り出す。


「葵さんは夏と冬ならどっちが好きですか?」

「冬ですね」

「わ、即答。どうしてですか?」


 まともでありふれた質問だったことと、自分の中で答えが決まっていたことが相まって、アイリスが驚いてしまう程の即答になってしまった。仮に答えが決まっていなくても、この暑さの中でその質問をされてしまえば、恐らく何も考えずに「冬」と答えてしまいそうではあったが。


「雪が積もって、でも空は雲がほとんどないくらいの晴れで、空気は冷えきってるって天気が好きだからです」

「やたら具体的ですね」


 変わった好みだということは自覚しているが、だからと言って変えるつもりもない。あの空気感が好きなのだから、どうしようもない。


「そんな天気が滅多にないのが残念ですけどね。ちなみに、アイリスさんは?」

「秋です」

「自分の質問、覚えてます?」


 夏か冬かを問われているのに、答えは秋。試験なら問答無用で落第である。自分と同じく、一切の迷いもなく言いきったのが、また質が悪い。


「だって、暑いのも寒いのも苦手ですもん」

「それでもあえて選ぶのが今の質問ですよ」


 拗ねるように言うアイリスだったが、出題者が出題の意図を無視していい道理はない。


「まぁ、いいです。それなら、どうして春じゃないんですか? 何となく好きそうですけど」

「花粉症」

「あぁ……」


 たった一言。されど一言。その一言は、数多の人々を納得させるのに、十分過ぎる程の説得力を有していた。自分もその例に漏れず、瞬時に理解する。


「アイリスさんも花粉症だったんですね」

「私もってことは、葵さんも?」

「ですね。発症したのは二年くらい前からです」

「あ、一緒です。急になっちゃって。辛いんですよね……」


 数か月前のことを思い出しているのか、アイリスの目が虚ろだった。間違っても、暑さにやられてそんな目をしている訳ではないだろう。どうやら症状は重めらしい。


「お父さんもお母さんも花粉症じゃないので、この辛さを分かってくれる人が身近にいなかったんですよ……」

「そこに僕が現れた、と」

「救世主ですねっ。私がお薬を忘れても、葵さんなら何かしら持ってそうですし!」

「『救急箱』の間違いでは?」


 嬉しそうに言うアイリスの扱いは、完全に救急箱のそれだった。春に一度薬を飲み忘れて以来、確かに常備はしているが。飲み忘れたと言うのなら、その時は分けるが。あの辛い症状を知る相手なら、流石に見捨てたりはしない。


「とにかく、そんなわけで春は一番嫌いです」

「色々な人を敵に回しそうな発言を……」

「この世の杉を全部切り倒してくれたら、春も好きになってあげます」

「過激派でしたか」


 好意を手に入れるまでの道程が長過ぎる。好意を手に入れるのが難しいという点で言えば。


「かぐや姫さながらですね」

「そんなぁ……! かぐや姫みたいに可愛いなんて……!」


 何を勘違いしたのか、汗が浮かぶ頬を両手で挟んで喜ぶアイリス。まるで暑さで融けてしまったようなとろとろの頬が、その喜びを何よりも分かりやすく表していた。


「暑さで頭がだめになりましたか?」

「そこまで言うことはないじゃないですか!」


 ただし、可愛いという部分について否定する気はない。というより、否定できない。


「『五つの難題』みたいですねって言ったんですよ」

「あ、そういう……」


 一年生なら、確かこのくらいの時期に古文の授業で習うはずだ。そこまで言われて、アイリスも何を言いたかったのかに思い至ったらしい。


「まだ私の方が現実味ありますね」

「かぐや姫と張り合って、一体何がしたいんですか」

「春には頑張ってもらいたいです」

「頑張るのは人なんですよね」


 残念ながら、絶対に実現はしないだろうけれども。


「それはいいとして。ってことは、秋が好きっていうのは消去法ですか」

「そうでもないですよ?」

「うん?」

「景色の色が濃くなるのが好きです。赤とか黄色とか」


 そう言いながら、アイリスが少し先の季節に思いを馳せる。今の発言は、きっと紅葉のことを言っているのだろう。赤い葉にアイリスの髪が映えそうだ。


「あと、寒いのは苦手ですけど、夏からちょっとずつ涼しくなっていくのも好きですね」

「それは何となく分かります」


 最近では九月くらいならまだまだ暑いが、それでも十月に入れば、流石に気温も下がってくる。その移り変わりを実感しやすいのは、確かに秋なのだろう。


 他にも秋のいいところを挙げるとすれば。


「美味しいものも多いですしね?」


 自分でも悪戯っぽい顔をしていると自覚しながら、アイリスにそう問いかける。


「それも……、ちょっとはあります……」


 対するアイリスは、気まずそうに目を逸らしながら答えていた。あえて隠していたのか、それとも単にこれまで言わなかっただけなのかは分からないが、何かを気にしているのは間違いなかった。


「気を付けましょうね」

「何にですか!?」

「何でも?」

「嘘ですっ。絶対に体重のことを言いました!」


 これだけ暑いのに、よくそこまで元気に声を上げることができるものだ。体感温度がより高くなりそうな気がするというのに。


「気にするような体重でもないですよね」

「何で私の体重を知ってるんですか?」

「知りませんけど。前に膝の上に座られただけで」

「それだけで私の全てを知った気にならないでください!」

「知りませんけど」


 二度目である。全てを知るどころか、まず思考回路が理解できなかった。


「何ですか。ちょっとくらいふくよかな感じが好きなんですか」

「別にそういうわけでも」

「じゃあ細めですか」

「どうして標準って選択肢がないんですか。健康が一番です」


 そもそも、何故自分の好みの話になっているのだろうか。先程までは季節の話をしていたように思えるのは、自分の勘違いなのだろうか。


「だったら私が最強ですね! 風邪はほとんど引かないので!」

「今のが変なきっかけにならないといいですね」

「不穏なことを言うのはなし、です!」


 アイリスの声が晴れ渡った空に響く。その声を飲み込んだ空は縹色。自分達がどれだけ暑さを恨もうとも、容赦なく光と熱を振り撒いていた。




 今日は太一が用事で休み。店内は変わらず二人だが、キッチンが柚子一人の、三人態勢である。過去に店内一人、キッチン一人の二人態勢だった日もあったので、今日はどうとでもなるだろう。


 そんな風に考えていたのに、想定していなかった、けれども以前にもあった厄介事に巻き込まれたのは、少し汗を掻きながらDolceria pescaに辿り着いた直後のことだった。


 バックヤードに入った瞬間、何故か微かな違和感を覚える。何かあるべきはずのものが、そこにないような違和感。一瞬考えてはみるものの、どうにも正解が分からない。


 そうこうしているうちに目が合った柚子に挨拶した後、こう切り出された。


「葵君」

「何ですか?」

「実は、相談があるんだけど」


 持っていた鞄を椅子に置いてから、柚子が立っている方を振り返る。


 ウェイトレス服を持っていた。


「嫌です」


 何も考えていないのに、その言葉が口を衝いて出た。仮に何かを考えたとしても、出てくる言葉は同じである。


「まだ何も言ってないわよ」

「もう着ません」

「残念。葵君は今日、これを着ることになります」


 やたらと強気な柚子にそこまで言われて、先程の正解に辿り着く。バックヤードに入った時の違和感の正体。普段あるべきはずのもの。


 いつものウェイター服が、いつもの場所に掛かっていなかった。


「やりましたね?」


 相手が雇い主であることなど関係なく、はっきりと疑いの目を向ける。働いている人の仲が良い、実に働きやすい職場だった。


 目の前のウェイトレス服を除けば。


「何を?」

「今回はわざとクリーニングに出しましたね?」

「ご名答」


 小さく拍手を貰うが、何も嬉しくない。やはり、あの時にウェイター服の管理方法を変えるべきだった。こうなってしまえば、他に着るものがなくなってしまうことは目に見えていたのに。


「前のあれ、お客さんからなかなか評判がよくてね? 次はいつ着るのかって、何回も聞かれてたの」

「客層はどうなってるんですか」

「皆さん理解のあるお客様です」

「この世に必要のない理解です」


 そんな理解のある世界など、滅んでしまえばいい。随分と過激な思考を巡らせる自分の内心を知ってか知らずか、今度はアイリスがにこやかに話しかけてくる。


「葵さん」

「はい?」

「大人しく着ましょう?」

「……」


 駄々をこねる子供をあやす言い方だった。とても優しい目をしていた。


「ま、何にせよ、葵君が着る服はこれしかないんだから、何を言っても結果は変わらないんだけどね」

「……」


 そういうことだった。私服で接客することができない以上、どれだけ足掻こうが、辿り着く先は同じだ。


「……着ればいいんでしょう……、着れば……」

「そういうこと。はい」


 以前とは違い、早めに諦めて受け取りたくないウェイトレス服を受け取る。およそ二か月ぶりのご対面である。二度と会いたくはなかった相手。それが、今再び手の中にいた。


「じゃあ、よろしくね」


 柚子のそんな声に送り出されながら、二階への階段を上る。その足取りは、いつもよりも遥かに重たく感じられるのだった。




「柚子さん……」

「あら。やっぱり可愛い」

「似合ってますよ! 葵さん!」


 嫌々ながら、たっぷり時間をかけて着替えを終えて、階下に戻る。アイリスも既に着替えを終えて、バックヤードに戻ってきていた。


 だが、今はそんなことはどうでもいい。もっと重要なことが他にある。


「制服、いじりましたよね?」


 着たくないという思いが先行していた先程はあまり詳しく見ていなかったが、着替える際にじっくり見て、そして着てみて、本日二度目の違和感を抱いたのだった。


「夏仕様です。いわゆる夏服ね」

「私も少し涼しげになりました!」


 今まで長袖だった上着は半袖に。全体の装飾も少しだけ控えめになり、風通しがよくなっている。ウェイトレス服の違いが分かってしまうことへの複雑さはあるが、今一番言いたいのはそこではない。


「どうしてスカートの長さが短くなってるんですか……」


 一番の問題点はそこだった。二か月前も一番気になるところだったその長さが、何故か短くなっていた。おかげで、足が見える範囲も広くなってしまっている。


「お客様のご要望にお応えして」

「絶対に嘘です……」

「やっぱり綺麗ですね」


 アイリスにそう言われたところで、もうまともに隠すことすらできない。惜しげもなくというのは、まさにこういうことなのだろう。自分で体現はしたくなかった。


「アイリスさんだって綺麗じゃないですか……」

「おぉ……。普段の葵さんにはなかなかない返しですね。もしかして、結構調子が狂ってます?」

「狂わないわけがないです」


 そう話していて気付いた。何故か、アイリスのスカートの長さは変わっていないように見える。


「……?」


 そのスカートを指差しながら、無言で柚子を問い詰める。


「お客様のご要望にお応えして、葵君のスカートだけ短くしました」

「何でですか」


 自慢げに言う柚子だったが、こんなに迷惑なこともなかなかない。だからと言ってアイリスのスカートを短くしてほしいなどと言う訳もないのだが、複雑な気分であることには変わりなかった。


「あ、ちょっと待っててくださいね」


 そのタイミングで、そんな言葉を残してアイリスが一度更衣室へと姿を消した。何か忘れ物でもしたのかと思い、慣れない風通しのよさに戸惑いながら待っていると、三十秒もしないうちに戻ってきた。その手には、何かが入った紙袋が二つ。


「嫌です」


 察した。


「だめです」


 だが、片方の紙袋を押し付けられ、思わず受け取ってしまう。薄茶色の紙袋は中が透けて見えないものの、入っているのが軽い何かということは分かる。


「何となく中身が分かったんですけど」

「流石ですね。じゃあ、つけましょう」

「嫌です」


 再度の拒否。どうせ押しきられるとは分かっていても、すんなりとは受け入れたくない。


「分かりました」

「何が」

「葵さんは、自分でつけるのが恥ずかしいんですよね」

「違います」

「なので、私がつけてあげます」

「聞いてました?」


 認識に根本的なずれが残ったまま、あれよあれよという間に話が進んでいく。そもそもつけたくないと言っているのであって、つけるのが恥ずかしいというステージには立っていない。


「あ。このまま袋を隠してしまえばいいのでは……?」

「はい、回収しまーす」

「あ」


 何も考えずにそう言ってしまったことを、言ってから後悔する。そんなことを口にすれば、アイリスが先手を打ってくるに決まっていた。案の定、紙袋は再びアイリスの手の中に戻っていく。


「いい加減、男らしく覚悟を決めましょう?」

「この格好で?」


 ウェイトレス服を着た男子高校生の一体どこに男らしさがあるのか、じっくりと話を聞いてみたい。


「ほらほら、座ってください」


 だが、そんなことは関係ないと言わんばかりに肩を押さえつけられる。アイリスにそうされたところでその力はたかが知れているはずなのに、何故か抵抗することもできずに椅子に座ることとなってしまった。


「絶対に似合いますから」


 紙袋から何かを取り出す「がさごそ」という音が、背後から聞こえてくる。呟く言葉は、いつかの「似合うと思う」から格上げされていた。


 ややあって、頭に何かが装着される感覚。何も嬉しくないが、予想通りだった。


 その後、隣でやり取りを見ていた柚子も、何かをつけ終えたアイリスも、視界の正面に現れる。


「あら……。これは……」

「やっぱり似合いましたね! 葵さん!」


 二人揃って、とても満足そうな笑みを浮かべていた。その笑顔を見て、唐突にその考えが頭に浮かぶ。


「……二人で結託しましたね?」

「もちろんです!」


 どうやら正解だったらしいが、胸を張って言うべき場面ではない。


「アイリスさんから話を持ち掛けられたの。葵君につけてもらいたいものがあるから、ウェイトレス服を着せてほしいって」

「悍ましい計画……」


 まさかこんな近くでそんな計画が進行していたなど、思いもしなかった。気付いていたところで止められたのかと言われると、それはそれで疑問ではあるが。


「ちなみに、今の葵さんはこんな感じです」


 そう言いながら、アイリスが近くにあった姿見を自分の正面に移動させる。当然、そこに映るのは今の自分の姿で。


 またしてもウェイトレス服を着る羽目になった自分の頭の上にあったのは、真っ白な狐耳だった。


「やっぱり……」

「私の見立てに間違いはなかったですね」

「間違っていてほしかったです……」


 似合っていなかった場合、それはそれで恐ろしいものが生み出されていたことになるので、どちらがよかったのかはもう分からない。


 とにかく、今言えることは一つ。毎日眺めていて見慣れているはずの顔なのに、妙に可愛く見えて複雑ということだけだった。


「そして、私もつけます」


 そうして色々と落ち込んでいる間に、アイリスが一切躊躇うこともなく犬耳を頭につける。少し小ぶりな胡桃色の三角耳が、菜の花色の髪を彩る。


「アイリスさんも似合うわね」

「そうですか?」

「そうね。アイリスさんのイメージにぴったり」

「……流石にちょっと照れますね」


 躊躇いがなかったとはいえ、羞恥まで完全になくなった訳ではないらしい。柚子から真っ直ぐに褒められ、言葉通り照れたように頬を染めている。


「葵さん。どうですか?」

「……可愛いんじゃないですか」

「そうですかっ、そうですかっ! えへへ……!」


 嬉しそうに顔を綻ばせているアイリスだが、生憎自分はそれどころではない。これからこの格好でホールに出なければならないのだ。万が一知り合いに見られた日には、今日が命日となる。


「……帰りたいです」

「だめですよ? これから楽しい楽しい接客が待ってるんですから」

「楽しいのはアイリスさんだけです」

「接客は楽しい。恥ずかしがってる葵さんを見るのも楽しい。最高ですね」

「悪魔はここにいたんですね」

「次は尻尾を追加しましょうか?」

「失礼なことを言いました。すみません。許してください」


 にこにこと笑いながら恐ろしいことを言うアイリスに向けて、即座に頭を下げる。こういう時のアイリスの行動の速さは一級品なので、もう手遅れのような気もするが。


「はぁ……」

「どうしてもう疲れてるのかは分からないけど、葵君に一つお知らせ」

「まだ何かあるんですか」

「私ね、これからは月一で、間違えて葵君のウェイター服を二着ともクリーニングに出しちゃう予定だから」

「は……?」


 初めて漏らすタイプのため息を漏らした自分に柚子がかけてきたのは、これまでに聞いたことのない種類の言葉だった。


「月一……? 予定……?」


 人間は処理能力の限界を超えた事態に遭遇すると、言われた言葉を繰り返すことしかできなくなる。そんな体験をするなど、夢にも思っていなかった。


「これから、葵君には月一ペースでウェイトレスになってもらいます」

「……?」


 やはり理解が追いつかない。一つ一つの単語の意味は難しくないのに、文章になった途端に頭が理解を拒んでいるようだった。


「しょっちゅうその服を着るよりも、それくらいのレア度の方がありがたいでしょ?」

「何がですか?」


 楽しそうに言う柚子だったが、ありがたいことなど何一つ見当たらない。対して、ありがたくないことは色々見つかる。


「お客さんも、たまたま見られた方が貴重なものを見られた感があって嬉しいと思うの」

「僕は嬉しくないんですけど」

「ということで、こんなものも作りました。レジに置いておこうと思います」


 会話を噛み合わせるつもりがない柚子が、机の上に何かを置く。この店に限らず、様々な場所で目にするそれは。


「ポップ……?」


 商品の紹介にも使うポップだった。今見えているのは裏面なのか、そこには何も書かれていない。


「裏返してみて」

「見るべきじゃない気がします」

「そう言わずに」

「はぁ……」


 放っておくと物理的に迫ってきそうな柚子に押され、渋々ポップを手に取って裏返す。そこに書かれた文字を読んだ瞬間、椅子に座っているのに膝から崩れ落ちたい気分になった。


「……」

「何て書いてあったんですか?」


 そんな自分の表情の変化を見て、ポメラニアンのような好奇心を発揮したアイリスが手元を覗き込んでくる。


「『月に一回、男性店員がウェイトレス姿で接客をします』」


 アイリスがわざわざ声に出して読み上げてくれたことで、自分の目の錯覚という説は消えた。叶うならば、目の錯覚であってほしかった。


「頑張りましょうね、葵さん!」

「……泣きたいです」


 何がそんなに嬉しいのか、満面の笑みでアイリスがそう口にする。


 久しく流していなかった涙が、こんなところで零れてしまいそうだった。




 事件が起こったのは、午後三時頃のこと。極大の羞恥心を抱えながら、何とか接客を続けていた時だった。


 やたらとこの姿の評判がいいことに疑問と諦めを覚えつつ、ドアが開く音に反応して振り返る。


「いらっしゃいま……せ……?」

「え?」

「はぁ?」


 お決まりの挨拶を口にしたまま固まる。上手く言いきれていないので、しっかり挨拶ができたとは言い難いが。


 そして、店に入ってきた二人も、不思議そうな声を漏らしたきりそのまま固まる。


「葵さーん? どうかしま……、あぁ!?」


 いきなり自分の声が途絶えたことを不審に思ったのか、アイリスもこちらを振り返り、そして驚愕の声を上げる。


「……アイリスさん」

「……何ですか?」


 どうにか再起動を果たし、それでも錆び付いてしまった機械のようにぎこちない動きでアイリスの方を向いて、どうにか一言絞り出す。


「今日が僕の命日です」

「だめですっ」


 魂が半分抜けかけた体を、アイリスの小さな手に揺さぶられる。


 視界がふらふらと揺れる中、余計なことは考えるべきではなかったと後悔する。あんなことを考えたから今こうなってしまったと、半ば本気でそう思ってしまう。


 普段の自分には似つかわしくない、どこか非科学的なことを頭の中に浮かべつつ、目の前の二人に視線を戻す。


「なになに!? どうしたのその格好!?」

「とうとう年貢を納めたかぁ……」


 出会ってからこれまでで、間違いなく一番と言える程に顔を輝かせた二人組。今だけは絶対に会いたくなかった碧依と莉花が、そこにいた。




「違うんです……。許してください……」

「まだ何も言ってないよ」


 今日最も出会いたくなかった二人との邂逅を果たした直後、まずは何よりも先に保身に走る。


「好きでこんな格好をしてるわけじゃないんです」

「そうなの? てっきり……」


 そこで何故か碧依の言葉が途切れる。その先は聞かなくても分かるような気がするが、聞かなければ聞かないでもっと面倒なことになりそうなので、仕方なく先を促す。


「何を言おうとしました?」

「そういう格好が好きなのかなって」

「本気で言ってるんですか?」


 今までの自分の態度を見てきて、それが真実であると、本当にそう思えたのだろうか。もしそうなのだとしたら、今までの自分は甘かったと言わざるを得ない。


「足もこんなに出しちゃって……」

「……っ」


 そんな碧依に気を取られて、莉花の視線が足に向いていることに気付けなかった。何やら楽しそうな声が聞こえてきた瞬間、咄嗟にスカートの裾を握りしめる。二か月前よりも何故か短くされている以上、何の効果もないことは分かっているが、それでも手は勝手に動いてしまう。


「可愛い! まさに女の子って感じ!」

「男の子です……」

「嘘はよくないぞ、湊君」


 反応がアイリスと同じである。誰も自分を男だとは認識してくれなかった。


「どうしたの? 何かあった?」


 どうにもならないスカートの裾をどうにかしようとしていると、柚子がやや心配そうな顔をしながら店内に姿を現した。恐らく、先程のアイリスの叫び声が聞こえたのだろう。


 本来ならば厄介な客を捌ける救世主が来てくれたと喜べそうな場面なのに、何故かさらに厄介なことになると、頭の片隅で警報が鳴った。


「あ、柚子さん。それがですね……」


 ようやく混乱から回復したアイリスが、柚子に向けて簡単に事情を説明する。その説明を聞く柚子が「面白いことになってきた」という表情を浮かべ始めた辺りで、警報の音は最大となる。


 やがて、全ての説明を聞き終えた柚子が、その表情のままこちらに歩み寄ってきた。


「いらっしゃいませ。アイリスさんから話は聞きました。二人のことはしばらくお貸しするので、存分に可愛がってあげてください」


 案の定、ろくでもないことを言い出した。対する反応は二種類。


「何てことを……」

「私までですか!?」


 絶望に染まる店員側と。


「いいんですか!?」

「ありがとうございます!」


 歓喜に沸く客側。まさに両極端な二種類だった。


「そんなことをしたら、誰が他のお客さんの相手をするんですか」


 雇い主にそう言われた時点で厳しいことは分かっているが、それでもどうにか逃れようと正論で対抗する。店内で接客していたアイリスと自分が二人に付きっきりになってしまえば、他の客は放置されることになってしまう。丁寧で親しみやすい接客を大事にするこの店にとって、それは許されないことではないのだろうか。


「少しの間くらいなら、私一人で何とでもなるわよ。葵君が入ってくるまではたまに一人で回してたし」


 だが、そんな正論は圧倒的な力で捻じ伏せられた。自分達とは桁違いの接客歴がある柚子にそう言われてしまえば、もう何も言い返すことはできない。


「でもっ! 決まった人にだけ接客をするのって、あんまりよくないんじゃないですか!?」


 自分があっさり打ち負かされるのを見たからなのか、アイリスは別方向からのアプローチを選択する。やや前のめりでの主張は、これもまた正論である。


「他のお客様にはきちんと説明するから大丈夫。皆さん分かってくれる方ばっかりだから」

「うっ……!」


 そんなアイリスの主張も、あっさりと柚子に跳ね返される。この時ばかりは、この店の客層のよさが仇となった。


「まだ何かある?」

「……」

「……」


 何を言っても太刀打ちできなそうなその雰囲気に、アイリスと二人して黙り込む。勝負が決するどころか、最初から勝負にすらなっていなかった。


「じゃあ、お客様の案内、よろしくね」

「……はい」

「分かりました……」


 そう言い残して、柚子が他の客への説明に向かう。今は背中しか見えていないのに、何故か楽しそうな雰囲気がこれでもかという程に漏れ出していた。


「……」

「……」


 こうなってしまえば、もう自分達にできることはない。一瞬だけアイリスと見つめ合い、そして観念して碧依と莉花への対応を始める。


「……いらっしゃいませ。お持ち帰りですか?」

「それとも、お持ち帰りですか?」

「待て待て」


 いきなり莉花に止められた。一体何があったのだろうか。


「何か?」

「持ち帰りしか選択肢がなかったけど」

「生憎、カフェスペースは満席でして」

「空いてるよね」


 見え透いた嘘を吐く自分を追い詰めるかのように碧依が指差した先には、しっかりと空席があった。空席はあっても、慈悲はなかった。


「もちろん、ここで食べていくから」

「せっかく可愛い店員さんに接客してもらえるんだから」

「接客は辛口でいいですか?」

「アイリスさんの辛口なんて、甘口と一緒だよね」

「ねー。私達に敵うと思うなよ?」

「葵さん! この人達怖いんですけど!」


 自分に代わって精いっぱいの攻撃を仕掛けたアイリスが、見事に返り討ちにされて泣きついてきた。ウェイトレス服が夏服に変わってしまい、今まで掴んできた袖はもうない。手首を掴まれて振り回される。


「カフェスペースの滞在可能時間はお一人五分と決まっていますので、その点はご了承ください」


 そんなアイリスから再び攻撃役を受け取り、丁寧に頭を下げながらこの店のルールを説明する。もちろん、このルールの適用範囲は碧依と莉花だけである。


「もっと落ち着いて食べさせてよ」

「立ち食い蕎麦か」

「今くらいの時間帯ならお客様もそんなに多くないし、時間はあんまり気にしなくて大丈夫よ」

「だって。よろしくね、葵君」

「……」


 無理矢理押し通そうとしたのに、柚子からの的確な援護狙撃によってその願いが儚く砕け散る。敵として相対するには分が悪過ぎる人物が、何故か味方側にいるのだった。


「……お席まで、ご案内します……」

「葵さん!? 諦めちゃだめですっ」


 僅かな抵抗すら許されないことを悟った自分がとうとう全てを諦めたのを見て、アイリスが必死に励ましの言葉を口にする。だが、普段ならしっかり心に届くはずのアイリスの言葉も、今だけは届かない。


「今日が僕の命日なので、もうどうでもいいです……」

「だからだめですっ。私を一人にしないでください!」

「映画の台詞みたい」

「渡井先輩は黙っててくださいっ」


 アイリスが一人でまだ抵抗を続けているが、もうこの先の未来は決まっている。時には諦めることも大事だと、そう痛感しながら空いている席へと足を向けるのだった。




「可愛い……」


 碧依と莉花の注文の品をカフェスペースまで持っていき、そのままアイリスと一緒に拘束される。そして、そう切り出したのは、やはり莉花だった。


 視線はアイリスと自分の間を行ったり来たりしており、随分と忙しそうである。そんなに可愛いウェイトレスが見たいのなら、アイリスに視線を固定しておけばいいはずなのだが。


「クラスではあんなに嫌がってたのに、耳までつけちゃって」


 意外そうに言うのは碧依。莉花とは違い、視線は狐耳と犬耳に向いていた。


「アイリスさんのは犬耳だとして、葵君のは?」

「狐耳、です……」


 こんなことを自分で言わないといけないのが、本当に恥ずかしくて仕方がない。照れているのではなく、恥ずかしさで頬が熱くなる。


「へぇ……。あの時話してたから?」

「アイリスさんに話した僕が迂闊でした」

「私が悪いみたいに言わないでくださいよ!」

「アイリスさんが買ってきたのが悪いんです」

「はっきり言えってことじゃないです」


 少しでも碧依と莉花から意識を逸らそうと思えば、向かう先はアイリスしかない。けれども、目の前にいるのはそれを許してくれる二人ではない。


「可愛いし耳も似合ってるけど、抵抗とかしないわけ?」

「しなかったと思います?」

「負けたのか」

「戦略的撤退です」

「負けたんだ」

「……」


 どうしようもない程に見透かされているという事実に、思わず目を逸らして黙り込む。そもそも、この格好をしている時点で勝負の結果は明らかだった。


「アイリスさんもとんでもなく可愛いのに、インパクトが強過ぎて葵君が全部持っていっちゃったよね」

「……それはそれで少し腹が立ちます」

「僕にどうしろと」


 どこにもありがたい部分がなかった碧依の言葉のせいで、味方であるはずのアイリスからも睨まれることになってしまった。こんな格好をさせてきたのはアイリス本人なので、理不尽もいいところである。


「確かに葵さんは可愛いですけどっ!」

「その言葉は必要でした?」

「私だって褒められたいに決まってるじゃないですか!」

「湊君が羨ましいって? 可愛い嫉妬だね? 膝の上に座る?」

「嫌です」


 僅か数秒なのに、アイリスの感情の振れ幅が随分と大きかった。見た目に表れていないだけで、自分が思っているよりも動揺しているのかもしれない。この店のことは二人に教えてはいけない気がすると言っていたことを、今更ながらに思い出す。


「じゃあ、湊君が座る?」

「どんな絵面ですか」

「女の子の膝の上に座る、狐耳ウェイトレスの男の子」


 改めて言葉にされると破壊力が凄まじかった。特に、「狐耳ウェイトレスの男の子」の部分は他に類を見ない程の破壊力である。その一言を発するたった五秒の間で生じた矛盾は、聞く人全ての思考能力を容易く破壊することだろう。


「見たいですか? それ」

「私の膝に座られると見えないね。じゃあ、碧依の膝にするか」

「見たいんですね。絶対に嫌です」

「いらっしゃいませ!」

「どうして乗り気なんですか」


 まるでこの店の店員になったかのようなことを言う碧依。何故か楽しそうに笑っているが、膝を叩かなくてもいい。ついでに椅子も引かなくていい。誰も座らない。


「碧依も嫌って言うなら、あとはアイリスさんしかいないけど」

「わ、私ですか!?」


 まさかこのタイミングで話を振られるとは思っていなかったらしく、不意を突かれた形のアイリスが目を丸くする。その頬が若干赤くなっているのは、いきなりで驚いたからなのか、それとも他に何か理由があるのか。


「まさか……、葵さんが私の膝を狙ってたなんて……」

「アイリスさんは味方でいいんですよね?」


 八割方碧依達に寄った発言に、思わずそう確認してしまう。言われて気付いたのか、先程は丸くした目が、今度はあちこちを泳いでいる。


「冗談に決まってるじゃないですか」

「本音は?」

「どんな感じかなって……、ちょっとだけ……」

「言うんだ」

「この子、湊君にだけ正直過ぎない?」


 明らかに誤魔化そうとしていたアイリスがあっさり白状したことに驚いている碧依と莉花だったが、それは単に二人に対して警戒心が強過ぎるだけだ。


 そう思いはしたものの、もちろん口には出さずに心の内に秘めておく。この状況で言ってしまったが最後、一体何を要求されるか分からない。


「前に私が葵さんの膝の上に座っちゃったことがあったので、反対はどうなんだろうなって」

「本当に味方ですよね?」


 誤魔化さなくてよくなったからなのか、真っ直ぐ自分を見つめて口にするアイリス。こうなってくると、若干怪しさすら感じられる。柚子と結託していたアイリスのことなので、心変わりしてこの店の情報を流していたとも考えられる。


「味方に決まってます。今だって、この二人早く帰らないかなって思ってますもん」

「おい、店員」

「そんなことを言ってると、二人共写真に撮っちゃうからね?」

「店員は撮影禁止です」

「葵さんの写真を撮っていいのは私だけです!」

「それも禁止です」

「なんでですか!」


 もう撮られたことがある以上、説得力はあまりないのだが。それでも、言っておかなければならないこともある。


「こんな姿の写真を何人も持ってるなんて、僕は耐えられません」

「そうなった方が振りきれるんじゃない?」

「振りきらせてどうするんですか」

「体育祭とか文化祭で何か着てもらう、とか?」

「当日は休みます」


 来月も無理矢理ウェイトレスの格好をさせられると、本当に少し慣れてしまって、学校でも抵抗できなくなりそうだった。ならばいっそ、当日は欠席してしまえばいい。


「葵さんの可愛いところが学校でも見られる……? でも、それだと独り占めできないし……」

「敵ですよね?」


 自分が心の中でそんな決意を固めようとしているのを知らないアイリスが、何やら揺れ動くようにそう呟く。「独り占め」の時点で相当怪しい発言だが、どうやらアイリス本人は気付いていないらしい。


「味方ですよ? どうやってこの二人の記憶を消そうかなって考えてますし」

「手っ取り早いのは衝撃だと思うんですよね」

「乗るな乗るな」


 味方だったアイリスの考えに賛成したところで、またもや莉花に止められる。随分と焦ったように制止の声をかけてきたが、一体どうしたのだろうか。


「何か?」

「『何か?』じゃないって。何てことを目の前で相談してるの」

「あ、じゃあ裏で相談してくるので、これで」

「私も失礼します」

「だめ」


 これ幸いと二人揃って逃げ出そうとした瞬間、二人揃って碧依に腕を掴まれた。どうやらまだ逃がしてもらえないらしい。


 テーブルの上に乗った二つのケーキは、まだ半分程残っている。唐突に降って湧いた受難は、まだまだ終わりそうになかった。

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