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28. 努力の結果 (3)

「落ち着きました?」


 お互いに無言で歩くこと五分。そろそろ大丈夫そうかと予想してアイリスに声をかける。


「なんとか……」


 それだけの時間があれば、流石に多少は冷静さを取り戻したようで、か細い声で答えが返ってきた。


「真面目に取り合わなければいいんですよ」

「そうやって思う前に想像しちゃったんです」

「甘いですね。僕なんて、最近は渡井さんの言葉を九割五分冗談だと思って聞いてます」

「一応は先輩さんなので、それはちょっと……」


 そう言って苦笑いを浮かべるアイリス。一応ではなくしっかり先輩なのだが、莉花はもうアイリスにそう思われていないらしい。莉花が雑にあしらわれる未来も、そう遠くないだろう。


「渡井先輩はもう私のクラス出禁です」

「ほとんどアイリスさんが僕達のクラスに来てるので、何も関係ないですけどね」

「葵さんのクラスも出禁です」

「無茶な」


 もしそうなった場合、莉花はどこに登校することになるのか。保健室登校ならぬ、部室登校だろうか。部室の中がどうなっているのかは知らないが。


「もう渡井先輩の膝の上にも座りません」

「それは座ってた今までがおかしいんですよ?」


 力強く宣言するアイリスだったが、毎日先輩の膝の上に座らされている高校生など、探してみたところでそう簡単に見つかるものでもない。状況に慣れ過ぎて感覚が麻痺しているのか、おかしさに気付けていないようである。


「それなら、葵さんの膝の上の方がまだ楽です」

「僕が楽じゃないのでお断りします」

「……座りたいって言ってるわけじゃないのに断られるのも、それはそれで腹が立ちます」

「どうしてほしいんですか」


 正解が見つからない。ストレスが溜まったアイリスは、どうやら面倒なモードに切り替わっているらしい。こんな時は適当に受け流すのが理想なのだが、しっかりと自分のことを捉えている瑠璃色の瞳からは逃れられそうにない。


「色々散々な目に遭った私を、これでもかってくらいに甘やかしてください!」

「甘やかす?」


 案の定受け流すこともできず、受け止めることになる。ただし、もっと面倒なことを言われるかと思っていたので、その点だけは予想外だった。


「そうですっ。甘やかされ過ぎて、私が融けてなくなっちゃいそうなくらいにお願いします!」

「可愛い後輩が融けてなくなるのは寂しいので、流石に遠慮しておきますね」

「あぇ?」

「せっかくこんなに懐いてくれてるんですから。大事にしたいと思うのは当然ですよね?」

「あの……?」


 いきなり会話の方向が怪しくなったことで、アイリスが困惑の表情を浮かべる。だが、今はそんなことで止まってあげるつもりは一切ない。


「アイリスさんは気にしてるみたいですけど、ちょっと小さいところも、小動物っぽくて可愛いと思いますよ」

「こ、これはぁ……、何か違う気がするんですけど……!」

「細かい仕草なんかもいちいち可愛いですし」

「甘やかすってより、口説こうとしてませんか……!?」

「かと思えば、危なっかしいところもあったりして目が離せないですし」

「うぁ……」


 畳みかけるようにそんな言葉を浴びせられたアイリスが、とうとう呻き声しか上げられなくなる。今がとどめを刺すチャンスだった。


「ということで、お風呂のお世話もしましょうか?」

「だめに決まってるじゃないですかぁ!」


 あっという間に復活した。


「何なんですか! なんなんですかぁ!」


 復活したうえに、怒り状態だった。


「葵さんまで! そんなに私をお風呂に入れたいんですか!」

「人通りのあるところで、そういうことを大声で言うのはやめましょうね」


 今のところ周囲に人影はないものの、見えないところに誰かがいる可能性は大いにある。誤解しか招かない発言を大きな声でするのは、是非とも遠慮してもらいたいものだった。発せられてしまった以上、もう手遅れなのだが。


「葵さんが何にも言わなかったらよかったんです!」

「確かに」

「確かに、じゃないんですよ! もうっ!」


 羞恥と怒りを混ぜたような、再び色付いてしまった顔。それが拗ねるようにぷいっと逸らされてしまって、自分からは小さくて形のいい耳しか見えなくなってしまう。その耳も、顔と同じ色に染まっていた。


「その前の甘やかしも、ちょっと違う気がしましたし!」

「そうでした?」

「だって……、その……。あんなに可愛い、とか……」


 そうかと思えば、何かを期待するようにちらちらとこちらの様子を窺ってくる。そのあまりにも常人離れした可愛さに、心臓が一度だけ大きく跳ねる。


「本心ですよ?」

「顔が笑ってますけど」

「……本心ですよ?」

「今更真面目な顔をしても遅いですっ」


 だからこそ、心の内を誤魔化すような口調でそう口にしてみた訳なのだが、残念ながら許してはもらえなかった。誤魔化したせいで複雑なことになっているが、可愛いと思ったことは事実なのに、である。


「葵さんにそういうのを期待した私が間違ってました」

「今のはただの悪ふざけで、甘やかそうと思えばできますけどね」

「どうして悪ふざけを……」


 そう言ってがっくりと肩を落とすアイリス。やはり、何かを期待していた分、落差が大きかったようだった。


「普段から割とアイリスさんを甘やかしてる気がしたので、今は違うかなと」

「飴と鞭だ……」


 自分の言葉を聞いて、遠い目をするアイリス。その横顔は、なかなか見ることのない珍しいものだった。




「そういえば」


 アイリスが思い出したように切り出したのは、駅舎の中にある待合室で改札が始まるのを待っていた時だった。何となく周囲に並ぶ自動販売機に向けていた視線を、隣に座るアイリスへと向ける。


「私が犬っぽいって、どんなお話をしてたんですか?」


 話題は、アイリスのクラスで話していた時のものだった。もう一度その時のことを思い出して、一旦簡潔に伝える。


「そのままの話ですよ。ペットに例えるなら、アイリスさんは犬っぽいって」

「喜んでいいんですか、それ?」

「変な例えをされてないなら、素直に喜んでいいんじゃないですか?」


 少なくとも、妖狐に例えられるよりは喜んでいいだろう。そもそも、ただの狐だったとしても、一般的にはペットではない。


「されたんですか?」

「何をです?」


 そんなことを考えていると、アイリスから再度の問いかけがあった。わざわざ少しだけ前かがみになり、首を傾げての問いである。さらりと揺れた菜の花色の髪が、照明の光を受けてきらきらと輝いている。


「変な例えです。そう言うってことは、葵さんがそんな風に言われたんじゃないかなって」


 自分のことをじっと見つめながら、重ねてそんなことを言うアイリス。ある程度自分のことが分かってきたのか、的確に正解を導き出したようだった。


「狐って言われましたね。しかも妖怪の」

「よく人をからかってますもんね。分かります」

「共通認識なんですね、それ」


 周囲にいる人全員からそう思われているのだとしたら、流石に言動を見直した方がいいのかもしれない。見直したところで、変える気もあまりないが。


「葵さんが狐……」

「また何か変なことを考えてますね?」


 視線は逸らさないまま、明らかに何かを考えるアイリス。時折突拍子もないことを考えるアイリスだが、果たして今回は何を考えているのだろうか。もしかすると、尻尾がどうこうという想像だろうか。


「狐耳……」

「そっちですか」

「何がですか?」

「何でもないです」


 ぽろりと漏れ聞こえてきた呟きから察するに、アイリスの意識は頭の上に向いているらしい。それならば、余計なことを言ってアイリスの想像を加速させる必要もない。雄弁は銀、沈黙は金。堂々と話すことも大事だが、黙っているべき時を知っているのは、もっと大事なことである。


「似合うかも、ですね」

「狐耳が?」

「そうです。きっと可愛いですよ?」

「喜ぶと思いました?」


 当たり前のように言うアイリスだったが、自分からすれば、喜べるポイントがどこにもない。自分に狐耳があるところを想像するくらいなら、からかわれてもいいのでアイリスに狐耳があるところを想像した方がいい。


「ほら、白狐っていう、白い狐もいるみたいですよ?」

「妖怪ですよね?」

「白い耳も似合いそうですね」

「聞いてます?」


 色の問題ではないのである。動物に例えるのなら、せめて現実に存在している範囲で考えてほしいという、ただそれだけのことだ。「あなたを動物に例えると何ですか?」という質問に対して、「妖狐です」という答えは、会話が成立していないとしか言いようがない。


「次にウェイトレス服を着る時、耳をつけてもらうのもありかもしれないですね?」

「何一つあり得ないです」


 再びウェイトレス服を着ることを前提に話を進めているアイリスが、心底恐ろしかった。また押しきられる可能性は十分にある。


「ほら、私も一緒につけますから」

「何の解決にもなってないです」


 自分一人だけ耳をつけるのが恥ずかしい訳ではない。もっと前提部分に目を向ける必要がある。


「ちなみに、葵さん的には、私はどんな耳だと思います?」

「はい?」


 頭の中でウェイトレス服を回避するためのシミュレーションを行っていると、アイリスがまたしても不思議なことを言い出した。どんな耳も何も、犬っぽいと言われているので犬耳ではないのだろうか。


「犬耳って、立ってるのと垂れてるのがあるじゃないですか」

「あぁ、そういう……」


 そんな自分の心を読んだ訳ではないのだろうが、そう補足されて気付く。正直な話をしてしまうと、目の前の後輩はどんなものでも似合ってしまいそうな気はするが、それでもあえてどちらかを選ぶのだとすれば。


「立ってる方、ですね」

「どうしてです?」

「感情に合わせてぴこぴこ動いてそうです」

「ぴこぴこ……。ぴこぴこ……?」


 その言葉に何か引っかかることでもあったのか、言われたことを何度も繰り返すアイリスなのだった。


「まあいいです。とにかく、立ってる方ですね」

「何をしようとしてるんですか?」

「何でもないですよ?」

「だったら、今隠した画面を見せてください」


 先程から時折スマートフォンを操作していたアイリスが、このタイミングであからさまにその画面を隠す。何か都合が悪いことを調べていたのは明白である。自分からは見えないように操作していたのも、怪しさをより一層強調する一つの要因だった。


「嫌です」

「見せてくれたら、次は本気で甘やかしますよ?」

「う……」


 目を逸らしながら断られたので、軽く揺さぶってみる。先程アイリス自身が口にした願いは、やはり大きな効果がある。心の中の葛藤を表すように、ふらふらと目が泳いでいる。


「この機会を逃したら、次はいつになるんでしょうね?」

「……」

「どうです?」

「……だめですっ」


 葛藤に打ち勝ったアイリスに、拒否の姿勢を貫かれる。そこまでして隠しておきたいものとは、果たして一体何なのか。


「あ、白いのもあった……」

「耳付きのカチューシャみたいなものを探してませんか?」


 攻めが一瞬緩んだことで油断したのか、再び画面に目を落としたアイリスがそう小さく零す。その一言を聞いた瞬間、頭の中に浮かび上がるものがあった。


「何のことですか?」


 惚けても無駄である。アイリスが不意に漏らした一言は、それだけ大きなヒントになるようなものだ。


「白い狐耳を見つけたんですね?」

「違いますよ?」

「素直に認めれば、まだつけたかもしれないんですけどね」

「見つけました! 可愛くないですかっ、これ!」


 今まで隠していたのが何だったのかと思える程、あっさりと画面をこちらに見せつけてきた。表示されていたのは、予想通り狐耳を模したカチューシャ。アイリスがつければ可愛いのだろうが、男がつければ微妙な空気になること間違いなしの一品である。


 予想と違ったのは、それが既に買うものリストに追加されていたこと。即断即決にも程がある。


「つけてくれるんですか!?」

「素直じゃなかったのでだめです」

「なんでですかっ」


 何度同じやり取りをしても、全く学ぶ気配がない。この手の言い方で、自分が素直に要求を受け入れたことなどないはずなのに、それでも期待を込めた眼差しを向けてくるのは何故なのだろうか。


「せっかく犬耳も狐耳も立ってるのを見つけたんですから。一緒につけましょうよ」

「アイリスさんだけでいいじゃないですか。どうして悍ましいものまで生み出そうとするんですか」

「悍ましくなんかないですって。葵さんも絶対に可愛いですから」

「嬉しくないです」


 その言葉で自分を動かせると思っているなら、それは大間違いである。むしろ、その言葉で心の扉は閉ざされてしまっている。


「どうしてそんなに嫌がるんですか?」

「どうして嫌がられないと思ったんですか?」

「せっかく可愛い顔をしてるのに……」

「聞き捨てなりませんね。男を捕まえて、どこが可愛いって言うんですか」

「全部です」

「全部……」


 たった五文字の攻撃だったが、破壊力は抜群だった。真正面から受け止めてしまって、思わず呻き声を漏らすような声音で繰り返してしまう。


「生まれる性別を間違えましたね、葵さん」

「初めて言われましたよ、そんなこと」

「って、そんなこと、今はいいんです。とにかく、いつか絶対につけてもらいますからね。覚悟しておいてください」

「怖……」


 そんな自分を尻目に、一つも嬉しくない決心をしているアイリス。思いの強さを示すかのように、その目は力強く自分のことを見つめていた。




「可愛いぃ……!」


 帰りの電車に揺られる中、隣から度々そんな声が聞こえてくる。アイリスがスマートフォンで何かを見ているらしかったが、光の当たり具合の関係で、自分からは何が映っているのかが見えなかった。


「何を見てるんですか?」

「これですっ」


 尋ねてみれば、今回は初めから素直にスマートフォンの画面を見せてくれた。何かの動画のようだが、一面の銀世界が映っているだけで、結局何の動画かよく分からない。


「雪?」

「もうちょっとですから」


 アイリスと二人で一つの画面を覗き込む。そうこうしているうちに、動画に変化があった。


「狐ですか」

「もうこの時点で可愛いですよねっ」


 画面端から現れたのは、綺麗な毛並みの一匹の狐。何かを確かめるように、雪の上を歩いている。


「……」


 そのまましばらく眺めていると、件の狐が急に立ち止まり、そして全身を躍動させて高く跳び上がる。そのまま、顔から雪の中に突っ込んでいった。


「可愛いぃ……!」


 隣から聞こえる感想は、先程と全く同じものだった。その声に釣られてちらりと窺ってみれば、口元がはっきりと緩んでいるアイリスの横顔がすぐ近くにあった。真正面から見ていなくて、本当によかったと思う。


 あるいは、真正面から見たかったのかもしれないが。


「狐ってあんまり身近な動物じゃないので詳しくなかったんですけど、こんなに可愛いんですね!」

「これは……、確かに」


 どんな習性かということを考えるのは野暮だ。尻尾を振っているところも可愛かった。


「ずっと見てたんですか?」

「そうですね。他には、こんなのとか」


 そう言って見せられた次の動画。今度は真正面からカメラに飛び込んでくる様子が映っていた。


「こんな風に飛び込んできてくれたら……!」


 カメラの位置に自分を置いているのか、想像するアイリスの表情は、どこか恍惚としたもの。これもまた、真正面から見るにはいささか心臓に悪い表情である。


「でも、狐ってあんまり人に懐かないらしいですよ」

「そうなんですか?」

「そう書いてあります」


 あまりじっくり見ていると自分の方が照れてしまいそうだったので、意識的に視線を外して調べた結果を差し出す。軽く調べた程度だが、ペットとして飼うのにはあまり向いていないらしい。


「ほんとですね。葵さんみたいです」

「はい?」

「あんまり人に懐かないって、まさにそうじゃないですか」

「確かに社交的じゃないですけど」

「あ、でも、絶対に懐かないってわけじゃないんですね」


 画面をスクロールしながら、狐の習性を読み進めるアイリス。画面に狐の写真が映る度、その手が一瞬止まっていた。


「へぇ……。フェネックって種類なら飼えるんですね」


 新たな情報が見つかっても、アイリスの視線は画面から離れない。これまで意識したことがなかったであろう動物の可愛さに、すっかり魅了されてしまったようだった。


「わ! 耳がおっきくて可愛い!」

「どんなのですか?」

「こんなのらしいです」


 覗き込んだ画面には、寝そべるフェネックの写真が映っていた。アイリスの言う通り、大きな耳が目を引く。全体的に狐よりも毛の色が薄い。砥粉色とでも言うのだろうか。


「ふわふわしてそうですね」

「抱っこしたら気持ちよさそうですよね……。いいなぁ……」


 またしても何かを想像しているらしいアイリスを置いて、そのページを読み進める。一つの画面を共有しているので、やや操作がしにくかった。


「臆病で警戒心が強い……。抱っこさせてくれますかね?」

「人に懐いたりもするって書いてありますよ? 私ならいけます!」

「僕がそうなら、アイリスさんには懐きません」

「なんでですか!」


 分かりやすく不満を漏らすアイリスだったが、抱えられたが最後、体中を撫で回されて疲れそうだからだ。実に簡単に想像できる。


「葵さんは私に懐いてくれてるのにっ」

「アイリスさんが僕に懐いてるんですよ。」

「いーえっ。葵さんが、です」


 どう考えても自分が懐かれている側なのに、どうやらアイリスは譲る気がないらしい。周囲からもそんな評価を受けるのだから、疑う余地はないと思うのだが。


「だって、私に対する距離感、他の人とは違いますよね」

「からかいやすい対象として見てるってことですけどね」

「またまた。本音を言ってくれてもいいんですよ?」

「本音ですよ」

「照れなくてもいいで……、あれ? 照れてない……?」

「……」


 にっこりと笑って言うアイリスのことを真顔で見つめる。そこに照れなど、一切存在していない。アイリスもそのことに気が付いたのか、徐々に笑みが薄くなっていく。いつの間にか、喜びよりも不安の方が強く感じられる表情になっていた。


「え? 本音、ですか?」

「そう言ってるじゃないですか」

「……」

「……」


 アイリスに見つめ返される。いつ見ても本当に綺麗な瑠璃色だが、今は関係ない。


「……むぅ」


 明らかに不満そうな声が漏れていた。眉が顰められ、口は少し尖っている。そんな表情をされたところで、意見を覆すつもりはないのだが。


「分かりました? アイリスさんが、僕に懐いてるんです」


 再度そう主張して、自分の考えを補強する。こうしておかないとアイリスにあっさりと押しきられるのは、これまでの経験から何となく分かっていた。


「まぁ、僕にって言うよりも、そもそも人に懐きやすそうではありますけどね」

「そんなにすぐには懐かないですよ?」

「いやいや。それは流石に嘘ですって」


 自分の印象と大きく異なることを言われてしまって、思わず否定の言葉が出てしまった。このアイリスを見て人懐っこい印象を抱かない人間など、この世に存在するのだろうか。少なくとも、自分はそんな風に感じたことはない。


「ほんとですって。碧依先輩とか渡井先輩とか」

「あの二人は例外です」


 あれだけの扱いをされていて、懐いている方がおかしい。そこで二人の名前を出すアイリスもアイリスである。


「入学してすぐの頃も、クラスで浮いてましたし」

「大丈夫ですか? 友達はいますか?」

「いますよ! 今日見たじゃないですかっ」


 他人のことを言えた立場ではないが、その言い草に少しだけ心配になってしまった。どうやら友達はいるようなので、一応安心はする。自分でこう思うのも何だが、相変わらず目線が保護者のそれだった。


「葵さんだって、友達が少ないじゃないですか」

「合ってますけど、言い方には気を付けましょうね。言う相手も」


 自分への反撃としては威力を十全に発揮できていないが、悠辺りに言った日には、二日程は落ち込んでいそうな発言だった。オブラートというものが一切存在していない。


「でも、僕は割と初めから懐かれてたような気がしますね」


 そう言いながら、アイリスのことを見つめる。自分がアイリスに対して人懐っこいと感じたのは、初日からいきなり名前で呼んでほしいと言われた時である。そんなことを言い出すアイリスがあまり懐かないなど、やはりどうしても想像ができなかった。


「初めて会った時は流石に緊張してましたよ?」

「だったらどうして」

「あんまり男の人っぽくなかったからですかね?」

「何です? やりますか?」

「どうどう。落ち着いてください」

「これが落ち着いていられますか」


 真面目な話をしていたのに、いきなり裏切られた気分だった。両手で自分を制するアイリスだったが、きっかけがあればそのままお仕置きをしたいくらいである。


「言い方を変えますね。可愛い……、違う。女の子っぽ……、違います」

「全部同じですよ」

「違うんです。あ、いや、可愛いのは違わないですけど」

「その訂正は必要でした?」


 どう考えても不必要な訂正を口にしたアイリスが、自分の抗議をさらりと受け流して話を続ける。


「何て言うか、話しかけやすそうだったんですよね」

「僕が?」


 初めてそんなことを言われた驚きで、好戦的な気分が一気に引っ込んでしまった。個人的には、大半の人は反対の印象を抱いていそうだと思っている。だが、アイリスはそうでもないらしく、真面目な顔で話していた。


「他人と結構距離を置いた話し方って自覚があるんですけど……」

「でも、葵さんの見た目で言葉遣いが荒かったら、それは何か違うと思いません?」

「そう言われても……」


 アイリスの趣味嗜好がよく分からない。自分のことではあるが、そこまで考えたことは流石になかった。


「まあでも、一番の理由は何となくです」

「何となく」

「はい。何となくいい人そうだなって」

「喜んでいいんですかね?」

「悪い人そうって思われてないんですから、喜んでいいんじゃないですか?」


 そう言いながらふわりと笑うアイリス。その言葉通り、悪く言われているどころか、親しい後輩からここまで言われているのだから、素直に受け取ろうと思う。


「だったら、褒め言葉として受け取っておきます」

「ありがたく受け取るといいですよ?」

「ところで」

「はい?」


 何故か少しだけ偉そうなアイリスに苦笑いを浮かべながら、一つだけ気になっていたことを告げる。


「僕に懐いてるってところは、やっぱり否定しないんですね」

「あ……」


 これまでよりも微かに目を見開き、口をぽかんと開けて小さく声を零すアイリス。完全に忘れていたと、そう顔に書いてあった。


「やっぱり犬ですね」

「わんわんっ」


 何となく恥ずかしかったのか、そこで開き直るという選択をしたらしい。自分は何もしていないのに、左手にアイリスの手が重なる。


 小さくて柔らかな、温かい手だった。


「……」

「……何か言ってくださいよ」

「よく似合ってますよ」

「わんわんっ」


 手が重なった状態から、莉花にしていたように拳が振り下ろされる状態に変わった。アイリス自身、落としどころがよく分からなくなっているに違いない。


「アイリスさんはどんな犬種なんでしょうね」


 左手に拳が振り下ろされ続ける中、空いた右手で色々と調べてみる。なかなか名前を聞かないような犬種については、流石にあまり明るくない。


「わん……、わん……」


 自分の反応がないのにいつまでもそうしているのが恥ずかしくなってきたのか、それともただ単に疲れただけなのか。拳の勢いも声の勢いも、どちらも徐々に失われていく。


「あ、ポメラニアンなんてどうです?」

「ポメラニアンですか?」


 少しだけしょんぼりとした姿すらも可愛いのは反則だと思いつつも、アイリスのイメージにぴったりの犬種を見つけて、スマートフォンの画面を向ける。やはり落としどころが分からなくなっていたらしいアイリスは、これ幸いとばかりに話題に食いついてきた。


 画面を覗き込んでくるアイリスの肩が触れる。六月に入って気温が上がっているからだろうか。触れ合った部分が妙に熱い。


「好奇心旺盛で、元気いっぱいらしいですよ。アイリスさんにぴったりですね」

「『甘えん坊』って書いてあります」

「間違ってないですよね?」

「……否定はしませんけど」


 やや不服そうに言うアイリスだったが、「否定できない」の間違いではないだろうか。


「小型犬……」

「特に意味はないです」


 そうして不服そうにしているからこそ、その文字が目に入ったのか。反応しなくてもよい部分に反応し、何かを伝えようとするかのように小さく呟く。


「何も言ってないんですけど、何を想像したんですか?」

「何も?」

「……」

「……ちっちゃいのも可愛いと思いますよ」

「葵さん以下略!」

「そうやって言う人は初めて見ました」


 沈黙に耐えきれずそう漏らしたことで、聞いたことがない突っ込みを受けることになってしまった。途中で面倒になって省略するくらいなら、いっそ受け入れた方が楽になりそうなものだが、そこはアイリスにとっての譲れない一線なのかもしれない。


「ほんとにもう……。隙があったらすぐにからかってきますよね」

「アイリスさんが隙だらけなのが悪いんですよ」

「隙だらけってなんですかっ」

「今回はそのままの意味です」

「葵さん以下略!」

「何を略したんですか」


 先程の省略で味を占めたのか、アイリスが再び何かを省略する。ただ、初めてのやり取りで言葉を省略されたせいで、何一つとして手掛かりがないという状態になってしまった。これでは何を言いたかったのか分からない。


「葵さんだって、意外と隙はあるじゃないですか」

「例えば?」

「その手には乗りません。言ったら直されちゃいますもん」

「ばれましたか」

「ちっとも油断できないですね、ほんと」


 どうやらそういうことが言いたかったらしい。この機に乗じて隙とやらをいくつかなくしてしまおうという魂胆は、アイリスにあっさりと看破されてしまった。意外と鋭いアイリスである。


「他には……、甘えん坊だけど、自立心に富む」

「前半は分かりますけど、後半は見当たらないですね」

「甘えん坊じゃないですし、自立心はありますからね?」

「じゃあ、もう完全に一人でシフトに入れますし、勉強も一人でできますよね」

「ごめんなさい。甘えさせてください」

「素直でいいと思います」


 それを甘えると表現するのかは考えないといけないが、何にせよ、何事も素直が一番だ。何の躊躇いもなく頭を下げたアイリスを見て、そう思う。


「……あ!」


 自分がそんなことを考えている間も少しずつ画面をスクロールしていたアイリスが、とある一文を見つけて顔を上げる。画面には、はっきりとあることが書かれていた。


「『褒めて伸ばす』」


 画面の中心に鎮座したその一文を、わざと声に出して読み上げる。何故かは分からないが、これがアイリスに求められているような気がした。


「ポメラニアンの躾って、褒めて伸ばすのが基本みたいですよ、葵さん?」

「躾って、もう完全に飼い主とペットですけど、アイリスさんはそれでいいんですか?」

「葵さんに褒めてもらえるなら、それはそれで!」

「欲望にはすぐ素直になりますね」


 先程とは大違いである。何を期待しているのか、ラピスラズリの煌きがどんどん増している。


「賢くて学習能力が高いらしいですよ? 褒められたら、その分色々と頑張れちゃうかもしれないですよ?」

「褒めるところ、ですか……」

「え。考えないと出てこないんですか……?」


 それだけを呟いて黙ってしまった自分を見て、アイリスが不安そうに瞳を揺らす。たった今輝きを増し始めたラピスラズリが、あっという間にその輝きを弱めていく。実際は褒めるところがなくて考えている訳ではないのだが、アイリスにはそれが伝わっていないらしい。


「……」

「たくさん考えないと出てこないんですか……?」


 なおも不安そうにするアイリスの視線を受けながら、さらに考えを巡らせる。迂闊にあれこれ褒めれば間違いなく面倒な事態が発生するので、ちょうどいい塩梅の出来事を探っているのだった。


 そこまで考えて、こんな話をすることになった、今日の放課後の出来事に思い至る。


「あ、そういえば」

「よかったぁ……! 何かあったんですね……!」


 自分が何かを思い出した様子を見せたところで、アイリスが緊張の糸を緩めて安堵する。心の中で何を考えていたのかは分からないが、褒められるところがたくさんあるはずなのに、何をそんなに不安に思っていたのだろうか。


 そんなよく分からないアイリスの考えは一旦置いておいて、思い出したことを口にする。


「テストのこと、まだ何も言ってませんでしたね」

「テストのことですか?」

「こういう言い方は、ちょっと上から目線みたいであんまり好きじゃないんですけど」

「はい?」

「よく頑張りました。いい結果だったと思います」

「あ……、えへへ……!」


 流石に頭を撫でたりはしないが、そんなような雰囲気で褒めた途端、今度は顔を緩めるアイリス。この上なく嬉しそうに笑うその姿は、やはり反則と言ってしまいたくなる程に可愛い。


「次も頑張りましょうね」

「もちろんです! 任せてください!」


 不安そうな顔から一転、花が咲いたように顔を綻ばせる。実際にやってみると、褒めて伸ばすのは確かにアイリスによく効きそうだった。




「あ」

「どうしました?」


 降りる駅まであと少しというタイミングで、アイリスが小さく声を漏らした。何かに気付いたような、そんな声である。


「仕事が早く終わったから、車で駅まで迎えに行こうかって、お父さんから連絡が来ました」

「そろそろ暑くなってきましたし、ちょうどよかったじゃないですか」


 どうやらそんな連絡が届いたらしい。車内は冷房で快適な温度に保たれているが、それでも日向になっている場所は少し暑い。帰り道のことを考えれば、駅まで迎えに来てくれるのなら、それに甘えてしまった方が楽だろう。


「でも、葵さんが一人になっちゃうじゃないですか」

「去年は毎日一人でしたよ」

「友達……」

「同じ駅を使っている人がいなかっただけです」


 何かを言いたそうにするアイリスだったが、友達がいなかった訳ではない。そもそも、その言葉を口にした時点で、もう止めても手遅れである。


「僕のことは気にしなくていいですから」

「そうですか?」

「えぇ。変に気にされるより、そっちの方が楽です」

「そうやって淡泊だから友達が少な……、何でもないです」

「次の勉強はスパルタです」

「許してください!」


 すぐにそういうことを言う辺り、本格的に躾が足りていないのかもしれない。こんなことは自覚したくないのに、飼い主としての自覚が育まれてしまいそうである。それもこれも、子犬のように懐いてくるアイリスが悪い。


「もっとしっかり躾けた方がいいんですかね」

「ポメラニアンには優しくお願いします! 褒められて伸びるタイプです!」

「褒められるような行動をしてないじゃないですか」


 今の発言も含めて、である。どこを褒めるべきか迷うのと同じくらい、抑えてほしい部分もあれこれと見つかるのがアイリスだった。


「う……。これからは頑張って褒められるようにします……」

「期待してますね。何かあったら、真っ赤になる程褒め倒してあげますから」

「そ、そこまでは大丈夫、ですっ」


 両手をわたわたと振りながらの一言。既に頬が少し赤くなっていることは、アイリスには言わないでおいた。




 電車を降り、改札へ向かってホームを歩く。六月も中旬となり、背に受ける日差しは冷房が効いた車内で受けるものとはまた違った一面を見せていた。


「思ったんですけど」

「はい?」

「葵さんも一緒に乗せられそうな気がするんですよね」

「車に?」

「車に」


 改札を目の前にして、アイリスがそんなことを言い出した。つまりは、自分も一緒に送っていってもらうことになるのではないか、ということである。


「別に気を遣ってもらわなくても」

「気を遣ってるわけじゃないと思いますよ。お父さん、前から葵さんとお話ししてみたいって言ってましたから」

「娘は渡さない的な話ですか」

「お父さんがそんな面倒なことを言い始めたら、私は太一さんと柚子さんのところに逃げ出します」

「迷惑……」


 突然押しかけられた桃野夫妻の心境やいかに。案外あっさり受け入れそうな気もするが。


 それはともかく、こんな話になったことで、確認しておかないといけないことがあるのを思い出した。


「ちなみに、お父さんのお名前は?」

「『アーロン』ですけど、それがどうかしました? 好感度狙いですか?」

「後輩のお父さんの好感度を上げてどうするんですか」


 よく分からないことを言い出すアイリスに、声音が少しだけ呆れを含んだものになってしまう。名前を教えてくれてから全く間を空けずにそう言われたことも、自分のそんな変化に拍車をかけてしまっている。


「それは分からないですけど、葵さんなら何かを企んでそうなので」

「そうじゃないですって。『お父さん』って呼ぶのに違和感があっただけですよ」


 いちいち「アイリスさんのお父さん」と呼ぶのも、長過ぎて面倒である。名前で呼ぶのが一番簡単な解決策というだけだった。


 そんな話をしながら、駅舎を出て駐車場へと向かう。ここで別れるのも一つの選択ではあったが、話してみたいと言われているのなら、挨拶くらいはしておいた方がいいかもしれない。そう考えて、引き続きアイリスの隣を歩く。


 辺りを見回すアイリスの様子から察するに、まだ車は到着していないらしい。


「まだ来てないみたいです。ちょっとだけ待ってもらってもいいですか?」

「大丈夫です。今日は特にすることもないですしね」

「ありがとうございます」


 二人並んで迎えを待つ。この町で一番大きな駅とはいえ、そこは田舎町の駅。迎えを待つ人用のベンチなど、どこにも存在していなかった。残念がっていても座れる場所が現れる訳でもないので、そんなことは頭から追い出して、気になっていたことを確認しておく。


「アーロンさんが僕と話したいって言ってるってことは、レティシアさんの時と同じで、アイリスさんが僕のことをあれこれ話してるってことで合ってます?」

「そういう言い方をされると否定したくなりますけど、大体合ってます」

「どういう話をしてるかによっては、またお仕置きが必要になりますね」


 その言葉を口にした瞬間、アイリスの顔に怯えの色が浮かぶ。碧依と莉花にあれこれされたことを思い出したらしいが、この場にあの二人はいないので、今度は別のお仕置きである。


「だめですっ! お仕置きよくないっ!」

「それはアイリスさんの普段の行い次第です」

「大丈夫……! 大丈夫なはず……!」


 必死に言い聞かせている時点で少し怪しいが、そこは確認してみるまで分からない。鬼が出るか蛇が出るか。アイリスの運命はどう転がるのだろうか。


 これまで自身が何を話したのか思い出しているらしいアイリスを横目に見ながら、色も車種も分からない車の到着をぼんやりと待つのだった。




「あ、来ました」


 アイリスの一言で駐車場の入口へと目を向ければ、一台の黒い車が入ってきたところだった。ここで待ち始めてから、五分程が経っただろうか。


「いよいよ緊張のご対面ですね」

「緊張してるのは、何か余計なことを言ってないか気にしてるアイリスさんですけどね」

「その通りです……。どきどきしてきました」


 そんな会話が繰り広げられていることとは一切関係なく、淀みのない動きで、空いているスペースに車が停まる。


 やや間が空いて運転席から降りてきたのは、随分と若々しい見た目の男性だった。少なくとも、アイリスのような年齢の子供がいると考えにくい程度には年齢不詳である。


 当たり前の話ではあるが、二人で並んで立っていれば、向こうもこちらのことを認識して当然である。近付いてくる中で、はっきりと目が合った。どうやら、アイリスの外見はレティシアからの遺伝が強いらしい。近付いてくる人物とアイリスの間に、外見的な共通点はすぐには見出せなかった。


「初めまして。葵さんかな? アイリスの父親のアーロンです」


 目の前までやって来た人物が、そう言いながら軽く頭を下げる。にこやかな表情を見る限りでは、自分に対する第一印象はそこまで悪くないようだった。その点に関しては気になることもあったので、ひとまず安心する。


「初めまして。湊葵です。色々なところでアイリスさんの先輩をしています」

「話はよく聞いてるよ。アイリスが本当にお世話になってます」

「こちらこそ。よく助けてもらっています」


 見た目から受ける若々しい印象とは対照的に、年齢を重ねた者にしか醸し出せない、落ち着いた雰囲気の話し方。見た目と話し方、それぞれから受ける印象が正反対という、実に不思議な人物だった。


「葵さんが余所行きモードです」

「普段から余所行きモードみたいなところはありますけどね」


 初対面の挨拶を見ていたアイリスが、自分の方を見てそんなことを口にする。そういった表現をするのであれば、口調からしていつも余所行きモードである。


「ちょっとだけ、いつもより丁寧な感じがします」

「そうですか?」

「そうなんです。毎日葵さんを見てる私が言うんですから、間違いないです」

「ストーカーですか?」

「一緒にいるじゃないですか」

「新しい手口かと」

「犯罪の言い方……」


 目の前にアーロンがいるにも関わらず、ついいつも通りのやり取りを繰り広げてしまった。親の前で娘をからかうのは流石によくなかったかと視線を戻せば、そこには穏やかな目でこちらを眺めるアーロンがいた。


「話には聞いてたけど、本当に仲が良いんだね」

「今のを仲が良いと受け取ってもらえてよかったです」


 アイリスと自分の関係性を知らなければ、眉を顰められてもおかしくないような会話である。それを好意的に受け取ってもらえたのなら、それ以上自分から言うことは特にない。


「アイリスはからかわれて輝くからね。気持ちはよく分かるよ」

「お父さん!?」


 好意的に受け取ってもらえた裏には、そんな事情があったらしい。父親からの意外過ぎる評価に、アイリスが目を丸くする。


「そんなことを考えてたの!?」

「そうだね。アイリスは反応がいいから」

「家族にそんなことを思われてたなんて……!」

「こんな娘だけど、これからもよろしくしてもらえると嬉しいよ」

「もちろんです。一緒にいると楽しいですから」

「えへ……、えへへ……!」


 どんなところにいても、表情がころころと変わるアイリスだった。その緩みきった顔は、父親に見せていい顔なのだろうか。


「失礼ですけど、ここまで単純だと、ちょっと不安になりませんか?」

「そうだね。我が娘ながらちょろいからね」


 先程から、アイリスに対するアーロンの評価は散々なものだった。これまで見てきたものの積み重ねが、自分とは圧倒的に違うのだろう。


「でも、今はしっかりした先輩が近くにいるから大丈夫だと思ってる」

「買い被り過ぎです。いつも一緒なわけでもないですし」

「その割には、毎日のように話を聞くよ」

「そんなに話すこともないと思うんですけど……」

「アイリスにとってはそうでもないみたいだね」


 その言葉に釣られて、未だに頬を緩ませているアイリスに目を向ける。アーロンがここまで言うとなると、普段から何をそんなに話しているのか俄然気になってきた。


「いつまで笑ってるんですか」

「だってぇ……。私と一緒にいると楽しいんですよね?」

「何か勘違いしてませんか?」

「え……?」


 考えていたこととは違うことを告げられると察したアイリスの表情が、一気に不安そうなものに変わる。


「アイリスさんをからかうのが楽しいんですよ」

「なんでですか!」

「残念だったね、アイリス」

「お父さんまで……! どうして二人がかりで……!」


 自分と一対一の時ですら、アイリスが勝ったところをほとんど見たことがない。それなのに、父親を含んだ二人がかりとなれば、もうアイリスに勝ち目などあるはずもない。実際、今も悔しそうに自分とアーロンの間で視線を行ったり来たりさせている。


「ずっと立ち話をしてるのも何だから、そろそろ車に乗ろうか。よかったら一緒に送っていくよ」


 アーロンにはなかなか勝てないらしいアイリスだったが、その考えはしっかり読めるらしい。つい先程話していた通りのお誘いが、アーロンからなされる。


「いいんですか?」

「ご近所さんだって話は聞いてるからね」

「じゃあ、お言葉に甘えて。よろしくお願いします」


 向こうから提案されたことなので大丈夫だとは思うが、一度だけ聞き返し、それから頭を下げる。まだまだ夏は始まったばかりとはいえ、西日が照る中を歩いて帰るのは流石に暑い。この上なくありがたい提案だった。


「ほら、アイリスも。行くよ」

「はーい……」


 先程までとは打って変わって意気消沈したアイリスが、先に歩き出したアーロンの後に続く。どの辺りを歩けばいいのか分からなくなって、何となくアイリスの背中を追いかける。


「葵さんは後ろです」

「分かりました。アイリスさんは?」


 結局いつも通り隣に並んだところで、アイリスから座る場所の指定があった。特に断る理由もないので受け入れて、ついでと言わんばかりに聞き返す。


「私も後ろです」

「助手席じゃないんですね」

「葵さんに背後を取られたら、何をされるか分からないですもん」

「失礼な」


 車の中でも隣の席らしかったが、その理由がややひどいものだった。親がいる前で、何か悪戯をする勇気など自分にはない。


「とにかく、私の背後は取らせません」

「ストーカーじゃなくてスナイパーでしたか」

「狙った獲物は逃しませんよ」

「成功率は一割くらいですかね」

「逃し過ぎでは?」


 アイリスがスナイパーだったとして、成功率が高いイメージなどない。間違いなく仕事が回ってこないタイプだ。


 そんな会話を交わしながら、数分前に見た車の後部座席に乗り込む。電車の中と同じく、左隣にはアイリス。


「それじゃあ、とりあえずうちの近くまで行けばいいかな?」

「はい。お願いします」


 アーロンが確認を取ってから、車がゆっくりと動き出す。バス以外の車に乗るのは、随分と久しぶりのことだった。




「それにしても、本当に写真で見た通りなんだね」

「写真ですか?」


 駅の駐車場を出てすぐ。信号待ちの間に、アーロンが突然そんなことを口にした。


「そう。前にアイリスが葵君の写真を見せてくれたことがあってね。その時の印象そのままだったから」

「写真、ですか……」

「あ……」


 小さくそう呟きながら、隣に座るアイリスに目を向ける。その瞬間、何かに気付いたようにアイリスが声を漏らした。何か違和感がある。


「アイリスさんが持ってる、僕の写真?」

「それ以上考えるのはやめましょう、葵さん」


 何故かアイリスがそれ以上の思考を止めようとする。明らかに何かを隠そうとしている動きだった。そして、その行動が引き金となって、頭の中に一つの答えが浮かび上がってくる。


 隠さなければならない写真など、よくよく考えればあれしかない。


「アイリスさん」

「な、何ですか……?」


 自分が纏っている雰囲気が変わったことで、アイリスはまずいと思ったらしい。自分はしっかりアイリスのことを見つめているのに、当の本人の視線はふらふらと宙を彷徨ったまま安定しない。


「見せましたね?」

「何を、ですか……?」


 絶対に分かっているはずなのに、それでも惚けるアイリスに向けて、決定的な一言を告げる。


「ウェイトレス姿を」

「……家族もだめでした?」


 ぴくりと反応し、恐る恐るといった様子でこちらを窺ってくる。その反応ということは、爆弾だと言ったはずなのに見せたに違いない。


「何か約束でもしてたのかな?」

「はい。絶対に他の人には見せないって約束を」

「なるほど。それをアイリスが破ったわけだ」

「ごめんなさいぃ……!」


 そこでとうとうアイリスが観念した。アーロンの「破った」という表現が、最終的なとどめとなったのかもしれない。


「僕も見ちゃってごめんね」

「いえ、アーロンさんは悪くないです。悪いのは……」

「私ですぅ……!」


 すっかり隣で縮こまってしまったアイリス。まさかこんなルートでばれるなど、微塵も考えていなかったようである。


「そういうことなら、何かお仕置きをしておくといいよ。父親として許します」

「アーロンさんからの許可も出ましたし、覚悟してくださいね」


 電車の中での会話を実践する訳ではないが、悪いことをしたのならお仕置きが必要である。しかも、アーロンから許可が出てしまったのなら、もう止まる理由はない。


「何をするつもりですか……?」

「目を閉じて、おでこを差し出してください」

「絶対にでこぴんするつもりです……!」


 お仕置きの内容を察したアイリスが涙目だろうが何だろうが、残念ながら止まることはない。大人しくおでこを差し出さないのならば、こちらから動くだけの話だ。


「早く差し出した方が楽になりますよ」

「うぅ……! 分かりましたからぁ……」


 またしても観念したように、おずおずと前髪を持ち上げるアイリス。普段じっくりと見ることのない場所が、こうして自分の前に晒された。


「目は閉じなきゃだめですか……?」

「いつ来るか分からないのもお仕置きですから」

「はい……」


 最後の抵抗も効果がないと分かったのか、力なく返事をしたアイリスがそのまま目を閉じる。これにて、アイリス側の受け入れ態勢が完全に整った。


「それでは……。いきます」

「……っ」


 そう宣言して右手を近付ける。目を閉じたアイリスにはそれが見えなくても、視界が少し暗くなったことで、何かが近付いていること自体は分かったはずだ。


「……」


 そのままの体勢で、少しだけ待つ。そこまで強く目を瞑る必要もないのに、瞼に力が入っているのがよく分かる。眉間には皺も寄っていた。やはり、いつ衝撃が訪れるのか分からないというのは、必要以上に恐怖心を煽るようだ。


 しばらくそんなアイリスを見ていてもいいのだが、今回はあまり焦らさずお仕置きを実行することにする。


 ということで、構えた右手を少しだけ動かした瞬間、聞き慣れた、けれどもこの場面では聞こえるはずのない音が、車内に響いた。


「え?」


 その音の正体はシャッター音。思わずといった様子で目を開けたアイリスからは、スマートフォンのレンズが見えているはずだ。現に、画面に映るアイリスと目が合っている。


「ということで、お仕置きはでこぴん待ちの顔を写真に撮られる、でした」

「もぉー!」


 お仕置きの内容が思っていたものと違うことを理解した途端、ずっと我慢していたアイリスが爆発した。いつ来るか分からなかった恐怖と、騙されたという困惑。二つの感情の発露だった。


「これだから葵さんは……!」

「いい写真が撮れました。これで爆弾は二枚目ですね」

「うー!」


 威嚇のつもりなのだろうが、感情が迷子の今では、はっきり言って全く威嚇の体を成していない。精いっぱい睨んでいるようにも見えるものの、結局可愛いという感情しか浮かんでこなかった。


「策士だね」

「痛い思いをさせるのもと思いまして」

「優しくしてくれてありがとうね」


 一部始終を見ていないアーロンでも、会話の内容から後部座席で何が起こったのかは理解できたらしい。親としてそれでいいのかと思わなくもない感想を受け取る。


「優しい……?」


 痛みがなかったことはよかったとして、写真を撮られたことを「優しい」と表現してもいいのか。心中で問答を繰り返しているであろうアイリスの口から、小さくそんな一言が漏れ出すのだった。

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