27. 努力の結果 (2)
七人も人が集まれば、その喧噪はいつも以上に大きくなる。あちらこちらで会話が生まれて、なかなか本題に辿り着けない時間が続いていた。
「湊君! 助けて!」
「……」
「あれ!?」
その途中、悠から聞こえてきた叫びは無視することにした。漏れ聞こえてくる声によれば、どうも莉花と紗季に狙われているらしいので、そのまま一度女装するといい。アイリスと自分以外は知らないことだが、それで回数は同じになる。
そんなことよりも、このままの状況が続けば、間違いなくアイリスは本題を思い出さない。より正確に言えば、思い出す暇を与えてもらえない、だろう。
「アイリスさん」
「はい?」
「そろそろ」
「あ、そうですね」
そう思って、アイリスに声をかける。どうやらたった一言で意図が伝わったようで、一度頷いたアイリスが、全員に向けて口を開く。
「じゃあ、私達はそろそろ」
何も伝わっていなかった。
「どうして帰ろうとしてるんですか」
「あれ? 違いました?」
「違います」
「あれ?」
不思議そうに首を傾げるアイリスだが、そうしたいのは自分である。呼び出した本人がこれでは、この先の展開は何も期待できない。
「テストの結果を聞きたいんじゃなかったんですか」
「あ……」
「忘れてましたね?」
「忘れてませんよ?」
「目が合いませんけど」
「ちょっと……、人見知りなもので……」
気まずそうに目を逸らすのは、明らかに本題を忘れていた反応である。さらに言えば、人見知りは先輩の肩を掴んで揺さぶったりはしない。
「別に忘れてたくらいで怒ったりはしませんから」
「忘れてました!」
そう口にした途端に認めるアイリス。無駄に元気よく右手を掲げ、その顔には思わず見惚れてしまいそうになる程に可愛らしい笑みを浮かべていた。そんな場面ではないので、今は見惚れることなどないのだが。
「怒りはしませんけど、お仕置きはします」
「なんでですか!」
「渡井さん」
「よし来た!」
「ごめんなさいぃ!」
初めから素直に謝ればいいだけなのに、何故か抗議をしてきたアイリスに向けて莉花を放つ。じりじりと近付いてくる莉花の姿で何かを思い出したのか、結局即座に謝罪する羽目になるアイリスなのだった。
「渡井さん、ストップです」
「うい」
「どうしてこういう時だけ素直なんだろうね?」
「莉花の考えはよく分からないから……」
謝罪を受けたので、アイリスに抱き付く寸前だった莉花を制止する。普段の莉花を知っている悠と碧依からは素直に動きを止めた莉花に対する疑問が湧くが、自分も何故こんなに簡単に制止できたのかは分からないので、結局何も答えることができなかった。
「楽しそうだね、アイリス」
「これが楽しそうに見える?」
「うん」
「うん!?」
一連の流れは、紗季の目からそう見えていたらしい。嬉しくないうえに予想外の評価だったのか、アイリスが信じられないといった様子で紗季のことを見つめていた。
「ほら、また話が逸れかけてますよ」
「あ……、そ、そうですねっ。テストの結果ですよねっ」
「必死か」
「しーっ!」
このまま放っておくと、やはり本題には辿り着かないような気がしたので、改めて軌道を修正する。やたらと勢いよく便乗するアイリスだったが、そこまで莉花を恐れているとなると、自分で仕掛けたこととはいえ少し不憫に思えてくる。
「それで、葵さんはどうだったんですか?」
余計なことを言われる前に話を進めたいだけなのかもしれないが、ようやくアイリスからその言葉が聞こえてきた。求められるままに答案用紙を取り出そうとしたところで、何故か碧依が口を開く。
「それを聞く前に」
「はい?」
これまでは黙って成り行きを見守っていたのに、このタイミングでアイリスに伝えたい何かがあるらしい。見たこともない程に真面目な顔をする碧依の様子に、アイリスも若干背筋が伸びてしまったようだった。
「ショックが強いので、心臓が弱い方はご注意ください」
「ホラー映画ですか?」
「息ぴったりだね、二人共」
「え?」
その言葉の意味が理解できずに首を傾げるアイリスだったが、大方自らの言葉に対する反応が同じだったとでも言いたいのだろう。そこまで意識していなかったが、思い返してみれば確かに同じ表現をした覚えがある。
「ちなみに、こんなことを言ってる碧依の点数は八百七十二点です」
「え……」
「その点数の水瀬先輩がそう言うってことは……」
「湊先輩はもっと……?」
勝手に碧依の点数を公開した莉花の一言で、アイリス、紗季、純奈の視線の種類が変わった。これまではただの興味だったのに、今では怖いもの見たさの割合が半分以上を占めているように見える。やはり、自分の点数はホラー映画なのかもしれない。
「それに、碧依先輩ってそんなに成績がよかったんですね」
「どういう意味かな?」
「あ、いや、何でもないです」
「碧依さん。話が進まなくなるので」
「はーい」
迂闊な一言を放ったことで、またも窮地に立たされるアイリス。率先して助けたい訳ではなかったが、いつものやり取りが始まってしまうとせっかく進んだ話題が三歩後退してしまうので、ここは碧依に退いてもらうことにした。
「どうぞ」
「ここまで言われる点数って、ちょっと楽しみになってきました!」
そうして、答案用紙をまとめて入れたクリアファイルをアイリスに手渡す。やたらと丁寧な手付きで受け取ったアイリスは、果たしてどんな反応を見せてくれるのだろうか。自分としては、その方が楽しみである。
「あの楽しそうな顔、少ししたらどうなるんだろうね」
「『どん引きする』にジュース一本」
「じゃあ、僕は『無表情になる』にジュース一本で」
その様子を見ていた悠と莉花が、アイリスの今後を賭け対象にしていた。今回は参加していないが、もし自分が参加するならば、その時は「乾いた笑みを浮かべる」に賭ける。
「わぁ……。一枚目から丸ばっかりだぁ……」
早速クリアファイルから答案用紙を取り出し、一枚目を開くアイリス。これまでのわくわくしたような表情はあっという間に消え、何やらおかしな口調で小さくそう呟く。
賭けの結果が出るまで、そう長い時間はかからないのかもしれなかった。
「僕の勝ちだね」
「……今度買ってくる」
一枚目の現代文の答案用紙を見た瞬間から、アイリスは徐々に表情を失っていった。そして、七枚目の化学を見た辺りで、完全に反応がなくなった。
「アイリスー? 生きてるー?」
「これを見ちゃったら、この反応も仕方ないけどね……」
そう言いながら、アイリスの顔の前で手を振る紗季と純奈。だが、アイリスは答案用紙を見つめたまま反応しない。
「だから言ったのに」
隣では、碧依が呆れたような表情でアイリスを眺めていた。
「葵さん……」
「お。再起動した」
「これからも……! よろしくお願いします……!」
「何をですか」
再起動したばかりで頭が上手く回っていないのか、大事な言葉が足りていなかった。縋るような眼差しで見つめられても、返事のしようがない。
「勉強、教えてください」
「それは別にいいですけど」
「ほんとですか!」
「えぇ」
「やりました! 最強の家庭教師を手に入れました!」
「アイテム扱いですか」
どうやらそういうことらしいので、特に考えることもなく受け入れる。縋るような表情から一転、これ以上ない程の笑顔を見せてくれるアイリス。その表情に免じて、アイテム扱いは不問とすることにした。
「家も近いですし、ちょうどいいですもんねっ」
「やるんだったら、前みたいに図書館ですけどね」
あれほど試験勉強に適した環境もそうそうない。近くにあるなら、利用しない手はなかった。
「そもそも、前に期末の話も少ししたじゃないですか」
「そうなんですけどね。でも、まだちゃんと約束してなかったので」
あの時のことを振り返りながらそう口にしてみるも、確かにアイリスの言うことも一理あった。図書館から出る時にしたのは、日本史の話だけである。アイリスからすれば、確かな約束が欲しかったのだろう。
「まぁ、次は七月に入ってからですかね」
「ですね。また私から都合がいい日を連絡します」
「僕の方は大体暇してますから。どうせシフトもほとんど一緒ですし」
「はーい。じゃあ、その時はよろしくお願いしますね」
「任せてください」
いつになるかは分からないが、次の約束を取り付けたところで話が途切れる。それを見計らっていたかのように、紗季が声をかけてきた。
「先輩に教えてもらいたいなら、今の自分の点数も見せないとだよね? アイリス?」
「うん。最初からそのつもり」
「あれ?」
どうもアイリスが点数の公開を渋ると踏んでいたらしい紗季が、意表を突かれたような声を漏らす。そんな紗季の様子には構うことなく、アイリスも答案用紙を入れているらしいクリアファイルを手渡してきた。
「ということで、こちらが私の点数です」
受け取った答案用紙は全部で九枚。一年生には、まだ物理の授業が存在していなかった。
「それじゃあ、失礼して……」
一言そう断ってから、一枚一枚答案用紙を捲っていく。
「……」
「へぇ。どれも平均以上はありそう」
「ね。もしかしたら、私よりも合計点高いんじゃない?」
「莉花はもうちょっと頑張ろうねー?」
「はい……」
横から覗き込んできた碧依と莉花の言う通り、ここまで見た答案用紙は丸の比率が圧倒的に多く、どの科目も七十点は取れている。平均以上はあるどころか、ある程度上位にも食い込めそうな点数だった。
「うわっ、英語は流石」
「こんな見た目をしてますからね!」
莉花に反省を促した碧依が、リーディングとライティングの答案用紙を見て驚きの声を上げる。高校に入学してから最初の試験なのに、いきなり問題文も設問も全てが英語で書かれ、大半の生徒が驚きと共に若干点数を落とすのが英語の試験である。
ただ、アイリスにとっては何も問題にならなかったようだった。自慢げに胸を張るその様子も頷けてしまう程に、答案用紙にはいくつもの丸が並んでいた。
「リーディングが九十六点、ライティングが九十七点ですか。英語は流石にアイリスさんには勝てませんね」
「英語だったら、葵さんにも教えてあげられます!」
「もし必要になったら、その時はお願いします」
「任されましたっ」
普段教わってばかりの相手に何かを教えられるのが嬉しいのか、アイリスの目がきらきらと輝いていた。
「それじゃあ、わざと最後にしたらしい日本史ですけど」
「あ、ばれてる」
どこかくすぐったい眼差しから逃れるように、最後に残った一枚を手に取る。あえてそんな順番でクリアファイルに入れていたのか、それは日本史の答案用紙だった。
「……お」
そこに記された点数を見て、思わず小さく声が漏れる。何となく顔を上げてアイリスを見てみれば、その顔にはじわじわと笑みが広がっていくところだった。
「ふふふ……。悪い点を隠したくて最後にしたと思いました?」
「八十二点ですか」
「私だって、やればできるんですよ」
そう言って再び自慢げに胸を張るだけのことはある。想像していたよりも遥かに高い点数だ。
「嘘!? 日本史があんなに壊滅的だった、あのアイリスが!?」
「入試の社会の点数が悪くて笑ってたアイリスさんが……?」
「二人共?」
アイリスの苦手科目を知っていた紗季と純奈も、その点数には驚きを隠せないようだった。驚き方が独特ではあったが、とりあえず予想外であったことだけは分かりやすく伝わってくる。この驚き方を見るに、どうやらこの一枚だけは二人にも見せていなかったらしい。
「アイリス……」
多分に驚きを含んだまま、紗季がじっとアイリスを見つめる。
「何?」
「カンニングはやっちゃだめなことなんだよ?」
「してないもんっ」
何やら随分と失礼なことを言われていた。アイリスの日本史の成績がどれだけ悪かったのかは分からないが、紗季がそんなことを言ってしまう程度には悪かったと考えてもよさそうである。
「だって……。じゃないと、アイリスがこんな点数を取るなんて……」
「私より高い……」
「二人は私のことを何だと思ってるの?」
一瞬にして否定したアイリスだったが、少なからずダメージは受けているようだった。紗季も純奈も何故か落ち込んでいるので、一年生組は三人揃って被害者の様相を呈している。
「何をしたの? テストの二週間前は面白いくらい壊滅的だったよね?」
「面白い?」
「今のアイリスさんじゃ笑えないよ?」
「笑う?」
そして、最終的に感情が不安定になっていた。勉強会を始める前のアイリスの日本史がどんな成績だったのか、どんどん気になってくる。
「時間がなかったので、頭に叩き込む方法を教えただけですよ。付け焼き刃ですけど」
「これだけ取れたら、もうそれは付け焼き刃とかじゃないのでは?」
「刃こぼれしてたのを砥ぎましたってレベルですよね」
「教えたのは方法だけですから。そこから頑張ったのはアイリスさんですよ」
これに関しては本当に何もしていないので、純粋にアイリスが努力した結果だ。そこは間違いない。そんな意味を込めて、アイリスに視線を送る。
「葵さんに方法まで教わったんですから、悪い点は取れないなって思って」
「それでも、ここまでだとは思ってませんでした。もっと自信を持っていいと思いますよ」
「そ、そうですか……? 私、ちゃんと頑張れました?」
「ですね。よく頑張ったと思います」
「えへへ……」
「うわ……、顔がゆるゆる……」
一通り褒めたところで、紗季の言う通り、アイリスの顔がすっかり緩んでしまった。単純に嬉しそうにしているだけなら何度も見たことはあるが、それ以外にも何かの感情が含まれていそうなその表情は、なかなか見ることができない表情だ。
「ますます親子か兄妹みたいに見えてくるね?」
「今だけは納得できます」
噂を教えてくれた張本人である悠の言葉も、今この時ばかりは受け入れるしかなかった。
「合計点は七百四十点ですか」
「平均は超えられそうですかね?」
「平均どころか、結構上の順位だと思いますよ」
改めて全ての答案用紙を見直し、その合計点数を計算する。アイリス達一年生組は今回が初めての試験なので平均が分からないのかもしれないが、これだけの点数を取れば、まず間違いなく学年でも上位に食い込めることだろう。
「ほんとですか?」
自分で思っているよりも高い点数であることをじわじわと理解し始めたのか、アイリスの頬が期待で色付いていくのがよく分かる。そして、頬よりも期待の感情が分かりやすいのが、その瑠璃色の瞳だった。
「十分自慢できる点数かと」
「じゃあ、今回は大成功ですね!」
「でも、僕に自慢してきたら、その時は点数で圧倒します」
「絶対に勝てないので、それだけはやめてください」
自慢できる点数であることは認めるが、自慢する相手には十分に注意してほしいところである。そんな言葉と共に軽く頭を下げたアイリスには、あまり必要のないアドバイスなのかもしれないが。
「それにしても、葵さんのことですから、英語でもしれっと私よりも点数が高いのかなって思ってました」
点数で圧倒される光景から逃れたいのか、はたまた単純に気になっただけなのか、アイリスが再度自分の答案用紙を見ながらそう口にする。自身の答案用紙と合わせて四枚を横に並べ、隅から隅までじっくりと解答を確認していた。
「それは流石に買い被り過ぎです」
何故かやや意外そうな口調のアイリスだったが、そんな風に思われている方が意外である。アイリスにとっての英語と自分にとっての英語では、その立ち位置があまりにも違い過ぎる。
「せっかく葵さんに二科目も勝ったので、お願いを二つ叶えてもらってもいいと思うんですよね」
そんなことを考えていると、突然不穏な言葉が聞こえてきた。先程とはやや異なる種類の期待を込めた眼差しが、真っ直ぐ自分のことを貫いている。
「だったら、僕はアイリスさんに七つもお願いを叶えてもらえますね」
「それとこれとはお話が別です」
「随分と都合がいい考え方をしますね。いい度胸です」
ふいっと顔を背けて言うアイリス。それならば、自分もお願いとやらを叶えてあげる義理はない。
「何を叶えてもらいましょうか」
「叶える前提で話を進めないでくださいって」
「……叶えてくれないんですか?」
それでも、アイリスはそう簡単には引き下がらない。お互いの身長の関係でそうなってしまうのは当然なのだが、こちらをやや見上げながら、どこか甘えるような口調で呟かれた一言は、自分の心を揺らすには十分過ぎる威力を有していた。
「……内容によります」
「葵君、ほんとにアイリスさんには甘いよね」
「妹を甘やかすお兄さんって感じ」
何となく目を逸らしながらそう言ってしまった自分を見て、悠と碧依がそんな感想を零す。自分でもそう思ってしまったので、何も言い返すことができなかった。
「一つは何となく決めてるんですけど、もう一つが……」
「ちなみに、その一つって?」
「もう少ししたら、葵さんの誕生日じゃないですか。なので、誕生日プレゼントを選ぶのに付き合ってもらおうかなって」
「それを僕に?」
当たり前のように言うアイリスだが、目の前にいるのが本人である。自分としてはそれでも構わないけれども、アイリスはそれでいいのだろうか。
「葵さんに色々見てもらって、それを参考にしようかなと。最後に悩むのは私です」
「まぁ、それくらいなら」
何故か「お願い」という言葉を聞くと身構えるようになってしまった自分だったが、この程度のことならどうということはない。そもそも、誕生日プレゼントを準備してくれるというのであれば、わざわざこんな形で頼まれなくても同行する。
「元々考えてたプレゼントは葵さんに潰されちゃいましたし!」
「いつそんなことをしました?」
若干口を尖らせながら言うアイリスを見て記憶を遡ってみても、思い当たる節はない。前提として、アイリスの誕生日プレゼントの話はしたが、自分の誕生日プレゼントに関して話した記憶自体がなかった。
「ブルーマロウ」
「あぁ……」
それでも、その一言を聞いた瞬間に様々なことが繋がったような気がした。あの時はそういう話だと思ってもいなかったが、どうやらアイリスはそのつもりで探りを入れていたらしかった。
「葵さんにぴったりな物を見つけたと思ったのにっ」
「それであの時、あんなに荒ぶってたんですね」
「私の閃きを返してください!」
ぐいっと迫ってくるアイリスから逃れるように、少しだけ体を逸らす。それでも、鮮やかな瑠璃色の瞳はこれまでよりもずっと近いところから自分のことを見つめていた。
「本当にアイリスさんが思い付いたんですか?」
その瞳を見ながら、ふと疑問に思ったことを口にする。もちろん、アイリスのことをしっかり理解していると言うつもりはないが、何やら違和感のようなものを覚えたのもまた事実。
もしくは、あまり有名ではない紅茶なので、単にアイリスが知っていることに違和感を覚えただけなのかもしれないが。
「……お母さんですけど」
すっと目を逸らしながら小声で言うアイリス。どうやら前者の方が正解に近かったようだった。
「そんなことだろうと思いました」
「隠し事がお兄ちゃんに暴かれた妹の図だ」
「うるさいよ、紗季」
アイリスとの会話のはずなのに、時折外野から茶々が入る。今度は紗季が楽しそうにアイリスのことをからかっていた。
「そのブルーマロウって何かが、葵君にぴったりなの?」
一方、碧依は純粋な疑問顔。案の定有名ではなかったブルーマロウが何なのか、そこから分かっていないような口調である。それならば、ブルーマロウと自分が繋がるはずもない。
「葵さんの名前ってですね、ウスベニアオイってお花の名前が由来なんですよ」
「ウスベニアオイ?」
「はい。誕生日が八月十四日で、その日の誕生花なんです」
「そうなんだ?」
アイリスから説明を受けていた碧依が、わざわざ自分に確認してくる。今のところ、その説明に間違いはなかった。
「そうですね」
「それで、ウスベニアオイの別名がブルーマロウで、その花弁を使った紅茶があるんです」
「それをプレゼントに?」
「はい。たまに紅茶を飲むって聞いたので、ちょうどいいかなって」
「それの何が潰されたの? そんな風にされることある?」
一通りの説明を聞いても、結局碧依はそこが理解できなかったらしい。今の説明では誕生日プレゼント事情に一切触れていないので、そうなるのも当然という反応だった。
「私が説明しなくても、葵さんがブルーマロウのことを知ってました」
何も悪いことなどしていないはずなのに、アイリスの自分を見つめる眼差しがじっとりしたものに変わる。
「あぁ……」
「この花好きならね。花のことなら何でも知ってそう」
そんなアイリスの一言で、碧依と莉花が全てを理解したようだった。その顔に浮かぶのは苦笑いである。
「おかげで私の計画が台無しです」
「流石に理不尽だと思うんです」
「葵さんが悪いんですもん」
ふいっと顔を背けてそう口にするアイリス。都合が悪いことは何も見ないとでも言うかのように、両目はしっかりと閉じられていた。
そんな態度のアイリスに刺激された訳ではないが、そういうことなら自分にも言いたいことがある。
「でも、前にアイリスさんが言ってましたよね?」
「何をですか?」
自分の声の調子が変わったことで何かを察したのか、アイリスの目が開かれて、窺うような視線を送ってくる。
「『自分のために迷ってくれたのが嬉しい』って。なのに、アイリスさんはレティシアさんに教えてもらったものを、そのまま渡そうとしてたんですか?」
「私はそれで嬉しいですけど、その考え方を他の人にも押し付けようとは思いませんもん。『私が悩んだんだから、無条件で喜んでください』なんて、葵さんだって嫌ですよね?」
「なるほど。そう来ましたか」
アイリスにしては、珍しく説得力のある言葉だ。その考え方は確かに納得できた。ただ、まだ少しだけ甘い。
「でも、僕もアイリスさんと同じで、悩んでくれたら嬉しいですよ?」
「うっ……」
しっかりと目を見て伝える。その瞬間、明らかに瑠璃色が揺れた。
「ちゃ、ちゃんと悩みますよ……? で、でもっ」
「はい?」
少しだけ言葉に詰まりながら、それでもアイリスは何かしらの反論をしようとする。
「葵さんも、笑うのをやめてからその台詞を言ってください!」
「あ」
思いもしない反撃だった。どうやら、無意識のうちに笑ってしまっていたらしい。これでは、自分にもアイリスのことをとやかく言う資格はない。詰めが甘いのは自分も同じだった。
「……危なかったです。真面目な顔で言われてたら……」
「どうなってました?」
「……っ。何でもないです!」
頬を赤くしたアイリスがその言葉の先を教えてくれることはなかった。
「アイリスの扱いが本当に上手いですね、湊先輩」
「鍛えてますから」
「誰で鍛えてるんですか? 葵さん?」
「アイリスさん以外にいます?」
「ですよねっ。知ってましたっ」
「だったら何で聞いたんですか」
これまでのアイリスと自分の会話を聞いていた紗季が抱いた感想は、素直に喜んでいいのかが分かりにくいものだった。一方、同じように聞いていた純奈が気になった部分は、どうやら紗季とは違うようで。
「湊先輩の名前の由来って、そういうのよく覚えてたね?」
「お揃いだからね!」
「お揃い?」
以前話した時にも「お揃い」という言葉を使っていたアイリスだったが、どうもその言葉がお気に入りらしい。今回も「お揃い」と口にする瞬間に、やたらと嬉しそうに頬が緩んでいた。
「うん。私が六月六日生まれで、その日の誕生花がアイリスだから『アイリス』って名前なんだ」
「あ、それでお揃い」
「そう! 羨ましいでしょ?」
「う……ん? そう、かな……?」
ただし、その感情を誰もが理解できるかと言われると、それはまた別の話である。実際、アイリスと純奈の間でも意見の相違があるらしい。残念ながら、純奈の同意は得られていなかった。
「あれ? ってことは、アイリスってもう十六歳なの?」
「そうだよ? 紗季はまだ十五歳?」
「うん。十月生まれだから」
「『お姉さま』って呼んでくれてもいいんだよ?」
「お姉さま!」
「……」
自ら求めたことなのに、紗季にそう呼ばれた途端、笑みが浮かんで緩んでいたアイリスの顔に苦いものが広がっていく。
「……やっぱりなしで」
「何で!」
「先輩の前で何やってるの?」
少しの時間考えた結果、到底受け入れられないという結論に達したらしい。せっかく紗季がそう呼んでくれたのに、アイリスの心には響かなかった様子である。
「へぇ。じゃあ、私達とも同い年ってことになるんだ」
「この小ささで同い年か……」
「ちっちゃくないですもん!」
「いや、アイリスは小さいよ」
「紗季は黙ってて」
この中で一番小さいアイリスのその言葉は、驚く程に説得力がない。それどころか、あっさり手の平を返されたことへの仕返しなのか、紗季のストレートな物言いが見事に突き刺さっている。すっと目を逸らして逃げようとするアイリスの姿に、全員が微笑ましいものを見るような眼差しを向ける。
「え? じゃあ、何? 私達のことを呼び捨てにしても許されるってこと?」
「渡井さんはどうせ先輩呼びなので、何も変わらないんじゃないですか?」
「確かに」
そんなアイリスを見ながら何かに気付いたらしい莉花だったが、その考えは恐らく通用しない。年齢が同じとはいえ、大半が「先輩」呼びのアイリスからすれば、何も変わらないはずだった。
「そうなったら、試す相手は一人しかいないよね?」
大して何も考えずにそう指摘した訳だが、墓穴を掘ったと気付いたのは、碧依が実に楽しそうな笑みを浮かべて自分の方を見てきたタイミングだった。言葉を聞くよりも早く、目が合った瞬間に嫌な予感がした。
「間に合ってます」
「そう言わずに。試すだけだって」
「大丈夫です」
即座に拒否してみるも、当事者ではないはずなのに碧依が引き下がる気配はない。
「大丈夫なんだ? じゃあ、やってみようか」
「そっちの意味じゃないです」
「アイリスさんも。それでいいよね?」
「聞いてます?」
自分の抗議の声が聞こえていないのか、はたまた聞こえないふりをしているのか、碧依の意識は完全にアイリスに向いている。こうなってしまった碧依はもう止まらないと、これまでの経験が頭の中で囁いていた。
「葵さんを呼び捨てに、ですか?」
「そう。今しかできないんだから、やっておいた方がお得だよ?」
「お得なんですかね……?」
「今だけのセール価格だよ?」
「勝手に他人の名前を安売りしないでくださいよ」
碧依の言葉を受けたアイリスもアイリスである。唇の下辺りに指を当て、考え込むようにして若干俯いているが、真面目に考えるところなど一つもないはずだ。
「そこまで言うなら……」
「どうして懐柔されてるんですか」
だが、アイリスが出した結論は自分の想定とは違う方だった。ちらりと自分の方を見て、そう呟くアイリス。普段はあれだけ碧依のことを警戒しているのに、何故こういった時だけは悩みつつも受け入れるのだろうか。
「せっかくですし?」
「お買い物ついでに、じゃないんですよ」
やたらと積極的に押していた碧依の魂胆は分かっている。名前の響きが同じなので、自らも呼ばれた気分になれる、といった辺りだろう。そうでもなければ、碧依がここまで積極的になる理由がない。
「じゃあ、どうぞ!」
そんな碧依が、自分の予想を裏付けるかのような笑みを浮かべてアイリスを促す。こういった時は何故か素直なアイリスが、それを受けて口を開いた。
「えーっと……。その……、あ、葵……?」
「……」
ほんの僅かな躊躇いを見せた後、少しだけ目を泳がせながら、そして頬を赤らめながら自分の名前を口にする。名前自体はいつも呼ばれているのに、敬称がなくなっただけで、一気に雰囲気が変わったようだった。
端的に言えば、慣れなくてくすぐったい。反対に自分が呼び捨てにした時、アイリスが恥ずかしそうにしていた理由を身を以て理解した形である。
「なんか、思った以上に恥ずかしいですね、これ……。あはは……」
「……」
「葵さん? どうかしました?」
「……っ」
言った側も恥ずかしかったのか、曖昧な笑みを浮かべて頬を掻くアイリスに呼びかけられて、ようやく意識が再起動する。いつの間にか、顔が恐ろしい程に熱くなっていた。
「顔が真っ赤だぞ。どうした?」
「放っておいてください……」
はっきり言えば、かなり効いた。いつもと違う呼び方も、恥ずかしそうに呼ぶその仕草も。いつだったか「兄さん」と呼ばれたことはあったが、今回はアイリスのイメージにはない呼び方である。そんなところも威力を底上げしていたのだった。
「珍しいと言うか、初めて見たよね。湊君がそんなに恥ずかしそうにしてるの」
「見ないでください……!」
これまで黙って見ていた悠にまでこんなことを言われる始末。ここまで顔を赤くしたのは、ウェイトレス姿を披露させられた時くらいしか思い付かない。
「そんなにでした?」
自分の反応が予想外だったのか、アイリスがやや目を丸くして尋ねてくる。首を傾げる仕草すらも可愛くて、また一段と顔が熱くなる。
「もうアイリスさんの勝ちでいいですから……。許してください……」
「よく分からないですけど、勝ちました!」
「それでいいんだ、アイリス」
「勝ちは勝ちだからね!」
今度は自分が目を逸らしながら、一か月ぶりとなる敗北を宣言する。とてもではないが、今この瞬間、まともに太刀打ちできる気がしなかった。
ちなみに、近くで碧依も悶えていた。
ひどい目に遭った。その言葉に尽きる。
赤くなった顔をからかわれ、また赤くなる悪循環。残っていた体力を、この場で使い果たしてしまいそうな勢いで消耗した。
「もう疲れました……」
「葵君をここまでやり込めるのって、何か楽しいよね」
「いい趣味をしてますね」
「もっと隙を見せてくれてもいいんだよ?」
「二度と見せません」
笑顔の碧依を見て、そう心に誓う。もう二度と、今日のような失態は晒さない。
「で? まだからかい足りない人はいます? いないなら、もういい時間ですしそろそろ帰りますよ」
「あ、からかう間はいてくれるんだ」
「普段から人をからかってますから。その分、からかわれる覚悟はできてます。でも、次はありません」
「何か間違ってると思うけど、葵君がそれでいいなら、私は何も言わないよ」
この場から逃げ出すための苦しい言い訳のようなものだった訳だが、それによって碧依に何かを諦められた気がした。逃げられるのなら、もう何でも構わないのだが。
「いませんね?」
六人を見渡すが、誰からも返事はない。こう言えば、これ以上踏み込んでくることはないと予想しての一言である。結果として、意見の誘導は大成功だった。
「そんなに堂々とされたら、むしろ攻めにくいわ」
「それが狙いです」
「小癪な」
莉花が悔しそうに返してくるが、ついさっきまでのからかいに比べると、勢いは全くないと言っても過言ではない。この程度であれば、消耗した自分でも簡単に受け流すことができる。
「それでなくても、あんまり長居するのはって思ってましたから」
「そうだね。思ったより時間が経ってるかも」
雰囲気をやや真面目な方に戻した自分の言葉で、悠が時計を確認する。同じように教室の時計を見れば、ここに来てから既に三十分が過ぎていた。思ったよりも時間の流れが早い。
「渡井さんは部活があるんじゃないですか?」
「まぁ、確かに。そろそろ行った方がいいかな」
解散の流れを決定付けるために、言葉は悪いが莉花を利用させてもらうことにした。この後の予定がはっきり分かっている莉花だからこそ、流れを誘導するにはもってこいである。
「お二人も。部活とかは大丈夫ですか?」
「今日は大丈夫です!」
「私も……」
それとは反対に、何も分からない一年生組である紗季と純奈はこの後も空いているらしい。部活に所属しているのか、はたまた何かの委員会に所属しているのかは分からないが、今日は活動がないのかもしれない。
「葵さん。何で私には聞いてくれないんですか?」
そして、一年生組なのに何も聞かれなかったアイリスは不満そうだった。じっとりとした眼差しが、真っ直ぐ自分を貫いてくる。
「アイリスさんはどうせ何もないでしょうし」
「どうせって何ですか!」
「毎日僕達の教室まで来てる時点で」
「時点で?」
「暇なんだろうなと」
「暇じゃないですもん!」
「あ、じゃあ、今日は別々で」
「それとこれとはお話が別です」
不満はあっても、今日も一緒に帰るらしい。結局、これまでと何一つとして変わっていない。
「結局一緒に帰るのか」
「日課みたいなものだよね」
「ペットの散歩?」
「アイリスさんが散歩させられる側かな」
「純奈?」
先程も感じたことだが、純奈の思考が若干危うい方向に傾いているような気がする。今も、アイリスを見つめる目が見たことのない色をしているように思えた。
「リードを握る葵君はどんな感想?」
「巻き込まないでください」
一体どんなチャンスだと思ったのか、せっかく黙っていたのに碧依のせいで巻き込まれる羽目になってしまった。こんな話題など、この後厄介な方向に突き進んでいくのが目に見えている。言ってしまえば、碧依や莉花がいるこの場において、この手の話題が無事に終わる訳がない。
「私に首輪をさせて、葵さんは何をしようって言うんですかっ」
「お疲れ様でした。また明日」
「あぁ! 待ってください! 冗談ですから!」
早速面倒なことを言ってきたアイリスを置いて帰ろうとするも、そのアイリスの必死の抵抗で、踵を返すことすら叶わなかった。腕を掴む手に力が入っている。
「飼い主に構ってほしがるのも、やっぱり犬みたいだよね」
「ねー。前に話した通り」
「……私のこと、犬みたいだって言ってたんですか?」
「話してたのはこの二人ですよ」
アイリスにそう問いかけられて、少し前の出来事を思い出す、あれは確か、宿泊学習の時だっただろうか。オリエンテーリングからの帰り道で、尻尾を振っているだの何だのと言っていた覚えがある。
「アイリスさんは人懐っこい犬だよねって話してたんだ」
「ほら、お手」
「わんわん!」
差し出された莉花の手の平に、アイリスが拳を振り下ろしていた。可愛さの欠片もない。
「飼い主以外にはあんまり懐かないタイプか」
「誰が飼い主ですかっ」
「僕に言われても」
振り下ろしていた拳を止め、自分の方を振り返って抗議してくるアイリス。そんな抗議をされたとて、言っているのは莉花なので自分にはどうしようもなかった。
「ほらほら、落ち着け? ちょっと考えてみなって」
「何をですか」
「湊君が飼い主ってことは」
「違いますけどね」
「湊君は黙ってて」
話題に上がっている張本人なのに、何故か扱いがぞんざいだった。莉花の目はこちらに向いてすらいない。
「湊君が全部お世話してくれるってことだぞ?」
「……」
「何から何まで」
「……」
「おはようから、おやすみまで」
「……!」
「どう?」
怪しげなことを言い始めた莉花の雰囲気に巻き込まれたのか、アイリスが無言で何かを考え込む。この時点で既に嫌な予感しかしないのだが、果たしてアイリスはこの後何を言い出すのだろうか。聞きたくないのに気になるという、複雑な感情が心の中を支配する。
「……ちょっとだけ、いいかもしれないです」
「どうして押しきられてるんですか」
やはり「聞かない」という選択肢が正解だったのかもしれない。アイリスまでそちら側に行ってしまえば、周囲に味方がいなくなる。碧依、莉花、アイリス、紗季、純奈。五人対一人では、勝ち目がない。四面を漢に囲まれた楚の方が、まだ望みがある。
「……っ。違います! ちょっと考えちゃっただけですからね!?」
即座に現実に引き戻すような突っ込みを入れたからなのか、比較的素早くアイリスが正気に戻ってくれた。ぐるぐると渦を巻いていた瞳は、徐々にいつも通りの瑠璃色に戻ろうとしている。
「どこまで考えたんだろうなー?」
「葵さんのお腹の上で寝るところまで考えました!」
「……」
完全にいつも通りになるまでは、もう少し時間がかかるようだった。言わなくてもいいことを正直に口にするその様子は、どう見ても落ち着いているとは思えない。
「正直だね、アイリス」
「添い寝しちゃったんだ?」
「それ本物の犬だぞ」
「流石に重たいです」
この突っ込みもどうかとは思うが、それでも何か言っておかないと流れがどんどん悪くなるのは分かりきっているので、仕方なく口を挟む。
「重たくないですもん!」
「いや、軽いのは分かってますけど。それでもお腹に乗られるのは……」
「ちょっと考えちゃっただけなんですってば……!」
自分、莉花、紗季、純奈を合わせて四人。アイリスこそが、楚の国だった。
「……ろの……わまで……く……い?」
「っ!?」
とどめと言わんばかりに、アイリスの耳元で莉花が何事かを囁く。断片的にしか聞こえなかったが、どうせまともなことは言っていないはずだ。その証拠に、アイリスの顔が耳まで真っ赤に染まっていく。
「か、帰りますっ!」
「お?」
「早く行きましょう! 葵さん!」
「え? あ、はい」
これまでの話の流れを無視していきなり宣言したアイリスに、今度は手首を掴まれた。空いた右手で慌てて鞄を掴む。
「よく分からないですけど、また明日です」
「そういうのはいいですからぁ!」
「っと……」
その小さな体のどこにそんな力があったのか、アイリスにぐいぐいと引っ張られ、出入口の扉へと近付いていく。残された五人に声をかける時間もほとんど与えられず、そのままあっという間に帰宅の途に就くこととなるのだった。
「何を言われたんですか?」
「何って……」
校舎を出てすぐのところで、校門を背にして信号待ちをしている間にそう尋ねてみた。
「うぁ……」
隣に立っているアイリスと一瞬目が合う。だが、奇妙な声を漏らしたかと思えば、ようやく赤みが引いてきた顔を再び真っ赤に染めて俯いてしまった。
「そんなになるようなことだったんですか?」
「こんなにっ、なるような……、ことでした……!」
「こうなってくると、ますます気になりますね」
「聞かないでくださいぃ……!」
両手で耳を塞いで、徹底抗戦の構えである。両目をしっかりと閉じ、そう簡単に話すつもりはないと言わんばかりに口を閉ざしている。
そうこうしているうちに、信号が青に変わった。けれども、目を閉じているアイリスは気付かない。
「ほら、青ですよ」
「ひぁっ……!」
「え」
そんなアイリスの肩を叩き、信号が変わったことを告げる。だが、返ってきた反応は思っていたものとは全く違うものだった。
叩かれた肩だけではなく、何故か全身まで固まってしまっている。それから少しして、ぷるぷると震えながら驚いたように見上げてくる目も、何故か涙目だった。何もしていないはずなのに、何か悪さをしたような気分になってしまう。
「え? 何です?」
「い、今、私の体に触るのはだめですっ」
「さっきはアイリスさんが僕の腕を掴んでたじゃないですか」
何やら必死な様子でそう言うアイリスだったが、一年四組の教室から玄関で靴を履き替える手前まで、アイリスに引っ張られ続けたのは記憶に新しい。あれと今とで、一体何が違うのだろうか。
「私から葵さんに触るのは大丈夫なんですっ。でも、葵さんが私に触るのは……!」
「いやまぁ、そういうことなら気を付けますけど……」
そもそもの話をしてしまえば、自分からアイリスの体に触れること自体がほぼないので、今更何に気を付けるのかという話だが。
「本当にどうしました?」
それよりも、結局気になるのはそこである。今のアイリスの不思議な様子も、元を辿れば莉花の囁きが原因である。一体何を囁かれたのか、どんどん気になってくる。
「うぁぁ……! だめです……! 見ないでください……!」
「話してくれるまで、ずっと見つめましょうか?」
「なんで葵さんまで私を恥ずかしい目に遭わせるんですかぁ……」
「何か恥ずかしいことを言われたんですね」
今の言葉で確信する。アイリスの様子から、半ば予想できていたことだったとしても、だ。
「しかも、僕が関わってるんですね」
「……っ」
そう口にした途端、アイリスの肩がぴくりと跳ねる。これも半ば予想できていたことだが、案の定そうだったらしい。
「白状してしまった方が楽になりますよ?」
「でも……」
「どうせ言ったのは渡井さんですから。アイリスさんが思い付いたことじゃないんですし」
「……」
何が飛び出してくるのか分からなくて怖いという感情はあるものの、それでもアイリスの心の壁を一枚一枚取り除いていく。見るからに揺れているので、あと一押しといったところだろうか。
「何を言われても引いたりはしないですから」
「……ほんとですか?」
「本当です」
「……っ」
アイリスが一度口を開こうとして、再び閉じる。それからしばらく黙り込んだ後、意を決したように莉花の言葉を口にした。
「……『お風呂のお世話までしてくれそうじゃない?』って言われました」
「……」
想像できるはずがない言葉が飛び出してきてしまって、思わず絶句してしまった。もし目の前に鏡があれば、そこには何とも言えない表情をしている自分の顔が映ることだろう。
「引かないって言ったじゃないですか!」
「いや……、アイリスさんにじゃなくて、渡井さんに引いてます……」
「……それならいいです」
どう考えても、この歳の男女にかける言葉ではない。莉花は何を考えていたのだろうか。
「……で、またちょっとだけ想像しちゃいました」
「別にそこまでのカミングアウトは求めてなかったです」
「うぅー! んぅー!」
余計なことを言ってしまったアイリスの叫びが、物理攻撃を伴って自分に叩きつけられる。だが、あまりの恥ずかしさに力が入らないのか、いつにも増して威力が弱い。それこそ、子犬が構ってほしくてじゃれついてくるような、そんな仕草である。
「無理ぃ……!」
「……」
アイリスがある程度落ち着くまでには、まだもう少し時間がかかりそうだった。とりあえずは、再び赤に変わってしまった信号を待つ間、隣からも赤が引くことを願うばかりである。




