26. 努力の結果 (1)
中間試験が無事に終わり、週が明けた六月六日。その日の帰り道のこと。
世間的には何の変哲もない火曜日だが、自分にとっては一つの意味を持った日だった。もっと正確に言えば、アイリスにとって、だが。
「アイリスさん」
「何ですか?」
「どうぞ」
「はい?」
電車を降り、揃って河川敷を歩いて帰宅する中で、鞄から取り出した手の平サイズの箱をアイリスに渡す。受け取ったアイリスは一瞬不思議そうな表情を浮かべるが、やがて合点がいったように、その表情が明るくなる。
「もしかして、誕生日プレゼントですか!」
「ですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
本来ならば何でもない六月六日でも、アイリスの誕生日となれば話は別である。一気に親しくなった後輩のことを祝わないなどということは、自分の中には存在しない選択肢だった。
「チョコレートです」
「わざわざ用意してくれたんですね。そんなに気にしてくれなくてもよかったのに」
「先月知ってしまいましたからね。スルーするのもどうかと思って」
「まるで知りたくなかった、みたいな言い方ですね」
底抜けに明るかった表情に、少しだけ影が差す。やや残念そうに言うアイリスだったが、もちろん知りたくなかった訳ではない。
「違いますよ。少しの間だけですけど、アイリスさんと同い年なのか、と思いまして」
「どういう意味です?」
「そのままの意味ですよ」
「『こんなちっちゃいのと同い年か』ってことですか!?」
「まぁ、当たらずとも遠からず、ですね」
単にそういうことだった。アイリスの誕生日を知った日から分かっていたことではあるが、どうにも「後輩」というイメージが強過ぎて、自分と同じ年齢であるということが受け入れにくいのだった。
「葵さんだって、別におっきくはないじゃないですかっ」
「アイリスさんよりはましです」
「なんてことを!」
それでも、言葉にはしていないので、アイリスにその考えが伝わることはない。売り言葉に買い言葉といった形で反論してしまい、さらにアイリスがヒートアップする。ここ数日で気温が上がってきているが、頬が赤いのはそのせいではないのだろう。もちろん、最近見ることが多い、照れている表情でもない。
「なんで素直にお祝いしてくれないんですかぁ……」
かと思いきや、これ以上言い合っても無駄だと察したアイリスが、その肩をがっくりと落とす。心なしか、普段より体が小さく見えた。口に出せばその怒りが再燃することは目に見えていたので、これは流石に心の内に留めておく。
「僕なりの照れ隠しです」
「照れ隠しで攻撃的になるの、ほんとに意味が分からないです」
「アイリスさんをからかってる間は、特に何も考えなくていいので」
「無心でからかえるってことですか?」
「いい後輩を持ちました」
「何にも嬉しくないです……」
せっかくの誕生日なのに、いつもと変わらない扱いに悲しげな表情を浮かべるアイリス。自分でやっておいて何だが、少し可哀想になってきた。
「これはアイリスさんにとっていい情報なのかは分からないですけど」
だからという訳でもないが、追加で一つ情報を開示する。
「何ですかぁ……?」
「僕が誰かに誕生日プレゼントを渡すのは、これが初めてです」
「ほんとですか!」
そう告げた途端、即座に機嫌が直った。本当にいい後輩を持ったものである。
「だからこその照れ隠し、ですからね」
「そうですか! ……そうですか!」
「……言っておいて何ですけど、そんなに嬉しいものですか?」
初めて誕生日プレゼントを渡したというだけのことだ。しかも、何者でもない人間が。どこにそんなに喜ぶポイントがあったというのか。思わずそう感じてしまう程に、アイリスの笑みはきらきらと輝きを放っていた。
「嬉しいに決まってるじゃないですか。初めて渡すってことは、色々考えてくれたんですよね?」
「それは、まぁ……」
何を渡せばいいのか、あれこれ考えていた時期を思い出しながら曖昧な返事をする。そういったところを見せたくなかったという意味も込めた照れ隠しだったのだが、仲の良い後輩は全てお見通しらしい。
「どうせ葵さんのことですから、初めてじゃなくてもちゃんと考えるんだと思いますけど。とにかく、手探りで色々迷ってくれたことが嬉しいんですよ」
「そういうものですかね?」
「そういうものです!」
自信がありますと言わんばかりの断言である。そこまで言われると、そういうもののような気がしてきた。
「ちゃんと大事にしますね」
「いや、ちゃんと食べてくださいよ?」
「はい! 大事にします!」
「いや、分かってます?」
小さな両手で包み込むように手渡した箱を持つアイリス。大事にしてくれるのは分かったが、本当に食べてくれるのだろうか。先程と同じ勢いの断言だったのに、今回はどこか不安になってきた。
「それにしても……」
「ん?」
そんな自分を尻目に、アイリスの纏う雰囲気がやや落ち着いたものに変わる。
「確かに、これで私も葵さんと同い年なんですね」
「二か月だけですけどね」
どこか感慨深そうにアイリスが言う。八月には自分が十七歳になり、再びその差が一歳になるものの、年齢が同じであるということは間違いない。そもそも、小学生までならまだしも、高校生になってからの十か月の差など、あまり影響がないと言ってしまってもいいだろう。
「同い年って感じがしないです」
「老けてるって言いたいんですか?」
「当たらずとも遠からず、です」
先程アイリスに放った言葉を、そっくりそのまま返される。アイリスと出会ってからほぼ二か月。出会ったばかりの頃は、こんな風に言い返されるようになるなど思いもしていなかった。
「葵さんに十六歳って言われて納得できるのは、見た目だけですからね」
「中身も十六歳です」
「中身はおじいちゃんです」
当たり前の反論をしてみるも、アイリスの認識では、自分は生産年齢人口にすら含まれていなかった。
「失礼な」
「その無駄に落ち着いてる感じとか、まさにそうです」
「無駄に……」
先程の仕返しなのか、やや強烈な言葉に少しだけ傷付いた。周囲からどう見られようと興味はないが、直接言われるのはやはり話が別である。
「何をしても動じてくれないですもん」
「動じてないように見せてるだけですよ」
「じゃあ、内心は違うんですか」
「内心も十六歳ですからね。焦る時は焦ります」
「ほんとですか?」
「本当ですって」
それこそ、最近膝の上に座られた時やウェイトレス服で腕に抱き付かれた時、完全に平常心だったかと言われると、間違いなくそうではなかった。自分も十六歳の男子高校生なので、尋常ではなく可愛いアイリスにそういったことをされると、どうしても緊張はしてしまう。
「分かりました。じゃあ、十六歳になった私の一年の目標は、『葵さんを焦らせる』にします」
自分の内心を何も知らないアイリスが、聞いたこともないような目標を立てて、しかもわざわざ自分に伝えてくる。それを聞くだけでも身構えてしまいそうだが、一体何がしたいのだろうか。
「迷惑極まりないですね」
「もう決めましたから」
「もうすぐ今年は半分終わりますよ?」
「来年の六月までです!」
どうにか止められないものかと思案するが、結局撤回してもらうという目標が達成されることはなかった。
その日の夜のこと。
「これなーんだ?」
帰宅してすぐに冷蔵庫に入れていた大事なプレゼントを、アーロンとレティシアに見せつける。鏡がなくとも、今の自分が満面の笑みを浮かべているのがはっきりと自覚できた。
「あら。さっきから冷蔵庫に入ってた箱?」
「うん。私の」
「僕もレティも身に覚えがなかったから、そうじゃないかとは思ってたよ」
いきなり冷蔵庫に見覚えのない箱が現れたとなれば、誰だって違和感を抱く。アーロンやレティシアもその例に漏れず、しっかりとプレゼントの存在を認識していたようだった。ついでに言えば、自分のものだというところまでばれている。
「貰いもの?」
「そうだよ」
「今日貰ったのなら、誕生日プレゼントだろうね」
当たり前のようにアーロンが言う。朝一番に誕生日を祝われたのだから、その答えに辿り着かない訳がなかった。
だが、自分が言いたいのはそこではなく。
「正解だけど、誰から貰ったかまで当ててね」
このプレゼントを誰から貰ったのかというところだった。誕生日プレゼントを貰えるというのは何歳になっても嬉しいものだが、もちろん誰からのプレゼントなのかという部分も重要である。そういった意味で言えば、このプレゼントは家族以外から貰ったものとしては一番嬉しかったプレゼントかもしれなかった。
「そんなことを言うってことは、一人しかいないわね」
「だろうね」
「あれ?」
簡単には当てられないと踏んでいたのに、アーロンとレティシアはそうでもない様子である。予想外の反応に、思わず首を傾げてしまう。
「もう分かったの?」
「当たり前でしょ?」
「そうだね」
「あなたがわざわざ家族に自慢するような相手なんて、一人しか思い浮かばないもの」
「この前のお土産といい、本当に律儀な先輩だね」
「あ、ばれてる……」
直接名前が出てきた訳ではないアーロンの言葉で、既にばれている確信を得る。二人の頭の中には、間違いなく同じ名前が浮かんでいることだろう。
「大事にされてるわね」
「大事にされてると言うより、お世話になりっぱなしなんじゃないかな」
「そんなことないもん!」
「やっぱり挨拶は必須だね」
半ば無意識に否定する自分を尻目に、何故か意気込むアーロン。とても仲良くしてもらっている先輩を家族に紹介するのは流石に恥ずかしいのだが、そんなことを言っても二人は簡単には引き下がってくれないはずだ。この十六年で、両親の性格はしっかりと把握しているつもりだった。
「写真とかはないのかい?」
「写真……。あ……」
「あるんだね」
「ある、けど……」
未だに直接話したことがないアーロンの方が、どちらかと言えば葵について気になっているようだった。そう問われて頭の中に浮かぶのは、ウェイトレス姿で写った例の写真。誰にも見せるなとは言われたが、よくよく思い返してみれば、それは「学校の関係者には」絶対に見せるな、だったように思える。
(お父さんとお母さんになら、いいかな……?)
この場の誰に聞いても正解が返ってくる訳でもないので、葵の言葉を自分なりにそう解釈する。アーロンとレティシアが誰かに広める訳でもなく、そもそも写真を二人に渡す訳でもない。見せるだけである。
もっと言えば、写真を見せたことがばれたところで、自分が支払う代償は寝顔の写真の公開だ。写真どころか、寝顔そのものを幾度となく見られているアーロンとレティシアに公開しても、自分としては痛くも痒くもない。
「ちょっと待ってね……」
そう結論付けて、スマートフォンを操作する。柚子から貰った何枚もの写真の中から特に顔が見やすいものをピックアップして画面に映し、アーロンに向けて差し出す。
「はい、葵さん」
「どれど……ん?」
「あら」
選んだのは、腕に抱き付かれ、顔を真っ赤にして照れている葵の写真。こうして今見返しても、あの時の葵の可愛さがそのまま蘇ってくるような、最高の一枚と言える写真だった。
その画面を覗き込んだアーロンとレティシアが不思議な表情のまま固まる。男子高校生が写っていると思っていたのに、見せられたのがまさかのウェイトレス姿だった時の衝撃は、経験した本人にしか分からない。
「この子が?」
「葵さん」
「よく似合ってるわね……」
衝撃を受けてはいるものの、レティシア的にはありらしい。にこにこと画面を見つめている。もしかすると、一度直接会っている影響が大きいのかもしれない。
そんなレティシアの反応とは対照的なのがアーロンである。予想外の出来事による混乱からまだ抜け出せていないようで、「我が娘ながらウェイトレス服がよく似合っている」などと呟いて、現実から目を背け始めている。
「私が言ってた意味、分かったでしょ?」
「そうだね……。……本当に男の子かい?」
「ほんとだよ。一応、男子の制服を着てるもん」
「一応……?」
自分がそう答えても、それでもまだ確信が持てないらしいアーロン。それだけ写真の中の葵が性別不詳だということだ。
「ま、まぁ……、一度会ってみれば分かるかな……?」
「自信なさげだね」
「こんな種類の自信を求められる日が来るなんて、考えたこともなかったからね」
混乱したまま口にするアーロンだが、よくよく考えてみれば当たり前の話だった。
「それにしても……」
そんなタイミングで、黙って何枚も写真を眺めていたレティシアが小さく呟く。
「こんな息子がいたらって思っちゃうわね」
「お母さん?」
「あなたも考えたことない? 上でも下でも、とにかくもう一人いたらって」
「ないこともない……、けど」
レティシアの言葉に、やや曖昧な言葉で答える。息子がどうこうという言葉は自分にとって意外な言葉ではあったが、兄や弟という存在を想像したことがないとは言えなかった。自分は一人っ子なので、どうしてもそんな想像をしてしまう瞬間はある。
「こんなに可愛い男の子なら、私は大歓迎」
「そうなると、アイリスよりも上か下、どっちがいいんだろうね?」
ようやく混乱から抜け出したアーロンも、再び会話に加わってくる。
「日本には『一姫二太郎』なんて言葉もあるし、親的にはアイリスの下が楽なのかしらね」
「葵さんが弟……?」
「話を聞いてる限り、どう考えてもアイリスの上のような気もするけどね」
「葵さんが兄さん……」
いつかの駅舎で悪戯程度の気持ちで言った、あの呼び方。あれが現実のものだったら。会話の流れからして、想像せずにはいられない。
「いや……、まぁ、うん。兄さん、かな……?」
「ま、あなたからしたら、それはそうでしょうね」
初めから分かっていたかのように、レティシアが答える。まるで、自分が考えることは全てお見通しと言わんばかりの口調だった。
「しっかりした子みたいだし、手もかからないんじゃないかい?」
「そうね。少なくともアイリスよりは」
「どういう意味? ねぇ?」
「分かるでしょ? 自分のことなんだから」
「分からないもん!」
何やら自分にとって面白くないことを言っているレティシアに聞き返すも、はっきりとした答えは返ってこない。それなのに、先程からずっとにこにこと笑っているレティシアの顔を見ていると、その意図がはっきりと伝わってきた。せめてもの抵抗として分からないふりをしてみるが、それすらも見透かされていそうである。
「ちなみに」
「なに? まだ何かあるの?」
分かりやすく不満そうな顔をしているであろう自分を軽やかに無視したレティシアが、笑みの質を若干変えて言葉を続ける。これまでとは違って少しだけ悪戯っぽい雰囲気が増したその姿に、知らず知らずのうちに警戒心が強くなる。
「その葵さんとあなたが結婚すれば、葵さんが合法的に私達の息子になります」
「けっ……!? またそうやって……!」
警戒したところで、その言葉の衝撃は受け止めきれなかった。思わず言葉に詰まりながらも、一瞬にして頭の中にとある光景が浮かび上がる。
もちろん、式を挙げている光景である。誰と誰の、何の式なのかは、最早言うまでもない。
「考えたことない? あなたがそんなに男の子の話をするのなんて、初めてだと思うけど」
「……ないもん!」
たった今考えたことを隠して、やや強めに否定する。顔が赤くなっていないか不安になる。
「あら」
「なに!?」
「何でも?」
「うぅー……!」
またしても全てを見透かしていそうなレティシアの反応に、とうとう奇妙な呻き声を上げることしかできなくなる。その様子を横から眺めていたアーロンが、小さくぼそりと呟いた。
「何歳になっても、アイリスはレティには勝てないね」
何故か感慨深そうな、それでいて実に楽しそうな、不思議な言葉だった。
その週の金曜日。先週受けた中間試験の答案用紙が全科目返ってきたので、言われていた通りアイリスに連絡する。少ししてから届いた返信は、早いけれども今日でも大丈夫かという問い。特に何も予定はないので、さらに了承の返事をする。
「さぁ、葵君」
「はい?」
碧依が話しかけてきたのは、ちょうどアイリスへの返信を終えた瞬間だった。まるで、スマートフォンの画面を覗き込んでいたかのようなタイミングである。
「点数勝負といこうか。負けない」
「どうしました?」
いきなりやたらと好戦的な碧依。試験の点数がどうこうといった話はした覚えがないが、何か思うところがあるらしい。こちらを振り向いた時には柔らかそうに揺れた髪が、今は闘気で揺れているように感じられた。
「葵君、成績がいいらしいもんね。だから、勝って泣かせる」
「何も繋がってませんよ」
それはもう嫌がらせの発想である。自分は何も悪いことなどしていないはずなのに、だ。
「さぁ、観念して全てを曝け出すんだよ!」
「負ける側の台詞ですけど、大丈夫ですか?」
はしばみ色の瞳にも、しっかりと闘志が宿っていた。どうやら一歩も引くつもりはないらしい。こんな碧依には何を言っても無駄だと悟り、面倒なことを言い出す前にと、まずは国語系から答案用紙を広げていく。
「現代文九十二点、古文九十点、漢文九十点……」
一枚広げる度に、碧依が点数を読み上げる。周囲にも点数がばれるので人によっては嫌がるのかもしれないが、自分は特に気にしない。誰に聞かれようが、点数が変わる訳でもない。
ちなみに、隣で悠と莉花が黙ってこちらを見ていた。その視線は、答案用紙が広げられた机の上に向けられている。
そんな視線を受けながら、続いて数学系。
「数学Ⅱ九十四点、数学B九十六点……」
「碧依の顔から自信が消え始めたな」
「何かを察したみたいだね」
外野二人の言葉通り、目の前の碧依の表情が、点数を読み上げる度に少しずつ変わっていく。最初の自信に溢れた表情はどこへ消えてしまったのか、半分の五科目の開示を終えた時点で、既にその自信が揺らぎ始めていた。
「ま、まだ半分だから。この後が全然だめってこともあるし……?」
「この点数を見て、まだそんなことを考えてるの?」
現実逃避のようなことを始めた碧依に莉花が強烈な一撃を入れているのを尻目に、追い打ちをかける理科系を広げていく。
「物理九十七点、化学百点……」
「うわ……、とうとう出た……。いつかやると思ってました」
「テレビでたまに見るインタビューみたいなことを言うね」
アイリスとの約束があったからだけではないが、三日目のこの二科目は、特に気合いが入っていたタイミングである。結果、碧依の希望を真正面から打ち砕く点数となったのだった。
「一番の得意科目ですから」
「知ってる? 得意科目って、基本一番なの。『一番の得意科目』なんて言えるのは、たった一握りなの」
「関係ない渡井さんまでちょっと壊れ始めちゃってるね」
「僕は碧依さんの相手で忙しいので、そっちの対処は任せました」
だが、生憎今は目の前の碧依を打ち砕くのに忙しいので、莉花の相手まではしていられない。最後に、まとめて日本史と英語系である。
「日本史九十五点……、リーディング九十二点……、ライティング九十一点……」
「あーあ。見てよ、碧依のあの顔。完全に負けたね」
「いや、水瀬さんじゃなくてもほとんどの人は勝てないと思う」
こうして見てみても、今回はなかなかに調子がよかったと言える。一年生の時のことを考えても、一番の出来と言っていい。
「合計、何点ですか……?」
「今計算しますから、ちょっと待ってくださいね」
とうとう泣きそうな顔で敬語になってしまった碧依からの要望を受けて、合計点を計算する。九十点を超えた分だけ九百点に足せばよいので、その合計は。
「九百三十七点です」
「……」
そう告げたところで、碧依が完全に沈黙した。俯いて髪に隠れてしまったその表情は、自分からは見ることができない。けれども、その気持ちは何となく伝わってくるようだった。
「隣にこんな化け物がいたとは」
「ね。高校生三周目くらいなんじゃないかな?」
「老けてるって言いたいんですか?」
「違うよ」
いくら試験の成績がよくても、悠の言葉の真意を当てる問題は不正解だった。試験よりも、他人の気持ちを推察する方が遥かに難しいということである。
「で、その化け物に無謀な戦いを挑んだ碧依は、合計で何点だったの?」
「……八百七十二点です」
「十分過ぎるくらいに高いな。碧依もプチ化け物か」
「それは勝負を挑みたくもなるよね」
悠と莉花がフォローに回るが、碧依の顔が持ち上がることはない。自信があった分だけ、その反動も大きいようだった。
「勝てると思ったのに……」
「残念でしたね」
「その一言が追い打ちって分かってるのかね?」
「分かってると思うよ。湊君、こういうところは性格悪いから」
「聞こえてますよ」
悠と莉花に挟まれた位置に座っているのだから、二人の会話が聞こえて当たり前である。それも織り込み済みの会話なのだろうが。
「……その点数、アイリスさんに見せるつもりなの?」
ゆらりと顔を持ち上げて、何やら含みのある声音で言う碧依。気のせいなのか、若干怯えたような目をしているように思えてしまう。
「そうですね。今日の放課後に来るらしいですよ」
「やめておいた方がいいよ。強過ぎる衝撃は心臓に悪いんだよ?」
「誰の点数がホラー映画ですか」
散々な言われようだが、思いきり怖がるアイリスを見てみたい気がするので、それはそれでありである。小柄で可愛い、まるで小動物のようなあの後輩に、ホラー耐性があるようにはとても思えない。
「少なくとも、私は心を撃ち抜かれました」
「状況さえ違ったら、なかなかそれっぽい台詞なのにね」
「撃ち抜かれて風穴が開いたままだよね」
何かが間違っている碧依の言葉を聞く限り、顔は持ち上がったものの、その衝撃は未だ心の中に残っているらしい。闘志に燃えていた瞳は、今やすっかり消火されてしまっていた。
「アイリスさんが見たいって言ったので、その辺の責任は負いません」
「うわぁ……、強く生きるんだよ、アイリスさん。もしもの時は膝くらいなら貸してあげるからね……」
「それも追い打ちだと思う」
いつでも虎視眈々とアイリスを狙う莉花と、それに突っ込みを入れる悠の声を聴きながら、机の上に散らばった答案用紙を回収する。
放課後になれば、アイリスも自身の答案用紙を持ってくるらしい。個人的には、苦手だと言っていた日本史がどこまでの点数になったのかが気になるところだった。
午後の授業を何事もなく終え、迎えた放課後。碧依達と話しながらアイリスのことを待っていると、その本人からとある連絡があった。
「うん?」
「どうかした?」
スマートフォンの画面を見ながら思わず声を上げると、自分の不思議そうな声が聞こえたのか、悠がそう尋ねてきた。
「アイリスさんから『一年の教室に来てほしい』って」
「一年の教室に? 何で?」
そんな悠に向けてアイリスからのメッセージを読み上げてみたところ、悠の疑問はさらに深まったらしい。
「ですね。理由は書いてませんけど」
「何だろうね。何かあったのかな?」
「多分何もないと思いますよ。いつも自分が二年の教室に行ってばっかりだから、たまには呼び寄せてみようってくらいだと思います」
「予想が具体的過ぎない?」
自分でも理由は分からないが、何故かそんな理由が頭に浮かぶ。アイリスの思考回路を徐々に理解し始めている証拠なのかもしれなかった。それはそれで、ある意味複雑ではあるのだが。
「何? 一年の教室に行くの?」
「えぇ。アイリスさんから呼び出されました」
「へぇ。自分のテリトリーに引きずり込もうって?」
「どこでも負けるつもりはありませんけどね」
「何の話をしてるの……?」
自分と悠の会話を聞いていたのか、莉花も興味津々といった様子で話しかけてくる。その表情は、まるで一緒についていくと言わんばかりのものだった。
「よし! 私も行く!」
表情と言葉が完全に一致した莉花だった。「わくわく」という文字が顔の周囲に浮かんでいるかのような雰囲気の莉花は、止めても無駄だと悟らせるには十分な姿である。
「いいですけど、別に何もありませんよ?」
「ないわけがないでしょ。絶対に面白いことになるって。……誰がとは言わないけど」
「不穏なことを付け足さないでくださいよ」
「大丈夫、大丈夫。湊君じゃないから」
「じゃあいいです」
てっきり自分が大変なことになるのかと思っていたが、そうでないなら何も気にすることはない。莉花の頭の中で大変なことになっているのは、恐らく瑠璃色と菜の花色が特徴的な、大事な後輩なのだろう。
「羽崎君も来るでしょ?」
「え? いや、そのつもりはなかったけど……」
当たり前のように悠を誘う莉花だったが、当の悠にはその気はなかったらしい。予想外の誘いを受けて、驚いたように目を丸くしている。
「常識人枠が必要でしょ? はい、決定」
「あ、はい……」
「常識人なら僕がいるじゃないですか」
「化け物は常識人とは言わない」
「失礼な」
こちらは自分も予想していなかった理由で、悠の同行が決定した。何故か自分が常識人扱いされていないことも気にはなったものの、その言い方だと、莉花自身も常識人ではないということになる方が気になってしまった。あるいは、それすらも自覚しているか、である。
とにかく、こうなると莉花があと一人に声をかけるのは目に見えていた。
「碧依は? 行く?」
「行く!」
アイリスからのメッセージを口にした時からずっとそわそわとこちらを見ていた碧依も、晴れて一緒に一年生の教室に向かうこととなるのだった。
「そういえば、アイリスさんが何組なのか知りませんでした」
「は?」
一年生の教室がある階は二階である。数か月前まで高校生活の大半を過ごしていた階に向かうべく全員で階段を下りた辺りで、ふとそんなことに気が付いた。よくよく考えてみれば、これまで一度もアイリスの教室を訪ねたことがなく、そして尋ねたこともなかった。
「初めて会ったのっていつよ?」
信じられないものを見るような目をした莉花が、わざわざそんなことを確認してくる。あの鮮烈な出会いを忘れるなど、そんなことが起こるはずがない。
「四月の初めです」
「今は?」
「六月ですね」
「何か月経った?」
「二か月」
「そんなに経って、クラスを知らないことなんてある?」
やれやれという言葉がよく似合う表情で、莉花が首を横に振る。ご丁寧にも両手が上を向いたまま広げられ、呆れている様子がとても分かりやすく伝わってきた。
「ここに実物が」
「誇らしげに言うな」
軽く右手を掲げながら言ってみたところ、その途端に窘められてしまった。普段は立場が反対なので、実に珍しいことである。
「どうするつもり? 今から聞く?」
「返事があるまで四人で待ってるのもあれですし、一つずつ確認すればいいんじゃないですか?」
「誰が」
「渡井さんが」
「何で?」
答えなど分かりきっていたが、案の定即答で断られた。莉花の性格なら物怖じせずに一年生の教室も覗けると考えたのだが、本人の許可が得られないのであれば、もうどうしようもない。
「聞け。早く」
「はい」
待ちきれなくなったのか、たったの五文字二文で命令される。とても端的で、とても意味が伝わりやすい五文字だった。
そうして急かされてアイリスにメッセージを送ると、あっという間に返事があった。スマートフォンの前で待機していたかのような早さだったが、それにしても早過ぎないだろうか。
「四組だそうです」
「よし、じゃあ行こうか」
初めて知ったアイリスのクラスを四人全員で共有し、呼ばれた本人ではなく、何故か莉花が先頭となって歩き出す。学年が違う生徒が行き交う廊下でも、何も気にしていないかのようにすいすいと進んでいく。やはり、莉花に「物怖じ」という言葉は似合わなかった。
「後ろの方から入ってきてください、らしいですよ」
もうすぐ四組の教室に辿り着くというところで、たった今追加で届いたメッセージを莉花に伝えておく。このままでは、間違いなく前の扉から突入を仕掛けることになる。
「分かった。じゃあ、前から」
「今『分かった』って言いましたよね?」
「冗談だって」
そんなくだらない話をしつつ、とうとう一年四組まで辿り着く。これまで黙ってついてきていた悠と碧依も、自分と莉花の一歩後ろで足を止めた。
「そーっと覗こう? そーっと」
「何を企んでるんですか」
「声が大きい。気付かれるでしょ」
先程の言葉はどうやら本当に冗談だったようで、教室の後ろ側の扉の前に立つ莉花。だが、その声量はこれまでとは比べ物にならない程に小さく、何かを企んでいるのは明らかだった。
正直な話をすれば、その何かも明らかではある。息を潜めて侵入するとなれば、アイリスを驚かせようとしているに決まっている。
「また何かするつもりだよね」
「何をして驚かせるかって話ですよ」
莉花と同じように小声になった碧依も、その狙いには気付いているようだった。もちろん、隣で苦笑いしている悠も。
「あ、行った」
自分達三人の目の前で、莉花が扉をそっと開ける。極力音を立てないようにと気を付けてしまえば、その微かな音は放課後の喧噪の中に溶け込んでしまう。
中の様子を確認した莉花がこちらを見て頷く。どういう意味なのかは、もう言うまでもない。どうやらまだ見つかっていないらしい。
そして、莉花だけがその身を教室内に滑り込ませる。自分達からも見えるように、扉は開いたままである。
「……」
一体何が起こるのだろうかと考える自分の視線の先に、見慣れたアイリスの後ろ姿が現れた。座っている位置からして、出席番号は二十八番らしい。廊下に近い側の、やや後ろの方の席だった。
その席へ、莉花が徐々に近付いていく。周囲の友人と話しているのか、アイリスがその接近に気付くことはない。
やがて、その背後に辿り着いた莉花が、静かにその耳に口を近付ける。
「息を吹きかけようとしてるね、あれ」
「ですね。面白いものが見られると思いますよ」
「二人共止める気はないんだね」
莉花が何をするのか察した碧依と、軽く頷き合いながら答え合わせをする。唯一の常識人枠として連れてこられた悠の言葉は、そんな自分と碧依を通り抜けて空しく消えていった。
「周りの人は気付くよね」
「それはそうですよ。気付かない方がどうかしてます」
そこまでになると流石に周囲の友人も気付いたようだが、もう遅い。
「ふわぁっ!?」
「あ、やった」
耳に息を吹きかけられたアイリスの肩が、ここから見ても分かる程に飛び跳ねる。突然奇妙な声を上げたアイリスに、教室内の全ての視線が集まっていた。
「なん……!? え!?」
そんな注目を集めるアイリスは、ただ一人混乱の中で戸惑いの声を上げる。勢いよく振り向いて、ようやくそこにいる莉花と目が合ったようだった。ついでに、廊下から眺めている自分達とも。
「一番来てほしくない人が来てる!?」
「あれ……? 何で私が傷付けられてるの……?」
混乱したまま放たれたアイリスの一言。混乱しているからこそ、本心に近い言葉が思わず飛び出してしまったのだろう。メンタルが強いはずの莉花も、流石に不意打ちには弱いらしい。言葉の刃が心に突き刺さったようである。
その辺りでようやく教室内に足を踏み入れる。注目を集めている中へ飛び込んでいくのは面倒ではあったが、気付かれた以上、何もしない方がより面倒なことになるだろう。
「何をしてくれるんですかっ、葵さん!」
「やったのはそこで傷付いてる渡井さんですよ」
「一番来てほしくない……?」
心に突き刺さった言葉を繰り返し呟き、ともすれば涙を流しそうになっている莉花を指差しながら、何故か自分に抗議してくるアイリスを受け流す。それでもアイリスの気持ちは乱れたままなのか、いつも以上に距離を詰めてくる。
「葵さんが連れてきたんだったら同罪です!」
「それなら僕もやっておきますか」
「葵さんは無罪で!」
何もしていないのに同罪になるのなら、せめて莉花と同じことをしておこうという精神で少し近付くと、その瞬間に無罪判決が出た。一体何を想像したのか、アイリスの頬はうっすらと赤に染まっている。
「何をしにきたんですかぁ……」
「アイリスさんが呼んだんじゃないですか」
「こんな登場の仕方は望んでないです……」
「文句はこちらへどうぞ」
そう言いながら、碧依に慰められている傷心の莉花を再び指差す。いくらアイリスが自分に抗議したところで、実行犯は莉花なので意味がない。
「葵さんだって、渡井先輩を止めてくれなかったじゃないですか」
「止められると思います?」
「諦めないでくださいよ」
まだまだ不満が収まらないのか、ややむっとした顔で言うアイリス。だが、いつものように抱き締められなかっただけ、まだよかったと思ってもらいたい。それだけは教室を出る時に言い含めておいた。
「アイリス。もしかして」
そんな話をしているタイミングで、アイリスの友人らしき二人のうち一人が我に返った。何かを気にするようにこちらをちらちらと見ている。
「あ、うん。葵さん」
「やっぱり! 初めまして、星野紗季です! 四組でアイリスのお世話係をやってます!」
「紗季?」
「初めまして、湊葵です。色々なところでアイリスさんのお世話係をしてます」
「葵さん?」
不満のベクトルが変わったらしいアイリスを尻目に、二人して頭を下げ合う。莉花と同じで活発そうだというのが、紗季に対して最初に抱いた印象だった。
「あ、あの……」
そこでもう一人からも声がかかる。こちらは対称的に、どこか落ち着いた雰囲気。近しいのは悠だが、さらに控えめそうな印象である。はっきり言ってしまえば、自分達の中にはいないタイプだった。
「長峰純奈です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。繰り返しですけど、湊葵です」
こちらも同じく頭を下げ合う。やはり、初めて会話を交わす時はこんな形が理想的だ。碧依や莉花との初めての会話は特殊過ぎる。
「葵さん。お世話係って何ですか?」
意識が紗季と純奈に向いていたところで、そんな問いかけと共に、アイリスに軽く裾を引っ張られる。再び視線を動かしてみれば、そこには綺麗な笑みを浮かべるアイリスがいた。綺麗な笑みなのに、纏う雰囲気は何故か全く楽しそうではない。
「何だと思います?」
「お世話をする係ですか?」
「正解です」
「何にも情報がなかったんですけど!」
何と答えても最終的な反応は変わらないように思えたので、適当に受け流す。そもそも、特に意味がない言葉であり、そこまで深く考えて発言はしていない。
「ただの挨拶みたいなものなので、気にしないでください」
「それが挨拶って嫌ですっ」
「じゃあ、頑張ってお世話される側からは卒業しましょうね」
「葵さんからは卒業しませんよ!」
「ストーカーですか」
力強く言いきるアイリスだったが、その言葉は宣言するように言っていいものではない。一体いつまで後輩でいるつもりなのだろうか。
「いつもと大分雰囲気が違うね、アイリス」
「うん。いつもはもうちょっと落ち着いてるんだけどね」
「アイリスさんが落ち着いてる?」
そんなアイリスと自分を見て紗季と純奈がそれぞれそう呟いているが、今まで一度も感じたことがない印象に、思わず首を傾げてしまう。出会ってから二か月と少しが経ったけれども、アイリスが落ち着いている場面を見た記憶がなかった。
「どうして疑問形なんですか?」
「そんな姿、見たことが……、何でもないです」
「今ので誤魔化せると思ってます?」
「誤魔化す気がないです」
「もぉー!」
そう口にした途端、アイリスに両肩を掴まれて思いきり肩を揺さぶられる。視界の中で、瑠璃色と菜の花色が揺らめいていた。アクセントとして、たまに朱色が見える。
「何なんですかぁっ! 私のクラスでまで!」
「場所で僕の態度は変わらないです」
「揺さぶられながら会話してる……」
自分達の様子に、純奈が少し引き気味で呟く。この場においては正しい反応であり、悠と同じく常識人枠の匂いがした。そして、その純奈から自分への印象は、お世辞にもいいとは言えないらしい。
「はぁっ、はぁっ……」
「少しは落ち着きました?」
「何で葵さんの方が平気そうなんですか……」
「鍛え方が違うんじゃないですか?」
「あんなに細い体だったのに……」
一通り自分を揺さぶり終えて疲れたのか、アイリスが微かに呼吸を乱しながら更なる不満を零す。その言葉通りの恨めしそうな目で見られても、今更何かが変わるようなこともない。残った結果は、ただただアイリスが疲れたということだけである。
「はぁ……。で、どうして葵さんだけじゃないんですか?」
これ以上自分を問い詰めても意味がないと判断したのか、ややじっとりとした目付きのアイリスがそう問いかけてくる。視線が一度だけ自分の後ろに向いたことから察するに、恐らくは碧依と莉花のことを言っているのだろう。これまた恐らく、悠に対してそこまでの警戒心は抱いていないはずだ。
「呼び出されたのがばれました」
「こんなはずじゃなかったのに……」
「残念でしたね」
がっくりと肩を落とすアイリスの目論見が上手くいったところなど、今のところは見たことがない。大抵のものは、自分が気付いた時にその芽を摘み取るからなのだが。
そんなアイリスと自分の後ろでは、悠や碧依が自己紹介中だった。莉花はまだ立ち直っていない。
「ねぇ、アイリス」
「うん?」
一緒に来た三人とのファーストコンタクトを終えた紗季が、何かに気付いた様子でアイリスに問いかける。
「何で湊先輩の体が細いって知ってるの?」
「え?」
「あ……!?」
その問いに、全く異なる反応が二つ。一つは、何を言っているのか分からないといった様子のアイリスのもの。もう一つは、何かを考えたらしい純奈のもの。何となくだが、何を考えたのかは聞きたくなかった。
「だって、触ったことがあるから……。あ、そうだ。足も綺麗だよ?」
「触ったことがある……!?」
そこへさらに燃料を注ぐようなアイリスの答えである。純奈の目が驚愕で彩られたまま、自分の方を向く。
「葵君。何したの?」
「何をしたと言うか、何かをさせられたと言うか……」
「うん?」
アイリスとも純奈とも違って純粋に不思議そうにしている碧依に、どこか曖昧な返事をする。
アイリスは間違いなくウェイトレス服を着た時のことを言っている。あの時、確かに上半身は至る所を触られたうえに、足も凝視された。だからと言ってそれを素直に白状すれば、これまでとは違った形で自分に矛先が向くことになるので、はっきりと答えることができなかったのだった。
「結局何も分からなかったんだけど。何で先輩の足のことを知ってるの」
「見たことがあるし……」
「変なことを言ってる自覚ってある?」
「え?」
「だめです、湊先輩。どうにかできませんか?」
「だめってなに?」
一向に様子が変わらないアイリスに諦めの気持ちが大きくなってきたのか、紗季に助けを求められる。自分にも大した策はないものの、幸い切ることができる手札ならあった。正確には、切るのではなく持っていることを見せる、だが。
「アイリスさん」
「はい?」
「……」
「私は何も知らないし、何も見てないよ!」
「え? 何?」
あることをした瞬間に、アイリスがこれまでの態度を一変させる。そのあまりの手の平返し具合は、紗季が困惑するのも当然と言える程である。
「え? 何をしたんですか?」
「内緒です」
何やらもったいぶるように言ってはみたが、何か変わったことをした訳ではない。ただ、ポケットからスマートフォンを取り出しただけだ。画面は真っ暗のままでも、しっかりと意図は伝わってくれた。
「どうして毎回忘れるんですか」
「危ないところでした……」
「危なかったのは僕ですからね?」
仮に誰かに問い詰められたとして、最初にばれるのは自分のウェイトレス姿である。危険度という意味では、寝顔よりも遥かに上だろう。
「お願いですから気を付けてくださいよ? いつでも僕が止められるわけじゃないんですから」
「気を付けます……」
再度アイリスに釘を刺し、この一件は終了にする。あまり長引かせて余計な詮索をされるのも、精神的な意味であまりよくはない。
「アイリスの扱いが上手い……」
「見たことがあって、触ったことがある……!?」
よく分からないところで感心している紗季と、未だにどこかから帰ってこない純奈。果たして、一年の教室までやって来た目的を達成できるのは、いつになるのだろうか。自分が持ってきた答案用紙を広げるまでは、まだまだ時間がかかりそうだった。




