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25. 小さな独占欲

 中間試験二日目の放課後。試験があろうがなかろうが、今日も今日とて二年生の教室にアイリスがやって来ていた。


「答案用紙をですか?」

「そうです。全部の科目が返ってきたら、それを見せてほしいんですよ」

「何でまた」

「話せば長いんですけど」


 何でもない話をしている中でいきなりそう切り出したアイリスが、そこで一度言葉を区切る。どうやら、不思議なお願いをしてきた経緯を話してくれるらしい。


「私の友達が、葵さんに会ってみたいって言うからです」

「短いですし、何も分かりませんでした」


 話せば長いと言うから身構えたのに、一文で終わるうえに、話は繋がっていなかった。これでは何も分からない。


「どうして伝わらないんですか! それでも私の先輩さんですか!」

「渡井さん。好きにしていいですよ」

「よっし! 任せて!」

「うわぁ!? だめです!?」


 全て自身のせいなのに面倒なことを口走ったアイリスを、躊躇うことなく莉花に売り飛ばす。そもそも、教室に来てすぐに莉花の膝の上に乗せられてそのままのアイリスが、好き勝手言っていいはずがなかった。待ち受けるのは莉花の悪戯である。


「分かりました! ちゃんとお話ししますから! だから助けてください!」


 莉花の手がかなり怪しいところまで伸びてきたことに焦ったアイリスが、たまらず白旗を上げる。


「最初からきちんと話してくれたら、こんなことにはならなかったんですよ」

「お話しします! お話ししますって! わひゃぁ!」


 必死に身を捩って莉花の手を躱そうとしているが、膝の上に座らされている時点で限界というものがある。こちらに助けを求める声も空しく、結局脇腹を撫でられていた。


「渡井さん、ストップです。もう解放してあげてください」

「ちぇっ……。もうちょっと遊びたかったのに……」

「うぅ……!」


 アイリスが反省するまでしばらく待ってから、莉花にそう声をかける。いつもなら簡単には引き下がらない莉花だが、ある程度悪戯ができたからなのか、比較的素直にアイリスの脇腹から手を離していた。


 ようやく解放されたアイリスが莉花の膝の上から逃げるように立ち上がる。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「葵君、莉花のことをアイリスさん用の兵器だと思ってるよね」

「渡井さんも、何でこういう時は素直に湊君の言う事を聞くんだろうね?」


 隣で悠と碧依が何かを話しているが、何も聞かなかったことにした。それよりも、今は目の前の後輩への対処が先である。


「で、どういうことです?」

「……悪戯された私への慰めはないんですね」

「渡井さん」

「何でもないです!」


 残念そうにしていた天敵を呼び寄せると、間髪を容れずに再びの降伏宣言となった。前提として、一連の流れはお仕置きだったので、慰めがある訳がない。


「慰めもなかったし、慈悲もなかったね」

「あの状態の湊君にあそこまで言えるのも凄いけど」


 無視である。気にしたところで、アイリスの友人が自分に会いたがっている理由は分からない。


「……友達が会いたいって言ってるのはほんとです」


 そうこうしているうちに、アイリスがようやく経緯を話し出す。


「別にそこは疑ってないですよ。好きに会いに来たらいいです。どうして答案用紙が必要なのかって辺りを詳しく」

「葵さんに色々教えてもらったってお話をしたんです。その時に、葵さんの成績のことも。そしたら、点数が見てみたいって」


 どうやらそういうことらしかった。詳しく話してもそこまで長い話でもないのに、何故あんな省略してしまったのだろうか。しかも、そのせいでお仕置きを受ける羽目になっているのだから、疑問はより一層深まるばかりである。


「最初からそう言ってくださいよ。それならこの人は使わなかったのに」

「ねぇ。今、私のことを物扱いした?」

「素直に持ってきてくれるかなって、ちょっと考えちゃったんですよ」

「恥ずかしい点数を取るつもりはないので、その辺は大丈夫です」

「ねぇ」


 そんな疑問は一旦置いておいて、アイリスにそう告げる。見られて恥ずかしいことなどないので、心配しているようなことは起こらないはずだ。


「じゃあ、全部返ってきたら教えてもらってもいいですか?」

「えぇ。期待通りの点数を取っておきますよ」

「強者の発言……」


 他人に見せるとなった以上、恥ずかしい点数を取る訳にはいかない。もう終わった分はどうしようもないとして、明日と明後日の分はいつも以上に気合いを入れて解くと心の中で決める。


「全然反応してくれないんだけど!」

「よしよし、辛かったね。あそこは今、二人の世界だからね」

「意味は大分違うと思うけど」


 途中から無視し続けた莉花が、とうとう碧依に泣きついていた。碧依も碧依で誤解しか招かない発言をしているので、常識人枠として悠が突っ込みを担当してくれているのがありがたい。


「さて、それはそれとして」

「はい?」

「アイリスさん」

「な、何ですか……?」


 会話が完結している三人はそのままにしておいて、アイリスに向き直る。自分の雰囲気が変わったことを察知したのか、アイリスが及び腰になっていた。


「どうして勝手に他人の成績を公開してるんですか?」

「……あ」


 そう告げたところでアイリスも自身の失態に気が付いたのか、小さく声を漏らす。


「僕は気にしないですけど、人によっては嫌がるかもしれないですよね?」

「そ、そうですね……?」

「悪いことをした子には、何が待ってると思います?」

「……お仕置き、ですか……?」


 恐る恐るといった様子で口にするアイリス。そうであってほしくないと願いながらだったのか、少しだけ視線を彷徨わせながら、上目遣いで見つめてくる。


 だが、残念ながら正解である。


「よく分かってるじゃないですか。ということで」

「ひぁ……!」


 一歩近付く。アイリスが一歩下がる。さらに一歩近付く。アイリスがさらに一歩下がる。いつまでも無限に続きそうなそのやり取りは、それでもこの場に限っては有限だった。


「あっ……」


 自分達四人の席が固まっているのは、教室後ろの壁近く。あっという間に、アイリスが壁際に追い込まれた。これ以上逃げられないことを悟ったアイリスが、焦ったように口を開く。


「あ、あの……! 何を……!?」


 莉花から解放された時とは比べ物にならない程の涙目に少しだけ心が揺れるが、今後のため、アイリスのためと、その心を鬼にして相対する。


「楽しそうだよね、葵君」

「なかなか見られないタイプの湊君だね」

「写真……」


 早くも立ち直った莉花の辺りからシャッター音が聞こえるが、やはりこれも無視する。あちらこちらに対応していては、目の前のアイリスに逃げられる可能性がある。


「さて」

「……っ!」

「渡井さん、いいですよ」

「そっちですか!?」

「任せて!」

「ぐむぅ!」


 振り返って許可を出した途端、目にも留まらぬ早業で莉花がアイリスを腕の中に収めた。これまでスマートフォンを構えていたはずなのに、何故ここまで素早く動くことができるのだろうか。


「ついでに碧依さんもいいですよ」

「いいの!?」

「んんぅー!?」

「じゃあ、失礼して!」

「……っ! ……っ!」


 前後から碧依と莉花に抱き付かれる形になり、とうとう声すらまともに聞こえなくなった。碧依と莉花の間からはみ出した両腕が、二人からの逃げ道を探すようにばたばたと動き回っている。


「これでよし」

「何その『一仕事終えた』みたいな台詞」

「いい仕事をしました」

「凄いことになってるよ、あれ」

「お仕置きですから」

「それってそんなに便利な言葉じゃないよ」


 悠からはそう言われてしまうが、ああなった碧依と莉花はもう誰にも止められない。止めようとして割り込んだが最後、自分も面倒事に巻き込まれるに決まっている。できることといえば、ただただ成り行きを見守ることくらいだった。




 そんなこんなで三分後。ひたすら抱き締められ、髪を触られ、頭を撫で回され、匂いを嗅がれ、脇腹を撫でられ続けたアイリスが、ようやく解放された。


 ぼろぼろだった。


「最高……!」

「至福の時……!」


 そんなアイリスとは対照的に、碧依と莉花はとても元気そうだった。三科目の試験を受けた日の放課後とは思えないその姿は、まるでアイリスから元気を吸い取ったかのようである。


「協力、ありがとうございました」

「こんなお仕置きならいつでも協力するから! 碧依と二人で!」

「バリエーションを増やしたいので、多分これきりです」

「さらっと恐ろしいことを言うね、湊君」


 いつも同じお仕置きでは芸がないのと、いつでも近くに碧依と莉花がいるとは限らない。次にお仕置きをすることがあるのなら、その時はまた違ったお仕置きを選ぶつもりだった。


「で、懲りました?」


 体力が回復している碧依と莉花は放っておいて、ぼろぼろになったアイリスに向き直る。そんなはずはないのだが、心なしか身長が縮んでしまったように感じられた。


「もう……、しません……!」

「よろしい」

「うぁ……」


 小さく呻き声を上げるアイリスを見る限りでは、どうやら十分に反省したようである。あるいは、疲れきったからこそ出た呻き声だったのかもしれないが。


「怖いです……。碧依先輩と渡井先輩が……」

「そこは湊君じゃないんだ」

「実行犯はあの二人ですから。僕は唆しただけです」

「何でだろうね。『教唆犯』って言葉が頭に浮かんだよ」

「難しい言葉が浮かんできましたね」

「目の前にいるからかな」


 何を言いたいのかは分からないが、悠の目が真っ直ぐ自分を見据えていた。その目は、まるで自分が教唆犯だと告げているような雰囲気だった。


「何にせよ、そんな風にお仕置きがどうとかやってるから、親子とか兄妹とか言われるんだよ」

「すっかり忘れてました。そういえばそんな風に言われてるんでしたね」

「自覚なしでやってるんだ……」


 そう呟いて呆れ顔を浮かべる悠。どちらかと言えば、諦めの色がやや強いように感じられる呆れ顔である。


「葵さーん……、もう帰りましょうよぉ……」


 悠とそんな話をしていると、気分を沼底に沈めながらも、何とか見た目を整えたアイリスから袖を引っ張られた。どうやら、これ以上碧依や莉花の近くにはいたくないらしい。何をされるのか分からなくて怖いという感覚は自分も知っているので、その提案は素直に受け入れる。


「どんなになっても、葵君と一緒に帰るんだね」

「健気なこと」

「健気、なのかな……?」


 三者三様の感想を受け取りながら、机の上に置いていた鞄を手に取る。


「皆さんは?」

「僕は図書室の当番だから」

「私はその図書室で、明日のお勉強」

「私は部室に寄ってから帰るわ」


 一応確認してみるも、この後の予定は全員見事にばらばらだった。そういうことであれば、自分一人で怯えきった後輩のアフターフォローをしながら帰ることにしようかと、アイリスの方を振り向く。


「碧依先輩と渡井先輩が一緒はだめです……!」


 怯えのメーターが完全に振りきれてしまった後輩が、そこにいた。何か怖いものを見るような目付きで碧依と莉花を見つめ、首を小さく横に振っている。


「あの二人なら、今日はもう襲ってきませんから。安心してください」

「明日からはまた襲ってくるってことじゃないですか!」

「それは止められません」

「諦めないで助けてくださいよ!」

「前向きに検討します」

「助けてくれないやつです!」


 アイリスが懇願してくるものの、人には向き不向きというものがある。自分は碧依や莉花を止めるのには向いていないというだけの話だ。そして、アイリスはその二人に絡まれるのに向いている。


「大丈夫ですって。善処します」

「よくそこまで実行しない人の言葉を並べられますね……!」

「それじゃあ、僕達はこれで」


 いつまでもここで話していても、会話の終わりが見えない。一度アイリスから意識を逸らし、三人に声をかける。


「また明日」

「じゃあね」

「また明日も膝の上に座りに来るんだよ?」

「嫌ですっ」


 最後まで賑やかなアイリスと莉花のやり取りを背に、教室を出る。日陰側になっている廊下の空気は、教室よりも少しだけ涼しかった。




 翌日、六月一日。いつもと変わらず、人影もまばらな朝の駅舎。その中で、昨日までとは明らかに違う点があった。


「おはようございます」

「あ! おはようございます、葵さん!」


 昨日の帰り道で散々フォローしたのが効いたのか、今日のアイリスは少なくとも表面上は元気そうに見えた。


「葵さん、葵さん」


 そのアイリスに、どこか嬉しそうな声音で名前を呼ばれる。だが、表情をよく見れば、嬉しそうとは少し違い、どちらかと言えば楽しそうという雰囲気を纏っていた。どちらも入り混じっているようで、やや複雑な表情なことに変わりはないが。


 何はともあれ。


「衣替え」

「早いんですって!」


 そういうことだった。六月一日といえば、ちょうど衣替えの日。自分が着ている制服が夏服に変わったのと同様に、アイリスの制服も夏服になっていた。


 これが、昨日までとは明らかに違う点。見慣れた上着を羽織った姿ではなく、かなり涼しげな装いだった。白いシャツが、薄暗い駅舎の中でも眩しく目に映る。


「毎回毎回先読みばっかりして……」

「読みやすいアイリスさんが悪いんですよ」

「私の目論見はどうしてくれるんですか」

「知りませんよ。何です?」

「優しいのか、優しくないのか、どっちかにしてくださいよ」


 目論見とやらが気にはなったので、一応尋ねてみる。だが、返ってきたのは答えではなく不満だった。


「どっちかでいいんですか?」

「優しく、お願いします」

「売り切れました」

「優しさが!?」

「残念でしたね」

「次の入荷はいつですか!」

「未定です」

「そんな!」


 アイリスと話していると、話がすぐに本線から逸れていく。これまでの会話を振り返ってみれば、逸れていた時間の方が長いのではないかとすら思えてしまう。


「で、何だったんですか?」


 このままでは話が進まないので、結局自分からそう尋ねてみる。


「どうです?」

「はぁ……?」


 そんな自分の問いを受けて、両腕を広げるアイリス。これはまさか、夏服の感想を求められているということだろうか。


「初めて夏服を着たんですよ?」

「僕は去年で見飽きました」

「大事な! 後輩が! 初めて夏服を! 着たんですよ!」

「分かりましたから。迫ってこないでください」


 わざわざ強調するように一言一言を口にする度に、一歩一歩近付いてくる。目の前まで迫って来られると制服が見にくくて仕方がないのだが、その制服を見てほしいのではないのか。本人は気付いていないだけなのかもしれないが。


「……」

「やぁ」


 謎の掛け声と共に、両手は腰に当てられる。その表情はどこか自慢げで、自信に溢れている。どんな感想を求めているのか、実に分かりやすい後輩だった。


「よくお似合いで」

「ほんとですか!」


 挨拶を交わした時は楽しさが八割、嬉しさが二割といった様子だったのが、そう口にした瞬間、嬉しさが十割に変わる。ちなみに、求められたからそういった感想を言ったのではなく、本当にそう思っている。


「そうですね……。アイリスさんは元気なイメージが強いですから、夏服みたいな軽いイメージの服がよく似合うと思いますよ」

「あれ……?」


 まさか感想が続くとは思っていなかったのか、アイリスの口から奇妙な音が漏れ出す。不思議そうにぱちくりと瞬きを繰り返すその様子を見ながら、さらに口を開く。


「冬服が似合ってなかったってわけじゃないですけど」

「あの……」

「白と金って、案外合うのかもしれないですね」

「うぅ……」

「ウェイトレス服も、夏服の提案でもしてみますか。柚子さんがすぐに準備してくれそうですね」


 言いながら思ったが、何故か四着用意されそうだった。アイリス用に二着だとして、残りの二着が誰用なのかは、今は考えないことにする。


「そ、そこまでで! ストップです!」


 望まない未来を頭の片隅に追いやったところで、恥ずかしさが限界に達したアイリスからストップコールがかかった。見れば、その頬が真っ赤に染まっている。


「勝ちました」

「何で勝手に勝負をしてるんですかぁ……」


 勝手な勝利宣言を受けて、アイリスが困ったように呟く。大半の時間は目が逸らされているが、たまに何かを期待するかのような眼差しが自分の方に向くのはどういった意味があるのだろうか。


「まさかそんなに言われるとは思ってなかったです……」

「言う時はきちんと言いますからね。あんまり舐めてもらっては困ります」

「そんなつもりなんて……」

「全部本心ですからね?」

「分かりました! ありがとうございます! だからこれ以上はっ」


 積極的に仕掛けてくるのに、その割には耐性がなさ過ぎる。よくこれで頻繁に仕掛けてくるものだ。


「よくもまぁ、そんなにすらすらと……。いっつも女の子にそんなことを言ってるんですか?」


 やられっぱなしでは気が済まないのか、アイリスが真っ赤な顔で反撃してくる。だが、苦し紛れの反撃など、威力はたかが知れていた。


「そんなわけがないじゃないですか。アイリスさんにだけですよ」

「うあぁ……!」


 強烈なカウンターを叩き込まれ、とうとうアイリスが壊れたような声を漏らしながら、頭を抱えて顔を逸らす。隙間から見える頬は、反撃してきた時よりもさらに濃い色に染まっていた。


「完全勝利、ですね」

「葵さんを照れさせるつもりだったのに! だったのに!」

「半年早いです」

「意外と近い……!」


 どんな状態でも、律儀に返事だけはしてくれるアイリスだった。




「じゃーん。夏服です!」

「その件はもうやりました」

「ぼこぼこにされました……」

「あれ?」


 アイリスが夏服なら、当然碧依も夏服である。そのお披露目も本日二度目となれば、感想は薄れても仕方がなかった。


「駅でアイリスさんも同じことを言ってましたよ」

「考えることは一緒ってことか」


 そう言いながら、碧依が右隣の席に腰を下ろす。一応フォローはしたものの、それでもまだ昨日の一件が尾を引いているのか、碧依が座った辺りでアイリスの警戒するような雰囲気が強くなったような気がした。


「ぼこぼこにしたの?」

「しました」

「またアイリスさんがじゃれついてたんだ」

「じゃれついてたって何ですか」


 警戒している雰囲気はそのままに、やや不満そうなアイリスが碧依に突っかかる。その不満は、自身の行動をあっさり見抜かれたことに対する不満なのか、それとも表現に対しての不満なのか。正解はアイリスにしか分からないが、何となく両方のような気がした。


「負けるのが分かってるのに、葵君に何か仕掛けたんだよね?」

「ご名答です」


 素晴らしい洞察力だった。まるでその場で見ていたかのような発言である。


「何をしたの?」

「僕のことを照れさせようとしてきたので、反対に褒め倒して照れさせました」

「あぁ、うん。いつもの葵君とアイリスさんだね」


 一度だけ頷きながらの碧依の言葉は、普段自分達のことをどう見ているのかが気になる言葉だった。聞いてもろくな答えは返ってこないということは予想できるので、何も聞かないでおいたが。


「顔、真っ赤だったんじゃない?」

「真っ赤でしたね。可愛かったですよ」

「……っ」

「後ろで反応してるよ」

「分かってます。腕を殴られてるんですから」


 効果音を入れるとしたら「ぺちぺち」くらいの最低威力の打撃で、痛くも痒くもない。顔を見ていないので、アイリスがどんな感情で殴っているのか判断ができなかった。


「写真でも撮っておけばよかったですね。そうしたら見せられたんですけど」

「だめに決まってます」

「今度からはカメラを構えてから反撃しますね」

「だめに決まってますっ」


 否定が二度も重ねられた。それだけ恥ずかしかったということだろう。確かに、反対の立場なら自分も同じように絶対に拒否する。


「残念。今度は私がいるところで照れさせてね」

「任せてください。簡単ですから」

「簡単ってどういうことですかっ」


 その言葉に納得がいかなかったのか、アイリスの声音がより不満そうなものに変わる。そんな声に釣られてアイリスの方を見てみれば、その声音通りの顔がすぐ近くに現れた。


「そのままの意味ですよ、アイリス」


 ややむっとした顔をしっかりと見据え、久しぶりとなるその呼び方を口にする。


「うぁ……!」

「ほら」

「ほんとだ、可愛い」


 効果は抜群だった。先程よりも幾分か薄いものの、それでも一目見て分かる程度には頬が赤く染まっていた。瑠璃色の瞳には、うっすらと涙が溜まっている。


「不意打ちはだめです……」

「アイリスさん可愛い……! 私の膝の上に座らない?」

「絶対に嫌です」


 そんな状態でも、碧依の願いはしっかりと断るアイリスだった。やはり、昨日の一件が尾を引いているに違いない。


「葵君の膝の上なら?」

「……だめです」


 対して、何故かその質問には即答せず、少しだけ間を空けてから答えていた。しかも、少しだけニュアンスが違う答えで、やや迷うような口調だった。


「ちょっと考えたね」

「考えましたね」

「考えてないですもんっ」


 必死に否定するアイリスだったが、どう考えても嘘である。絶対に考えた間だった。


「ま、座ってたところで、お姉ちゃんと妹にしか見えないけどね」

「ん?」

「何?」

「『お兄ちゃん』ではなく?」

「お姉ちゃん」

「……もういいです」


 こちらもどう考えても間違っている発言をした碧依だったが、これ以上何かを言ったところで、何も変わらないのだろう。この上なく純粋な眼差しでそう言っているのだから、労力を割くだけ無駄である。


「葵君が『お兄ちゃん』って感じの甘えた言葉遣いをするのって、何かいいよね」


 そうして抑え込むのを諦めたからなのか、これまでアイリスに向いていたはずの碧依の矛先が、何故かいきなり自分の方を向いた。会話の中で何が碧依の興味を引くのか、未だによく理解できていない。


「いきなり何です」

「葵君さ、イメージとしては『兄さん』とか『姉さん』って言いそうな感じでしょ?」

「まぁ、言うならそうですね」

「そんな葵君が、ちょっと可愛い『お兄ちゃん』とか『お姉ちゃん』って言い方をするのがいいんだよ」


 その辺りの理由を詳しく聞きたかった訳ではないのだが、どうやらそういうことらしかった。自分にはあまりない感覚で、聞いたところで結局よく分からない感覚だったが。


 とにかく、少しだけ興奮しているような碧依の姿には、何故か見覚えがあった。


「いつかも似たようなことを聞きましたね」

「私に続いて! 『お姉ちゃん』!」

「らしいですよ、アイリスさん」

「葵さんが言われてるんですよ」


 面倒になってきたのでアイリスに振ってみたが、残念ながら復唱はしてくれなかった。一体誰にとって「残念ながら」なのかという話である。


「お断りです。せめて、僕より早く生まれてから言ってください」

「それはもう無理でしょ」

「あれ? 葵さん、碧依先輩の誕生日、知ってるんですか?」

「えぇ。宿泊学習の時にそんな話になって」


 意外そうに言うアイリスにそう返しながら、碧依の誕生日を思い出す。確か、十二月十九日だったはずだ。どちらかと言えば、誕生花の「スノーフレーク」で覚えていた。


「そうそう! 葵君ね、異常なんだよ!」

「知ってますよ?」

「二人共?」


 碧依の言い方も言い方だが、当たり前のように返すアイリスもアイリスである。


「一年分、毎日の誕生花とか花言葉とか、全部覚えてるんだよ?」

「全部だったんですか? 少しだけなのかと思ってました」


 片鱗を見せただけのアイリスと、一応は全てを知っている碧依では、反応が違うのは当然のことだった。


「全部ですよ。好きなので」

「そんな男子高校生、どこを探したって目の前にしかいないよ」

「レアキャラだったんですね、葵さん」

「しかも女の子の格好が似合いそうってなったら、それはもう最高レアだよ!」

「好き勝手言いますね」


 何を言い出すかと思えば、何かのゲームらしき例えだった。それこそ、レアリティで言えば二人も大して変わらないだろう。


 何はともあれ、一度噛み合ってしまった会話はなかなか止まらない。碧依のことを警戒していたはずのアイリスがその会話に加わってしまえば、もうストッパーの役割を果たせる者はいない。


 とりあえずは面倒な事態を引き起こしかねない発言だけを刈り取りつつ、適当に聞き流しながら電車の揺れに身を任せるのだった。




「アイリスさんさ」

「はい? 何です?」

「葵君に勝ったことってあるの?」

「ありますよ! 失礼な!」

「嘘だね」

「どういう意味ですかっ」


 駅から高校までの道中。自分を挟んで、アイリスと碧依の間で無意味な戦いが勃発していた。「戦い」と表現するには、碧依の力がやや抜け過ぎているようにも思えてしまうが。


「だって想像できないもん」

「私だって、やればできるんです」

「へぇ? どうやったの?」

「それはですね……」

「アイリスさん」

「はい?」


 興味深そうに尋ねる碧依にアイリスが何かを言おうとして口を開いた辺りで、碧依には見えないように操作していたスマートフォンの画面を向ける。こんなこともあろうかと、あらかじめ準備しておいて正解だった。


「っ!?」

「え? 何?」


 その画面を見た途端、軽く目を見開いたアイリスの口が閉ざされた。そのあまりの変貌ぶりに、碧依が困惑しているのがよく分かる。アイリスの方を向いていて、声しか聞こえていないのに、である。


「どうなるかは、もう分かりますよね」

「はい! もう何も言いません!」

「何?」


 アイリスに向けられた画面に表示されていたもの。それは、図書館で手に入れたアイリスの寝顔の写真だった。早くもこれを使う機会が訪れるなど、自分も想定していなかった。


「よかったです。僕も、これはあんまり使いたくなかったので」

「完全に忘れてました。危ない……」

「なにー? 気になるんだけど!」

「絶対に教えませんよ」


 一人だけ蚊帳の外に置かれた碧依がどうにかして画面を覗き込もうとしてくるので、素早く画面を消して隠蔽を図る。この写真を見せるということは、そのまま自分の例の写真も大公開されるということである。どれだけ頼まれようが、それは認めることができなかった。


「えー? 何だろ……? アイリスさんが見られたくないものっぽいよね?」

「考えちゃだめです」

「画面を見せたってことは写真だよね」

「だめですって」


 アイリスが碧依の思考を止めようとするも、あまり上手くいっていないようだった。行動とは違って頭の中で起こっていることなので、綺麗に止めるのは誰にとっても難しいことだろう。


「何か恥ずかしい写真でも撮られたの?」

「違います」

「合ってるんだね」

「違いますもん!」


 そして、こんなところでも碧依の洞察力が発揮されている。もっと発揮するべき場面はあるはずだが、それをどうこう言う資格は自分にはない。探られているのはどうせアイリスなので、結局自分には関係ない話なのだが。


「恥ずかしいのは本人だけだと思いますよ。正直、撮った側としては可愛いとしか思わなかったので」

「私が恥ずかしいのが問題なんですっ」


 碧依の尋問でアイリスがぼろを出す前に、見せたものが写真であることは認めてしまう。いくら碧依でも、何の写真かまでは特定できないはずなので、写真という情報くらいなら渡してしまってもいいと判断してのことだった。


「……葵君さ」


 そう思っての発言だった訳だが、何故か碧依の目がじっとりとしたものに変わる。明らかにこれまでとは違うことを考えている雰囲気だが、果たして何を考えているのだろうか。


「はい」

「アイリスさんには、すぐ『可愛い』とか言うよね」

「え……?」

「そうですか?」

「そうだよ。他の人に言ってるのなんて、聞いたことがないよ」


 少しだけ驚いたように声を漏らすアイリスを横目に見ながら、軽く思い返してみる。そう言われてみれば、最近はその言葉をほとんど言っていないような気がした。それこそ、高校に入学するまでは毎日のように言っていた言葉なのに、だ。


「……そういえばそうですね」

「でしょ?」

「ほら、アイリスさんには言いやすいんですよ。年下ですから」

「妹みたいだからって言うんですか?」

「そうです」

「またそうやって……!」

「真面目な話ですよ」

「あ、はい」


 何故か複雑そうに顔を歪めるアイリスだったが、自分が真面目な雰囲気を醸し出せば、すぐさまその表情を引っ込めてくれる。聞いてほしい時には話を聞いてくれる、とても素直な後輩なのだった。


 問題は、必ず聞いてくれる訳ではないことである。暴走している時には基本的に聞いてくれない。


「アイリスさんには話したことがなかったと思いますけど」

「はい?」


 これまでアイリスとは色々な話をしてきたが、わざわざこんな話はしたことがなかったはずなので、そう前置きをしてから言葉を続ける。


「中学まで、児童養護施設で生活してたんですよ」

「……そうなんですか?」

「ですね」


 これは流石に予想外の言葉だったのか、少しだけ目を丸くするアイリス。たったこれだけでもデリケートな話題であることを察したのか、何か余計なことを言わないよう、その口を噤んでいる。


「で、そういうところって、色々な歳の子供がいるじゃないですか。それこそ、中学生くらいになると、まず全員年下なんです」

「その子達によく言ってたってことですか」

「そうです。だから、アイリスさんには言いやすいんですよ」

「それはそれで複雑ですけど……」


 どんな感情を露わにすべきなのか、その選択に迷っているらしいアイリスの表情は、なかなか見ることができないような珍しい表情だった。強いて言えば、悲しげな色がやや強い表情だろうか。


「じゃあ、同級生の女の子相手にも言えるように慣れておかないとね」


 横から雰囲気を完全に無視した言葉が聞こえてきたのは、そのアイリスの顔を眺めていたタイミングだった。


「はい?」

「ほら、私はまだ夏服の感想を言ってもらってないよ?」

「だから?」

「感想をちょうだい?」


 もちろん、この場でそんなことを言い出すのは碧依しかいない。微妙な雰囲気を打破するために言い出したのか、はたまた素なのか。個人的には、九割方後者だと思っている。


「はいはい、可愛いです可愛いです」

「感情が一つも込められてないよ!」

「込める感情がありませんでした」

「やり直し。もう一回」

「嫌ですよ」


 リテイクを受けるも、何度やっても無感情にしかならない自信があった。これ以上のやり取りは、きっと意味がない。


「葵さんの『可愛い』は私専用です!」

「過去に大安売りしてましたけど」


 どういう訳かアイリスが碧依に対抗するような反応を見せているが、生憎アイリス専用でもない。一年と少し前までは毎日が大特価だった。


「今は、です!」

「碧依さん」

「うん?」

「可愛いです」

「よろしい!」

「なんでですか!」


 これまたどういう訳か、今度は言葉に感情を込めることができた。その時の気持ち一つでこれだけ変わるのだから、言葉と感情とは本当に不思議なものである。


「つい」

「そんな一言で済ませられるとでも?」

「でも、一番はアイリスさんですよ?」

「……っ」

「はい、今日三勝目です」

「もぉー!」


 不満そうな表情から一転、瞬時に頬を赤く染めたアイリスの叫び声が、空高く響き渡った。




 本日一限目は化学の試験。その最中の出来事である。


(トルエンのニトロ化に使うのは「混酸」。反応しやすいのはオルト位とパラ位、と)


 順調に答案用紙の空欄を埋めていく。時間は残り二十分。最後の大問に取り掛かり始めた今のペースなら、問題なく最後まで到達できるだろう。


 そんなことを考えていると、後ろの席から微かに音が聞こえた。当然見えてはいないが、ペンを置く音だろうか。


(もう終わった……?)


 後ろに座る葵の成績がいいのは知っている。とはいえ、五十五分想定の試験を三十五分で終わらせてしまうのは、やや早過ぎるのではないだろうか。


(でも、化学は得意って言ってたし……)


 いつか悠と話していたのを聞いた覚えがある。その時は軽く聞き流す程度だったが、この早さであれば、確かに得意科目で間違いない。


(絶対に負けないし……!)


 ぐるぐると試験に関係ないことを考えてしまう頭を切り替えて、再び目の前の問題に集中する。


 葵の成績を何となく知った時から、勝手に燃やしていた対抗心。それが今、最高潮を迎えようとしていた。




 化学と物理という理系科目二つの試験を終えた、その日の放課後。


「もう何の抵抗もなく膝の上に座るようになったよね」

「足掻いても強制的に座らされるんですもん。もう諦めました」

「教室に来ないって選択肢はないんだね」

「ないです!」


 碧依とアイリスが何でもないような会話を交わしていた。が、アイリスの状況は何でもないとは言えなかった。現在地は莉花の膝の上。昨日断っていたように思えるのは、気のせいだったのだろうか。


「で、今日はどうしたんですか?」

「いつも通り、何となく来ました」

「大丈夫ですか? クラスに友達います?」

「いますよ! 失礼ですね!」

「その割には、毎日のように来てますよね」


 アイリスとしては失礼な物言いだったのかもしれないが、これでは心配になるのも仕方がない。こんなことを言っているから、保護者だの何だのと言われるのだろう。


「葵さんも、もう放課後に私が来ないとそわそわするようになったんじゃないですか?」

「朝だけでお腹いっぱいです」

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味です」


 にこにこしながらそう言うアイリスだったが、今のところそわそわしたことは一度もなかった。毎朝のやり取りが濃過ぎるので、それだけで一日中一緒にいる気分になるのだった。


「お腹いっぱいになるくらい、満足感があるやり取りってことですね。分かります」

「何も分かってないじゃないですか」

「は?」

「は?」

「何ですか? やりますか?」

「また負けたいんですか?」

「……今日はやめておいてあげます」


 今朝だけで三敗もしたことを思い出したのか、少し押しただけであっさりと引き下がるアイリス。好戦的な割には、意外と冷静に状況を判断することができているようだった。


「湊君もアイリスさんもさ、毎回同じようなやり取りをしてるのに、ほんとに飽きないよね」

「毎回私を膝の上に乗せる渡井先輩もですよ」

「これは日課だから」

「ひぅ……! 今日はもうおしまいです!」


 お仕置きでもないのに莉花の手が脇腹辺りに伸びてきたところで、アイリスが怯えたように声を上げる。恐らくは昨日の出来事を思い出したのだろう。その勢いのまま、莉花の膝から飛び下りる。


「あぁ……! もう少し……!」

「残念そうな声を出してもだめです!」


 莉花はまだ満足できていないのか、体を前に倒し、腕まで伸ばしてアイリスを捕えようとしている。


「動くと捕まえられないでしょうが!」

「捕まえられないようにしてるんですよ」


 アイリスが後退りしながら、伸びてくる莉花の手から逃れる。後ろが見えていないそんなアイリスには、一つだけ言っておかないといけないことがあった。


「それ以上は危ないですよ」

「はい? ……わぁ!?」


 自分の言葉を受けてアイリスが振り返った、その瞬間。後退っていたその足が、自分の椅子に引っかかった。


 当然、いきなりバランスを崩すことになったアイリスは、そのまま後ろに倒れ込む。着地する先は、これまた当然自分の膝の上しかない。それ以上後ろに倒れないように、その背中に手を回す。


 結果、膝の上での横抱きが完成した。


「いらっしゃいませ」

「あの……? え……?」


 まだ混乱の渦の中にいるアイリスは、状況が正しく把握できていないらしい。恐らく、この場で一番正しく理解しているのは、すぐさま写真を撮り始めた碧依だろう。


「えっ!?」

「ないとは思いますけど、怪我とかは大丈夫ですか?」


 驚きの声を上げるアイリスに、一応怪我の確認をしておく。こう表現するのもどうかとは思うが、しっかり受け止められたので、怪我はしていないと信じている。


「私は大丈夫です!? 葵さんの方こそ……!」

「それこそ何も。軽いですからね」

「よかっ……、誰がちっちゃいんですか!」

「まだ混乱してますね?」


 アイリスが小柄であることは否定しないが、今は誰も一言もそんなことは言っていない。真に心配するべきは、怪我ではなく混乱したままの思考の方だったのかもしれない。よくよく見れば、瞳の中に渦巻きができていそうな程の混乱具合が窺える。


「……っ!?」

「あ、気付いた」


 そんな一部始終を眺めていた莉花の一言。その言葉通り、ようやく何かに気付いた様子で、アイリスが顔を伏せていた。


「どうよ? 湊君の膝は?」

「ひ、膝……! あの……! えっ!?」


 気付いたところで、混乱から抜け出せる訳でもないのだが。むしろ、より深く渦に巻き込まれている印象があった。


「……結構なお点前で!」

「お茶だってさ」

「ちょうどいい苦みがあって堪りますか」


 その結果がこの感想である。アイリスの混乱具合を分かりやすく表す感想だった。


「ほら、アイリスさん」

「あ! はい!」


 それでも、促せばすぐに立ち上がってくれた辺り、回復傾向にはあるようである。


「ごめんなさい……」

「さっきも言いましたけど大丈夫ですって」

「うぅ……」

「ちなみに、私は少し見えました」


 自らの失態を悔やむかのように顔を伏せるアイリスに向けて、何の脈絡もなく莉花がそう切り出す。一体何を見たかは分からないが、ろくでもないものという予想は恐らく外れないだろう。


「何を見たんですか?」

「スカートの中」

「うぁ……!」


 予想通り、ろくでもないものを見ていた。倒れ込んだ時にスカートが舞い上がってしまったのだろう。正面に座っていた莉花には、その中が見えてしまったらしい。


 とんでもない暴露を受けたアイリスが、呻き声を上げながらスカートの裾を何とか伸ばそうと頑張っている。何故か身に覚えがある仕草だった。


「可愛かった」

「言わなくていいです!」

「湊君も見た?」

「見たんですか!?」

「見えるわけがないです」


 顔を真っ赤にして問い質してくるアイリスだったが、正面にいた莉花だから見えたのだ。横から抱える形になっていた自分から見えるはずがない。


「よかったぁ……」

「もし見えてたら、遠慮なく感想聞いたんだけどな」

「新たな責め苦を考えないでくださいよ」


 自分が感想を言うのも、アイリスがそれを聞くのも、どちらにとっても苦痛しか存在していなかった。実に画期的な拷問である。


「葵君、葵君」

「はい?」

「こんな感じ」


 莉花の恐ろしい思考の一端に触れたタイミングで、ひたすらシャッターを切っていた碧依が自身のスマートフォンの画面を向けてきた。そこには、膝の上にアイリスを乗せる自分の姿が表示されている。


「どうしろと?」

「いい写真だと思うんだ。ベストショットはこれだね」


 碧依がそう言いながら何度か画面を操作して、新たな写真が表示される。最初に見た、アイリスが明後日の方向を向いている写真ではない。しっかり自分と目が合い、頬が徐々に色付いていく途中の写真だった。


「何勝手に撮ってるんですかぁ!」

「『撮るしかない!』って思っちゃって」

「消してくださいっ」

「やだ」


 何故かは分からないが、似たようなやり取りをアイリスと繰り広げた覚えがあった。あの時も写真を消してもらうことに失敗していたが、どうやら今回も失敗に終わりそうである。


「葵君にも後で送ってあげるね」

「どうしろと?」

「受け取っちゃだめですからね! 葵さん!」

「無理では?」


 半ば懇願するようにアイリスがそう言ってくるが、碧依から勝手に送られてくるものは止めようがない。方法が全くないとは言わないが、写真を受け取らないためという理由で行うには、やや過剰な対応である。


 つまり、理不尽な要求にも程があるということだった。


「で、どうだった?」

「何がです?」


 アイリスと碧依が写真を巡っての攻防を繰り広げる中、そのアイリスには聞こえないようにしながら、莉花が何かを求めてくる。


「アイリスさんを膝に乗せた感想」

「ノーコメントで」


 小さくて軽くて、甘くていい香りがしたなどとは、口が裂けても言えなかった。

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