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24. 出来ること、出来ないこと (2)

 小さな音がした。目の前の教科書とノートに集中していたので、気付くのに一瞬だけ遅れてしまった。


 そんなことを考えていると、もう一度同じ音がした。少し高めの、小さな音。何の気なしに顔を上げ、そして隣を見る。


 そこには、顔を真っ赤に染めたアイリスがいた。


「休憩にしますか」


 何故かは分からないが、そろそろ休憩にした方がよさそうな気がした。時計も見ていないのに、どういう訳か時間が把握できているような気もした。


「何で今言ったんですか? ねぇ、葵さん。何でですか?」

「他意はないです」


 相変わらず顔を赤くしたまま、アイリスが詰め寄ってくる。若干体を引いて目を逸らしながらそう答えてみるも、アイリスの勢いは止まらない。


「ありますよね? 素直に言ったらどうなんですか?」

「可愛い音でしたね」

「あぁぁ……!」


 火傷をすると分かっていて、どうしてここまで詰め寄ってくるのだろうか。本人に望まれて素直な感想を口にした瞬間、アイリスの両手が未だに赤みが引かない顔を覆い隠すように動く。


 時計を見れば、既に正午を回って昼食にぴったりの時間になっている。つまりは、アイリスが空腹で抗議の声を上げたのだった。音だったが。


「集中してましたもんね。お腹も空きますよ」

「そういうフォローはいらないんですよぉ……!」

「じゃあどうしてほしかったんですか」

「何も聞かなかったことにしてほしかったです……!」

「何も聞いてないですけど、お昼にしましょうか」

「下手! フォローが下手!」


 これまた望まれてフォローをしてみた訳だが、どうもアイリスの望んでいたものとは違うようだった。恥ずかしさからなのか、微かに涙が浮かんだ瑠璃色の瞳が、抗議の意味を込めて自分を睨んでくる。


「僕もそろそろ休憩したかったですし、ちょうどよかったです」

「誰のお腹がちょうどいいですかっ」

「被害妄想が凄いんですよ」

「それで!? お昼はどうするんですか!?」

「そこは乗るんですね。あと、ちょっとだけ声は落としましょうか」

「あ、はい。ごめんなさい」


 ここが図書館の一室だということを忘れていそうなアイリスを軽く窘める。近くの部屋に人の気配はないので、今回もきっと誰にも聞かれていないことだろう。


「お腹が空いて気が立つのも分かりますけど」

「葵さんのっ! せいですっ! よっ!」


 せっかく周囲が静かな空間であることを思い出したのに、結局声を落として叫ぶという、やけに器用な芸当を見せるアイリス。ずっと頬が赤いままなのは、恥ずかしさ以外にも別の理由がありそうだった。


 自分の体からも音がしたのは、そんなタイミング。アイリスのものより、幾分か低い音だった。


「……」

「……」

「いやまぁ、僕も人ですから、こういう音だってしますよ」

「今、どんな気持ちですか?」


 これまで散々からかわれた仕返しをしようとしているのか、アイリスの顔にはにやにやとした笑みが浮かんでいる。心なしか、声音もそんな感情に引っ張られていそうなものに聞こえる。


「お腹が空きました」

「それはそうでしょうけどっ」


 だが、そう簡単にはアイリスの思惑通りに事は進まない。


「男がこの音を聞かれたところで、特に何とも思わないですよ」

「ずるい……!」


 すぐさま悔しそうな表情に変化したアイリスにそう言われるも、何を恥ずかしいと思うのかは人それぞれである。自分はこの音を聞かれても恥ずかしくなかったという、ただそれだけのことだ。


「とりあえず片付けましょうか」


 こうしていても空腹が満たされる訳でもないので、アイリスから視線を外して片付けを始める。そんな自分の動きに釣られたのか、やや不満そうにしながらも、アイリスも同じように教科書類を片付け始めた。


「この部屋、一応午後も取ってありますけど、どうします?」

「どうするって?」

「一階にレストランが併設されてるので、そこでお昼を食べて戻ってくることもできます」

「葵さんは午後も時間はあります?」

「一日暇ですよ」

「じゃあ、午後もお願いしていいですか?」

「もちろん」


 そんな話をしているうちに、アイリスの片付けも終わる。この部屋はまだ使えるが、鍵が掛かる訳でもない部屋に荷物を置いていくのは不用心である。面倒ではあるが、全ての荷物を持っていった方が無難だろう。


「お待たせしました」

「じゃあ、行きましょうか」


 そうして二人して部屋を出る。館内の様子は来た時とあまり変わらず、人気が少ないままだった。好きな場所としては寂しいが、町の図書館はこんなものだ。


 館内が静かだったからなのか、隣からまたもや可愛い音がした。何かを考えるより先に、思わず視線を向けてしまう。


「何ですか?」


 まるで時間が巻き戻ったかのようなアイリスの顔。じっとりとした目でこちらを見つめている。


「いえ、別に」

「素直が一番ですよ」

「可愛い音でしたね」

「あぁぁ……!」


 どうして同じことを繰り返しているのだろうか。これまでもそうだったが、アイリスの考えることがよく分からない。


「いつもはこんなに鳴らないのにぃ……!」

「頭を動かすのって、意外とエネルギーを使いますからね」

「その言い方だと、私が普段頭を使ってないみたいじゃないですか……」

「ちゃんと気付ける辺り、しっかり頭は回ってそうですね」

「フォローに罠を仕掛けるのはやめてください」


 たまに本能で会話していそうなことがあるとは思ったが、わざわざ口にはしない。口にした時にどうなるかなど、簡単に想像できる。


 周囲の迷惑にならないよう小声で話しながら階段を下り、一階へ向かう。受付近くの扉を抜けた先が、目的の場所である。話していたレストランに入った瞬間、空腹を強烈に刺激する匂いが漂ってくる。これまで元気なお腹の音を隠していたアイリスは、我慢ができないといった様子で厨房の方に目を向けている。


 そうこうしているうちに、近付いてきた店員にテーブル席へと通される。休日のお昼時ではあるが、客の数は少なく、埋まっている席もまばらだった。


「ここで一日過ごせそうじゃないですか?」

「たまにここで一日過ごしてますよ」


 メニューを開きながら、アイリスがすっかり元通りの声で言う。言ってはみたものの、まさか本当にそんな人がいる訳がないと思っていそうな口調だったが、実際に一日をここで過ごしたことがあるのが自分だった。


「友達少ないんです……、何でもないです」

「あと『か』だけじゃないですか」


 驚いて口が滑ったのか、それともこれまで散々からかわれたことへの仕返しなのか、いきなり強烈なことを口にするアイリス。何かを誤魔化すように目を逸らして口を閉じたが、そこまで言ってしまっているのなら、それは途中で止めたとは言わない。


 声の調子からして、冗談なのは何となく理解できたが。


「まぁ、多くはないです」

「あれ」

「あんまり社交的なタイプじゃないですからね。一人でいるのも苦にならないですし」


 またしても意外そうにしているアイリスだが、心のどこかでは分かっていたのではないだろうか。その証拠に、「社交的なタイプではない」と言った時には、表情があまり変化していなかった。


「結婚しなくても、何とも思わないタイプですね」

「どうして結婚の話に飛んだのかは分からないですけど、確かにそうですね。一人で生きていけます」

「葵さん、何でも一人でこなしそうですもんね。ちなみに家事は?」

「一通りできます。一人暮らしなので」

「もう何ができないのか聞いた方が早そうです」

「運動全般がだめです」


 尋ねられたから答えたが、こればかりはどうにかなった試しがない。何をやっても、下手ではないが、よくて平均程度にしかならないのが自分だった。


「それはイメージ通りですね」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味ですよ」


 にこにこと優しそうな笑顔を浮かべるアイリス。どんなイメージなのかを問い質したい気持ちが湧いてくるものの、今のアイリスにはもっと効果的な反撃方法がある。


「そんなことを言ってるアイリスさんは? 家事とか」

「……」


 尋ねた瞬間、無言でそっと目を逸らされた。


「どうして目を逸らしたんですか?」

「いえ? 別に?」

「素直が一番ですよ」

「……」


 ちらりと。明後日の方向を向いていた視線が、一度だけ自分の方を向く。あと一押しである。


「素直に言えば褒めたんですけどね」

「あんまり得意じゃないです……」

「でしょうね」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味ですよ」


 ようやく認めたアイリスに、先程言われたことをそっくりそのまま返す。少しだけ口を尖らせるアイリスだったが、残念ながらその資格は持っていないはずだ。


「褒めてくれるんじゃないんですか?」

「どこを褒めるんですか?」


 表情そのままに不満そうに言うアイリスだが、「家事ができなくて偉い」という発言は、どこをどう切り取っても異常者の発言である。もちろん、自分が言えるはずがなかった。


「こうなったら、絶対に家事万能になって葵さんのことを泣かせてみせます」

「目標はそれで合ってます?」


 仮にアイリスが家事万能になったとして、一体何がどうなったら自分が泣くことになるのだろうか。自分には皆目見当がつかないが、アイリスの中では何らかの道筋が見えているらしい。


「それじゃあ、頑張って僕を超えてみてください。期待してます」

「うわ、強者の発言じゃないですか」

「自分で言うのもあれですけど、相当得意ですからね」


 一人暮らしを始めたから、家事が得意になったのではない。家事が得意だったから、何の苦もなく一人暮らしを始められたのだ。幼い頃からの家事の経験は伊達ではない。


「……いきなり自信がなくなってきました」

「とりあえず、今頑張らないといけないのは家事じゃなくて勉強ですね」

「はーい……」


 そう言われて納得してしまったのか、声が少しだけ沈んだアイリスと一緒にメニューを捲る。一人で来ている時にはあまり選ばないものにしてみようかと考えながら、載っている写真をあれこれと眺めるのだった。




 昼食を終え、個室に戻ってきたのは午後一時二十分。実際そこまで使うのかは分からないが、この部屋は念のため午後五時まで予約はしてあった。


「科目を変えた方が、気分転換になっていいですよ」

「勉強は勉強の気分転換にはならないんです」

「意見の相違ですね」

「いや、これは私が正しいと思います」


 やけに強気なアイリスだったが、そもそもの話、この部屋でできることは試験対策しかない。気分転換になってもならなくても、いずれ科目が変わるのは当然のことだった。


「でも、科目は変えます」

「何にです?」

「これです」


 そう言ってアイリスが取り出したのは、得意科目らしい化学の教科書。新しく購入してからまだ日が浅いからなのか、表紙は日に焼けておらず綺麗なものだ。


「苦手なものは後回しにするタイプですね」

「その通りです……」

「テストに向けてってことなら、それでもいいと思いますよ」

「あれ? 怒られるのかと思ってました」


 やや気まずそうにしていたアイリスが、微かに拍子抜けしたような雰囲気を纏い始める。その雰囲気と言葉から察するに、自分から何か小言のようなものを言われると思っていたのだろう。


「勉強って、どうしても始める時のハードルが一番高いですから。得意科目から始めれば、それも多少は下がると思いません?」

「確かに……」

「調子が出てきたところで、苦手科目を始めたらいいんですよ」


 これもあくまで個人的な意見ではあるが、最初から苦手科目に取り掛かるよりは、精神的に幾分か楽になるはずだ。そして何より、余計なことを言って、やる気があるアイリスの邪魔をするようなことはしたくなかった。


「そういうことなら、僕も化学にします」

「そういうことなら?」

「同じ科目をやってた方が、教える時に対応しやすいですから」


 アイリスと同じく化学の教科書を取り出して、ノートと一緒に机の上に置く。表紙が綺麗なままなのは同じだが、学年が一つ上なので、より専門的な内容になった教科書だった。


「……もしかして午前中も?」


 自分の言葉で何かを察したのか、窺うような目付きでアイリスがそう口にする。これまでもそうだったが、身長差で上目遣いになっていて、何となく直視しにくい。


「そうですね」

「わざわざありがとうございます」

「気にしないでください。中間の対策は全部終わってますし」

「この優等生先輩め……!」


 気付かれない程度に目を逸らしながらの返事だった訳だが、狙い通り、どうやらアイリスには気付かれなかったようだった。そんな自分の思惑も知らずに悔しそうな顔を浮かべるアイリスだが、こちらには成績を落とせない理由があるのだから当然の行動である。


「ほらほら、そういうのはいいですから。続きを始めますよ」

「はーい。よろしくお願いします」


 その言葉をきっかけに、アイリスが教科書を開く。その手付きは、午前中よりも少しだけ軽やかなものに見えるのだった。




 またしても小さな音がした。先程とは違い、今度は息が漏れるような、微かな音。


 腕時計で時間を確認してみれば、いつの間にか午後三時になっていた。手元のノートに、様々な有機化合物を含んだ化学反応式を書き込んでいる最中の出来事である。


 規則正しいその音に顔を上げて隣を見てみれば、午前と変わらず、そこにはアイリスがいる。ただし、その目が合うことはなかった。


「……」


 体を机に伏せて、顔はこちら向き。穏やかな顔で、安らかな寝息を立てていた。


「……」


 一旦集中が途切れたタイミングで、体を伸ばしながら思う。昼に休憩を挟んだとはいえ、人間が効率よく集中できる時間には限界がある。きっと、その反動が今やってきたのだろう。


「……お昼も食べましたしね」


 そこに食後の眠気が加わって、抵抗できずに眠ってしまったということらしい。そうして意識してしまうと、自分までもが眠気に襲われているようにすら思えてしまった。


 気のせいだと思いたい眠気を振り払うようにそっと立ち上がり、アイリスの背後に回り込んで、着ていた上着を肩に掛けておく。この気温なら風邪を引くことなどそうそうないとは思うが、もしかしたらということもある。時期も悪いので、用心しておくに越したことはないだろう。


 立ち上がった時と同じように、そっと席に着く。アイリスがいつ起きるのかは分からないが、しばらくはそっとしておこうと決めて、再び机の上のノートに意識を集中させるのだった。




「んぅ……」


 寝ていたアイリスからそんな声が聞こえてきたのは、午後四時半頃のこと。この部屋を出るまで、あと三十分となったタイミングだった。


 うっすらと開いた瞼の隙間から、いつもの瑠璃色が見えていた。寝起きだからなのか、その色はいつもよりも少し暗い気がする。


 その瞳が、自分の姿を捉える。状況が理解できなかったのか、不思議そうに何度か瞬きを繰り返した後、一気に光が宿った。


 次の瞬間、アイリスが勢いよく体を起こし、そして周囲を見回す。表情がどんどん焦ったようなものに変わっていった。


「おはようございます」

「お、おはよう、ございます……」

「よく寝られました?」

「はいぃ……!」


 ようやく頭が回り始めて状況が正しく理解できたのか、小さな体をさらに小さく丸めている。自らが頼んで勉強会を開催したのに、その場で寝てしまったということで罪悪感に駆られているのだろう。


「ごめんなさい……」


 案の定である。体を小さく丸めたまま、静かな部屋だからこそ聞こえる程度の声で申し訳なさそうに謝ってくるアイリス。その心の内は、どんな言葉で伝えられるよりも、態度が分かりやすく物語っていた。


「何か謝ることでもありました?」

「いや、だって……」


 自分に迷惑を掛けた訳でもないので謝る必要などないのだが、やはり居眠りをしてしまった側からすれば、そう簡単に済ませていいことではないらしい。相変わらず暗い表情のアイリスは、まだ何かを言おうとして、けれども上手く言葉を見つけられずに口を閉ざしてしまう。


「きちんと勉強してるのは見てましたから。少しくらい休憩したって、誰も文句なんて言いませんよ」

「でも、わざわざ来てもらったのに……」

「その本人が気にしてないんですから、アイリスさんがこれ以上気にしても仕方ないです」

「はい……」


 そう言いながら、書架から持ってきて読んでいた本を閉じる。試験勉強は三十分程前に切り上げていた。


「……私、何時くらいから寝てました?」

「僕が気付いたのは三時頃ですかね」


 自分が気付いたのが三時というだけで、実はそれよりも前から寝ていたのかもしれないが。いずれにせよ、自分が口にした時間は、アイリス本人が思っているよりも随分早い時間だったようで。


「一時間半も!」

「お疲れだったみたいですね」

「うぁ……」


 どんな感情か読めない声を漏らしながら、その頬を赤く染めていた。


「そろそろ時間ですし、出る準備でもしましょうか。アイリスさんもしっかり目が覚めたみたいですしね」

「はいぃ! ……あれ?」


 そうして帰り支度を始めようとしたところで、肩に掛かっている上着に気付いたらしい。


「あの、これ?」


 上着を体の前で持ちながら、若干不思議そうに尋ねてくる。


「大丈夫だとは思いましたけど、一応」

「こんなことまで……。ありがとうございます」

「どういたしまして。もう返してもらっても?」

「いえ、洗って返します」

「洗う程汚れてないんですけど」


 ただ肩に掛かっていただけである。しかも屋内なので、宿泊学習の時とは訳が違う。わざわざ洗って返してもらう必要など、どこにもありはしなかった。


「だって、私の匂いが付いてるかもしれないじゃないですか。それが欲しいんですか……?」

「まだ寝惚けてます?」


 何が目的なのかはともかく、言っていることが莉花と同じだった。そういったことに疎い自分が知らない、今の流行のようなものがあるのだろうか。


 もちろん、いくら疎いといっても、そんな流行などないと分かったうえでの考えだが。


「とにかく、返してもらいますから」

「嫌です」


 何故か頑なに拒否するアイリス。絶対に渡さないという意思がそうさせているのか、上着を抱き締めながらの一言だった。そうしている方がよっぽど匂いが付きそうだと思うのは、果たして自分の勘違いなのだろうか。


 それは一旦置いておくとして、上着を返してもらうべく、アイリスが手放したくなるようなことを告げることにする。


「どんなお二人かは、ほとんど知らないですけど」

「はい?」

「僕の上着を持って帰ってきたアイリスさんを見て、ご両親はどんな反応をするんでしょうね」

「お返しします」

「はい」


 一瞬の躊躇いもなく差し出された上着を受け取る。短い時間だったとはいえしっかりと抱き締められていたからなのか、羽織る時にふわりと甘い香りが漂ってきたような、そんな気がした。


「それじゃあ、伝記の書架がどこにあるかを見てから帰りましょうか」

「あ、そうでしたね」

「忘れてましたね」


 まるで今思い出したかのような一言だった。


「いえ? ちゃんと覚えてましたよ」

「今の言い方でそれは無理です」

「……えへ」

「笑ってもだめです」


 明らかに何かを誤魔化す笑みだったが、そもそも誤魔化さなくてもいいとは言わなかった。というより、単純にその笑みが可愛くて何も言えなかった。


「準備できました」

「じゃあ、行きましょうか」

「はい!」


 そして、片付けを終えたアイリスと一緒に部屋を出る。午前の祈りが届いたのか、窓から覗く外の世界は、雲が広がってはいるものの、雨は降っていないようだった。




「葵さんのことですから、多分大丈夫だと思うんですけど」

「何ですか?」


 図書館を出たところで、いきなりアイリスがそんなことを言い出した。自分の気のせいなのかもしれないが、うっすらと疑っているような口調である。


「私が寝てる間、何か変なことをしませんでした?」

「してませんよ」


 目付きは疑いようもなく疑っている。


「ほんとですか? 髪を触ってみたりとか、頬を突いてみたりとかしてませんか?」

「してないですって。やけに具体的ですけど、どうしたんですか」

「私が居眠りをしてる葵さんにしてみたいことです!」

「アイリスさんの前では絶対に寝ないようにします」

「ちょっとくらいならいいじゃないですか!」


 異性の髪を触るのも、頬を突くのも、どちらも「ちょっとくらい」で済ませられる悪戯ではない。どこをどう考えたらその結論に至るのか、相変わらずアイリスの思考回路が理解できなかった。


「絶対にさせないとして。そこまで疑うのなら、男の人の前では寝ないように気を付けた方がいいですね」

「はい……。仰る通りです……」


 念押ししたうえで、一応それだけは注意しておく。自覚はあったのか、一切反論は飛んでこなかった。


「油断しました」

「不用心ですよ」

「葵さんなら、どうせ大したことはできないなって思って」

「そうですね……。できるとしたら、これくらいですかね」


 何やら含みがありそうな言葉に少しだけ心をざわつかせながら、スマートフォンの画面にとある写真を表示してアイリスに向ける。それを見たアイリスの反応は、随分と分かりやすいものだった。


「あぁ!?」


 表示したのは、目の前で驚いているアイリス本人の寝顔の写真。上着を掛けた後、つい魔が差して一枚撮ってしまった写真である。


「ついつい。思わず」

「だめですっ! 消してくださいっ!」

「嫌です」


 アイリスが伸ばしてきた腕から逃れるように、右手を天高く掲げる。いくら自分の身長が低いといえども、こうすればさらに小柄なアイリスは絶対に届かない。


「お願いですから!」

「せっかく綺麗に撮れたんですから、このまま残しておきます」

「そういう問題じゃないです!」


 こちらの胸に手を当てて、アイリスが何度もジャンプを繰り返す。が、その手はいくら伸ばしても空を切る。念には念を入れ、右手を少し後ろに反らした。これで何があってもスマートフォンがアイリスの手に渡ることはない。


「絶対に届きませんから。諦めたらどうです?」

「くっ……! このぉっ……!」

「はい、そこまでです」

「あぁ……!?」


 一瞬の隙を突き、スマートフォンを素早くポケットに捻じ込む。これはこれで、アイリスはそう易々と手出しできないはずだ。


「普通の写真なら撮っていいですから! だから寝顔だけは許してください!」

「僕がウェイトレス服を着てた時、何をしました?」


 それでも懇願してくるアイリスに、特大の反撃を放り込む。要は、自分も恥ずかしい写真を撮られたので、アイリスも同じ目に遭ってもらおうという魂胆である。


「うぐっ……」

「忘れたとは言わせませんよ」

「……」


 痛いところを突かれたのか、アイリスが完全に沈黙した。ふよふよと目が泳いでいて、心の中であれこれ葛藤していることが容易に窺える。


「とはいえ、確かに可哀想ではあるので、二択にしてあげます」

「ほんとですか!?」


 そんな様子を見て思い付いた訳ではないのだが、とにかく選択肢を提示する。微かな希望が見え始め、アイリスの目が少しだけ輝きを取り戻す。


「このまま消さずに保存しておくのが、一つ目の選択肢」


 そう言いながら、人差し指を一本立てる。


「はい」

「それだけでは飽き足らず、この写真を例のアイコンにするのが、二つ目の選択肢」

「ほとんど一択……!」


 そして中指も追加した。その辺りで、アイリスの表情が希望から絶望に変わった。


「どうあっても消さないつもりじゃないですか!」

「そうですよ?」


 最初からそのつもりなので、「消す」という選択肢が存在していないのは当たり前のことだ。


「ちょっと引くくらい可愛かったですからね。消すのはもったいないです」

「かわっ……!? そういうところですよ! もぉー!」


 迷っている様子もないのに、アイリスの目が再び泳ぎ始める。ついでに言えば、今日見た中で一番頬が赤かった。空には雲が広がっているので、夕焼けのせいではないのは誰の目にも明らかである。


「可愛い女の子の寝顔を消したくないっていうのは、男の子なら仕方ないです」

「分かりました! 分かりましたからぁ……!」


 最後の一押しは言わば諸刃の剣ではあったが、説得のためなら致し方ない。ここで押さなければこの写真を残すことはできないと、そう判断してのことだった。


「でも!」


 それでも、簡単には引き下がらないのがアイリス。この二か月程で、少しだけではあるがアイリスのことを理解できた部分もあった。


「うん?」

「その写真は私にとって爆弾ですけど、私も葵さんにとっての爆弾を持ってるってことは忘れないでくださいよ!」

「そう来ましたか」


 言われてみれば、これでお互いにお互いの爆弾を抱え合ったことになる。そうそう迂闊なことはできない状況に変わりはなかった。


 そもそもの話をするならば、最初から迂闊なことをするつもりなどないのだが。


「誰かにその写真を見せたら、私も大公開しますからね!」

「その辺は安心してもらっていいですよ。誰にも見せるつもりはないので」


 ついでに言えば、自分でも見返すつもりは特になかった。思った以上に可愛い写真になってしまってつい保存しておきたくなったことは認めるが、本来はただの悪戯で撮っただけの写真である。


「……ほんとですか?」

「誓って」

「じゃあいいです」


 紆余曲折あったが、アイリスから正式な許可が下りた。最早何のために保存しておくのか分からなくなってしまった写真を保存しておく、とても不思議な許可が。


「もー……。葵さんがそんな写真を撮るなんて、全然考えてませんでした」

「まぁ、今のアイリスさんの反応が見たくて撮ったところはあります」

「いいように遊ばれてるってことじゃないですか……」

「手の平の上でころころ転がってくれるのが楽しいんですよね」

「私は楽しくないです」

「でしょうね」


 不満そうに言うアイリスだったが、当たり前の話である。これで「転がるのが楽しい」と満面の笑みで言われたら、今後の対応を考えないといけなくなる。


「ちなみになんですけど」

「はい」

「ほんとにアイコンにするつもり、ありました?」


 写真を消すかどうかのやり取りが一段落したところで、そちらも気になっていたのかアイリスが首を傾げながら尋ねてきた。


「するわけがないじゃないですか。それを見た人から何かを言われるのは僕ですよ?」


 もちろん、その答えは「否」である。二択目に関しては、純粋な冗談である。


「それを聞いて安心しました。誰にも見せるつもりはないって言っておいて、しれっとアイコンにしてそうだったので」

「大丈夫ですって」

「見せたんじゃなくて、向こうが勝手に見ただけ、とか言いそうですもん」

「確かに言いそうですね」

「否定してくださいよ」


 思わず認めてしまうくらい、自分という人間をしっかり理解した指摘だった。残念ながら、アイリスの望みは叶えられそうにない。


「もしそんなことをしてたら、その時はアイリスさんのお願いを何でも一つ叶えますよ」

「言いましたね?」

「僕がアイコンにしなければ、それで済む話ですからね」

「約束ですよ?」

「えぇ、いいですよ」


 今後二度と話題に上ることがないであろう約束を交わしながら、家路に就く。曇り空のせいか、辺りは既に薄暗い。いつもなら二つの影が地面に並んでいたのだろうが、今日はどこかに引っ込んで姿を消してしまっていた。




 その後、さらに一度アイリスと一緒に勉強会を開いてから迎えた中間試験本番。細かく科目が分割されていることで、計十科目、四日間の日程となっている。


 その二日目の最後。全体では六つ目の科目に当たる今は、漢文の試験の時間だった。問題用紙には大量の漢字が並んでいる。


(……)


 ざっと問題を眺めていて目に留まった、最後の大問。そこには、短いながらも教科書には載っていなかった、初見の文章が記載されていた。しかも、訓読文ですらない。


 まだ試験が始まって一分も経っていない。解き始める前に全ての問題を確認しておいて正解だった。順番に解いていって、時間が少なくなったタイミングでこの問題に出くわしていたら、まともに解答することは難しかっただろう。


(これから……)


 心の中でそう呟き、順番を無視してその問題に取り掛かる。いくら初見の白文とはいえ、試験に出題された文である。多少は時間がかかるにしても、これまでの知識で解けるからこそ出題されているとも言える。


(……)


 これまで教わったことを思い出しながら、白文に返り点を書き込む。初見ではあったが身構える程の難易度ではなく、比較的スムーズに読解が進んでいく。文章自体が短いのも助かった。


(「故人」は古くからの友人の意味……)


 問われていることも、しっかり対策していればそこまで難しいことではない。初見の白文というところで尻込みしたものの、解いてみれば意外とあっさり完答できてしまった。ちらりと時計を見てみれば、どうやら十分程度で解き終わったようだった。


 ここからは教科書に載っているものばかり。時間も四十分程残っている。この調子であれば、この科目も無事に切り抜けられそうだった。




 今日予定されていた試験は三つ全て終わり、通常の授業を終えて昼休みとなった。


「最後にあんなの無理だって」

「私は解けたよ?」

「碧依の言葉は当てにならない」

「ひどい」


 悠と一緒にお昼を食べていると、隣から碧依と莉花の話し声が聞こえてきた。どうやら今日の試験について話をしているらしい。


「授業中に当てられてもすらすら答えちゃうような碧依には、私の気持ちは分からないね」

「今日は一段と荒れてるね? 何かあった?」

「いつもよりテストの出来がよくないの!」

「五七五だ」

「いつもより! テストの出来が! よくないの!」


 荒れていようが何だろうが、乗らなければならない部分にはしっかり乗る莉花。まさに本領発揮といった様子である。


「葵君達はどうだった?」

「ここで湊君に聞いても、私が傷付くだけなのは分かってる? ねぇ、碧依?」

「そんなに難しくはなかったです。僕はあれを最初に解きましたし」

「ほら! やっぱり傷付いた!」

「どうしろと」


 ありのままを述べただけなのに、何故か莉花に敵視されることになってしまった。とばっちりにも程がある。


「僕はだめだったかな。時間が足りなくて……」

「そう! こういう感想が欲しかったの! なのにこの二人組ときたら!」


 そんな莉花が求めていたのは、悠のような感想らしかった。その悠に人差し指を向け、自分と碧依の顔を交互に見ながら不満を漏らす。


 今莉花に何を言っても効果がないと悟り、その視線を半ば無視するような形でそれぞれの出来に意識を向ける。自分達四人の中で、はっきりと明暗が分かれた形だった。


「名前が同じで、揃って成績もいい。双子か?」

「ほら葵君! 『お姉ちゃん』って呼んで!」

「対応が早過ぎるんですよ」


 莉花にそう言われてから無茶振りをしてくるまで、ほとんど間がないと言っても過言ではなかった。こんな場面では反射で話しているとしか思えない。


「碧依もこだわるね? どう見ても妹なのに」

「葵君が認めるまで刷り込むよ」

「人はそれを『洗脳』って言うんですよ」

「違うよ? 『お願い』って言うんだよ?」


 純粋な目で言う碧依が怖かった。まるで、自身は何も悪いことをしていないと考えているような、そんな確信犯のような目である。怖さがより一層増すので、小さく首を傾げないでほしい。


「でも、そんな方法じゃ一生呼びませんけどね」

「意地悪!」

「意地悪でも何でもいいです」

「この年下好き!」

「どうしました?」


 これまでそんな気配を微塵も見せなかったのに、いきなりよく分からないことを言われて混乱してしまう。碧依の中で、何がどうなって今の発言に至ったのだろうか。


「いっつもアイリスさんのことばっかり考えてるんでしょ! どうせ!」

「微塵も考えてなかったです」

「だから私のことはお姉ちゃんって呼んでくれないんだ!」

「関係ないですね」

「アイリスお姉ちゃん!」

「年下では?」


 言った碧依も混乱しているのか、途中から発言が支離滅裂になっていた。最初からおかしいという説も、完全には否定できないが。


「うわ……、この碧依面倒……。よくこんなのを相手してるね?」

「あげますよ?」

「いらない」

「面倒とかいらないとか。傷付けられたお詫びに、莉花にも『お姉ちゃん』って呼んでもらおうか?」

「わがままを言ってるところがしっかり妹っぽいな」


 矛先が莉花に向いたところで、会話からそっとフェードアウトする。今の碧依に関わり続けても、何一ついいことなどない。しばらく莉花に相手をしてもらって、ある程度落ち着いたところで会話に戻ろうと決心する。


「お疲れ様」

「そう思うなら、途中で助けてくれていいんですよ?」

「巻き込まれたくないから遠慮しておくね」


 逃れた先で悠が労ってくれる。だが、助けてくれるつもりはないらしい。この二か月で、随分と遠慮なく言葉を伝えてくれるようになっていた。


「状況を見極める力が着々と育ってますね」

「鍛えたのは湊君達だからね?」

「言うじゃないですか」

「事実だから」


 まだまだ短い時間しか一緒にいないのに、もう既に何度か面倒な会話に巻き込んだ覚えがあるので、あまり面と向かって否定はできなかった。そんな自覚はなかったが、自分も意外と日頃の行いがよくないのかもしれない。


「そこで関係ないって顔をしてる羽崎君も! ほら! お姉ちゃんって!」

「あれっ!?」

「残念でしたね」


 莉花とどんな会話を繰り広げていたのかは知らないが、このタイミングで何故か悠にも飛び火してきた。結局逃げきれず、無駄に全員が巻き込まれることになってしまった形である。


「え、遠慮しておきます……」

「だめ」

「だめ!?」

「呼ぶ以外は認めないからね」


 自分にも莉花にもはっきりと断られたからなのか、碧依の標的はこの四人の中では一番押しに弱い悠に定まってしまったようだった。気のせいかもしれないが、自分や莉花の時よりも言葉の圧が強いように感じられる。


「うぇ……!」

「見極められても、対処する力はまだ育ってないみたいですね」

「助けて?」

「巻き込まれたくないので遠慮しておきます」

「何で……!」


 面倒な碧依に絡まれ続ける悠をあっさり見捨て、隣の莉花に話しかける。先程は矛先がいきなり悠に向いた理由が分からなかったが、よくよく考えれば明白だった。


「売りましたね?」

「売った」


 特に説明もなくそう問いかけた訳だが、莉花も同じことを考えていたのか、当たり前のように答えが返ってきた。


「そんなことだろうと思いました」

「碧依が一番簡単に落とせるのって、羽崎君でしょ。それで満足するかなって」

「正しい判断だと思います」

「でしょ?」


 お互いにそれだけを確認してから、二人して悠と碧依の様子を見守る。その視線の先で、予想通り悠があっさりと陥落した。


「お、お姉ちゃん……?」

「そう! お姉ちゃんだよ!」


 恥ずかしさが極まっている悠に対して、これ以上ないくらいに嬉しそうな碧依。あまりにも両極端な表情を浮かべる二人は、どこからどう見ても姉弟には見えない。


「違うんですけどね」

「違うよね」


 悠を囮にして助かった自分と莉花が、同時に同じ意味の一言を呟く。残念ながら、あるいは幸運にも、嬉しそうに頬を緩める碧依にその声が届くことはなかった。




「アイリスさん。どんな感じだった?」


 そう話しかけられたのは、数学二つの試験を終えて昼休みに入ってからすぐだった。


 左隣に座っている長峰純奈からの問いかけ。自分の周囲には珍しい、やや落ち着いた雰囲気のクラスメイトである。黒縁の眼鏡が、物静かな雰囲気をさらに強調していた。


「平均くらいは取れてると思うけど……。いくつか自信ないかも」


 既に終わった試験のことを思い出しながら答える。数学が特別苦手という意識はないものの、自信を持って完答できたかと言われると、それは首を傾げざるを得ない。


「じゃあ一緒だ。最後の方とか、特に難しくなかった?」

「ね。『絶対に満点は取らせません!』って感じだったよね」

「おー? 何の話?」


 二人して作問者の意図を想像していると、席を外していた紗季が戻ってきた。自分と純奈が何を話していたのか気になったのか、若干身を乗り出して尋ねてくる。


「紗季は数学どうだった?」

「それを私に聞く?」

「そうだね。聞くまでもなかったよね」

「その言い方も腹が立つな」


 文系科目よりは得意だが、それでも苦手科目ではあると言っていた数学に関して、わざわざ紗季に聞くこと自体が間違っているのかもしれない。むっとした表情を浮かべる紗季だったが、それならまずはある程度点数を取れるようになってほしい。


「そういうアイリスはどうだったの」

「問題なしです。紗季よりは取れてます」

「自慢じゃないけど、私より数学で点を取れない人の方が少ないよ?」

「ほんとに自慢じゃないね」


 端から諦めているのか、発言が妙に潔い。それはそれでどうなのかとも思うが、これも紗季の性格ではあるので、自分がどうこう言うことではなかった。


「純奈はどうだった?」

「私も紗季よりは取れてるはずだよ」

「言うね? 初めて話した時の純奈はこんなじゃなかったのに……」

「そう?」

「うん。間違いなくアイリスから悪い影響を受けてるね」

「一番は紗季だよ」

「それは否定しない」


 どちらかと言えば丁寧な印象を受ける純奈。纏う雰囲気という意味では葵に近いものがあるが、その純奈も紗季には遠慮なく冗談を口にするようになっていた。時間をかけて徐々に打ち解けてきた証であり、お互いの中の壁はほぼなくなったと言っても過言ではないだろう。


「ま、数学なんていいとして」

「よくないけどね」

「きっと赤点で補習だね」

「うるさいよ、二人共。それより、明日はアイリスの方が大変でしょ?」

「そっか。アイリスさん、日本史がだめだもんね」

「それがね……」


 二人が自分に何を期待しているのかは知らないが、そう切り出して軽く笑みを浮かべる。目の前に鏡があれば、そこにはこれまでの自分とは違うと言わんばかりの表情が映ったはずだ。


「ばっちり対策済みです!」

「補習の?」

「テストの!」


 紗季の一言によって、笑顔から一転、怒りの表情に切り替わる。


「いや、無理でしょ」

「そうだね。諦めるのは早い方が楽になるよ、アイリスさん」

「二人して……! ほんとに大丈夫だって!」


 自分が何をしてきたのか知らない二人が言うのは仕方のないことなのだが、それはそれである。先程の紗季ではないが、自分もむっとした気持ちを隠さず表情に出す。


「どこからそんな自信が湧いてくるの?」

「知りたい?」

「別に」

「聞いてよ!」


 自分の扱いに長けている紗季だった。こう表現するのもどうかとは思うものの、自分の様々な表情を引き出すのを得意としていた。


「……で、何?」

「葵さんに勉強を見てもらいました!」

「またその名前か」


 渋々といった様子で尋ねてきた紗季が呆れ顔を浮かべる。そんな表情をされてしまう程に葵の名前を出した覚えがないのだが、聞いている紗季にとっては違うのかもしれない。あるいは、自分が意識していないだけで、毎日のように話をしている可能性もあるにはあった。


「お世話になり過ぎなんじゃない?」

「ほんとによく名前を聞くもんね」


 純奈も紗季と同じ意見の様子である。ただし、表情は呆れ顔ではなく苦笑いだった。目付きが微笑ましいものを見るような雰囲気を放っていて、まるで保護者か何かのように思えてしまう。


「だって、成績を聞いたら学年末で五位だったって言うんだよ? こんなの、教えてもらうしかないよね」

「五位って……」

「本物だ……」


 そんな二人も、葵の成績で納得したらしい。やはり、二百人以上いる学年の中で五本の指に入る成績というインパクトは大きい。


「それでも、アイリスのだめっぷりを直すのは大変だと思うけどな……」

「私がだめなんじゃないよ? 私の日本史の成績がだめなんだよ?」

「それもどうかと思うよ?」


 純奈の突っ込みは聞こえなったことにする。気にしたところで、日本史の成績が上がる訳でもない。


「対策用の問題まで作ってくれました!」

「専属の家庭教師か」

「至れり尽くせりだ」

「羨ましいでしょ!」

「アイリスが胸を張るところじゃないよ」


 自分でも分かるくらいに自慢げな声だったが、残念ながら二人には響かなかったらしい。そもそも、響く響かない以前に、二人は葵の人物像を掴みきれていないということもあるのだろうが。


「こうなったらあれだね。前に言ってたみたいに、二年の教室に突撃するしかないか」


 以前そう話していたのを、紗季が今思い出したかのように口にする。あの時はそこまで本気で話していた訳ではないのだが、今回は本気度がやや高いように聞こえる。


「ほんとに行く?」

「行きます!」

「じゃあ、葵さんに言っておくね。いずれ面倒な後輩が一人来ますって」

「自己紹介か?」

「紗季だよ!」


 自分の突っ込みは柳に風と受け流されるのだった。

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