23. 出来ること、出来ないこと (1)
五月も下旬に差しかかり、昼はもちろん、夜も随分と過ごしやすい気候となってきた。だが、自分達高校生にとって気候よりも気にするべきなのは、いよいよその日が近付いてきた、学年が上がってから初の試験のことである。
アイリスから話を聞かれたのは、そんな時期。今日のアルバイトを終え、Dolceria pescaから帰る途中のことだった。
「葵さん」
「何です?」
「葵さんって、成績はどれくらいですか?」
装いを浅緑色に変えた桜並木を眺めながらお互い黙って歩いていると、いきなりアイリスがそう切り出した。
「三月の学年末の成績でいいですか?」
「一番最近のってそれですか?」
「ですね」
「じゃあ、その時ので」
「五位です」
「……ん?」
どの時期の成績を答えればいいのか分からなかったので、とりあえず最近受けた試験の成績を答えたところ、隣でアイリスが首を傾げる気配がした。
「五位?」
「五位」
「二百十六人中?」
「二百十六人中」
「……」
「……」
何故か繰り返し尋ねられ、そして何故か沈黙が下りた。ぱちくりと瞬きを繰り返しながら自分を見つめてくる瑠璃色の瞳は、月明かりに照らされて静かに輝きを放っている。
「葵さん」
「はい」
「……勉強、できたんですね」
「失礼な」
やや意外そうに言うアイリスだったが、できないように見えたとでも言うのだろうか。これまでそういった話はしていなかったので、イメージが湧かないのならまだ分かるが、そう言われるのは心外だった。この辺で一度、アイリスが自分をどう見ているのかを問い質した方がいいのかもしれない。
「奨学生制度を利用してるので、下手に成績は落とせないんですよ」
「あれ? そうなんですか?」
これまでアイリスには話していなかった事情の一つ。これからも詳しく話すつもりはないが、奨学生制度を利用していることくらいは話してしまっても構わないだろう。
「で、成績を聞いてどうしたかったんですか?」
それはさておき、いきなり成績を尋ねてきたアイリスのことである。聞いてきたからには何か理由があるのだろうが、果たして何を考えていたのだろうか。
「あ、そのことなんですけど……」
一瞬躊躇うような間。話してしまうかどうかを迷うかのように、瞳が夜空を泳ぐ。そうしてしばらく迷ってからやっと決心がついたのか、その瞳が自分を捉えた。
「勉強、教えてもらえませんか?」
「いいですよ」
「お礼ならちゃんとしますか……あれ?」
「お礼も別にいらないですから」
この話題になった辺りから何となく予想していたこともあって、返事とアイリスの言葉が被ってしまう。アイリスとしては何か見返りを用意するつもりだったようだが、わざわざこの程度でそんなものを要求するつもりも特になかった。
対して、アイリスはまたしても不思議そうに首を傾げている。最後まで言っていないのに返事があったことで、混乱がより深くなっているらしい。
「いいんですか? もっとこう……、『何をしてもらいましょうか……?』みたいなのを想像してましたけど」
「やっぱりさっきの話はなしで」
「わぁ! 嘘です! ごめんなさい!」
即座に意見を翻した自分の様子に、慌てたように両手を合わせて謝るアイリス。その仕草が似合ってしまうのもどうかと思うが、どちらかと言えば愛嬌がある仕草ということで、今は気にしないことにした。
「はぁ……」
「ため息まで吐かれた……」
ただし、呆れないとは言っていない。
「まぁ、嘘なのは分かってましたけど」
「ごめんなさいぃ……!」
ひたすら謝るアイリスだが、そんなに誰かの助けが必要な程に切羽詰まった状況なのだろうか。もしそうだとすれば、あまり安請け合いしない方がよかったのかもしれない。
「で、そんなにまずいんですか?」
「真ん中くらい、だとは思います。でも、初めてのテストなのでよく分からないんですよ」
「あぁ、そういえばそうですね」
そう言って、アイリスがやや顔を伏せる。自分は二年生なのであまり意識していなかったが、確かにアイリスは高校生になってから初めての試験だった。思い返してみれば、去年の自分も同じような気持ちを抱いていたので、やはり誰もが通る道なのだろう。
「なので、できればいい点数を取っておきたいなって」
「それで僕に聞いてきた、と」
「はい。どんな問題が出るとかって、先輩の方が分かると思いますし」
そして、一番近しい先輩に白羽の矢が立った、ということだった。
「そういうことなら協力しますよ」
「ありがとうございます!」
最初から真面目に相談してくれるだけでよかったのに、随分と遠回りをしたものだ。ほとんど無意識にそう思ってしまう。
なので、苦笑いを浮かべたくなる気持ちを、立ち止まって安心したように頭を下げているアイリスにぶつけてみたくなったのは、仕方のないことなのだろう。
「優しめがいいですか? 厳しめがいいですか?」
「……っ」
そう口にした途端、アイリスの肩がぴくりと跳ねた。何を想像したのか、恐る恐るといった様子で頭を上げる。
「……厳しめだと、どうなります?」
「アイリスさんが泣いてもやめません」
「優しめで! お願いします! いつもの葵さんがいいです!」
勉強を教えてほしいと切り出した時とは正反対の、一瞬の迷いもない懇願だった。こうなると、少しからかってみたくなる。
「分かりました。じゃあ、厳しめでいきますね」
「今のお話は何だったんですか! 許してくださいっ」
「アイリスさんはどんな泣き顔を見せてくれるんでしょうね」
「おに! あくま!」
何歳か幼くなってしまったような口調のアイリスは、勉強を教わる前から既に涙目だった。自分が思っているよりも気が早い。
「……冗談はここまでにして」
「真顔だと冗談に聞こえないんですけど……」
「女の子を泣かせる趣味はないですよ」
「……勝手に女の子が泣くだけ、ですか?」
「とっても厳しめでいきますね」
「ごめんなさい! もう余計なことは言いません!」
懲りないアイリスだった。このやり取りだけで、一体何回の謝罪を聞いたことか。そもそも、何回も謝罪を聞くことになるようなやり取りがおかしいという意見は、脳内で「気にしない」という多数派に押されて消えていった。
「それで? いつくらいにしますか?」
「できればお休みの日だといいかなって。それならいつでも大丈夫です。……あれ? 優しめ、ですよね……?」
「じゃあ、ちょうど明日が土曜ですし、明日でも?」
「分かりました。それでお願いします。……優しめ……」
何はともあれ、二人での勉強会が開催されることが決定したので、次に日程を決めていく。だが、大事な言葉が抜け落ちていることに気が付いたのか、アイリスは何かを言いたそうにこちらを見つめている。
「場所は僕が用意しますから。そうですね……、朝十時くらいに迎えに行くので大丈夫ですか?」
「あ、はい、お願いします。……あの……」
「分かりましたよ、優しめにしますから」
最後まで聞こえないふりをするつもりだったのだが、アイリスがずっと不安そうに呟くのにとうとう負けてしまった。
「よかったぁ……!」
恐らくアイリスにとって最も大事なことが確定し、これまでで一番安心したような顔で胸を撫で下ろしていた。一体どれだけ緊張していたのだろうか。
「どれだけ嫌がってるんですか。さっきも冗談って言いましたよね?」
「だって、葵さんなら本気でやりそうなんですもん……」
「アイリスさんには基本優しいつもりなんですけどね」
「……え?」
「どうして首を傾げるんですか」
心当たりがないとでも言いたそうなアイリスの様子に、思わず「厳しめにする」と言いそうになってしまう。再び同じやり取りが繰り返されるだけになりそうだったので、寸前で止めてはおいたが。
「……まあいいです。とにかく、明日迎えに行きますから」
「あ、それなら、連絡先を教えてもらっていいですか? 葵さんが家を出る時に連絡してもらえれば、すぐに出られるので」
「そうですね。じゃあ……」
そんな流れでアイリスと連絡先を交換する。数日ぶりに登録してある連絡先が一つ増えた訳だが、そこに表示されたアイコンは、自分にとっても見覚えがあるものだった。
「このアイコン……」
「あ……」
自分がそう呟いたところで、「しまった」といった表情をアイリスが浮かべる。
「あのソープフラワーですね」
「そ、そうですね……?」
そして、何故か目が泳ぐ。どう考えても、今は目が泳ぐような場面ではない。
「どうして疑問形なんですか」
「いや……。貰った相手に見られるのって、意外と恥ずかしくて……」
「そうですか? 大事にしてもらえてるみたいで、僕の方は嬉しいですけどね」
「そうですよ!? アイコンにするくらい大事にしてますが何か!?」
恥ずかしさが一定値を超えたのか、アイリスが突然開き直った。別に不満などありはしないのだから気にしなくてもと思うのは、的外れな考えなのだろうか。
「すっかり忘れてました……」
「そんなに恥ずかしがらなくても」
「私が気にするんです! こうなったら!」
何か逆襲の策を思い付いたようで、アイリスがスマートフォンを操作し始める。その様子に一つだけ思い当たる節はあるが、もし本当にそれなのだとしたら、きっと期待外れの結果になるはずだ。
「葵さんのアイコンをからかって……、初期アイコン!」
「残念でしたね」
アイリスが思い付いた策は、案の定自分が予想した通りのものだった。どうやら自分のアイコンをからかおうとしたようだが、生憎自分のアイコンはアカウントを作った時から何も変わっていない。それはそれでからかわれるような気もしたが、アイリスとしてはそでもないらしい。
「何で変わってないんですか!」
「別にこれでいいかなと思って」
「私が気にするんです!」
「どうして?」
他人のアイコンなど、それこそアイリスが気にするものでもないだろう。相変わらず、この手のことはよく分からない。
「葵さんも何か変えましょうよ」
「そう言われても、何にすればいいかよく分からないんですよね」
「この前撮ったツーショットとかはどうですか?」
「泣く暇もないくらい厳しくいきます」
「すみませんでした!」
その方向に何かの活路を見出したのか、アイリスが言ってはならないことを口にする。次の瞬間には、反撃を受けて頭を下げることになっていたが。
「……確かに、あんなに可愛い葵さんが知られちゃったら大変なことになりますもんね」
「そうなったら、大変なことになるのはアイリスさんですけどね」
「ひぇっ……!」
これだけ釘を刺しておけば、余程のことがない限りは大丈夫だろう。それでも誰かに見せた時は、それ相応の対応をするだけだ。
「気を付けます……」
「よろしい」
それだけを口にしてから見上げた空では、若干怯えるアイリスの心を表すかのように、月に雲がかかっていた。特に何も考えずに明日の約束をしたが、天気はどうだっただろうか。帰ったら確認するよう心に留めて、再び河川敷を歩き始めるのだった。
翌日、午前九時五十五分。約束した十時まであと五分となっても、居場所はまだ自宅の玄関だった。ここからアイリスの家までは歩いて数分である。この時間に出ても、まだ十時前にアイリスの家に着くはずだ。早めに着いてもアイリスの準備ができていないかもしれないので、少し考えたうえでこの時間にしたのだった。
「っと……。連絡……」
玄関の鍵を開けながら思い出す。家を出る時に連絡してほしいと言われていたのを、危うく忘れるところだった。
今から家を出るというメッセージを送ってからほとんど間を空けずに、相手がメッセージを読んだことを示すアイコンが表示された。
そして返事が返ってくる。
『準備OKです! 待ってます!』
文字でしかないのに、元気な様子が伝わってくる。アイリスと出会ってから一か月と少しの時間がそうさせたのだろうか。
考えていても仕方がないので、スマートフォンの画面を暗転させてから、アイリスの家に向けて歩き出す。
見上げれば、そこにはスカイグレーの雲。昨日の天気予報も今朝の天気予報も、どちらも曇りのち雨の予報だった。傘は持っているが、降らないことを祈るばかりだった。
そうして辿り着いたアイリスの家。ここに来るまでに、呼び鈴を押すか、もう一度連絡をするかで迷っていたが、その迷いは意味のないものになった。というのも、二階の窓から外を見ていたアイリスとしっかり目が合ったからだ。呼び鈴を押す意味も、連絡を取る意味もない。
そして、窓からアイリスの頭が引っ込んでしばらくしてから玄関の扉が開き、アイリスが姿を現したのだった。
「おはようございます! 葵さん!」
「おはようございます」
五分前のメッセージから受け取ったイメージ通り、今日も元気そうなアイリスだった。つまりはいつも通りである。
「窓から覗くほど楽しみでした?」
「違うんですよ……。いや、勉強するのが嫌ってわけじゃないんですけど」
いつも通りのアイリスだと思ったのに、いきなりその元気さが影を潜める。と言うよりも、まだ何もしていないはずなのに、何故か少し疲れているようだった。
「お父さんとお母さんが」
「はい?」
「葵さんに会うって言って聞かなくて……」
「あぁ……」
「で、葵さんが来たらすぐに出られるように、窓から見張ってました」
「連絡すればよかっただけでは?」
「あ……」
どうやら両親と色々あったようだが、それならそれで連絡をすればよかっただけなのではないだろうか。今の今までその選択肢がすっかり抜け落ちていたらしく、アイリスが小さく声を漏らしたまま目を丸くする。
「そうですよね。葵さんと連絡を取るのに慣れてなくて、すっかり忘れてました」
「まぁ、僕も家を出る瞬間まで連絡するのを忘れてたので、あんまり他人のことをどうこう言えないんですけどね」
「じゃあ、お揃いってことで」
「嫌なお揃いもあったもので」
アイリスがそれでいいなら、わざわざ否定はしないが。そもそも、微かに見えていた疲れが消え、これまたいつも通りの笑みを浮かべるその姿を見て、これ以上どうこう言えるはずがなかった。
「それで、今日はどこに?」
二人揃って歩き出したところで、アイリスがそう問いかけてくる。昨日、場所は自分が用意すると言っておいたが、それがどこなのかはまだ伝えていなかった。
「図書館があるのは?」
「それはもちろん知ってます」
「そこです」
「あれ? 図書館ってお静かにってイメージですけど……?」
そうして明かされた場所に、アイリスがそんな疑問を抱く。その様子を見るに、アイリスは件の図書館を利用したことがないのだろう。あるいは、利用したことがあっても、記憶に残らない程に少ない回数なのかのどちらかだ。
とにかく、それならばこの反応でも仕方がない。自分はよく利用するから知っているだけで、町の図書館にどんな設備があるのかを知っている方が少数派だろう。
「少人数で使える部屋があるんですよ。そこなら、思いきり騒がなければ大丈夫です」
「へぇ……。ほとんど行ったことがないので知りませんでした」
やはり、ほとんど利用したことがなかったらしい。町の図書館の位置付けなど、恐らくそんなものだろう。利用するきっかけさえあれば、また少しは違うのだろうが。
「とにかく、行けばどんなところか分かりますから」
「はーい」
そう言って、右手を天に向かって掲げるアイリス。その台詞、仕草、小柄な見た目が相まって、中学生を飛び越えて小学生に見えてしまったことは、そっと胸の内にしまっておくことにした。
アイリスの家を出発して二十分程歩いたところで、ようやく図書館の前に着いた。片田舎の小さな町にしてはやけに近代的な、曲線をふんだんに取り入れたデザイン。はっきり言ってしまえば、周囲の景色から浮いた図書館だった。
「いつ見ても浮いてますよね」
それはアイリスも同じ意見のようだった。恐らく、誰が見ても同じ感想を抱くことだろう。
「中に入ってしまえば、外観なんて関係ありませんから」
「それもそうですね」
ある意味失礼な会話を交わしながら、入口の自動ドアを通り抜ける。その途端に、本で埋め尽くされた空間特有の紙の匂いが漂ってきた。
随分と前に慣れてしまった匂いに包まれながら、アイリスと二人で受付へ向かう。そこで個室を予約したことを告げると、すぐに部屋の番号が書かれた札を手渡された。いつもは一人で利用していて個室は使う機会がなかったので、これは初めて受け取るものだ。だが、これを使って何かをする訳でもないらしく、ただの案内用の札とのことだった。
物珍しそうに館内を見回すアイリスを連れて、初めて利用する個室へ足を向ける。
「意外と広いんですね」
「その分色々な本があるので、結構面白いですよ」
小声で会話を交わしながら、札に書かれた番号の部屋に入室する。周囲には同じ部屋がいくつか並んでいて、それぞれの部屋がガラスの壁で仕切られていた。自分の膝辺りの高さから腕を頭の上に伸ばした辺りまでが磨りガラスになっていて、周囲からの視線を遮る構造となっている。
「こっちはそんなに広くないんですね」
「元々少人数用ですから」
部屋の真ん中に大きな四角い机が一つ。その周りに椅子が四つの構成。他にはもっと大きな部屋もあるのかもしれないが、二人で使うのなら十分な広さだった。
「好きなところにどうぞ」
「好みも何もないと思いますけど、それならここで」
苦笑いを浮かべながらもっともなことを言うアイリスが選んだのは、入口から見て右奥の席だった。机の上に持ってきた鞄を下ろし、何故かにこにこしながらこちらを振り返る。
「さぁ、葵さんも選んでください。私のことを正面から見たいか、横顔を見たいか、ですよ?」
「お疲れ様でした。また月曜日に」
「あぁ! 待ってください!」
何やら面倒なことを言い出したので即座に帰ろうとすると、慌てた様子のアイリスにいきなり腕を掴まれた。どうやら予想外の反応だったらしく、急いで入口近くの自分のところまで駆け寄ってきたようだった。
「ちょっとだけ、声が大きいかもしれないですね」
その様子に、自分の唇に人差し指を当てながら小声で言う。人がいるスペースまでいくつか部屋を隔てているとはいえ、騒ぎ過ぎるのがよくないことなのは明白だった。
「あっ……」
自分の注意で今いる場所を思い出したかのように、アイリスが両手で口を押さえる。
「今くらいの声なら、向こうには聞こえてないとは思いますけど」
「気を付けます……」
「思いきり叫んだりしないなら、いつも通りで大丈夫ですよ」
これまで聞いたことがない程に、アイリスの声が小さなものになっていた。それでもはっきりと聞こえるのは、周囲が静かだからなのか。それとも、その澄んだ声が原因なのだろうか。
「もー……。葵さんのせいでおっきな声が出ちゃったじゃないですか」
「アイリスさんのせいですよ」
不満そうに言うアイリスだったが、元はと言えば、アイリスのからかうような言葉が事の発端である。自分がどうこう言われるのはやや理不尽だった。
「それで? 結局どこを選ぶんですか?」
「その話、まだ続いてたんですね」
いつも通りの声音に戻ったアイリスに促され、そう答えながら机の上に鞄を下ろす。アイリスと同じく座る場所に好みなどないが、右手前の席を選んだ。アイリスから見て左隣の席である。
「横顔派ですか」
「そうですね。正面からでも当然可愛いですけど、横顔もまた違った可愛さがありますから」
「あぇ……?」
またしても自分の反応が思いがけないものだったのか、アイリスの口から奇妙な声が漏れる。言われたことの意味自体は理解しているのか、その頬がじわじわと赤く染まっていく。
「髪が流れて顔にかかってるのも綺麗だと思いますよ?」
「え……? えっ……!?」
そう言いながら、入口の近くで立ち尽くしているアイリスにゆっくりと近付いていく。一言発する度に、一歩近付く度に、目の前の顔がさらに赤く染まる。
「横から見える耳も小さくて可愛いですよね」
「葵さん……!?」
「可愛くない場所がないと言っても過言ではないです」
「あ、葵さんだって可愛い、ですよ……?」
照れながらの返しは、何一つとして嬉しくない言葉だった。
「とまぁ、冗談はここまでにして」
「んぅー! んんぅー!」
そう口にした途端、両肩を掴まれて思いきり揺さぶられる。先程の注意が効いたのか、叫び声は周囲に響きにくい配慮がされていた。
「何なんですかぁ……!」
「楽しいですよね」
「何にも楽しくないです……」
「意見の相違ってやつですか」
「それは違うと思います……」
まだ何も始まっていないのに、既にアイリスが疲れ気味だった。家で両親を抑え込んだうえ、図書館でこれだけからかわれたのでは、それも当たり前のことなのだろうが。
「すっごくどきどきしました……」
「頭の中はもう日本史ですか?」
「土器じゃないです」
「あ、漢字の書き取りの方でしたか」
「怒気怒気っ」
リズムに合わせて殴られた。もちろん、アイリスの力では全く痛くない。
「そんなにでした?」
「そんなに! でした!」
「これも対アイリスさん用の秘密兵器にしますか」
「だめです」
随分と照れてくれたようなので、いざという時にアイリスを抑える切り札にしようと思ったのだが、一切の間を空けずに否定の言葉が返ってきた。未だに頬の赤みが完全に引いていない辺り、思ったよりも効果があったらしい。
「弱々しい抵抗しかできなくなっちゃいます」
「普段からしっかり抵抗できてるかは怪しいですけどね」
「なんでですかっ」
いつもよりも幾分か声量を落とした口癖は、どこか新鮮なものに聞こえるのだった。けれども、むっとした表情はいつも通りである。
「何がそんなに効いたんですか」
「何がも何も、葵さんって、普段はそんなことを言わないですし、迫ってきたりなんてしないじゃないですか。そんな葵さんがやるのがだめなんです」
「なるほど。とっておきのタイミングでやれ、と」
「そういうことでもないです。……これ『も』?」
ここまで話して、ようやく自分の言葉のおかしなところに気付いたらしいアイリス。何かを考えるように、微かに俯いている。
「ってことは、他にもまだあるってことですか?」
そこまでは分かったものの、その先までは辿り着けていないようだった。気付かれてからでは効果が半減してしまうので、ここで先んじてもう一つの秘密兵器を繰り出す。
「随分と勘が鋭いじゃないですか、『アイリス』」
「あっ……!?」
アイリスが腕を伸ばせばこちらに届く距離。それをさらに縮めつつ、小さく呟く。やっと赤みが引いてきた顔が、そのタイミングで再び真っ赤に染まる。
「これがもう一つです」
「だめっ! ですっ……!」
必死に首を振りながら否定するアイリス。自分でこうしておいて何だが、押されっぱなしで涙目になっているアイリスを見ていると、流石に少し不憫になってきた。これ以上アイリスが混乱しないよう、少し距離を取る。
「二つ組み合わせると大変なことになりそうですね」
「……絶対にだめです。私を何もできなくさせて、どうしようって言うんですか」
「素直に勉強、ですかね」
「あ、はい」
二人していきなり正気に戻り、当初の目的を思い出す。普段利用している場所の普段利用しない部屋ということで、自分も少し気分が高揚していたのかもしれない。
それ以上はふざけることもなく、お互い自分で決めた席で教科書を取り出し始める。
「葵さんの得意科目って何ですか?」
そんな中、自分が広げた教科書を眺めながら、アイリスがそう問いかけてくる。
「化学と日本史ですね」
不思議な組み合わせの得意科目だとは思うが、基本この二つの点数が高いので、得意科目と言って差し支えないはずだ。どちらかと言うと、「得意」よりは「好き」に分類されるのかもしれないが、そこまで細かく説明する必要もないだろう。
「文系なのか理系なのか、よく分からない組み合わせですね」
「理系ですよ」
不思議な組み合わせだというのは、誰もが思うことらしかった。アイリスが首を傾げながらそう口にするが、化学以外の理系科目の平均点が高いことを考えると、やはり自分は理系なのだと思う。
「アイリスさんは?」
「私も化学と、あとは当然英語です」
「まぁ、それはそうですよね。ってことは、理系ですか?」
「そうですね。文系科目はあんまり得意じゃ……」
「苦手科目もその辺りって考えても?」
「日本史がだめです。よろしくお願いします……!」
どうやらアイリスも理系らしいが、自分とは違って文系科目は苦手なようで、頼み込んでくる様子が実に切実である。これまでの緩い空気はどこにも存在せず、ただひたすらに真面目な顔をしていた。
「そんなに時間がないですけど、やれるだけはやりますか」
「こうなるんだったら、もっと早くにお願いすればよかったです」
どこか後悔するように言うアイリス。今となってはそう思うのかもしれないが、出会って間もない先輩に頼むのは、どうしてもハードルが高かったのだろう。その気持ちは自分も何となく分かる。
「言っても仕方がないです。今からなら、何とか中間の範囲を詰め込むくらいはできますから」
「一番苦手です……」
「でしょうね」
それができるのなら、最悪ある程度の点数は取れる。はっきりと「苦手科目」と言うようなこともないはずだ。その言葉が出てきた時点で、アイリスの苦手意識はある程度理解しているつもりだった。
「そんなわけで、日本史以外をやりましょうか」
「見捨てないでくださいぃ……!」
頭の中で今日の予定を組み立てながらそう口にしたところ、何かを勘違いしたアイリスが縋るように袖を掴んできた。心なしか、瑠璃色の瞳が潤んでいるようにも見える。
「真面目に言ってるんですよ」
「……あれ? そうなんですか? てっきり……」
「てっきり?」
「『どうせ無理だ』って思われたのかと」
「お望みなら見捨てますよ」
「助けてください」
「よろしい」
何故か袖を掴んだまま、アイリスが小さく頭を下げる。昨日から何度似たようなやり取りを繰り返せば気が済むのか。あるいは、この手のやり取りが楽しくなってしまっているのだろうか。
「さっきも言った通り、どうせ今回の日本史はもう詰め込むしかありません。幸い、範囲も狭いですし」
答えをはっきりさせるのも面倒なので、心の中の疑問は無視して考えていた予定を説明していく。
「狭くても、苦手なものは苦手です」
「詰め込むだけならコツはありますから」
「神様はここにいたんですね……!」
自分の背中に何を見出したのか、何か眩しいものでも見るようにアイリスが目を細める。そんなつもりは全くなかったのだが、そういったことをされると、どうしても悪戯心が刺激されてしまう。
「コツ一つにつき、お賽銭として百円を貰います」
「絶妙な金額です……」
適当に言っただけなのに、本当に財布を取り出し始めるアイリス。冗談かどうかの区別ができなくなっている辺り、自分が思っている以上に日本史の状況が悪いのかもしれない。
「切羽詰まり過ぎですって。いらないのでしまってください」
「はい……」
取り出した百円玉を財布の中に戻すアイリスを、苦笑いしながら眺める。苦手意識が気持ちにまで影響を及ぼしているのか、その動きはやや緩慢なものだった。
「いいですか? 日本史の授業って、先生が毎回資料を配りますよね?」
「穴埋めになってるやつですよね?」
「そうです。それを覚えるんですけど、その時に単語だけを覚えようとすると、本番ではあんまり役に立ちません」
「じゃあ、どうすれば……?」
アイリスが財布をしまい終えるのを待ってから、中断していた説明を再開する。いきなり資料の覚え方を否定されたからなのか、アイリスは不安そうにこちらを見上げている。
「資料を写真みたいに頭に刷り込むんですよ。穴埋め部分だけじゃなくて、他の文章も。それが資料のどの位置に書かれてたかってところも」
「……無理ですって! それができたら苦労しませんよ!」
言われたことを一瞬理解できなかったのか、少しだけ間が空いての返事だった。正直、自分でもかなり無茶を言っている自覚はあった。それでも、短期間で詰め込むとなれば、基本は無理をしないと覚えられないだろう。
「頑張ったら誰でもできますから」
「……どうやってです?」
あまりの荒療治に腰が引けているようで、アイリスの声が若干ではあるが低いものに変わる。
「簡単です。書いてあることを、ひたすら声に出して読み上げるだけです」
「ほんとにそれだけですか?」
「それを何周もします」
「やっぱり厳しいぃ……!」
「空いた時間で少しずつ進めたらいいですから。とにかく、飽きるまで読めば大体は頭に入ってます」
もちろん、自分はそれ以外の方法を基本として対策はしているが、これもまた実体験である。こうすれば、単語が出てこなくても、あの資料のあの位置にあった、近くにはこんなことが書かれていたといった周辺の情報から思い出せることもある。
「今はまだ覚える段階ですから。あんまり覚えてないのに問題を解こうと思っても、ほとんど解けなくて面白くないですよ」
「それは……」
「なので、実際に問題を解くのは、試験の二日前くらいで十分です。そこで覚えきれていなかったものを炙り出して、そこを重点的に復習するってことで」
「……」
「どうしました?」
一通り予定を説明したところで、アイリスが意外そうな顔をしていることに気付く。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、先程とは違って、今度は無言でこちらを見つめている。
「いや、思ったよりも真剣に考えてくれたんだなって」
その様子通り、意外そうな口調で呟くアイリス。一体どういう想像をしていたのかは知らないが、もしかすると、もっと厳しいことを言われると思っていたのかもしれない。
「優しめって言ったじゃないですか」
正直な話をすれば、自分が誰かに対して厳しく接することが難しいので、最初からこうするつもりではあったのだ。わざわざそう言うのが恥ずかしくて誤魔化した節はあるが、どうもそれが悪い方向に作用してしまっていたらしい。
「あれってそういう意味だったんですか?」
「今考えました」
「せっかくちょっと嬉しくなったのに!」
そう思ってはいても、やはりわざわざ言葉にするのは恥ずかしい。そんな訳で、今回も適当に誤魔化しの言葉を口にする。
「……大事な後輩ですからね。頼られたら、その時はちゃんと真剣に考えますよ」
だが、本当に大事なことだけは正直に。言っておきたいことがある相手が、いつまでも近くにいてくれるとは限らないのだから。
「えへへぇ……!」
「どんな笑い方ですか」
「だって、あの葵さんが『大事な後輩』って言ってくれたんですもん……!」
誰かに見せてはいけないくらいに蕩けた笑顔のアイリスが、これ以上ないくらいに嬉しそうに言う。その反則的なまでの可愛さを何の防御もなく受け止めていると大変なことになりそうだったので、意識的に気持ちを逸らすことにする。
「で、ここからは期末に向けて」
「期末の時も教えてくれるんですか?」
「こうやって一回教えたんですから、しばらくは手助けしますよ」
「ありがとうございます!」
その提案がよほど嬉しかったのか、これまでで一番勢いよく菜の花色の髪を揺らしながら頭を下げられた。ここまで素直に感謝する辺り、やはり本当に苦手なのだろう。
「結局、何で歴史関係が面白くないって感じるかって話ですけど」
「はい」
「教科書って、事実が羅列してあるだけなんですよ」
「でも、教科書ってそういうものですよね?」
自分が言おうとしていることが理解できなかったのか、アイリスの首が少しだけ傾く。
「ですね。でも、そこに書かれてる人は、実際に過去に生きていて、色々な時代背景があって、周りの人との関係もあったはずなんです」
そこで一旦言葉を区切り、アイリスがしっかりついてきているかを確認する。軽く頷きながら話を聞いているので、恐らくは問題ないだろうと判断して話を続ける。
「そんな中で色々な感情の動きがあって、色々考えて、それで教科書に載ってる出来事を引き起こしたと思うんですよね」
「それは……、そうだと思いますけど……」
「なのに、教科書にはその辺がほとんど書かれてないんです。そこまで書くと大変なことになるので、当たり前と言えば当たり前ですね」
教科書にだめ出しをする訳ではないことを補足しておく。アイリス相手にそれが必要なのかは、甚だ疑問ではあるが。
「これだと、その人が何の脈絡もなく、いきなりその出来事を引き起こしたように見えて、話が繋がらないんです。だから面白くない。興味を持てない」
「なるほど……」
「とは言っても、これもあくまで僕の考えですけどね」
これまで自分で色々と勉強する中で考えたことなので、それを誰かに押し付けるつもりはない。この辺りは、それぞれの考えがあっていいところだとは思う。
「とりあえず創作でもいいので、感情や思惑も描かれたものから入るのが、個人的にはいいかなとは思います」
「例えば?」
「分かりやすいのは伝記ですよね。今は色々な人の伝記が漫画にもなってますから。取っ付きやすさは抜群です」
「勉強で漫画って、ちょっと変わってますよね」
人差し指を口の下辺りに押し付けながら、アイリスが言う。これまで考えたことがなかったのか、漫画を使って勉強をするということに違和感を抱いている様子だった。
「使えるものは何でも使えばいいんですよ。それだけで勉強しようってわけじゃなくて、あくまで興味を持つきっかけ作りですから」
「そっか。そうですよね……」
その説明である程度納得してもらえたらしく、何度か頷くアイリスなのだった。
「ということで、この図書館はうってつけですよ。色々な伝記がありますから」
「葵さん、営業とか得意そうですよね」
「はい?」
「この図書館の回し者ですか?」
「はい」
「はい!?」
流れるように認めたせいなのか、まさかそんな返事があるとは思っていなかったであろうアイリスが、目を丸くして心底驚いていた。アイリスのこういった反応は、見ていて本当に楽しいものだ。
「自分の好きな場所を気に入ってくれる人が増えるのは、やっぱり嬉しいですからね」
「それにしたって、回し者で即答しますか」
「望むところです」
「その答えは何か違う気がします」
この図書館の話になったからか、若干言動が怪しくなっている自分に対して、珍しくアイリスから的確な指摘が入った。自分で真面目な雰囲気を作り出しておいてこれではどうしようもないので、改めて気を引き締める。
「とにかく、借りるのなら帰る時にして、今は別の教科を進めましょう。一年の範囲なら大体分かりますから」
「学年五位の人が言うと、説得力が凄いですね」
「僕も自分の範囲を進めてますから、分からないところがあったら聞いてください」
「はーい。よろしくお願いします」
軽やかに返事をしてからアイリスが取り出したのは、自分も去年使っていた数学の教科書。それを見て、自分も同じく数学に決める。どの範囲を教えるにしても、同じ科目を勉強している方が頭を切り替えなくて済むので楽なはずだ。ひとまずざっと今回の範囲を確認し、どの辺りまで進めるのかを決める。
「……」
隣をちらりと見てみれば、そこではアイリスが既にノートに何かを書き始めている。その表情は、いつもの親しみやすいものとは打って変わって真剣そのもの。
ようやく本格的に始まった勉強会。始まるまでは賑やかだったが、これからしばらくは静かな時間が続きそうだった。
「葵さん」
「はい?」
「今、ちょっといいですか?」
その声に顔を上げれば、こちらを窺っていたらしいアイリスと目が合った。その手はペンから離れ、これまでページを捲っていたかのように教科書に添えられている。
「何か分からないところでもありました?」
「この問題なんですけど……」
そう言ってアイリスが指差したのは、教科書のとある部分。数字とアルファベットが並ぶ演習問題のページの、終わりの方に載っている問題だった。
「平方根を含んだ分数の式の値、ですか」
「代入するだけと言えばそれだけなんですけど、計算が大変で……。何か上手い方法ってあったりします?」
やや困ったように言うアイリスの視線を受けながら、少しだけ考える。先程は同じ科目を勉強している方が頭を切り替えなくて済むと思ったが、範囲が違うと結局切り替えが必要だった。
(xとyが与えられていて、x+y、xy、x2+y2を求める……)
「葵さん……?」
アイリスから見れば何も言わずに黙り込んだように思えたのか、再び尋ねてくる声音が若干控えめなものに変わる。
「大丈夫です。どうやって教えようか、ちょっと考えてただけですから」
「教え方、ですか?」
「ですね。とりあえず、求めようとしてる三つの式に見覚えってありませんか?」
「見覚え?」
少しだけ考えてから口にしたのは、直接的な答えではなく、解き方のヒントになる言葉。思っていたものとは違う返事だったのか、アイリスは不思議そうに首を傾げながら小さく呟いたきり、そのまま黙り込んでしまう。恐らく、ヒントを参考にしてあれこれと考えているのだろう。
「あ……」
やがて何かに気付いたらしく、微かに目を見開く。
「気付きました?」
「多分、ですけど」
再びペンを手に、数式を書き連ねていくアイリス。その手は淀みなく、最後の答えまで辿り着いた。
「これで合ってますか?」
「合ってると思いますよ。二人して計算を間違えてなければ」
「……ん、合ってました」
教科書のページを捲って答えを確認したアイリスが、満足そうに頷く。その顔を見ながら、教わらなくてもいつか気付く、けれども早めに教えてもらった方がいい考え方を伝えておこうと口を開く。
「ちょっとあれな考え方ですけど、この手の連続した問題の最後の問題って、それまでの答えを利用することが多いんですよ」
「言われてみれば、これもそうですもんね」
「その辺が中学までの数学と違って、最初は慣れないところだと思います。今までは一問完結が多かったですから」
「それが分かっただけ、私のレベルは上がりました!」
自慢げに胸を張っているアイリスだが、本当に大丈夫なのか不安になる。確認する意味も込めて、教科書のように綺麗な答えにならない問題を即興で作って出題してみる。
「じゃあ、これを解いてみてください」
「任せてください!」
分からない問題が解決して楽しくなっているのか、目の前で意気揚々と計算を始めるアイリス。見ている限りでは、先程と同じくその手が止まることはない。難易度を上げるために三乗も含んだ問題にしたが、どうやら本当にレベルが上がっているらしい。
「できました!」
そんなことを考えているうちに、全ての答えが出揃っていた。自分が想像しているよりも、遥かに計算のスピードが速い。
「合ってますか?」
「適当に作った問題なので、ちょっと待ってください」
先程の教訓を活かし、それだけを告げてからアイリスが記した数式を目で追う。最後まで辿っても、ミスはどこにも見受けられなかった。
「合ってます」
「よかったぁ……」
自分が確認している間に緊張でもしていたのか、安堵のため息を漏らすとともに、その顔がふわりと綻ぶ。
「きっかけさえあれば、一気に理解が進むタイプみたいですね」
「褒められてますか?」
「褒めてます」
「褒められて伸びるタイプなので、もっとお願いします!」
「もう水はなくなりなした」
「なんでですかっ」
すぐにこうなるところが、アイリスのいいところでもあり悪いところでもあると、そう気付くのはいつになるのだろうか。あっという間に消えてしまった笑みを思い出しながら、そう思う。
「もう水は枯れましたけど、しっかり理解できてるのは間違いないですから。その調子です」
「……! 頑張ります!」
それでも、たったそれだけの言葉で笑みが復活する。嬉しそうにしてくれているのを見ると、自分も多少の恥ずかしさを押し殺して褒めた甲斐があったというものだ。
「ところで……」
「ん?」
「葵さんはどんなのを?」
「こんなのを」
問題が片付いたことで自分が進めている内容が気になったのか、身を乗り出してノートを覗き込んできた。危うく何かが見えそうになって、慌てて視線を逸らしながらノートの向きを変える。
「四乗……! 四次方程式……!」
「そんなに身構える程難しくはないですよ」
指数が一つ大きくなっただけなのに、妙に恐れ戦くアイリス。乗り出していたはずの身が、そっと元の位置に戻っていった。
「学年五位の『難しくない』程、信用できない言葉もないです」
「アイリスさんがこの一か月で習った内容の延長ですよ」
「はー……」
どこから出た声なのかは分からなかったが、聞いていてやたらと気が抜ける声だった。よくよく見れば、表情がこれまでとは違い、どこか遠くを見るような目付きをしている。
「一年後に私もこれを解いてるんですね」
見ていたのは、どうやら一年後の自身の姿らしかった。
「今解いてみます?」
「お断りです」
一年後の姿を先取りしてみないかという提案だった訳だが、はっきりと断られてしまった。思わず見惚れてしまいそうになる程に清々しい笑みを浮かべ、わざわざ両手を体の前で広げてまで拒否の意思を示している。
「私はこっちで手いっぱいなので!」
「残念です」
「何で葵さんが残念がるんですか」
「解けなくて唸ってるアイリスさんを見るのが楽しみだったんですけど……」
「おに! あくま!」
もちろん、いつも通りの冗談である。アイリスもそれが分かっているからこそ、昨日の言葉をそのまま口にしたのだろう。
「ま、それはまた別の機会に期待するとして。また何かあったら聞いてください。何でも答えますから」
「そんな機会はないです。でも、質問はよろしくお願いします」
そうして再び、お互いの手元に集中する。これまで誰かと一緒に勉強する機会などなかったのでよく分からないが、何故かいつもよりも順調に進められているような気がした。




