2. 二つの始まり
始業式が行われた翌日の朝、いつもと同じ電車に揺られて学校へと向かう。都会からは大きく離れた地方らしく、通勤、通学の時間帯でも乗客はそこまで多くはない。この日も、これまでと同じ場所に座っていた。
何をするでもなく、車窓を流れる景色を眺める。住宅街やまだ苗の植えられていない田んぼ、広大な敷地を持つ工場が、視界の端から端へと走り抜けていく。電車の規則的な揺れと走行音が心地よく、振り払ったはずの眠気が再び忍び寄ってくるかのようである。
最寄りの駅を発車してからいくつかの駅を通り過ぎ、カーブの先に、終点との中間辺りに位置する駅が見えてきた。電車は少しずつ速度を落とし、ホームへと滑り込む。
「……あ」
この一年でほとんど変化のない景色に、いきなり小さな変化が現れた。具体的には、見覚えのある人物が簡素なホームに立っていた。意外な発見に、電車の中であるということも忘れて小さく声を漏らす。
(水瀬さん……?)
碧依という下の名前の印象が強くて、一瞬名字を思い出すことができなかった。この時間にこの駅にいる時点で分かっていたことだが、どうやら、同じ方面の電車を利用しているらしい。春風に揺られる髪を押さえる仕草が、妙に絵になっている。
乗っている車両の前の乗降口が、ホームに立つ碧依の近くで停止した。同じ車両に乗り込んでくる碧依にちらりと視線を向けるが、乗降口近くに空席を見つけたらしく、碧依がこちらに気付くことはなかった。そもそもの話として、話したこともない自分に、碧依が気付くはずもないのだが。
何はともあれ、偶然にも同じ電車に揺られて、同じ学校の同じ教室に向かう。終点までは残り数駅。徐々に近付いていた眠気との距離は、ほんの僅かだが離れたような気がした。
終点で電車を降りると、少し前の方に碧依の後ろ姿があった。挨拶くらいは、とも思うが、一度も話したことのない相手から話しかけられても戸惑うだけだろう。
挨拶だけなら、教室でもできる。一人そう考えながら駅を出て、正面に延びる大通りから分かれる道へと足を向ける。前を歩くはずの姿が見えないということは、碧依は別の通学路を利用しているのだろう。自分はこの道を利用しているが、駅から学校に向かう道は複数ある。
「……」
彼我の距離感を考えなくてもよくなったことに安堵しながら、学校までの道をいつも通りのペースで歩いていく。昨日と同じく、晴れていても少しだけ寒い、春の朝のことだった。
「あ、おはよう、湊君」
後ろの扉から教室に入ってすぐに、悠が声をかけてきた。
「おはようございます」
定番の挨拶を返しつつ、自分の前の席を見る。昨日の朝と同じく、その席は未だに空席だった。碧依がどの道をどんなペースで歩いているのかは分からないが、どうやら自分の方が早く着いたらしい。
「羽崎君って、朝は早い方ですか?」
「んー……? いや、そうでもないかな。今は、新学期が始まって緊張してるだけだと思う」
教室の中が半分程埋まっているのを見て、悠にそう問いかける。朝が早い部活に所属している訳でもないようなので、それならば単に早起きなのかと思ったのだった。
だが、首を傾げて苦笑いしている悠の姿からすると、先に登校していても苦手なものは苦手なようだった。朝の時間の違いは、きっと電車の時間の違いによるものだろう。
「そう言う湊君は?」
「眠いのは眠いですけど、早起きはできますよ。高校に入る前から早起きしないといけない環境だったので、もう慣れました」
「へぇ。何となく朝に弱そうなイメージだったから、ちょっと意外かも」
「どんなイメージですか」
「しばらくベッドの上でぼんやりしてそうなイメージ」
そう言いながら、小さく笑う悠。これは悠なりのからかいなのだろうか。昨日は不意に出そうになっていた敬語も、今日はその気配すら見せていない。
自分から僅かに遅れて碧依が登校してきたのは、そんな会話をしている時だった。転校してきて二日目の朝だというのに、既にたくさんのクラスメイトから挨拶を受けていて、その人気ぶりが窺える。
「一日ですぐに馴染んじゃったね」
「ですね」
その様子を二人で眺めながら、悠の呟きに同調する。一日どころか、新学期初日のたった半日だけでここまでクラスに馴染めるのは、碧依の人柄が影響しているのだろう。昨日一言も話しておらず、碧依がどんな人物なのかを未だに知らない自分が言ったところで、大した説得力などありはしないのだが。
そんなどうでもいいことを考えているうちに、丁寧に挨拶を返しながら、碧依が近付いてくる。その最中、碧依の瞳がこちらを捉えた。その瞳に何故か好奇心のようなものが宿っているのを見るに、昨日の視線も自分の勘違いではないのかもしれない。
「おはよう、湊君、羽崎君」
「おはようございます」
「おはよう、水瀬さん」
名前を覚えられていたことに若干驚きつつ、先程悠にも返した挨拶を碧依にも返す。
自分と碧依。出会ってから初めて交わした言葉は、どこにでもあるような何気ない挨拶の言葉だった。
「本当はね、昨日から湊君と話してみたかったんだ」
鞄を置いた後、椅子に横向きに座った碧依が楽しそうに笑いながら話しかけてきた。胸の前で両手を合わせる仕草が、とてもよく似合っている。
「昨日から、ですか?」
「そうそう。もっと言うと、初めて教室に入る前に、名簿を眺めてた時からかな?」
「名簿……。……名前?」
「そう! 名前が一文字違いだなって!」
そう言われて、改めて考える。「みなとあおい」と「みなせあおい」。確かに一文字違いである。てっきり下の名前のことだけを言っているのだと思っていたが、何故か嬉しそうにしている碧依の口振りから察するに、名前全体のことを言っていそうだった。
「名前だけ見て勝手に女の子だと思ってたから、湊君が男の子でびっくりしちゃった」
「よく言われます」
その言葉通り、碧依の顔にやや意外そうな表情が浮かぶ。自分としては、言われ慣れ過ぎて最早気にもしていない。名前だけで女の子だと勘違いされるくらいであれば、特に面倒なこともないからだ。
「昨日はいつの間にか帰ってたみたいだし、今日こそはって思ってたの」
「周りにたくさん人が集まってたので、後ろの席が空いてた方が気を遣わなくてもいいかなと」
「すっごく可愛い顔してるのに、気遣いの鬼みたいだね?」
「……鬼?」
女顔とは言われ慣れているが、なかなか可愛いとまで言われることはなかったので、思わず動揺してしまった。そのうえ、「気遣いの鬼」というよく分からない肩書まで頂戴したことで、いよいよ戸惑いの感情が深くなっていく。
悠が笑いを堪えているのが視界の端に映り、抗議の意味を込めて視線を送る。明後日の方向を見てその抗議を受け流す悠の横顔も、自分に負けず劣らず女顔だった。そうこうしている間に、碧依が顔を覗き込んでくる。
「昨日初めて見た時も思ったけど、本当に可愛いよね……」
「こんな見た目でも一応男なので、そう言われると複雑ですけどね」
「あ、ごめん、もしかして気にしてた?」
「いや、そういう風に言われることがあんまりなくて、ちょっと驚いただけです。気にしないで下さい」
「そっか、よかった」
自分の言葉に安堵して零れた笑みは、昨日あれだけ人を惹きつけていたのも納得できる、とても柔らかなものだった。
「可愛いと言えば、羽崎君も……」
「えっ?」
こちらの顔を覗き込むような体勢から元に戻り、そして話の矛先が完全に油断していた悠に向く。悠の見た目が常識外れとも言える程に可愛いと感じた自分の感覚は、やはり間違っていなかったらしい。
「髪とか目の色も綺麗だよね」
「あ、ありがとう……?」
そういった機会があまりないと言っていたのに、二日続けて褒められて、悠も困惑しているようだ。その困惑が、可愛いと言われたことに対してなのか、髪や瞳の色を褒められたことに対してなのかは分からない。ただ、個人的には両方のような気がした。
「こう、二人が並んでるのを見てると、新しい扉が開きそうだよね」
「閉じてて下さい」
「閉じてて」
碧依の不穏な言葉に、悠と同時に同じ言葉が出た。
「えー? 絶対に可愛い服とか似合うと思うんだけどなぁ」
「着ませんよ」
「着ないからね」
再び二人分の声が重なる。
「残念。じゃあ、今は諦めるね」
「これからも諦めてもらえると嬉しいんですけど?」
「それは無理かな!」
当然とも言える願いは、清々しい表情と言葉と共に、あっさりと却下された。
「どうしよう湊君。絶対にいつか着せる気だよ……」
「何でこんなに強気なんでしょうね……」
「可愛いものが見たいって感覚は、女の子として当然の感覚だからね!」
「その清々しい顔は、多分別の使い道があると思いますよ」
少なくとも、クラスメイトの男子二人を女装させる決心をする時、その顔に浮かべていい表情ではない。
「それ、私も見たいかも!」
自分と悠が何としてでも女装を回避することを心に誓っていると、思わぬところから追撃の声がかかる。明らかに、今まで話していた碧依の声ではなかった。
「うぇ!?」
突然の出来事に驚いた悠がよく分からない声を上げる中、声がした右隣の席に目を向ける。そこには、人懐っこそうな栗色の瞳があった。心なしかきらきらと輝いているように見えるのは、果たして自分の気のせいなのだろうか。
「えっと……、渡井さん? 見たいっていうのは……?」
「二人の可愛いところに決まってるでしょ!」
墨色のポニーテールを揺らしながら身を乗り出して話しかけてくるのは、もう一人のお隣さんだった。昨日の自己紹介によれば、確か名前は「莉花」だったはずだ。穏やかそうなイメージの碧依とは反対に、明るくはきはきと話す莉花からは、活発そうな印象を受けた覚えがある。
「だよね! 渡井さんも見たいよね!」
「もちろん! 絶対に可愛くなる……!」
味方が現れたこと自体は、碧依にとっても予想外だったはずだ。だが、プラスの予想外には違いないので、一瞬だけ驚いて、その後はこれまでと変わらず楽しそうにしている。
意外と押しが強いらしい碧依と、意外でも何でもなく押しが強そうな莉花。厄介な組み合わせに目を付けられてしまった。
「どうしよう、湊君……。かなりまずいことになってる気がするよ……?」
「偶然ですね。僕も同じことを考えてました」
微かに声を震わせる悠と、全く同じ感想を抱く。新学年、新学期が始まってからまだ二日目なのに、まだ誰と誰の相性が良いなど分からないはずなのに、もう既にこの二人に打ち勝てる未来が見えない。
「私はフリルとかたくさんの『可愛いっ』って感じの服が見てみたいんだけど、渡井さんはどう?」
「いっそ、コスプレっぽく王道のメイド服とか制服とか!」
「いい……!」
強力な二人組に悠と揃って怯えている間に、話はさらに悪い方向へと転がっていく。悠がこちらを見ながら、無言で首を横に振っていた。
「ってわけで、どうかな?」
期待に満ちた目で二人に迫られる。いくら女顔なことを自覚していても、それは最後の一線を軽く飛び越えている気がしてならなかった。とはいえ、どうしたらこの二人が諦めてくれるのか、全く想像がつかないのもまた事実。
「それはちょっと……」
「えー? どうしてもだめかなぁ?」
やや小柄な碧依が、覗き込むようにして首を傾げる。俗に言う上目遣いだ。体格の関係な辺り、きっと本人は無意識にやっているのだろうが、その破壊力は抜群である。
「いや、でも流石に女装は……」
明らかに押され気味とは分かりつつも、どうにかならないかと必死で考える。
始業の鐘の音が聞こえてきたのは、まさにそんなタイミング。大半の生徒にとっては少し気分が沈む瞬間だが、今の自分と悠にとっては、紛れもなく救いの鐘だった。これ幸いと言わんばかりに、話を切り上げようと動き出す。
「あ、もう時間ですね」
「そっ、そうだね! 二人も早く準備したほうがいいと思うよ!」
想像以上に悠が焦っているのを見るに、何か思うところがあるのかもしれない。考えられるとすれば、何らかの経験があるか、だ。
「あぁ……、ざーんねん」
少しの不満を残しつつも、どこかからかいの色を含んだような声で、碧依が会話の終わりを告げる。結局自らの力ではどうにもならなかったが、とにかく助かったようだ。
「この話はまた今度ね」
助かっていなかった。碧依の言葉を引き継いだ莉花が、にやにやと笑いながらそう告げる。一体何が莉花をそこまで突き動かすのかは分からないが、男子二人の女装に情熱を注ぎ過ぎではないだろうか。これでも莉花とは初めての会話である。
「次はありませんよ」
「それ、何か違う意味に聞こえて微妙に怖いよ……?」
左隣では、何故か悠が引いていた。
「じゃあ、ここに入る単語を答えてもらおうかな。えー……、じゃあ……」
新学期最初の授業は英語だった。授業が始まってすぐの自己紹介によると、今年の英語教師は一昨年大学を卒業したばかりらしい。生徒と歳が近い女性で、男女関係なく人気がありそうな印象だ。
黒板には、白い文字で穴抜けの英文が書かれている。教師の目が教室の中を彷徨い、それから選ばれた解答者は、自分から見て左斜め前のクラスメイトだった。
「あー……、えっと……」
何かの単語がその口から出てくることはなく、どこか曖昧な呟きだけが教室の中に響く。どうやら、尋ねられている問題の答えに心当たりがないらしい。件のクラスメイトは横顔しか見えないが、それでも目が泳いでいるのが見て取れる。
「ちょっと難しい単語だったかな? 『躊躇う』って意味の単語が入るんだけど、出てきそう?」
「いや……、分からないです」
ヒントを貰ってから少し考えても答えは出なかったようで、結局諦めの言葉が聞こえてきた。それを受けて、頭の中で英単語が入っている引き出しを改めて確認する。座っている席が近いので、下手をすると次は自分に順番が回ってくる可能性があった。
(「躊躇う」なら、Hesitate)
思い出した英単語が合っていることを確信し、少しだけ緊張の糸を緩める。これで、もし解答者に選ばれたとしても、答えに詰まることはない。言葉にすればたったそれだけのことなのだが、高校生である自分が軽く緊張してしまうには十分な状況である。
そんなことを考える自分を尻目に、解答者は横にスライドしていった。
「それじゃあ、隣の……、水瀬さん。分かるかな?」
新学期一回目の授業で生徒全員の名前を知るのは、流石に無理があったらしい。教卓に貼られた座席表を見ながら、指名が続いた。
「Hesitateだと思います」
「正解!」
転校生の学力がどの程度なのか、ほとんどのクラスメイトが碧依に意識を向ける中、そんな空気を気にしていないかのように本人が解答して、英文に空いた穴が埋まる。単語の意味とは違い、碧依の回答には一切の躊躇いが存在していなかった。
「Hesitateはそんなに出てくる頻度は多くないけど、その分ここで覚えておくと今度出てきた時に便利だから、今覚えちゃってね」
そう解説が続いて、授業も続いていく。ふと視線を向けた時計の針は、まだ思った程進んではいなかった。視線を黒板に戻す途中、振り返った教師と目が合う。
「……」
よそ見をしていたのがばれてしまっただろうか。一瞬そう考えたのだが、教師の反応は予想とは違ったものだった。
「……?」
咎められるのかと思っていたが、実際は気まずそうに目を逸らされた。一年生の時の英語は別の教師が担当だったので、この英語教師とは今日が初対面のはずだ。そうなると、ますます今の反応の理由に心当たりがない。
もちろん、気にならないと言えば嘘になる。だが、授業中にいきなりそんなことを尋ねられる訳もなく。
再度黒板と向かい合う教師の背中を見ながら、抱いた疑問を薄れさせていく。正直なことを言えば、これまでの経験のせいでそんな反応には慣れている。頭の中から今の違和感が消え去ってしまうのに、そう長い時間はかからなかった。
「そういえば、宿泊学習ってどこに行くか決まってるの?」
三限の数学の授業が終わった後の休み時間。何の脈絡もなく、碧依が前の席から話しかけてきた。名前が似ているからなのか、それとも朝の一件のせいなのか、若干懐かれている感がある。それを聞ける相手など、碧依にはいくらでもいるはずなのだが。
「今まで通りなら、隣の県のどれかになると思いますよ」
「へぇ、結構遠くまで行くんだ。何をするかとかって、分かったりする?」
「いや、それは毎年違うらしいです」
「そっか。じゃあ、そこはお楽しみってことだね」
そうは言っても、今尋ねられているのは自分である。ここで聞こえなかった振りをする理由もない訳で、ずっと昔に手に入れた知識を引っ張り出しながらそう答える。急がなくても、どうせ時期的にすぐ案内がありそうな気もするが、やはり転校してきてすぐのイベントは碧依としても気になるようだ。最も、碧依ならその心配も杞憂に終わるだろうが。
「一年の宿泊学習の時期に転校とかしなくてよかったね、碧依」
自分達の会話に参加してきて、何とも言えない表情でそう話すのは莉花だ。いつの間にか、お互いを名前で呼ぶようになっている。席を立っていた二限後の休み時間に、二人の間で何かがあったらしい。
「莉花ってそういうイベントが好きそうだけど、何かあったの?」
「違う違う。反対反対。何にもなかったの」
「何にも?」
莉花は右手を振って「何もない」を表し、碧依は莉花の口調を真似て繰り返す。首を傾げているのは無意識なのだろうか。ちょっとした仕草だが、とても似合っている。
「そ。なんか山奥の施設みたいなところで色々してたんだけど、どれも微妙に面白くなかったんだよね」
「例えば?」
「んー……? 陶芸の真似事とか?」
「と、陶芸……?」
いきなり飛び出してきた高校生らしくない言葉に、碧依が困惑しているのがありありと伝わってくる。仮に自分が碧依の立場だったとして、同じ反応をしてしまう自信があった。
「うん。土をいじって焼いてってやつ。工作とか好きな人は楽しかったんだろうけど、私はそこまでって感じだったかな」
「確かに、莉花のイメージとは合わないかもね」
「私のっていうか、女子高生であれを楽しんでできる人の方が少数派だって」
「それはそうかも」
記憶を掘り起こす莉花が話す通り、一年生の時の宿泊学習は、あまり評判がよくなかった。二泊三日の全工程が山の中で、変化が少なかったのも悪かったのだろう。個人的なことを言えば、意識して思い出さない限り、自分もあまり内容を話せない。
「でも二年の宿泊学習は大抵評判がいいから、期待はしてもいいんじゃない?」
「ほんと? ハードル上げても大丈夫?」
色々と詳しく思い出しているのは莉花なのに、碧依が同意を求めた相手は自分だった。何故このタイミングで、こちらに話を振ってきたのだろうか。
「いや、行き先も内容も知らないので何とも……」
碧依が考えることは分からないが、とりあえず曖昧な言葉だけを呟く。碧依が考えることの他に、今年の宿泊学習のことも分からなかった。
「それもそっか。いきなりごめんね」
そんな自分に、碧依が両手を合わせてそう口にする。ここでも首が傾いている辺り、やはり無意識の癖のようだ。
「碧依ー? 何で今、私に聞かなかった?」
「え、だって、莉花は何でも楽しみにしてそうだから、聞いてもあんまり意味がないかなって……」
「ひどい! 傷付いた!」
「ごめんって。そんなに気にするとは思わなくて」
表情が苦笑いに変わり、自分の正面にあった両手は莉花の前へとスライドしていった。明らかに本気で傷付いていない莉花が、相変わらず小さく首を傾げる碧依を見て、満足そうに一度頷く。
「可愛いから許す」
「やった」
目の前で繰り広げられていた寸劇の幕が、あっさりと下りた瞬間だった。
「まぁ、実際ハードル上げてもいいと思うよ。宿泊学習って名前だけど、ちょっとした修学旅行みたいな感じらしいし」
「そう聞くと、確かに楽しそうかも」
「ねー。今から班決めが楽しみ」
そのまま流れるように来月の話を始めた二人の会話をぼんやりと聞いていると、これまでは会話に参加していなかった声が、いきなり聞こえてきた。
「班決めかぁ……」
やや憂鬱そうな声の持ち主は悠。自分達の会話に釣られてしまったのか、悠もまた、少し先の未来を想像しているらしい。
「どうかしました?」
「いや、人見知りには厳しいイベントだなって思って」
内心の不安が、早くも悠の表情に表れていた。確かに、二泊三日を共に過ごす相手を決める班決めは、宿泊学習を楽しめるのかどうかをも決めてしまうものと言っても過言ではないだろう。親しい友人と班を組むことができれば言うことはないが、苦手な相手と共に過ごすことになってしまえば、もう目も当てられない。
「普段話さない人とも関わりを持ちなさいって、そんな感じの意味もあるんでしょうけどね」
「そうなんだろうけど、明らかにタイプの違う人と組まされても、人見知りは仲良くできないよ」
後ろ向きに確信を語る悠だった。初めて見るタイプの確信の仕方で、ある意味感心させられる。
「そもそも、どうやって班を決めるんだろうね?」
「去年と一緒で、くじ引きだと思いますけど」
「くじかぁ……。僕ってあんまり運はよくないからなぁ……」
「確実にくじって決まった訳じゃないですし、まだ希望はありますって」
「例えば?」
「え……」
くじではない可能性に賭けたいのか、悠が食い下がってきた。そこまで深く考えての言葉ではなかったので、思わず口の動きが止まる。
「それは……、ほら、生徒が自由に班を組めるとか……?」
「自由に?」
「まだクラスが変わって日が浅いので、それを考慮して、みたいに……」
「目が泳いでるよ?」
「う……」
縋るような眼差しに負けて一つの可能性を口にしてみるも、悠は半信半疑のようだった。まさか悠からそんな目を向けられるとは思っておらず、つい呻き声のようなものを漏らしてしまう。
「でも、そうだったらまだ気は楽だよね」
「ですね。僕も、できれば話しやすい人と組めた方がいいですし」
ここでどうこう言っていても仕方がないとは分かっているようで、そこで悠の表情が和らいだ。その姿に胸を撫で下ろし、余裕ができた頭の中で一人考える。
(そういう意味では、それこそ羽崎君が同じ班だといいんですけどね)
自分とて、同じ班になるのは一緒にいて気が楽な相手の方がいいに決まっている。そう思いながら、目の前の顔を眺める。
「な、何?」
「いえ、何でも?」
いきなり見つめられて困惑した悠が問いかけてくるが、僅かに笑みを浮かべながらそれだけを返す。変に希望を持たせても、自分は責任を負うことはできない。
「それより、そろそろ次の授業の時間ですよ」
「あ、ほんとだ。次って何だったっけ?」
「漢文です」
「そっか。ありがと」
そんな会話をしながら教科書を取り出していると、四限の始まりを告げる鐘が鳴り、担任兼漢文教師の平原先生が教室に入ってきた。
「さ、始めますよ」
教卓に教科書一式を置いてからそう宣言し、午前最後の授業が始まった。
「……ない方がいいよ」
「ん……?」
四限が終わって、昼休みに入った後のこと。昼食を終えてから用事で席を外していたが、その用事を済ませて教室に戻ってくると、誰かが自分の名前を口にしているのが聞こえてきた。あまり穏やかではない雰囲気を声の調子から感じ取って、思わず扉のすぐ近くで立ち止まる。
廊下側の窓ガラスを挟んでいても、ある程度話し声は明瞭に聞こえてくる。そのことを考えるに、恐らく話しているのは自分の席の近くなのだろう。
「え? 何?」
聞き返す声は、聞き覚えのあるものだった。どうやら、会話の相手は碧依のようだ。そうなると、悠や莉花もその場にいる可能性が高い。
「だから、湊とは関わらない方がいいって言ってるんだって」
続けて、相手の男子生徒の声が聞こえる。何となく聞き覚えのある声に思えるが、残念ながら、まだ声だけで誰なのかを判別できる程、クラスメイトに詳しくはなかった。
何にせよ、そんな言い方をしている時点で、ある程度事情を詳しく知っている人物であることは間違いない。どこに行っても、どれだけ歳を重ねても、そういったことを話したがる人は後を絶たない。自分が何をどう思おうが、きっと周囲にとっては何も関係がないのだろう。
少しだけ、目が細くなってしまうのが自覚できた。
「どうして?」
いきなり告げられた碧依の返事は、至極当然のものだった。男子生徒の言葉は、情報量が少ないどころか、何一つ含まれていないと言える。これでは、碧依でなくても首を傾げることだろう。
「転校してきたんなら知らなくても仕方ないけど、あいつの親が何をしたかってのは、少しは知っておいた方がいいよ」
「湊君のご両親? 何かあったの?」
「そ。あいつの親な……」
男子生徒がそこで言葉を切り、少し間を空けてから次の一言を発した。
「犯罪者なんだよ」