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19. 帰れない場所、帰らない人 (2)

「おぉ……。おぉー!」

「せめて人の言葉でお願いします」


 目的の洋菓子店に着いての、莉花の第一声がそれだった。「第一声」と言うには、ほとんど意味を持たない感嘆の声ではあったが。


 屋外エリアにあるその店は、例えるならアール・ヌーヴォー調の住宅のような見た目をしていた。練色とでも言うべきその外壁は、柔らかく温かな印象を与えると同時に、周囲の店との対比でより目立つようになっている。


 通りの角に面しており、通路側の二面にはそれぞれ大きな扉が設えられている。雨が降れば閉じられるのだろうが、晴れている今は、どちらの扉も開け放たれていた。


 そこから見える範囲だけでも、いくつもショーケースが並んでいる。看板商品のプリンを始めとして、チョコレートやクッキーといった定番のお菓子も、実に様々な種類のものが陳列されていた。


「圧巻……」

「先に言っておくね。これは迷うよ」


 碧依の謎の宣言は放っておくとして、悠のように思わずそう呟いてしまう気持ちはよく分かった。観光地に特有の、たまに色物が混ざった店ではない。目の前の洋菓子店は、混じり気一切なしの、本格的な洋菓子店だった。


「普段ケーキとかを見慣れてる湊君的にはどう?」

「僕が作ってるわけじゃないので良し悪しは分からないですけど、どれを見ても美味しそうなのが凄いと思います」


 遠目からの見た目だけでもこれだけ強烈に訴えかけてくるのは、純粋にそれだけの魅力が詰まっているからだ。観光地の中にあって単独で雑誌に取り上げられたというその評判も、これなら納得できるというものである。


 このままだと誰も足を踏み出さないように思えてしまったので、自分が先陣を切って店内に足を踏み入れる。その瞬間、店先まで漂っていた甘い香りが一層強くなった。他の客の邪魔にならないように店内を見回してみれば、入口の死角になっていた場所にまで様々な商品が並んでいる。


 自分が働いているDolceria pescaは、ケーキを基本とした店だ。そうなると、クッキーなどのメニューはサイドメニュー的な扱いとなり、常時販売している種類や数はそこまで多くない。


 一方、この店はどちらかと言うと土産物として持ち帰ることを想定しているのか、既に包装された商品が大半だった。試食用として、数多くの商品が一口サイズで提供されているのも違いの一つである。


「ここにいると太りそうですね」

「さっき言ったこと、もう忘れたの?」

「ただの独り言です」


 思わず漏らした独り言を、近くにいた碧依に聞かれてしまったらしい。内容が内容だけにやや威圧的な雰囲気が押し付けられたが、特定の誰かに言った訳でもない呟きくらいは許してほしい。


「昨日と今日でたくさん歩き回るから、それで大丈夫だし」

「碧依さんには言ってないですって」


 威圧的な雰囲気そのままにそう零す碧依。こちらに言うなら、せめて顔を上げて言ってもらいたい。腰の辺りを見つめられても困惑するだけだ。見たことなどないが、碧依の方が細いはずだ。


「もしお肉が付いたら、増えた分は葵君にあげるね」

「こぶじゃないんですから」

「葵君はもう少し体重を増やした方がいいからね」

「健康診断ですか?」

「ってことで、食べなさい」


 そうして差し出された碧依の手の平には、近くにあった試食用の小さなチョコレート。特に断る理由もないので、そのまま受け取って口の中へ入れる。仄かな苦味が混ざった甘さが舌の上に広がる。


「どう?」

「美味しいです」

「苦さは?」

「そこまで強くないですね。市販品のチョコレートよりも少しだけ強いくらいです」

「なるほど」

「自分で食べた方が分かりやすいと思いますよ」


 そのための試食なのに、碧依は何故か自分からあれこれと味の感想を聞き出している。どこまで詳しく話したとしても、それはあくまで自分の感想でしかないので、やはり自ら食べてみた方がいいのではないかと考えてしまう。


「客観的、客観的」

「雑なんですよ」


 まるで便利な言葉であるかのようにそう言う碧依だったが、それはそこまで便利な言葉ではない。口調の軽さも、冗談のような雰囲気に拍車をかけている。


「ほら、碧依さんも」


 このままでは埒が明かないので、近くにあった試食用の箱を開けて、中身を取り出す。細長いビスケットがチョコレートでコーティングされたお菓子だった。たまに見かけるものだが、名前は知らない。


「いただきまーす」


 自分と同じように一度受け取ってから食べるのかと思いきや、ビスケットがそのまま自分の手から碧依の口の中へと直接消えていった。そのことに少しだけ驚きつつも、ビスケットを味わう碧依に尋ねてみる。


「どうです?」

「美味しい」

「雑なんですよ」


 この短時間で二度目となるやり取りである。放っておけば、何度も同じやり取りを繰り返すことになるのではないかと、少しだけ融けて指先に残ったチョコレートを口へと運びながらそう思う。


「さっきのチョコレートとは少し味が違うんですね」

「そうなの?」

「こっちの方が少しだけ苦い気がします」

「へぇ……。全部同じチョコじゃないんだ」


 二種類のチョコレートを体験した自分の言葉で碧依も気になったのか、そう呟きながら、先程自らが差し出したチョコレートの箱を開ける。自分が受け取った時とは違う形の茶色の破片が、碧依の口の中へと消えていった。


「ほんとだ。こっちの方がちょっと甘いかも」

「『ちょっと甘いかも』じゃないわ」

「え?」


 試食したチョコレートの箱を見ながら碧依が感想を口にした瞬間、予期していなかった三人目の声がした。自分達の死角となった場所に、いつの間にか莉花が立っている。


「何やってんの、二人共」

「何って、試食ですけど」

「試食だよね?」

「そこじゃない。自覚もないのか」


 誰がどう見ても試食の真っ最中だった訳だが、どうも莉花が言いたいのはそういうことではないらしい。いまいち話が見えず、呆れ顔を見せる莉花に二人揃って首を傾げることしかできなかった。


「もう一回同じことをしてみなさい」

「何を?」

「湊君が碧依にチョコを渡してたでしょ」

「試食……?」


 何も理解できていないが、もう一度碧依に例のビスケットを渡せ、ということらしい。不思議な話だが、とりあえず何も考えずに再度試食用の箱を開く。


「どうぞ」

「いただきまーす」


 先程と同じように一本差し出すと、先程と同じ台詞と共にビスケットが消える。コーティングに使われているチョコレートがやや柔らかいものなのか、またもや指先に少しだけ残ってしまった。これまた何も考えずに、そのチョコレートを口に運ぶ。


「で、何です?」


 先程と同じ味が微かに口の中に広がったところで、再度莉花に尋ねる。望まれていたことを果たした訳だが、これが一体何だというのか。


「碧依」

「何?」

「何で普通に湊君から直接食べてるの?」

「何かだめだった?」

「素か」


 尋ねたのは自分なのに、莉花の視線が向く先は碧依だった。そう言われているのを聞いて、そこでやっと莉花が言いたかったことを理解する。


 そうして理解してみれば、確かに少しだけ迂闊だったような気がしないでもない。


「湊君も。自然に指先を舐めてたけど」

「次を取る前にちゃんと消毒しましたよ」


 そういうことを言いたいのではないとは分かっているが、ここでおかしな反応を見せてしまえば、そのまま莉花の餌食になるだけである。適当なことを言って誤魔化すことができるのなら、それに越したことはない。


「そういうことじゃない」

「さっきからずっと呆れ顔ですね」

「呆れ顔にもなるわ。やり取りが恋人同士のそれなんだから」

「そんなこと、考えもしませんでした」

「あ、これだめだ」


 残念ながら、こんな適当な言葉では誤魔化されてくれなかった。それどころか、何かを諦められた節すらある。


「わざわざそんなこと意識しないって」

「碧依。いいことを教えておいてあげる。本人達がどう思ってるかなんて、周りには関係ないの。全部自分達の好きなように解釈して、好き勝手にその枠に当てはめようとするの」

「人間が嫌いなんですか?」


 真剣な面持ちで碧依にそう告げる莉花。その考えを否定する気は一切ないが、随分と極端な考え方である。もしかすると、過去に何か嫌なことでもあったのかもしれない。


「だって、私がそうだからね!」

「僕の心配を返してください」


 そう思ったのも束の間、莉花の表情が何故か自信に満ち溢れたものに変わる。浮かべる場面によってはとても頼りになりそうな表情だったが、そんな場面ではないので頼りにはならなかった。むしろ、面倒という気持ちの方が遥かに大きい。


「昨日の夜か? 兄弟の話ってのは誤魔化しだったの?」

「それは本当の話だよ」

「『僕と兄妹になってくれませんか?』って?」

「それ、僕の真似ですか?」


 何やら声の高さと口調を変えた莉花だったが、仮に自分の真似だとすると、似ていそうであまり似ていない、何とも言えない仕上がりとしか言いようがなかった。


「そもそも、恋人って話じゃないの?」

「『まずは兄妹から始めませんか?』」

「友達じゃないんだ」

「そこから始めたとして、ゴールはどこなんでしょうね」


 兄妹から始まる関係など、辿り着く先は家族以外にない。それでも、莉花は気にした様子を全く見せない。


「そうなってくると、プロポーズの言葉が気になるよね」

「どうせろくなものじゃないですよ」

「『碧依さんと家族になりたいんです!』」

「もう家族だよ」

「言葉だけはそれっぽいのが腹立たしいです」


 二人がかりで突っ込まれようと、莉花は止まらない。


「『こんな風に思ってしまうのは、おかしいですかね……?』」

「おかしいよ」

「何ならスタートからおかしいです」

「『こんな気持ちは初めてで。どうしたらいいか分からなくて……』」

「奇遇だね。私と葵君も一緒」

「多分、今の僕達の方が困ってます」


 奇妙な寸劇のゴールをどこに定めているのか、その着地点が一切見えない。そもそも着地点を定めていない、最悪のパターンは考えないことにした。


 そんなことを考えている間に、莉花の頭の中では何かがクライマックスを迎えたのか、その頬がうっすらと赤くなっていく。少しだけ演技派だと思ってしまった自分の心を抑え込みながら、次にその口から出てくる言葉を待つ。


 止めることは、既に諦めていた。


「『それでも、こんな僕でよかったら、よろしくお願いします……!』」

「どうして受け入れてもらえると思ったんだろうね?」

「妄想の中の碧依さんは一回受け入れてますから」

「そっか。私も同類なんだ」


 納得したようなことを言う割には、碧依の顔には何とも言えない表情が浮かんでいた。間違っても、喜んでいる表情ではない。


「『ありがとうございます……!』」

「あ、成功した」

「渡井さんの中で、碧依さんがどういう扱いなのか気になりますね」

「今は聞きたくないかな?」

「清楚系の見た目をしてるのに、たまに性癖を暴露する人」

「聞きたくないって言ったのに!」

「急に正気に戻りましたね」


 戻ったところで、口にした言葉はまともなものではなかったが。碧依に会心の一撃が入った。


「よし。一通り碧依で遊んだし、真面目にお土産を選んでこようかな」

「私『で』?」

「遊ばれたのは僕では?」


 突然寸劇をやめた莉花が、後始末をせずにこの場を去ろうとしていた。言葉も状況も、何もかもが間違っている。


「ちなみに、物真似は何点だった?」


 宣言通り店内の散策に戻ろうとする直前、ふと思い出したかのように莉花が振り返ってそんなことを尋ねてくる。


「二十点」

「うっわ。赤点……」


 これでも甘く採点したつもりだった。本当なら、関わりたくなかった妄想に関わらせた罰として、さらに点数を下げてもいいくらいだ。


「ふーん……。そっかそっか……」


 お土産を選びに行くはずの莉花が、いつまで経っても目の前から動かない。それどころか、明らかに何かよくないことを考えている。その顔は少し俯いていて感情を推し量ることはできないが、厄介事の気配だけはこれ以上ない程分かりやすく伝わってきた。


「……」

「……」


 隣でその様子を眺めていた碧依も同感のようで、自分と目が合うと同時に、何かを察したように小さく頷く。


「あ、じゃあ、私と葵君はあっちの方を見てくるから。莉花もゆっくり選んでね」

「まだまだ余裕はありますし」


 選んだ選択肢は、「とにかく莉花から距離を取る」。戦場では一瞬の判断が大事であり、そして今この瞬間、ここがまさに戦場だった。


 以心伝心、拈華微笑。言葉も交わさず取るべき行動を共有した碧依と、その場を離れようとする。


「まぁ、待ちなさいって」


 だが、お互いに片手ずつを絡め取られる。相手はもちろん莉花。


「何? お土産、選ぶんじゃないの?」

「そのつもりだったんだけどね? 二十点じゃ、引き下がるに引き下がれないでしょ?」


 碧依が話の軌道を修正しようとするが、莉花は頑として譲らない。掴まれた腕もどうにか振り解こうとする碧依だったが、そちらも何とかなる気配はなかった。莉花からすれば、テニス部としての面目躍如といったところだろうか。地味に握力が強い。


「何をするつもりで?」

「赤点を取っちゃったら、それは補習でしょうよ」

「補習」


 本来使われるべき場面でも嬉しくない言葉だが、今はそれ以上に嬉しくない言葉である。もうこの時点で嫌な予感しかしない。


「もう一回付き合ってもらおうか」

「新手の拷問ですか?」


 何が悲しくて、もう一度自分の物真似を見なければならないのか。しかも、二十点の物真似である。


「酷評された物真似をもう一回やるのって、意味が分からないくらいメンタルが強いね」

「テニスをするにはもってこいじゃないですか」

「繰り返すのはラリーじゃなくて物真似だけどね」

「『上手いことを言った』って顔じゃなかったら満点でした」


 絡め取られた腕はそのままに、碧依と現実から目を背けようとする。物理的に逃がしてもらえないことは、もうとっくに分かっていた。ならばできるのは、精神的な逃避だけ。


 結局のところ、莉花が蜘蛛で、自分と碧依が蝶だったのだろう。最初から二人で巣に捕まって身動きができないまま、どうにか助からないかと模索していただけだった。


「『僕と付き合って下さい』」

「あ、始まった」


 そして、補習の時間が幕を開ける。




「『いきなりそんなことを言われても……』」

「あれ? 登場人物が増えてない? これ葵君じゃないよね?」

「どれも僕じゃないんですけどね」


 二十点で本物扱いはしない。顔を洗って出直してきてほしいクオリティである。


 何はともあれ、赤点だったから補習が始まったのに、何故か自ら難易度を上げる莉花。明らかに自分以外の登場人物が増え、いよいよ場が混沌とし始める。


「いや、顔だけ洗ってくれたら、出直してこなくていいですね」

「何?」

「何でもないです」


 出直されたところで、酷評する回数が一回増えるだけだった。


「『どうしても碧依さんがいいんです』」

「私だったの?」

「また一段とクオリティの低い……」


 そうこうしているうちに、増えた登場人物が誰だったのか判明する。どうやら、本人も気付きすらしないクオリティの碧依らしかった。目を丸くして驚く碧依の姿は、「驚く」という言葉の例として、このまま辞書に載せたいレベルだ。


「もっと下手な真似を増やしてきたんだけど。補習なのに」

「僕に言われても……」


 合格する気がないとしか思えない。今のところ、補習でより評価が下がっている。


「『どうして私なの?』」

「どうして?」

「何で僕に聞くんですか」


 驚きで心に隙ができたのか、首を傾げる演技をする莉花に釣られて、碧依もまた首を傾げて尋ねてきた。当たり前の話だが、答えなど知る由もない。


「『優しいところが……』」

「薄っぺらくない?」

「一週間後には別れてそうですね」

「『他には何かないの?』」

「うわぁ……。何か面倒なことを聞いてる……」

「碧依さんですよ?」

「こんなの認めないよ」


 碧依が首を横に振って拒否の姿勢を表明する。恐らく採点は最後に行われるのだろうが、現時点での碧依の採点が気になってくる。


「『他……』」

「黙っちゃったよ?」

「吹けば飛ぶ薄さでしたね」

「『何もないの?』」

「私って、こんなに面倒なイメージなの?」

「まぁ……、たまに……」

「たまに!? あるの!?」


 どうしても否定の返事がしにくいので目を逸らしながら呟くと、碧依からまたしても驚きの声が上がった。先程よりも大きな声だが、それでも公共の場にいるということは頭の片隅に残っていたのか、迷惑にならない程度の大きさである。


「アイリスさんとか僕に面倒な絡みをしてきますし……」

「面倒な絡みって言わないでよ! 友達でしょ!」

「もっと穏やかな表現方法でお願いします」

「うわぁ……。ちょっと気を付けよ……」

「ちょっとなんですね」


 軽く頭を下げながらの懇願によって、碧依が若干後悔するような声音で反省の言葉を口にする。今は莉花の補習が勝手に行われているだけなのに、何故か碧依の普段の態度を振り返る補習までもが挟み込まれてしまった。莉花に突っ込んだり、驚いたり、反省したり。一人だけ忙しさの次元が違う。


 そんな碧依の様子は意に介さず、莉花の独演劇は続いていく。


「『ちょっと待ってください!』」

「嘘だ……。三人目っぽい人が出てきた……」

「今度は誰を犠牲にしたんですか」


 予想もしていない三人目の登場に、碧依だけでなく自分も動揺を隠せない。


「『葵さんは私のです!』」

「あ、これアイリスさんじゃない?」

「僕が名前を出したからですかね?」


 こうなってくると、今の莉花の前で迂闊に誰かの名前を出すことはできない。出したが最後、その分だけ登場人物が増えていくことになる。収拾がつかなくなること間違いなしだった。


「『碧依先輩には渡しませんよ!』」

「愛されてるね?」

「本人がいないからって、好き放題しようとしてませんか?」

「目の前に本人がいても好き放題してるよ?」

「そうでした」


 目の前にいるのに好き勝手されている人物が、ここに二人いた。先程の碧依のように、自分の甘い考えを反省する。


 だが、そんな自分達のやり取りを聞いても、莉花の妄想は留まるところを知らなかった。


「『アイリスさんは今関係ないでしょ』」

「うわ。嫌なことを言うね」

「だんだん自分だって分かってきましたね?」

「分かりたくなかった」

「『関係なくないですもん! 私の先輩なんですから!』」

「言いそう言いそう」

「出来はさておき、ですけど」


 登場人物が増える度にクオリティが下がっていく。いっそもっと増やしたらどうなるのか気にはなったが、突っ込みが追いつかなくなりそうなのでやめておいた。


「『こんなことになるなら、ちゃんと部屋に閉じ込めておくべきでした』」

「あれ?」

「え……?」

「『自由にさせてあげるには、まだちょっとだけ早かったみたいですね』」

「……葵君、監禁されてたんじゃない?」

「『私の』って、物理的な意味だったんですか?」


 もしそうだとすれば、喜劇だと思っていた妄想劇は一気に不気味なものになる。莉花の頭の中で、一体どんな物語が紡がれているのだろうか。知りたいようで、けれども詳しく知ると後悔しそうな、この世で最も無駄な葛藤が心の中に湧き上がってくる。


「『何だかよく分からないけど、葵君は渡さない方がよさそうだね』」

「実ったね」

「実ったって言っていいんですか?」


 そもそもの話、監禁されていて逃げ出したのなら、向かう先は警察であってほしい。妄想の中の自分は、一体何を血迷って碧依に告白しに行ったのだろうか。


「『ほら、帰りますよ、葵さん』」

「台詞だけなら、一緒に帰ろうってお誘いなのにね」

「この状況で帰るわけがないんですけどね」

「『はい……』」

「帰ったよ?」

「……」


 莉花の思考が本当に読めない。


「弱みでも握られてるんじゃない?」

「握らせるようなことはしません」

「弱み自体はあるんだ?」

「ありません」


 今この時ばかりは味方だと思っていた碧依からの射撃。ただし、援護射撃ではなく、自分を背中から撃ち抜く一発だった。莉花の対応だけで手いっぱいなのだから、碧依に割く余裕などあるはずがない。


「『ちゃんとお世話をしてあげますから。だから、もうお部屋から出られなくてもいいですよね?』」

「アイリスさんにお世話されるのか……」

「その目は何です?」

「ちょっといいかも……?」


 背後から不意打ちしてきた辺りから異変は感じていたが、徐々に碧依の思考が怪しい方向に染まり始めていた。どこにも羨ましい要素などないのに、微かに羨ましそうな眼差しを自分へと向けている。


「碧依さんまでそっちに行くなら、このまま置いて僕は逃げますよ」

「ごめんなさい、冗談です。お願いだからこの莉花と二人にしないで」

「その言い草もどうなんでしょうね」


 個人的には、全面的に賛成ではあるが。


「『おはようからおやすみまで、ずーっと一緒ですからね。……永遠に』」

「怖……」

「いつの間にか碧依さんが消えましたけど」

「扱いきれなかったんでしょ」

「だったら僕を消してほしかったです」

「私にだって譲れないものはあるよ」

「台詞とシチュエーションが合ってないんですよね」


 全く似合わないシチュエーションで、やけに男前な台詞を口にする碧依。莉花の独演劇から碧依の台詞まで、ギャップのオンパレードである。


「というか、これって莉花の性癖じゃないの?」

「違うわ!」

「うわっ!? びっくりした!?」


 またしても突然正気に戻った莉花の声で、碧依がびくりと肩を震わせる。


「黙って聞いてれば好き勝手言うんだから」

「黙って聞いていたのは僕達です」

「好き勝手言ってたのは莉花」


 正確に言えば、あまり黙ってはいなかったが。


 そんなことはさておき、莉花が憤慨しているが、そう言われても仕方がないことをした自覚はあるのだろうか。そして何より、憤慨すべきは莉花ではない。


「アイリスさんならともかく、私がこんなことを考えるわけがないでしょ!」

「考えてたよね」

「アイリスさんが考えてるって前提も間違ってます」


 もし本当にアイリスがそんなことを考えているのなら、今後は全力で距離を取らないといけなくなる。朝の電車の時間をずらし、太一と柚子に相談してシフトを変更してもらうことも視野に入れなければならない。


「え……? 考えてない、ですよね……?」

「何で葵君が不安がってるの」

「いや……。たまにアイリスさんの目付きが怪しいことがあるので……」

「大丈夫。どうやってウェイトレス服を着てもらおうかって考えてるだけらしいから」

「それはそれで大丈夫じゃないです」


 こんなところで知りたくない事実を知る羽目になってしまった。何がどうなっても、アイリスから距離を取ることになるのかもしれない。


「弱みを握ろうとしてるってことだね」

「脅してまでですか……」


 つまり、監禁から女装へ警戒の方向が変わっただけだった。


「で、補習の結果は?」


 それでも頭の中に思い浮かぶのは笑顔のアイリスであることに困惑している自分へ、そんなことを無視した莉花が採点結果を要求してくる。このタイミングで要求して、高得点が貰えると思っているのだろうか。


「零点」

「五点」

「十点満点で五点なら大躍進ってことか!」

「私のゼロは無視したね」

「百点満点ですしね」


 碧依と二人揃って辛辣な評価を下したのに、随分と都合がいい解釈をしている。そんな訳はない。


 よくよく見れば、一仕事を終えたような、満足げな雰囲気を莉花が漂わせている。やりきったと言わんばかりのその表情は、何故かとても晴れやかなものだった。


「よし! じゃあ、今度こそお土産を選んでくる!」


 結局、自分と碧依を掻き乱すだけ掻き乱し、莉花は去っていった。今となっては、最初に何をしに来たのかすら、その記憶が曖昧になっている。


「今のは一段と台風みたいだったね」

「このお店のおかげで、変な気分になってたんだと思いますよ」

「『おかげで』ってより、『せいで』って感じだけどね」

「お店には何の罪もないです」


 こんなことで印象がよくない表現をされていては、店側としては堪ったものではないだろう。あくまで莉花のいつもの暴走であり、それがいつもより少しだけ過激だったというだけだ。


「……私達もお土産を選ぼうか」

「ですね。どうしてかは分からないですけど、まだここしか見てないですし」

「何でだろうね」


 お互いに顔を見合わせ、揃って記憶を封じ込める。世の中には、忘れた方がいい記憶もあるということだった。




「葵君はいくつ買う?」

「二つか三つかで迷ってます」

「そんなに買うんだ? 一人暮らしだよね?」


 受け流しきれなかった莉花の攻撃で、何故か大きなダメージを負った後。わざわざ別々に見て回るのもどうなのかということで、そのまま碧依と一緒に店内を歩き回っていた。


 店の前での宣言通り、数多の商品に迷わされながら、それでも少しずつお土産の候補を絞っていく。碧依から尋ねられたのは、そんなタイミングだった。


「自分用に買うかを悩んでるんですよ」

「え、買わないの?」

「あんまり家でお菓子を食べないんですよ」

「じゃあ、二つか三つって?」


 自分の答えを聞いて、当然の疑問に至る碧依。食べないお土産など買っても仕方がないと、自分でもそう思う。


「アルバイト先に一つ、アイリスさんとご両親に一つで二つ。自分用に買うかで三つ」

「営業?」

「まだ子供の身分を楽しんでいたいです」

「そうやってご両親の好感度を稼ぐんだ?」

「稼いだとして、使う場面があります?」

「監禁された時とか。よろしくお願いしますって」

「家族ぐるみの犯行じゃないですか」


 言っていて心が痛む。アイリスの父親にはまだ会ったことがないが、そんな人物ではないと思いたかった。一家で協力されてしまえば、余程のことがない限り、犯行は露呈しない。


「息子が欲しかったんだって」

「本人から聞いてきたみたいな言い方ですね」

「そのまま結婚すれば、ほんとに息子さんだね」

「監禁は挟まないとだめでした?」


 おめでたいことのように言う碧依だったが、普通に出会って仲良くなり、普通に付き合って結婚するのではいけなかったのだろうか。


「ほら、僕にはこの人しかいないんだって思ってもらう、みたいな」

「物理的にその人しかいないんですけど」


 それはあくまでも精神的な話であって、間違っても世界にその人しかいないという状況の話ではない。


「そもそもですけど、監禁される前提で話を進めるのはおかしくないですか?」

「葵君、頼まれたらほいほいついていっちゃいそうだからな……」

「僕のことを小学生か何かだと思ってます?」

「ランドセルが似合うかもね」

「似合って堪りますか」


 まるで自分の背中にランドセルの幻を見ているかのような眼差しで、碧依がそう口にする。いくら自分の背が低いとはいえ、これでも立派な高校生だ。これでランドセルが似合ってしまったら、三日三晩は立ち直れない自信があった。


「で、どれを買おうとしてるの?」

「急に正気に戻るのが流行ってるんですか?」


 先程の莉花といい、今の碧依といい、ついていく身にもなってほしい。純粋な目で疑問をぶつけてきた碧依には、きっと届かない願いなのだろうが。


「で、どれを買おうとしてるの?」

「壊れたレコードですか……」

「で、どれを買おうとしてるの?」

「悪乗りしなくていいです」


 自分の話は一切聞いていない。全く同じ言葉を全く同じ抑揚で、全く同じ眼差しを自分に向けながらの一言だった。壊れたレコードどころではなく、録画再生も同然である。


「……看板商品は外せないと思うんですよね」

「だよね!」


 わざわざそんな碧依に対応するのは諦めて、いくつかにまで絞った候補から一つを挙げる。色々と考えはしたが、やはりこの店はプリンが有名な店であり、王道を外した選択をする必要はない。


 どうやら碧依も同じ考えのようで、繰り返された言葉はようやく終わりを告げた。ちょうど目の前にたくさん並んだ箱から、やや小さめの箱を手に取っている。


「箱も可愛いよね」


 碧依が手にした箱は、パールホワイトとフォゲットミーノットのツートンカラー。プリンの容器自体は何の変哲もない透明のカップだが、この箱に収まっているというだけで、何となく特別な印象を受ける。


 箱の側面にはこの店のシルエット。色調の薄い二色の中に浮かび上がる黒いそれは、アクセントとして全体の印象を引き締めるのに一役買っていた。


「空いたら何かに使えそう」

「そうやって、色々な空き箱だけが増えていくんですよ」

「う……」


 深く考えずに口にした言葉だったのだが、どうも碧依には心当たりがあるらしい。綺麗な空き箱を取っておきたくなる気持ちは分からないでもないが、嵩張るうえに、一度収集を始めるときりがない。何事も程々にしておくのが吉だった。


「これはちゃんと使うし……」

「これ『は』」

「これも! ちゃんと使うし!」

「だといいですね」

「空き箱に恨みでもあるの?」


 そんなものはないが、からかってきた碧依に仕返しをするのは楽しかった。自分ではよく分からないが、もしかすると、少しだけ声が明るくなっているのかもしれない。


「それはさておき。数が難しいんですよね」

「数?」

「ですね。アイリスさんは三人家族ですから」

「さらっと家族構成の情報が出てきたのはいいとして。四個入りか八個入りしかないね」


 一旦満足したところで、お土産の候補とは別に頭を悩ませていたことを碧依に相談してみる。アルバイト先は太一と柚子の二人なので四個入り一箱で問題ないだろうが、もう一方が難問だった。アイリス、アーロン、レティシアで三人家族なので、四個入り、八個入りではどうしても余りが出る。


「十二個でちょうどですけど……」

「多過ぎるよね。どれだけ好感度を上げたいのって感じ」

「一人一箱は重いですって」


 その場合、好感度はむしろ下がる方向に働く気がした。もちろん、上げるために買う訳ではないが。


「四個入りでいいんじゃない? 余った一個をどうするかは、アイリスさん達で決めてもらうってことで」

「ですよね。じゃあ、そうします」


 やはり、小さな悩みがある時は誰かに相談するのが手っ取り早い。自分でも半ば答えが出ていた悩みではあったが、背中を押されるというのは大きかった。


 それぞれ四個入りを一箱に決め、目の前の山の一角を崩す。一瞬、三箱目に手を伸ばそうか逡巡したが、結局その手が伸びることはなかった。




 自分と碧依が会計待ちの列の最後尾に並んでいると、一人で店内を歩き回っていた悠がその後ろにやって来た。


「あ、私と葵君が大変なことになってるのに気付いたのに、何も見なかったことにした羽崎君だ」

「やり取りが聞こえてたはずなのに、何も聞かなかったことにした羽崎君じゃないですか」

「ごめんって」


 店に足を踏み入れた時からずっと別行動だったが、莉花に絡まれていた様子は見ていたはずだ。何度か目が合い、その度に逸らされた。そのことは悠も流石に分かっていたのか、苦笑いを浮かべながら謝ってくる。


「あの中に入っていく勇気はなかったよ……」

「ま、あの時の莉花はこれまでで一番面倒だったからね。仕方ないよ」

「渡井さんには太刀打ちできないし」

「知ってる。だから、羽崎君の弱みを一つ教えてくれたら、それで許してあげるよ」

「それは許されてないよね?」


 隣に並んでいた碧依が、何やら突拍子もないことを口走っている。許す気など一切ないのが透けて見えていた。


「他人の弱みを握りたがる人が多過ぎでは?」


 その様子を見て思わず零してしまった言葉だったが、なかなか末恐ろしい言葉だった。いつ何時弱みを握られるか分かったものではない。


「まずは羽崎君の弱みを握るでしょ?」

「まずは?」

「僕の弱みは前座なの?」


 上げたくもない警戒心のレベルを一段引き上げていると、他人の弱みを握りたがる碧依からさらに不穏な言葉が聞こえてきた。言葉は怪しげなのに、真面目な顔をしている意味が分からなかった。


「で、それで脅して、羽崎君が知ってる葵君の弱みを聞き出すと」

「『脅して』って言いましたよ」

「ほんとに前座だった……」


 莉花も莉花だったが、碧依も大概発想が斜め上方向に突き抜けている。自身の弱みを前座扱いされた悠の心情は、もう想像することもできない。


「冗談だよ?」

「目が笑ってませんよ?」

「瞬きすらしないのが不気味だよね」


 首を傾げるその仕草は、普段であれば可愛いで済んだのだろうが、残念ながら今は済ませられなかった。心なしかいつもよりも目が見開かれている気がして、どうしても恐怖の方が先に押し寄せてくる。


「誰かの弱みって、そんなに握りたいものですか?」


 自分で言っておいて何だが、今後の人生でこの台詞を再び口にする機会があるのだろうか。


「別に羽崎君のはいいけど……」

「さっきから僕の扱いがひどくない? やっぱり根に持ってる?」

「葵君がおろおろしてるところは見たい。だから弱点を知りたいの」

「また特殊な好みを……」


 そんな機会が訪れないことを祈りつつ、やはり怪しげなことを言っている碧依からほんの少しだけ距離を取る。物理的に離れたところで意味がないのは分かっていても、考えるよりも先に体が動いてしまっていた。


「その辺は今後に期待かな。今はまだ見せてくれそうにないし」

「今後も見せる気はないですよ」


 少なくとも、こんな好みをしている碧依には絶対に見せられない。特に、アルバイト初日のような失態を見せてしまえば、一体何をされるか分かったものではない。碧依の前では一挙手一投足に気を付けようと、人知れず心の中で固く誓う。


「次のお客様ー」


 そんなタイミングで聞こえてきた声に視線をレジ方向に戻してみれば、自分と碧依の前に並んでいた客の会計が始まるところだった。多くの客を素早く捌くことに慣れているのか、思ったよりも会計待ちの時間は短そうである。


 自分達の手に紙袋が一つ追加されたのは、そのすぐ後のことだった。

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