18. 帰れない場所、帰らない人 (1)
三日目の朝。既に施設は後にして、今いる場所は山を下りるバスの中である。座席は行きと同じく、自分と悠、碧依と莉花の組み合わせ。ただし、今日は自分と碧依が窓側だった。
昨日、一難以上のものをもたらした驟雨は夜中には収まったようで、車窓を流れる木々は、その葉を軽やかに揺らしていた。
残念ながら空模様は綺麗な晴れとは言えなかったが、それでも雲の切れ間からは青空が顔を覗かせている。今日は昨日と同じく、一日外を動き回る予定だ。一度解散した後、再度集合するのは午後四時。そこまで天気が崩れないよう祈るしかない。
(最悪、どこかで傘でも買えばいいんでしょうけど)
昨日までとは違い、これから向かう先は大廈高楼が林立する街の中。雨宿りができる場所はいくらでもあるうえに、どこかの店で傘を買うことも容易なはずだ。雨の中を歩き回るのは避けたいが、降られたところで二日連続の濡れ鼠になることはまずないだろう。
「碧依」
「ん、何?」
「昨日の夜、こそこそ何してたの?」
「夜って?」
またもや肩で悠の頭を受け止めながら窓の外を眺めていると、後ろの席で何やら動きがあった。バスの中は生徒達の生み出す喧噪に包まれていたが、その声ははっきりと自分の耳に届く。
「お風呂上り。露骨に私と別行動しようとしてたでしょ」
「何のことかな? 身に覚えがないね」
「こっち見て言いなよ」
後ろの席での出来事なのでその様子までは把握できないが、どうやら碧依と莉花の視線は交わっていないらしい。
「そもそも」
「うん?」
「『少し散歩がしたいから、ちょっとしたら部屋に戻る』なんて言われて、簡単に納得すると思う?」
「言い訳が下手……」
後ろの二人には聞こえないよう、小声で呟く。怪しさに溢れていて、是非疑ってくださいと言わんばかりの言い訳で、もう少しまともな言い訳は思い付かなかったのかとさえ思ってしまう。
「え? 何かだめだった?」
「本気で言ってたの? 散歩するような場所なんてないでしょ、あそこ」
「あー……」
「しかも、そう言うってことは、何かあったって白状したのと同じだからね」
「……あはっ」
「可愛い。でも、それで誤魔化せると思うなよ」
莉花曰く可愛い笑みを浮かべているらしい碧依だったが、残念ながらその莉花に慈悲はなかった。碧依を追い詰める手は緩む気配がない。
「で?」
「何もなかったよ?」
「そんなわけがあるか。吐きなさい」
「って言っても、他の人にはちょっと話しにくいことだからなぁ……」
「『他の人』ってことは、碧依の他にも、少なくとも誰かもう一人いたってことか」
「違うよ?」
「碧依はほんとに嘘が下手だよね」
話せば話す程、碧依が勝手に墓穴を掘っていく。ちょうど隣で幸せそうに眠っている悠のように、もう何も話さずに寝たふりでもした方がいいのではないだろうか。
そもそもの話、あの時の話は碧依がそこまでして隠さなければならない話でもない。
「僕ですよ」
ということで、後ろにも聞こえるよう、少しだけ声を張る。
「おー……? 二股?」
「話が飛躍し過ぎなんですよ。誰も追いつけないですって」
「湊君は追いついてきてるよね」
「追いつきたくはなかったです」
誰が好き好んで見えている罠に飛び込むというのか。飛び込まずとも、後ろから突き落とされるのが分かっていたから、仕方なく飛び込んだだけだ。
「二人とも妹みたいなものですって」
「誰のことかはすぐ分かったんだ?」
「何回その話を擦るのかって話です」
「妹じゃないけど」
「いいから碧依は黙ってなさい」
「私に聞いてたのに!?」
いくら追い詰めても誤魔化すだけだった碧依には見切りをつけたのか、莉花の対応が随分あっさりしたものに変わっている。そこまで詳しい話をした訳ではないので心配はしていないものの、碧依がおかしなことを言う可能性はあったので、自分としてはその方が幾分かありがたい。
「別に大した話はしてないですよ。昨日のこととか、あとは兄弟のこととか」
「兄弟?」
自分が何かを言う前に話題を想像していたのか、やや意外そうに莉花が繰り返す。
「ですね。気になったらしいです」
「何でまた?」
「黙ってたらいいんでしょー?」
「あ、拗ねた」
口調からして自分ではなく碧依に尋ねているらしい莉花だったが、当の碧依は律儀に莉花の言いつけを守っていた。どう考えても律儀さを発揮する場面ではない。
「長続きしないと思うので、放っておいていいと思いますよ」
「流石。よく分かってる」
「……っ! ……っ!」
そう口にした途端、座席が僅かに揺れ始めた。バスの振動かとも思ったが、どうやら碧依のせいらしい。少しだけ視線をずらせば、自分が座っている座席の背もたれの横から、碧依の指先が覗いていた。
「で、兄弟がいるの?」
隣で碧依が抗議しているのを意に介さず、まるで何もなかったかのように莉花が会話を続ける。こんな話題になったのは偶然だが、一度話題に上ったことで興味が湧いたらしい。
「いませんよ」
「一人っ子か」
「……」
「碧依が気になったのも、何となく分かる気がするわ。兄弟いそうだもん」
「そんなですか?」
「面倒見がよさそうに見えるからね。実際どうかは知らないけど。アイリスさんなんて、もう先輩とかじゃなくてお世話係みたいなものでしょ」
それはどうかと思うが、年下の子供の世話に慣れているのは事実だ。もしかすると、それが影響して周囲にそう思われているのかもしれない。
「そう言う渡井さんはどうなんですか?」
「私? 弟が一人いるよ」
「へぇ。弟さん」
「うん。結構歳が離れててね。今年九歳」
莉花の誕生日を知らないので正確なところは分からないが、話の通りなら七つか八つ違うことになる。確かに、姉弟としてはやや離れている方だろう。
「姉と弟って、仲良いんですか?」
姉弟にしろ兄妹にしろ、異性の組み合わせは、どちらかと言うとあまり仲が良くないイメージがあった。ただ、「弟がいる」と言った時の莉花の声音が一気に柔らかいものに変わったような気がしたので、このイメージが当てはまらない可能性もある。
「いいよ。歳が離れてるから喧嘩にもならないし、今も可愛い盛りを毎日更新してるね」
「溺愛するタイプですね」
「今からどろどろに甘やかして、反抗期なんてないまま育ててあげるんだ」
「育成計画まで……」
案の定、姉弟で仲が良いようだった。「良い」で済ませていいレベルなのかは疑問が残るが、仲が悪いよりはいいのだろう。
莉花の甘やかしというところに何か薄ら寒いものを感じつつ、知らぬところで計画的に育てられているという莉花の弟に向けて、心の中で合掌しておくのだった。
「バスから降りる前に、皆さんに一つだけ注意を」
車窓に林立するのが、常盤色の木々から様々な色をしたビルに変わってから少し。バスがようやく駅前に到着した。
これからいよいよ街中に放り出されるというタイミングで、平原先生が全員の前に立って口を開く。
「事前にも説明しましたが、皆さんには緊急時の連絡先を渡してあります。予定表に書いてある番号ですね」
その言葉を受けて、改めて予定表を確認する。そこには、十一桁の番号が記されていた。今説明された通り、そして事前にも説明されていた通り、これが緊急連絡先である。
そう表現されるとすぐに連絡できるように覚えておいた方がいいのかという思考になるが、どうせ予定表を開けばそこにある番号なので、わざわざ労力を割かなくてもいいという結論に至る。
「何かあれば、躊躇うことなく連絡してください。何もないのが一番ですが、何かあった時には素早く対応できるかが大事ですからね」
そこで一度言葉を区切り、バスの中全体を見渡す。全員がしっかりと聞いていることが確認できたのか、それから満足そうに最後の言葉を続けた。
「では、お待ちかねの三日目です。集合時刻は午後四時ですから、それには間に合うようにしてくださいね」
そう言ってから、平原先生が再び座席に戻る。それが合図だったかのように乗降口の扉が開き、いよいよ宿泊学習の最終日が本格的に始まった。
「よし! じゃあ行こうか!」
予想通り、すっかり機嫌が直った碧依が宣言する。行きも帰りも夢の中だった悠も、今はしっかりと目が開いていた。
「道は大丈夫そうですか?」
「うん! 昨日のうちに調べておいたからね!」
一応は自分も調べておいたが、念のため碧依にも確認する。返事が自信に溢れているのを見る限り、碧依の方も準備に問題はないのだろう。
「そこに案内板もあるし」
莉花の言う通り、バスを降りてすぐの場所に、様々な観光地の方向と距離が書かれた案内板があった。碧依が行きたがっていた商業施設も、その中に名を連ねている。
「じゃあ、まずは碧依さんにお任せしますね」
「任されました!」
右手を高く掲げながら宣言する碧依。宿泊学習で今日を一番楽しみにしていたのか、今日が一番返事に力が入っている。放っておくと、一人で走り出しそうな勢いだった。
「手綱は任せたよ、湊君」
「お返しします」
莉花が厄介なものを手渡そうとしてきたので、丁重にお断りしておいた。受け取ってしまえば、まず間違いなく面倒事に発展する。
「今の私は誰にも止められないよ!」
「それが面倒だって言ってるの」
普段であれば反論が返ってくるはずのやり取り。だが、碧依から返ってきたのはある意味反論よりも聞きたくない言葉だった。
「そもそも、普段から止まることを知らないみたいな瞬間がありますよね」
「向かう先は大体僕達かフリーゼさんだね」
思わず零した一言に、隣で聞いていた悠も同意してくれた。被害者同士、結託は早くて強い。
「そんなことはいいから。他の班はほとんど出発しちゃったよ?」
「そんなことじゃないんですけど……」
間違っても加害者側の台詞ではない。そう思いはするが、碧依の言う通り、他の班はほぼ残っていなかった。皆思い思いの方向に散らばり、それぞれの目的地へと足を向けている。
「確かに、そろそろ出発した方がいいのは間違いないですね」
「それじゃあ行くかー」
逸る気持ちを抑え込んでいる碧依とは対照的に、どこかのんびりとした莉花が先陣を切って歩き出した。
最初の一人が行動を起こせば、自然と残りの三人も動き出す。薄曇りの午前九時二十分。色々なことが起こりそうな自由行動は、まだまだ始まったばかりだった。
「やっぱり人が多いね」
「ですね。僕達の地元とは大違いですよ」
「隣の県になるだけで、こんなに変わるんだね」
バスを降りた場所から少し離れたロータリー。商業施設へは、ここから直通のバスが出ている。
次のバスまではあと五分。四人でバスを待ちながら周囲に目を向ける。行き交うのは、大学生らしき集団から観光にやって来たであろう老人まで、老若男女を問わず幅広い層の人々だった。
そして何よりも、単純に人の数が多い。週末の金曜日とはいえ、平日の午前九時半である。普段利用している学校の最寄り駅では、まず見られない光景だった。地元の駅前ともなれば、休日ですらほぼ人がいない。
人の数は発展度合いの指標。そう考えれば、この地方で最も発展しているのは、まさに今いるこの街なのだろう。
「皆は人が多いのとか、大丈夫な方?」
「私は平気。部活の大会とか、結構人が集まるから」
「僕も特に気にしないですかね」
「湊君、そういうの嫌いそうな感じだけど」
「そう言う羽崎君はどうなんですか?」
「僕はちょっと苦手かな?」
何かを思い出すように斜め上を見上げた悠が、少し辟易とした表情で話す。明らかに何らかの経験をしている様子だったが、果たして過去に何があったのだろうか。
「何かあったんですか?」
「一回だけ満員電車に乗ったことがあるんだけど、大変なことになったよね」
気になって尋ねてみれば、人混みが苦手になる理由としては、かなり上位に食い込んできそうな理由が語られた。自分はまだ経験したことがないが、だからと言って経験したいかと言われると絶対に嫌だと答える、そんな経験である。
「羽崎君、そんなに大きくないもんね」
「それを碧依が言うの?」
この中で一番背が低いのが碧依だ。自分も悠も、お世辞にも平均的な身長とは言えないが、それでも碧依や莉花よりは高い。満員電車で一番苦労しそうなのは碧依のはずだ。
「それ以来、人混みは苦手です」
「そこまでの人混みにはならないと思いますよ」
一体どこでそんなに混雑すると考えているのかは分からないが、流石に満員電車のような密度になることはないだろう。心配する度合いが一人だけ違い過ぎる。
「そっか。じゃあ、何とかなると思う」
そんな自分の言葉を聞いて、安心したように悠が笑う。
「あ、来たよ」
そのタイミングで、バスがロータリーに入ってきた。そのままロータリーをくるりと半周して、自分達四人の目の前で停車する。
先に乗っていた客が全員降りていき、次いで開いた扉から車内へと乗り込む。人数のことを考えたのか、先を行く碧依が一番後ろの席へと向かった。そこなら、四人並んで座れそうである。乗り込んだ順に窓際から座り、碧依、自分、悠、莉花の並びで最後尾の一列が埋まった。
自分達が座っても、まだ数人の客が車内に乗り込んでくる。客の乗り降りが落ち着いた頃には、車内の座席は半分程が埋まっていた。人数にして十五人程。平日のこの時間にしては、比較的埋まっている方ではないだろうか。それとも、自分の感覚が違い過ぎて、これくらいは閑散としている方なのだろうか。
「お土産とか、色々ありそうだよね」
「あれこれ迷うのも楽しいと思いますよ」
隣の碧依の意識は、既に目的地に到着しているらしい。抑え込んでいた逸る気持ちが、少しずつ漏れ出している。
その気持ちを汲んだ訳ではないだろうが、それから大して間を空けずにバスが動き出す。ほんの少しだけ、体が背もたれに押し付けられた。
その感覚がなくなったかと思えば、今度は左から圧力。何事かと目を向けると、そこには碧依の肩があった。バスがロータリーを回る、その遠心力で体が傾いている。
「あ、ごめんね」
未だロータリーを回る中、碧依が小さく謝罪してきた。傾いていた体を元に戻し、自分から離れていく。
「気にしなくていいですよ」
そんな言葉を交わすうちに、バスが駅前の大きな交差点に出た。後ろへ右へと体にかかっていた力も、それに合わせて霧散する。
「それより」
「ん?」
「軽過ぎませんか?」
「何が?」
「体が」
傾いた時に全体重がかかった訳ではないだろうが、それにしても受ける力はとても小さかった。その軽さが気になって、思わず碧依にそう問いかけてしまう。
「女の子にそういうことを聞く?」
「それは思いましたけど、心配になる軽さだったので」
「お母さん的な発想だよね、それ」
やや照れたように尋ね返してきた碧依だったが、自分の心配事を聞いた途端、表情が苦笑いに変わった。
「大丈夫ですか? ちゃんとご飯を食べてますか?」
「しかも、一人暮らしを始めた子供に対するやつだ」
「たまにでいいので、連絡をください」
「お母さんに対する解像度が高いね?」
そんなことを口にする碧依だったが、自分の母親に対する解像度が高い訳がなかった。
それはともかく、悪ふざけのような口調ではあるが、心配しているのは本当だった。一人暮らしの自分とは違い、家族と暮らしている碧依なら大丈夫だとは思うが、気になるものは気になる。
「私が食べてるところは、この二日間ずっと見てたでしょ?」
「少食ではありましたよね」
「葵君には言われたくないよ」
「いや、流石に僕の方が多いですって」
そこは男女差だ。人それぞれではあるだろうが、高校生なら男子の方が食べる量は多いはずである。
「とにかく、無理なダイエットはだめですからね?」
「お母さんは心配性だなぁ……」
「今更ですけど、お父さんです」
「ほんとに今更だね。お兄さんだったりお母さんだったりお父さんだったり、忙しいね?」
「誰のせいだと思ってるんですか」
勝手に心配したのは自分だが、やはりせめて「お父さん」であってほしかった。それが叶わぬ願いであることはこの一か月で薄々感じているものの、だからと言って無条件に受け入れられる訳でもない。
「葵君、もしかして少しふっくらした感じの子が好みなの?」
「どうしてです?」
何となく苦い思いを抱いていると、碧依が唐突にそんなことを言い出した。これまで考えたこともなかったことだったので、どうしても反射的に聞き返してしまう。
「だって、さっきから妙に私のことを太らせようとしてくるし」
「別に太らせようとはしてないですけど……。体形の好みもないですよ」
どことなくからかうような口調の碧依。確かにそれらしいことを言ったのは自分だが、特別好みの体形があるということもない。たまたまそんな話になっただけである。
そもそも、そんなことを考える余裕など、これまでありはしなかった。
「そうなの?」
「あえて言うなら、健康的ならそれでいいです」
「やっぱり目線が親だよね」
それでも何かを言わないと話が終わらないような気がしたので、好みとも言えないような普通の答えを伝えておく。それを聞いた碧依の何とも言えない表情が、妙に印象に残った。
「どこに行きたいか、もう決まってるんですか?」
終点でバスを降り、目の前にそびえる建物を眺めながら尋ねる。
屋内にも屋外にもたくさんの店が立ち並んだ、広大なその敷地。衣類から日用品、雑貨、娯楽まで、何でも揃ったその商業施設は、全てを回ろうと思うと丸一日はかかるだろう。流石にそこまでの時間はないので、気になるところをピックアップして回ることになるはずだ。
ここに行きたいと最初に言い出したのは碧依なので、きっと目当ての場所があるのだろうと、そう考えての質問である。
「最初に行きたいのはここかな?」
その予想に違わず、事前に行きたい場所を調べていたらしい碧依が、スマートフォンの画面を見せてきた。そこに表示されていたのは。
「プリザーブドフラワー?」
莉花が不思議そうに呟いた通り、プリザーブドフラワーを扱う店だった。とても簡単な言い方をすれば、花屋である。
「そ。他にも、ソープフラワーとかハーバリウムも売ってるような、ちょっと変わったところなんだ」
「そういうのが好きなんだ?」
「うん! 長い間お部屋に飾っておけるのがいいよね!」
「あー……、何て言うか、碧依らしいかも」
満面の笑みでそう口にする碧依に、莉花は何かを納得したらしい。碧依ならそういったものを部屋に飾っていても違和感がない、ということだろうか。
「ねぇ、湊君」
「何ですか?」
莉花が碧依のことを微笑ましい目で見守る中、隣の悠が若干小声で話しかけてきた。二人のことを邪魔しないようにと気を遣っているのか、口元に手まで当てている。
「ソープフラワーって何か知ってる?」
「石鹸でできた花らしいですよ。僕も実物は見たことないです」
「へぇ……。石鹸で」
碧依の口から出てきた言葉は、悠にとっては初めて聞く言葉だったらしい。自分も僅かしか持っていないソープフラワーの知識を口にすると、悠はやや驚いたように目を丸くしていた。その言葉の雰囲気から察するに、意外と興味を持っているようである。
「花好き湊君としては?」
「ありだと思います。いいのがあれば買うかもしれないです」
一度だけ写真で見たことがあるが、色合いがとても綺麗だった覚えがある。もし手頃なものがあれば、部屋に一つ飾っておくのもいいかもしれない。
「葵君も羽崎君も興味を持ってくれたみたいだし、ここでいい?」
「うん。こう見えて、私も綺麗な花は好きだから」
「え、意外」
「おい」
「冗談だって」
碧依と莉花が軽口を叩き合い始めたのをきっかけに、揃って移動を始める。先程も見た通り、敷地は端から端を一度に見渡すのが難しい程に広大だ。目的の店まで辿り着くのには、まだもう少しだけ時間がかかりそうだった。
「あ、あった」
店内に入って早数分。時折道に迷いそうになりながらも、何とか遠くに目的地が見えてきた。
辺りを見回せば、思っていたよりは人の数は多くなかった。それも平日の昼だからであって、休日ともなれば、どこもかしこも人でごった返すのだろう。
そんな客を待ち構えるように立ち並ぶ店は、実に多種多様である。近くには雑貨店や時計店、遠くには家電量販店、吹き抜けから見える上階には映画館まであった。それぞれの店を彩る色も様々で、目に映る景色はとてもカラフルだ。
地元にこれだけのものがあれば、県内中から人が押し寄せることが容易に想像できる。それでもここ程の混雑にはならないであろうことが、どこか物悲しかった。
田舎から都会へ出てきた時の典型的な感想を抱いていると、遠くに見えていた例の店がいつの間にかすぐ目の前まで迫っていた。
「おー……! 綺麗だぁ……!」
思わずそう漏らしたのは莉花。今までは周囲の店をあれこれと眺めていたが、今は店頭に飾ってあるプリザーブドフラワーに視線が固定されている。
白色に桜色、躑躅色にシャルトルーズイエローといった暖色系の花を使った大作のようで、見える範囲で飾られているものの中では群を抜いて大きい。持ち上げるとすれば、両手で抱えるようにして持ち上げなければならない程の大きさだ。周囲にある何よりも、圧倒的に目を引く作品だった。
一応は売り物のようで、台座には値札が立てられている。興味本位で確認してみたところ、思わず引き攣った笑いが出そうになった。
「値札に六桁の数字が並んでますけど」
「六……」
隣で視線が釘付けになっていた莉花も、その一言で現実に帰ってくる。どう考えても高校生で手が届く価格ではない。大人しく、視線を別の商品へとスライドさせていた。
インパクトはどう考えても店頭の大作が一番だが、両手サイズの小さな商品も、どれも色鮮やかだった。この店だけ、他に並ぶ店よりも明度や彩度が違い過ぎる。
「……」
思わずあちこちに目を向けてしまいそうになる気持ちを抑えつつ、少しだけ店内に足を踏み入れたところにある、小さめの一品を手に取る。
白色にライムグリーン、シャルトルーズグリーン、ネープルスイエローの色合いがとても綺麗なプリザーブドフラワーだった。絵画が収められていそうな木製の白い額の中に、それぞれの花がバランスよく散りばめられている。
「そういうのが好きなの?」
色合いや値札を見ていると、いつの間にか隣にいた碧依が手元を覗き込んできた。
「そうですね……。緑色が多い方が好きかもしれないです」
「んー……」
「何です?」
碧依の視線が商品から自分の顔へと移ってくる。何かを考え込むように、その眉間に少しだけ皺が寄っていた。
「確かに、その方が葵君には似合いそうかな……?」
「そうですか?」
「うん。いっつも落ち着き払ってる葵君にはぴったりだと思うよ」
「落ち着き払ってって」
そうして出てきたのは、何か含みがありそうな言葉だった。表現としてはあまりいい印象がない言葉だが、どうやら自分は周囲からそう見えるらしい。
「違う?」
「違うも何も、自分で意識したことがないです」
「ふーん。まぁ、私の勝手な印象だし、買うなら葵君が好きなのを選んだらいいんじゃないかな?」
「何なんですか」
周囲から見た自分の印象を言い残し、碧依は莉花のところへ戻っていった。残された自分はといえば、告げられた印象に引っ張られて、何となく緑や青を基調とした商品にばかり意識が向くようになってしまった。
その後もプリザーブドフラワーのコーナーを一通り見て回るが、やはり最初に手に取ったものを超えるものは見つからない。やはり、碧依の言葉が影響しているのだろうか。
とりあえず判断は一旦保留として、次はソープフラワーのコーナーへと移動する。
「あ、湊君」
先客としてその一角にいた悠が、自分に気付いて顔を上げる。どちらかと言うとパステルカラーが多めの空間にいる悠は、どこからどう見ても女の子にしか見えなかった。それぞれの花をよく見てもらうためなのか、照明がやや強めに設定されていて、スノーホワイトの髪がきらきら光っているように見えるのも、それに拍車をかけている。
「何かよさそうなものはありました?」
自分の見た目のことは棚に上げながら、そう尋ねてみる。
「どれも凄くて目移りしてる」
困ったように辺りをきょろきょろと見回しながら答える悠の様子は、やはり男子高校生には見えなかった。
そんな悠の言葉通り、ここにも様々な商品が並んでいる。それは今までいたプリザーブドフラワーのコーナーも同じだが、向こうとは違い、ここは少しだけ空気が甘いような気がした。やはり、石鹸で作られた花に囲まれているからだろうか。
「変わった種類の花もありますね」
「ね。石鹸で作るから、色々な花を作りやすいのかも」
生花を加工するプリザーブドフラワーとは違い、石鹸を加工するソープフラワーは様々な種類の花をモデルにしやすいのかもしれない。あまり詳しくないので、これも想像に過ぎないが。
「あっちはどうだった?」
自分が今までいた辺りを指差しつつ、悠が尋ねてくる。どうやら、この辺りは一通り回ったらしい。
「あっちはプリザーブドフラワーでした。店先にあったものよりかなり小さいものですけど、そっちも目移りするくらいにはどれも綺麗でしたよ」
「そっか。じゃあ、そっちも見てみようかな? 気になるのはあった?」
「一つ。とりあえず、今は保留にしてますけど」
「へぇ。どんなの?」
「緑系の花を使ったものです」
「あぁ。確かにそんなイメージかも」
「羽崎君もですか」
まさか、この短時間で同じことを二回も言われるとは思ってもいなかった。こうなってくると、いよいよそれが自分の正しい印象なのかもしれない。
「僕も?」
「さっき碧依さんにも言われました」
「やっぱり同じイメージなんだね」
「これからは森系男子として生きていきます」
「何を言ってるの?」
不思議そうに首を傾げる悠だったが、言った自分自身もよく分かっていない。より緑色が似合うように、何か精進すればいいのだろうか。
「ま、こっちでも悩んでみてよ。僕は向こうで悩んでるから」
そう言って、悠は自分が歩いてきた方向へと向かっていった。
その後ろ姿が棚の向こうに消えるのを見送って、再び一人になる。そこまで広くない店内なので、少し離れたところで話している碧依と莉花の声が漏れ聞こえてきた。何を話しているのかまでは聞き取れない程度のその声を背中に受けながら、先程と同じく一つ一つをゆっくり見て回る。幸い、時間にはまだまだ余裕があった。
そうして見て回っている中で、とある商品が目に留まる。自分の両手に乗るサイズのソープフラワーの花束が、小さなバスケットに収まった商品。花の色はアヤメ色。何となく気になって、商品説明を読んでみる。
「……」
あれこれ見て回って悩んでいたが、一つはこれに決定である。自分用ではないが、ちょうどいいものが見つかった。売り切れになってしまわないよう、それを一つ確保してから他の商品へと意識を向ける。だが、結局最初のあれから心は動かない。
プリザーブドフラワーのコーナーに戻って、最初に気に入った商品を再び手に取る。二つ合わせるといい値段ではあるが、普段から出費があまり多い方ではないうえに、こういった場面なら多少の出費は許容範囲だ。
レジで会計と包装を済ませ、商品が入った袋を受け取る。全員が何かを買うつもりなのかは分からないが、どうやら自分が最初に会計を終えたようだった。
その後、三人を探して店内を歩き回っていると、何かを相談している碧依と莉花の背中を見つけた。
「何か見つかりました?」
「お、花好きだ」
こちらを振り返りながらの莉花の反応からは、とうとう名前すら消え去ってしまっていた。花が好きなことは間違いではないが、それ以外のことが間違っている。
「もう買ってきたんだ?」
「そうですね。結構迷いましたけど」
自分が持っている袋に碧依が気付く。その視線を受けて袋を少しだけ掲げたところで、碧依の目付きが不思議そうなものに変わった。
「二つ買ったんだ?」
恐らく碧依と同じことを考えたであろう莉花が、こちらはやや意外そうにしながら言う。買った自分がこう思うのも何だが、一人で二つ買うというのは、そんなに違和感があるものだろうか。
「一つはお土産用ですよ。部屋に置いておくのは一つです」
「さっきの?」
「ですね。二人はどうです?」
二人の疑問に答えてから、今度は反対に自分がそう問いかける。後ろから会話を聞いた限りではそろそろ決まりそうな雰囲気ではあったが、果たしてどうだろうか。
「これにしようかなって」
そう言って莉花が見せてきたのは、自分が買ったものと同じサイズのプリザーブドフラワー。ただし、色は違って暖色系だった。
「莉花とお揃いにしようって話してたの」
「羨ましいか?」
「いや、別に……」
「羨ましいって言えよ!」
「何を求めてるんですか?」
いつものことだが、莉花の考えることが分からない。やけに力が入った一言は、羨ましいという感情よりも困惑の方を呼び起こすような、そんな一言である。
「可愛い子とお揃いなんて、男の子なら憧れでしょ」
「その考えは僕には通用しません」
これまでちらりとでも考えたことがない、という意味である。間違っても、自分が男らしくないという意味ではない。
「何? ほんとに男の子?」
それなのに、莉花の眼差しは自分の性別を疑うかのようにじっとりとしたもの。
「どこからどう見ても男の子ですよね?」
「いや、それはない」
「……」
ここで認める訳にはいかないと即座に否定してみるも、莉花からも即座に返事があった。そのあまりの即答具合に、思わず言葉を失ってしまう。
「それはいいとして。そんなに時間が経った?」
「……余裕はまだありますけど」
あっさりと置いておかれた自分の性別のことを思うと、どうしても声が若干低くなってしまう。不機嫌とまではいかないものの、不満に思っていることはしっかりと伝わっているはずだ。
「拗ねるのは碧依の特権だぞ」
「何それ。いらない」
それなのに、莉花には一切効果がないようだった。よく分からない特権を碧依に与え、何故か満足そうに頷いている。
対して、そう言われた碧依は自分と同じ不満顔。二人揃ってそんな顔を莉花に向けてみるも、やはりあまり効果はないらしかった。
「結構迷ってたつもりだったけど、意外とそうでもないんだね」
碧依と莉花が会計を済ませて少しした頃。悠も気に入った品を見つけたらしく、袋を手に店から出てきた。
「まだ十時半か。お昼にする前に、まだどこか行けそうだよね」
「十二時くらいになると混み合うだろうから、少し早めにお昼にしようか」
目の前で、碧依と莉花が今後の予定を相談している。昼食を早めにというところに異存はないが、それに関しては一つだけ提案があった。
「そのことなんですけど」
「ん? 何?」
昨日のオリエンテーリングからの帰りの時のように、こちらを振り向きながら歩く莉花。あの時は足元が悪くて危なかったが、今は人が多くて危ない。その隣で莉花を見つめる碧依も、少しだけ心配そうな目をしていた。
「お昼もここで食べることにしませんか?」
そんな莉花の様子に、早く本題を告げた方がよさそうだと判断して、前置きもなくそう口にする。
「ここで?」
だが、自分の提案に最初に反応したのは碧依だった。
予定ではこの施設を出て店を探すことにしていたが、イメージに違わずここも飲食店が多い。少なくとも、すぐに一つに決められない程度には様々な店がある。それならば、昼食もここで食べることにした方が、さらに時間に余裕ができるはずだった。
「まだ色々と見てみたいところがあるんじゃないですか?」
「それは確かにそうだけど。いいの?」
「僕はどうしても食べたいものがあるわけじゃないので」
「そういうことなら、僕もここがいいと思うな」
黙って話を聞いていた悠も賛成してくれる。これで二人も誘いに乗りやすくなったと思うが、果たしてどうだろうか。
「そういうことなら……」
「私も異議なし!」
「じゃあ、ここってことで」
ちらちらと自分と悠を見ながら賛成する碧依と、右手を掲げて元気よく賛成する莉花。それぞれとてもそれらしい反応を見せてくれたところで、全員問題なしということになった。これで、晴れて多少の余裕が追加される。
「それなら、次はどこ行く?」
「あ、私、行きたいところがあるんだ」
そうと決まれば早速といった様子で問いかけてきた碧依に真っ先に返事をしたのは、またしても右手を掲げた莉花だった。
「家族にお土産を買いたいからさ、どこかお菓子とかを買えるお店に行きたい」
「確かにそうだね。午後はお土産とかを買うようなところじゃなさそうだし」
これまでは特に意識していなかったが、言われてみれば当たり前の話だった。今買ったものもお土産ではあるが、自分用という側面が強い。家族へのお土産となれば、別に何か必要になる。
ところが、午後はそういったものとは無縁の場所。ならば、買うのは今しかない。
「賛成です。時間に余裕があるうちに行っておきましょうか」
「そうだね。僕も買いたいかも」
「じゃあ、どのお店にする?」
碧依が広げたフロアガイドを覗き込むが、案の定土産物を扱う店はたくさんある。全てを回っている時間は流石にないので、候補をいくつかに絞るか、いっそ一つの店に決めてしまう必要がありそうだった。
「あ! ここ行きたい!」
どうするのが理想的かを全員で考える中で、唐突にそんな声が上がる。その言葉と共にガイドの一点を指すのは、次の行き先の方向性を決めた莉花。
「ここ?」
「そ! 何かの雑誌で見たことあるお店! プリンが美味しいんだって!」
早くも目が輝いている莉花の様子に釣られて、記された店名を調べてみる。莉花の言う通り有名な店のようで、検索結果の画面にあっさりとその店名を見つける。どうやら、看板商品のプリンの他にも、様々な洋菓子を扱っているらしかった。
「色々売ってるみたいですよ?」
「ほんとだ。ここなら、お土産っぽいものは大体揃ってるんじゃない?」
横からスマートフォンの画面を覗き込んできた悠も乗り気なようだ。
「じゃあ、ここにしようか」
最後の碧依の一声で、次の行き先が決まる。洋菓子店で働いている身としては、品揃えの他にも色々と気になるところが多い、そんな行き先なのだった。




