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17. 一分咲き (5)

「それはね? ちょっと雲は増え始めてたけどさ……」

「ここまで一気に降り出さなくてもね……」


 五つ目、六つ目のコントロールは、特に迷うこともなく回り終えた。


 七つ目、つまり最後のコントロールも見つけ、あとはゴールするだけとなったオリエンテーリング。順調そうに思えたその行程も、突然降り出した雨によって最後の最後で足止めされてしまっていた。


「まさに山の天気は変わりやすいって感じでしたね」

「こんなところは言った通りにならなくてもいいのに」


 葉を広げた木の下で、鉛色に姿を変えた空を眺めながら雨が収まるのを待つ。


 傘も持たずに歩き回るのは嫌になるくらいの勢いではあるが、ここにいるならあまり濡れることはないという、絶妙な強さ。風がほとんどなく、横から吹き付けることがないのが不幸中の幸いだった。


「どうする? もうすぐ集合時間だけど……」


 時間を気にしながら、不安そうに碧依が呟く。こんな天気なので、集合時間に間に合わない班もあるだろうと、教師や職員側も予想しているはずだ。


 それでも、今後の予定に影響が出るのは間違いない。できるのならば、色々な意味で早いうちに集合場所まで向かいたいのは当然の考えだった。


「止みそうにないよね」


 自分達の視線の先にある空は、何度見ても一面の鉛色。雲が流れてくる先に青空が見えていることもなく、すぐに雨が上がりそうな気配は一切ない。


「走っていくしかない、ですかね?」

「あんまりやりたくないけど、それしかないか」


 そんな空を見ながらの自分の提案に、諦めて覚悟を決めつつある莉花が賛同する。


 地図を見る限り、今いる場所からゴールまでそこまで距離はない。最初のコントロールがスタートから離れていて、そこからゴールに戻ってくるルートだったのが幸いした形だった。今ならどうにか走っていけそうだが、このまま雨宿りを続けてさらに雨脚が強くなったら、もう目も当てられない。


「二人はどう?」

「んー……」


 莉花に尋ねられ、少しだけ考え込む碧依。今から走って濡れるリスクと、このまま雨宿りを続け、さらに濡れることになるかもしれないリスク。その二つを天秤にかけて、果たしてどちらに傾くのか。


「僕は今から走っていくのでいいと思うよ」


 そんな碧依を置いて、先に結論を出したのは悠の方。性別的なこともあって、着替えさえあれば、濡れても構わないという発想だろうか。


「着替えはあるんですか?」

「一枚だけ余分に持ってきたからね。何とかなると思う」


 ともあれ、これで走っていくに三票が入った。悩んでいる碧依をよくない形で押しきることになってしまったが、ほぼ決まりと言ってしまってもいい状況だった。


「ま、仕方ないよね。止みそうにないし……」


 先程の自分と同じように、碧依も空を見上げながら諦めたように決心する。


「大丈夫?」

「うん。着替えなら私もあるし」

「そ。じゃあ、これ以上強くならないうちに行こうか」


 そう言うのが早いか、莉花が運動部らしく体を伸ばし始める。これまでの山歩きで十分に体は解れていると思うのだが、やはり運動部に所属していると感覚が違うらしい。


「その前に」

「ん?」

「これだよね?」

「ですね」


 その莉花の動きを一度制止する。自分の意図を読み取った悠が、手に持っていた上着を目の前の莉花に差し出した。


「羽織っておいた方がいいと思うよ。……湊君のだけど」

「いいの?」


 差し出された莉花はといえば、すぐには受け取らず、自分と悠それぞれに確認するように視線を向ける。


「もちろん」

「僕達は濡れたところで、だしね」

「そう? じゃあ……」


 そこでようやく上着を受け取り、そのまま羽織る莉花。少しだけサイズが大きく、手の平の半ばまで隠れてしまっている。


「おぉ……、あったかい。ありがとね」


 軽く頭を下げながらその言葉を受け取りつつ、自分の上着は碧依に差し出す。


「碧依さんも。なるべく濡れない方がいいですから」

「ごめんね。ありがと。こうなるんだったら、午後も持ってきた方がよかったね」


 言葉通りに手を合わせて謝る碧依が、自分の上着を受け取りつつ後悔の言葉を漏らす。午前中は上着を羽織っていた碧依だったが、昼食に戻った際、部屋に置いてきたらしかった。気温が高くなっていたので、それも仕方のないことだろう。


「気にしなくていいですから。これで風邪でも引かれたら寝覚めが悪いですし」

「……そういうところだよね」

「何ですか?」

「何でもないよ?」


 何かをはぐらかしつつ、碧依も受け取った上着を羽織る。莉花よりも背が低い碧依なので、袖の中に手の平が完全に隠れてしまっていて、指先が少しだけ覗く程度になっている。裾の方も、上半身は完全に覆い隠していた。


「……」

「何をしてるんですか?」

「……葵君の匂いがする」

「……返してもらっていいですか?」


 服の肘辺りを鼻に近付けていたので何をしているのか尋ねてみれば、思いもしない答えが返ってきた。ディスクゴルフの練習の時といい、まだまだ隠しているだけで、碧依には謎の趣味嗜好があるのかもしれない。


「嫌」

「そんなことを言う人に貸しておきたくないんですけど……」

「いい匂いなんだから、気にしなくてもいいのに」

「そういう問題じゃないんですよ」


 思わず返してもらいたくなった自分の感覚は、恐らく正常なものだろう。正常だからと言って、願いが叶うとは限らないが。


「風邪でも引かれたら寝覚めが悪いんじゃないの?」

「う……」


 にこにこと。けれども、うっすらと悪戯っぽい雰囲気が感じられる笑みで、さらには自分の言葉を盾にされてしまっては、これ以上反論のしようがない。甘んじて受け入れるしかなかった。


「それじゃあ、今度こそ。皆も覚悟は決まった?」


 そんなやり取りをしているうちに、体を伸ばし終わった莉花が問いかけてくる。


「ほら、もう手遅れだね」

「分かりましたよ。諦めます」


 勝ち目がないことを悟った自分も含めて、三人揃って頷く。


「よっし! 行くぞー!」


 三人分の返事を受け取ってから、何故か興奮気味な莉花が先陣を切って雨の中へと走り出していった。




「カヌーを避けても、結局こうなるんだね……」

「ですね。でも、二人には大して被害がなかっただけ、まだよかったと思うしかないです」


 結局、雨の中を突っ切ってゴールすることになった。走っている途中で少しだけ雨が強くなったこともあり、自分と悠は「濡れ鼠」という表現がぴったり当てはまるような様相である。


「二人共、大丈夫?」

「寒いです」

「湊君に同じです」


 二人して腕を擦って、少しでも体を温めながら碧依に返す。水を吸った服はぴったりと体に張り付き、余計に体温を奪っていく。時折吹く風も、それに拍車をかけていた。


「ごめんね。上着、置いてきちゃったばっかりに……」

「それは言いっこなしです。……嗅がれた時には返してほしくなりましたけど」

「それも言いっこなしでお願いします」


 そう言って碧依が頭を下げる。もうこうなった以上、何も言えることもないのだが。


「持って帰って、ちゃんと洗ってから返すね」

「別にそこまでしてもらわなくてもいいですよ」

「私の気が済まないの」

「分かりました。じゃあ、それで」


 これで洗濯に関してこだわりがあるのなら引き下がらないが、特にそんなことがある訳でもない。洗濯してくれるのであれば、無理に返してもらう必要はなかった。


 そもそも、碧依の言い方からして、軽く言った程度では返してもらえない雰囲気が漂っていた。


「道具、返してきたよー」


 ゴールまで走り抜けてもなお元気があり余っていた莉花が、道具の返却から帰ってくる。自分達とは違って微塵も疲れを感じさせない辺り、流石は運動部である。


「ありがとうございます」

「いいのいいの。そんなことより、上着、ありがとね」

「どういたしまして」

「羽崎君も」

「気にしなくていいよ」


 現在進行形で体を冷やしている自分と悠とは反対に、走って暑くなってしまったのか、莉花が貸した上着を脱ぎ始める。


「クラスメイトの女子が着た服が欲しいって言うなら今すぐ返すけど、どうする?」

「答えが分かってて聞いてますよね?」

「そうだね。持って帰って洗濯するための口実」

「それでいいですから。わざわざ人聞きが悪いことを言わないでくださいよ」

「ごめんね。私なりの照れ隠しってことで」


 笑いながらでは、その言葉も説得力がない。全てが嘘ということはないだろうが、果たして莉花の本心はどこにあるのだろうか。


「とにかく、施設まで戻ろうか。傘も借りてきたし」


 見透かせない心を見透かそうとする自分を尻目に、莉花がそう言いながら三本の傘を掲げる。


「……三本?」


 四人班に対して、何故か三本。


「三本」

「……どうしてですか?」

「四本ずつ貸してたら、何本か足りなくなるんだってさ」


 一難去ってまた一難。雨による受難は、まだもう少し続きそうだった。




「で、どうしてこうなるんですか」

「何が?」

「組み合わせですよ。僕と羽崎君の二人で一本を使えばいいじゃないですか。どうせもう濡れてるんですし」

「そう? 私は気にしてないけど」


 何故か同じ傘の中で会話を交わす自分と碧依。雨が傘を叩く音に混ざって、碧依の声がいつもより近くから聞こえる。


「一番背が高い人と一番背が低い人の組み合わせの方が、傘を持つ方も楽でしょ?」

「本音は?」

「男女の相合傘が見たかった」


 素直な莉花だった。そもそも、一番背が高い自分ですら百六十五センチにも満たない。どんな組み合わせでも、そこに大した違いはなかったはずだ。


「莉花のところに移った方がいい?」


 すぐ近くから見上げるようにして碧依が言う。肩が触れそうなその距離は、普段一緒に登校している時からは考えられない距離だった。


「もう今更ですし、大丈夫です」

「そう? じゃあ、このままよろしくお願いします」


 碧依の声が傘に反響して、いつもと違った雰囲気の音に聞こえた。あるいは、距離が近いということで若干声が小さくなっているからなのか。とにかく、慣れない状況なのでどうするのが正解なのかが分からない。


「そんなに相合傘を嫌がる男の子も珍しいんじゃない?」

「別に嫌がってるわけじゃ……」

「しかも碧依相手でしょ? 皆喜んですると思うけど。……私も」

「だからです」


 最後に聞こえた一言はわざと聞こえなかったことにした。そう思うのなら、碧依と莉花の二人で一本の傘に入ってほしかったという言葉も、ついでに飲み込んでおく。


「今も周りからの視線が痛いんですよ」


 自分達と同じように、オリエンテーリングから戻る生徒達の流れ。その流れの中にあって、自分と碧依の組み合わせは明らかに異彩を放っていた。どの班も同性同士で一本の傘を分け合う中、唯一の男女ペアである。これで注目を浴びない訳がない。


「湊君、そういうの嫌いそうだもんね」

「そうですね。注目されたところで気にしませんけど、面倒なものは面倒です」


 自分のことを正しく理解した悠の一言。視線の煩わしさには一家言ある自分でも、心の中に面倒という感情が湧いてくるのは抑えられなかった。そういった意味では、気にしていないというのも嘘になるのかもしれない。


「何かあったの?」

「まぁ、色々」

「また言ってる」

「話したくないってことです」

「ふーん……。それなら無理に聞かないけど」


 そんな自分から何かを感じ取ったのか、碧依がやや不思議そうに問いかけてくる。言葉通り話したくないことだった訳だが、こうして話をはぐらかした時に無理矢理聞き出そうとしてこないところが、碧依と話していて楽なところだ。その分、厄介なことも多いが。


「今、何か考えたよね?」

「何も?」

「嘘」

「そういうところですよ」

「何が?」


 普段はそんな素振りをあまり見せないのに、やたらと勘が鋭いタイミングがあるのがその筆頭だった。


「で、湊君」

「はい?」


 絶対に誰にも分からない内心でも、何かの間違いがあって見透かされていやしないだろうかと碧依を横目で窺っていると、話題を変えるような雰囲気で莉花が話しかけてきた。こちらを振り向いて後ろ向きに歩きながら、何かを企むような表情を向けてくる。嫌な雰囲気を感じ取りつつも、どうしても滑って転ばないか心配になる。


「あの子と碧依だったら、どっちがいいの?」

「何一つ伝わらなかったです」


 話の流れが唐突過ぎて、何も理解できなかった。込められた情報量が少な過ぎるのか、むしろ多くて省略し過ぎたのか。何にせよ、理解できなかったことには変わりない。


「もー。何で伝わらないかな……?」

「どうして伝わると思いました?」


 若干不満そうにする莉花だが、自分からすれば無理がある。その顔をしたいのはむしろ自分の方だ。


「碧依とアイリスさんだったら、どっちが相合傘しやすい?」

「アイリスさんです」

「あれ? 即答」

「そもそも、何でその二択なんですか」


 ようやく質問の意味が分かっても、唐突なのは相変わらずだった。何故このタイミングでアイリスの名前が出てくるのか、疑問は増えていくばかりである。


「いや、しばらくあの子の話はしてなかったし、そろそろ欲しい頃かなって」

「どういう目で僕のことを見てるのかが気になりますね」

「あの子の飼い主」

「それ、アイリスさんには絶対に言わないでくださいよ」


 その言葉を聞いたが最後、怒りの矛先は間違いなく自分に向く。


「それは私の気持ち次第」

「怖……」


 にやりと笑う莉花を見ていると、いつ漏らされるか分かったものではなかった。もしもの時のために、今から対処法だけでも考えておいた方がいいのかもしれない。何か上手い対処法を思い付くという確信はないけれども。


「ま、それはいいとして。アイリスさんの方がいいんだ? 隣に碧依がいるのに。また何言われるか分からないよ?」

「僕のことを怖がらせて何が楽しいんですか」


 話の軌道を元に戻すようにして莉花が言う。即答しておいて何だが、言われてみれば隣に碧依がいる状況で、あの答えはまずかったのかもしれない。


「特に深い意味はないですよ。アイリスさんの方が、何かあっても躱しやすいってだけです」


 そんな訳で、この理由は素直に口にしてしまう。下手に隠すよりも、この方がこの場は色々と丸く収まるような気がした。


「それ、単純って言うんじゃ……」

「それも本人に言っちゃだめですからね」


 この場合の怒りの矛先は自分で正しい。正しいからこそ、躱すのが面倒なことになる。躱せないとは言わないが。


「でも、それを差し引いてもアイリスさんの方が楽ですけどね」

「どうして?」

「一つしか違わない妹みたいな感じですから」

「あー……」


 納得したというよりも、納得してしまったといった様子の莉花が、何故か軽く目を逸らしながら小さく声を漏らす。悠は横顔しか見えていないが、うっすら苦笑いを浮かべているように見えた。


「葵君によく懐いてるもんね」

「それはペットに対する言い方ですよ」


 隣の碧依も、アイリスが「妹」という認識には賛成らしかった。ただし、続く言葉が妙に不穏である。


「ペットね……。だったら、あの子は間違いなく犬だね。よく湊君に尻尾を振ってるし」

「今のも言えないですね」

「犬耳、似合いそうじゃない?」

「……」

「想像したな?」

「してないです」


 した。信じられないくらい似合っていたうえに、信じられないくらい可愛かった。そもそも、犬耳がなくても信じられないくらいの可愛さを誇っているのがアイリスだ。


「って言うか、あの子、何でも似合いそうだけどね」

「ね。あれは卑怯だよ」

「碧依も」

「え?」


 莉花の言葉に乗った碧依だが、まさかの一撃を受けていた。本人は理解が及んでいないようだが、大方「碧依も何でも似合いそう」くらいのニュアンスだろう。莉花の意識の矛先が、アイリスから碧依に切り替わる。


「碧依はなー……。人懐っこいタイプの猫かな……」


 相変わらずこちらを振り返ったまま、やや首を傾げて莉花が考えを巡らせる。その頭の中では、どうやら碧依は猫に分類されたらしい。


「随分具体的だ」

「ちょっと綺麗な感じが入ってるからね。犬ってよりは猫っぽい」

「何それ。ちょっと照れるかも……」


 そう言いながら、照れたように頬を染める碧依。一瞬だけ、その碧依の頭の上に猫耳を幻視する。


「……」


 先程の莉花の発想ではないが、大体のものは似合いそうだった。こうして見ると、やはり碧依も信じられないくらいに容姿が整っている。


「ちなみに、羽崎君は兎」

「僕が?」


 予想もしていない動物が出てきたからなのか、少しだけ目を丸くする悠。その目が赤ければ、髪の色と相まって兎のように見えたのかもしれない。


「そ。何かあったらすぐに引っ込むところがそっくり」

「全然嬉しくない……」

「僕は納得しました」

「湊君まで……」


 目の色は違うものの、常に耳を立て、周囲に危険がないか探っていそうだった。気を許した相手の前ではリラックスしているのも、まさにその通りである。


「で、その湊君はね……。何だろうな?」


 碧依、悠とくれば、次は自然と自分の番になる。二人に対してはすぐに具体的な動物を思い付いた莉花も、どうやら自分には苦戦しているようだった。そこまでして無理に考えなくてもとは思うものの、言ったところで何かが変わる訳でもないので、大人しく莉花が答えを出すのを待つ。


「何て言うか、掴みどころがなくて」

「葵君は狐だね」


 だが、一つの答えは、同じ傘の中から聞こえてきた。


「狐?」


 悠と同じく、自分も予想していなかった動物だったので、思わずそのまま聞き返してしまう。思ったよりも近くにある碧依の顔には、何かに納得したような表情が浮かんでいた。


「色々のらりくらりと躱すって言うか、人を化かしてるイメージ」

「あ、なるほど。確かに。見た目も女の子に化けてるし」

「そこは化かしてるわけじゃないんです」


 話を聞くとそういう理由だったらしいが、見た目に関しては周囲が勝手に化かされているだけだ。好き好んでこうなった訳ではない。


「尻尾は五本くらいで。もふもふのやつでお願いね、葵君」

「それって妖怪ですよね?」


 しかも、尻尾五本ならそこまで強力な妖狐でもなく、中途半端な立ち位置だ。中途半端だが、九尾を要求してこないのが、まだ救いなのかもしれなかった。


「もふもふの尻尾を抱き枕にするんだ……!」

「あ、私にも一本ちょうだい!」

「他人の尻尾を気軽に分けようとしないでください」


 そもそも妖怪ではない。


「どうしてもだめ?」

「だめです」


 残念そうにしながら見つめてくる碧依だったが、無理なものは無理である。もし仮に自分に狐の尻尾があったとしても、碧依と莉花に抱き付かれるのはどう考えても落ち着かない。是が非でも避けたいところだった。


 そんな話をしているうちに、ようやく施設の姿が見えてくる。二日目のメイン活動も、そろそろ終わりが近付いていた。




「お待たせ。空いたよ」


 部屋に備え付けの浴室から出てきた悠が、着替えを用意している自分に声をかけてきた。


「こっちでドライヤーを使うから、もう洗面所も使って大丈夫だよ」

「じゃあ、遠慮なく」


 降り続く雨の中、視線の雨をも受けながら、やっと帰り着いた三〇七号室。


 帰ってくるまでの間に辺りは薄暗くなり始め、悠がシャワーを浴びている間に、すっかり夜の帳が下りていた。普段であれば、まだ少しは明るい時間帯である。昨日も感じたことだが、過ごす場所が違えば、そのサイクルも随分変わるのだと改めて実感する。


 既にこう暗くなっていると勘違いしてしまいそうになるが、夕食の時間まではまだ少し余裕がある。雨に濡れた生徒が多かったのか、予定を調整して、身支度の時間が与えられていたのだった。


 そうは言っても、昨日の夜に利用した大浴場はまだ準備中。使えるのは、各部屋に備え付けられた浴室だけだ。イレギュラーな状況ではあるが、二人部屋であることに感謝する。もし人数が多ければ、ここまでゆっくりはできなかっただろう。


「……」


 洗面所に入り、濡れた服を脱いでいく。これをどうするのかは、また後で考えることにした。それよりも、思った以上に冷えていた体を温めるのを優先したい。


「はぁ……」


 床が濡れている浴室で、やや熱めのお湯を頭から被る。水滴が肌を流れていく感覚に気が緩んだのか、思わず小さく息を零してしまった。入った時は水で濡れていて冷たかった床が、お湯で上書きされて徐々に温かくなっていく。


「……」


 そのまましばらく体を温めながら考える。


 上着を貸しておいてその本人が風邪を引いていたら、碧依や莉花の方が気まずいだろう。時間には余裕があるので、しっかりと温まっておくに越したことはない。


 悠が使っているドライヤーの音がほんの僅かに聞こえてくる中、束の間の休息に浸るのだった。




「お帰り。ドライヤー使う?」

「ありがとうございます」


 髪をバスタオルで軽く拭いたままの状態で部屋に戻ったところで、悠がドライヤーを差し出してきた。少し前に見た悠は髪が濡れてぺたりとしていたが、今はいつも通りに戻っている。代わりに、今は自分の髪が重たそうに沈み込んでいた。


 ドライヤーを受け取り、今度は温風をその身で浴びる。


 平均的な男子生徒と比べると、自分の髪は長めの部類に入ることは自覚していた。その分乾かすのに時間はかかるが、それでも一部の女子生徒と比べれば多少は楽なはずだ。


 ドライヤーの音で声が聞こえにくいと思ったのか、手持ち無沙汰な様子の悠も、今ばかりは話しかけてこない。ドライヤーのモーター音と雨粒が窓を叩く音だけが響く中、ぼんやりと頭に浮かぶのは、雨に濡れた碧依や莉花のことだった。


 自分や悠と同じく、しっかりと髪を濡らしていた二人。どちらも自分よりも長髪で、いつも通りに整えるのには時間がかかりそうだった。果たして、夕食の時間に間に合うのだろうか。そう考えると、フードで頭も覆うことができる上着の方がよかったのかもしれない。


 そんなことを考えつつ、髪を乾かしていく。自慢の髪だ、などと言うつもりは毛頭ないが、整っているのとそうでないのとでは、与える印象が大きく異なるのは間違いない。ならば、なるべく整えておいた方がいいに決まっている。


 そうして髪を乾かし終えてからドライヤーを洗面台に戻すと、それを待っていたかのように悠が切り出した。


「髪の毛を乾かす仕草も、あんまり男の子っぽくないね」

「自己紹介ですか?」


 からかうような目付きでそんなことを言ってきたので、カウンターのような一言を返しておく。自分がどんな見た目で髪を乾かしていたのかなど分からないが、悠も決して他人のことを言える見た目ではない。


「僕が乾かしてるところ、見てないでしょ?」

「昨日見ました」

「あ」


 からかうという行為に慣れていないのか、どうにも詰めが甘い悠だった。


「で、いきなりどうしました?」

「特に意味はないよ。湊君も髪が長めだなって思って。僕もそうだけど」


 そう言いながら、すっかり乾いたスノーホワイトの髪に触れる悠。いつも通りにさらさらと流れるその髪は、悠の言葉通りやや長めである。あまり意識したことはなかったが、よく見ると自分と同じくらいの長さだろうか。


「実は、一回だけ短くしたことがあるんですよ」

「そうなの?」

「あまりにも似合わなくて、二度としないと誓いました」

「あぁ……。……うん」


 自分の苦い顔に何かを察したのか、悠がそれ以上そこに触れてくることはなかった。あるいは、髪が短い自分を想像して、似合わないと判断したのかもしれない。


「それ以来、大体このくらいの長さですね」

「その方がしっくりくるもんね」

「誰が髪型まで女の子っぽいですか」

「そこまでは言ってないね。どうしたの? 何か嫌なことでもあった?」


 何の前触れもなく荒れ出した自分を、悠が優しく受け止めてくれる。今座っている柔らかなベッドのような、包み込むような優しさだった。




「お待たせ」


 時は流れ、時刻は既に夕食時。食堂の開放時間を少し過ぎた頃合いである。


 入口の扉を通り抜けていく生徒は、明らかに男子の方が多い。雨に濡れた後始末をするのなら、女子の方が時間を要するのは当たり前の話だった。その例に漏れず、自分と悠がここに到着してからしばらくして、身支度を整えた碧依と莉花が姿を現した。


「思ったより時間がかかっちゃった。ごめんね」


 そう言って謝るように両手を合わせる碧依。その姿は、すっかりいつも通りに戻っている。


 どうやら申し訳なく思っているらしい碧依だったが、そもそも自分達が帰ってきたのは、他の大半の生徒達よりも早かった。そこから多少時間がかかったところで、大した待ち時間でもない。


「僕達も結構時間がかかりましたし、そこまで気にしなくても大丈夫ですよ」

「確かに、葵君達も時間かかりそうだよね」


 ある一点を見つめ、そんなことを口にする碧依。目が合っているようで合っていないので、どこを見ているのかは何となく分かる。


「どういう意味です?」

「聞きたいの?」

「……やめておきましょうか。ろくでもない理由な気がします」

「髪が長めだからってだけだよ? 何を想像したの?」

「……」


 珍しく碧依にやり込められる。にやにやと笑うその表情は、まるで悪戯に成功した子供のようだった。


「可愛いなぁ」

「これが見納めです」

「そんなこと言わずに。もっとたくさん可愛いところを見せてくれてもいいんだよ?」

「よくないんですよ」


 どことなく劣勢に立たされている今、何を言っても碧依には通用しない。できることと言えば、その攻めをどうにか受け流すことだけだ。


「碧依? 湊君も。何してるの? もう行くよー?」

「あ、ごめん。今行く」


 適当に言葉を受け流していた自分に救いの手を差し伸べてくれたのは、既に食堂の入口に向かって歩き出している莉花だった。碧依に意識を割いていた間、悠と莉花も何かを話しているのが視界の端で見えていた。その話題までは気にしていなかったが、先に移動を始めていたらしい。


「葵君も。行こ?」

「ですね」


 そんな莉花に意識が持っていかれたのか、自分への攻めが一気に止まる。いいタイミングできっかけを作ってくれた莉花に軽く感謝しつつ、悠と莉花に追いつこうとする碧依の背中を追うのだった。




「二人揃って細いよね」

「はい?」

「何?」


 四人で一つのテーブルを囲む。今回の隣は悠。正面には莉花がいた。


 その莉花が、唐突にそう切り出す。その目は自分や悠の腰の辺りを見つめている。実際はテーブルに遮られて見えてはいないはずだが。


「さっき、雨で服が濡れて体に張り付いてたでしょ? あの時見た細さったら」

「そんなにですか?」

「そんなに。男子でその細さはなかなかいないよ」

「……」

「……」


 その言葉を受けて、何となく悠の腰回りに視線を送る。その寸前に見えた動きから察するに、悠も自分に対して同じことをしているらしかった。


「羽崎君よりはましですね」

「湊君よりはましだね」

「は?」

「は?」

「あれ? それさっきやった気がする」


 お互いにお互いの細さを確認し合ってから、ほとんど同時にそう口にする。そのやり取りは、昼間の碧依と莉花と同じだった。


「『五十歩百歩』って言葉知ってる?」


 呆れたように苦笑いを浮かべる碧依が、そんな自分達の様子を的確に表現する。


「多少の違いはあっても、本質的には同じって意味ですよね」

「類語は『似たり寄ったり』」

「辞書か」

「息ぴったり」


 争っているのか、それとも結託しているのか。それすらもよく分からなくなったのか、碧依の苦笑いがますます深くなる。


「どっちも食べる量が少ないもんね」

「ね。私達ともそんなに変わらないんじゃない?」


 自分、悠、そして自身の前にある夕食を順番に眺める莉花。これに関してはある程度自覚していたが、そこに並ぶ量は、「男子高校生」と言われてイメージする量からはかけ離れた量だった。


「少ない自覚はあります」

「そうだね。流石にそれは僕も」


 なので、それに関して否定するつもりは一切ない。だからこそ、二人揃ってこんな体格なのだった。


「僕はあれですね。食べようと思えばもう少し食べられますけど、これくらい食べたら満足です」

「うわっ……。それダイエットの時に最高。欲しい。ちょうだい」

「そもそもダイエットが必要ですか?」


 そういった部分に触れるのはあまりよくないとは思いつつも、どう見てもダイエットが必要ではない莉花がそんなことを言うので、思わず口にしてしまった。


 その瞬間、莉花の目付きがやや鋭くなる。


「色々あるの、色々。油断するとすぐ大変なことになるんだから」

「そういうものですかね」


 本能的にまずいと理解して、当たり障りのない言葉で流そうとする。


「苦労したことがないから分からないんだろうけど、言葉には気を付けろ?」

「……はい」


 ただ、若干手遅れだったらしい。思うところがあるのか、莉花の言葉はやたらと重たい響きを含んでいた。


「次はない」


 さらに細められた目が、その本気具合を如実に表していた。その目を見た瞬間、もう二度とこの話題は莉花に振らないと、一人心の中で勝手に誓うのだった。




「湊君」

「はい?」


 全員が夕食を終え、そろそろ食堂を出ようかという頃合い。話が途切れるタイミングを狙っていたかのように、悠から声がかかる。


「今日のお風呂ってどうする? 一応、さっきシャワー浴びたよね」

「あぁ、そのことですか」


 こちらの様子を窺うようにして尋ねてくる悠。先程シャワーを浴びていた時には深く考えていなかったことだが、言われてみれば浮かんで当然の疑問だった。


「うん。僕はさっきのでもういいかなって思ってるけど……」

「僕はもう一回行ってきます」

「大浴場?」

「ですね」


 自分としては寝る前にもう一度大浴場へと向かうつもりだったのだが、悠はそうでもないらしい。どうやら、今夜は悠と別行動になりそうだった。


 これで悠が「それなら一緒に行く」と言い出さなければ、の話だが。


「そっか、分かった。じゃあ、その間は部屋で待ってるね」

「もし眠かったら、今日も先に寝ていいですよ。部屋の鍵も二つありますし」

「ありがと。もし無理そうならそうするね」


 流石にそこまで一緒に行動するようなこともなく、これで別行動が確定した。今日一日、悠とはほとんど一緒に行動してきたので、これが久しぶりの別行動となる。よくよく考えてみれば、昨日の入浴後の時間以来だ。


 そこまで考えて、思い出さない方がいいことも思い出しそうになった。間違っても碧依に視線を向けないようにしながら、余計な考えを頭の中から追い出す。


「もう一回入るんだ?」


 そんな自分達の会話を聞いて、莉花が意外そうな声を上げる。


「そうですね。旅館とかの大浴場は何回も入りたくなるタイプです」

「あ、一緒!」


 こう答えるのが正しかったのか置いておくとして、どうも同じ好みを持っていたらしい碧依が、嬉しそうに会話に加わってくる。


「夜中とか早朝とかも入りたくなる人?」

「人がいない感じがいいですよね」

「それも一緒!」


 またしても嬉しそうに声を上げる碧依。まさかこんなところで好みが一致するとは、夢にも思っていなかった。目に見えて嬉しそうにしている碧依に釣られて、自分の口元にも同じように小さく笑みが浮かんでしまう。


「夜更かししたはずなのに、朝も勝手に目が覚めるんだよね!」

「普段ならなかなか起きない時間ですよね」

「そう! 露天風呂に入りながら、少しずつ空が明るくなってくのを見るのが好きなの!」


 碧依の興奮が止まらない。こんなところで好みが一致すると思っていなかったのは、碧依の方も同じだったのかもしれない。


「分かります。露天風呂って、結構長い時間入っていられますもんね。ぼんやり眺めるにはぴったりだと思うんです」

「葵君とはいいお酒が飲めそうだね!」

「未成年ですよ」

「そこで冷静にならなくていいの。タイミングを間違ってるよ」


 ここまでは頷きながら碧依に同意を返していた訳だが、あるものを見てしまって急に冷静さを取り戻してしまう。そのあるものとは、置いてけぼりになっている悠と莉花である。二人を視界の端に捉えてしまったのが、最後のタイミングだっただけだ。どちらも、未知の生き物を眺めるような目をしていた。


 一方、急に梯子を外された碧依は不満そうだ。楽しく飲めないとは一言も言っていないのだから、それで勘弁してほしい。


「何かいきなり全然分からない話を始めたけど、どうしたの?」

「そう? 結構ありがちな好みじゃないかな?」

「大人ならね。私達みたいな歳にしては、ちょっと渋い好みじゃない?」

「そうかな?」


 莉花の言葉に碧依が首を傾げるものの、自分としては、あまり年相応でないことは自覚していた。だからこそ、こんな身近に同じ好みを持つ相手がいたことが嬉しかったのだ。


「そこまで好みが同じとか、何か双子っぽいね」


 あまり納得していない様子の碧依に対して、莉花が恐らく何の気なしにそう口にする。その言葉からは、どこか面白がっているような雰囲気が漏れ出していた。


「私と葵君が?」

「そ。どっちも名前が同じでややこしいけど」

「だったら、私がお姉さんだね」

「いや、どう考えても妹でしょ」

「なんで!」

「これ相手に、兄だの姉だの言える高校生はそうそういないでしょ」

「誰がこれですか」


 その言葉と共に指差されるのならまだしも、最早指差されることすらなく、僅かに目を向けられるだけだった。莉花の中で、自分はどんな扱いになっているのだろうか。


「私じゃ力不足だって言うの?」

「そこまでは言ってない。これが強過ぎるってだけ」

「そんな葵君を弟にするのがいいんでしょ?」

「また妙な好みが爆発してるなぁ……」


 若干不満そうにしながらも新たな好みを曝け出す碧依に、莉花が少しだけ辟易とした様子でそう零す。その様子は、迂闊なことを言ってしまったと後悔しているようにも見えた。


「……」


 そんな二人の様子を意識の片隅に置きながら、少しだけ別のことを考える。このタイミングで考えることとなれば、それは当然碧依が姉だった時のことである。


 だが、姉の立場を利用して可愛い服を着せてきそう、というところまで想像できてしまって、それ以上考えるのはやめた。


「ま、碧依の好みはいつも通り放っておくとして」

「最近、私の扱いが適当じゃない?」

「気のせい気のせい。で、私も入るから、後で一緒に行こ?」

「もー……。一緒に行くのはいいけど……」


 何かを言いたそうな雰囲気を前面に押し出しつつ、それでも莉花の誘いには乗る碧依。こんなところにも、碧依の性格が滲み出ているようだった。


「よし。じゃあ、さっさと今日のレポートを書いちゃおうか。お風呂はその後ってことで」

「僕達も書いておこうか」

「ですね。面倒事はさっさと済ませるに限ります」


 これでここでの話は終わりと言わんばかりに、莉花が会話を締める。


 最後の最後に会話に出てきた通り、二日目と三日目には、その日の活動内容を記したレポートの作成が課題として与えられていた。宿泊学習の期間の宿題と考えてもいいだろう。提出するのは来週だが、覚えているその日のうちに書いてしまった方が楽なのは間違いない。色々とあって疲れてはいるが、もうひと頑張りすべき場面だ。


 食器を片付け、人もまばらになってきた食堂を後にする。男子棟と女子棟に分かれるエントランスホールはすぐそこだ。


「葵君」

「はい?」


 前を行く悠と莉花の背中を追いかけながら歩いていると、最後に食堂を出た碧依に、小さな声で話しかけられた。どうしてわざわざ小声なのかと疑問に思いながらそちらを向けば、悠と莉花には聞こえないよう、口元に手を当てる碧依の姿があった。


「お風呂上り、時間ある?」

「大丈夫ですけど、どうしました?」

「ちょっと聞きたいことがあって」

「聞きたいこと……?」

「うん。昨日のあの場所はどうかな?」


 碧依が言っているのは、恐らく昨日見つけた休憩スペースのことだろう。わざわざそんな場所を選ばずとも、聞きたいことがあるのならこの場でと思わなくもない。だが、小声で話しかけてきたことから察するに、あまり他の人には聞かれたくないことである可能性もある。


「入浴時間の終わり際なら、他の人もいないんじゃないかなって思うんだけど」


 それを気にするということは、やはりあまり他の人に聞かれたくないことだと考えておいた方がいいだろう。それが自分にとってなのか、はたまた碧依にとってなのかまでは分からないが。


 仮に自分が他の人に聞かれたくない話なのだとすれば、心当たりが多過ぎて候補を一つに絞りきれなかった。


「じゃあ、それくらいの時間に待ってます」

「ありがと。それじゃあ、お願いね」

「分かりました」


 そんな自分の心の内は関係なくとんとん拍子に話が進み、今日もあの場所で碧依と会うことになった。


「……?」


 そこまで決めて満足したのか、碧依が少しだけ歩くペースを上げて莉花の隣に並ぶ。三人から数歩分だけ後ろを歩き、碧依の背中を眺めながら心当たりを探り続ける。それでも、結局エントランスホールで別れるまでに答えは見つからないのだった。




「お待たせ、葵君」


 昨日と同じコーヒー牛乳を片手に碧依を待っていると、背後から声をかけられた。


 振り向けば、こちらも昨日と同じ湯上り姿の碧依がいた。時刻は午後十時二十五分。事前に決めていた通り、入浴時間の終了間際である。


「ついさっき来たばっかりですから」

「定番のやり取りだね」

「そういう状況じゃないですけど」

「そこはご愛嬌」


 軽口を交わしながら、碧依が自販機の前に歩み寄る。選ぶのは、やはり昨日と同じコーヒー牛乳。あらかじめ約束していたこと以外は、何もかもが昨日と同じだった。


 自販機から瓶を取り出した碧依が、自分の隣に腰かける。周囲の空気がほんの少しだけ暖かくなった気がした。


「それで? 聞きたいことって何です?」


 碧依が瓶を開け、その中身を飲むのを待ってからそう切り出す。あれからも考えてはいたが、ついぞ目星が付くことはなかった。ならば、早いうちにこちらから尋ねてしまった方がいいだろうと判断してのことだった。


「そのことなんだけどね……」


 そこで一旦言葉が区切られる。不意に訪れた静寂に、自販機の低い駆動音だけが響く。僅かな間を空けた碧依が再び瓶を傾けて唇を湿らせ、微かに息を吐き出した後に言葉が続いた。


「葵君さ。もしかして、弟さんか妹さんがいる?」

「……」


 そうして碧依の口から出てきたのは、意外過ぎる質問だった。最近の会話を思い出しても、そんな話をした覚えは一切ない。それなのに、どうしていきなりこんなことを尋ねてきたのかが分からなくて、内心動揺してしまう。


 もしかすると、体もぴくりと跳ねてしまったかもしれないが。


「妹みたいな人なら二人くらい思い浮かびます」

「お姉さんだって言ってるでしょ」


 そんな動揺を悟られないように適当なことを口にする。幸いにして、自分の様子に碧依が疑問を抱くことはなかったようだった。


「そうじゃなくて。血が繋がった弟さんか妹さん」

「いませんよ。いきなりどうしました?」


 はっきりと否定しつつ、何故こんなことを尋ねてきたのかと問い返してみれば、目の前の碧依の顔に思案の色が浮かぶ。


「んー……。何かね、莉花が私と葵君が姉弟みたいなことを言ってた時、いつもとちょっと違う顔をしてたから」

「僕がですか?」

「葵君が」


 そう話す碧依の表情を見る限り、どうやら本当にそうだったらしい。自分としては、そんな表情を浮かべている自覚など全くなかった。


「そんなつもりはなかったですけどね」

「そう? 気のせいじゃないと思うんだけどな」


 自覚がなかったのでこれ以上自分に言えることはないのだが、碧依はまだ納得していないらしかった。少しだけ前かがみになってこちらの顔を覗き込みながら、何かを考えるように口を尖らせている。


「いつもと違うって、どんな顔だったんですか?」

「ん? えっとね……。ちょっと寂しそう、だったかな……?」

「寂しそう……」


 そう言われてもなお、自分のことなのに理解することはできなかった。自分の感情すら理解できないのなら、碧依が考えていることなど理解できる訳がない。


「何か考えてたの?」

「碧依さんが姉さんだったら、無理矢理色々な服を着させられそうだなって思ってました」

「何も寂しくない! むしろ失礼だよ!」


 あの時の自分の感情は理解できなくても、考えていたことなら簡単に思い出せる。尋ねられたから答えただけなのに、碧依の表情はこれまでの窺うようなものから、不満が前面に現れたものに変化してしまった。ただし、口が尖っているのはあまり変わっていない。


「でも、やりますよね?」

「やる!」


 力強い肯定だった。力強い頷きまで返ってきた。


「って、そうじゃなくて。よく分からないけど、さっきの葵君がそんな風に見えたの。だから、もしかしたらあんまり仲良くないのかなって思って」

「それでここに?」

「そ。他の人には聞かれたくないことかもって。ほんとは、私がこうやって聞くのもなって思いはした」

「気遣いの鬼はそっちじゃないですか」


 いつか碧依から貰った称号を、そっくりそのまま送り返す。普段はどこか抜けているところもある碧依だが、こういった部分は素直に見習いたい部分だった。


「そもそもの話、兄弟がいたとして、別に下とは限らないじゃないですか」

「それこそ、さっきの莉花が言ってた通りだよ。葵君はお兄さんのイメージが強過ぎるの」

「そういうものですかね?」

「アイリスさんと話してるのを、私達がよく見てるからかもだけど」

「あー……」


 その言葉でどこか納得してしまった。それにしても、先輩という印象でよかったのではないか、とも思ってしまうが。


「とにかく、聞きたかったのはそれだけ。違うんだったらいいんだ」

「そうですね。何でもないので、気にしないでください」


 聞きたかったのは本当にそれだけだったようで、その後は今日一日の出来事を思い出し、何でもない会話を交わしながら瓶の中身を空にする。


 エントランスホールに移動して碧依と別れたのは、それからしばらくしてのことだった。

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